梗 概
ゾンビパニックの論理哲学論考
田中と中村はすぐに山本の「心の声」が聞こえないことに気付いた。
「どないしたん、俺なんか変なことした?」
山本の声。山本は意識を持たない存在、「哲学的ゾンビ」と化していた。
田中は人の心の声が聞こえるエスパーだった。だがそれが何かに役立つということはなく「田中の顔マジできもいし」「早く消えろよ」という辛辣な心の声が聞こえてくるばかり。
田中は精神的な傷を負っていた。心の悪口を聞き続けることにより自身の性格も暗くなり、余計に周りから敬遠され心の悪口を吐かれ続けるという悪循環に陥っていた。
田中は自分がエスパーであることを隠していた。だがエスパーは引かれ合う存在らしく、大学に進学すると同じエスパーである山本と中村に出会い意気投合、サークルを作り三人でつるむようになった。
三人は女子にモテない惨めな男子のはずだった。だが哲学的ゾンビになった山本の様子が明らかにおかしい。妙に自信過剰であり何かと女子のことを話題にする。何があったのかを尋ねてみても山本ははぐらかすばかり。
他人の心が読めないという初めての経験に田中と中村は戸惑うものの、二人はついに山本の事実を突き止めた。山本は「女と関係を持った」のだ。山本を問い詰める二人だが、山本に「彼女」ができたわけではないらしい。山本はそれ以上口を割らなかった。
単位を取るために仕方なく大学の授業に出席する田中。たが次第に周りの心の声が聞こえなくなっていることに気付く。それも「男子」の心の声だけ。
やがて中村までもが哲学的ゾンビと化してしまった。特に山本にとっては「他人の心の声が聞こえない」経験は初めてであり、さらに中村が「自分と同じ女」と関係を持ったことを知りパニックに陥った。二人は殴り合いの喧嘩を初め、サークルは自然解散した。
残された田中は一切男子の心の声が響かない教室で、謎の女子に声を掛けられる。彼女の名前は葵。そして哲学的ゾンビだった。
葵は田中の背中に体を押し付け誘惑する。間違いなく葵が哲学的ゾンビウィルスの感染源であり、山本も中村も他の男子も全員葵の魔の手にかかったのだ。だが女性経験の無い田中は誘惑に負け「お付き合い」を始めてしまう。
田中は葵の幼い頃の話を聞いた。葵は何年も入院生活を送っていて、退院後は反動で性に奔放になったとのこと。
「あたし『生きてる』っていうのを実感したいの!」
葵は自分が「死んでいる」ことに気付かない。見境無く男子を食い尽くし、自分でも知らないうちに哲学的ゾンビウィルスを感染させてしまう。
だが田中は自制できなかった。「手を繋ぐだけなら大丈夫やろ」といった根拠の無い論理を振りかざし「俺は哲学的ゾンビにはならんぞ」と思い込む日々。
ある日「キスだけなら大丈夫やろ」という甘い判断で、田中は葵と唇を交わしてしまう。葵の唾液が田中に付着した瞬間に、田中の意識がなくなっ
文字数:1200
内容に関するアピール
文芸サークル「破滅派」に所属する佐川恭一さんの「サークルクラッシャー麻紀」からインスパイアされた作品です。
「人の心が読めるエスパー」が「心を持たない哲学的ゾンビ」とファースト・コンタクトする話となっています。
「互いの心が読めなくなったエスパー」という展開にしようとしたときに、「サークルクラッシャー」要素を入れることを思い付いた次第です。
佐川さんは「非リア充」の物語を書く人という印象が自分にはあります。
第2回阿波しらさぎ文学賞を受賞されるなど、最近の佐川さんの活躍は目を見張るものがあります。
で、これまで謎に包まれていた佐川さんの素性が徳島新聞で明かされたのですが――。
……は? 子持ちの爽やかな好青年やし! めっちゃ「リア充」やん!!
作風と全然違うやないかワレ~~!! おのれ、よくもこのワシを騙しおったな~~~~!!!!
……こ、孤独は創作活動に欠かせないと、僕は思うな!
文字数:400
ゾンビパニックの論理哲学論考
1
「どうかしたん田中に中村、そんな顔して、俺なんか変なことした?」
いやいやいやいや、山本、お前の「心の声」が全っ然聞こえへんのやけど、まじで「どないしたん?」って聞きたくなってんのはこっちの方なんやけど、えっ、ほんまにこれ、どういうことなん?
(僕にも分からん)
いつもは山本のクソミソな情けない妄想の垂れ流しを「二人」で聞き合うってのが隠れた趣味やったとはいえ、もしかしてそれがバレたとか?でも普通の人って自分の心の声を抑えることなんてできへんで、いやさっきから自分も中村もずっとずっとずーっと心の声がダダ漏れやし中村も中村でめっちゃうるさいし、
(お前も充分うるさいわ、心の中でもさっさと黙れよ)
うっさい、お前に心の声で言われたくないわ、ってそんなことどうでもえぇねん、つまり山本は「何も考えてへん」ってことやろ、でもどうやったらそんなことができるんや、山本はいつもクソみたいなことしか考えてへんし、せっかく自分らと違ってよう勉強ができんのに、勉強以外に関しては相当こじらせてるというか、
「おいおい、俺の発言は無視かよ、というか二人とも何か顔色が悪い気がする」
そーだよ、山本のせいで顔色が悪いんだよ、っていうか本当に今の山本、何考えてんの?何考えてんのかさっぱり分からん、でも普段と何か違うっていうのは分かるけど、何が変わったかっていうと、心の声が読めないこと?そんなんはっきりと分かりきってることやし、
「逆に聞くけど、山本は最近何があったん?」
お、ナイスフォローやな中村、
(うっさい、黙れ田中)
さっきからずっと黙っとるわ、せやからお前とはずっと心の声で話してるんやろが、とにかく山本の心の声が聞こえへんのやったら、何とかして山本の「口」から本当のことを聞き出せ、頑張れ中村、俺は口下手やからなー、えらいえらい、はいはいすごいすごい、
(その発言、ただのクソ野郎だから)
「え、いや、その、別に、何も無いけど」
あー、今の山本、めっちゃ嘘吐いてるし、動揺が見て取れますわ、ってのは分かるんやけど、中村、山本が今どういう状況なんかちゃんと聞き出してくれよな、ほんま頼むわ、
(どうやったらいいのか分からないし、今まで「エスパー」の能力に頼り切ってたから、こういうときにどうしていいのか知らないし)
何やその態度、って確かにそうかもしれんな、自分ら心の声やなくて「実際の声」から本音を推し量ることなんてしたことないし、ということで中村、
(お前もちゃんと僕のことをフォローしてくれよ)
すまんな、俺もこういう不測の事態には滅法弱いんや、堪忍してくれよな、
「いや、だからさ、突然二人ともどうしたん、さっきから様子が変というか」
うーん、山本がさっきから動揺しまくって挙動不審の極みになってるってのは見て取れるし、心の声が聞こえんくなったきっかけの「何か」があったはずなんやけど、どうやってそれを聞き出したらいいのか、これが分からんし、というか山本の行動パターンとか自分らにはお見通しやと信じ込んでたんやけど、心の声が聞こえんくなるだけで一瞬でにっちもさっちも行かんようになるなんて、本当にこれからどないすればえぇんやろ、ほんまに――
2
あーむかつく、嫌な記憶がフラッシュバックしてきた、何やねんあの女子たち、この自分の顔を見るたびに(ほんまキモい)とか(田中菌が移るわー)とか反吐が出ることをぬかしおって、あ、別に言ってへんか、思ってるだけか、いやでもな、他人の心が読めるエスパーとか小説とか漫画やったらすごい能力やん、うらやましがられるやん、でもそれはエスパー本人の容姿っていうもんが無慈悲なほどに関係するってやつで、自分みたいに顔が悪かったら聞こえてくるのは(死ね)とか(消えろ)とか、どないせぇっちゅうねん、ただ普通に過ごしてるだけやろ、とにかくふざけんなや、自分のどこが悪かったねん、もうまじで殺してやろか、ってのは物騒やからそこまでせぇへんけど、でもその手前の、手前の手前くらいの、殴るとか蹴るくらいなら正当防衛として許されたやろ、でも自分は背がちっちゃいし体力もなかったからそんなことはできへんかったんや、なんやエスパーって、こんな使いもんにならへん能力を授けやがって、オトンとオカンもふざけんな、でも別に自分の親や親戚がエスパーってわけもないし、これってただの突然変異やん、ミュータントってやつやん、とにかくあいつらを見返すその一心でめっちゃ勉強して、それにプラスして自分より勉強ができる奴の思ってることを「カンニング」しまくってこの大学に入ったのに、あ、これはエスパーとしての正当な権利なんや、権利は利用せんと損なんで、それはともかくいざ大学に入ってみたらカンニングをせずに自力でこの大学に入れる奴らとの地頭の違いを見せ付けられて、大学の授業がさっぱり分からん、それにやっぱり同級生の女子たちも心の中では(キモい)(近寄んな)っていう、大人しくて知的な雰囲気を醸し出しながらも心の中では案の定自分のことをバカにするんや、何やこの惨めな気分は、新歓では酒を一杯だけ飲んで「ちょっと用事ができたんで帰りまーす」って言って泣きながら下宿に帰ったこの惨めさ、何でこんなんばっかフラッシュバックするんや、フラッシュバックっていう単語を自分が知ってしまったからこそフラッシュバックっていう概念が自分の中に染み付いてしまったんや、こんなことを思い出したくないんや、これで同じエスパーの中村と大学で友達にならんかったら自分はもっと闇に飲み込まれてたかもしれん、山本はエスパーちゃうけど非リア充という点では一緒や、で、仮に一人やったら大学で一人クーデターを起こしてたかもしれん、「リア充爆発しろ」という格言のごとく大学の構内に大量の爆弾を仕掛けて自分もろとも爆発するんや、爆発したら自分もリア充なんや、とそんなことを妄想しても自分には爆弾の知識も無いし、爆弾の原料とかを買うには外国の怪しげなサイトに行くしかないんやろ、自分英語は苦手やからなぁ、やっぱそんなん無理なんや、そもそもフラッシュバックっていう単語も英語やん、日本語にしろや日本語、自分は日本人や、そもそもいくらエスパーでも日本語を喋らん奴の心の声なんて聞いても分からんのや、あーあ、あいつら日本語で物事を考えてくれへんかな、特に留学生は何考えてるんか全然分からん、逆に何考えてるか分からんからこそそいつらと話してみよかって思ったこともあるんやけど、「デュフフ」っていうオタク構文ってほんまやったんやな、まじでデュフフっていう音が自分の口から出てきて相手の留学生が苦笑いしとったし、ってさっきから嫌なことしかフラッシュバックせぇへん、心の声が聞こえへんっていうのは今の山本もそうなんやけど、あいつの場合は何にも聞こえへんからなぁ、何か中村が頑張って調べてくれたんやけど、そういうのって「哲学的ゾンビ」って言うんやって、何が哲学なのかよう知らんけど、っていうか哲学ってよう分からんやん、ちょっと哲学の本をかじってみたんやけど、ちゃんと日本語で書けや、いや日本語なんやけど、もっと分かる日本語で書けや、まぁでも「ツァラトゥストラはかく語りき」とか響きが格好えぇし、ってそんなことはどうでもよくて、「クオリア」っていうのが無いのが哲学的ゾンビってやつみたいで、でも山本の顔全然ゾンビっぽくないやん、あいつ最近めっちゃピンピンしてんでって中村に言ったら「そういうことじゃない」って怒られて、いや怒られてはないな、「クオリアっていうのは意識のこと」って言われたけどあんまピンとこなくて、「心の中で思っていることがクオリアってこと」って分かりやすく説明してくれた中村には本当に頭が上がらへんし、まぁ中村も自分と似たような境遇で心のカンニングを駆使せんと大学に入学できんかったような奴やから自分と同じくらいアホなんやけど、アホはアホ同士惹かれ合うもんなんで、「でも山本はどっかの寺にでも入って修行して煩悩を振り払うことに成功したんちゃうん?」ってボケてみたつもりなんやけど、「あの山本が煩悩を振り払えるわけないだろ、バカかお前は」ってマジレスされて、関西やと「バカ」って単語は「アホ」よりキツい言葉やから注意したろかなって思ったけどよう考えたら中村は関東出身やから、関東は関西の属国やから、という寛大なお気持ちで黙ってたら、中村がエスパーってこと忘れててこれまで考えてたこと全部筒抜けでめっちゃ怒ってたし、まぁでもそんなんは日常茶飯事やから別にどうでもよくて、煩悩の博覧会でもある山本はエロいことしか考えてなくて、一回山本の家に行ったことがあるんやけど部屋中にエロゲーのグッズが山ほどあって、ようは山本はそんな奴なんや、あんまり言いたかないけど、抱き枕はどうかと思うで、それも六種類、疑似ハーレムは見てて切なくなってくるし、中村も自分と同じようにドン引きしてたんやけど、やっぱ他人の心が読めるエスパーってのは「ひょっとして自分も誰かに心を読まれているのでは?」って危機意識が働いてあんまヤバいことは考えへん傾向にあんのよね、サンプル数が二つだけだからよう知らんけど、で、山本にほんま何があったんって中村に聞いてみたら「知らん、お前も調べろ」っていうしょうもない返事で、でも中村の方が山本と付き合いが長いんやから、確か受験してたときの予備校の友達やったような、そう、ゴミ同士は惹かれ合うというし、まぁ自分もゴミなんやけど、ゴミの集積場として自分と山本はよく中村の家に集まって適当に遊んでたんやけど、山本の家はエロゲーしかないからゲームをするなら中村の家が一番で、自分の家は一緒に遊ぶ相手がおらんかったから一人用のゲームしか置いてへんし、そうそう、その哲学的ゾンビってやつに山本がなってから何回か三人でゲームしたんやけど、心の声が聞こえへんから山本に全然勝たれへんし、いかに自分と中村が人の心を読むことに頼り切っていたかの現れであって、それとは別に山本がめっちゃつまんなさそうにゲームしてたんが気になって「どないしたん?」って聞いたら「別に」としか答えてくれへんし、よくよく見たらいつものダボダボな服は着てへんくて、何かスラッとしたっていうか、まぁでもぽっちゃりしてるから腹は出てるんやけど、それでも何となく「頑張ってる感」溢れる服を着てて、髪も整ってて、あの髪型は何ていうんやろ、よう分からんけどまぁとにかく山本は頑張ってる感じはあったし、何となく自分らが避けられてるようにも感じてきて、でも何で避けられてるんかさっぱり分からんくて、っていうのを中村に聞いてみたら「女ちゃうか」って、あぁなるほど、自分があまりにも女っ気の無い人生を送りすぎてて、中村曰く「あからさまな」サインを見過ごすという陰キャムーブを無自覚に決めてしまって反省しきりで、だから自分はダメなんだという自己嫌悪に苛まれて、むかついてきて、山本はさっさと死ねと思って、でも哲学的ゾンビなんだよな、ってことは山本はもう死んでるんだよな、って考えるとめっちゃ怖くなってきて、中村に聞いてみたら「ゾンビっていうくらいだから人間としての山本はもうこの世にはいないかもしれない」って普通に言われて、まぁゾンビやもんなとか、リア充になった山本死すべしとか、そんなことを考えてた自分の浅はかさにまた自己嫌悪して、慌てて哲学的ゾンビについて調べてみたらこれは一種の思考実験で「人間には区別できない概念上の存在」とか書かれてたんやけど、いやいやエスパーの自分らにとってそれは既に「現実」の問題であって、「仮定」の存在として議論を進めている哲学者とか脳科学者とかのレベル感とは違って、こちらとしては真剣に考えないといけない大問題であって、「哲学的ゾンビはクオリアが無い以外は人間と同一」って言われても、つまりもう山本は人間ではないのではないか、死んでいるのではないか、じゃあ目の前にいる山本は何なのか、人間の抜け殻なのか、そもそも本当に哲学的ゾンビなのか、何故哲学的ゾンビになったのか、疑問が疑問を呼んで自分には何が何だかよう分からんくなってきたけど、中村と一致した意見は「山本は色んな意味で僕らから離れた」ということであって、それが中村の言うとおり「女ができた」という意味なのなら、やはり一致した意見は「山本死すべし」であり、既に「死んでいる」山本の葬式を妄想で執り行って、遺影を掲げて、お焼香を上げて、手を合わせたんだけど、棺の中に山本はおらんっていう、死んだはずの山本はゾンビとして女と付き合ってるっていう、ひょっとして哲学的ゾンビになったのはその女のせいか、哲学的ゾンビになって以降山本は不審な行動を見せ始め、それがゾンビの行動様式と言い張るんやったら、これまで自分が見てきたゾンビ映画のゾンビの行動は全く正しくなくて、本当のゾンビは「リア充」的行動を示すということになり、「リア充死すべし」という格言は実は逆で、やったら自分もいっそのこと哲学的ゾンビになってリア充になりたいなぁという漠然とした思いが沸いてきて、いやでもまだ死にたくないっていう人間としての本能が自分を押し留めて、そういう雁字搦めの相反する感情に自分は支配されて、中村から逐一報告される山本のリア充情報を聞くうちに、人間が先かゾンビが先かという哲学的論法が自分の頭の中でぐるぐると回り始め、「山本に女がいるのは確実だ」という写真が送られてきたときには思わず叫び声を上げて携帯を投げ付けてしまった、んやけど布団に投げ付けただけやから実際は「ぽふっ」っていう柔らかい音を立てて落ちただけでその後は何事もなかったかのように携帯は普通に動いてるし、そんな自分が惨めになってきて、リア充死ね山本死ね相手の女も死ねと呪詛の声を上げながら、泣いて泣いて泣いて、枕がびっしょりになって、いやさすがにそこまで泣けへんか、でもしっとりした枕に顔を埋めると「自分も彼女が欲しい」という本能に心が支配されて、山本の家で見たエロゲーキャラの抱き枕みたいに掛け布団をめっちゃ抱きしめて、羽毛布団の肌触りを女の子の肌触りに見立てて、決して叶えられることのない妄想に耽るようになって、最近は中村からの山本近況報告をチェックすることも億劫になって――
3
で、さすがに顔を出さんのは悪いかなって思って中村の家に行ったら二人が喧嘩してて、
「俺の女に手を出すな!」
「『俺の女』とか、男性である自分に女性の所有権があるっていうその考えが時代錯誤なんだよ!」
それはそれはもう目を覆わんばかりの無残な喧嘩で、確かに喧嘩慣れしてない自分が言うのもあれなんやけど、何から何までしょぼい攻撃で、二人とも腰が引けてて、前方に突き出そうとする拳の動きにキレが無くて、にも関わらずそんなへなちょこパンチを二人とも真正面から受けてて、二人の体力の無さか、どんくらい喧嘩してんのか知らんけどとっくに息が上がってて、スローパンチを避けることすらできんくて、すっげー顔が真っ赤になってて、鼻血も出てて、汗も出てて、でもゲーム機とか大事そうなもんはちゃんと喧嘩の邪魔にならんようにどけてあって、そんな覇気の無い喧嘩に付き合わされてる自分の身にもなってくれよなって、あれ、よくよく考えてみれば中村の心の声が聞こえてけぇへん、えっまじで、これってあくまでも心の声を出す余裕も無いってことやんな、でもめっちゃ心配になってきて、
「二人とも落ち着けや」
と間に入ろうとした瞬間に二人のカウンターパンチを同時に頭に受けてしまって、運動神経皆無の自分にはそれを避けきれるだけの力がなくて、一瞬頭の中がブラックアウトして、この程度で死んでしまうんやったらこれまでの自分の人生は一体何やったんやと思い始めるも、やっぱりこの程度で死ぬことはなくて、でもバランスを崩してその場に倒れてしまって、床にしこたまケツを打ち付けて、痛いし、そもそも何で二人は喧嘩してんのかと考えてみると、えっともしかして、というか本人が言ってたように中村が山本の女と付き合ってるってことか、ざまー見ろ山本、やなくて、さすがに人の女を取るんは「略奪」ってやつやしあかんやろ中村、それは人として、エスパーとして恥ずべき行為や、せやからお前が謝れ、お前が悪いんや、と中村に「念」を送り続けてると、何か知らんけど中村に思いっきし殴られて、
「田中、僕の心の声が読めないって言ったな?」
と「直接」中村に言われて、はてこれは喧嘩の最中でも分かりやすく自分の意思を伝えようとしてるんやなと思いつつも、でもどうやっても中村の心の声が聞こえんくて、一方で自分の心の声は中村に聞こえてるっていう、
「その通りなんだよ!」
とボカスカと中村に殴られて、痛いしそれを見てる山本も何が何だか分かってへん様子で、
「何で田中を殴ってるんだよ?」
「田中が嘘を吐いたからだ!」
何やそれ、嘘なんか吐いてへんやん、ふざけたこと言うなよ中村、
「ふざけたことなんて言ってない、さっき僕の心の声が聞こえてこないってふざけたことを言ったのはお前だろ!」
言ってへんし、いや思ってたけど、というか山本が困ってるやん、エスパー云々は二人だけの秘密やろ、
「じゃあ僕がいま心の中で思っていることをそのまま言い返してみろよ!」
って言われても中村の心の声が聞こえへんから無理なんやって、お前も「哲学的ゾンビ」になったんか、心当たりとかあんの?って心の声で呟いたら顔面に衝撃が走って、鼻血出たし、
「田中~!」
何が起こってんのかよう分からんし、そもそも中村と山本の喧嘩やったはずやろ、何で自分が中村の集中砲火を食らってんねん、山本も全然事態が飲み込めてないみたいやし、
「おい中村、お前何かおかしいぞ、それに心の声がどうとか、本当にどうしたん?」
「黙れ黙れ、心の無いゾンビ野郎!」
中村にゾンビ認定されてブチ切れたらしい山本が中村に馬乗りになって、
「はぁ~!お前が俺の女に手を出したのがそもそもの事の発端なんだろ!」
「山本は騙されてる、彼女は僕のことが!」
喧嘩慣れしてない人間の馬乗りほど醜いものはなくて、鼻血を手で拭きながらその光景を見てるけど、いやーキモいし、見苦しいし、「ペシペシ」っていうヘボい擬音語が似合うほど迫力の無い殴り合い、というかただの小学生レベルの喧嘩で、お互いに決定打を与えられずに硬直状態に陥ってて、
「僕は哲学的ゾンビじゃない、こんな山本なんかと一緒にするな!」
って、残念ながら中村はやっぱ哲学的ゾンビなんだよなー、と思ってたら今度は勢いの無い踵落としを食らって、
「クソが、田中も同罪じゃ、死ね!」
知らんがな、っていうか本来は山本と中村の女性関係の話やろ、何で自分が巻き込まれてんねん、とばっちりが酷すぎる、靴下がクッションになったとはいえ脳がシェイクされてめっちゃ吐き気がしてくるし、物理的なのもそうなんやけど、精神的にも吐き気がしてきて、でも今自分がこう思ってることもそっくりそのまま中村に筒抜けになってて、って思ってたらまた中村に殴られて、中村は自分の思ってることが分かってるんやろうけど、自分には中村の思ってることがさっぱり分からんので、って思ってたら中村が何か知らんけど泣き出して、
「僕はゾンビじゃない、僕はゾンビじゃない……」
中村は「普通のエスパー」で他人の心を読むことができる、つまり「中村は哲学的ゾンビやからなぁ」っていう自分の心の声が中村には聞こえてきて、だからこそ事実を知ってしまった中村は悲しんでるんやろうけど、陰キャの涙もまた見苦しいものがあって、泣きじゃくる中村につられたのか山本も涙目になって、それでも本来の目的を思い出したのか山本が中村の首根っこを掴んでポコポコと中村を殴り始めて、
「自分のことを棚に上げるな~!」
としゃくり上げながら叫ぶ一方、
「あの子は優しかったんだ、そういう女だって分かってたのに、それでも、優しかったから……」
二人の女々しい喧嘩を眺めつつ、そうなんや、山本の女は「ビッチ」で、中村にも手を出すような不埒な女なんやな、と思ったところに中村の右ストレートが鼻に命中して、
「あの子はビッチじゃない、優しくて可愛くて山本じゃなくて僕のことが好きなだけなんだ!」
打ち所が悪かったようで、
「俺の彼女はビッチじゃない、中村が俺の悪口を吹き込んで無理矢理略奪したんだろが!」
もう何が何やらのクソの地獄絵図で、さすがに意識が朦朧として――
4
体の節々が痛すぎてまじでどうにもならんし、でも単位がヤバいから休むわけにはいかんし、はぁ、ダルい、っていうかあれからもう一週間経ってんねんで、それでもまだ体が痛むってどういうことなん、さっぱり分からん、やっぱ運動せんとダメなんかな、でも運動神経悪いからスポーツは何も続けられんくて中高とずっと帰宅部で、というかせっかくエスパーなんやから将棋部とかに入って相手の心を読むっていうチートをすれば良かったかもしれんけど、やっぱできる奴の心を読んでもその内容がまるで意味分からんっていうか、本当に将棋ができる奴の心を読んだことがあるんやけど、一瞬で盤面の先の先のずーっと先まで考えるから、自分にはそれを捉えきれへん、何考えてんのかよう分からん、結局エスパーの能力なんて自分の無能さを自分で証明してしまうっていう諸刃の剣でしかなくて、ぶっちゃけ他人の心なんて読めないに越したことないし、そう言えばあれ以来中村と山本には会ってへんけど、二人とも哲学的ゾンビになってもうたからなぁ、死んだっていう認識でえぇんやろか、確かに人間としては死んでるんやろうけどそれが分かるのはエスパーの自分だけなんやし、他の人間にとっては中村と山本は生きてるっていう扱いなんやろうし、哲学者と脳科学者とその他大勢の一般人は哲学的ゾンビを「思考実験」としか捉えてへんくて、多分世界で自分一人だけがこれを「社会実験」って捉えてて、じゃあ誰がこの社会実験をおっ始めたんやっていう話になって、山本が最初に哲学的ゾンビになってその次に中村が哲学的ゾンビになったってことは、次はこの自分なのか、いっそのこと自分も哲学的ゾンビになって「死ぬ」のもいいかもしれん、大学に行ったら何とかなるって思ってたけど実際には自分から動かんと何ともならんっていう極々当たり前のことを突き付けられただけやったし、あ、やべ、遅刻しそう、うーん、結局「死にたい」と考えてもそれを実行するだけの勇気が自分には無いだけで、せめて死ぬ前には、その、まぁいいや、とにかく山本と中村は「そうしてから」死ぬことができたということであって、でもそうすることができたら死にたくないよなぁ、とりあえず何とか授業開始二分前に教室に入ることができたわ、って何なんこの部屋、いや確かに夏休み明けやし人が減っとるのは当たり前なんやけど、何か「静か」すぎへん?何も「心の声」も聞こえてけぇへん、いや「何も」ってのは語弊があるかもしれん、女子の心の声は聞こえてくるし、まぁ誰もこの自分のことなんて考えてへんのやけど、それは別にどうでもえぇねん、自分やってあいつらのことなんて何にも思ってへんし、でもどういうわけか男子の心の声が聞こえへんし、いやほんの微かにめっちゃちっちゃい心の声は聞こえるんやけど、とりあえず前の方しか席が空いてへんかったからそこまで歩いてるんやけど、やっぱ席に座ってる男子から心の声が聞こえてけぇへん、こいつらみんな哲学的ゾンビや、ちょっと焦ってきたんやけど、これってもしかして「ゾンビパニック」っていう展開なん?「パンデミック」って言った方がえぇんかも、とにかく哲学的ゾンビが「感染している」っていう状況におののくしかできへんくて、それでも平静を保とうとポーカーフェイスで空いてる席に座って、ってもう自分以外にエスパーはおらんからポーカーフェイスせんでもえぇような気もしてきたけど、いやもしかしたら哲学的ゾンビの中にもエスパーがいる可能性もあって、一方的にこの自分の心の動揺を見透かされてる危険性もあって、だからこそまるで何事も無かったかのように振る舞うべきやないかって、でも心を読まれたら別に意味が無いんか、あーもうよう分からん、一体どないなってるんや、
「すみません、隣に座ってもいいですか?」
って突然女の子に声をかけられてギョッとしてしまったけど、
「は、はい、大丈夫、ですよ……」
って挙動不審な受け答えをしてしまったけど、
「ありがとうございます!」
と「ありがとうございます」の最後の「す」を若干「すぅ」と語尾を伸ばすというあざとさを発揮されてしまうと自分としては満更でも無いという感覚があるのだが、ってちょっと待って、何で自分はこの子が「隣に近付いてくること」に気付かんかったん?えっどういうこと、待って、いやもう誰を待つのか知らんけど、はい?全然聞こえてけぇへん、女の子の心の声が一切聞こえてこない、この子、もしかして、哲学的ゾンビなの?違うの?でも心の声が聞こえてこないにも関わらずちゃんと生きてるように振る舞ってるってことはやっぱり哲学的ゾンビなんであって、でもこの教室にいる他の哲学的ゾンビはみんな男子っていうことを考えると、もしかしてこの子は男なの?なわけないやろ、童顔の女の子で、うっすらと茶色に染めたポニーテールで、女の子が鞄から何かを取り出そうとする度にポニーテールが左右に触れて、この自分を惑わして、あざといっていうのはこの自分にもよく分かってて、いかにも「清楚」ですよって服装でアピールしつつ、そのくせして明らかに胸を強調した服を着てるし、どうせ「ビッチ」なんやろっていう、この自分には分かるんや、前からこんな子はおったんや、モテない男子に受けそうな服を着て、その中でも上位の男子を見繕って強奪するっていうビッチ、清楚ビッチ、自分はそういう清楚ビッチの心の声を聞いたことがあって、彼女らは全てが計算づくで、何一つ計算してない男子の上澄みをさらって、ただしさらってくのはあくまでも「可能性のある」男子だけで、上澄みの下の濁りきった液体であるこの自分たちには一切目もくれないという、非リア充の期待を裏切るという意味合いでのビッチ、すぐに落とせそうな「大穴」を期待しつつ大穴以外は弄ぶだけ弄んで最終的には地獄の奥底に叩き落とすという意味合いでのビッチ、自分は騙されへんぞ、でもそもそも何でこの子は哲学的ゾンビなん、他の男子が哲学的ゾンビになってしまったことと何か関係があるんやろか、あるんやろな、だってどう見てもビッチやもん、狙いすぎやんこんなん、そういう意味ではこの子は見習いビッチに過ぎんな、見習いビッチなんや、クッソ、こんなに巨乳を強調しやがって、本来自分は胸が小さい方が好きで「貧乳」って言葉に付いてる「貧しい」とかいう形容詞が死ぬほど嫌いで、胸は大きいから良いっていうのは近代以降の思想であって本来胸は小さい方が魅力的やったんや、何が巨乳や、これ見よがしに巨乳を強調しおって、自分は騙されへんぞ、っていうかほんまに何で哲学的ゾンビなん、そもそも哲学的ゾンビってやっぱ山本と中村の件から察するに、やっぱそういうことなんやろな、ということはやっぱこの女か、自分の隣に座ってるこの女が山本に手を出したんか、で、その次に中村に手を出したんか、やっぱビッチやんか、ということは見習いビッチってわけではなさそう、っていうかもしかしてこの教室にいる男子の大半がこのビッチに「貞操」を奪われたんか、いやでもそもそも哲学的ゾンビって感染するもんなんやろか、だとしたらこの子が感染源なのはほぼ確実なんやろうけど、どうやって感染すんのか、空気感染か、接触感染か、それとも、言いづらいけど、あんなことで感染するんか、でも空気感染やったら他の女子も哲学的ゾンビになってるはずやから空気感染ではないはず、ってことは接触感染なのか、自分はビッチには屈しないぞ、エスパーではない山本はともかく、中村はビッチが哲学的ゾンビだと分かっていながら自らも哲学的ゾンビになってしまった、つまり誘惑に勝てなかったのだ、清楚臭に騙され、ビッチ臭を嗅ぎ分けられなかったのだ、そもそも哲学的ゾンビの警戒を怠るべきではなかったのだ、それなのに中村は屈した、どうやって調べたかは知らんけど、山本の彼女っぽい存在だと把握してたはずなのに、それでも中村は敗北した、己の弱い心に敗北した、哲学的ゾンビと化して滅んだ、中村という敗北者と違いこの自分は哲学的ゾンビにはならない、それだけは確実と言え、
「あー、教科書忘れちゃった……あのすみません、教科書を見せてもらってもいいですか?」
語尾の「か」を僅かに「かぁ」と伸ばすその応用技術を直ちにやめなさい、え、女の子がすっげぇこっちに寄ってきた、これがビッチの常套手段なのか、ビッチが体ごとこっちに近付いてきた、普通ならこっちが教科書を女の子の方に寄せるだけでいいはずなのに、ビッチはあえてそれをしなかった、自らの体を男子に寄せることで男子の心を揺らがせるのだ、彼女の左腕が自分の右腕に触れる、いや触れるというよりは「密着」していて、あぁこれは接触感染したか、という懸念はとりあえず問題なくて、今この時点で自分は「考えている」、つまり哲学的ゾンビではないという状況なので大丈夫、でも哲学的ゾンビは自分が哲学的ゾンビだと認識できないはずでは、ようは「自分が思考しているかのように振る舞う」のが哲学的ゾンビという存在なのであって、もしかしたら暖かくて柔らかくてしっとりとした彼女の感触が伝わってきたこの瞬間に自分は哲学的ゾンビと化してしまったのかもしれないが、とりあえず自分は「この時点ではまだ哲学的ゾンビにはなっていない」と判断する、自分は中村とは違うので、一線を超えてさえいなければ大丈夫なので、
「あああ、はい、どど、どうぞ……」
声は震えているが、心は冷静であって、教科書を彼女の側に寄せて、
「ありがとう!」
何やその満点の笑顔、めっちゃ可愛い、いやいかんいかん、相手はビッチやぞ、こうやってずっと前から無垢な男子を騙してきたんや、それが証拠にこの教室の男子の多くがこのビッチの魔の手にかかっている、そうに違いない、多分やけど、で、もしかしたら今の自分は背後から男子たちの冷たい視線を浴びているのかもしれない、「俺の彼女といちゃつきやがって!」という呪詛の声が本来ならば聞こえてくるはずなのだが、彼らは哲学的ゾンビであって、エスパーの自分でも死者の声は聞こえてこなくて、じゃああいつらは死んだものとして無視しようということになって、それとは別に隣にいるビッチさんの笑顔が、あかん、彼女は哲学的ゾンビや、彼女はもう「考える」ことができへんねんぞ、さっきから必要以上に自分に体を寄せてきてるような気もするけどそれは罠であって、哲学的ゾンビという鉄壁のバリアを張っていたとしても、エスパーの能力に頼らないでもこの自分にはビッチさんの行動パターンはお見通しなのであって、いや、でもやっぱ分からん、女性の哲学的ゾンビというだけであって、本当はビッチではないのかもしれない、ボディタッチを無意識に行ってしまう癖があって男子からは好かれるけど女子からは嫌われてしまうようなタイプの女の子なだけかもしれない、この数分間の彼女の行為は「何でもないこと」、つまり彼女はビッチではないのかもしれなくて、彼女は山本と中村とこの教室にいるその他大勢と実は関係なくて、つまり彼女もまた別の存在から哲学的ゾンビに感染してしまったという可能性も無きにしもあらずで、
「あっ」
彼女の左手が、自分の右手に触れた、消しゴムを取ろうとして間違えてこの自分の手に触れてしまったのか、ヤバい、これで哲学的ゾンビに感染して……はない様子、やはり普通に過ごす限りでは哲学的ゾンビには感染しないみたいなので安心、で済ませていいのか、さすがに彼女のこの行為は意図的だろう、やはり彼女はビッチである、悪魔の化身である、悪魔とは哲学的ゾンビのことなのかもしれない、ぱっと見では悪魔は人間と区別が付かないのかもしれない、だが自分はエスパーなので人間と哲学的ゾンビ、つまり悪魔の区別が付くので、一方で同じくエスパーである中村は自分の欲望に負けてしまったのだ、中村も悪魔に墜ちてしまったのだ、ということは山本も悪魔なのか、ってこんな悪魔論議を繰り広げたところで何もならんくて、彼女の左手のソフトタッチの感触を脳内で反芻して、我ながらキモいと思っているのだが、でも彼女の左手はとてもとても綺麗で、やはり上位の悪魔は天使と区別が付かないのであって、もしかして彼女は天使なのではないか、天女なのではないかと思いを馳せ、それこそが悪魔の真の驚異なのであって、あっ、彼女が教科書に顔を近づけてきた、と同時に腰から下だけを自分の方に寄せてきて、ぬわ、ふ、太腿が、でも下を見たら負けや、自分は誘惑には負けない、やっぱビッチやんか、これはビッチ以外の何者でもないやろ、ビッチやんか、普通初対面の男子に体を密着させへんやろ、もうソフトタッチってレベルやないし、太腿やで、偶然手が触れるとかとは次元が違うし、つまり明らかにこの自分が次の「標的」にされてるってことやん、早く逃げへんと、でも授業中やし、この授業は落とせへんし、単位が足りんくなるし、でもここは自分の「命」を心配した方がいいのでは、でも彼女が哲学的ゾンビの感染源とは確定してへんし、勝手な想像やけどこの程度やったら哲学的ゾンビには感染せぇへんやろ多分、とりあえずこの授業中だけでも――
5
いや、葵ちゃん、じゃなくて葵さんっていうんやけど、違う違う、いきなり下の名前で呼ぶのは馴れ馴れしいし自分にはそんなつもりなんて一切無いんやから本当は苗字で呼ぶのが適切なんやろうけど、彼女が、えぇい彼女っていう言い方も紛らわしいな、つまりその、葵さんが「ウチのことは下の名前で呼んでほしいな」って言うから仕方なく葵さんって呼んでるだけで、あの授業で偶然出会ってからまだ二週間しか経ってへんし、っていうかそもそもあれが「偶然」なのか微妙で、本当は始めから自分のことを狙ってたんちゃうかっていう疑惑が強いんやけど、でも葵さんの心が読めない以上彼女の本心は自分には分かりようもなく、そういうわけで何で二人きりでファミレスにこもってるのかが自分にも分からず、というかまだ二週間しか経ってないからこれは「お付き合い」とは決して違うのであって、そこを混同した山本や中村とは違うのだと自分に言い聞かせて、そうそうこれはあくまでも一緒に食事してるだけ、葵さんは葵さんで「未成年だからお酒の注文はせんといてや」と自分に釘を刺してきたんやけど、自分は大学二回生で一応二十歳を超えてて、あの授業を受けてるってことは彼女もまた成人済みという可能性が高く、本当は二十歳を超えているのではないかと邪推して、女子の中には何歳になっても中学生にしか見えない人もいるんで、でも葵さんは胸が大きいから、胸がたぷんたぷんに揺れてるからさすがに中学生には見えず、でも高校生くらいには見えるかも、けど高校生にしては「あざとさ」に満ち溢れてるからやっぱり大学生なんだろう、本当に未成年かもしれんけど、未成年ということを言い訳にして酒を飲まされるトラブルを避けたいってのが本音なんやろうけど、でも彼女はビッチや、ビッチって言い過ぎやな、「魔性の女」か、いやでもこれは例えが古いな、じゃあ「傾国」か、古代中国で美人過ぎて皇帝をたぶらかして国を滅ぼしたっていう故事か、でも彼女は「美人」っていうよりは「可愛い」ってタイプなんだよなぁ、「上の上」というレベルやなくて「上の下」、まだまだ上には上がいるって感じやけど、だからこそ山本や中村みたいな惨めな連中がコロリと騙されて、このレベルなら自分でもまだ釣り合うんじゃないかって、っていってもお前らのレベルなんて「下の中」やろ、さすがに自分は人間ができてるからお前らのことを「下の下」とは言わんけど、そんなんはどうでもよくてお前らにはどんな女の子も釣り合わんのや、で、それは自分もそう自覚してるのであって、やはり葵ちゃんは自分には釣り合わないというか、葵ちゃんがこのクソミソな自分に合わせてレベルを下げてるだけというか、弄んでるだけというか、メニューを注文する際に「意図的に」胸チラをしてウブなこの自分を興奮させようとするとか、あざとすぎて、浅はかすぎて、自分は小さい胸が好きやからそんな罠には乗らんぞと思いつつも、やっぱり葵ちゃんは胸が大きくて、ふわふわやん、いやさすがに触らんけど、触らんけど、ほんまに触らんけど、そんなんしたら犯罪やし、で、そんな自分の迷いを見越したかのような上目遣いで、
「田中くんはどれにするの?」
って「くん」付けかよ、「さん」付けではない理由はあるのだろうか、そもそも女の子も普通は男子に対してさん付けをすると思うけど、くん付けで呼ぶということに何か意味があるのだろうか、くん付けで呼ばれると陰キャは本能的に気分が高揚するということを葵ちゃんは熟知してて、
「そう言えばさ、田中くんって下の名前は何ていうの?」
「つ、翼です……」
脊髄反射で下の名前を答えてしまったが、
「へー、じゃあ今から『翼くん』って呼んでもいい?」
「はい、もちろん、です!」
脊髄反射で了承してしまったが、自分も下の名前で呼ばれるとは思ってもおらず、そこには海よりも深い意図があるはずだと思い込み、
「何かさ、関西ってめっちゃ『田中』って苗字の人が多いからどの田中くんか分からんくなっちゃって、でも『翼』って名前も最近多いんだよね~」
何やと、つまり葵ちゃんはこれまでも多数の田中と関係を重ねてきたというのか、それはけしからんというか、やはりこの自分もその他大勢のうちの一人だというのか、田中なにがし、一般人、でも自分はエスパーなんやぞ、他人の心が読めるんやぞ、自分をなめんなよ、葵ちゃんが何考えてんのかは一切分からんけど、
「ていうかー、翼くんちょっと暗いよ」
ななな、葵ちゃんが自分に迫ってきたし、えっ、何で手ぇ伸ばしてるん、ちょっと、それ前髪やで、ま、前髪を掴んで、かき上げて、ここまで近いと葵ちゃんの指が、めっちゃ綺麗、いや近すぎてピントが合わんのやけど、すっごく綺麗、何でや、何で自分はこんな貧相な言葉でしか表現できんのや、うわ指ほっそ、というか爪もピッカピカやん、めっちゃ手入れされてて、で、自分はどうなん、何にも手入れされてへんやん、せっかく葵ちゃんと二人でお食事するっていうのに、いつものクソダサいチェック柄のシャツしか着てへんやん、なんやそれ、あの山本でさえおしゃれに気を使ってたんやで、でもその相手は十中八九目の前の葵ちゃんやし、クソ、山本にできて自分にできへん筋合いは無いのに、自分はそうしなかった、屑すぎる、人間としての尊厳をどこに捨ててしまったんや、自分が人間という種属に属してるっていう事実を早く抹消したくなってきたし、
「ほらほら、前髪で顔を隠さんでさ、もっと自分に自信を持ったらえぇと思うんやけどなぁ」
葵ちゃんの手が視界から消えた、って思ったら、頭頂部に柔らかい衝撃が走って、
「おしゃれしたら翼くんももっと『可愛く』なんのに」
ポンポンしおった、葵ちゃんがこの自分の頭をポンポンしおった、以前読んだ本によると男は女の子にポンポンされると自尊心が傷付けられるから逆効果って書いてあったけど、それはちゃんとモテる男の話であって、自分みたいなゴミクズにとっては女の子に接触する機会が無いからその機会を得られたというだけで有頂天になって、でも「可愛い」って、男なら「格好いい」って言われたいのが本望なんやろうけど、そんなことはどうでもよくて、「電流が走った」っていう比喩の真の意味を知ったっていうか、理由は分からんけど全身に鳥肌が立ってもうて「気持ちいい」という感情に支配されてるっていうか、もっと葵ちゃんに頭をポンポンしてほしいっていうか、いっそのことナデナデしてほしいっていうか、あ、葵ちゃん手を離さんといてや、あーもうナデナデしてくれへん、女々しいって言われようが自分は女子に対して優位に立とうとするタイプやなくて逆に女子に抱擁されたいタイプなもんで、母性本能に包まれたいというか、母性本能をくすぐるタイプでいたかったというか、問題点は母性本能を浴びせてくれたのは実のオカンだけやったっていうか、まぁそれもそうかもしれんけど、こんなうじ虫野郎は人間ですらなくて哺乳類ですらなくていっそ脊椎動物ですらなくて人間の女性からは「相手」として認定されないから母性本能をくすぐるという僅かな可能性すら存在しなくて、
「どうしたの?」
あーいつの間にか片膝を付いてほっぺたに左手を当ててる葵ちゃん、左手の圧力で凹んでる左頬、柔らかそう、なんなんそのハリツヤ、メイクが薄いっていうのが陰キャのツボを押さえてるし、いや当然ナチュナルメイクっていうやつなんやけど、陰キャが苦手そうなギャルメイクやなくてナチュラルメイクっていう安心感を与える化粧が「やっぱすっぴんが綺麗な子が一番やな」って感じられて、でもこの考えは女子の努力を否定する最低な考えであることはさすがにこの自分でも分かるんやけど、自分みたいな非リア充を安心させるという意味では安全設計とでもいうべきものであって、何言ってるんや自分、こんなん全ては手頃な男子を自らの欲望のために食らい尽くすための罠やろ、目ぇ覚ませ、奴は性欲に支配されてるんやぞ、食欲と睡眠欲よりも性欲を優先する魔物なんやぞ、自分ができることは彼女から逃げることだけであって、一度深みにはまってしまったら山本と中村とその他大勢の男子の二の舞になるんやぞ、性欲魔神には勝たれへんぞ、ある意味ではエロゲー好きの山本ですらただの虫けらや、所詮は幻想に逃げた奴や、現実の性欲の権化には立ち向かうことすらできへんかったんや、で、エロゲーをやらん中村も三次元には勝てんかった、それは自らの意思の弱さが引き起こした悲劇であって、せめて相手が普通の人間やったら良かったんやけど、残念ながら哲学的ゾンビなんや、彼女とあんなことやこんなことやそんなことをして、二人は人間としての誇りを放棄してしまったんや、でも待てよ、ここまで言っておきながら葵ちゃんが全ての元凶っていう根拠はまだどこにも無くて、
「ウチみたいな子と二人っきりで、緊張でもしてんの?」
いややっぱり葵が全ての元凶やろ、緊張してんに決まってんやろ、何やそのフォロー、「別に心配せんでえぇよ」ってか、そうやって葵は数多くの男子を陥落させたんやろ、確かにな、葵ちゃんが哲学的ゾンビやなかったら自分も即行で葵ちゃんの快楽に溺れとったと思うで、別にそれで人間性は喪失せぇへんし、でもな、葵は哲学的ゾンビやねん、一時の快楽で人間を辞めるわけにはいかんねん、哲学的ゾンビになったらクオリアを失うねん、クオリアを失ったら人間の抜け殻になんねん、自分を模した自分ではない何かがこの世にはびこるねん、それは自分の意思やないねん、というか目の前の葵ちゃんも人間やないねん、一種のロボットみたいなもんやねん、自分は人間やからな、ロボットと付き合うのは無理やからな、
「ちょっと隣に座ってもいい?」
は、ちょっと何で席を立って、えっ、隣に座ってきたし、
「向かい合ってるよりも隣同士の方が喋りやすいかなー、って思って」
葵ちゃんの物理的な「圧」で壁と葵ちゃんの間でサンドイッチ状態になって、もはや太腿だけやなくて、葵ちゃんの全身が、上半身から下半身までが、これはあざとい、あざとすぎて逆効果に働くんじゃないか、って思ってるのはきっと自分だけで葵ちゃんは「こいつなら強引に行っても大丈夫」というのを本能的に理解してる、何やこいつ、心を読んでんのか、「接触大歓迎」という自分ですら気付かんかった性癖を熟知してやがるし、うわぁ葵ちゃん柔らかい、葵ちゃんの右半身が暖かい、これが女の子の圧力で、高校の物理で習った圧力の単位の「ニュートン」とか何で男の名前なんやろ、それは別に当たり前か、でも女の子の名前にしてたら今頃自分は工学部に行ってたかもしれん、万有引力を発見したのがニュートンやなくて葵ちゃんやったらな、ぐえっ、一瞬やけど、ほんの一瞬やけど、葵ちゃんが自分の肩にもたれかかってきた、葵ちゃんの頭が、肩に、肩に、嘘やろ、クッソー、葵ちゃんはもう「こいつは女に不慣れやけど強引にスキンシップを取れば大丈夫」って学習してるし、自分はさっきから全然喋ってないのにそれでもこの自分の挙動不審さから一種の思考パターンを読み取って、そこから導き出された結論に沿って行動してる、さすがはこの大学の生徒というか、エスパーの能力に頼らんでこの大学に入学できた人間の地頭は自分や中村のアホを凌駕してる、中村もこれにやられたんやな、あいつはアホやから自らの本能を優先しおった、でも自分は中村ほどアホやないから物理的誘惑には屈しないし、
「翼くんってさぁ、趣味は何なの?」
趣味きた、ついにこの話題がきてしまった、これって本当のこと言えばえぇんかな、一人ですることっていったら、読書とか、でも言うほど読書はしてへんし、読書って「とりあえず他人に言えないことを趣味にしてる奴」が言う趣味の代表格やん、いやこれは本当の読書家をバカにしてる意図は無いんやけど、でもなー、ゲーム……一人用のゲーム、それも最近のゲームとかやってへんし、ゲームって言っても幅が広いし、でも葵ちゃんは「そういう層」の男子を標的にしてるからゲームってだけで食い付いてくるかもしれん、いや食い付いてほしいけど、違う違う、自分は哲学的ゾンビにはなったらあかんのや、うーん、でもここはありのままを伝えた方がいいかもしれん、それがコミュニケーションの基本というやつで、本当にあかんかったら葵ちゃんも塩対応してそれで全てが終わるやろ、でもなー、今やってんの、三十年以上前のレトロゲームやで、自分も葵ちゃんも生まれる前のゲームやで、それをPCで遊んでるっていうか、いくらゲームって言っても葵ちゃんもドン引きやろ、せや、ドン引きで全てを終わらせよ、それが平和的解決、武力紛争の終結、無血開城――
6
めっちゃ楽しかったし、まさか葵ちゃんがあんなにゲーム詳しかったなんて、葵ちゃんはゲームを熟知してる、ゲームしか趣味の無いような陰キャの習性を分かってる、と同時にちゃんと本も読んでるみたいで、やっぱり葵ちゃんは賢いし、陰キャの気持ちが分かるし、こんなにゲームや読書について知的な話を楽しむことができるなんて、葵ちゃんには「一般教養」があって、とてもとても楽しい、そもそもこんなに優しい人には生まれて初めて会ったかもしれんくて、実のオカンやって息子の自分をいつも呆れ顔で見てたし、自分は誰かに優しくされたかったんや、たとえそれが性欲を満足させるための手段にすぎないんであっても、いや本当に性欲魔神かどうかは知らんけど、それは可愛い女の子が男にこんなことをするから許されるだけであって、仮に全く逆の立場やとして、男の自分がこんなことをしてしまうと女の子に呪詛の言葉を吐かれ心に不可逆の傷を負ってしまい、泣きながら「畜生畜生」と虚空に向かって叫ぶだけの惨めな自分の姿を想像してしまうと、どうやっても自分には他人を幸せにすることなんてできへんのやって心の中で涙を流して、そんな自分の左腕を葵ちゃんが両手で掴んでて、幸せという、秋になったばかりの涼しい夜空の下で歩いてる自分と葵ちゃんはまるでカップルなのではないかという、実際はそうやないんやけど、今夜だけはカップルという幻想を見させてほしいというか、ていうか実際これカップルやん、中村が騙されたのもよう分かるし、中村は意思が弱いから暗黒面に墜ちてしまったんやし、もはやそれは常人の意志では抗えないものであって、多幸感に包まれている自分がその最悪の結末を回避できるか自信がなくなってきたし、
「ねぇこれからどうするん?」
と葵ちゃんに言われて、
「さすがに帰ろうかと……」
と断りを入れれるだけの精神状態を保った自分、えらい、とてもえらい、一切の欲をはね付けた自分は仙人にでもなれそうな気がしてきて、もうこの記憶だけを頼りに永遠に山奥で霞だけを食って生活する人生を送りたい気持ちになってきたけど、でも「一線を超えない」まま山に引きこもるのはさすがに嫌やし、ただ哲学的ゾンビは仙人にはなれへんし、とはいえもしかしたら今後の人生も肥溜めのようなものにしかならへんかもしれんし、だったらいっそのことあんなことをして哲学的ゾンビになって「一生」を終えた方がえぇような気もしてきて、「喪失後」の人生を「人間として」意識することがなくなって、自分は仏教徒というわけやないんやけど、輪廻転生というかまた来世で頑張るっていう手もあって、つまり自分の人生は今夜絶頂を迎えて終わるという男子にとっては正に極楽浄土というわけで、そういう経緯を経て哲学的ゾンビになるっていうのはもはや「解脱」なのではないかっていう、全ての煩悩を解決することで現世への一切の未練を断つという、思えば自分の人生に良いことなんて何一つなかった、山本と中村が数少ない友達やったけど葵ちゃんに比べればカスやし、そんなことを思ってる自分はカス以下のカスやし、あんだけ中村のことをバカにしてほんまごめんっていう、葵ちゃんがビッチなのではなく本当は自分自身の心が弱かっただけというか、ここで朽ち果ててもいいという意志の弱さがあって、じゃあ何でさっき自分は「帰る」なんて言っちゃったのかこれが分からないし、やはり本心では「恐怖」を感じてるに違いなくて、哲学的ゾンビになってしまった「この自分自身」は一体どうなってしまうんだろうと、そんなことを無意識のうちに考えていたからこその「帰る」なのかもしれんくて、
「えー、私、嫌だな……」
やっぱビッチなんだよな、ビッチはこうすることでしか生きられへんのかもしれんくて、
「自分が言うのもあれだけど、その、いきなりそんなことをしようとするのは、やめた方がいいと思うよ……」
やっぱこれが自分の本心なんや、自分の安全を図ろうとして、葵ちゃんとはソフトなスキンシップだけで充分っていう、それ以上はもう自分の命が大切で、何やかんや言って自分は山本や中村やその他大勢みたいになりたくないし、ここで人生を失うくらいなら今のご時世金さえ積めば「卒業」くらいはできるんやし、それで自分の人生が満足するかと言われれば絶対に満足はせんのやろうけど、でも一時の心の迷いと命を天秤にかけるわけにはいかんくて、
「……翼くんさ、ウチのこと何となく『察してる』でしょ」
と突然葵ちゃんから「告白」を受けても自分にはどう答えていいのか分からんくて、
「そりゃあ取っ替え引っ替え色んな子と……で、これはウチの想像なんやけど、翼くんはそれでもこんなウチと『やる』か『やらない』かの瀬戸際で迷ってて、でもさ、別に減るもんやないと思うよ、少なくともウチにとっては楽しいし、男の子にとっては気持ちいいし」
葵さんはエスパーに違いない、ビッチさんはエスパーに違いない、おそらく葵ちゃんは相手によって自分の正体をバラすかバラさないかを決めてるに違いなくて、自分はバラしてもいい男子、本当のことを伝えた方がいいと判断した男子で、そうした感情の機微を読み取れるということはやはり葵ちゃんは哲学的エスパーゾンビなのであって、でもエスパーならば自身が哲学的ゾンビであることを察することができるはずであって、やはり彼女は哲学的エスパーゾンビではなくて普通の哲学的ゾンビであって、でも本当は自分やって「気持ちいいこと」をしたいんや、でも葵ちゃんが哲学的ゾンビやから、自分は哲学的ゾンビにはなりたくないんであって、
「ウチな、ちっちゃい頃はずっと入院しとってん、病院で一人でずっとずっと本を読んだりゲームをしたりしてな、確かに本とかゲームとかは色んな世界をウチに見せてくれるんやけど、でもそれは紙の上やったり画面の上のことでしかなくて、実感が伴わないっていうか、早く退院したいな、退院してみんなと遊びたいなって、ずっと思ってて」
「『遊び』、って……」
そんな言葉が反射的に出てしまったけど、
「まぁ語弊があるとは思うし、ウチやってそういうことをするなんてこれっぽっちも思ってなかったんやけど、でもいざ実際に『やって』みたら、その、『生きてる』って感じがして、あぁこれなんや、病院の白い部屋ん中でウチができんかったんはこれなんやって実感したっていうか、で、ウチが言うのも変やけどね、そこからハマっちゃったっていうか、生きてるってのを実感するには、やっぱりそういうのを直に体感するっていうのが近道っていうか」
葵さんは狂ってて、壊れてて、そもそも哲学的ゾンビやのに、いつから哲学的ゾンビになったのか自分でも気付かんまま、もしかしたら入院してたときには既に哲学的ゾンビになってたのかもしれんくて、じゃあそれなら今の性欲の権化である葵さんはただの抜け殻であって、抜け殻が「本来の葵さん」の知らない快楽に溺れてるっていうその矛盾に葵さん自身が気付いてないっていう、葵さんはもう死んでんねんで、退院できたんやけど、生きて退院できたわけやないんやで、って言おうとしても葵さんにはその意味が分かりようがないっていう事実に自分は愕然として、一体どうすればいいのか分からないままただ黙ってるだけであって、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」っていう哲学者の言葉を思い出して、でも「沈黙」っていっても心の中で思うだけで口には出さないっていうことであって、「語りえぬもの」って一体何なんやろっていう、これまでエスパーとして色んな人の語りえぬものを盗み聞きしてきたはずなんやけど、葵さんにとってのそれって一体何なんやろ、逆に言えば哲学的ゾンビになったからこそ「真に語りえぬもの」が生まれたっていう認識で満足するしかないのか、自分には分からない、そんなことを延々と脳内で反復するだけしかできなくて、葵さんの主張に対して何かを言うことなんてどうしてもできなくて、
「翼くんって、ガードが堅いんだよね~」
葵さんが自分の腕を離して、
「でもさ、別にウチとしてはそんな翼くんの意思を尊重するっていうか、キモい言い方なんは承知してるけど、『いつでも大歓迎』やから……これやっぱ相当キモい発言やん、ごめんね、こんな女で」
で、この場でさよならしてようやく自分の平穏が保たれて、これで一安心なんや、良かったんやなって、
「でもサヨナラの『挨拶』くらいしても、えぇよね……」
突然葵さんの顔が迫ってきて、葵さんは目を閉じてて、顔というかその、何というか、あれ、これって大丈夫なん、口というか、唇と言いますか、あれですやん、あれ、これ、どれ、よう分からんというか、今の自分の思考回路がこんがらがってて、接触っていっても、これ大丈夫なん、キモい言い方をすれば「体液」に接触するっていう、でもそういうまじもんの体液やないし、口っていうか、口内っていうか、葵さんも毎日歯磨きをしてるはずやから口内の細菌も当然死滅してるはずで、ということは哲学的ゾンビウィルスも死滅してるはずで、あ、でもウィルスは細菌ちゃうぞ、生物ですらないぞ、ってことはあれか、何とかファージか、名前しか知らんけど、ファージっていう響きが格好いいし、それが人の形をしたのが哲学的ゾンビか、知らんけど、でも生命ではないっていうからにはそれ自体がウィルスで、でもこんなに巨大な人の形をしたウィルスが「感染する」ってのもおかしな話で、つまり感染の可能性はめっちゃ低くて、でも山本と中村は感染して、ということはやっぱ彼女はビッチで、このキスも感染を目的とした人類への敵対行為であり、だとしたら自分も葵ちゃんのキスを避けなければならないのか、でも唾液は体液に含まれていないのでは、体液っていうのはオブラートに包んだ表現であって、その、下半身の、いやいやいやいや、そんな不埒なことを考えたらあかん、自分は哲学的ゾンビにはならん、そうそう、そういうことをせんかったらえぇんや、でもキスくらいなら、唾液やで、体液とはちょっと違うやろ、唾液はセーフ、そう信じたい、肌に直接触っても大丈夫なんやから、唇も大丈夫ちゃうんか、でもそううまくいくんかな、いかんかもしれん、でも葵ちゃんの唇が迫ってきて、って何でこんなにスローモーションなん、何やこれ、走馬灯ってやつか、じゃあ自分はこれから死ぬんか、でもまだキスやで、キスごときで死んでたまるか、さすがにキスごときで死なんやろ、自分は中村と違って葵ちゃんと一線を超えるような真似をするつもりは無いんで、自分は中村より賢いんやし、中村はアホやったから葵の罠に引っかかったんや、でも迫ってくる葵ちゃんがめっちゃ可愛くて、けどキスをするときの体感時間ってこんなに長くなるもんなんかな、そうか、これは走馬灯で、自分自身の本能が「生命の危機」を感じてるということであって、やっぱまずいのでは、このままキスをすることで自分は哲学的ゾンビになってしまうのでは、いやいやありえへんやろ、キスなんて普通は小学生か中学生のうちに済ませておくことなんやで、本来は「甘酸っぱい」って言葉で形容できるような「淡い」思い出なんや、哲学的ゾンビのどこが甘酸っぱくて淡い思い出なんや、自分はそんなこと認めへんぞ、まともな人間なら誰しもが通る道であって、たかがそんなことで感染してたまるか、自分は人間や、葵ちゃんは哲学的ゾンビやけど、自分はほんまに人間や、これからも未来永劫人間のまま人生を全うする運命にあって、今この瞬間にキスしたところで将来ジジイになったときに「そういうこともありましたなぁ」って振り返って思いを馳せるような、それこそ甘酸っぱくて淡い思い出になるだけなんや、普通や、自分は普通や、キスくらい大丈夫なんや、あ、走馬灯の時間遅延効果ですら葵ちゃんの唇の接触を妨げられへん、もう間に合わん、うわ、柔らか、むにゅってしてる、でもまだ唇や、唾液やない、あ、唇を開きおった、舌、舌を入れる気や葵ちゃんは、ビッチすぎへんか、ファーストキスで舌を入れてくるって、でも葵ちゃんにとってはファーストどころか千回目くらいかもしれんけど、やっぱビッチやん、自分はビッチにファーストキスを奪われたんか、でもビッチやからこそビッチ慣れしてるんであって、葵ちゃんの舌はほんまにエロいな、エッロ、常人の舌使いやないやろこれ、舌とか牛タンしか思い付かんくらいには自分の発想は貧相やと分かってるんやけど、葵ちゃんのビッチタンの表面から溢れんばかりの唾液が肉汁みたいじんわりと広がってきて、クッソ、ほんまエロい、自分の唾液と葵ちゃんの唾液が混ざり合って、混濁して、一体化して、もうほんまに自分はどうすれば
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