梗 概
神さびた黴
始めに葦黴ありき。
人の意思とは関わりなく萌え出る生命の氾濫を前に、ただ人々は祈ることしか出来ない。
京には連日、名の知れたものからそうでないものまで呪術師やら祈祷師やら僧侶やらがやって来て、そして二度とは戻らなかった。その様子を造酒正(役職名)直本は何とも歯痒そうに眺め、己の犯した過ちをただ悔いるばかりだった。
異変は、直本が担当した節会(宴)において起きた(と伝え聞いた)。ここの所、酒殿で作られる酒が軒並み火落して(風味が落ち悪臭を放って)碌に献上出来ない事態が繰り返されていたが、ある酒部(醸造家)の一人が持ち出した“秘策”により、これまでに見たことのない程見事な乳色の酒が出来上がった。造酒司(行政)は久方ぶりに朝廷へ酒を献上、見た目だけでなく味も格別であったため、直本は召されその功績を讃えられる。しかしその三日後その酒を口にした多くの人間が原因不明の高熱にうなされ、ある者は意識を失い倒れ伏した。噂では伏した者の体の表面にはもこもことした糀のような見た目の白い花が咲き乱れており、その中には帝の姿もあるという。
罪を咎められた直本は、朝廷の手によって妻と子を捕らえられる。この異変に対する解決策を見つけなければ二人を処刑すると宣告されるや、直本は懸命になって件の秘策を打ち出した当の酒部の行方を探るもののその手掛かりさえ掴めない。途方に暮れる直本の前に現れた一人の名の知れない僧侶が言う。「残念ながらこの文明はもうお終いです。貴方も私も全ての人間が等しく抜け出すことの出来ない生命氾濫の輪廻に絡めとられてしまっているのです。それこそ藍色細菌の時代まで戻らなければ。」そう言うが早いかいつの間にか僧侶の姿は消えていた。
その晩直本は夢を見る。目の前には湿り気を帯びてぬらぬらと光る子どもが一人、気のせいか直本の子によく似ていた。それは自らのことを〈高次存在〉と名乗り、お前に“秘策”を分け与えたのは外でもない自分だと言う。そして世界は“湿”によって満たされるだろうと。
目覚めた直本が外に出ると、辺りは蒸々とした熱気に包まれていた。方々で葦が茂り京中のあらゆる人間や家畜がもこもことした白い花に覆われていた。そしてそれらの身体から香しい香りを放つ乳白色の液体が漏れ出て、徐々に地面の窪地に溜まっていくのだった。直本はその液体を掬い上げ一口飲んだ。その瞬間、過去未来を通して積み重ねる生命の死骸(そこには妻と子、帝らしき人もいた。)の上に一人直本が立って、永遠の業火に晒される光景が浮かんだ。
やがて京中に満たされた液体が一斉に宙に舞い、雨のように天へと降り注いだ。直本はその光景に見惚れ、同時に自身がこれから永遠の時の中を彷徨い歩かなければならない運命であることを嘆いた。
数千年後、とある学者が蔵に眠っていた古文書を読み、ある一文に目を惹かれた。
神さびぬ黴 糀うつし(高次存在)といへども——以下略。
文字数:1200
内容に関するアピール
最近生命についてよく考えます。
藍色細菌が地球を酸素で満たして以来、生物は地上へ進出し本格的な食物連鎖の渦に巻き込まれていきました。そして人間はそんな渦が辿り着いた現時点での最終地点なのですが、ここではさらに上位の存在である〈高次存在〉が現れてそんな人間の作り上げた文明を無に帰してしまいます。ある意味で生命にとって熱が失われること=死ぬことは安らぎでもあるでしょう。〈高次存在〉によって、滅せられた生命たちと永遠の熱に身を焦がされ生き続けなければならない運命を背負わされた直本は果たしてどちらが不幸なのか?
余談ですが、コウジカビは発酵の過程で自らの熱により死んでしまうことがあるのだそうです。“あつい”と感じる設定や物語にも色々種類があるかと思いますが、実作では人間の業、生命の業という普遍的な観点から“あつい”と感じさせるような物語を書いていく予定です。
文字数:378
神さびた黴
1
宮中の南西よりに位置する藻壁門を潜り京へ一歩抜けるや、それまで毅然として振る舞っていた酒部公直本は己に残された時間が少ないことを想い静かに項垂れた。後ろを振り返ろうとも思わないが、両傍では今も刑部省※1から監視のために遣わされた官司らが緩みなく睨みを利かせているに違いない。もし直本が気を違えでもして後ろの二人を振り切ろうとしようものなら、官司らは容赦もなく直本を太刀で切り付けるか背にした弓を手に取り矢を射かけることだろう。どんよりと垂れ込める薄墨色の雨雲を前に、直本は己が閉塞した胸中に再び淡い光が差し込むことは二度とないことを虚しくも悟るのだった。
「もし。そこな御仁方。不躾ではありますが、造酒正※2酒部公直本様とお見受けいたします。」
声を頼りに項垂れた頭をゆっくりと正面に戻すと、そこには茶褐色の法衣を纏いその上から聊か法衣の色合いとは不釣り合いな袈裟をかけた二人の僧侶が立っていた。一人は壮年に差し掛かった落ち着きのある風貌で物腰も泰然として盤石といった体であるが、もう一人は未だ若く沈静を欠き、物事の道理を幾ばくも知らずといった風である。
直本は先まで抱いていた弱音を押し殺し、再び毅然としてよく通る低い声で首肯した。
「いかにも。余は造酒司※3造酒正酒部公直本である。して、其方らは何者ぞ?」
僧侶がその言葉に応えようとした矢先、端に佇んでいた官司の一人が直本を押しのけ前に進み出するどい声を轟かせた。
「貴様は一体何の権があってこの男に話しかけるか。見たところ宮中に用向があるというわけではあるまい。そうでなければ、まずは衛門府※4に行き宮中への通行の許可を取られよ。何しろただでさえ宮中では、陛下御快癒のための祈祷を任ずる僧の数が足りぬのだからな!」
「それには及びません。拙僧らの用向は、貴方様が今しがた押しのけなされた御仁にこそあるのです。どうか酒部直本様、拙僧らのためにその貴重なお時間を割いては下さらぬか。」
官司の威圧とした態度にも怯まず微笑みを湛えながら僧侶は応えた。官司は己を差し置いてなおも直本に願い出る僧侶の非礼にますます怒りを募らせたようだった。
「ならん!この男は八虐※5の内もっとも犯すべからざる罪を犯したのだ。よって明日、市にて死刑の執行が下される。用向とあらばこの男が晒し首になった後で幾らでも訪ねるがよい。」
憤然とする官司の言葉は今の直本にとってあまりに重々しく響いた。残された時間はあまりに少ない。思えばそのことばかりを気にして、これまで碌に己が罪を内省し懺悔することも満足にしてこなかった。やはり天の“さだめ”には抗えず、そうであってもこうして最期の時を飾るための機会を天は己に与えて下すったのだろうか。今がその、潮時なのだと。
「今や天下に仇名す逆賊たる余に用向とは、其方らはよほどの物好きのようだ。よろしい、どうかこの御客人らと最期に話をさせて欲しい。後生である。」
直本がそう願い出ると、先の官司はなおも目を血走らせて否と叫び続けた。そして強い興奮により我を失ったその官司が腰に提げた太刀を引き抜き僧侶らの方へと駆け出そうとしたその刹那、直本は素早く官司の前に回り込みその腹めがけて一発強烈な拳を見舞った。拳をもろにくらった官司は白目を剥いて右手に持った太刀をこぼすとその場に力なく崩れ落ちた。腹を押さえ立つこともままならなくなった官司は直本を詰り罵倒するも絞るように小さな声であったために誰の耳にも入らない。許せと一言直本が呟いた直後、その傍らにいたもう一人のいくらか利発そうな官司が初めて口を開いた。
「こちらこそ同僚が失礼を働いた。」
それから地面に倒れたままとなった先の官司に寄って助け起こすと、彼を整然とこう諭すのだった。
「死に往く者の最期の願いとあらば、叶えてやらぬは道理に反しよう。それが例え八虐の罪人であっても。なに、もし妙なことをしようものならこの男の家族がどういった扱いを受けるか分からぬ頭ではあるまい。それに見よ。奴の瞳ときたら曇りなき諦観に満ち切っているではないか。」
結局上から示された恩情により、直本は僅かの間だけだが僧侶らと話を交わす許可を受けることが出来た。直本は僧侶らを自らの邸へと案内し侍女に命じて客間へと通させた。その間直本は客人らの手前最低限礼を慮った内向の服装に着替え、客間で神妙と坐して待っていた二人の前に姿を現した。
「すまぬが、まずは先に聞きそびれてしまったことをもう一度問わせて欲しい。其方らは何者か?」
「拙僧らは名乗るほどの者では御座いませぬ。しかしそれでは障りもありましょう。よって拙僧は教海、後ろのは寂仙と便宜上名乗らせて頂きます。」
僧侶らの妙な言い回しと口にした名にいくらか違和を覚えはしたが、深くは追究しなかった。直本は仏教の習わしや事情に疎かったので一々兎角口を挟むことでもない。それよりも今問題なのは、目の前にこうして佇む僧侶らの用向が何かということに尽きる。直本は改めて居ずまいを正して厳かに問うた。
「では教海殿、単刀直入にお聞きしよう。もうじき死に往かんとする余に用向とは一体何であるか?」
直本の言葉に教海は目を細め、それから発せられた問の意味をゆっくりと口に含んで吟味するかのように沈考した後ようやく言葉を返した。
「貴方様がお探しになられている件の女子の消息について、助言し得ることがあるかと思い参った次第です。」
その瞬間、何かがぶつかる鈍い音が響いたかと思えば、直本は勢いよく立ち上がっていた。
「それは誠か!?まさか余を謀っているのではあるまいな!」
あまりの衝撃に思わず声が上ずってしまうが、今はそのようなことを気にしている場合ではない。しかし、この僧侶は何故直本が女子を探していることを知っているのだろうか。
直本の困惑した表情を察して、教海は言葉を紡いだ。
「それほど不思議なことではございますまい。いくつか風の噂を耳にしたまでのこと。しかし飽くまで噂は噂でしかありませぬ。拙僧としては是非此度の厄介な一件について酒部直本様ご自身の口から仔細お話いただければと思っているのです。貴方様から聞いたお話を勘案してようやく、拙僧の推察は確信に変わるでしょうから。」
直本の顔は明らかに強張りを見せているものの、何もかも諦めかけていた胸中に一筋の光が差し込みようやっと幾らか息を吹き返すことが出来たような心地がした。打つ手がない今、そしてある意味では己よりも多くを知っているかもしれないこの僧侶らに話を聞いてもらうというのも滑稽ではあるが一興ではないか。そう考え、直本はゆっくりとその場に座り直した。そして、此度に起こった長くはないが短くもない悪夢の仔細を回想し始めるのだった。
※1律令制の八省の一つ。裁判・行刑をつかさどった役所。
※2律令下、朝廷の御用酒を司った造酒司における総責任者。長官の造酒正は正六位の官で、その下
に造酒佑という高等官級の役人がいる。文末に参考資料として挙げた『新訂 官
職要解』によれば酒部公の世襲制とされ、※10で説明する職業としての酒部とは別である。
※3律令下の宮内省に属し、朝廷用の酒や酢を造った役所。
※4皇居諸門の警衛、出入の許可、行幸の供奉などをつかさどった役所。
※5日本古代の律で、国家・社会の秩序を乱すものとして特に重く罰せられた罪。
2
造酒正酒部公直本は、その日酒殿※6に置かれた無数の甕を前にして暗澹たる表情を浮かべずにはいられなかった。それというのもそれらの甕になみなみと注がれ満たされた液体、すなわち近々朝廷で催される節会※7の儀のために献上されなければならない御酒※8が軒並みすべて火落ち※9し、使い物にならなくなってしまったからである。直本は酒部※10より手渡された杓でもって半勺ほど掬うと、凄まじい臭いを放つ、もはや酒とは呼び得ないその液体に唇をつけた。その瞬間雑味がねっとりと舌に絡みつき、腐った魚のような独特の臭みが口いっぱいに広がった。それは胃の腑を刺激し吐き気を催させるも、すぐさま直本によって地面へと吐き捨てられた。吐き出したにもかかわらず直本の口の中にはしばらくの間それの遺した不快な風味がべったりとこびりついて離れなかった。その様子を始終見ていた直本の部下の一人である造酒佑は苦言を呈した。
「正、火落ちした無用の酒であるとはいえ、御酒として醸されたものに無断で口をつけるなどあってはならないことです。もしものことがあっては…。」
「もしものこととは一体何だ?朝廷の官司連中にこのことが公になるのを恐れているのか?それとも、其方。よもや祟りや神罰の類を憂慮しておると?」
「そうは申しておりません。ですが正、御自身の立場も考慮していただきませぬと。それに吾には分からないのです。何故見た目も明らかに悪い酒の味をわざわざ造酒司の長自らが確かめなければならないのです?」
佑のもっともらしい疑問に直本は何とも複雑な表情を浮かべると、苦笑いして言った。
「仕方がなかろう。他に適役がおらんのだ。然るに酒部どもに任せるという手はあるが、あやつらにも酒造りに対する誇りというものがある。わざわざ自分が造った不味い酒を進んで飲もうとする輩はそう多くない。それに、こうして不味いと分かっている酒を飲んでおるのは失敗の原因を探り、よりよい結果に繋げるため。例え次の機会にまた失敗したとしてもその酒は以前失敗した酒とはまた違った不味さ、違った悪臭を放っているかもしれん。余らの仕事はそれを逐一仔細に記録し成功のため只管試行錯誤を繰り返すことであろう。要は酒造の失敗の原因を徒に天上の神仏に押し付けたり、地上の権威の顔色を窺ったりして何もせぬのでは、それこそが余らにとって何よりの失態に繋がりかねんということだ。」
直本の言葉を聞いた佑は感嘆し改めて尊敬のまなざしを直本に向けた。馴染みの薄い考えではあったが、不思議とどんな教説も直本が唱えると真理然として聞こえるのだった。
「今は奇妙に聞こえるかもしれぬが、遠い未来にこうした考えは普遍の価値を示すようになると余は信じておる。特に酒造りなどという役割に従事していると古来より伝えられる通り神仏とは寧ろ目に見えぬ仕方でそこここに宿っているのではないかと思う時もしばしばだ。昨今そちらの方はどうも忘れられがちなのだが…。」
このように直本は時折宇宙の真理に思いを馳せ、深淵な世界の一端を殊に酒造りという古来より続いてきた人類の叡智を通じて覗き込もうとした。直本にとってそうした時間は何にも代え難い。例え仕事の最中であっても部下らの視線を憚ることなく夢想に耽った。しかし、今回ばかりは暢気に浸っている場合ではないかもしれない。この時すでに直本の心奥には不吉な予感がたち込めていた。ひょっとすると、これまで直本が信じて疑うことのなかった実験と観察に基づく科学的方法論では如何ともし難い、想像を絶する泥沼に足を掬われつつあるのではないか。決して抜け出すことの出来ない深くて暗い、泥沼。程なくして直本の不吉な予感は現実のものとなった。ただし、それは未だこの時の直本すら想像だにしていなかった悪夢の始まりのほんの序に過ぎなかったのだが。
それからしばらく経っても一向に解決策は見出されなかった。大和や摂津、河内の各地方から選抜された優秀な醸造家である酒部らの知恵を総動員するも結果は芳しいものとは言えず、ただ空しいばかりだった。直本もまた、部下らに命じて事細かに記録した事項を基に水や米、それと酒を醸すために用いる麹の一種である麹糵の配合率を調整したり道具や作業工程自体を精査したりと思いつく限りの試行錯誤を行ったが、結局のところは全て無駄だった。そうこうするうちに催された節会の儀ではやむを得ない措置として下級官司や雑役夫が飲む雑給酒に幾らか手を加えたものを代替の酒として用いるしかなくなった。無論評判は散々たるもので、これまで世襲により受け継がれた造酒正の役職に、直本は不釣り合いなのではないかという議論まで飛び出す始末。これによりいよいよ直本は崖縁まで追い詰められ、残すところ後がなくなった。仮に直本が役職を解かれるようなことがあれば、先祖の代より脈々と受け継がれてきた栄誉ある家職を直本の代で途絶えさせることになる。そうなれば祖霊に顔向け出来なくなるばかりか、一族諸共没落の憂き目を甘受しなければならなくなるかもしれない。それは酒部公の家長として何よりも恥ずべき結末であった。直本は切羽詰まり藁にも縋る思いで事態の打開に当ろうとした。必要とあらば、祈祷師や巫者を呼び寄せ酒に憑いた悪霊を祓ってもらおうとまでしたこともあった。しかし直本が望むような結果は何一つ示されることがなかった。
やがて月日は矢の如く過ぎ往き、再び節会の時期が迫ろうとしていた。この頃になると、御酒ばかりか雑給酒すら満足に造ることが出来なくなっていた。朝廷内では直本の進退について真剣に議論し始めているようだった。本人不在の欠席裁判。無論直本だけではなく直本直属の部下から選抜された酒部に至るまで何らかの処遇が下されるだろう。直本は一族ばかりでなく、直本に付き従ってきた部下らの命運をも潰えさせようとしていることに己の無力さと愚かさをただ悔やむばかりであった。
ある日の折、部下より一報を聞きつけた直本は造酒司から酒殿へ向かい急ぎ駆け出していた。何でも信じられない出来事が起きたということしか聞かされておらず、それが吉報であるのか凶報であるのかは未だ知れなかった。直本は強い不安と焦燥に駆られたもののよくよく思い直してみれば、今よりさらに悪いことなど起こり得ようはずもない。そう考える直本が酒殿へ辿り着いた時には、中は酒部や役夫などの人だかりで騒然となっていて誰も直本の到着に気づく様子はなかった。直本は数人の部下らと共に人垣を押しのけ騒ぎの中心となっている甕の前に出た。するとそこに立って頻りに甕を覗き込んでいたのは、見知らぬ童だった。白を基調とした装束の裾を腰より少し下の辺りで硬く結び、下には簡素な裳を短く折って巻き付けている。どうやらその姿から件の童が女子であると知れた。頭には白い布地が巻かれ、邪魔になる長髪をあの白布の中に綺麗に収めているようだった。
「そこな、娘よ。何をしておる?」
女子は初め、自身が呼ばれていることすら気づいておらず甕の中を一心不乱に覗き込むばかりだった。時々棒を使って甕の中をかき混ぜては、何かをぶつぶつと呟いている。その光景を暫し茫然と眺めていた直本は我に返ると、もう一度低くよく通る声を大きくして呼びかけようとした。するとその時、女子は急にこちらを振り向きはにかむような笑みを見せた。
「こちらの甕の酒もどうやら首尾よくいったようです。」
その細やかな笑みを一目見た瞬間、直本は何と見目麗しくも可愛らしい娘であろうかと思わず嘆息した。珠のように白く透き通った柔肌に黒々として光輝く両の瞳、酒殿を満たす温みに当てられてか火照ってほんのりと紅が差した頬を上下させながら息を少しく荒げている。その類稀な姿形は歴代の帝に仕えた数多の采女※11らの誰にも決して引けを取らないのではないかと思われるほどだった。直本は大きく息をのみ明らかな動揺を見せるも、酒造の責任者として威厳を保ちつつ、されど少々躊躇いがちに目の前の女子に問うた。
「首尾とな!?どういうことか?大体其方は誰なのだ?この場所は神聖なる所故許可なく立ち入ることは例え童といえども許されぬ。」
女子は直本の言葉に応える代わりに、傍に置かれていた杓を手に取って甕の中の液体を三勺ほど掬った。そして無言のまま直本の前まで進み出、深く傅いた。
「酒部直本様、ご覧ください。」
童が示すには聊か場違いな堂々たるその態度を一瞥し一向に釈然としない直本は言われるがまま杓の中を覗いた。
「!?」
直本は驚きのあまり言葉を失った。そして身体を後ろに仰け反らせそのまま後じさった。
(馬鹿な!?あり得ぬ。一体……何が…!!)
直本の前に差し出された一柄の杓の中でゆらゆらと揺れていた液体は、紛れもなく酒だった。それも直本ですらこれまでに見たことのない極上の香しき清酒だった。まるで高貴なる霊を宿した一杯の生命のようにそれは神々しくも滑らかな光りを放ち、直本らを祝福してくれているように思われた。その瞬間、直本の頬に一筋の涙が伝い、少し遅れて胸の内を言い知れぬ感慨がゆっくりと満たしていった。名もなき女子は静かに顔を上げて言った。
「お慶び申し上げまする。これも全ては酒部直本様の人徳の為せる御業でありますれば。」
「い、言っている意味がよく分からぬのだが……。」
もはや直本にとって、目の前に佇む女子が何者であるかなどどうでもよくなりつつあった。何故なら彼女も含めて、今こうして直本がまなざす光景それ自体天がもたらした奇跡のそれであって、およそ人心には図れる類のものとは思われなかったからである。察するにこの童は天が遣わした神女であるに違いない。
「酒部直本様、貴方様が常に抱いておりますのはこの宇宙に普く唯一無二の真理なのです。神仏はそこここに宿る。然らば神仏の発す声もまた天坤を満たすのが道理…。貴方様はかような声を自ら率先して聞き取らんとし、今では顧みられることの少ない人としての本義を果たさんと欲したのです。吾はただ酒部公様の信に心を打たれ、微力ながら力添えをしたく思い参上したまでのこと。」
そう言い終えると、女子は両手で杓を丁寧に掲げ直本へ差し出した。
「どうかお納めください。」
ほんの束の間、淡い静寂が辺りを緩やかに包み込んでいった。生きとし生けるもの全てがありのままにその姿を留め静止し、およそ現実には似つかわしくない神話的な情景と化して酒殿と甕と女子と杓と直本らの縁を幾重にも束ね結び合わせているようであった。直本はその永遠にも引き延ばされた全なる情景を自らの責で傷つけてしまうのではないかと恐れた。しかしやがて意を決したように神妙な顔つきをすると、黙って女子から差し出された杓を受け取り深々と頭を下げた。その様子を先からしんと眺めていた周りの衆も直本に見倣った。
「光栄なことです。余は今ようやっと得心がいきました。その高貴なる御姿は見紛うはずもない。貴方様こそ、造酒司坐神が一柱であらせられるところの酒弥豆女様ではありませぬか?」
一同のすっかり感心し敬服し切った様子に女子は困ったような表情を浮かべて言葉を返す。
「それは酒部直本様、貴方様の思い違いでございます。吾は一介の賤しき衆生の一人に過ぎませぬ。ただほんの少しだけ世の声と通じ合うことが出来る力能を多く授かっているというだけで…。どうか皆々様お顔をお上げになってください。」
そう言うが早いか、女子は立ち上がり自分の役割は終わったとばかりに酒殿の出入口へと向かって歩き出した。人垣が両脇に退いたことで出来上がった道を実に悠々とした足取りで進み出でてゆく。やがて出入口の一歩手前で立ち止まると、直本の方へ振り返り言った。
「酒部直本様、ゆめゆめお忘れなきよう。人を含めあらゆる生命とは流転する“さだめ”にあるのです。今この場所に並べられた数多の甕の中には無量の神仏がざわめき熱を発し、人の世に豊饒をもたらしている。そして人もまたその恩恵に対してそれ相応の仕方でもって報い、かように神仏と人の世の“共生”が成り立っているのでございます。神仏の世界もまた人の世と共に絶え間のない流転を繰り返しているのです。その流れは幾重にも交わり決して留めることが出来ないのです…。」
不思議なことにその時のことは、その場にいた直本を除いた誰しも白昼の夢であったかのようにぼんやりとした印象を思い返すことくらいしか出来なかった。あれは果たして本当に起きた出来事だったのだろうかと皆は口々に囁いたが、結局のところそれを証立てる手立ては女子が置いていった件の酒の他に何ひとつとして残されていなかった。
その後、直本らが朝廷に献上した件の酒は宮中にて瞬く間に評判を呼び、幾日もしない内に直本は異例ではあったが帝より特別の褒辞を賜った。帝に代わりその御言を口にすることを許された尚侍※12は、これもまた異例なことに直本の許までわざわざ足を運び、清廉で凛と張った声をもって直本を労い帝と京のためにより一層の研鑽を積むようにと叱咤した。あまりしげしげと眺めるのはよくないこととはいえ帝の寵愛を一身に受けていると噂されるだけあって、仰いだ折ほんの僅かに垣間見えたその容姿は見目麗しく、耳を心地よく打つ声音の端々から知性めいた響きを存分に感じさせる。まさに才色兼備という言葉はかの御仁のためにあるのではないかと、そう思われるほどだった。しかし一度直本の心に深く刻み込まれた件の女子の面影と引き比べてみると、どうだ。途端に目の前の美女が纏っている魅力という名の薄絹が剥がれ落ち知性を湛えた軽やかな声の響きは鈍重で雅を欠いた音色に変化してしまうのだった。詰まるところ、直本はある種の熱に浮かされ心ここにあらずといった様子であった。森羅万象あらゆる営みが徐々に日常としてのケの世界へと戻りつつある中で、一人直本の心はぽつねんとあの驚嘆すべき非日常としてのハレの世界に取り残されていた。直本はただ今一度だけでも女子と巡り会うことを夢見、願った。それが決して叶わぬことであると知りながら、いつかあの永遠の静寂の中に舞い戻れるのではないかと期待せずにはいられなかった。そうして月日が目まぐるしく過ぎゆく中、直本は己が犯した最大の過ちについて遂に気がつくことも決してないまま、運命の日を迎えることと相なったのである。
その日、直本は空が未だ白むことを知らぬ時分からいつものように物憂げな表情を浮かべながら、宮中の造酒司へ通じる近門、藻壁門を潜り抜けようとした。だが、門の前でしかめっ面を浮かべ通行の認を取る衛士の様子がいつもとは明らか異なることに気がついた。直本が門の前まで歩を進めると、数人の衛士が顔を見合わせゆっくりと、しかし逃げ出せないよう一人を後ろへと回り込ませてから道を塞ぐようにして直本の下へにじり寄っていった。やがて直本は完全に行く手を塞がれたことを悟ると衛士らに向かって声を挙げた。
「何ぞ、何ぞ?余に何か用向か?」
直本の問を無視するかのように眼前の衛士の一人が怒鳴った。
「造酒正酒部公直本だな!上命により貴様の身柄を拘束させてもらう。」
「まさか!何かの間違いだ。余が罪を犯したと?」
直本が言葉を発した直後に、前と後ろで構えていた衛士らが一斉に素早く動き直本の四肢を抑え込んだ。その拍子に直本の身体が前につんのめりそのまま倒れ込むと、先に怒鳴り声を挙げた衛士が縄を取り出し、慣れた手つきで直本の両手首を後ろに回してきつく縛り上げた。直本はどうすることもしない代わりに、一体何が起きたのかを見極めようとした。しかし衛士らは硬く口を結んだまま一言も事情を告げることなく、直本を宮中の刑部省下へと引っ立てていった。そこで直本を待ち受けていたのはまさに悪夢という言葉でしか表しようのない展開であった。
「造酒司造酒正酒部公直本、主は自らが指揮し造らせた御酒に毒を混ぜるよう命じ、あろうことか陛下のお命を奪わんとした。その悪逆非道、極めて卑劣なる大罪は到底許されるべきものではなく如何なる疑義も差し挟まれる余地はない。よって第七賊盗律の規定に従い、罪状は八虐謀反※13、刑罰は大辟(死刑)による斬とする。なお此度の罪の重さ等から勘案し六議※14による刑罰の優遇並びに奏上※15による申立は適用されぬものとする。」
役人は淡々とした態度を崩すことなく事の経緯と直本の処遇について述べた後、幾らも言い淀むことなく直本の妻と子、造酒司に勤める官司らと親族家族の責についても厳しく追究した。官司らの多数は身分の高いものから順に流刑あるいは徒刑(懲役刑)に処されたが、例外として直本の妻及び子と側近の部下については直本と同じく斬に処すということだった。数刻にわたり訴状の内容を聞かされ続けた直本は、その間両の瞼を硬く瞑り抵抗の意思を示すことなくただ黙っていた。胸中に渦巻くのは不安と焦燥に駆られ、よくよく吟味もせずに甘い奇跡のような物語に縋ってしまった己に対する深い怒りと後悔の念のみだった。無論徒労に終わるとは分かっていながら、直本は此度の経緯と忽然と現れた童の起こした所業について洗いざらい白状し、そうであっても全ての責は自分にあるということを強調するのだった。直本の話を聞いた役人らは嘲笑を浮かべ碌に取り図ろうともしなかったが、目の前に突っ立っている一人の男が心に重篤な障りを抱えているのではないかと慮ると、その身の上が幾らか哀れに思われなくもない。そうした空気を敏感に察した直本は思わず振り絞るような声でもって懇願した。
「若し貴方様方が余の身の上を少しでも哀れに思うなら、かように広く偉大なる憐みでもって余の妻子と部下らの処遇を軽くしては下さらぬか。余は大辟で構いませぬ。それだけの罪を犯したのだから。だが、余の妻と子はもとより部下にどうしてこれと同じだけの刑が科せられましょう。余に今一度の機会をお与え下さい。必ずや件の童を見つけ出しこの場に連れて来てご覧に入れましょう。それが叶ったあかつきには余一人を除いて何卒大辟罪から外して頂きたい……。」
必死の願いも空しくその日のうちに牢へと入れられた直本は夜が更け切っても碌に眠れずにいた。妻と子を巻き込み家の名を汚しただけに飽き足らず、直本を信頼して従ってくれていた部下らを裏切る形となってしまった事実が鋭利な刃先となって直本の心を容赦なく刻み抉った。朝日が昇ったことも知らされないまま、暗い牢の中ですっかり疲弊し切った直本の許に一人の役人が慌ててやって来て言った。
「上からのお達しにより先刻貴様が示した訴えを呑むことと相なった。ついては三日後の午の刻(十二時)までに件の童を連れて宮中へと出頭せよ。童を連れ尚且つ帝の解毒に成功したあかつきには受け入れ通り貴様以外の者どもの命は保証しよう。しかし連れてこられぬ、もしくは連れてこられても解毒の目途が立たぬ場合は予定通りの大辟を執行する。日時は三日後未の刻(十四時)とし、場は西市にて執行するものとする。以上!」
※6供御の御酒を醸すための建物。
※7古代、朝廷で、節日その他公事のある日に行われた宴会。
※8造酒司で造られた高級酒類「御酒糟」のうちでも特に入念に醸したもの。宮中の重要儀式や宴会に
供される甘口の澄み酒である。
※9清酒が貯蔵中に腐敗すること。
※10律令下、造酒司などで朝廷用の酒造りに従事した官人。
※11古代、郡の少領以上の家族から選んで貢進させた後宮の女官。
※12内侍司※16の長官。もと従五位相当、後に従三位相当。
※13古代の八虐の一つ。国家の転覆をはかること。
※14律に規定された刑法上の特典を受くべき六種の資格。
※15意見や事情などを天皇に申し上げること。
※16律令制の後宮十二司の一。天皇に近侍して、奏請・伝宣の事にあたり、また、後宮の礼式などを
つかさどった。
3
「結局、首尾は上々という風にはいかなかったわけですね。」
教海の言葉に直本は小さく頷く他なかった。実際直本はこの二日間一刹那たりとも眠ることなく件の女子を探し出すために奔走し続けた。しかし有力な情報はおろかあの日直本と共にその場で女子が織りなす奇跡を見物していた者たちの記憶もおぼろげで、あれは夢幻の類ではなかったかと皆は呆けた様子で口にするばかりだった。中には此度の一件で直本や造酒司に不信や疑惑の念を持つようになった働き手も少なからず出始め、捜索は遅々として進まなかった。卜占や呪術師の力を借りたこともあったが上手くはいかず、いよいよ八方塞がり、自邸に戻り妙案を練り直そうという時に教海と寂仙が現れたという経緯である。
「余の悪夢めいた話はここまで。さて教海殿、そろそろ教えては下さらぬか。先に其方は“件の女子の消息”について心当たりがあるような言い回しをされたな?」
教海は直本の話に耳を傾けていた時と全く同じ姿勢を保ち微動だにしないどころか、常人から見て果たして呼吸をしているかどうかでさえ定かではないように思われた。対して教海の斜め後方に控える寂仙は絶えず身体を揺らし落ち着きもなく、目は虚ろとして話を聞いているのかいないのか判別することが難しい。直本にはとても僧侶の所作とは思えない程であった。
「酒部直本様、改めてお話を伺い拙僧の推察は確信へと変わりました。ですがそのことを語る前に幾つか問わせていただいてもよろしいか?」
「よい。」
「では酒部直本様、今上帝と現在の京をどう思われます?」
初め、直本は教海の質問の意図が俄かには掴めなかった。あまりに漠然として聞こえ何よりそれへの答が直本の置かれた今の状況とどう繋がるのか判然としなかった。
「すまぬが、問の意味が掴めぬ。」
「ではこう言い直しましょう。この平安の京、そして今の帝は果たして現の世に属するものだと思われますか?」
教海の言葉を聞いて、直本は質問の意図を正確に把握するどころか、なおさら全身を硬直させざるを得なかった。平安の、京……?一体この僧侶は何を言っているのだろう?
「余の聞き間違いかもしれぬが、今其方はここを平安京と言ったのか?」
「間違いございません。」
直本はその返答を耳にして背に怖気の走る思いがした。あるいは今も悪夢の只中にあるのではないかと、そう思われるほどに。
「僧侶よ、それは聞くに堪えん戯言だ。其方にはこの国の地理や歴史といった常識が欠けておるらしい。よいか、ここは平安京ではなく平城京である。そして今上の帝は数年前に起こった動乱にて平安京に屹立した仮初の朝廷から威光と権勢を奪還し、この由緒正しき吉野の大地に再びの栄華をもたらしたのだ。」
直本の眼はまるで秋空の如くどこまでも澄み渡っており、その点について疑うことはおろかそれこそが正しい筋道であったと強く確信しているように見受けられた。教海は果たしてこれより知ることになるであろう真実に、目の前の男の心が耐えられるものかと深慮せずにはいられなかったが、もはや後戻りは出来ないこともよく弁えていた。
「残念ながら、その認識こそが仮初であり夢幻なのです。酒部直本様、京の現状をよくご覧下さい。酒に限らず各地から朝廷に献上される穀物や織物、工芸品の類は軒並みその量を減らし、京はかつてないほどに貧窮し苦境に陥っている有様です。民草は次々と飢えて死に、絢爛豪奢な朱雀大路※17はここ一年で山賊どもの塒と化し治安は悪化の一途を辿っている。この時分でなお大辟などといって京に不浄を撒き散らさんとするとは何と浅ましくも愚かしいことか。挙句、今上帝が病に臥せていることをよいことに今や宮中では熾烈な権力争いが起こり、その堕落は留まることを知りませぬ。」
教海は滔々と言葉を紡いだ。直本は内心穏やかではなかったが、教海が語る言葉もまた確かに真ではある。ここ数年、具体的には平安京から平城京へ正式に遷都した時分から京の経済状況は悪くなる一方で、そのため重大な課題を抱えていたのは決して造酒司ばかりではなかった。例えば大膳職※18では調理する食材の入りが少なく対応に苦慮していると聞いていたし、内蔵寮※19が管理する蔵の中は御物饗饌が点々と置かれ空きが目立つようになったという。京の財政を司る大蔵省に至っては果たして正常に機能しているのかどうかさえ怪しく思われた。直本の家柄はもとより質素倹約を旨としていたため生活の質が落ちたと感じたことはほとんどなかったが、冷静に思い直せばそうした兆候が端々に表れていたのは事実だ。
「思うに、今の宮中では今上帝を生かし救わんとする勢力とそのまま見殺しにし新たな帝を擁立しようとする勢力が拮抗しておるのでしょう。酒部直本様への対処が朝令暮改、ころころと変わる有様を見てもそのことは一目瞭然。政はいよいよもって混乱し京の腐敗は決定的なものと相成りました。古来より儒教においては忠恕※20の教えが大事とされてきたが、今や然るべき指針を欠いたこの偽の京において忠は幾重にも分かたれ見せかけの恕ばかりが蔓延る地獄絵図と化しておる。先程いみじくも貴方様は身の上に降りかかった一連の出来事を“悪夢”と形容なさった。しかしそれは決して形容などではなくれっきとした事実なのです。時空の歪は拡がり、もはや正史も古郷もあったものではない。そして酒部直本様、偽とはまた貴方様とて同じこと。貴方様は未だ己自身の“消息”さえ掴んでおらんのだから。」
その言葉を聞いた途端、直本は終に怒りとも知れない不快な感情から顔を歪め目の前に佇む狂僧をきっと睨みつけた。そしてやはり時間の無駄であったかと、心の底より落胆し軽蔑の意を込めて言葉を返した。
「もうよい。其方は余の残された時間を徒に消費しただけに留まらず、かように詰まらぬ世迷言を吐き捨て悦に入ろうというのか。これ以上話すことはない、即刻お引き取り願おう。」
直本が侍女を呼び寄せるために立ち上がりかけたその時、教海の後ろ手でずっと無言を貫いていた寂仙が突然奇声に近い声を挙げた。
「大納言、朕に従い今こそ為すべきことを為せ!思い出すのだ。御前は誰ぞ?御前は誰ぞ?」
そう言った切りこの気違いじみた一人の男は再び永遠にも須臾にも思える沈黙の中へと身を潜めるのだった。直本は片膝をついたままの姿勢で留まったまましばらく動けないでいた。場を支配する重々しい空気をゆっくりと引き裂くように、教海が再び口を開いた。
「拙僧は以前唐の都長安に遊学していた折、数多の奇々怪々に見舞われました。だが此度の変異、鬼神妖の起こしたものにしては聊か奇妙なことでございます。数年前の動乱にて大祈祷を捧げた際、拙僧らが施した結界は悉く破られ無念にも悪鬼羅刹の侵入を許してしまった。古今東西密の秘儀が通じぬ怪異の話など聞いたこともないというのに。故に拙僧はこの時を待ち侘びていたのです。あの動乱時、当時の帝である嵯峨天皇より平城太上皇東国行きを阻止せよとの勅命を受けそのまま行方をくらませた一人の男の消息を掴むこと、そしてそこから悪鬼の正体を炙り出し今度こそ完全に滅さんとする機会を。」
教海の表情は直本も未だ完全には理解していない天命を遂行することへの決意に満ち満ちているように見えた。その堂々たる気迫に直本は息を呑み、つい先程まで与太だとしか思われなかったこの僧侶の言に豊かな生命が吹き込まれていくのを感じずにはいられなかった。
「……余は、一体…何者なるや?」
その瞬間、直本は強烈な眩暈に襲われ突如その場に倒れ伏した。教海は寂仙に迅速な指示を飛ばすと、直本の傍に駆け寄り祈祷の準備に取り掛かり始めた。
「この俗の世は当の昔に狂っておる。天坤を揺るがすばかりか、文明を喰らう化物が相手となればなおのこと…。酒部直本…否、坂上田村麻呂様。夢か現か、誰の教えも導きも期待出来ぬ今その境が曖昧になればなるほど真理は遠のいていくのです。」
つい先刻まで空を覆っていた薄墨色の雲々は夕時が終わりを迎えるにつれてどす黒く変色していった。時折吹きつける生温かい風に当てられて教海、もとい空海は、これからやって来るであろう難事が己の想像を遥かに超え出るものであることを予感するのだった。
※17平城京・平安京の朱雀門から羅城門までの南北に通ずる大路。
※18律令制で、宮内省に属し、宮中の会食の料理などをつかさどった役所。
※19律令制で、中務省に属し、御座所に近い宝蔵を管理した役所。
※20忠実で同情心が厚いこと。
4
悠々たり悠々たり太だ悠々たり
内外の縑緗 千万の軸あり
杳杳たり杳杳たり 甚だ杳杳たり
道をいい道をいうに百種の道あり
書死え諷死えなましかば本何がなさん
知らじ知らじ吾も知らじ……(欠文)……
思い思い思い思うとも聖も心ることなけん
牛頭草を甞めて病者を悲しみ
断菑車を機って迷方を愍む
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
遠方の山間で鳶が群れをなして飛んでいる。日輪に燃え立つ紅橙色の空を背に景色は四方八方遥か先まで伸び、それぞれの道筋の先には古から栄枯盛衰を重ねてきた数多の京の霊魂が明滅し自らの痕跡を証立てているかのようだった。それからふと遠い視線を近くの事物に向けてみれば、そこかしこに焚かれ始めた松明の明りを縫うようにしてそこら一体ものものしい鎧を着込んだ屈強なる武者どもが屯しているばかりである。すると突然その中でも一際図体の大きい男が近づいてきた。男は乱暴に言葉を放った。
「いやはや、まさか再び田村麻呂殿と兵を率いて出陣することになるとは思わなんだ!思い出しますなぁ。蝦夷※21との血湧き肉躍る戦いを!」
男の高揚し切った様子を眺めるや、坂上田村麻呂は窘めるように言葉を返した。
「綿麻呂殿、これは戦ではありませぬぞ。我らの目的は太上皇※22の暴挙を諫め平城の地へとお戻りいただくこと。友敵共々血を流さず終えるに越したことはありますまい。」
田村麻呂の言葉に文屋綿麻呂は周りを憚ることなく高笑いするのだった。
「相変わらず生真面目な男よ。無論冗談だわい!それに今我がここに居られるのは貴殿が我を戦力として認め陛下へ同行を奏請してくれたからに他ならぬ。その恩義には報いなければ……おや?どうやらお出でなすったようで。」
対面に伸びる山道の方から無数の人馬が隊列を組んで行進する際に立てられる類の種々雑多な物音が少しずつ近づいてきた。程なくして彼方も負けじとものものしく武装した近衛どもが先頭に現れた。さらにそのすぐ後ろには豪奢な作りの御輿を持ち上げて運ぶ臣下どもの姿が見て取れる。綿麻呂は目の前までやって来て号令とともに一斉に立ち留まった敵の一向に一瞥くれると、田村麻呂に視線を向けた。田村麻呂は黙ったままだった。しばしの沈黙の後、先頭に立った近衛大将らしき者が声高に叫んだ。
「陛下の御路を塞ぎあまつさえ居直ろうというその態度、万死に値しようぞ。」
近衛大将の発する圧に対し全く怯む様子もなく、田村麻呂はゆっくりと応える。
「これはこれは滅相もございませぬ。太上皇におかれましては御身を煩わせた悪病から見事御快癒せられたこと心よりお慶び申し上げる所存です。しかし此度の件につきましては看過することなど出来ますまい。太上皇の御行に対し、陛下は深く御心を痛めております。どうか御再考を。」
直本の諫言を聞くや、近衛大将は怒気を含んだ調子で吠えるように言葉を放った。
「貴様、この逆賊風情が!此処におわします御方こそ今上の真帝であるぞ!このっ…。」
その時、御輿の内より突如御声が生まれ近衛大将を強制的に押し黙らせた。その御声は非常に幽かなものであったにもかかわらず、田村麻呂はもとより綿麻呂や他の友軍の耳にもはっきりと聞き取られたようであった。田村麻呂の位置からではその龍顔を見定めることは叶わなかったが、意外なことに今しがた聞こえてきた御声は幼い童のそれのように思われた。いずれにせよこうなってしまえば、友敵問わず誰もが息を呑んで次の御言を待つ他はない。すると再び幽かな御声が全ての耳を一斉に震わせた。
「よいよい。して其方は何者ぞ?朕はこれより東国に住まう武者どもの力を手中に収め、愚弟の敷いた歪んだ政道を正さなければならぬ。これは歴代の高貴なる御霊が朕に示した偉大なる“さだめ”であるのだから。」
太上皇の言に田村麻呂は応えて返す。
「御冗談はよしてくだされ。まさか我が名をお忘れになられたのですか?しかし全ては御身のためなれば、名乗らぬわけには参りませぬ。我が名は坂上田村麻呂。かつて時の朝廷の危急に馳せ参じ蝦夷の英傑たる阿弖流為を降すも、今となってはすっかり老いさらばえ戦場の音を聞くこともままならなくなってしまったしがない老兵で御座いまする。」
「そうか、知らぬ名だ。」
太上皇はさも詰まらなそうな口調で呟くと、続けざまに田村麻呂へ問うた。
「ところで、田村麻呂とやら。一つ聞いてもよいか?」
「何なりと。」
「其方は朕が知るある者にとてもよく似ておる。その者は然る京で造酒を司る官司の家系に生まれ、朝廷に仕える由緒正しき“正”としての責務を果たしておった。だが、ある時朝廷へ献上するための御酒が残らず火落ちに見舞われ長として窮地に立たされたその時、この世のものとは思えぬ美貌を備えた女子が現れその者の窮乏を救った。実のところ、その女子の正体は人心を操り手籠めにしてしまう悪鬼羅刹の類であったのだが、凡庸な人の子には気づく術もなかった。やがて件の女子の術中によって為すすべもなく朝廷は傾き、その者は家族部下らも含めて死罪となった。さて、田村麻呂とやら。もう一度申すが、其方はその者によく似ておる。知っておったかな?」
田村麻呂はきょとんとした表情を浮かべ、どこか熱に浮かされた様子で言葉を紡いだ。
「かような者を我は知りませぬし、今しがたお話し下すった出来事に関しても聞き及んだことはございませぬ。」
それを聞いた太上皇は思わず高らかな笑い声を挙げた。田村麻呂は果たしてあの御輿に乗っていると思しき玉体が本当に太上皇その人であったものか、あるいはあの御輿に乗っている存在こそ今しがた語られた悪鬼羅刹の類なのではないかと、不敬にもそう思われて仕方がなかった。田村麻呂の疑り深い恐れを感じ取ったのか、太上皇は明らかにわざとらしく声の質を変じて応えた。
「それはそうであろう。今朕が語り聞かせた物語は、全て其方自身がこれより再び体験することになる未来の出来事であるのだから。」
次の瞬間、田村麻呂は戦闘態勢のまま待機していた武者どもに鋭く号令をかけ皆殺しにせよと命じた。綿麻呂を含め一斉に動いた武者どもは次々と太上皇の近衛や御輿を担いでいた無抵抗の雑役夫らをも容赦なく切り捨てていった。先に田村麻呂への強い怒りを露にしていた近衛大将も馬から引きずり降ろされ、無残にも身体中を切り刻まれ断末魔を挙げるばかりである。支えを失った御輿は為すすべもなく硬い地面へと叩きつけられその構造に深い亀裂が走った。近くにいた友軍の武者の一人が御輿の中を覗き込むと、しかしそこには哀れにも身を震わせ命乞いをする一人の女官が蹲るばかりである。そのことを聞きつけた田村麻呂は訝しんだが、間髪入れず背にぞわりと悪寒が走り田村麻呂は反射的に後ろを振り向いた。するとそこには全身がぬらぬらと湿り光り輝く一人の童が突っ立っていた。初め田村麻呂もその姿が男児のそれであると確信したが、次第にそれが童であるのか老体であるのか、女であるのか男であるのか、分からなくなった。
「こんにちは、この姿ではお初にお目にかかります。朕はこの地球文明で分かりやすく言い表すのであれば〈高次存在〉と呼ばれ得るものでして、こうして遥々地球という星に赴いたのには深い訳があるのです。」
「訳だと!?」
「そう、朕の種族は他の星々の知的生命が築き上げる文明の命脈を喰らい命を繋いでいるのです。しかしながら、最近になってめっきり飯にありつくことの出来る狩場は少なくなってしまいました。今ではこんな辺境の星の辺境の文明にまで手を出さなければならない有様なのです。朕は見ての通りこの種族の中でも未だ幼体でして詰まるところ育ち盛りなわけです。」
そう言うと、〈高次存在〉はお腹の辺りを両手で押さえ空腹を示す身振りを返した。どうやらこのふざけた態度の異星人は、事もあろうに我らが日出処の神国を狩場にせんと何よりも侵さざるべき文明の叡智を喰らいに来たということらしい。田村麻呂はそのことを察すると途端に怒りに震え、腰元の柄に手をかけた。それから後ろ手にまだ控えているであろう友軍に目の前の化物を討つよう力強く命じた。しかしいつまで経っても背後はしんと静まっているばかりで動きらしい動きはない。嫌な予感に襲われ恐る恐る後ろを振り返ると、友軍の武者どもは先に切り捨てた敵軍も含め残らずもこもことした白い花のようなものに覆われていた。今ではかろうじてそれらがかつて人であったことを示す形が保たれているに過ぎないのであった。
「奇怪な!貴様、何をした!?」
田村麻呂が即座に目の前の異形異類を見返すと、見た目にもそれの腹は幾らか膨れている。
「ごちそうさま。おっとそうだ、此処を離れる前にこうして其方の許に朕が現わされた理由をお話ししなければなりませんでした。あぶないあぶない。」
およそ化物には似つかわしくないある種の茶目っ気を覗かせながら、〈高次存在〉は不気味に微笑んだ。先から田村麻呂は現実離れした超常現象を前にして身震いするばかりとなり、柄に手をかけたままその場を一歩も動けないでいた。あの誇り高き蝦夷の英傑阿弖流為との死闘の最中であってもここまでの恐怖を感じたことはなかった。
「もう少しこの素晴らしき辺境の星に留まり心行くまで蝕みたい気持ちはやまやまなのですが、これ以上ここに留まり続けては色々と厄介なのです。」
〈高次存在〉は天空へと顔を向け、空をまるごと覆わんとする巨大で複雑な立体曼荼羅を恍惚な表情を浮かべながら眺めた。
「あれはまずい。まさかかように野蛮な世界にあってあれ程美しくも強大な力を行使し得る方途があろうとは夢にも思わなかった。文明識閾下の配列操作を目的とした数理術式、多次元にわたる情報圧縮結合技術。もう一度じっくりと狩場の選定を行い直さなければ、もたもたしていると逆にこちらが喰われてしまいかねない。」
田村麻呂は相変わらず恐ろしさに身を竦ませ口を開くことすらままならなかったが、それでもこの人類では如何ともし難い格別の力を持った異星人がこの星から去ってくれることだけははっきりと理解した。安堵が全身に張り巡らされていた緊張の糸を幾らか緩ませた。
「そこで其方に相談があります。其方にはこれから朕ら種族のために永遠に生き永らえてもらい、朕らの蝕の安全と保障を図るため文明を管理し導いてもらいたいのです。朕は仲間とともにいつの日にか再び地球を訪れるでしょう。それまでこの豊かで快活な文明の命脈を保っていてもらいたい。」
〈高次存在〉が語るあまりに突拍子もない相談を受けて、田村麻呂は再び強い戦慄を強いられた。目の前に佇む化物が何を口にしているのかさえすぐには呑み込むことが出来なかった。
「馬鹿な…。我に人の世を裏切れと言うのか。それに、かような…永遠に生きることなどかような人の身で叶うべくもないではないか!」
「いえ、心配には及びません。朕らにはそれが可能なのです。今より目覚めた後外へ出てみれば分かります。先に朕は“相談”という言葉を使いましたが、あれは不適切でした。さりとて朕が下した命令や強制という類のものでもない。強いて言えばこれは其方自身の“さだめ”なのです。」
「どういうことかっ!?」
田村麻呂はほとんど悲鳴に近い声音で叫んだ。もはや〈高次存在〉が何処にいて何処から言葉を発しているのかさえ曖昧模糊としている。
「其方はすでに人の世を裏切っているのです。其方は、そう…贖わなければならない。安心なさい。其方が人の道から外れ朕らの盟友として尽くしてくれさえすれば、朕らによって損なわれた文明の篝火は、文明の熱は、絶えることなく燃え盛り続けることでしょう。其方は文明の火が消え入りそうになった時、そっと薪を足し息を吹きかけそれの火の番を行う役目を背負ってくれるだけでよいのです。」
田村麻呂は耐え難い苦痛に顔を歪め、闇雲に絶叫した。
「滅茶苦茶ではないか!かようなことを我一人に背負わせるのか!?」
「子を多く生しなさい。其方の撒いた種子が芽吹き、また新たな種子を撒くことを通じて朕らの飽食のために文明を整えるという栄誉はやがて人類全体の総意となることでしょう。黴や家畜といった人類以外の生命が人類に恩恵を与え人類がそれらに応えて畏敬の念を捧げるように、人類という生命全体が朕ら〈高次存在〉に恩恵を与え朕らがそれらに応えて畏敬の念を捧げる、それは“共生”という文明的叡智の結晶ではありませんか?いつかそうなる日が来ることを心より願っています。」
〈高次存在〉の声は遥か彼方まで遠のき、田村麻呂を囲む大地や山野といった情景は残らず形を崩していった。それに代えて田村麻呂が立つ場所はいつの間にか過去現在未来にわたる全ての生命の屍によって支えられているのだった。田村麻呂がふと自身の身体を見やると赤く強い熱を伴って燃えていることに気がついた。まるで田村麻呂自身が人類文明を只管に回し続ける地獄の業火となって生まれ変わったかのようだった。
※21〔アイヌ語のエンジュ・エンチウ(人、の意)からという〕古代に、北関東から東北・北海道にか
けて住み、朝廷の支配に抵抗し服属しなかった人々。
※22天皇の譲位後の尊称。
5
直本がはっと目を覚ますと全身から汗が止めどなく噴き出し、身に付けていた衣はすっかり濡れそぼっていた。ゆっくりと起き上がり辺りを見回すが人の気配はない。直本の周りには高位の加持祈祷に用いると思しき儀式具が散乱し、暗がりの中で鈍く金色の光沢を帯びているものもあった。ぼんやりとした頭を振りつつ、少しずつ己を取り戻していった直本はもはや己が造酒正酒部公直本ではないことを自覚せざるを得なかった。大同五年(八一〇年)九月十二日、嵯峨天皇の勅命により大納言坂上田村麻呂は文屋綿麻呂らとともに挙兵のため河口道を通って東国へ向かっていた平城太上天皇と藤原薬子一向の前に対峙しこれを阻む。それが田村麻呂に課されていた本来の“さだめ”であったが、結局その“さだめ”は頓挫し、〈高次存在〉なる異形に文明を捻じ曲げられた帰結として、仮初の“さだめ”を背負うこととなった。その結果田村麻呂という標を消され、全くの別人としての生を歩まされるに至る。田村麻呂は歯噛みし思わず己の惨めな身の上を儚まずにはいられなかった。田村麻呂が直本としての日々を送っていた間に手にした全ては泡沫の夢幻であったのだ…。妻も子も、部下らも……。一刹那、腰に手を回し太刀を引き抜くと己の首に当てた。そして躊躇なく首に太刀を突き立て深々と刺し貫いた…つもりだった。キィンという甲高い音とともに刃が宙へ舞う。田村麻呂には一体何が起こったのか分からなかったが、気がついた時には手に握っていたはずの太刀が天上に突き刺さり田村麻呂の首には僅かの傷も刻まれていなかった。茫然とその場に固まる田村麻呂。いよいよ己が自刃することも叶わぬ身の上と知るや目には止めどなく絶望の涙が溢れ、やがてそれは今はまだ田村麻呂一人のものであるところの決意の涙へと変わっていった。
田村麻呂はゆっくりとした足取りで自邸の外へ出た。京は異様な蒸し暑さに包まれ方々を見渡せば青々とした葦の群生が天高く伸びている。地上は生命に満たされ氾濫し皮肉にもかつて“葦原中国”と呼ばれた本来の姿を取り戻したかのようだった。その時、田村麻呂は辺り一面にこれまで嗅いだこともない恍惚へと誘う香りが満ち始めていることに気がついた。香りが強くなる方へと歩いていくと、ちょうど窪地になっているところに陽の光に透けて光り輝く液体が溜まっていた。田村麻呂は窪地の前まで進むとその場にしゃがみ込み両手を差し入れようとした。
「お飲みになるのですか?」
後方で穏やかな声がし、田村麻呂は振り返ることなく応えた。
「教海…いや空海殿、国を守護する法師たる貴殿ほどの力を持ってしてもあれは倒せなんだ…。」
「仰る通りです。これも拙僧の未熟たるが故。だがそれを口にするのだけはおよしなさい。それは人の身には過ぎる猛毒の類、無事では済みますまい。」
空海の言は飽くまで優しく包み込むように田村麻呂の心に響いた。しかし田村麻呂の決意を曲げるには及ばない。
「空海殿、一度目の酒殿にて“あれ”は何故貴殿に察知される危険を冒してまで我と接触したのでしょう?否、それ以前にそもそも何故陛下でも貴殿でもなく我でなければならなかったのか…。」
空海は田村麻呂の言わんとしていることを悟り、静かに答えを返す。
「文明を貪り喰らう悪鬼にとって貴方様の存在自体全く想定外の未知なる毒物に他ならなかった。それが彼奴らにとって単なる雑味に過ぎぬものか否かは判然とせぬ。だが悪鬼が畏れる何らかの脅威であるには違いない。一度目の接触の際に毒物を取り除かんとしたが、この筋道では拙僧の介在が障りとなって上手くいかず、その後高次元からの俯瞰視によりあり得べき全ての筋道を仮定演算し貴方様を屠らんとするも全て不首尾に終わったのでしょう。未熟たる拙僧はずっと自らの意志において貴方様を出しに悪鬼をおびき寄せたと思い込んでおりましたが、その実全ての縁起は坂上様を介して繋がっていたのですね。そしてそれを悪鬼にまんまと利用された。」
「あろうことか、“あれ”は我を毒から薬にせんと欲した。滅することが叶わぬなら飼い慣らせばよいのだから。ちょうど人が長い時間をかけて毒たる黴を薬たる酒に変えて文明の一部としてしまったかのように、“あれ”らは我らの文明を搾取するためだけに我らとの“共生”を望んだのです。」
田村麻呂の言葉を引き継いで空海は続けた。
「悪鬼らは実際拙僧ら密教者の事など毛ほども脅威には思っておらん。毒にもならなければ薬にもならないのと同じです。それに比べて貴方様は……。生命とはかくも互いが互いを喰らい喰らわされ続けることを“さだめ”とする哀れな存在なのでしょうな。」
「……“共生”の眼目は毒を薬へと変じること、そして飼い慣らされていないその他の毒が猛威を振るう可能性を潰すことにある。故に“あれ”らは我が死んだ後で別の機を狙って狩をすることを選ばず、逆に我を薬として利用せんとした。“あれ”らはこの地球文明をまるごと自身の好みに合わせ捻じ曲げようというのだ。なればこそ…我は今この酒を飲まなければならぬ。」
そう言うが早いか田村麻呂は両手を液体の中に入れた。そして両手を椀の代わりとしてその液体を掬うと口を近づけ一気に飲み干した。
「我らは誓おう。我ら自身永劫の時をもってあの悪鬼羅刹らにとっての毒となり呪いとならんことを。決して飼い慣らされてなるものか。我らは“あれ”らにとっての荒ぶる神仏となりていつの日か必ずや跡形も残らず滅してみせようぞ!」
その直後、田村麻呂の宣言に応えるかのように京中の窪地に溜まった液体が宙へと伸び、一斉に天へと降り注ぎ始めた。田村麻呂はその光景を憎悪の炎と共にその眼にしっかと焼き付け、やがて田村麻呂とともに子孫らに背負わせることになるであろう責苦を想い悲嘆にくれるのであった。
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千数百年後、とある名も知れない歴史家は高野山のとある寺の倉庫に眠っていた古文書を紐解き、そこに記されていたある文言に興味を惹かれた。
曰く“神さびぬ黴 糀うつし(〈高次存在〉)といへども…(欠文)…”
4の冒頭は宮坂宥勝監修『空海コレクション1』(2004)筑摩書房,p.16-p.17、「秘蔵宝鑰 巻上
序を幷せたり」から序論〔(1)序詩〕の引用。以下に要約(同書,p.18-p.19)を引用する。
限りなく限りなく、きわめて限りないことよ、ああ
仏典と仏典以外の書物とは千万巻もある
広く深く広く深くして、きわめて広く深いことよ、ああ
さまざまな道を説くのに百種の道がある
それらを書くこともなく暗記することもなければ、教えの根本をどうして伝えることができ
ようか
もしも、そうしなければ、誰ひとりとして教えを知る者もなく、もちろん、わたしもそれを
知らないであろう……(欠文)……
どんな教えのことを考えてみても、たとえ聖者だって、それを知ることはないであろう
神農氏は病める者をあわれんで草木をなめてみて薬草をつくった
周公旦は方角の分からぬ者に指南車をつかって教えてやった
迷いの世界の狂えるひとは狂っていることを知らない
眼の見えない者にもひとしい生きとし生けるものは、自分が眼の見えない者であることに気
づかない
われわれは生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥い
註は適宜、荻生待也編著『日本の酒文化総合辞典』(2005年)柏書房、新村出編『広辞苑 第七版』
(2018年)岩波書店、松村明編『大辞林 第三版』(2006年)三省堂、松村明監修『デジタル
大辞泉』小学館を参考にした。
参考資料
小倉ヒラク『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』(2017)木楽舎
齋藤孝訳『論語』(2016)筑摩書房
坂口謹一郎『日本の酒』(2007)岩波書店
高橋崇『坂上田村麻呂 新稿版』(1986)吉川弘文館
戸川点『平安時代の死刑 なぜ避けられたのか』(2015)吉川弘文館
福嶋亮大『復興文化論 日本的創造の系譜』(2013)青土社
堀江修二『日本酒の来た道 歴史から見た日本酒製造法の変遷【新装版】』(2012)今井出版
松岡正剛『新版 空海の夢』(2005)春秋社
宮坂宥勝監修『空海コレクション1』(2004)筑摩書房
桃崎有一郎『平安京はいらなかった 古代の夢を喰らう中世』(2016)吉川弘文館
和田英松『新訂 官職要解』(1983)講談社
文字数:23667