梗 概
トライポフォビア
精神科医エム(人間)は、人生の終末に差し掛かっていた。延命治療のおかげで100年以上もの時をいきていたエムであったが、人生の折り返しから意欲は年々低下し、いまだ生きている同年代の数少ない友人もすでに死活をはじめていた。エムは惰性を孕んだ仕事に、鬱屈した気持ちを抱え込んでいた。精神科医として身につけた技術は古びてしまい、新しい技術を学んでも若手に追い抜かれる日々であった。若い頃は、端正な顔立ちと精神科医という肩書から、雑誌の連載を務めることで、立場を手に入れていた。しかし、処女作『人工物との愛のススメ』を代表作とするのみで、あとは軽い内容の一般向けの啓発本や記事ぐらいしか書けない自分の能力を呪っていた。鬱屈した気持ちを吐き出すためにさらに駄作を量産したのだった。エムは、講演放送に出演する予定で会場を訪れるとそこには自動化した放送機器一台のみで、エムは会場の中ただ一人で放送を終えた。
失意のエムは、広告通知でたまたま知った惑星ボランティアに感心を持つ。惑星協力調査団に加盟登録し、鬱屈した自意識を満たすために、文化発展段階の低い惑星ペテロに志願した。意欲を失いただの古びた知識しか持たないものでも、きっとヒエラルキーの頂点に立てるに違いないと考えたのである。文化知識を把握するためとして、惑星ペテロの星の伝説について課題絵本を渡されたが、点描画が続くばかりでエムには退屈だった。
一人で乗り込んだ惑星ペテロ。現地コーディネーターで惑星協力調査団の上官のルル(情報機器)から任された仕事は、『星読み』つまり星占い師であった。困惑するエムは、なぜ精神科医として勤務できないのか問うと、文化発展の未だ底辺を這う惑星ペテロでは、『星読』が精神科医的な役目を担っているという。精神科医の知見をいかすためには、『星読』しかないと言われたエムはしぶしぶ教主エヴィアンが出没するという場所まで会いに行く。
教主エヴィアンの姿は浮遊する集合体の玉であった。教主エヴィアンは微細な穴から光を放ちエムを迎えた。発光できないエムは、了解の合図として頭を振った。エムの母星と異なる星座の見方を教わり、自分の人生の道しるべとして惑星ペテロの星を読むことに熱中する。エムは、エヴィアンに鬱屈した今の自分自身、恥部を吐露する。生身の自分をさらけ出したエムは、自分自身の欲望に気づき、エヴィアンに愛をつげた。星読みとしてエヴィアンのそばで助手を務めつつ、愛を証明するためエムは、集合体球の求愛の方法でである、高音から低音へと切り替わる余韻音を身に付けようとする。あるときその余韻音を出せたそのとき、エヴィアンが上下に揺れつつ余韻音を発したのだった。
文字数:1114
内容に関するアピール
知性体と恋愛にいたってしまう話を書いてみたいとおもいました。
科学的なものと非科学的なものとが出会ったとき、対立するのではなく融合してまた別のものとなって進化するそんなことも考えてみたいです。
参考文献
春日武彦『鬱屈精神科医占いにすがる』
鈴木裕之『恋する文化人類学』
野﨑まど・大森望『誤解するカド』
野尻抱影『星の民俗学』
矢野道雄『星占いの文化交流史』
文字数:174
トライポフォビア
起動していた機械音がとうとう停止した。永久電灯の光が眩しい船内の外を遮るドアの前に、エムはうずくまっていた。身に纏っている青色の作業服の背中には、白字の文字が記されていたようであったが、ひどくかすれてその文字は読むことができない。頭を覆っていた厚い布を放り投げて、エムはむくりと起き上がった。短髪の黒髪は、船内の明かりを受けて鈍く光り、透き通ったかのように瑞々しい肌に、ひときわ目立つ黒々とした瞳はドアの小窓から薄明の外を見つめ続けていた。突如、軽快な機械音が、船内に流れ出した。エムの手首にぴったりと巻きついているリング型の小型端末機から小さな赤いランプが点滅した。点滅した光によって端末機の黒い表面は、継ぎ目さえわからぬ滑らかさを際立たせ。
『惑星協力隊志願員エムさん、とうとう目的地惑星ペテロに到着いたしました! いゃぁー長い旅路はいかがでしたか? 時に泣いたり笑ったり怒ったり、しかし互いに励ましあったサポート役としてのパフォーマンス評価をぜひお願いします。また今後も惑星協力隊の志願員のためにも様々なデータ提供をお願いしたいと思います。そのために私ルルもサポートを怠りません。長い間のナイスな相棒としておそばに置かせてくださいね』
少年のような声が船内に響きわたっても、エムは外の小窓から目を離すことはなかった。ただじっと下界を閉ざすドアの向こうを睨み続けている。応答のないエムの様子にルルは、動作を鈍らせたが、再度赤ランプを点灯させた。
『ほほう、もしかして到着に動揺されていますか?? 無理もありませんね、辺境の惑星ペテロに舞い降りた隊員は、今までであなたたった一人! 経済的発展段階が著しく劣っている惑星ペテロを志願されたのは、素晴らしい行いでしょう。母星から遥か彼方、辺境の星にやってきたあなたの志は、永遠に惑星協力隊の記録に刻み込まれることになるのです! あなたの母星で培いましたそのご経験を、この惑星ペテロで存分に生かしましょう。現地での主な労働は、農耕や狩猟や漁などです。一方であなたのご経験を生かす労働としては、理不尽な自然に振り回されてしまいがちな惑星の皆様に適切なアドバイスをなさることです!』
拍手喝采の効果音と女性の甲高い歓喜の声が、船内に反響した。それを聞いたエムは、突如立ち上がり、手首についた小型端末機をドアに、何度も、何度も、叩きつけた。ドアに小型機がぶつかるたびに不快な音が壁を伝うようにはしった。赤いランプが先程よりも強く光り続けた。しかし小型端末機は傷一つつかなかった。
『失礼しました、失礼しました、あっやめて、痛い痛いです。も』
「痛みなんて感じねえだろうが、こら、こら、早くここから出しやがれ、何考えてんだいったい、もう到着したんだろうが、お前と話すのももう飽き飽きなんだよ、黙れって言ったらずっと黙っているもんだ、こら」
エムは、その端正な顔立ちを際立てている赤い唇から濁った声を吐き出し続けた。小型機の表示画面にわずかにかすり傷がつき始め、そろそろ傷が刻まれるかと言ったところで、エムの体力は限界に達した。何度も叩かれた小型機が装着された手首は、その白い肌を真っ赤に染まっていた。真っ赤な一雫が小型機を伝って床に落ちた。
『あぁ、もうやめてください。ドアが開かないのは惑星ペテロの異常を探知しているからですよ、大切な志願員の命をそうむざむざと散らすわけには参りません。ですが、長い旅路のご苦労で、メンタルのほうもかなりのストレスのようですね、ご』
血の滴る端末機に、エムは奥歯まで噛み込んだ。端末機は、さらに唾液で塗れたが、全く傷もついていない。先ほどまでの黒々とした丸い瞳は、見開かれてあらわになった白目に赤い筋が走っている。端末機は、まったくエムの手首からはなそうにもない。
「私の前でメンタルがなんだ、ストレスがなんだいうんしゃない。お前の薄っぺらい情報で私を語るな、私のことをずっと監視して管理してきたのも、もう終わりだぞ」
そう言い放ったエムは、右手はドアのヘリを掴み、左手をもって血と唾液で塗れた小型機を滑らして外そうとする。その見開かれた瞳は、充血して今にも血が溢れそうである。
『わかりました、わかりました! このままでは、あなたがイカれてしまうのもルルにはわかりましたよ、それではいっそのこと、あなたを一度惑星ペテロに降りたたせてあげましょう、けど注意してください、何か異変を探知していますから。それでもこのままではあなたがイカれてしまうから、仕方なしにルルはドアを開けるように操縦システムに要請いたしますよ、そうまずは深呼吸。そして一度惑星ペテロに降りたら、また戻ってくるのですよ、約束できますか?』
エムは疲れ切って、勢いよく床に倒れ込んだ。視線は空を漂って、焦点が定まらない。
端末機は、赤いランプを点滅させ、画面には、通信中との文字が表示されてた。
『今回あなたのように動揺になって起こった件は、数多く報告されています。前例の処置に照らしあわせました結果、船外へ出ることを一時的に認めることにいたしました。惑星協力隊運航船から10メートル以内の所を移動することを条件といたしますのでご注意ください。注意危険信号はA、何者からの監視を意味していますが、こちらでは詳しくは感知できない範囲です。情報も乏しい辺境の星で、こういったことは少なくありませんが、十分注意して行動してください。なお、この件に対する緊急事態対応及び注意事項報告の義務について十分に満たしていることをご承認ください』
むくりと顔を端末機にむけたエムは、端末機にたいして再度また殴打を加えた。
「また小馬鹿にした口調ににもどりやがって、ああ、承認した。とにかくドアを開けろ」
閉まっていた錠が、カチッという軽快な音を出す。エムは、おそろおそろドアの取っ手をつかんだ。その取っ手は、無理に開けようと試みたのか、ひっかき傷や殴打跡、さらには火に熱せられうすく煤の残っているところがある。足で踏ん張りながら、ドアを少しずつ開いた。船外は、薄暗い森林の中であった。開いたドアから冷たい空気がエムの顔をなでて船内へと入り込む。どこかにこちらを見ているものがいるらしい、けれどいてもたってもいられない、とうとう外に出られるのだ。エムは、取っ手から手を離し、船外へと飛び降りた。地表へと足が付くかと思ったその瞬間、エムは闇の中に浮かんでいた 。
あたりにはなにもなく、ただ闇の中にほおりだされ、エムはただ一人宙に浮いていた。瞳に入り込む闇に目がなれると、あたりにはいくつのもの光線が目に飛び込んできた。くらんで目を覆って、その光から逃れようとするが、あわせた手の隙間、指の関節の隙間からやってくる。声をあげたような気がしても、自分の声は聞こえない。エムは、手で顔を覆ってから、わずかに体が後ろに後退し、ついに上と下が逆転したのを感じた。自分が先ほどまで下だと感じていたものが、次には上となって、最終的には自分が立っているのか、それとも周りが回転しているのか、エムにはわからない。足から脇から何筋もの汗が、ふきだしても伝うことはない。エムは、決して瞳を開けないように目を閉じつつけ、手を覆い続けた。絶対になにか訳のわからぬものが、そうさせているにちがいないのだから。
薄いまぶたから光が過ぎ去って、また現れる光景にエムは既視感を覚えていた。それは幼少期にのった深夜の船の窓を照らす、過ぎ去っていく灯火だ。高速で進む運行船から、その灯火を放つ物体をとらえることはできなかったが、それでもその灯火だけは、エムのまどろんだまぶたの裏に跡を残すのだった。一睡もせずただ船の進路をを見誤らないように操縦席に座る母の姿も思い出した。まだその頃の母は、髪は長くつややかで、操縦席の後部座席に座るエムは、その髪の毛をみて安心したものだった。だから安心してあの宙を走る船の中で眠ることができたのだ。闇の中ただ一人で困惑するエムの閉じたまぶたから涙が流れだし、エムの顔を濡らし続けた。まぶたから流れ出したものが乾ききったとき、エムは手から漏れ出す光線がわずかに弱まっているような気がした。前後不覚だった感覚も、今では自分自身が制止しているかのようにエムは感じ取っていた。母のあの甘い髪の香りが鼻をかすめたような気さえする。エムは目を開けた。
遠く遠く、絶えることのない、そんな空間が広がっていた。吸い込まれそうな、その澄んだ闇の中、幾千もの光がエムを包み込む。小さなものから大きなものの光の正体は、星々の光であった。宙に浮かぶエムの右足から、強い光が差し込んだ。
それは、太陽である。
エムはその光に目をそらし、真下を見つめた。すると、太陽に光りは劣るものの、一つひときわ目立って光る星があった。その星に間隔を開けて連なっている星が二つある。真ん中の星は、両側の光に負けている。ふと、上を見上げると、たくさんの光の流れに、斜めに並んだ三つの星とそれを囲んだ四つの星に見覚えがあった。指でその星々をなぞり、つなげ合わせると、エムの顔に笑みが浮かんだ。いったい何が起きているのかわからない、けれどもうおびえることはない、それだけはわかっていた。
その星の連なりをいつまで見ていたか。疲れたエムは首を下ろすと、澄み切った闇とその輪郭線を分けることができる、下部のみぼんやりと鈍く光る星を見つけた。その弓のような曲線を描いている。後方の闇とはまだ違う奥行きのない暗がりが光っていない部分に広がっていた。その星は、どの星々よりもはっきりとエムには見ることができた。すこし近づけば近寄ることができるような気さえしてくる。しだいにその光は暗がりさえも覆っていき、そのやわらかな光をあたりに放つのだろう。
そう思った瞬間、点として光っていた星々が突然、線となって動き出した。
その光線は消えることなくエムの周辺を回り続け、とうとう一つの円を描き出し、さらに闇を光の渦で見えなくしてしまった。巨大な光線の円の中、一点の暗がりのなかにあった。ぼんやりと光っていた星の部分である。先ほどの光っていた下部は、他の光に含まれて見ることができない。その暗がりの凸型の部分だけが、エムの前にあった。
エムは、腕をかき、足をばたつかせたり、蹴り上げたりして、その宙に浮かんだ自分の体を、なんとあの暗がりから逃れようとした。けれども、後ろを振り向けば、恨めしそうにその凸型の暗がりは、じっとエムを見つめて、ずんずんとその暗がりを広げてエムに迫っていた。もはやむりだ、と瞳を瞑ったその瞬間、エムは闇に吸い込まれた。
空から落ちた感覚に驚いて、エムは飛び起きた。自分の顔をのぞきこむ、男の顔が目の前にある。
「あれええ、おききたか、だだだ大丈夫か」
男の口からひどい口臭が立ち上がる。エムは軽く咳き込んだ。板敷きの床に寝かされて、気休めの薄い布が掛けられていた。男の声の意味は把握できたものの、妙な音のダブりがあった。左手の小型端末機の翻訳機能の確認をしたかったが、画面は起動しなかった。
「なんなんだ、さっきのは? 」
「おおお前、なんかあったたたんか」
男は依然として心配そうにエムをのぞきこむ。黒いオーバーオールに身を包んだ男は、髪は整っていて、ひげも丁寧に剃られていた。浅黒い肌とがっしりとした体つきから、肉体労働に従事している様子だった。足元から腰あたりまで泥で湿っているようだった。男にエムは、自分が見たものを話した。周りを走る星々と弓形に光る星。いったいあれはなにを表しているのか、エムにはわからなかった。
「それはおおおおままえの一生だだだよ、みんな覚えてててもふつうううは黙っててるもんだ。」
人に言うものではないと、男は声を荒げてそう言い放った。飛び散ったつばがエムの顔にかかる。ひどい口臭にエムは鼻を覆った。興奮しながらも、聞かなかったことにしてやると男は様々なことをエムに教えた。エムの見たものは、うまれた瞬間の記憶であり、だれしもが持って自分の指針にしていること、それは大切なにしなければならないこと。
「おまままえ、どっかかかとおくの、れんらくがあっったやつだろ、きょうううみせられたのは、おまえのうままれたころ巡りあわわわせだ。たたたぶぶん、それをししししんにいきききろてててことだ」
最終的に男は、エムの背中をたたいた。気分を持ち直して、快活に笑う男のあっけからんとした表情にエムは好感を感じた。
「みせられたっていうのは、どういうことだ? 誰がいきろっていっているんだ?」
「そんなんななは、エヴィヴィヴィアンだよ、見えただろう? 」
はっと開いた口を開けたまま、男は、ひどく地団駄を踏んで、拳で自分の顔を殴った。どうやらまた他人に言ってはいけないことを聞いてしまったようだ。エムは、男が落ち着くまで待った。
「いつもこんなことしゃべんんんねえから、だめだこれ、ふつつつかかあちゃんがこっそりりりおしえええてくれるんんんのににに。おめめめえあかごこごじゃないけけけども、どうだ? なななにがあるかわかかかんねえけどなおれれも」
男が言うには、この記憶を見た赤子はずっと泣き止まない。ゆえに赤子を祭壇においてくるのだという。数時間経って戻ると、赤子はすやすや眠っている。
男はまたじっとエムの顔を覗き込んだ。
「うんでも、ややややっぱりり、そそそうだな、おおおおまえ、赤子みてててえなもんだな、ずっとないいいいてるしな」
え?
それを聞いたエムは、手で触れ、体を見渡した。顔は涙で濡れて、着ている作業着もじっとり濡れていた。
「よよよよしし、おれれれがつれてててやる、あああああんしししんしろ」
男は大ききな手で、エムの頭をなでた。汗ばんだ手のひらは肉厚で、まめのできたところがときどきエムの額をこすった。
男は、弱まりはすれ、涙がとまらないエムを負ぶって、祭壇へとつれてきた。エムが眠っていた場所は男の家で、そこから祭壇まではそう遠くなかった。あたりはだんだんと明るくなり始めていた。人気のない林をいくつか抜けて、開けた場所に出た。祭壇と男がそう呼んだものは、中央にいくつもの柱を並べ重ねたような岩であり、高さは、男の腰あたりで、赤子数人が乗せられるくらいの大きさだった。そのひとつひとつの重なった柱の表面はまるで蜂の巣のようで、小さな六角形がいくつも連なっている。岩のそばにはツタがいくつも絡まった大樹がその大きな枝の陰で岩を覆っていた。男は、また数時間後に戻ってくるから安心しろと言って、去っていった。
エムは、その下ろされた岩の冷たさを感じて、男から貸してもらった厚手の布に包まって眠りにつくことにした。止めようとしても止まらぬ涙の理由は、エムにははっきりとはわからないが、しかしそのきっかけはなんとなくわかるような気がしてもいた。
泣いた赤子のようにしておけば良いといった男の言うとおりにただ泣き続けて眠ってしまうのもどうかと思っていた。そもそもそのエヴィアンというものに実際に会えるかどうかはわからないのだ。しかし、エムはやることがほとんなかった。止めどなく流れる涙を拭きもせず、重い瞳を閉じた。
橙色の灯火。室内灯の青白く頼りない光の中に、窓からときおりこぼれて光が差し込んだ。エムは、うとうとしていた瞳をはっと開いた。エムは操縦席にいたのである。軌道は逸れることなく進行していた。さっと後部座席を振り向くとそこには赤いワンピースを着た、髪の豊かな女が、小さな口を無防備に開けて窓に寄りかかりながら眠っていた。健康そうな肌に、くっきりとしたまぶたや鼻やまゆが揃っている。眠っていても確かな意思を感じさせる、利発的な顔だち。長い黒々とした髪は、曲線を描いて、そのほっそりとした手のひらやまるみを帯びた太ももに流れている。そっと、起こさないようにエムは近づくと、その柔らかな髪に軽く触れた。エムの指は微かに震えていたが、それでも撫でることをやめることはない。
女の頭がわずかに動くと、大きくはっきりとした瞳がエムを見つめた。
「もうそろそろかしら?」
女は、親しげな笑みをエムに向けた。
「楽しみだわ、早く着きたいのに」
エムは髪を梳くことをやめなかった。エムの瞳は女を見つめることなく、手のゆく先をじっと見ていた。手の震えはだんだん強くなって、うまく髪を梳くことができなくなる。
「ねぇ、あなたも一緒にいきましょうよ。中途半端な仕事を放って、しがらみから解放されて、ここまで来てくれたのにもったいない、ねぇ?」
女は、髪に触れるエムの指に、細く長い指一本一本を、ゆっくりと絡め合わせた。手の温かさがエムの冷たい手にじんじんと伝わってくる。
「いや、私は……」
「もう充分に生きたわ、もう次の楽しみって言ったら、これしかないわよね? そうでしょう?」
ぎゅっと握られたその手を、エムは握り返せなかった。手を離して見ると、手のひらが船内の明かりできらきらと光った。エムは、急いで手のひらを服で拭った。大きく息を吸って、エムは口を開いた。
「いくら私と話しても、考えを変えようともしない君が、どうして私の考えを変えようとするんだ。ここまで連れてきたのは、君に、未練があるからだ。別に君とともに、行きたいわけではないし、君を止めるわけでもない、なのに、どうして君は、私を、連れていこうとするんだ」
堰を切ったかのようにエムは女に向かって言い放った。女は、エムの言葉を予想していたかのように、驚かずにエムを見上げている。
「だって、心配なんですもの、私が死んでしまった後の、あなたが」
だって今も、取り乱してるでしょう? そう言って女は、席から立ち上がってエムを抱きしめた。エムの顔に女の髪が触れた。立ち上る甘い香り。
あぁ、失ってしまう。母のかわりとなったこの妻を。どうして、先にいってしまうのか。私が歳を取るのをやめたとき、母は子どもが自分と同じ歳になるなんてと言い、気持ち悪いといい、もう充分に生きたし飽きたと言い残して、なにも言わずに消えていった。老いていくなんてただの生恥を晒すだけだ、さらに醜く生きるのかと仕切りに手術を進めた母の言葉に、なす術がなかった。母のかわりに手に入れた、この女を「もう充分に生きた」という言葉で失おうとしている。エムは、女の体を抱き寄せて、髪に頭を埋めて、その香りを吸い込んだ。鼻から吸い込んだその香りは、体の中にあふれては消えていく。言ってもどうにもならない言葉を吐き出さないように唇を押しつけた。女がなにか言うたびに、うん、うん、と何度もエムは頷いた。
抱きしめていた女の感触が硬くなる。女の体が丸まって、ひとつの球体となった。表面にはいくつもの六角形の模様が所狭しと並んでいる。その球体を抱きしめていると、ふっと宙に浮かび上がった。ふたつの球体が、宙に浮かんで、互いの周りをくるくると回っていた。そのふたつの球体が回るたびに奇怪な音がする。六角形の模様のところどころから淡い光が漏れ出した。その光景をずっと眺めていると、ひとつの球体から光が消えて、その球体は、闇の中へと落ちていった。もう一つの球体が、その後を追っていく。球体は、その六角形の模様によく似た岩を見つけると、そこに寄り添い、寝転がった。それからというものいくつもの星をみる、ある日のうちにいくつか、別の日にはまったくないときもある。生まれたばかりの男の子。宙には、エムの見たことない星の配列が広がっていた。その子は、どんどん成長し、大きくなったある日、大切なものを思わぬ相手に奪われてしまう。悲しみのあまりに引きこもって、永遠ずっとそうして最期を迎える。男の子は泣き止まない。なぜなら、自分の一生を見てしまったから。球体がそっと男の子に寄り添うと、びくんと大きく痙攣して、すううと大きな息を吐いて、そのうちに眠り込んでしまった。
目が覚めると、エムの腕の中には、あの六角形の球体が存在していた。押しつけていた唇からひんやりとした冷たさが伝わってくる。
「もう充分なことなんてない、何年、何百年生きたって、いいじゃないか、うまくいってなくったって、生きていたっていいじゃないか、醜くたって、私は、生きててほしかった。母さんにも、妻にもずっとずっと生き続けてほしかった」
その球体をじっとエムは抱きかかえていた。しばらくして、気づいたかのように急にまぶたをこすると、エムの涙は止まっていた。
エムがこの惑星に着いてはや数日がたった。エムは、あの祭壇にきてからずっとあの球体のそばを離れなかった。
エヴィアンと呼ばれた球体は、生まれたものの一生を垣間見られるようだった。一生を見てしまった赤子は泣き止まず、この祭壇につれてこられてエヴィアンのそばにいると自然と泣き止んだ。その光景を何度も見て、不思議に思っていると、あるときエムは思い出した。流れ込んできたエヴィアンの記憶、闇の中に放り込まれたその孤独感に、まるで一人ではないと言われているような気がして、涙が止まったのだと。
エムは数時間後、また戻ってきた男に、何を見たのかすべて話した。終始、男は不機嫌な表情を浮かべていたが、ある男の子の話にさしかかった途端、神妙な顔つきとなって黙ってエムの話に聞き入っていた。エムがこの祭壇から離れるつもりがないことを男に伝えると、男は定期的に食べ物を運んで来るようになった。が、エムが全く食べずとも普通に生きているのに気づくと、男は、ふらっとやってきては、エムの様子を確かめて帰っていった。
子どもが生まれたという瞬間は、エヴィアンの状態で判断することができた。宙に浮かんでエムの周りをくるくる回っていたかと思うと、突然動きが停止して、地面にむかって落ちてしまいそうになのるのだ。そういうとき、エムは急いでエヴィアンをキャッチする。数分経つと、思い出したかのように、ふわっと宙に浮かびだすのであった。
赤子は泣き止むころを見計らって、親が迎えにやってくる。親がいる間、エヴィアンはそばに生える木の枝のなかに隠れてしまう。大人になった親はおぼろげにしかエヴィアンを覚えていない。存在すら疑っているような節さえある。けれど、敬意を払っている様子で、不必要にこの祭壇に近づくのは、あの男だけだった。
誰に迎えにきてもらうわけでもないエムは、エヴィアンを、ときにキャッチしたり、ときに抱きしめて眠ったりしていた。しだいに、エヴィアンも慣れた様子で、エムの腕のなかにずっぽりと入り込むときもあった。
エヴィアンが事切れて動かないとき、エムはこっそり音をだす練習をした。あのとき見たエヴィアンの記憶のもう片方の球体とともに鳴らしていたあの音。あの音を出せれば、さらにエヴィアンとの意志疎通が可能になるのでは。そんなことをエムは考えていた。撓んだ弦が、もとに戻ろうとして横振動を繰り返すような、高低音の連続。それを出そうとうなり声を上げたり、叫び声を上げたりを繰り返した。
「ええええむ、とととととうとうううおかしししししくなったたたたか、まああああでもたいしてててててかわんんんえいか、おめえええええ、へえええんだししししよ」
突然、男がやってきて、エムの練習中の様子を見てしまった。何をしているのかと男が問うと、エムはエヴィアンに求愛するつもりだと答えた。
「あやややや、どっかかかかやつはやややややっぱっりりり気がおかししししいみてええええだななな。まままままま、つつつつきやややややっててててやややるよ」
そう言って、男はエムの練習につき合って、わかりもしない奇怪な音の出し方を、ここが高いのここが低いのとケチをつけては、ときによくできていると適当にほめた。エムは、反応があることになにやら妙な自信を付けて、口を器用に使って微妙な高低差を含んだ音が出せるようになっていった。
ある日、エヴィアンがいつものように停止してやっと再び動き出したとき、ふわふわと岩のそばで立っていたエムのところに漂ってきて、エムの周辺をくるくると回った。エムもふっとそのエヴィアンの動きに合わせて、舞を踊るような動きでくるくると円を描いた。エヴィアンは一瞬、驚いたようにその動きを止めたが、今度は先ほどよりもはやくぐるぐると周りだした。エムは、その動きになんとかついていこうと、さらに体をうごかしつつ、口を大きく開いてあの音を発生した。
エヴィアンはその音に反応して動きを止めると、迷うかのような軽い微振動をその宙に浮かぶ体に起こした。エムは、その動きに注目しつつ、回ることをやめることなく音を出し続けた。
エヴィアンの体が上下にバウンドをくりかえし、あの奇怪音を発声して、エムの周りを旋回した。六角形の模様から淡い光があふれて、エムの瞳を照らし続けた。
文字数:10088