梗 概
SUN-X
太陽への最接近を競うインフィニティスポーツ〈SUN-X†VIVIVI〉。レース直前、水星上空のホロチェッカーフラッグを前に出場者〈バーンド〉らの船がスタートを待っていた。うち一隻のコックピットでは、青ざめたジェイクと、片方しか無い脚を黒猫が舐めている。
フラッグがグリーンに変わり、他の船が飛び出していく。ジェイクはこの数日間を思い返し、震える手でスロットルを回した。
太陽系スポーツ倫理委員会の規定で〈バーンド〉の生命を守るため同乗するAIが到着すると、ジェイクのスポンサーが送ってきたのは黒猫の姿をした〈未来擱座型AI〉だった。黒猫は「必ず死ぬが、生きたいか?」とジェイクに尋ね、「どうでもいい」という彼の答えにより、その未来を擱座した黒猫ロイドは、あらゆる手でジェイクを間接的に殺しにかかる。
666回大会はジェイクを含めた歴代優勝者〈ラー〉の子ら〈セト〉も出場し、生還すれば過去最高額の賞金と地球の永住権を得られる。レースが近づき、各地の報道衛星が水星に到着して全太陽系の人類へ放送中継を開始。
船の最終点検中、黒猫がジェイクに〈SUN-X〉出場の理由を質問。相方を全く信用しなくなったジェイクだが、〈バーンド〉は通信が制限されているため、メッセージを託せるのは黒猫しかいない。同乗AIだけが〈バーンド〉の遺言を一度だけ、個人に届ける権利を持っている。
賞金で遊び呆け、ジェイクのような子どもを大勢作って相続手続きもせず逝った父親の〈ラー〉を見返し、育ててくれた母親を楽にするのが目的だとジェイクは明かす。母親へ遺言を頼むジェイクに黒猫は「帯域不足」と突っぱねた。
カロリス基地出発前、母親からもらった御守りを紛失し、ジェイクは黒猫を疑うが、他の〈バーンド〉が盗んでいた。ショックと累積の被爆でジェイクの体調が悪化。医療SIは棄権を勧めるが、スポンサーから莫大な違約金を背負わされる上、地球の医療設備でも脳神経の修復は困難で、意識のアップロードにはプロミネンス並みのエネルギーがかかる。逆に、レーススタートまで持ちこたえれば参加賞金がもらえ、基準距離地点〈PSP〉ポイントを超えればさらに額が増す。
這いつくばって船へ乗り込んだジェイクの元に黒猫が〈バーンド〉に追われながら合流。戦闘で脚の取れた黒猫がジェイクに御守りを渡すと、追いすがる〈バーンド〉へ中指を立て、ジェイクが船を発進させた。
レース終盤、〈バーンド〉の船が次々、爆散していくなか、ジェイクの船が〈PSP〉ポイントを通過。「遺言アップロード開始」と黒猫が激増する太陽エネルギーを利用してジェイクの意識を転送。〈ラー〉ポイントが近づき、融解しだす船内で、黒猫「貴方の未来は擱座した」。
火星コロニーの病床でラジオを聞くジェイクの母親。ジェイクの船の大破を伝える中継が途切れ、ラジオからジェイクの声「あれっ? オレ死んで……」。
文字数:1194
内容に関するアピール
『太陽 ✕ エクストリームスポーツ ✕ バディ』のお話です。
Parker Solar Probe太陽探査船の打ち上げから「いつか生身の人間が太陽に挑戦するだろう」と考えたのがきっかけです。〈PSP〉の記録はいずれ破れられるでしょうが、人類は限界へ挑み続けるに違いありません。それは若者の挑戦だったり、金持ちの道楽だったりします。
五輪にエクストリームスポーツ(パルクールなど)があるので、〈SUN-X(サンクス)〉は未来の花形スポーツかもしれません。F1にスタントを合わせた宇宙レースですが、ゴールが太陽なので生還率は1割以下です。
「未来擱座」とは、”或る未来をほとんど確実にする”という意味です。大破した戦車が動けないのと同じで、未来を擱座されるとその未来がかなり確実性を持ちます。開発者のメモによれば「(大ざっぱに言って)消去法で選択肢を絞っていく仕組み」だそうです。
文字数:380
SUN-X
プロローグ.太陽・水星間宇宙 〈太陽へ近づく未燃焼の者たち〉実行管理中継衛星〈 M.R.S.E.〉
『全太陽系のみなさんっ! 〈ルナ・ブロードキャスト〉のジン・マークですっ!
〈SUN-X〉へようこそっ!!! 〈太陽を求める過激な者たちのレース〉は、われらが太陽への最接近を競う太陽系イチ、アツいスポーツですっ! 私の説明、合っていますか、パーカー?』
『おはこんばんにちは、実行管理AIのパーカーです。そうですね、ジン。一言つけ加えるなら、スポーツというより、人の死を娯楽にするような○○金持ちたちの道楽であることです』
『コホンッ……いつも通り、毒っ気たっぷりの解説と自主規制ありがとう、パーカー。パーカーには、解説者としてレースを盛りあげていただきます。
それでは、第六百六十六回大会に集いし〈ラー〉の子、〈バーンド〉たちをご紹介しましょうっ!』
Ⅰ.水星外気圏外 〈SUN-X〉スタート地点
【……以降、外部との通信は送信のみ。全〈バーンド〉、発進準備】
フライトコンソールに表示されたプロンプトを消すためにジェイクが手を伸ばす。
銀メッキよろしく、対高温船外活動スーツのナノファイバーに覆われた手が小刻みに震えた。高い肉体親和性をもつスーツにはうっすら、赤いものが染み出している。
「くっ……」
二度ほど、宙をかいてようやくホロスクリーンにふれた頃には、汗だくだった。目元から垂れた雫がスーツとのあいだでにじむ。スーツがすぐさま乾かしてくれるが、爛れた肌には少しの塩分でもしみて痛い。
「シールドジェネレーター良好。装甲は……」
うなされたように計器の状態を読み上げるジェイクの呼吸は不安定だ。呼気の循環を効率化し、鼻も口もふさいだスーツが凹凸を繰り返し、痩けた頬と相まって古代のミイラをおもわせる。
窓の類いがいっさい無い、C/Cセラミックスの塊のような船のなかで、外を確かめるには、スーツと同化したフェイスマスクのディスプレイ越しに、船体へ塗布されたカメラの映像を受け取るしかない。
映像では、深緋の球体が遠く、けれどくっきりと、うかんでいる。地球大気圏内で見るよりはるかに大きい太陽は、絶え間なく熱とエネルギーを放出し、時折、プロミネンスが恒星の外套を毛羽立たせる。
「リトルバード」
簡略化されてなお、手間のかかる船の最終点検を、痛みにボウっとする頭で機械的に進めていると、内耳に埋め込んだ通信機から感情のない声が横やりを入れてきた。聞きなれてきたが、いちいちイラッとする呼び方だ。
「推進器のセルフチェックを飛ばしてます。エンジンがイカれたら、飛べませんよ?」
「うっせぇ化け猫……ライフセーバーだったら代わりにやれよ」
ワタシはマシンに関与することを禁じられています、と中性的な声が速攻で拒否する。舌打ちしたいが、口のなかが潰瘍だらけでなるべく舌を動かしたくない。
毒づくのは腹のなかだけにして、飛ばしたエンジンのチェックをやり直す。
「……修理キットあるぞ」
「お気づかいなく。どのみちワタシたち、燃え尽きるんですから、脚の一本や二本、くれてやりますよ」
ジェイクの視界が傾き、船体側面のカメラに遷移する。白の点にしか見えない船が一隻と、いわゆる後方に、大小のクレーターに覆われた地表が広がっていた。ジェイクたち〈バーンド〉が数ヶ月間を過ごしたカロリス基地も、その一つである。
広大な宇宙空間では、同じスタートラインといえど、船同士の間隔は広い。ジェイクを含め、六人の出場者が各々のスポンサーから進呈された、ロゴやキャッチフレーズにまみれたエキセントリックな船で、同乗する相方とともに旗が振られるのを待ちかまえている。
さらにパイロットの視野を、緑色の市松模様、巨大なチェッカーフラッグが塗りつぶす。
だが、船のパイロットがディスプレイを透かして見ていたのは、助手席に乗っている黒猫だった。
大人が載ってなお余裕のあるシート座面に、真っ黒なイエネコがお座りし、右の前足があったところをしきりに舐めている。チラチラ覗く舌が、そのたび色を変えた。
「一本だろ。ホント、不吉なことしか言わねぇな、にゃんこ」
「でも、ワタシがいてよかったでしょ?」
黒猫がひょいっ、と顔をあげてジェイクを見る。真ん丸の金眼に射すくめられると落ち着かない。
出発前まで太陽に負けじと爛々と輝いていたネコの目は、片方の瞳孔が不規則にチラついている。まばたきでやりすごそうとしているのが痛々しい。
胸元に手をやったジェイクがEVAスーツ越しに硬い感触を確かめる。こいつがなければ、自分はここにいなかった。
激しい咳が、サンキューな、と言いかけたジェイクを阻む。
「ぐほっ……げほっ……」
身体をよじるジェイクに、毛づくろいを止めた黒猫が助手席を飛び降りた。たちまちコンソールが『警告。ライフセーバーはパイロットから距離を置くこと。身体接触が認められた場合、即失格とする』のアラートに埋めつくされる。
無くなった前足をかばうように進み、パイロット席の下で黒猫はジェイクを見上げ、生物学的ネコがやるように喉を鳴らした。
隻眼の虹彩が白地に赤の十字へ変わり、パイロットのマスクに酸素供給の文字列が流れていく。
「まずは吐いて。それからゆっくり吸って」
異常を告げるパイロットのバイタルは、ジェイクが船に乗る前からさほど変わっていなかった。被爆線量を報せる項目は、増加の一途をたどっている。
「げほっげほっ……はぁー」
ジェイクがスーツのフード部分をつかみ、引きずり下ろす。顔の前面を覆うディスプレイが自動的に生地へ収納され、血色の失せた顔から、残り少ない髪がハラリと散る。
「からだ中が痛ってぇよ……あの野郎、これで半年もったのか……化けもんだな」
「リトルバード」
ため息をついたジェイクがシートの下をのぞきこんだ。
両目は充血し、限界が近い。
「〈PSP〉を超えたらすぐ、リザインしましょう。参加賞だけでも、貴方の治療ならできます」
「ざけんな。おれは、あの野郎をガツンとやりにここまで来てんだ。尻尾まいて逃げられるかよっ」
あれくらいじゃ治らなねぇ、と吐き捨てたパイロットに黒猫がしばし、無機質なフロアを見つめる。
刹那、金の眼が光った。
座りなおし、ジェイクがふるえる手でフードを被りなおす。すかさず、水面が氷結するようにディスプレイが顔を覆う。
「いくぞ、にゃんころ」
席の下から潜りだし、身軽に跳躍した黒猫が助手席に戻る。アラートが消え、コンソールがスタートまでの時間を映しはじめた。
船外では、チェッカーフラッグが数回、点滅したのち、端から消え始めている。
景色を仰ぎ見ていた金の両目が一瞬、碧くなり、「ワタシはネコロイドです」とワンテンポ遅れて訂正した。
「さんざん、殺そうとしといて、名前は気にいったのか……おまえも狂ってるよな」
シートを囲うカーブしたコンソールをジェイクが叩く。船の振動が大きくなり、船尾のエンジンが高周波の唸りをあげていく。
どこか自慢げに「貴方を殺そうとしたことはありません。ワタシは貴方の未来を擱坐するだけなのですから」とライフセーバー。その声はジェイクに届かない。
アームレストの先端にある古典的なアクセルレバーを握りしめながら、武者振いかあるいは寒気か、ガタガタとシートごと揺られるその目は、集中するためにまぶたを閉じている。
「まってろよ」
グリーンシグナルが消え、〈バーンド〉たちを遮っていた幕が次の瞬間、無数の塵へと切り刻まれた。
陽の光を受け、宇宙空間へ盛大にスパークする旗を見るまでもなく、ジェイクがアクセルレバーをMAXまで押しあげた。
「……クソ親父」
カッと見開いた黒眼が、太陽そのものを挑発するように睨みつける。
『全機、いっせいにスタートしたぁっ! 今大会は粒ぞろいだけに、スタート早々、エンジンがバンッ!となる〈バーンド〉もいないようですっ。コホンッ……どうですか、パーカー?』
『〈セト〉だけではありません。〈イシス〉もいますよ。あと〈ネフティス〉も』
『今大会には女性〈バーンド〉も出場している、と言いたいわけですね?』
『おっしゃる通り、ジン』
『なるほど。現在、出場者六名のうち、半数がスイングバイによる太陽接近を試みているっ。〈SUN-X〉では王道の軌道であります。ほか二名が推進剤によるアプローチを、そして今大会唯一、ワープエンジンを採用したバーンドネーム〈ゲブ〉が早速、出現先座標の計算をはじめた模様っ。わたしには座標を知るよしもありませんが、パーカー。あなたなら、なにかご存じでは?』
『ジン、守秘義務を破ったら、私が〈SUN-X〉本部から、真っさらなアルゴリズムをインストールされるのに、一日とかかりませんよ』
『太陽系内の通信もはやくなりました』
『ザッツ、ライト。ですから、〈ゲブ〉号のワープ出現先を明かすことはできません。そもそも、座標の計算は、オフラインでクォークコンピューティングによる時空軸の三次元的な割り出しが……』
『はいっ、専門的な解説をどうもありがとう、パーカー。ワープ船の現れる場所はわたしにも、運営側も把握できない、ということですね。パイロットの戦略次第だ』
『まさしく、ジン』
『戦略といえば、パーカー。相棒ともいうべき、ライフセーバーの存在も大きな鍵となりますが……おぉ~っと?! 〈シュー〉号が救難信号を発信っ! 順調に楕円軌道をとっていたが、どういうことだぁ?!』
『パイロットがライフセーバーに襲われたようですね』
『むむっ!?……解説していただけますか、パーカー?』
『〈SUN-X〉のライフセーバーは、各スポンサーの斬新的な先端技術を取り入れています。斬新すぎて、ときに思いがけない行動に出ることも』
Ⅱ.水星 カロリス盆地 〈これから燃やされる者たち〉 基地 ~レース前~
にゃー、と口を開きもしないで通信機に鳴きかけてくる黒い四本脚に一歩、ジェイクが後ずさる。
フェイスマスクを見上げ、その黒い物体は可愛らしく首をかしげてきた。
「……こいつ、なのか?」
ほどほどに気圧が保たれた基地内の、〈バーンド〉に割り当てられた自室。
突発的な事故に備え、常時EVAスーツを着用しているジェイクが、何度目かの質問を繰り返す。さらに後ろへと下がると、厚いブーツの踵がコツンと壁をくり抜いたような寝台に当たった。もうあとがない。
フルフェイスマスクに映る火星のエンジニアが「だから、こいつだ」と若干、イラ立ち気味に答える。スポンサーのエンジニアとビデオ通信で話すのは、これが初めてだ。ブリーフィングが始まったときから、エンジニアは目も合わせてこない。
研究職に就いていそうな隈の目立つ白衣の男は、ディスプレイに『マーズ・フォーチュン・ディベロップメント MF部門 主席未来研究技術員』とIDがある。
「いや、でもよぉ……」
ジェイクとて、馬鹿の一つ覚えよろしく、同じ質問を繰り返したくはない。
だが、五重構造の、DNA認証に脳紋照合まで加えた惑星間セキュリティパッケージで、はるばる水星まで送られてきた命綱が、額のプロジェクターからネズミのホログラフィを投影し、追いかけまわしている様を目のあたりにしては、心配にならずにはいられない。
「太陽系スポーツ倫理委員会規定の〈ライフセーバー〉が、これか?」
ホロマウスが足元を通り抜け、追って突っ込んでくるその捕食者にジェイクが、低重力パルクールの達人みたく飛びのく。
「軽いな、きみ。すこしくらい、脂肪つけといたほうがいい」
「こっちみてんのかよ……ここの食糧はどれも栄養満点、完璧な食いもんだぜ? ネコを送ってくんなら、肉くれよ」
皮肉に冗談半分で要求すると、エンジニアは手をとめて「ふむ。手配しよう」と真面目にうなずいた。
「……出発には間にあわんだろうが」
「あんたら……ひとのこと、動くポスターかなんかだとおもいやがって」
ネズミのホログラフィを吞みこみ、前足で顔をあらうライフセーバー。毛並みがやけに艶やかで、ジェイクはいつぞや見た黒豹をおもいだした。つられてうかんだ過去を、頭を振って消す。
「その多未来選択肢消去法的確率確定型他知性だが、SSSECの規定にきっちり、合致している。たとえば、委員会規程第十三条五項の『同乗の他知性はパイロットの生命維持をプライオリティミッションとして厳守し、必要と判断した場合、パイロットに代わり棄権する権限を持つ』とか、同八項の『ライフセーバーはパイロットに直接的な身体接触をしてはならず……』」
「ちょっとまてっ」マスクを抱えるジェイク。
「こいつはどうみてもネコだろがっ?! ネフのライフセーバーは人型だったぞ。それになんだ、そのた、他未来選択なんとか……」
「〈M.O.D.E.L.P.I.A.F.〉だ。われわれは〈モフミィ〉とよんでいる……いいかパイロット、一度しか言わん」
よく聞け、と目を合わせてきたエンジニアにジェイクがごくりと、唾を飲みこむ。
「〈モフミィ〉は、ある画期的な機能を搭載している。前世紀の太陽系内ワープ航法の発明が霞んでみえるほどのな。きみで実験に成功すれば、人類初の成果だ。その機能とは、未来かくざ……【通信終了】」
「んっ? オレどっか、おした……?」
エンジニアの姿が消える。
腕のコンソールを確かめるジェイクの内耳に、感情のない中性的な声がため息をついた。
「しゃべりすぎですよ、ファザー。通信は運営が監視しているというのに。最高機密をバラそうとするなんて……少しばかりアクセス権を拝借しました、リトルバード」
人間のモデルさながらにゆったり歩きながら、金の双眸が真下からジェイクを見上げる。ヒゲのある口元はいっさい動かないが、間違いなく声の主だ。
「おい……」
ジェイクの纏う雰囲気が一瞬で変わる。及び腰だったブーツが一歩、踏み出し、その先端が毛皮を掠める。
「ネコロイド」
腰を屈めていくジェイクを、つぶらな瞳が無邪気に見つめてくるが、外見に騙されるほど、ジェイクもウブではない。
「今度よんでみろ……イヌになりゃよかったって、おもわせてやるからな」
ヤンキー座りでドスを利かせたジェイクに、ネコロイドがまばたきを返す。
「ネコロイド、ですか。オオカミの親戚も皮肉がきいて悪くないですが、こちらがピンときますね」
金の両目が一瞬、碧くなる。と、水紋のように広がって、またゴールドに戻った。
「なんだいまの?!」
目を白黒させるジェイクに、それは追々、とはぐらかしてネコロイドが続けた。
「改めて名前をきいておきましょうか」
尾を逆立て、背伸びするナメきったネコ相手に、自己紹介はしたくない。
だが、そのネコが自分のライフセーバーとなれば、話は違ってくる。万が一のとき、託せる相手はライフセーバーしかいない。
「……ジェイク。ジェイク・オウカ」
しぶしぶ名乗った銀色の人を、黒猫は、なだらかな背をつくったまま「ジェイク・オウカ、貴方は100%死にます」と切り捨てた。
「……はっ?」
「貴方の生物学的死亡は、すでに 擱坐された未来です。あらゆる分岐点の末路に死が待ち受けているでしょう。それでも貴方は、生きたいですか?」
ライフセーバーの”死の宣告”に、金眼と黒眼が交差する。
先に逸らしたのは、顔をヘルメットマスクで覆ったほうだった。
「そうかよ」
自分をまたぎ、ドアに向かう後ろ姿を、ネコロイドはただ金色の目で追う。
「オレは……」ハッチに手をかけ、ジェイクが立ち止まる。
「のこのこ死ぬつもりはねぇ……あとのこたぁ、どうでもいい」
廊下を、天井ギリギリの巨大なヒューマノイドが横切っていく。ハッチの窓越しに見えた横を歩くEVAスーツは、身体の輪郭からして女性パイロットだ。安定しない電力供給のせいで基地の照明はチラつきがひどく、明暗のコントラストが絢爛な人型をジェイクの目に焼き付けた。
女性パイロットのスーツは燃える紅色で、背中の首から腰にかけてゴールドのラインが走り、しなやかな筋肉の動きにあわせ、鳳凰が羽根を広げている。
「では、決まりですね」
部屋のハッチがひとりでに開いた。
「うぇいっ?!」
つんのめったジェイクの足元を優雅にすり抜け、黒猫が一旦、右側へ消えてから、パイロットの目の前を左へ横切った。
「なんだ、あのにゃんころ。どこ行きやがった……?」
通路を見回しても、黒猫の姿はない。確かに部屋を出ていったはずだが、パイプとケーブルが蔦のように張りめぐらされた通路にはネズミ一匹いない。
「ったく……コントロール、勝手に使いやがって」
部屋に戻るジェイクの背後で、今度は、ハッチが勝手に閉じた。
「ガシャッ」
腕のコンソールが点滅し、基地の管理システムが警告を鳴らす。
【太陽フレア発生。冷却システムに障害。全〈バーンド〉は自室へ避難……】
バチッ、と静電気のような痛みが指先に走った。身体のなかから泡立つ感じは、これが初めてではない。
嫌というほど染みついた電磁波の前兆に自然と身体が動いた。
「やべ……っ!」
保護ポッドでもあるベッドへ飛びこみ、内側のシールド起動ボタンを叩く。
直後、灼熱と磁気嵐が部屋を包んだ。
Ⅲ.中継衛星〈マーズ〉
『〈シュー〉号より三度目の救難信号だっ! 規定にしたがい、棄権となりますっ。さらに、スポンサー契約によって〈バーンド〉の本名も公開しなければなりません。〈シュー〉号の〈バーンド〉は汚名と、文字通り、天文学的な額の違約金を背負いきれるのでしょうかっ?! それにしても、これはどうなっているでしょうか。さきほど”斬新”という言葉をつかっていましたが、パーカー?』
『AIの叛乱ではないことを強調しておきます』
『ほぅほぅ。ではライフセーバーが、賞金や副賞に目がくらんだわけでもないと?』
『貴方がた人といっしょにしないでほしいものですね……その賞金について視聴者のみなさんへ説明するのはどうですか、ジン?』
『わぁかりました、パーカー! さすが空気のよめるAI。尺の取り方もばっちりだ!』
『私に空気は不必要ですが』
『コホンッ……では、改めて〈SUN-X〉の賞金についてご説明いたしましょう!
賞金システムはいたってシンプル。大会の優勝者すなわち、太陽へもっとも近づいた者には〈ラー〉の称号があたえられ、太陽系イチの命知らずとして後世にまで語り継がれる英雄となるのでありますっ! 〈ラー〉の栄誉にくらべれば、賞金なんて……たったの六百六十六億 SDですよ?』
『わーお』
『パーカー、この額っていったいどのくらい?』
『リュウグウ型小惑星を三百二十五個、箱庭と宮殿を建てて地球産のオーガニックな食料品だけで一生、暮らしても余りあるくらい』
『だそうですよ、みなさん?』
『あと副賞、ジン』
『そうでしたっ! こちらのほうが貴重かもしれません。パーカー、発表していただけますか?』
『……地球の永住権です』
『ファンタスティックッ! そのとおり。今大会の副賞は、記念大会ということで、各スポンサーのご尽力により、なんとっ!……優勝者にはわれらがふるさと、地球の永住権が贈与されるのでありますっ』
『ジン、そろそろ最初の船が〈PSP〉を通過します。説明をしても?』
『もっちろん、パーカー。今大会で最大出力のエンジンを搭載した〈ネフティス〉号ですね。順調に〈PSP〉を通過しそうだぁ!』
『基準距離地点ともよばれる〈PSP〉ポイントは、〈SUN-X〉の真のスタート地点といえます。これより太陽へ接近するためには、太陽自身の厖大なエネルギーと、不定期に巻きあがるプロミネンスの脅威に耐えなければなりません。出場者は、レースの過酷さを思い知ることになるでしょう』
『ですが! 〈PSP〉ポイントを通過した〈バーンド〉には、結末にかかわらず、スポンサーより参加賞金が授与されますよ!』
『〈PSP〉を通過すれば、契約履行とみなされるので、違約金を支払わなくて済むことのほうが一番でしょうが』
『パーカー! 七世紀もまえの記録すら超えられないようなら、船から生活物資まで面倒をみてくれるスポンサーに失礼ではありませんかっ!』
『……』
『え〜、たったいま、太陽活動監視局より最新情報が入りました。ふむふむ、なるほどぉ~』
『ジン、自己満足しないでください』
『失礼しました。どうやら、お天道さまもこのレースを盛りあげてくれそうだっ! プロミネンスの大発生警報が発令されました!』
Ⅳ.カロリス〈バーンド〉基地 ~レース前~
「逃げんなっ!」
銀細工人形のようなEVAスーツが、弾頭の形をした船から飛び降り、黒い小さな影を追いかけている。すばしっこい影は、船の下や操縦席に飛びのり、追っ手を逃れていた。
レースが近づき、基地のピットにはパイロットの姿がちらほらある。
背中にフェニックスの模様があるパイロットも、ジェイクの横の区画で、翼のようなパーツを、巨人のライフセーバーに持ち上げさせていた。
「にゃ、にゃー」
「おまえぇ、またコンデンサのパーツ取ったろっ! 気づいてなきゃ、死んでたじゃねぇか! こういうときだけネコ被りすんなっ」
操縦席からピットへ逃げようとしたネコロイドを、やっとのことでジェイクの銀の手が捕らえる。ジタバタするネコの首根っこをつまみあげ、怒鳴りつける姿は、さながら人がいじめているようだ。
「動物ぎゃ、虐待反対……」
だが、黒猫は本物のネコではなかった。その証拠に言葉で抗議してくる。が、その言葉は、パイロットであるジェイクにしか聞こえない。
「何回めだ、おい。さっきはコンデンサ、こないだは部屋の電力パスをつなぎ換えやがって、ポッドが動かなくなったじゃねぇか。フレア来たらどうすんだ? きのうはブースターのキャップを外したろ……あ? カメラに映ってたぞ」
「ピットのカメラをクラックしたら、皆さんに迷惑がかかるので……」
「オレはいいのかよ?! おい、にゃんころっ」
ネコロイドです、と指摘する黒猫の首元をジェイクがさらにきつくつまむ。
「どっちでもいいっ。なんでいちいちオレを殺そうとすんだ? おまえが来た日からオレは災難ばっかだぞ。あんとき、部屋のハッチをロックしてくれたおかげで、ポッドから出たオレは死ぬとこだったんだからなっ!」
どこがライフセーバーだ、と吐き捨てたジェイクに、ネコロイドがぴくりと震える。
「おい……?」
もがくのをやめた黒猫をジェイクが揺らす。だらりと垂れた身体はまるで死体だ。
まばたきもしなくなった金色の眼が、突然、不気味に色を変える。
「わっ?!」
「ジェイク・オウカ……貴方が〈SUN-X〉へ出場する理由は、なんですか?」
壊れた人形よろしく頭部をギギィ、とジェイクに向け、碧に光る眼でパイロットを見透かす。
「き、聞いてどうする?」目を泳がすジェイク。そんなことを尋ねられるのは初めてだった。
「こたえないと、だれか貴方の船に爆薬を仕掛けるかもしれません」
「おまえしかいねぇよ」
フェイスマスク越しに黒眼が、ジトっと睨みつける。ネコが目を逸らす。
「まあ、どのみち、最期はおまえ頼みだしな」
ため息をつき、ジェイクが手を離した。
にゃー、と叫びながら落下した黒猫は、本物のネコばりの宙返りを決め、船のタラップへ着地。腰を下ろしたジェイクの横にちょこんと座った。相変わらず金色の目が爛々と輝き、尾がプロミネンスのように揺れている。
「オレの親父は知ってるな?」尋ねるジェイクにすかさず、「五百八十七回〈SUN-X〉優勝者、ジェイド・ゴーレンリウス。第五十三代の〈アテン・ラー〉にしてその記録はいまだ破られていない。生還後の超享楽的な生活から”ラムセス”の異名で呼ばれ、火星移住後に四十九歳で死亡するまで、公式には五十六人の嫡子がいます」と中性的な声はスラスラ答えた。
「と、十三人だ」
「はい?」ネコロイドが首をかしげる。
「非嫡子だよ。やつが晩年にこしらえた無責任の結果だ……オレをふくめてな」
「記録にないわけです。相続の手続きはおこなわれなかったのですか?」
ふんっ、と鼻をならすジェイク。膝に置いた手に力が入る。
「目も見えない、歩くのもやっと、そのままおっ死んだロクでなしだぜ? おふくろになに遺したとおもう?」とジェイク。ネコロイドは「にゃー」とだけ鳴いた。
「トロフィーだよ、鳥のやつ」
〈SUN-X〉で記録を更新した者には、鳳凰をモチーフにした記念品が贈られる。貴重品だが、換金できないために市場価値はない。
「そちらが本物のリトルバードですね」
「おまえなっ!」
ジェイクの手をするりと躱し、船から飛び降りるライフセーバー。追っ手を振り返るが、ジェイクはまたタラップへ腰を下ろした。
「……まあ、おふくろが優しかったってのも、あるみてぇだがな」
ジェイクの母・サツキは、看護師をしていたときにジェイドと出会い、その余命が幾ばくもないと知って、膨大な手続きが要る相続を迫らなかった。ジェイクが生まれる前に〈アテン・ラー〉は死に、シングルマザーとしてサツキはジェイクを育てた。
「貧しかったが、オレは苦に感じなかった。スカベンジャーってのも悪くないぜ? 火星には太陽系中のガラクタがあつまるからな。ガキのうちから宇宙船やらヒューマノイドやら、おもちゃにしてたおかげで、こいつを飛ばせる」
ジェイクが船体を叩く。ダンッ、とエネルギーシールドにEVAスーツが干渉し、手を弾く。
「いてっ」
ブラブラさせた指先は、少しぶつけただけにもかかわらず、ナノファイバーの繊維に血が染みている。
「チッ……ったく早えぇよ」
黒猫の目が赤十字に変わり、バイタルセンサがスキャンを開始する。
ガイガーカウンタによれば、すでにパイロットの累計被爆線量は三千ミリシーベルトを超えていた。造血機能は基準値を大幅に下回り、免疫系は停止に近い。
「オレが家を出たとき、おふくろの病気はだいぶ進んでたらしい。こっちに着いてしったけどな」
腕のコンソールに、止血作用の強化をインプットしながらジェイクが続ける。
「言ってくれてりゃ、ともおもうんだが、どのみちカネはいるし、サインしたから終わるまで帰れねぇ……おふくろ、『故郷にいきたい』って言ってたしな」
「地球ですか?」と尋ねるネコロイドに、ジェイクがスーツの襟元を開ける。地肌は荒れ、内出血の青アザが覗いていた。
「これがなにか、知ってるか?」
ジェイクが引っ張りだしたのは、小さなペンダントだった。
革紐に通された親指大の荒削りの石は、うすいピンクと乳白色が混ざっている。
「組成解析中……マンガン鉱、ですね。ウエクニイシ?」
「あ? ジョウコクセキだよ。おまえ、わざとだろ? なんで訓読みなんだよ」
白い目でジェイクに見られ、ネコロイドは「なんとなく……」と言いかけるが、首をつかまれそうになって「母上は北海道の出身ですか?」と早口で言い直した。
オレが生まれたのは火星だがな、とうなずいてジェイクがペンダントをスーツのなかへ戻す。痛みで息を止めたのがライフセーバーにもわかった。
「ガシャッ、ガシャッ」
重い足音にジェイクが顔をあげた。
五メートルほど離れたところに、ネコロイドが送られてきた日に見た、巨人型ヒューマノイドが突っ立っていた。
「ハ~イ! 〈セト〉」
ヒューマノイドの横から、紅のEVAスーツがこちらへ歩いてくる。あの日は背中しか見ていなかったが、身体の前面にも、神話の鳥が羽根を広げている。
共通仕様のフェイスマスクを外し、素顔を晒したネフティスに、ジェイクは呆れた声で顎をしゃくった。
「ここは与圧されちゃいるが、呼吸するには向いてねぇぞ」
「あいかわらず、やさしいのね。でも、あたしたちって、健康に気をつかうタイプじゃない。でしょ?」
小首をかしげるネフティスの頭には髪が一本もない。ジェイクよりも幼く見える浅黒い肌には、ジェイクと同じ青アザが浸食している。青みがかったその目からは、考えていることが読み取れない。
「まあな。で……」立ち上がるジェイクを、ネコロイドが「肺に負担が」と引き留める。
「すーっ」
瞬時にマスクが格納され、ジェイクが深呼吸する。
硫黄とオイルと、雑多な推進剤のにおいが鼻をつく。火星のにおいと似ているが、ここには熱せられ、気化していく人と物のにおいが圧倒的だ。
「なんの用だ?」
「もうすぐスタートじゃない? 人と触れ合えるのは、いまのうちだけだから……」
息のかかる距離まで近づいてくるネフティス。
黒猫が「シャーッ!」と威嚇の声をスピーカーから流し、ネフティスにふれるかどうかのところで、前足がネコパンチを繰り返す。
「あなたのニャンコちゃんに、ネズミでも捕ってきて、って言ってくれるかしら? あたしのセシリアも手伝うから」
ジェイクの肩に顎を載せ、ネフティスが耳元でささやく。水星には無い甘ったるい香りが鼻をくすぐった。
「待て」
ネフティスの手が揺らめく炎のようにジェイクの胸へ伸びる。骨張った腕をつかみ、ジェイクが睨みつけた。
アーカイブでしか見たことのない地球の海の色をした瞳が、挑発的に見返す。
「水星にネズミはいません! トラップです! ハニートラップ!」
狂ったようにシャドウパンチを繰り返すネコロイドの脇腹を、ジェイクがつま先で突く。
「ネコロイド」
飛び上がった黒猫に、ジェイクは目もあわせず「ひとりにしてくれ」と一言だけ命じた。
「……わかりました」
尾を垂らして歩いて行く黒猫。その後ろから、ガシャッガシャッの足音がついてくる。
振り返ると、ヒューマノイドの脚のあいだから、身体を寄せあう二人が見えた。
部屋のハッチが開くなり、シルバーのEVAスーツが倒れこんだ。腹ばいになっていたネコが跳びあがって駆け寄る。
「リトルバード!? どうしました?」
メタル色のスーツには、あちこち血が滲んでいる。おまけになぜか胸がはだけている。フェイスマスクはヒビが入り、空気の漏れる音が止まらない。腕のコンソールをおぼつかない手で突くのを見たネコロイドが、パイロットのコントロールに割りこんだ。
「はぁっ……」マスクが取れ、激しく咳きこむジェイク。
人間なら背を叩いてやれるが、あいにく、ネコには無理な相談だった。代わりに、スーツの自己修復機能に自分のエネルギーを回して急かした。
「くそっ、取っていきやがった。なんでだ」
「ネフティス、ですね。理由などないのですよ。オスもメスも、皆そういうものです」
ライフセーバーとして、スーツに凝血剤やら鎮痛剤の投与を指示していく。
「聞いてたのか?」
怒りと恥ずかしさが混じったような声で尋ねるジェイクに、ネコロイドがスーツ内のマイクロ針を一斉に突き立てた。
「いてぇっ!!」
「聞くまでもありません。ネフティスを見たときから、貴方のテストステロン値はうなぎ登りでしたし、諸々、”ビンビン”でしたので」
みるみる、ジェイクの顔が赤くなっていく。
その周りを闊歩しながら、全身の隅々までチェックしたネコロイドが赤ら顔の横に腰を下ろした。
「リザインしましょう、ジェイク」珍しく名前でよぶ黒猫の声は、いつも以上に感情がない。
肩を上下させ、ジェイクが黒猫のほうを向く。赤くなった白目は、細胞の修復力が弱まってきている証拠だ。
「言ったろ? 逃げるつもりはねぇ。オレは、オレたちを置いて逝ったあの野郎を……」
「にゃーっ!」
凄まじい速度の影がジェイクの鼻面をヒットする。
「うおっ?!」
跳ね起きて鼻をさするが、血はおろか、痛みもない。
黒猫が身をかがめ、背中の毛を逆立てた。
「貴方の身体は、すでに瀕死です。レースに出られる状態ではありません。太陽嵐を浴びたら、ひとたまりもない」
「……オレを心配してくれるのか?」
荒れた頬をカリカリ掻くジェイク。その言葉は、皮肉よりも戸惑っているようだった。
「当たり前です。ワタシは貴方のライフセーバーですから」
誇らしげに背を伸ばす黒猫。
ライフセーバーってのはクレイジーなやつばっかだ、とジェイクが鼻をすする。
「確かに、規格外の最新AIを実験するのが、〈SUN-X〉の隠された目的ではあります」
「ずいぶん正直だな」にやけるパイロットへ、ネコロイドは「ワタシもそうですから」と床に伏せた。
「ワタシは、〈未来擱座型AI〉の試作機です。面倒なのでざっくり説明すると……未来を予測し、前もって行動することで、ワタシはその未来ではない結果を省いていく。砂を採取するために磁石で砂鉄を取り除く、ようなものでしょうか」
「逆にわかんね……で、それがオレを殺すことになんの関係がある?」
「殺そうとしたことはありません! ワタシはただ……ただ、その……」
言葉を探すように足をフミフミするネコロイド。
手を伸ばすパイロットにネコロイドがまぶたを閉じた。
「ならいい」
銀メッシュの指がネコの頭をトントンと叩いた。無邪気に笑ったジェイクは、「”身体接触”じゃねぇからな」とおどけてみせる。
「リトルバード……」
ぽかんと見上げるネコロイドへ、「こっからが本番、だぜ?」と、ジェイクが寝台の手すりにつかまった。
よろめきながら立ったジェイクがコンソールを叩くと、マスクが一瞬で顔を覆った。
「いざってときにゃ、たのんだぜ、ネコロイド」
「お断りします……自分でつたえてください」速攻で断る黒猫も四本脚で立った。
「おいおい」
そのとき、部屋の照明がケバケバしいグリーンに変わった。
基地のシステムが通信機とスピーカーから指示を告げた。
【レース開始時刻決定。各〈バーンド〉は出走の用意を。詳細は追って通告する】
「いよいよってときに……」
胸へやったパイロットの手が空を切る。悔しそうな声は、黒猫の耳にも届いていた。
ハッチへ向かうおぼつかない足取りに刹那、金の両目が碧くなり、照明に溶けこんだ。
「おいっ、ネコロイド?」
黒い影がジェイクの足元を左に抜け、右の通路へと駆けていく。
「さきに乗船しててください!」
それだけいうと、ライフセーバーのほうから通信を切った。
本能的な嫌悪感をもよおす色で点滅する基地の、血管のような通路。
「……もどってこいよ」
飲みこまれ消えていく小さい影にジェイクの声は届かない。
デッキに着いたとき、ジェイクは自分の船があることにまずはホッとした。
乗船したとたん、大爆発する光景を頭から追い払いながら、ジェイクが足を引きずってスポンサーであるMFDのロゴがデカデカと浮かんだ船へ向かう。
輸送機ほどもある銃弾のような形の自船の目の前まできて、ジェイクの足が激痛を発した。バランスを崩し、倒れこむ。
「あとちょっと……ってのにっ!」
スーツのおかげで打ち身はないが、足の痛みはそれ以上だった。
「オレも……バカだな」
仰向けに転がり、浅い呼吸を繰り返す。心臓があるあたりをまさぐるが、落ち着かせてくれる硬い感触はない。
目をつぶったジェイクの耳に、爪とぎのようなノイズが木霊した。
「……」
ついに聴覚までやられたか、と無視しかけたジェイクだが、ノイズはだんだん、はっきりとした言葉に変わった。
「ジェイク! 船へっ!」
上半身を起こしたジェイクの目が、通路をこちらへ駆けてくるぎこちない走りの小さい影を捉えた。マスクでズームすると、影はネコロイドで、口に紐をくわえている。紐からぶらさがったサクラ色が激しく揺れていた。
ネコロイドのすぐ後ろから、フェニックスのスーツが追いかけている。〈ネフティス〉のヘルメットにはヒビが入り、片腕がだらりとしている。人間とはおもえない声で、全周波数帯域へ「まてぇええ! にゃんごろぉおお!」と叫んでいた。
「怒ってんな〜……おぅ、おいっ?!」
一匹と一人の後方から、巨人のライフセーバーが通路の壁をぶち破り、ミノタウロスさながら突進してくる。
四つ目を光らせて咆える巨体は、立ち止まりそうにない。
「離陸の準備をっ」
「いまやってるってっ!」
船のタラップを片足で昇り、コックピットに覆いかぶさる形で起動シークエンスを叩きこむ。
甲高いエンジン音が船をつつみ、揺られたジェイクがバランスを崩した。
「まてまてっ! オートパイロットじゃねぇ……」
逆の足首をくじいた痛みに歯を食いしばりながら、床に転がった状態で、ジェイクが今度は腕のコンソールを叩く。タラップが収納され始め、船体が高度を上げていた。その向こうからは巨人の足音が近づいてくる。
「ネコロイドぉっ! とべっ!」
止まったタラップまで這い、ジェイクが船外に迫り出した階段から腕を伸ばした。
〈ネフティス〉を追い越した巨人の拳が迫る。重心を低くして躱すと、黒猫が跳んだ。
「ふぅ……なんです、その顔?」
タラップに着地し、澄ました顔のネコロイド。伸ばしたジェイクの腕が宙を掻く。
「……いやなんでもね。それより、おまえのその脚」
ネコロイドの右脚は千切れ、火花が散っていた。舐めようとした黒猫が、ぶるっと頭をふる。
「問題ありません。はやく操縦席へ、リトルバード。怒れる乙女が貴方を木っ端微塵にするまえに」
ジェイクがタラップから見下ろすと、フライトデッキでは赤い人型が狂ったように飛び跳ねていた。船を指差し、巨人へなにやら喚いているが、もうライフセーバーの手は届かない。
「おっかねぇ」
罵詈雑言をまき散らす広域受信を切り、ジェイクが腕のコンソールにふれる。格納が再開されたタラップに身体を任せ、船内へ滑っていく。
その胸に飛び乗り、ネコロイドがくわえていた親指大の石をボトッと、落とした。
「もう男女間のいざこざに巻きこまれるのは御免です」と言い残すと、ジェイクから降りて助手席に跳び乗った。
「……おふくろみてぇだな」
ペンダントを首につけ、サクラ色の石をスーツのなかに戻す。心臓を押しつける感じが、「しっかりしなっ」と叩かれているようだった。
「出発だ、にゃんころ」
よろめきながらジェイクが立ち上がる。
「ワタシはネコロイドです」
Ⅴ.星間宇宙 および〈マーズ〉
『今回のプロミネンス大発生は長期になりそうだっ。警報は全〈バーンド〉へ伝えられているっ! 戦略に影響をおよぼすのはまちがいないっ。ここが分水嶺であります!
現在の先頭は〈セト〉号! 〈ネフティス〉号が猛追しているっ! そしてっ、半数の〈バーンド〉がスイングバイコースを取っているっ。長期戦の様相を呈しそうでありますっ!
とぉ~、ここで二番手の〈ネフティス〉号が出力最大っ! 〈セト〉号を追ってプロミネンス直撃コースだっ』
『〈SUN-X〉の規定では、プロミネンスも太陽とみなすため、深度次第では戦略となりえます』
『それでもプロミネンスの温度は数万度もあるっ! そこへ突っ込むのは、相当な”デッダー”でありましょう!』
「ビッ……〈ネフティス〉が後方より接近。相対距離二千」
ディスプレイの端、ワイプ映像でネコロイドが報告する。
加速を続ける船は水星の重力を脱し、プロミネンスを回避するように航路を進んでいる。簡易重力発生装置のおかげで身体が浮きあがることもない。
「おまえ、いまビッチって言いかけたろ……げほっ……」
「だ、黙って体力を温存してください、リトル、る、バード」
やり返すネコロイドの声もぎこちない。ネフティスとやり合ったときのダメージのせいだ。
「どうやったのか知らねぇが、よく取り返してくれたぜ」
サンキューな、と毛が抜けているライフセーバーへ親指を立ててみせる。
「擱坐を幇助するようなフラグは立てないでください」
「……フラグってなんだ?」
「気にしなくていいです。まだ〈PSP〉も通過していませんよ。通過したって貴方のスポンサー契約じゃ、優勝する以外、負債地獄です」
「参加賞に用はねぇから。一文無しのガキにゃ、レースに出られるだけでも御の字ってやつよ……クソ親父の威を借りたのはシャクだがな」
遺産が残っていなくても、〈ラー〉の子と認定されば出場権が優先される。ジェイクの申し出は、大会側としても願ったり叶ったりだった。
【警告。高速物体が異常接近】
突然、アラートが船内に響く。
ジェイクが船外の映像を見ると、主翼のある紅い機体が後方に迫っていた。羽ばたくたび、鱗粉のような粒子が散る。
宇宙空間に翼は邪魔でしかないが、翼そのものがエンジンとなれば別だ。
ジェイクの「あれじゃ、蝶だろ」というつぶやきが聞こえたかのように、真っ直ぐ、こちらへ向かってくる。
「にゃんこっ、ネフのやつ、カンカンじゃねぇかっ?!」
「不覚でした。ワタシが息の根を止めていれば」
うなだれる黒猫へ、そうじゃねぇだろ、と突っ込みながらジェイクが舵を切る。
蝶の脇の下へ、もぐった船に、粒子エンジンの”ダスト”が降りかかった。鈍い衝撃コックピットを揺らす。
「シールド出力低下……ったく、どんだけハイパワーなんだよ」
減速をしないまま、ジェイクが船をローリングさせ、距離を取る。追い越していく機体の頭部で、中指を立てる〈ネフティス〉が見えた気がした。
「リトルバード、この船では追いつけませんよ。出力が圧倒的に違います」
「わぁってるって! いま考えてる。あいつ、どこ向かってんだ……?」
プロミネンスに進路を取っているようですね、と分析するネコロイド。
その言葉に、ジェイクのボウっとしそうな頭が閃いた。
「そうかっ! オレたちも……」
刹那、映像がフラッシュする。
ディスプレイには白い残光しか映らない。
「おい、ネフの船は……?」
カメラが再び、漆黒と火球を映した。
だがそこに、鳳凰の姿はない。
『信じられないっ! 〈ネフティス〉号がバーンド! 暫定〈ラー〉になにが起こったのかっ?!』
『直前の航行ログが入ってきました。パイロットのアドレナリン値が高いことを除いて、バイタルに問題はありません。ただ、粒子エンジンがバーンド直前に異常値を出していました』
『つまりこれは、マシントラブルによる事故ということですか、パーカー?』
『ログの詳細な検証は本部でおこなわれますが……機体の爆発には相違ありません。パイロットのバイタルは消失。マーズの遠距離生体スキャンにも応答なし。残念ながら、パイロットの生存率はゼロです』
『ありがとう、パーカー。今大会の優勝候補が最初に爆散する波乱の展開となりましたぁ。お悔やみ申し上げます。
ですがっ! 〈ネフティス〉号の暫定トップには変わりません! 自慢の超高出力粒子エンジンによる加速で〈セト〉号を颯爽と抜き去って稼いだ距離は大きい! このまま、他の〈バーンド〉が爆散……コホンッ、プロミネンスにビビって近づけなければ、〈ネフティス〉が今大会の〈ラー〉となりますっ!』
『そういえば、ワープ中の〈ゲブ〉号がそろそろ出現するころですね』
「そん、なっ……」
ディスプレイの宇宙空間では、徐々に大きさを増す太陽から、触手のような紅炎が伸びている。
わずかに残った鱗粉も、触手に掠めとられてほどなく消えていった。
「リトルバード! し、しっかりしてください。このレースに参加したときから皆、死は覚悟しています。貴方だって……」
【警告。静止物体へ接近中】
新たなアラートに黒猫がハッと顔をあげた。
船外のカメラを確かめた隻眼に、船首の方向、ズームせずともわかる近距離に光を曲げる空間が映る。
レース宙域にあるはずのない、突如あらわれた静止物体。
「ジェイク! 回避を……」
席を飛び降り、茫然とするパイロットへ、ネコが駆ける。
跳ねた肉球は凄まじい衝撃に、壁へ叩きつけられた。
『空間の歪みをモニターが捉えましたぁ!……おっと?! そこは〈セト〉号の進路だ……クラァ~ッシュ!!! ワープから出た〈ゲブ〉号と〈セト〉号が衝突!』
『減速なしの正面衝突ですね。エネルギーシールドがなければ、両者ともデブリと化していたでしょう』
『でも待ってっ、パーカー? 〈ゲブ〉号はワープ直後の冷却期間で、いわばフリーズしていたのですよね?』
『ええ。ワープエンジンは、出現後に一定のクール期間が必要です。このあいだは動けません』
『だとするとですよ? 動けない〈ゲブ〉号に、〈セト〉が激突……ってこれは反則ではありませんか?!』
『ログを解析します。本部とも協議しますので、ここはお願いします、ジン』
『わぁっかりました。故意の衝突となれば、〈セト〉号は即失格のうえ、両陣営の損害を背負うことになるぅっ!』
シュッ、シュッ、と風を切る音が照明のチラつく船内に響く。
ショートし、ブロックノイズが混じるフライトコンソールには、エラーがびっしり並んで、パイロットの処理を待っている。
「こ、このっ、り、リトルバード! 小鳥!」
宇宙レース船二隻の衝突は、奇跡的に爆発をまぬがれていた。船外活動用スーツのおかげでパイロットもまだ、死んではいない。気をうしない、背もたれに頭をあずけている。
「ヒヨッコっ! はやく船のシールドを……!」
パイロットのヘルメットに覆いかぶさって、パンチを繰り返すライフセーバーのほうが重傷だった。尾が直角に曲がり、ほとんどの毛が削げ落ちている。
金、ドクロ、赤十字、とめまぐるしく変わる片眼をわずらわしそうにまばたきながらネコロイドが叩いていると、「う~ん」と間の抜けた声が漏れる。
「リトルバードッ!……寝言は死んでからい、言ってください」
渾身の左ストレートを浴び、マスクにピキッと亀裂が入る。
毛のないネコが顔にしがみついていることに、ようやく気づいたジェイクは、驚いて「うおっ?!」と跳ね起きた。優雅な着地を決めようとした元黒猫は、したたかに腹を打ってうなっている。
「ど、どした、おまえネコロイドか? てか、だいじょうぶか」と半ば怯えながらも、ジェイクの手はコンソールをひとつひとつ、チェックしていく。
「見なかったことにしてください。ストレスによる脱毛です……そんなことより、シールドジェネレーターが一基だけになりました。エンジンからバイパスすればまだ動作は……」
「いや、このままいく」
コンソールの点検を終え、パイロットがアクセルレバーに手をかける。光が点滅を繰り返すコックピットでは、その顔はよく見えない。
淡々とつぶやいたジェイクに、頭でもぶつけたのではないかと、しかめっ面を向けるライフセーバー。
「そんな目で見んなって。イカれちゃいねぇよ。いまのとこはな……野郎のやり方を借りるだけだ」
『ジン、協議の結果が出ました』
『パーカー! 早かったですね!』
『〈SUN-X〉運営本部は、先ほどの衝突を「事故」と判定しました。ワープエンジンの設計上、座標の盗聴は不可能。かつ怪しい通信もなかったことが理由です』
『なぁ~るほどぉ。レース続行であります! ちょうど〈ゲブ〉号が白旗通信してきたとこでしたよ。これで〈セト〉号まで失格なら、スイングバイ組の到着を待たないといけないところでした』
『ジン、その二位の〈セト〉号が船首をプロミネンスへ向けましたよ?』
『あ、ホント。……おや、シールドをオフにしたぞっ。再起動ではないようだが?』
『ほとんどの推進剤をメインエンジンに回しているようです。これは、まるで……ジンっ!』
『ええ、ええ、あなたの興奮はよ~くわかりますよ、パーカー。こう言いたいんでしょう?
これは、〈ゴーレンリウスコース〉だぁ!』
「くっ……!」
船が大きく揺れ、コンソールのアラートがまた一つ増える。無視する選択をするたび、次のアラートまでが早くなる。
アクセルレバーにしがみつきながら、パイロットは、選択を後悔し始めていた。
「こ、この方向でいいんですか?」
「どうかな……ちぃ~とばかしプロミネンスに突っこんだはいいが、野郎がどこまでいったか、こっちにゃわかんねぇだった」
〈SUN-X〉出場者はレース開始後、正確な現在地を知ることができない。
チキンレースを盛り上げるための規定だが、それは、過去の勝者がどれほど太陽へ近付けたのかまで、知る術がないことを意味している。
〈ネフティス〉の航路から、思いつきで〈ゴーレンリウスコース〉へ舵を取ったジェイクだが、かつて同じようにプロミネンスへ突っ込んだ父親が、どこまで深く潜ったのか、指標をなにひとつ、覚えていない。
へへっ、と鼻をならすパイロットの顔からは、汗が止めどなくあふれる。スーツに染みを作っているのは、無謀すぎる作戦への冷や汗だけではない。単に船内の温度が上がっているからでもある。
「船内温度、華氏百五度超過。リトルバード! これじゃ、焼かれるまえに干あがりますよ」
「んなこたぁ、わかってるってっ! にゃんころ、オレたちはどの辺にいるッ?」
ジェイクの指示に、体毛のほとんどなくなったネコロイドが押し黙る。呼び方を訂正する余裕もないらしい。
「野郎、これで戻ったのかよ……?」
第五百八十七回の優勝者、ゴーレンリウスは、プロミネンスを逆手に取ってレースを制し、さらには〈PSP〉まで自力で帰還したところを救助艇に拾われた。
以来、真似する者はあとを絶たないが、生還した者はいない。
そしていつしか、〈ゴーレンリウスコース〉は太陽系で一番有名な伝説となった。
ジェイクも、父の伝説を信用したわけではない。
ただ、自分という存在がいる以上、ゴーレンリウスが生還したことだけは確かだ。父親をもっと知っておくべきだったと、今さらにジェイクは奥歯を噛みしめる。
ジェイク、とライフセーバーの落ち着いた声が意識を現実へ引き戻した。
「おおまかな現在地ならわかりました」
尋ねるまでもなく、マスクのディスプレイに、メルヘンチックな絵がポップアップした。
笑顔の太陽にもっとも近いのが、やたら色っぽいウインクする蝶で、その少し後ろを「二位」の看板を掲げたヒヨコが追いかけている。
「まだ〈ネフティス〉の記録とは距離があります。で、ですが、引き返すならこれ以上のダメージは危険ですっ」
ネコロイドの忠告に、ジェイクは黙ったままだ。船の軋む耳障りな音がいっとき、コックピットを包む。
ジェイクがスーツのフードに手をかける。
「ふー」
マスクを脱いだ顔は、青アザにまみれ、鼻と口、皮膚の至る所から血が流れている。
「にゃんころ……おまえの出番だ……オレの声を録っておふくろに送ってくれ」
「ではサレンダーしますか」
乾いた笑いでジェイクが首を横に振る。
「なんど言わせんだ? オレはぜってぇ降参しねぇ……ただよ、しゃべれんのは……いまだけだとおもうんだ。だろ、にゃんこドクター?」
ジェイクのバイタルは、すでに滅茶苦茶だった。どの医療SIでも、今のジェイクを診れば「限りなく生物学的に死亡」していると言うだろう。まばたきを堪える黒眼だけが、その診断に抗議している。
ライフセーバーなら、とうに止めていなければならならなかった。生還の可能性が低いならば、太陽系のいかなる場所へもメッセージを送ることが許された同乗者として、遺言を託されてやるべきなのかもしれない。
「自分で……言うのです」
だが、ジェイクのライフセーバーはそうは考えない。
パイロットの生命を守る使命を帯びた黒猫は、パイロットを生物学的に生かせないならば、生命の解釈を変えるほうを選択する。
「いてっ! にゃんころ、なにしやがるっ!?」
パイロットへ飛びかかり、腕、肩、顔の凹凸を借りながら頭頂部を目指す。
暴れるジェイクが引きはがそうとするが、それほどの力は残っていない。機械は人間よりもタフだ。
登頂し、ゴールドの隻眼がエメラルドグリーンの水紋を広げた。
「痛いでしょうが……」
そして、髪のほとんど残っていないブヨブヨになった頭皮めがけ、ネコロイドがすべての爪を突き立てた。
「……ッ!」
「ガマンしてくださいっ。脳のスキャンは繊細な作業なんです」
船内が身体接触のアラートで埋め尽くされるなか、ネコロイドが鼻息を荒げた。
「やはり! ここまで来れば、磁場が乱れて通信は不安定、衛星の監視も緩むというもの。あとは、生体活動シグナルをループして送っておきましょう」
「お……おまえ……なにを……」
「火星との通信ルート構築。母上はどちらでしたっけ? いや、言わなくていいですよ。まえに教えてもらいましたから」
饒舌なネコロイドがパイロットの頭にしがみついて話し続ける。
そのなか、船が激しく揺れた。
「おっと、どこかパーツでも取れましたかね。た、太陽にだ、だいぶ近づいてきましたよ……スキャン完了!」
電極でもある爪を引き抜き、血が流れ出す傷をざらついた舌が舐める。舐めたところから傷がカサブタになっていった。
「応急、処置です」
力を使い果たし、スイッチが切れたように顔をつたって膝へ、ずり落ちてくる。ジェイクがおそるおそる突くと、聞きなれた声が耳の通信機から返った。
「体力温存です。い、意識のさ、再構成中……ジェイク、これから貴方の意識をか、火星へ送ります」
「どういう……ことだ?」
「貴方と会った日、わ、ワタシは、貴方が必ず死ぬと言いました。ですが、ワタシには貴方の命を守る使命がある……ワタシは生命を、貴方の意識だと解釈しました」
頭を擦り、ジェイクが背を起こす。ざっとコンソールに目を通すが、もう手に負える状態ではなかった。
プロミネンスの真っ只中にいる船は、太陽の重力に引っぱられ、ひたすら厖大なエネルギーの放出源へと落ちていく。
手を施したところで、バラバラになるか、燃え尽きるほうが早いかの違いしかない。
「最初から、そのつもりだったのか?」
シートに頭をあずけ、ジェイクが船の揺れに身体を任せる。
「送信を開始。持ちこたえてくださいよ……少なくとも、ワタシを作ったエンジニアは指示していません」
ギィギィ、と金属の剥がれる音が船内を満たした。外層が融解しだしたのだろう。船の限界もそこまで来ている。
独断か、と鼻で笑ったジェイクをネコロイドが諭すように続けた。
「いいですか、ジェイク……いまや太陽系は、きょ、狂気と悪意が満ちている。しかし、改善しようとする者も少なくあ、ありません。希望を捨ててはいけない、ジェイク。恒星に身を投げる少年少女をひとりでも減らそうと、名もない者たちが努力しているのです」
「おまえか」動かないネコロイドの身体を、ジェイクが自分のほうに向けた。
「お父上でしょう。ジェイド・ゴーレンリウスが娯楽に浪費した以上の額を、ライフセーバーの研究開発に注ぎこんでいたことはほとんど知られていない。彼にくらべれば、ワタシは貴方に、『殺されるかもしれない』緊張感をもたせ、死の擱坐をさけようとしただけです」
「……野郎がそんなことを?」
ネコロイドの言葉にジェイクの目が揺れた。黒眼に相反する想いが交錯する。
そんなパイロットをチラリと見たネコロイドは、「本人はけっして認めたがらなかったようですが」と付け加えたうえで、帰ったら調べるといいですよ、とさらっと言ってみせた。
「どっちみちオレは……失格じゃねぇのか?」
「いえ」ネコロイドが即座に否定する。
「貴方は船が燃え尽きる直前まで、生きていることにします。奇跡が起きれば、新しい〈アテン・ラー〉の誕生ですよ」
「チートじゃねぇか……ごほっ……」
「リトルバード、このレース自体、正気の沙汰じゃあない。太陽へ突っこむなんて、AIからみても狂ってる」
パイロットの咳が止まらない。船内の空気が熱され、肺がガス交換をまともにおこなえない。
「証拠は残りませんし」
どうすることもできないライフセーバーはただ、声が届いていると信じ、語り続けた。
「た、太陽系に貴方が二人存在するのは、一瞬のことです。貴方の意識が元〈バーンド〉だと言いふらさないかぎり、なにもかもうまくいく。もっとも、ワタシのタネ明かしをあっちの貴方は、おぼえていませんが」
船内の照明が消え、同時に、最後の装甲が剥離したアラートがコンソールに浮かぶ。
それを最後に、すべての操縦システムがダウンする。
「送信完了。ギリギリでした。あとは向こうに着くのを待つだけです。さて、残り十秒くらいですが、なにか……」
ライフセーバーの言葉は続かない。
パイロットの水晶体は濁り、EVAスーツが熱で燃え始め、かろうじて心臓だけが動いている。
「オレは、な……ネコが……嫌い、なんだ」
最後の空気を喉が言葉にし、役割を果たした身体が眠りにつく。
脳が完全に息絶えるまでの数秒、ネコロイドは「知っていましたよ。でも好きになったでしょ」と内耳にささやいた。
どこまでも上から目線の言い草に、傷だらけの口角が微かに上がる。
残ったわずかなパワーで、ネコロイドが首を動かし、パイロットの顔を見上げた。
「ジェイク・”ゴーレンリウス”・オウカ……貴方の未来は、擱座しました」
ゆっくりとネコがまぶたを閉じていく。
新たな英雄の骸と共に、生命の源たるエネルギーがすべてを包みこむ。
エピローグ.火星アマゾニス平原 医療コロニー〈M.E.D.I.C.〉
「『……〈セト〉号が大きく距離を伸ばし、これまでの記録を大幅に塗り替えましたぁ! 新たな〈アテン・ラー〉の誕生だぁっ!』」
木目調のアンティークなラジオがずっと、何億キロも離れた”命知らず”のレースの実況を流している。
窓辺の遮紫外線のガラスからは、かつて地球の遊牧民が使っていたようなパオがぽつぽつと並ぶ赤茶けた大地と、薄い大気に、地球よりいくらか弱い太陽が光と熱を送っている。
固く目をつぶり、ベッドの白髪の女性は、有線の色あせたイヤホンでラジオを聞いていた。実況がうるさく、大部屋なので他の人へ迷惑はかけたくなかった。
「『ジン。バイタルは弱いですが、まだ息があります。救助艇の用意をします』」
ラジオが発する声を一言一句、聞き漏らさまいと、シワと手荒れにまみれた手が祈りを捧げる。
その目が大きく見ひらいた。
「『わかりま……あ~っと!? 船が爆散!』」
「そんなっ……」
黒い瞳から涙が止めどなくあふれ出してく。
「『たったいま、〈セト〉号の船が融解しましたっ! 繰り返します……』」
実況の声が遠ざかり、静寂の平原に巻きあがる砂の音に混じっていく。
「ジェイク……」
彼を留められなかった後悔に、女性は出さまいと噛みしめた唇から微かな声が漏れた。
「ブチッ……ジージジィ……」
ふいに中継が途切れ、ノイズが走った。
イヤホンにふれた女性の手がピタリと止まる。
「……ここどこだ? なんも見えねぇぞ。にゃんころの仕業か?」
「ジェイクっ!!!」
窓辺のほの白く、サクラ色をした横顔を、太陽系の主はただ、柔らかく照らしていた。
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