蛇女の舌の熱さを

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梗 概

蛇女の舌の熱さを

彼氏に振られたのは変われない自分が原因だと分かっていた。彼の好きな大人しい女にはなれなかった。翠は振られた翌日、腹いせに浴衣を着て一人で夏祭りに来ていた。

そして早速後悔する。周りはカップルばかり。帰ろうとした所で今時珍しい見世物小屋が目に入った。心惹かれて入っていくと、そこでは蛇女と呼ばれる女性が蛇を食い千切る芸を見せていた。

子供の頃に同じ芸を見たことを思い出す。とても綺麗で怖くて、途中で泣きながら逃げ出した。あの時の蛇女と、今目の前にいる蛇女はよく似ていた。まるで同じ人物のようだ。

 蛇女の姿に魅了された翠は見世物小屋に忍び込んだが、いつの間にか格子に囲われた和室に迷い込んでいた。そこにいた蛇女に、弟子にしてほしいと頼む。しかし蛇女は首を振る。

 蛇を食べるのが蛇女。けれどアナタは蛇そのもの。よくこの鏡を見て。ほら、蛇が映ってる。能は見たことある? 能のお面で、般若より罪深いとされる顔が蛇と呼ばれる理由を知っていて? 蛇の炎は嫉妬の炎。アナタ、自分が燃えているのに気がつかないの?

 その瞬間、自分の喉が燃えていることに気がついた。熱さにのたうち回っていると、蛇女がそっと翠の首に手を添える。火が消えた。

 このままではアナタ、本当に蛇になるわよ。想いを抑えなさい。蛇になったら、アタシに食べられてしまう

 食べて欲しい。翠は何故かそう思った。翠は懇願する。蛇になりたい。そして貴女に食べて欲しい。蛇女が無言で腕を開く。その腕に擦り寄るうちに、翠の姿が蛇に変わった。貴女の為に変われる事がこんなにも嬉しい。蛇女が翠の腹の鱗を舐める。その舌が火傷しそうな程熱い。早くこの舌の上で溶けて、この温度の一部になりたい。

 そうして翠は蛇女に飼われた。小さな籠の中の翠。格子の中の蛇女。翠は蛇女の手から鼠を食べ、蛇女の膝で眠った。いつ食べて貰えるのだろうと思っていたある日。蛇女が回り灯籠に火をつける。浮かび上がる彼との思い出。気付くと蛇の姿のまま、彼の部屋にいた。ベッドの上には彼と女が寝ている。彼が好きそうな可愛らしい女だ。なるほど、そういうことか。

 焼き殺してしまいなさい

 蛇女が言う。翠は彼を躊躇なく燃やした。しかし安らかに眠る女のことは燃やせない。少女と言ってもいい程若い女。彼女は、彼に翠という恋人がいたことを知っていたのだろうか。翠の目から涙が落ちる。気付けば蛇女の部屋にいて、人の姿に戻っていた。

 あんなに燃えたのに、蛇にはなれなかったのね。私もアナタのこと、本当に食べてしまいたいと思っていたのに

 まだ燃やせる、また蛇になるから食べてくれと懇願する。首を振った蛇女が翠に口付ける。食べてもらえるのだ、と思った途端に全てが消えた。

 気付くとあの夜の祭りだった。大雨で祭りは中止になったらしい。濡れながら、翠はまた泣いた。雨で体は冷えていくのに、蛇女の舌の熱さだけが口内に残っていた。

文字数:1195

内容に関するアピール

お題はあつい話ということなので、今回は安珍清姫伝説をモチーフにしました。不実な嘘をついた僧侶の安珍を、蛇になった清姫が焼き殺すお話です。清姫の一途な想いの炎は、さぞや熱いのではないでしょうか

折角蛇の話を書くので、蛇女も出したいと思いました。見世物小屋で蛇を貪り食う芸を見せてくれる女性です。暑い夏祭りの夜に、綺麗なお姉さんがにっこり可愛らしく笑って、蛇を噛み千切る。血を飲み干す。子供が怯えるのを見てクスクス笑う。素敵ですね。一度実際に見てみたかったのですが現在はやっていないらしく、とても残念です。

前回、幻想文学方向に振り切っていいと言って貰えた気がしたので、無理にSFを書かずに自分のできる範囲内でやってみました。とても楽しく書けたのはいいのですが、これはやはりSFでは無い気がする。実作を書くときはもっとSF感を出した方がいいのだろうか。でもSF感って何だろう。それが目下の悩みです。

文字数:395

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蛇女の舌の熱さを

別れた翌日。本当は彼と来るはずだった夏祭りに翠は一人で来ていた。屋台の間に張り巡らされた赤い提灯を見上げながら思う。あんなダサい男にフラれるなんて自分も落ちたものだ。本当にダサかった。いつもボーダーの服かネルシャツを着ていたし、翠の誕生日には少女趣味な純白のワンピースをプレゼントしてきた。
 翠は人ごみの間を確かな足取りで歩いて行く。人ごみというか、カップル達の間を。当たり前だ。翠は自嘲する。夏祭りなんてカップルだらけと相場が決まっている。恋人の為に綺麗な浴衣に身を包んだ女達を横目で眺めながら、自分は何故浴衣なんて着てきてしまったのだろうと考える。
 白地の浴衣に咲く目の覚めるような青い牡丹。透き通るような緑色の髪に、赤紫のダリアの花飾り。間違いなく似合っている。自信があった。彼が見れば、感動のため息をついて、綺麗だね、と言ってくれるはずだった。
 彼はいつだって褒めてくれた。翠は一月ごとに髪色を変える女だったが、その度に彼は褒めた。赤色だろうが銀色だろうが青色だろうが、翠が髪色を変える度に褒めてくれた……本当は、薄々気が付いていた。彼は、本当は落ち着いた髪色の女が好みなのだ。緑色の髪をアシンメトリーのショートカットにした女など好きではないのだ。知っていたけれど、彼の好みに合わせたりなんてことは、翠はしなかった。
 大きなわたあめを抱えて走る子供達とすれ違う。夜中に遊び歩いても許される特別な日。この長い参道の先にある神社が何の神を祀っているのかなんて、楽しいだけの子供達の知ったことではないだろう。
 青紫色に塗った爪。その指先で、青緑の帯を抑える。何重にも巻いた帯が暑くて煩わしい。左手に下げた小さな巾着が重い。下駄の青い鼻緒が食い込んで痛い。もう焼きそばをやけ食いする程の気力も無かった。何故こんなところに来てしまったのだろう。一人で夏祭りなんて来て、一体どう気が晴れると思ったのだろう。家を出た時の自分の気持ちが全く分からない。
 いい加減帰ろうと思ったその時、奇妙な呼び声が聞こえた。
「これだよこれだよこれだよーこれがホントーの見世物小屋だよ! 人か獣か、人間か獣か! 見た? まだ見てない? 駄目だよ見なきゃ入った入った!」
 ガラガラとした低い声。見ると、くたびれた法被を着た、法被以上にくたびれた親父が錆びたパイプ椅子に座っている。息継ぎをしているのかわからないくらいの早口で、マイクに向かって喋り続けている。
 親父の座る後ろには、今まで目に入らなかったのが不思議なくらい派手なものがあった。かき氷の屋台が五つは入ろうかという程度の幅に、目に痛い黄色い天幕が張ってある。
 その幕の外側には昭和初期の映画ポスターのような濃い画風の絵が、まるで詰め込むようにかかっている。その絵一つ一つがまた猥雑としか言いようのないもので、不敵に微笑む男の顔がついたカニやら、艶めかしく尾をひらめかせる人魚やら、白い着物をはだけさせ、大蛇を身体に巻き付けた女やら。
 その蛇と女が描かれた絵の下には看板がかかっており、蛇女、とそう書いてある。恍惚とした表情を浮かべ、蛇に体を擦り付けているようにも見えるこの絵に、何故か翠は目を惹きつけられた。いや、こんなものに目を惹きつけられてどうする。其処此処にかかった看板を見ると、空気獣だ人間ポンプだ、串刺し、鼻芸、首狩り族だと、無茶苦茶なことが書いてある。
 翠は見世物小屋というものを知っていた。翠の地元の祭りにも見世物小屋は来ていた。それもだいたい同じようなもので、奇妙な外観に興味を惹かれて覗き込んだりすると、母が翠の手を引いて足早にその場を去るのだ。そうして後で、あんなものはインチキに決まっているんだから見たってしょうがないのだと、あんな下品なもの見てはいけませんと、そう釘を刺される。
 見てはいけませんと言われると見たくなるのが子供心ではあったが、翠は存外に素直な子だったから、見世物小屋の中に入ったことは無い。今になってみると母の言葉が正しいことがよくわかる。こんなもの見たって何にもならない。
「見世物小屋なんてねえ、どんどんなくなっちゃってるんだから。文化遺産みたいなもんなんだよ! 今見ないでどうすんだい。お代なんて後でかまわないよかまわないったら。遅いも早いも無いんだ。見たとこから見たとこまで! ちゃあんと全部見られるよ!」
 だみ声の呼びかけにももう興味をそそられない。翠はその場を立ち去ろうとした。
「今ならちょうど蛇女が始まるとこさあ」
 足を止めた。何故だろう。蛇女という言葉が何故、こんなにも気にかかる。
「まったく酷い悪食で、童の時分から虫やら鼠やらをばりばり食べて親を困らせてたっていうとんでもない娘だよ。ほら今出て来るから、顔だけでも見てやってよ」
 天幕に、覗き窓の様なものが設けてある。そこに赤い影が現れた。確かに女のようだ。髪の長い、色の白い……。翠はふらふらと、そちらに足を進めた。女がどんな表情を浮かべているのか無性に知りたくなって覗き込む……。もう少し、というところで赤い影がふっと消える。覗き窓からはただ暗闇が見えるだけだ。
「見えましたか。見えなかった? いやいや気を落とすことは無い。この中に入っていけばいくらでも見られるんだ。さあこの蛇女がどんな悪食をつないできたのか、いかなる容貌の持ち主であるのか。ほら急いで入って。お代は後で結構だよ――」
 翠の周囲の人が、天幕の中にぞろぞろと入っていく。いつのまにか随分沢山の人が集まっていたようだ。我に返った翠は人の波から抜け出そうとしたが、灰色の浴衣を着た男にぶつかってよろめいた。そのままどんどん流されて、翠は赤い幕をくぐった。

 なんて、綺麗な人なんだろう。一目見てそう思った。蛇女。そう呼ばれる彼女は白く乱菊の散った赤い着物を緩く着崩しているけれど、それが下品だとは少しも思わなかった。蛇女はそう広くも無い舞台の上に、正座を崩して斜めに座っている。そうして笑顔で観客に手を振る姿が無邪気そのものなので、赤い着物の間から白い脚が見えるのにドキドキしているこちらが低俗なような気すらする。
 艶やかな長い黒髪は緩く結い上げられた後で、左肩にかけられている。その黒髪の隙間から見える白い顔。黒く縁取られた切れ長の目。少し低い可愛らしい鼻。そして真っ赤に塗られた小さな唇から覗く、僅かに青みを帯びた赤い舌が、蛇の黒い胴体をなぞっていく。
「こう、ぺろぺろぺろっと舐めていきますよ。この時点でもう普通ではないですねえ。おかしいですねえ」
 白い着物を着た老婆が、舞台の端から嫌に甲高い声ではやしたてる。そんなことも気にならないぐらい、翠は見惚れていた。蛇女は蛇の頭と尻尾を手に持ち、目を細めて。ゆっくりと、ゆっくりと舐め上げていく。
 柔らかそうな舌が、名残惜し気に蛇から離れる。蛇女は無造作な手つきで蛇の頭と首を掴み、蛇の首元に横ざまに口をつけた。
「さあここからです。いよいよ蛇を食っていきますよ。今回は頭から。ほらガブリと」
 ガブリと、と老婆が言ったと同時に、蛇女が白い歯をひらめかせて噛みついた。客席から上がる若い女の悲鳴。それと同時に蛇が暴れて身をくねらせ、蛇女の腕に尾を叩きつける。蛇女は嫌に楽し気な風情で、蛇を噛み締め続けた。客席の殆どが言葉を失くす中、誰かが指笛を繰り返し鳴らしている。
 そして、蛇の頭が食い千切られる。場内が大勢の悲鳴で埋まる。切られた蛇の首から、白い筋がだらりと垂れ下がる。蛇女はその頭を赤い盆の上に置いた。もう動かない蛇の頭が、ころんとあっけなく載っている。それとは対照的に、蛇女が掴んだ蛇の胴体は、いまだうねうねと動いている。
「さあこれだけじゃありませんよ。ほらほら、蛇の胴体。それをどうする。ほら咥えた」
 蛇の頭が繋がっていたところ。その切断面を唇に挟む。蛇の尾を高々と上げて、尾の方から、細い指でしごきおろしていく。ビクビクと動く蛇の胴体をギュッと掴み、撫でるようにして絞っていく。蛇女の喉が動く。飲んでいるのだ。蛇の生き血を顔色一つ変えずに飲み干していく。いや、少し頬が紅潮しているような、そんな気もする。
 こくり、と一際大きく喉を動かした後、蛇女は口を離した。そして、ほう、と息をつく。切断面から溢れた血が、蛇女の口元を汚した。蛇女は舌で唇をなぞったけれど、溢れた血は顎を伝って落ちていき、蛇女が首に巻いている白い布にじわじわと染み込んでいく。蛇女はくるりと表情を変えて童女のような笑みを浮かべ、蛇の胴体、その切断面を掲げて、血が滴る様を客席に見せた。
「皆さん静まり返ってしまいましたねえ。なぜここまでする。そうお思いでしょう。しかしまだ終わりじゃないんですよ。終わりじゃないんです」
 老婆の台詞。それをクスクスと笑いながら聞いていた蛇女が、ぱくりと蛇の切断面を前歯に挟み込んだ。そのままにっこりと笑って見せた後、少しずらして、右の奥歯の方でぎりぎりと噛み締めた。そしてあっさりと、噛み千切った。味わうように咀嚼して、ごくりと飲み込む。緩く開けた口の中には、蛇の肉など残っていない。
 血が染みた赤い舌を見て、ぼんやりと酔ったような心地になりながら、翠は思い出していた。見世物小屋の中に入ったことなど無い。そう思っていた。しかし違う。すっかり忘れていたが、一度だけ中に入った事があった。
 小学校低学年の頃だったと思う。どうしてだったのか覚えていないけれど、その日は兄とその友達のグループに着いて行って祭りを見に行くことになった。翠がいると自由に遊べないからといって兄が翠を邪険にするのが悲しくて悔しくて、それでも今更一人で家にも帰れず、涙目で兄の後を着いて歩いた。
 そんな時、誰かが見世物小屋の中に入ろうと言い出した。グループの意見は半々に割れた。大抵の子は、見世物小屋なんて入っちゃいけませんと言いつけられていた。翠の兄も慎重な質だったから、見世物小屋に入ることに反対した。翠はほっとして、そうだよ見世物小屋なんてこわいよつまんないよ、もうかえろうよ、と兄にそう言った。しかしそれが悪かったのだ。翠の言葉に兄は天邪鬼な気持ちを抱き、見世物小屋見学賛成派に回ってしまった。グループの均衡は崩れ、一行は中に入ることになった。
 翠は外で待ってろよ。兄はそう言ったが、翠はこんな不気味なものの前で一人になるのが嫌だった。殆どべそをかきながら、兄の後を着いて赤い幕をくぐって行った。
 そう、そこで蛇女の芸を見た。同じように蛇を舐め、血を飲み、噛み千切っていた。そこで見たものがあまりに怖くてあまりに綺麗で、翠は大泣きに泣いてひきつけを起こした。慌てた兄に抱きかかえられるように天幕を出る、最後の時に見た蛇女の笑み。涙越しに滲んでいたけれど、その笑みがなんだか寂しそうに見えたのだ。あの時の蛇女は。あの綺麗な人は。今、翠が見ている蛇女によく似ている。
「はいそれでは蛇を食べるところ、悪食の限りを見て頂きました。蛇女はこれでおしまい。はい、ありがとうございます」
 老婆の声。翠は我に返った。しまった。ぼうっと思い出に浸っている間に、蛇女の芸が終わっている。
 蛇女は立ち上がり、客席に左手を振っている。一部の客が帰ろうとする中、蛇女は突然右手を上げ、ぱっと開いた。細長いものが客席に飛んでいく。一際高い悲鳴が響き渡り、客が一気に身を引いた。
「こらこらいけませんよ。皆さま落ち着いてごらんになってください玩具です」
 確かに、それはよくできた蛇の玩具だった。皆がほっと息をつき、奇妙に緩んだ笑いが広がっていく。
「拾ってこちらに渡してください。はいありがとうございます。いけませんねえこの娘ったらいたずらで。ほら、ちゃんとごめんなさいして」
 蛇女が声を抑えて笑う。そして両手を合わせて、少し頭を下げた。しかしその間もまだ笑っている。
「ね、この通り反省してますからね。許してくださいね。蛇女はこれでおしまいですから。次は双頭の子牛をお見せしましょうね。子牛。体は一つ。頭が二つですよ」
 老婆が言うが、翠は双頭の子牛なんてものには興味をそそられない。ただ満ちていく感情をじっと噛み締める。なんて、なんて可憐な人なんだろう。命を一つ奪った後で、どうしてそんなに無邪気に笑える?
 ふと、蛇女が顔をあげて、客席を見た。後方にいる翠と目が合う。少なくとも、翠は目が合ったと思った。数秒の間、目を見開いて翠を見た後、蛇女がパッ、と顔を輝かせる。キラキラした瞳のまま、軽く頷いて、ふわりと笑んだ。その笑みがあまりに儚くて、泣き出しそうに見えて、翠は胸を引き絞られたような感覚に襲われた。
 跳ね上がるように立ち上がった蛇女が舞台から降りていく。翠は激しい鼓動を抱えて、立ち尽くしていた。火花が散るように煌めく瞳が、消えてしまいそうな儚い笑みが、頭から離れない。翠は転げ落ちるような足取りで、客席を降りた。

 出口から出て行く、と見せかけて、天幕の切れ目に滑り込む。中は物置小屋のようにごちゃごちゃしている。大量の赤いろうそくや、河童の様に見える生き物のミイラ。水槽の中では毛がびっしりと生えた大きな黒い蜘蛛が大人しくうずくまっている。太鼓や三味線の横に小さな狆が繋がれていて、翠を見上げて尻尾を振っていた。
 あの人はどこにいるのだろう? きっと近くにいる。一目会いたい。それだけでいい。翠は無造作に置かれた何かに足をぶつけながら、ふらふらと歩いて行く。
 ふと、翠は背後で何かが動いたのに気が付いた。振り向いてぎょっとする。置物だと思っていたが、生きている人が椅子に座っているようだ。
 翠は高く悲鳴をあげて飛び退った。その男の人の全身にびっしりと、芋虫のような長いイボが生えているのに気付いたからだ。上半身裸の彼が身動きする度に、ぶら下がったイボが揺れる。思わずそれを凝視した後、自分の行動の失礼さに気が付いた。彼はきっと見世物小屋の芸人なのだろう。勝手に入ってきた上に、叫んでじろじろと見るなんて不調法の極みだ。
「あ、あの、人がいると思わなかったので、驚いて。すみません」
 彼は何も言わず、微笑んで翠を見上げている。なかなか話の分かる人のようだ。翠は自分が不法侵入している自覚があったので、早口で頼み込んだ。
「私、蛇女さんに会いたいんです。一目だけでいいんです。見逃してくれませんか」
 彼は尚も穏やかに微笑んでいる。そしてすっと手を上げて、一方を指さした。その手にも土色のイボが隙間なく生えている。
「ありがとうございます!」
 翠は喜びに声を上げた。あちらにいけば蛇女がいるのだ。翠は駆けていく。ガラクタが積みあがった中をすり抜けて走る。途中で色々な人とすれ違った。
 紫色の着物を着た、腕が三本ある婦人。逆関節の脚で元気そうに跳ねる少年は狐のお面を被っている。頭が二つある少女は大人しく市松人形を抱いていて、全身に艶やかな毛が生えた青年は、自分の毛並みを半月型の櫛で整えていた。後頭部に灰色の角が生えた老人は、算盤をぱちりぱちりと弾いている。
 皆笑っている。皆微笑んで、翠を見送っている。ああ、歓迎してくれてるんだ。ありがとう、ありがとうございます。皆のお蔭で、あの人に会いに行ける。
 翠は走った。ガラクタの間をすり抜けて、いろんな人に見送られて。どこまででも走っていけそうな気がしていたその時、後ろから声がかかった。
「どうしたの? こんなところで」
 蛇女の声だ、と直感して足を止め、振り返った。思ったよりもずっと近く、手で触れられそうな程近くに彼女はいた。舞台で首に巻いていた布は外しているので、不思議そうに細い首を傾けているのがよく見える。
「あの、私……私っ、貴女に会いたくて、それで……!」
 声が詰まる。こんなにも近くにいることに感動して泣きそうだ。本当に綺麗な人だ。いくつくらいだろう? 顎に人差し指を当てる妖艶な仕草を見ると翠より年上にも思えるが、舞台の上で無邪気に笑う様子は随分幼げだった。
「困った子ね。ここがどこだかわかっているの?」
「すみません、どうしても会いたくてこんなところまで……こんな、ところまで?」
 翠は辺りを見渡した。ここは……どこだ? 和室だ。一方に赤い芍薬の花が飾られた赤い床の間。床の間に直角に接して赤い格子。後の二方はただただ赤い壁。そう、赤いのだ。畳は白っぽい緑色だが、それ以外は、天井を含めて真っ赤だ。
「え……? 私、いつの間にこんな……あの、すみません」
「どうして謝るの?」
「いや、その、勝手にこんなところまで入ってきて……あっ、土足」
 翠はすみません、ともう一度言って、下駄を脱いで手に持った。
「謝らなくていいわ。だってアタシ、嬉しいのよ。アナタが来てくれて。アナタはまた会いに来てくれるような、そんな気がしていたの。ずっとずっと、そう思ってた」
 蛇女が柔らかく微笑んだ。それに見惚れる。
「それで、アタシに会ってどうしたかったの?」
 蛇女が問いかけてくる。どうしたいって……一目会いたくて、それだけで良かったのだけれど。でももう叶ってしまった。そんなことを言ったら、ここでお別れになってしまうのだろうか。
「アナタはどうしたいの」
 蛇女が問いかけてくる。どう……したいか? ああ、待ってほしい。だってあまりに赤すぎて。部屋も、蛇女の着物も唇も赤すぎて、考えがまとまらない。
「あの、私……私は……」
 蛇女が一歩距離を詰めてくる。東洋的な甘い香り。香を焚き染めてあるのだろうか。蛇女が腕を伸ばし、翠の顔に手を触れさせようとする。何か。何か言わなければ。
「弟子にしてください」
 翠が口走ったのはそんなことだった。しかし口にしてみると、名案に思える。
「私、貴女の芸に感動して……私も蛇女になりたいんです。お願いします。弟子にしてください」
 そうだ。本当に素晴らしい芸だった。それに弟子になれば、これからずっと蛇女の傍にいられる。翠は真剣に言ったが、蛇女は興味を失ったかのように手を引いた。ふう、と息をついて言う。
「それは無理よ」
「どうしてですか」
 翠は詰め寄った。蛇女は冷めきった表情で続ける。
「蛇を食べるのが蛇女。けれどアナタ、蛇そのものだわ」
「蛇……そのもの?」
 どういう意味だろうか。彼女の言葉はわからないことが多いが、その中でも一際よくわからない。
「ほら、これを見て」
 蛇女が手品のように、どこからか手鏡を取り出した。部屋の隅に置かれた行灯の赤い光を反射してきらりと光っている。
 向けられた鏡面を、翠は覗き込んだ。ぼんやりと自分の顔が赤く見える。走ってきたわりには、髪も浴衣も乱れていない。
「この鏡が……どうしたんですか」
「手に取ってよく見て」
「あ、はい、ええと……」
「その辺りに置いていいわ」
 促されて、翠は畳の上に巾着を置いた。下駄の底を合わせ、巾着の上に置く。そうして翠はようやく、赤く縁取られた手鏡を受け取った。
「さあ、よく見て。自分が何者なのか、アナタは知らなきゃいけないわ」
 言われるままに鏡面を覗き込む。いつも通りの自分の顔。せっかく蛇女の前にいるのに、少し化粧が崩れている。別になんの変哲もない……いや、いつもとは少し、違うようだ。真っ黒な丸い目。アイラインのように伸びる、黒っぽい模様。耳元には穴の一つも無く、全体がきめ細やかな緑色の鱗で覆われている。裂くように口を開けば、先の割れた黒い舌が覗く。そうか、蛇だ。これが蛇の顔なのだ。
「あ……」
 翠は声を漏らして、鏡を取り落とした。畳の上に、音も無く鏡が転がる。蛇女は表情を変えず、淡々と続ける。
「わかったでしょう? アナタは蛇。細くて長くて硬くて柔らかくて、アタシの一噛みで死んでしまう可愛い蛇」
 蛇女は、じっと翠の目を見た。翠は背が高いので、蛇女は下から覗き込むような格好になる。
「そう、不思議なことでもないでしょう? 恋に狂った女は蛇になるって、アナタだってどこかで知っていたでしょう。昔から、沢山の女が蛇になってきたわ。美しい僧侶の口約束を信じた少女が、どれほどの想いで彼を追いかけたか知っている? 少女を捨てて戒律を選び、梵鐘の中に逃げ込んだ僧侶がどうなったか知っている? そう、そうよ。蛇に愛された男はいつもそうなるの。ねえ、能を見たことはある? 能のお面で般若より罪深いとされる顔が、何故蛇と呼ばれるのかわかるでしょう――――?」
 蛇女の低くて甘い声が、翠の頭の中をぐるぐると廻っていく。その声に支配されて身動きすらできない。見上げてくる黒い目から視線を逸らせない。
「何故女は、何故蛇は、愛する男を燃やしてしまうのかしら? 意地悪でこんなことを聞いている訳ではないのよ。だってアタシ、わからないの。どうしてなのか、アナタにはわかる? わからないの? どうして? アナタ、自分が燃えているのにどうして気付かないの?」
 その瞬間、翠は気が付いた。喉が裂かれたように痛い。違う、熱いのだ。咄嗟に喉を抑えた手が焼かれる。青い炎が喉を覆って燃え上っている。悲鳴をあげようとして吸い込んだ息に火の粉が混ざりこんで肺まで熱が流れ込んだ。
 床の上に倒れ込んで、浴衣の襟を引っ張って、転がり回って。それでも消えない火が翠を焼いていく。喉からじわじわ広がって鎖骨を、肩を焼いていく。皮膚を炙り、内部まで浸透した熱が血を沸騰させて、肉を急激に茹で上がらせる感覚。透き通って揺らめく青色が、苛烈に翠を責め立てる。
 もう許して欲しくて、救いが欲しくて腕を伸ばす。その手は空を切るばかりだったけれど、救いがない訳ではなかった。ひたりと、冷たいもの――透明な氷よりもなお冷たい何かが翠の首元に触れる。弾けるくらいに熱された皮膚が、急激に冷やされる衝撃、その辛い程の気持ちよさ。それに翠はすがりついた。首を擦り付けて、奪うように冷たさを享受していく。
 火はもう消えていた。燃えていたはずの喉も肩も、嘘のように傷一つない皮膚に覆われている。それなのに削られたように痛い喉を、蛇女の滑らかな腕に押し当てる。氷より冷たいと思った蛇女の手は、もう当たり前の人間の温度にしか思えない。それでもそれに触れることで楽になれるような気がしたから、翠は頭を蛇女の腕にもたせかけた。
 浅く呼吸を繰り返す。瞬きもしない目から溢れた涙は、額から流れた汗と混ざって落ちていく。暴れたせいで襟が緩んでいるから、蛇女が翠の首筋を撫でる妨げにはならない。
「もう大丈夫。大丈夫よ。熱くないわ」
 蛇女がそう言ったから、翠は安心して目を閉じた。正座する蛇女の膝の上。熱くない。痛くない。この膝の上で、この腕に抱かれていれば、何も怖くない。
「ね、わかったでしょう? 恋に狂えば、愛を呪えば、女は蛇になるわ。せいぜい想いを抑えることね。さもないと、アタシに食べられてしまう」
 蛇女の平坦な声。その言葉の最後を聞いた時、翠はやっと理解した。自分は、本当はどうしたいのか。蛇女に会えて、何を願うべきだったのか。
 翠は目を見開いた。首をもたげて、蛇女の顔を見上げる。
「食べてください」
 翠がそう言うと、蛇女は不思議そうな顔をした。蛇女の掌に頬を寄せながら、翠は続ける。
「そうです、食べてください。つまらない男の為に蛇になっても、貴女が食べてくれるなら幸せだと、今はそう思います」
 本当に心から、そう思えた。この美しい人に食われて、その血肉になる。想像するだけで気持ちが浮き立ってきて、次から次へと言葉が口から溢れだしていく。
「貴女はどうやって私を食べますか。頭から? 尾からでしょうか。腹を犬歯で切り裂いて、血を飲んでから肉を食らうのでしょうか。その時貴女は何を思いますか。悲しんでくれますか。喜んでくれますか。いいえ、そんなことはどうでもいいじゃないですか。ただ美味しいとそう思ってくれれば、鱗の一つも残さず食べて貰えれば、私は幸せです」
 興奮気味に言い切って、翠は速く呼吸を繰り返す。蛇女は無表情のまま固まって動かない。厚かましい願いだっただろうか。翠が不安になってきたころ、蛇女は口を開いた。
「く、ふふっ、あは、あははははっ」
 蛇女が声を上げて笑う。先程までの試すような妖艶な笑みとも、舞台で見せたいたずらっぽい笑みとも違う。少し眉を寄せて、口を大きく開けて、肩を揺らして笑い転げている。翠は感動していた。佇んで見下ろしているだけで綺麗な人。その人がこんなにも真っすぐに、感情を見せてくれる。それだけでも、自分には価値があるのだとそう思える。
 蛇女は一頻り笑った後、はー、と息をついて、目元を拭った。指先で翠のこめかみに触れて、姿勢を下げる。翠に顔を近づけて、笑いの残った声で言った。
「本当に困った子。仕方ないわね。ここまで懐かれて邪険にできるほどアタシ、薄情な女じゃないのよ」
 翠の心が一気に期待で満ちる。蛇女は居住まいを正すと、軽く両腕を開いた。そしてにっこりと笑って言う。
「おいでなさい」
 翠は震えた。自分の身に降りかかったあまりの幸福が信じられない。
「ほら、はやく」
 蛇女が急かすから、信じられない気持ちのまま翠は蛇女に抱き着いた。正確に言えば、抱き着こうとした。けれどできない。もう腕は無くなってしまったから。でもそれは悲しい事なんかじゃない。嬉しい。あんな男の為じゃない。蛇女の為に蛇になれることが、変われることがこんなにも嬉しい。
 緑色の細長い体で、蛇女の首にぐるぐると巻き付く。嬉しい気持ちを全身で伝えたくて、何度も蛇女の首のまわりを回った。先の割れた黒い舌で、蛇女の頬を舐める。蛇女はくすぐったそうに身をよじって笑いながら、人差し指を翠の喉元にひっかけて引き寄せた。そして、翠の頭の側面に口づける。その唇があまりに熱いのに、翠は驚いて身を引いた。長い身体が宙をたわんだけれど、かけられた人差し指がまた翠を引き寄せる。
 蛇女が、かり、と翠の背の鱗に前歯を立てた。そうかと思えば、ちろ、と出された舌が同じ場所を舐める。少しだけ触れる舌先は唇よりももっと熱くて、当たった鱗が熱を帯びて赤くなってしまいそうな程だった。熱さに耐えかねた翠がしゅるしゅると蛇女の手の上を動くと、その分だけ蛇女の舌が翠の胴をなぞっていく。蛇女の舌から伝わる熱が、鱗を、皮を潜って行って、骨まで真っ赤に熱していく。
 ふと、それまでとは打って変わって大胆に伸ばされた舌が、翠の黒っぽい腹を舐め上げた。柔らかく濡れた熱に包まれて、苦しいほどの幸せに満たされる。熱い。けれど先程の青い炎とは違う。熱くて痛くて仕方がないけれど、その痛さすら優しくて愛おしい。舌と鱗の境界線がわからなくなるほどに熱くて、爛れて融けてしまいそうだ。融けてしまいたい。どろどろに融けて、そのまま、蛇女の喉に流れ込んでしまえばいい。
 蛇女が唇を離したのはそんな時だった。引かれた手が翠の体をするすると滑って離れていく。支えを失って蛇女の膝に落ちた翠は、恨めしい気持ちで首を高く掲げた。
「あら、まだ食べるなんて言ってないわ。ちょっと味見しただけよ」
 クスクスと笑って口元を抑えながら、蛇女が言う。翠は抗議の意味を込めて、ゆらゆらと体を揺らした。
「慌てないで。アナタ少し痩せすぎだから、もっと太ってから食べましょうね」
 言われて、翠は自分の身体を見下ろした。なるほど。確かに骨と皮ばかりで美味しくなさそうだ。翠としても勿論美味しく食べて欲しかったので、この場は納得することにした。

 そうして翠は、蛇女に飼われた。たまに、とても短い時間だった気もするし永遠のように長い時間だった気もする、なんて表現を耳にする。しかし翠が蛇女と過ごした時間はそんなものじゃなかった。短くなんてない。本当に長い時間、しかし決して永遠じゃない時間、ずっと蛇女と一緒にいる。それでもこのまま永遠になってしまえばいいと、翠は思う。
 花は枯れるからこそ美しいと、一体誰が言ったのだろう。翠は枯れない花が好きだ。枯れない花。欠けない月。終わらない時間。それのどこがいけないのだろう?
「それじゃあアナタは、終わりなんてこなければいいと思うのね? 私がアナタを食べてしまうなんてことは無く、ずっとここに居られたらいいと?」
 蛇女が、膝に載せた翠に問いかけた。それは違う。蛇女が翠を食べるということは終わりではないのだ。翠の肉は蛇女の歯で切り裂かれ、血ごと飲み込まれ、体の内側を満たしていく。そして融けた翠は蛇女と一つになる。それは決して終わりではない。それこそが永遠に終わらない、一番美しい形なのだ。
「そう、アナタはそう思うのね」
 蛇女は中指の背で、翠の背を撫でる。そして目線を動かして、床の間に飾られた赤い芍薬を見やる。翠がこの部屋に来た時から、水も替えないのに変わらず咲き誇る二十重の大輪。
「でもね、やっぱり花は枯れるから美しいの」
 その無表情が嫌に寂しげに見えて、翠は悲しくなった。寂しげな表情でも綺麗な人。それでも翠は、蛇女に笑っていてほしかった。蛇女の手を、鼻先でつんとつつく。
「ああ、そうね、お腹減ってるわよね」
 蛇女がそう言って、小さくて茶色い鼠の死体を翠の鼻先に差し出した。違う。確かに今から餌をもらう所だったのだけれど、今伝えたいことはそうではないのだ。
「食べないの? どこか調子でも悪い?」
 自分の想いが急に伝わらなくなって、翠は一層悲しくなってしまった。蛇女の掌の上で、ころんと転がって手足を縮める鼠を見る。ぱくりと、鼠の頭を咥えた。少しずつ口を大きく広げて、鼠を飲み込んでいく。
「そう、いい子ね。美味しい?」
 特に美味しいとは思えなかったけれど、翠は鼠の尻尾まで全てを口内に収めた。このみじめな鼠ごと、蛇女の悲しみも丸飲みにしてしまいたかった。
 

 そんなことを思い返して悩む。この部屋で翠と一緒に居て、蛇女は幸せではないのだろうか。翠は本当に幸せなのに。この誰も入ってこない、誰も出て行かない、蛇女と翠だけの空間。蛇女の手から食事をし、蛇女の膝で眠る満たされた日々。蛇女が針仕事をしている時だけ、木製の虫篭に閉じ込められてしまうのが不満ではあったけれど。
 彼女は度々、紺色の着物に刺繍を施していた。籠から出してもらった後に見せてもらった着物は、裾から伸びるように白で葦の刺繍がしてあった。そしてその葦の群れから、抜け出すように飛び立とうとする一羽の白い燕。その右側の羽。それだけを縫い取ればこの着物は完成するように見えるのに、何度見せてもらってもそこから進む様子はない。こんな地味な色の着物をいつまでも縫い続けてどうするつもりなのだろう? 蛇女に似合いそうには見えない。
 何故だろう。もっと楽しいことも沢山あったのだけれど、思い出すのはそんなことだ。きっと、蛇女の寂しそうな表情が気にかかるからだろう。赤い格子の向こう、暗いばかりで何も見えないそちらを見て、蛇女が目を細める。焦がれるように薄く唇を開く。そんな顔ばかりが、刺さるように心に残っている。
「アナタ、本当にアタシに食べられてしまうつもり?」
 蛇女が、首に巻いた翠に問いかける。下ろされた黒髪のさらさらした感触を楽しみながら、翠は答える。勿論だと。貴女に食べられることこそが、自分の望みなのだと。
「そう、そうなのね……」
 蛇女はうわごとのように言って、覚束ない手つきで翠の胴体に触れた。最近、蛇女はこの問いかけを何度もする。少しずつ不安定な様子を見せる蛇女に、翠は決して失望したりはしなかった。艶然と舞台の上で笑む彼女に惹かれてここまで来たけれど、それだけが彼女の全てではないことがわかって、翠は嬉しかった。今では、自分が蛇女の傍に居てあげなければと強く思っている。存外に寂しがりな蛇女の傍に居て、そして食べられる。そこから先はもう、離れることなどできない。永遠に寂しい想いなどしなくていい。だから大丈夫。何も心配いらない。
 そんな想いをこめて、翠は蛇女の頬に、自分の頬の鱗を擦り付けた。蛇女が翠の方に顔を僅かに傾けて、言う。
「じゃあ、そうしましょうか」
 蛇女が何を言い出したのかわからなくて、翠は首をもたげて蛇女の顔を窺い見た。
「アナタが一つ証を見せてくれるなら、もう、そうしてしまいましょう」
 蛇女の言葉の意味がわかって、翠は高揚した。ついにこの時がきた。大丈夫。証だろうがなんだろうが見せてあげるから、そんな不安そうな顔をしないで。大丈夫。ずっと一緒に居よう。花が枯れない、月も欠けない世界で、ずっとずっと一緒にいよう。

 蛇女がマッチを擦って、赤い蝋燭に火をつける。ふっ、と漂う燐の香りに気を取られている間に、もう蝋燭の上の風車は火の熱を受けて回り始めている。風車についた円筒がくるくると回転する。しかし、白い和紙の張られた外側の四角い木枠には何も映らない。円筒に何も描かれていないのだから当然だ。何も映らない回り燈籠なんて何の意味があるだろう? 翠は訝しい気持ちで、正座する蛇女を見上げた。
「よく見て。ここに映るのは、あなたが大切にしてきたもの。アナタが蛇になるまでの全て」
 促されて、翠は畳の上を進んだ。回り燈籠の正面から、張られた和紙を見つめる。和紙の向こうに透けて見える光が揺れる。そして次第に、影が見えてきた。その影はどんどん濃くなって、伸び縮みしながらゆっくりと回転している。あれは……翠だ。不格好なシルエットのセーラー服を着た、中学生の翠自身。
「さあ、よく見て。思い出して。アナタが何故蛇になったのか」

 自分がどうやら人より美しい見た目をしているらしい、ということに気が付いたのは中学生の時だった。以前から、親戚や近所の人は、翠ちゃんはかわいいねえ、美人さんだねえ、と褒めそやしていたが、それは皆言われているもので、自分が特別なわけではないと思っていた。急激に背が伸びて、周りが見渡せるようになって、気付く。自分程すらりと手足を伸ばして、形の良い頭に整った目鼻を備えた者は同じ学校にはいない。
 だから翠は、自分の見た目を磨くことに必死になった。毎日鏡を覗き込んで、体重計に乗って、肌に液体を塗りこんで、日焼けと肌荒れを恐れた。それは決して、自惚れからのみくる行動では無かった。
 翠には二つ年上の兄がいる。兄は地元では有名な秀才で、小学生の時からやっているサッカーでも期待されていた。翠はいつも兄と比べられたが、なんでも軽くこなしてしまう兄に勝てたことなどない。母は、どうしてお兄ちゃんと同じように勉強しないの、と翠を責めたし、父は何も言わなかった。親戚の叔母さんは、女の子は勉強や運動なんてできなくたって、ねえ、翠ちゃんくらい美人ならどうとでもなるわよ、とそう言った。
 翠は、年に数回しか会わない親戚の叔母さんの言葉にすがりついた。髪形にも服装にも気を使って、いつでも綺麗に見えるように背筋を伸ばして歩いた。次第に母親は翠に勉強させることを諦めて、兄の受験に必死になった。
 中学生活も高校生活もそれなりに楽しかったが、飽き飽きしていた部分もあった。田舎での生活は退屈で変わりばえしない。だから高校を卒業したら地元をでることにした……本当は、逃げ出したかったのかもしれない。地元で一番の大学の、それも医学部に進んだ兄は家族親戚中の期待の星で、純粋な気持ちで兄を尊敬しているふりをするのが、翠には辛かった。
 都会の生活は楽しいことばかりで、街に出れば綺麗なものやお洒落な何もかもが翠を迎えてくれた。美容系の専門学校に通いながら始めた、モデルの仕事も上り調子。兄のことなど何も知らない人々が、翠の外見を褒めそやす。それが嬉しくて仕方がなかった。
 そんな調子で、日々は過ぎていった。あっという間に専門学校での日々は終わり、翠は本格的にモデルとして生きていくことに決めた。
 弱肉強食のモデルの世界を、翠は持ち前の美しさへの執着一つで渡り切って行った。雑誌の撮影。ファッションショー。繰り返されるオーディション。口に入れる一つ一つに気を使い、ジム通いで体形を整えるストイックな生活も辛くはなかった。美しくあるために努力することは、翠にとって当たり前の事だった。
 順調すぎる程順調だったモデルの仕事に陰りが見えたのは、翠が二十五歳の時だった。毎日のように事務所から来ていた撮影やオーディションの連絡が、少しずつ少なくなっていることに気が付いた。翠よりも若いモデルに、仕事が流れて行っている。
 それでもまだまだ、翠は売れっ子の部類だった。少し上の年齢をターゲットにした雑誌をメインにすることもできたし、ショーや雑誌じゃない、例えば美容院とかブライダルだとか、そういったモデルの仕事を探すことも出来た。
 しかし翠は、二十六になってすぐモデルをやめてしまった。一番華やかなステージ。自分が一番綺麗に見える場所以外は嫌だった。自分より若いモデルが、美しいと褒めそやされているところを見るのが辛かった。諦めるには早い、まだまだやれる、と周囲は言ったけれど、翠にはわかっていた。美しさ以外の芸も技も無い翠はこれから落ちぶれていくだけ。それがわかっていてしがみつくのは美しくない。
 次に翠が選んだ仕事は、ネイリストだった。専門学校でネイリストの資格を取っていたのが幸いして、就職はそこまで苦労せずに済んだ。実際にネイリストとして働いた経験は皆無だったが、翠の技術はなかなかのものだった。翠は普段から自分の体形同様、爪にも気を使っていた。綺麗に塗った爪を見れば、自分が爪先まで美しく整えていることを、自分が隙なく美しいことを、実感できるから。
 翠が優弥に出会ったのはそんな時だった。専門学校時代の友人の紹介だった。初めての顔合わせの日。カフェでランチを食べながら、翠は優弥を値踏みした。背は翠と同じくらい。顔は普通。二十八歳。不動産屋に正社員として勤めていて、収入は多分そこそこ……。
 モデル時代に付き合っていた男と比べると、明らかにぱっとしない。それでも何か、翠は優弥に魅力を感じていた。明らかに緊張して、つかえながら話す姿が新鮮だったのかもしれない。目線を逸らして、照れたように笑う姿がツボにはまったのかもしれない。それとももっと何か、本能的な部分で惹かれたのかもしれない。
 海沿いのお洒落な街で買い物する定番すぎるデートコースも、そこまで興味のない猫を眺め続ける猫カフェ巡りも、優弥と一緒なら楽しかった。でれでれと崩れた表情で猫に話しかける優弥を見ているのは面白かった。
 優弥は仕事には真面目な男だったが生活能力に欠けていて、度々翠は優弥を叱りつけて部屋の掃除をさせなければならなかった。こっちが溜まった洗い物を片付けてやっているのに、掃除に飽きて漫画を読みだす優弥に腹が立たないわけではなかったが、別れようとは思わなかった。
 翠が二十八歳になった辺りから、母親から圧力がかかるようになった。電話越しに繰り返される、結婚しないのかという遠回しな問いかけ。お兄ちゃんはもう結婚して二人も子供がいるのに。お隣の咲ちゃんだって婚約したって。女が若くいられる時間は短いんだから早くしないと。田舎の価値観だ。今の時代、結婚なんてしなくても生きていける。翠は結婚にあまり興味が無かった。むしろ嫌悪感すら持っていた。
 専門学校に通っていた時。いつだって尖ったファッションで周囲を驚かせていたあの娘。銀行員と結婚して、地味な服しか身につけなくなった。会う度に旦那の悪口を言って、それでも旦那の夕飯を作ってやるためにさっさと帰ってしまう。
 モデル時代。翠と美しさを競い合って、ステージの上で輝いていたあの娘。子供を産んで見る影も無く太ってしまった。うめくような声をあげるぶよぶよとした赤ん坊に、甲高い幸せそうな声で話しかけている。
 ああなるのが、翠は怖くてたまらない。日々の生活に追われて、自分の外見に気を遣わなくなって、美しさを失って。そうしたら、翠に何が残る? 結婚なんてしてしまったらお終いだ……それでも、翠だって、優弥との結婚生活を想像しないわけではなかった。
 住居は小さなマンション。経済面を考えると子供は二人が限界。最初の子は男の子だろうか女の子だろうか。翠に似た方が美形になるとは思うけれど、優弥似の女の子というのも情けない顔をしていて可愛いかもしれない。子供の情操教育の為とか言って、優弥は猫を飼いたがるだろうから、猫にかかるお金も考えなきゃいけない。優弥の収入だけじゃ厳しい。今働いているネイルサロンは、産休育休がしっかりしているからどうにかなるはず。
 家事にだらしない夫と頑是ない子供と猫の世話に追われ、金銭の計算をしながら仕事をこなしていく目まぐるしい生活。きっと頻繁に髪を染め変える余裕なんてない。そんな倦怠と疲労に満ちた生活を想像して……それも悪くないと思う事だって、翠にもあった。
 美しさを失って、そして得る家族というものにどれほどの価値があるのか。価値なんてないのかもしれない。それでもそこには何か、退屈で尊い幸せの予感みたいなものがある。その頼りない予感に身を委ねてもいいと、魔が差したように思うこともあった。
 しかし、そう思っていたのは翠だけだったようだ。別れ話の時に、優弥が言った台詞がまたお笑い草だった。
「君は僕のことなんか好きじゃない。君は結局、君自身のことが一番好きなんだ」
 その通りだ。翠は何より自分が、自分自身の美しさが好きだ。中々鋭い。思っていたほど鈍感な男ではなかったらしい。しかしだからといって、何故翠が優弥の事を好きじゃないと言い切れるのか? 翠が好きでも無い男の為に家事をしてやっていたというのか。好きでもない男と結婚して、何より大切な美しさを捨ててもいいと思っていたとでも?
 責めるような声色のくせに、おどおどと目を逸らす優弥の顔が、伸びて、薄まって、縮んで、回転する。ゆらゆらと揺れる蝋燭の火に合わせて揺らめく。
 過去の想い出を映して、回りに回る回り燈籠。その回転が、しだいに遅くなっていき……気付くと翠は、見覚えのある場所にいた。

 優弥の部屋だ。相変わらず汚い。本と服と仕事関係の書類がそこらに散らばっている。翠は懐かしい思いで辺りを見渡した。優弥が買ってきたのに水やりすらしないから、翠が世話をする羽目になったパキラがある。
 ワンルームの奥の一人用ベッド。そこに人がいる気配がした。翠はなんとなく優弥の顔が見たくなったので、しゅるしゅると長い胴体を引きずって、ベッドの枠組みを登って行った。そして見える、暗闇に人影が二つ……人影が二つ。
 裸でシーツを被り、寄り添い合うようにして眠る、優弥と知らない女。それを見た瞬間に、翠は理解した……いや、ほんとうは、薄々気が付いていたのだ。
 スマートフォンをトイレに持ち込むことが多くなっていたし、服装も少し気を遣うようになっていた。若者向けの店の情報を口に出すようになっていたし、妙に翠の機嫌を取るような態度を見せることもあった。あからさまな浮気の兆候。しかし、優弥に限って。そう思っていたあたり、翠は甘い女だった。
 空虚な気持ちに襲われた。どうしていいかわからない。怒ればいいのか悲しめばいいのか、それすら翠にはわからない。
「燃やしてしまいなさい」
 耳元で、蛇女の声が聞こえた。辺りを見渡すけれど、蛇女の姿が見えない。しかし、翠は安堵した。自分が何をすればいいかがやっとわかった。
 翠はマットレスの上に乗り、シーツ越しに優弥の脚の上を滑って行った。優弥の首元まで至り、その薄く髭の生えた顎にちろりと先の割れた舌を触れさせた。
 優弥が寝ぼけたような声を出し、翠の上に手を置いた。目を開き、翠の姿を確かめる。そして、大仰な叫び声を上げて翠を投げ捨て、優弥はベッドから転げ落ちた。翠はマットの上に落ちて、首をもたげた。図太いのか何なのか、翠の背後の女は目を覚ます様子はない。
「蛇……? なんで」
 優弥が言葉を終える前に、翠は優弥の足を燃やした。優弥の足先から燃え上る青い炎。優弥は飛び上がって悲鳴をあげ、そこらに落ちていた服で火を消そうとしたが、そんなもので消えはしない。火は燃え広がって、全裸で転げまわる優弥の腰を、胸を、燃やしていく。翠はベッドを降りて、燃え上る優弥の身体に巻き付いた。その身体は元の三倍、四倍とも思える長さにまで伸びていた。それを不思議には思わない。優弥の脚に、腰に、首に巻き付いて、優弥の身体を抱きしめる。
 可哀想に。注射も苦手なくらい、痛いのが嫌いな人だったから、熱いのもきっと嫌いだろう。それでも、燃えてもらわなければならない。全身を青い炎が包み、優弥は喉の抑えが狂ったように高い叫びをひねり出して暴れまわった。優弥と共に自分の青い炎に焼かれる、翠も泣き叫びたい程に痛くて辛かった。それでもその灼けつく痛みを噛み締める。伝わって欲しい。伝えなきゃいけない。この痛みが、この熱さが、翠の想いの熱さなのだ。
 信じて欲しい。本当に好きだった。どうして翠が、優弥を愛していないなんて思いこんだ? 翠よりあの女の方が優弥を愛しているなんて、そんなこと、どうして思えた? 今なら、今ならわかる。何故少女は蛇になったのか。愛しい僧侶を追いかけて燃やしてしまったのか。自分の想いが本物だと、ただ知ってほしかった。鐘の中に逃げ込んで目も合わせてくれない貴方に、この想いの熱さを知って欲しかった。
 弾けた熱い想いが、部屋全体を包み込んでいく。ごうごうと音をたてて燃え盛り、思い出を青く燃やし尽くしていく。翠が空中に舌を出し入れすると、焦げ付いた脂の匂いが上顎に届く。人の形を僅かに残して焼けた優弥は、光沢のある黒い塊になって尚も燃えている。そのずっしりとした塊を、もう一度ぎゅっと抱きしめてから、翠は長い身体を解いていった。
 名残惜しいけれど、まだやらなければいけないことがある。燃やさなければ。蛇女が燃やせと言ったからには、全てを燃やさなければいけないのだ。
 青く青く燃え盛る部屋の中、ベッドの上だけが穏やかだ。翠は体を重く引きずって、ベッドを登って行った。その上で平和に眠る女。あどけない顔つきに、薄く笑みすら浮かべている。肩で切りそろえられた栗色の髪が、軽やかに枕の上にのっている。頼りない薄い肩に似つかわしくない豊かな胸。細い腰には優弥が投げ出したシーツがわだかまっている。横向きに少し体を丸めて眠る様は、まるで飼い主のベッドを占領して満足しきった猫の様だった。
 翠は不思議な気持ちになった。何故こんなにも安らかに眠れるのだろう。優弥はもう燃えてしまったのに。この女ももうすぐ燃やされてしまうのに。翠は、改めて女の顔を覗き込んだ。本当に若い。まだ二十にもなっていないのではないだろうか。それに気がついて、翠は納得した。周りの様子など微塵も気付かず夢を見ていられる年齢だ。翠もそうだった。美しさ一つで全てを手にできると信じていた。
 彼女は一体どういうつもりで優弥と付き合っていたのだろう。ただの遊び? いや、彼女は真剣だったのだ。そんな気がする。若くて可愛い女の子。これからいくらでも素敵な男性と出会えるのに、目の前に不意に現れた、優しいだけの三十男に夢中になってしまうくらい純真で世間知らず。
 翠は鼻先の鱗を女の頬に押し付けた。モデルを諦めたころから、嫉妬の対象でしかなかった若さが、その愚かしさが、今は愛おしく思える。
 ねえ貴女、あんな男がよかったの? どうしても? そう、私と同じだね――――。
 翠の丸い、黒い目から、透明な涙が零れる。青い炎を映した雫は、眠る女の頬に落ちた。水滴が、ぴしゃん、と弾ける音がした。

 翠は、ハッ、と顔を上げて、頬を手で覆った。濡れている。こんなことがあってはならない。何もかも、カラカラに乾いて熱く燃えていなければいけないのに。
「あんなに燃えたのに、蛇にはならなかったのね」
 蛇女に言われて、自分が頬を手で覆っていることに気付き、驚愕した。腕がある。足がある。青い牡丹の浴衣を着て、畳の上に膝をついている。
「違う……これは、違う!」
 翠は弁明するように叫んで、正座を斜めに崩して座る蛇女の無表情を見つめる。
「違わないわ。アナタは燃やせなかった」
「これから燃やすところだったんです! そうだ、あんな女、燃やしてやるところでした!人の男を取るような女、燃やしたからって何だっていうんですか!? 燃やします、今度こそ燃やして見せますから、もう一度、お願いです、もう一度……!!」
 翠は叫んで蛇女の膝先にすがりついたが、蛇女は緩く首を振るだけだった。
「アナタにはもう燃やせないわ」
「燃やせます、何だって燃やして見せます!」
 翠は半狂乱で激しく首を振った。宥めるようにその肩に手を置いて、蛇女は言う。
「無理よ。この部屋に来たばかりのアナタならできたのでしょうけれど、もう、無理なの」
「なんで、なんでそんなこと言えるんですか。燃やせます。貴女の為ならなんだって……!」
 蛇女は目を細めて、慈しむように笑った。そして手を伸ばして、蛇女の着物を強く握りしめる翠の髪を撫でた。そして、すっ、と引いたその手には、翠が髪につけていた赤紫のダリアの飾りを持っている。
「ねえ、これ、貰っていいかしら。枯れない花なら、アタシだって持てるから」
「あげます。なんだってあげますから、私もここに置いてください」
「駄目よ。わかってるでしょう? きかない子ね」
 蛇女はダリアを口元に当てて、クスクスと笑った。その姿が、あまりにも綺麗で、翠は眩暈を覚えた。綺麗な人。この人は知らないのだ。舞台の上で蛇を噛み千切る姿を見た時に訪れた、天啓のように清らかで凄まじい衝撃。自分の美しさだけに目を向けてきた翠が、初めて妬みのかけらも無く他人の美しさに焦がれた、そのときに漏れ出たため息がどれほど熱かったか、この人は知らないのだ。知らないからこんなにも平然と、諦めろと言えるのだ。
「嫌です」
 翠は項垂れて言った。蛇女が咎めるような声色で返す。
「我儘言わないの。お帰りなさい」
「嫌です」
「駄々こねたって駄目なのよ?」
「嫌です」
 蛇女がわざとらしいくらい大きく溜息をつく。翠は蛇女の膝に額を押し付けながら、言った。
「貴女をここに一人、置いていくなんて、嫌です……!」
 こんな赤くて、綺麗で、完璧で寂しい所に置いていけない。残していけるのが偽物のダリア一つなんて、そんなこと、あってはならない。広がる沈黙。蛇女が翠の髪を何度も撫でて、それから口を開く。
「ねえ、顔をあげて」
 翠は、ゆっくりと顔をあげた。その激しい目を優しく見下ろして、蛇女は言う。
「アタシ、アナタが来てくれて嬉しかったのよ。本当に。ずっとずっとずっと、ずっと待ってたの。客席にアナタを見つけた時、アタシがどれほど嬉しかったか知っている? アナタがこの部屋に足を踏み入れた時、アタシの心臓がどれだけ激しく高鳴ったか知っている? アナタが蛇になると言った時、アタシに食べられたいと言った時、アタシが泣きたいほどに幸せだったのを知っている? アナタとこの部屋で過ごしている間、アタシがどれだけ満たされていたか、知らないでしょう? だからね、いいの。この花と、アナタとの思い出があれば、それで十分なの」
 蛇女は赤紫のダリアを、自分の降ろし髪の耳の辺りにつけた。翠はそのダリアに嫉妬する。自分はもう傍にいられないのに、何故そんな紛い物の花を傍に置いてやるのか。愛おしむようにそっと手をやるのか。本当に、憎らしいくらい綺麗な人。蛇女の美しさに妬みの一つも抱いていないなんて嘘だ。妬ましい。憎らしくて仕方がない。絶対に手に入らないのに、どうしてそんなにも美しい。
「本当に十分だと、そう思うんですか」
 翠は両手で、強く蛇女の肩を掴んだ。噛みつくように喋り出す。
「このまま綺麗な思い出にして、手放してしまうんですか。奪ってでも手に入れたいとは、思ってくれないんですか。そうですね。私は燃やせなかった。あんな可愛いだけの子は燃やせない。でも、貴女なら。燃やすことができなくても、奪うことなら。壊すことなら」
 翠はそのまま、蛇女を押し伏せた。畳の上に蛇女の黒髪がはらりと広がる。その耳元で赤紫のダリアが揺れるのを見て、脳内が燃えるように熱くなる。今まで意識していなかった、蛇女が身にまとった甘い香りが濃厚に鼻に届く。
 その香りに操られるようにして、翠は無抵抗の蛇女の首に手をかけた。白い、細い首に指を絡ませていく。グッ、と指先に力を込める。蛇女が、無感動に翠を見上げる。その顔を暗い気持ちで見下ろしながら、翠は長い指で蛇女の皮膚を、その下の骨を、喉の奥の柔らかい所を、ぎゅっと締め上げていく。
 蛇女が喘ぐように息をもらして、身体を跳ねさせた。苦悶に歪む表情も、腕の下で汗に濡れて見える鎖骨も綺麗で、翠は震えた。こんなに完璧に綺麗だからいけないんだ。壊してしまわなければいけない。こんなにも、何一つ欠けずに綺麗だからこんなところに囚われているんだ。締め上げて、ズタズタに引き裂いてしまわなければいけない。
 ああ、わかっている。この綺麗な部屋に相応しくない程に蛇女を壊してしまっても、自分の手に入るわけではない。それでも、仕方ないじゃないか。こんなところに置いていきたくないんだ。ずっと一緒にいられないなら、このまま一緒に壊れてしまおう。手に入らない完全なんていらない。枯れない花なら、散らしてしまえばいい。
 青紫色に透き通る爪が蛇女の首に深く食い込んでいる。蛇女が見る間に弱っていくのを見る翠の気持ちは、どうしようも無い程に昂っていく。
――苦しいんですか。痛いんですか。私の事を憎みますか。どうか、憎んでください。自分勝手に貴女の美しさを奪ってしまう私を責めて、恨んでください。私と出会ってしまったところから、迎え入れた所から全部、悔やんでください。絶望して私を拒絶する貴女の目を覗きこんでいれば、狂って、壊れてしまえる。貴女の全てを奪い去る、卑劣な私と一緒に壊れてください。
 翠は懇願する気持ちで、蛇女の目を覗きこんだ。僅かに細められた目が、いまだ火花が散るようにキラキラと煌めいているのに怯む。それでも絞め続ける翠の手に、そっと蛇女の手が添えられる。その手つきは、翠の手を引き剥がそうとするものではなかった。慈しむように翠の手の甲を撫でる。それを信じられない思いで見て、翠はもう一度蛇女の顔に目を向けた。蛇女は確かに、ふわり、と笑った。苦しそうに眉を寄せてはいたけれど、その笑みは、舞台の上で最後に見た、あの儚い笑みだった。そして翠は気付く。泣きそうだと思ったあの笑みは、幸せを噛み締めるものだった。翠と出会えた喜びに打ち震えるものだった。
 翠が息を切らした。それと同時に、指が少し緩む。その機を逃すことなどなく、蛇女が翠の手からするりと抜け出した。少し体を起こして、翠の首を引き寄せる。また畳の上に背をつけて、翠の首に腕を巻き付ける。今まで喉を締め上げられていたとは思えない軽やかな声で言った。
「ふふ、馬鹿ね。もう少しだったのに」
 ああ、本当に馬鹿だ。どうしようもない臆病者だ。蛇女は受け入れようとしてくれたのに。一緒に壊れてくれようとしたのに。翠は怖くなったのだ。最後の最後まで醜い感情など見せない、美しいままの蛇女を自分の手で壊すのが怖くなった。美しさというものに焦がれ続けてきた翠に、完璧に美しいものを壊すことなどできるはずもなかったのだ。
 翠の目から溢れた涙が、蛇女に降り注ぐ。蛇女は皮肉に笑って見せて、からかうように言った。
「本当に駄目ね。そんなに泣き虫じゃ、もう鼠一匹燃やせないわ」
 言葉一つ発せない翠の頬に左手を添えて、蛇女はすっ、と笑みを引かせた。翠の顔を覗き込んで問う。
「アタシのことを薄情だなんて、思わないわよね、ね? アナタがアタシに食べられたいと思うくらい、アタシを壊したいと思うくらい、アタシはアナタを閉じ込めてしまいたいと、食い千切ってしまいたいと思ってた。ずっと一緒にいられたら、アナタを糸切り歯で引き裂いて、噛み砕いて飲み込んでしまえたらって、そう思ってた」
 翠は泣きながら、繰り返し頷いた。蛇女の手に濡れた頬を擦り付ける。どうして。こんなにも想いあっていて、どうして一緒にいられない。わかっている。自分のせいだ。燃やすことも、壊すことも出来なかった自分のせいだ。
「そう思いつめないで。アナタに会えて、アタシ幸せだった。そしてこれから先も、ずっとずっと幸せなのよ。アナタがアタシを忘れてしまっても、貴女の残した想いは、ずっとアタシと共にあるのよ」
「……忘れませんよ。そんな残り物の想いよりもずっと長く、ずっと強く、貴女を想っています」
「そう、嬉しいわ」
 まるで幼児の求婚を面白がる大人のような口ぶりで、蛇女は言った。そんな蛇女を強く睨み付けて、翠は脅す声色で言う。
「忘れないでください。私はずっと、貴女を想っています。どれだけの時間に隔てられても、どれだけの距離に隔てられても届く想いです。残り物の想いなんか、すぐにでも捨ててしまってください。いつでも、私の生きた想いが、過去にも未来にも絡みついて、貴女を締め付けている」
 呪詛の様なその言葉を受けて、蛇女はくすぐったそうに笑った。
「楽しみにしておくわ」
「……信じてませんね?」
「あら、そんなことはないわ」
「本当ですよ。約束します」
 約束、という言葉を聞いて、蛇女は急に視線を彷徨わせた。何度か口を開きかけて、止めて、結局おずおずと問いかけた。
「……本当に、約束してくれる?」
「約束します」
「じゃあ、証を頂戴」
 そう言って、自分で言ったことに驚いたかのように息をのんだ。蛇女からのおねだりに舞い上がった翠は、甘い声で問いかける。
「いいですよ。何が欲しいんですか」
「……でも、やっぱりいいわ。いけないわ。帰っていくアナタを縛るなんてしちゃいけないわ。しちゃいけないの」
「いけないことなんてありませんよ。証でも何でも、差し上げましょう」
 証を見せてくれるなら、食べてしまいましょう。回り燈籠をつける前に蛇女はそう言った。あの証は見せられなかった。蛇女の願いを叶えてあげられなかった。燃やすことも壊すこともできなかった自分をもう一度信じて願いを言ってくれるなら、今度こそ、何に替えても叶えて見せよう。
 蛇女は翠の首に回した腕を引き寄せた。顔が近づき、蛇女の吐息交じりの声が鼻先にかかる。
「じゃあ……頂戴」
「何が欲しいんですか?」
 蛇女は視線をそらしては、責めるように翠を見上げることを繰り返して、翠の肩に爪を立ててみたりした。そして不満そうに愛らしく唸った後、目を閉じた。心持顎をあげて見せる。
 翠は、不意を突かれたような気持ちになった。証をよこせというから小指でも切り落として紐をかければいいのかと思ったら、キスひとつねだるだけ? そんな、いじらしい。あまりにも可愛らしい。
 蛇女が、翠の背にひときわ強く爪を食い込ませたから、翠は慌てて姿勢を下げた。初めてキスをする少年のような気恥ずかしい気持で口をつける。熱い。触れ合った唇が、赤く焼けてしまいそうな程に熱い。その熱さがどうしようもなく愛おしくて、翠は薄く開いた蛇女の唇に舌を差し入れた。擦れ合う柔らかい粘膜が熱すぎて、脳天まで灼けついてしまいそうだ。融けていくような感覚に酔いながら、翠は理解していた。これで本当にお別れだ。
 諦めを抱いたところに、蛇女が翠の舌を柔く噛んだから、翠は少し期待した。このまま翠の舌を噛み切って、飲み込んでくれはしないだろうか。そう、そして蛇女は勿論、そんなことはしなかった。舌先をもう一度からかうように噛んで、優しく絡めた舌で翠を焼く。それにビクリと身を震わせながら、翠は失望する。その暗い失望すら快感に変えて、舌先の熱さに浸りきった。蛇女の顎に手を添えて、更に口付けを深める。襲ってくる強烈な酩酊感を受け入れて、終わりが近づく熱に身を任せた。

 
 雨が降っている。大雨だ。その大雨に身を濡らして、翠は立っていた。じっと見つめるのは、見世物小屋がたっていたはずの場所。そこには黄色い天幕など無く、金魚掬いやら射的やらの屋台を、法被を着た男たちが解体している。
 雨の中でも赤く光っていた提灯が少しずつ、消えて行く。祭りの終わり。浴衣を着た男女が、お互いを雨から庇うように寄り添って、大木の下から空を見上げている。団扇を頭上にかざした少年が、参道をものすごい勢いで走っていく。
 翠は不意に、自分がきっちり下駄を身に着けて、巾着を手に提げていることに気が付いた。不安な思いに襲われて頭に手をやり、安堵した。ダリアの髪飾りはそこには無い。それに何より、翠の舌には熱が残っている。
 雨に濡れて体は冷えていくけれど、舌に残った熱は全身にじわじわと燃え広がって、体内を絶えず焦がしている。この火が燃え続ける限り、約束を違えることなどない。そしてこの火は、翠が生きている限り、いや、翠が死んだ後も、翠の体の脂を、骨を、情を焼いて永遠に燃え続ける。翠は自分の体を抱きしめるように腕を回して、そっと笑った。

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