臨界の向こうへ

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梗 概

臨界の向こうへ

消防庁のサイバー担当であるツヨシは、災害に迅速に対処するため、ソーシャルネットワークのリアルタイム解析ツールを開発している。三ヶ月前、箱根で局所的な隆起が発生した際、周辺地域にガスが離散したことを、気象庁よりも早く特定できた。
 ある日、反原発・反化石燃料の発言が有意に増加したことに気づく。防災には関係ないが分析の一環として、拡散過程を調査する。
 数十人以下で相互フォローする小さなグループを対象に、環境保護広告キャンペーンが張られていた。一般に広告をシェアする人数が、所属コミュニティの16%、いわゆるクリティカルマスを超えると、「流行っている」と認識され一気に拡散する。そのため多数の小集団ごとに流行、拡散されたのだ。仕掛けていたのは、前職の先輩であるマリコだった。

ツヨシはマリコを飲みに誘い、あれはステマではないかと尋ねる。広告だと明記している。広がった話題に、意識だけ高いインフルエンサーが乗っかっているだけで、ステマでもない。マリコとツヨシが体系化したノウハウだ。と、マリコは言う。ツヨシは広告主の無思慮な拡散依頼が嫌で、前職を辞めたことを思い出す。
 酔いが回ってマリコが饒舌になる。箱根の隆起エリアで拾われたとされる〈黒石〉を土産屋で買ってから、大きな力に突き動かされて、自腹で広告を出していると言うが、要領を得ない。環境保護を訴えるが、服装も金遣いも派手なのだ。

泥酔したマリコを自宅に送り、スマホでタクシーを呼ぼうとすると、通信が途絶える。めまいに似た感覚もある。酩酊状態だったマリコが覚醒し、LANケーブルを挿したノートパソコンを開いて、ソーシャルネットワークに広告を出し始める。ツヨシは一旦外に出て救急車を呼び、マリコを放り込む。
 ノートパソコンを開くと、環境活動家の「核燃料輸送を妨害しよう」という呼びかけを、マリコがスポンサーとして広告配信しており、拡散と共感が始まっている。暴動を防ぐには、ツヨシがユーザーたちの態度変容を促すしか方法はない。ソーシャルネットワークの対応は遅いし、警察には話が通じる部門がないからだ。
 ツヨシは小さなネットワークを構成するユーザーたちに、冷静な行動を呼びかけ、5分以内にシェアすれば抽選でプレゼントという広告を配信する。すぐにクリティカルマスを超え、インフルエンサーに伝搬し、トレンドとなる。暴動は避けられた。

数日後マリコの入院先を訪問する。顔見知りの医師によると、海上保安庁が瀬戸内海で環境活動家たちを逮捕したが、〈黒石〉を没収して勾留するとおとなしくなったらしい。ハリガネムシに誘導されたカマキリが入水するように、〈黒石〉が出す微弱な電磁波に誘導された人々が鉱物消費を思いとどまるのでは、という仮説に基づき、〈黒石〉は電波暗室に隔離されている。海上保安庁が活動家を、消防庁がソーシャルネットワークを引き続き監視することになった。

文字数:1194

内容に関するアピール

宇宙からではなく地底から、生物ではなく鉱物とのファーストコンタクトを考えました。
鏡明先生の回で広告を扱うのは、蛮勇かと思いました。しかし、現代社会で思考が感染する適切な媒体は、インターネット広告だと考えました。
環境保護のような正義であったとしても、流行だからというのは、信じる根拠として脆弱なのだ、という個人的な戒めが乗っかっています。
評価の良し悪しに関わらず、言及していただけると大変嬉しく思います。よろしくお願いします。

文字数:212

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「それでは鳥井さん、お願いします。はじめに、ガスの拡散を、どうやって知ったのかを、お話しいただけますか?」
 若い事務官風の男が質問した。鳥井剛志は、パイプ椅子に座り直して答える。
「私ども消防庁のサイバーリサーチ班は、常にソーシャルメディアを監視しています。箱根の大涌谷で隆起が発生したとき、山をひとつ超えた強羅周辺の宿泊客がソーシャルメディアに投稿をはじめました。このとき揺れを感じたという内容に以外に、悪臭に関する内容が多かったんです」
 テーブルの片側には鳥井だけが席についている。向かい側に五人ならんで座っているのは、いずれも、ここ気象庁に勤める職員だ。
 八人も入ればいっぱいになりそうな会議室には、窓がない。実際は倉庫なのだろうか。庁舎に予算を割けない省庁なら、どこでもそんな部屋があるのかも知れない。鳥井が所属する消防庁では、さすがに許されない使い方だ。鳥井は続ける。
「投稿に緯度経度がついていないものは、投稿されている写真からおおよその位置を特定しました。写真がない場合は、前後の投稿で言及した旅館名や駅名から位置を予測しました。その結果、強羅の南側に悪臭に関する投稿が集中していることが分かりました」
「それでガスが拡散していることを特定したわけですか?」
「特定というより、疑いを持った感じです。強羅から二キロ離れた最寄りの消防署に確認を依頼し、現場で最終的に特定しました」
「なるほど。最初の隆起の情報はどこから得たのですか?」
「それは気象庁さんの発表を使っています。地震や台風などの自然災害の初期情報は、そちらの発表がいちばん早くて信用できますから」
 いかにも事務官風の男は、嬉しそうな表情を隠さなかった。すでに話した内容だし、メディアにも簡単に取り上げられている。鳥井は冗長で無用な会話だなと思った。一方で、お互いにかならず同意できることを再確認してから話を始めると、後の流れがスムーズになることも、鳥井は心得ている。挨拶のようなものだ。
 初老の職員が口を開いた。
「私は素人なんで、よう分からんのですけどね。何人ぐらいで監視するんですか?」
 関西訛りで話す。格好がラフなので、鳥井と同じく技官だろうか。
「ソーシャルリスニングを使って、局所的に流行り始めたキーワードを抽出してアラートを出します」
「はぁ」
 もう少し丁寧に説明が必要だと鳥井は思った。
「このソーシャルメディアは、人間が使うアプリとは別に、コンピュータから利用できるようにするしくみがあります」
「ああ、APIっちゅうやつですか?」
「そうです。私ども、消防庁のサイバーリーサーチ班のコンピュータは、API経由で常に投稿を受け取っています。火事や煙のような分かりやすいキーワードはもちろんチェックしていますが、同時に普段の会話よりも急に増えてきたような単語があれば拾い出します。これは統計的に処理できます」
「はあはあ、なるほど」
「で、そういうキーワードがあったら、実際に交されている会話を読んで、災害が発生しているようなら最寄りの消防署に連絡をするんです」
「デマとかガセも、あるんとちゃいます?」
「あります。ですので私どもサイバーリサーチ班は、確認の依頼をするだけです。箱根の場合は、隆起や地震の直後で、しかも温泉地ですからね。地元の職員がすぐにガスを確認して、適切な避難勧告を出しました」
 その後、気象庁の職員たちからは、気象予報に投資をしているためソーシャルメディアの活用が遅れていること、しかし、将来的にはさまざまなセンサーからデータを取り込みたいと考えているという話が出た。
 一方、消防庁としては災害への対処が主な目的であるため、事前予測などはやっていないし、必要がない。気象予報は重要な情報だが、気象庁以上の予報をすることは、現時点では現実的ではない。そういうことを鳥井は話した。
 話が一段落したところで、初老の関西訛りの職員、鳥井のそばまでやってきた。
「ほんまに勉強になりましたわ。大橋です」
 名刺によると、気象庁気象研究所火山研究部の所属になっている。
「いつもは、つくばにおりましてね。岩石とか地質が専門なんですわ。ソーシャルとかよう分からんのですが勉強しとこうと思いまして」
「いえいえ。こちらこそ火山のこと分かりません」
「また、ちょくちょく連絡させてください。週に一回はこっちに出てきてます。お互いに公式の仕事にしたら面倒ですやん? 今日みたいに、夜になってから、こんな狭い会議室で話すくらいなんですけど」
「このほうが、私も気楽です」
 気象庁の職員たちに見送られて、鳥井は建物を後にした。

翌日、鳥井はいつもどおり職場で仕事に取りかかった。ソーシャルメディアの日本語での会話をざっと眺める。トレンドと呼ばれる話題になっている単語のリストも確認する。トレンドを検索して、どんな会話がなされているかを眺める。
 次に、ソーシャルリスニングがきちんと動作していることを確認する。ソーシャルメディアの投稿を、すべて取得するプログラムだ。一秒間におよそ六千個の投稿を集録する。
 最後にフィルターと呼ばれる小さなプログラム群の動作を確認する。フィルターはあらかじめ指定した条件に合う投稿が、一分間あたりに急激に増加していることを検出する。単純なフィルターは「火事」という文字列の増加を検出する。より複雑なものでは、「炎のような画像が含まれる投稿をシェア」の増加を検出する。
 このフィルターの開発と改善が、鳥井の本来の仕事である。新たなフィルターを投入することもあるし、既存のフィルターを改善することもある。
 フィルターが投稿の増加を検出すると、壁にかけてある大型モニターに、黄色い字で「注意」と表示する。さらに増加すると、赤い字で「警告」と点滅表示する。
 モニターの表示に気づいたら、手元の端末で、どのフィルターが注意や警告を出しているのか、具体的にどのような会話がなされているのかを、目視で確認する。火事や災害が発生しているようなら、該当地域を担当する消防署に電話で連絡する。自動的に出動を要請するわけにいかない。警告のうち、本当に出動が必要なのは、まだ全体の一〇%に満たないからだ。
 午後四時を過ぎたところで、鳥井は「警告」の点滅表示に気づいた。自席の端末で詳細を表示すると、ソーシャルメディアで特定の会話が急浮上している。
 直近一週間で話題にあがらなかった単語が、急に増えたことを検出するフィルターが、反原発、脱原発、火力発電反対、温暖化反対の増加を捉えた。珍しいパターンだ。反原発の思想は基本的には放射能汚染と核拡散への反対だ。化石燃料への反対は、二酸化炭素排出による温暖化への抵抗が根本的な動機だ。両方を持ち出すのは、論点が絞れていない。鉱物をエネルギー源として消費すること自体に、強く反対しているように見える。「反鉱物消費」とでも言おうか。
 災害とは関係ないが、拡散メカニズムの勉強のために、鳥井はソーシャルデータの分析を続ける。反鉱物消費の発言をしているユーザーは、どのような発言に接触したのか。彼らがフォローしているユーザーの過去の発言を追っていくと、反鉱物消費的発言がある。その発言をしたユーザーが、過去にどのような発言に接触したかを辿っていく。発言の連鎖は必ずも一本ではない。
 複数の発言に接触したあとで、触発され、自分も似た発言をするユーザーがいる。彼らは周りの意見や流れを見ているのだ。まったく逆で、たったひとりの発言に触発されて、すぐにシェアするユーザーもいる。
 だいたいの傾向が分かってきた。簡単なプログラムを書いて、追跡を自動化した。そして実行。
 ふたりのユーザーにたどり着いた。ひとりはインフルエンサー。以前はサラリーマンを馬鹿にした発言で、注目を集めていたが、最近は名前を聞くことが減った気がする。箱根の隆起の後、現地を訪れて自然と清貧を礼賛する発言をしている。
 もうひとりは広告制作のプロデューサーで、特にソーシャルメディアを活用したキャンペーンを得意としている。マリコという名前で、業界のご意見番的な立場を取っているが、流行り出した言葉に乗っかって、我田引水的に自分の仕事の話をするのが得意だ。鳥井はマリコと面識があった。

一年半前、民間では既に実用化されていたソーシャルリスニングによる防災・防犯対策を、試験的に導入する目的で、消防庁にサイバーリサーチ班が設立された。広報の伝手で、ネットメディアの取材が入った。そのときのインタビュアーがマリコだった。
 鳥井はシステムの目に触れない部分を作り始めたばかりで、警告の表示ひとつとっても、画面にちらっと赤い文字が出るだけで、素人には分かりにくかっただろう。
 マリコは明らかに技術的なことを理解しておらず、さすが、信じられない、すごい、センスがいい、 そうなんだ、など、合コンの相槌を繰り返した。
 市民の自発的な通報に依らずに、消防が動くことに関してはさまざまな議論があった。だから公開された投稿のリスニングとフィルターであるというのは、倫理的にも技術的にも重要な構造だと鳥井は考えていた。
「たとえばマリコさんが『炎上してる』と発言したときに、消防署が強引に家屋に入ってはいけないわけです」
「でも、ほんとに火事だったら助けに行けるんでしょ。そう書くから大丈夫。きっとバズるよ」
 と、マリコは取り合わなかった。
 取材は夕方すぎまで続き、その流れで打ち上げと称して飲み会になった。慣れない仕事で疲れた鳥井は、途中からの記憶があいまいだ。だが、翌朝、マリコの部屋で起きて、あわてて身支度をして出ていったことは覚えている。
 鳥井はソーシャルメディア上でマリコをフォローしたが、発言が薄っぺらいと感じていた。バズワードに乗っかり、自分の仕事を無理やりつなげるような発言が目立つ。会ったときに、鳥井が正確な情報で正そうとしても、マリコは面倒くさそうな顔をして次の話題に切り替えた。
 やがて、ソーシャルメディア上での発言に対して、義理でいいねをつけあう。それだけの関係になった。

勤務時間が終わり、鳥井は庁舎を後にし、いつもの電車に乗り込む。スマホを取り出し、マリコに、プライベートチャットで連絡をする。
――お久しぶりです。元気にしていますか?
 すぐに送信済みになる。マリコは返事をくれるだろうか。誕生日の祝いのメッセージのように、いいねだけが返ってくるかも知れない。マリコが入力中を示すアニメーションが表示される。そして五秒後、
――元気だよー!そっちはどお?
 すぐに返事が来た。
――おかげさまで。最近、反原発とか言ってますね。どうしたんですか?
――私も色々考えるわけよ。みんなも、ちょっとは考えたほうがいいと思うよ
――意外ですね
――忙しいから、また連絡するね
――あ!ちょっと会って話したいんですがよ
――うーん、どうしようかな
――ちょっとでいいんですけど
 既読になっているが、返事が来ない。鳥井はもうひとこと追加した。
――反原発とか反化石燃料のからみで、聞きたいことがあるんです
 すぐに返事が来た。
――おっけー。私のマンション覚えてる?
――はい、分かります
――じゃ、待ってるー。それから、ビールを買ってきてね!

鳥井は六缶パックのビールを片手に持って、マリコのマンションを訪れた。
「お久しぶりです」
「はいはい、上がって上がって。作業しながらだけど、どうぞ」
 散らかったリビングのカウチに、マリコが腰掛ける。缶ビールを渡すと、乾杯もそこそこに、ひとくちぐびっと飲んで、ノートパソコンを膝に置いて、画面をにらみ始めた。ノートパソコンには二本のケーブルが繋がっている。一本は電源、もう一本は有線LANだ。
「マリコさん。それ何やってるんですか?」
「ああ、今忙しいんだ。ちょっと待ってね」
 鳥井はカウチの背中側に周りこんで、ノートパソコンの画面を覗き込む。マリコは文句も言わずにキーボードを叩き始めた。
 マリコは、ソーシャルメディアの広告配信画面に、反原発の広告を設定していた。広告を見せるターゲットは、インフルエンサーと呼ばれる人々をフォローしているユーザーを指定している。広告内容は、知っていましたか、というような質問口調のメッセージから始まる。その下に表示される動画は、マリコとインフルエンサーが箱根を訪れたときの様子を加工したものだ。ガス発生が落ち着いた時期に、河口付近に出現した黒い石を持って笑っている。最後は放射線の危険性を説いて神妙な顔で締めくくる。音声をオフにしていても内容が分かるように、字幕も入っている。
「マリコさん、この広告について聞きに来たんですよ」
「そうなの。もうちょっと待ってね」
 広告配信の設定が終わったマリコは、続いて、ソーシャルメディアの自分のアカウントに切り替える。そしてインフルエンサーと会話を始める。
――わたしたち現代人には、壊してきた地球を、もとに戻す責任があるよね
――いつまでも化石燃料使いまくっているのは、イケてない
――いろんな取材を通して、ホント勉強になったから、みんなに伝えていかないとね
 インフルエンサーのフォロワーがいいねをつけたり、シェアしている。肯定的なコメントには、マリコもインフルエンサーも礼を返す。否定的なコメントは、完全に無視している。
「ちょっと、これ何やってんすか?」
「だから待ってってば」
 マリコはビールをもう一口、ぐびっと飲む。
 広告と広報の両方を使ったメッセージ伝達だ。広告を使って、反原発のような広く受け入れられやすいメッセージを、インフルエンサーのフォロワーに見せてある。フォロワーたちは、普段から信用しているインフルエンサーとマリコが化石燃料の消費に反対する会話を目の当たりにする。反原発と反化石燃料がつながったものとして、受け入れているだろう。しかもそこに、いいねがついている様子が見えて、さらに信念を強くしているに違いない。肯定的なコメントがさらに増える。
 鳥井は部屋の中を見回す。不必要に電灯がついているし、エアコンもガンガンに効いている。寝室へのドアが空いているので、電気が無駄になっている。小さなワインセラーは、薄いガラス扉になっていて、電力効率が悪そうだ。エネルギー消費に気を使っているようには見えない。
「マリコさん、言ってることとやってること、全然違いますよ」
 返事がない。ノートパソコンの画面を見ると、ひたすらポジティブなコメントにいいねをつけ続けている。マリコは、口を半開きにし、目を見開いている。
「ちょっとマリコさん!」
 肩をゆするが、作業を止めない。ノートパソコンを取り上げようとすると、必死でしがみついて、取り戻す。そしてまたいいねをつけはじめる。
 鳥井はスマホを取り出して一一九に電話しようとするが、つながらない。電波の強度を表すアンテナが、三本になったり一本になったりしている。電波が不安定だ。鳥井は一旦マリコの部屋を出て、電話をかける。
 救急車を呼んでから、部屋に戻ってくると、マリコがほとんど失神しそうになっている。呼吸が浅くなって、いいねをしようとしている手が震えている。
 鳥井はマリコからノートパソコンを取り上げ、カウチにマリコを横にならせる。
 画面を覗くと、ソーシャルメディアでは、マリコにいいねをもらったり、礼を言われたたりしたユーザーたちが、インフルエンサーの言葉をさらに拡散させようと発言をしている。
 大きくなりすぎている。ソーシャルメディアは気軽にユーザーたちが、好き勝手にしゃべる場ではあるけれど、状況がおかしい。マリコは鉱物消費に抵抗するような性格ではないし、実際に、関係ない生活をしている。だが彼女の発言から大きな動きが起きている。
 鳥井は広告配信を止めた。マリコはもういいねをしないので、拡散も止まるはずだ。

救急車が到着し、鳥井はマリコとともに乗り込んだ。救急隊員、現職についたときに一緒に研修を受けた顔見知りだ。
「どうした? 起きてるけど返事がないと聞いてる」
「そのとおりなんだ。話していたら急に返事をしなくなった」
「ドラッグは?」
「僕が部屋に行ってからは摂取していない。その前は分からない」
「一応確認するが、お前が何かしたってことは?」
「いや、本当に何もない。おかしくなってから、肩を揺すったりしたくらいだ」
 隊員はときどき無線で本部とやりとりをしているが、ノイズが入るため、何度も聞き直している。さらに車内の機材も調子が悪いらしく、苛立っているようだ。マリコは出血をしているわけではなく、呼吸も正常なので、とりあえず安静にさせておくことになった。
 救急車が病院に到着すると、マリコは診察室に連れて行かれた。最初は横についていたが、鳥井が家族ではないことが分かると、一旦外に出るように言われた。鳥井は待合室のベンチで待っていた。ソーシャルメディアを眺めていたが、電池が少なくなってきたので、見るのをやめた。

鳥井は気付かないうちに、うとうとしていた。白衣を着た医師に話しかけられる。
「命に別状はありません。原因は分かりませんが、今は大丈夫です」
「ありがとうございます」
 鳥井は、こわばっていた自分の頬が緩むのを感じる。
「ただ気になることがありましてね」
 医者が、アルミホイルで包まれた、手のひらに乗るくらいの、ゴツゴツしたものを取り出した。
「これ、彼女さんが持っていた石です」
「はあ」
 医者がアルミホイルをめくると、黒い石が見えた。箱根で黒たまごと一緒に買ってきたと、マリコがソーシャルメディアで発言していた。
「この石から電磁波が出ているらしく、計測器に影響がありました」
「えっ、この石がですか?」
「はい」
「これが原因で、彼女もおかしくなっていたんでしょうか?」
「分かりません」
「有害なものですか?」
「レントゲン技師に確認したところ、放射線は出ていないようです。アルミホイルでくるんでおけと言われたので、こうしてあります」
 鳥井はその石を受け取り、気象庁の大橋のことを思い出した。確か火山の研究をしていると言っていたはずだ。スマホでメッセージを送るとすぐに返事が返ってきた。簡単に石の説明をして、写真を送った。大橋は興味があるから、受け取りたいと言ってきた。ガンマ線が出ていないなら、アルミホイルで包んでおけばいいという。
――明日、ちょうど東京に行くんですわ。夕方ごろに行ってもかまいません?
――はい。お手間でありませんか?
――さっさと秋葉原の電車に乗って帰らんと、嫁がうるさいんで。こっちの都合で取りに行かしてもらうほうが、ええんです

それから一週間たった。マリコの件は落ち着き、鳥井はいつもどおりの仕事に戻っていた。この日は朝から、監視モニターに注意のアイコンをずっと出ていた。気になった鳥井がソーシャルメディアwo調べてみると、原発関連施設前でデモ集会があり、施設に火災が発生している。さらに、デモと従業員とが衝突しケガ人が出ている動画が投稿されている。鳥井は場所を特定し、担当の消防署に連絡をした。救急車は出ていないらしく、すぐに出すという返事だった。
 鳥井は端末の前に腰を落ち着け、ソーシャルメディアの会話をたどっていく。事故現場の写真や動画を投稿しているユーザーから、その直前の会話をたどる。さらに使われているハッシュタグやキーワードを時間を絞って検索していく。数日前から原発関連施設の破壊活動の呼びかけが広がっていることが分かった。
 活動家たちは、破壊活動のことを「朝マック」という隠語を使っていたため、他の朝マックという言葉に埋もれてしまって、フィルターが検出できなかったようだ。
 壁のモニターが警報の点滅表示に切り替わる。国内数カ所で火災が発生し、関連する投稿が増え、さらにいいねが付いている。鳥井は急いで各消防署に連絡を取るが、すでに消防車と救急車が出動していた。隣の席の先輩によると、すでに警察が動いているという。ソーシャルメディアには機動隊と衝突し、鎮圧されている活動家たちの動画がアップロードされ始めた。
 鳥井はそれを見ているだけだった。警報は出っぱなしで、もはやフィルターが役割を果たしていない。各消防署が事態を把握しているので、連絡する必要もない。たしかに災害を見つけることはできたが、止めることはできなかった。消防の仕事の特性上それは仕方がないことだ。だが、目の前で起こっている災害や事件に対して、自分が無力であることを痛感した。
 よくやったよ。隣の先輩が慰めてくれた。初期に事前通報したから、各消防署も待機できたんだ。事件を抑えるのは我々の仕事じゃない。

帰宅途中の電車は、座席は空いていないが、隣に立っている人に触れずに済むくらいの混雑具合だ。鳥井は疲れてしていて、窓の外を見るともなく見ていた。電車が駅に停車したまま発車しないことに気づいたのは、ずいぶん時間が経ってからだ。アナウンスを聞き逃したのだろう。
 ソーシャルメディアで乗っている路線を検索すると、人身事故で上下線ともに電車が止まっているらしい。
 ホームで、酔っぱらいが駅員に絡んで、本当に三十分で動き出すのか、と大声を出している。駅員は困った顔をしている。声は聞こえないが、ええまあ、というような曖昧な返事をしているようだ。
 鳥井はソーシャルメディアに、路線名をつけて投稿する。
―― 三十分くらいで動くって駅員が言ってるけど、他の駅ではどう?
 五分ほど他の投稿を眺めて時間をつぶす。それから、路線名で検索すると、他の駅の状況の投稿がぼちぼち出てきている。
 事故現場付近の駅の発言ほど、復旧見込みまでの時間が長いという情報が多い。まだ全容が把握されていないので、情報が曖昧だ。だがかなり時間がかかるかも知れないなと、鳥井は思った。
 スマホにメッセージが届いた。大橋だ。この間の石のことでわかったことがあって、ちょうど東京に来ているので会えないか、という内容だった。どうせ遠回りする必要があるのだ。鳥井はそちらに向かいますと返事をし、動いている別の線に乗り換えた。

気象庁の入り口で、大橋が待っていた。
「どうもどうも、急に呼び出してすんませんね」
「いえいえ。こちらこそ、連絡いただいてありがとうございます」
 大橋はカードキーで入り口を開け、鳥井と一緒に中に入った。先日と同じ会議室に案内される。
「例の石、うちらは黒石(くろいし)って呼んでますけどね」
「何か分かりましたか?」
「ちょっと分かったような、でも分からんことのほうが多いですわ」
 大橋によると、黒石は電子レンジや無線LANと同じ帯域の電波を出しているという。マウス実験をしたところ、この電磁波を浴びると、湯たんぽは避けないのに、同じ温度の使い捨てカイロを避けるようになるという。黒石の電磁波を浴びていない状態では、マウスの使い捨てカイロでも湯たんぽでも差はない。
「黒石自体に、物理的な害はないんですわ。無線LANがつながりにくくなる程度ですな」
「よくそんな実験思いつきましたね」
「いや、前から近いことを研究しとったんです。ラドン温泉って分かります?」
「詳しくは知りません。健康にいいとか言われてる温泉の種類でしたっけ」
「そうです。ラジウムが含まれる温泉ですな。ラジウムが崩壊するとラドンになる。そのラドンがベータ線とかガンマ線を出す。ガンマ線っちゅうのが電磁波ですわ」
「はあ」
「で、その電磁波の特性を調べとったんですね」
「マウスで?」
「マウスで。ラドンの代わりに黒石を置いてみたら、まあマウスの指向が、ラドンより顕著になりましてん」
「鉱物消費を?」
「そんな風に呼びますの?」
「いえ、僕がそう呼んでるだけです」
 マリコと一緒に箱根を訪れたインフルエンサーも黒石を持っていたらしい。そちらからも黒石を回収したので、もう黒石の影響はないはずだと、大橋は言う。
「ハリガネムシって知ってはります?」
「カマキリに寄生するっていう」
「あれ、タンパク質を出して、カマキリに水のほうに生きたいなぁって感じさせまんねん。それでカマキリは入水するんですわ」
 鳥井は突然のカマキリの話に困惑する。
「それがなにか?」
「黒石とかラドン温泉もね、その鉱物消費が嫌やなぁって気分にさせよるんですね」
「黒石の意志みたいなものですか?」
「ちゃいます。地球の地下にある鉱物は、そういう電磁波を出すことで、安定な状態を保ててるっちゅうんが、私らの仮説ですわ。安定のために電磁波を出すというよりは、そういう電磁波を出してたら安定をキープできたっちゅうことですな」
「箱根の隆起やガス噴出で、そういう成分が地表にでてきた、ということですか」
「そんなとこでしょうな。知らんけど」

黒石の電磁波の影響で、マリコは鉱物消費を嫌がった。だが浪費癖が改善されてはいない。思考ではなくて、嫌悪だからだ。マリコはいつもそうするように、本質的な行動から目を背け、いい話、いい意見としてソーシャルメディアに発散したのだろう。
 一方、マリコのフォロワーたちは、マリコの広告やPRの手法に影響を受けて、鉱物消費を思いとどまったり、反対したりしている。さらに広がりネット世論となって、より多くの人が同様の指向を持つようになってしまった。だから黒石が隔離された今でも、反鉱物消費の活動が続いているのだ。
 合理的な環境保護という観点ではなく、鉱物消費の嫌悪から始まった世論だ。専門知識のないマリコに影響された人々もまた、非合理的に動いてしまって、しかもそれが自分の考えだと思い込んでいる。
 鳥井は、何をしても無駄だと感じた。仮に自分が一〇〇%正しい意見を持っていたとしても、暴徒たちは反射的に決めてしまう人々なのだ。だからこそ、素早く情報を拾い出すフィルターづくりができるのだけれど。
 スマホが振動する。目をやると通知が届いている。ソーシャルメディアで、自分宛てに誰かが話しかけているらしい。アプリを開いてみると、電車遅延の会話が続いて、最新の情報が入っている。
「どないしました?」
「電車が動き始めました]
「そんなん、誰かが教えてくれますの?」
「教えてもらうというより、こう、遠回しに」
 鳥井は今日の帰宅時のことを、大橋に話す。検索しやすいキーワードやハッシュタグを使って投稿しておくと、同じ興味を持っている人の目につきやすい。そこから、カジュアルに質問したり、疑問を投げかけたりすると、反応がある。そうやって、今日も電車の遅延が長引くという情報を引き出してきた。
「へぇ、そうやって人が動くんですなぁ」
「人が動く?」
「そういう気の利いた質問を投げたから、情報を出してくれたんでしょ」
「まあ、そうですね」
「なんかコツとかありますのん?」
「えーっと、いきなり大きな集団に関わらずに、小さい集団にアプローチしたほうがいいですね」
 そうだ。
 小さい集団から制覇していけばいい。ソーシャルメディアでの流行り方は二種類ある。広告やインフルエンサーによっていきなり多くの人が目にして影響を受ける場合。もうひとつは、小さな集団で支配的になった流行が、隣接する集団に伝播してく場合。
 小さな集団から制覇していけば、この、よく分からない熱狂を鎮められるのではないか。
「ありがとうございます! ここで失礼します!」

鳥井はマリコの自宅を訪れ、インターホンを鳴らす。
「あのさ。確かに助けてもらったけど、彼氏ヅラしないでくれる?」
「そうじゃないんです。今日は助けて欲しいんです」
 部屋に上げてもらった鳥井は尋ねる。
「もし、原発施設への過激な行動を止めさせるとしたら、どんなメッセージにしますか?」
「え、わたし、もう関わりたくないよ」
「関わらなくていいです。どんなメッセージがいいか知りたいんです」
「うーんそうねぇ」
 マリコはノートパソコンを開いて、パチパチとキーを叩き始めた。
 その間、鳥井は簡単なプログラムを書く。ソーシャルメディアで二十人程度で固まっている小さなグループを抽出。そのグループの中で特に、他人の発言をシェアするユーザーが多いグループに絞り込む。
 マリコから受け取った「心に響いたら秒速でシェア」というメッセージと、焦った表情の人物が写っている画像を添付。その投稿を、広告配信設定する。
 広告配信のターゲットは、さっき抽出したグループだ。すぐにシェアが始まりグループ内に広がっていく。さらに、別のグループにも伝播していく。
 シェアが加速しないグループが見つかれば、多くの広告配信費をかけて目につくようにする。好き嫌いと関わりなく、接触頻度が高いものに親近感を持つからだ。
「これは何をやってるの?」
 とマリコが尋ねる。
「クリティカルマスを順番に制覇していってるんです」
「なにそれ? また難しいこと言ってる」
 鳥井が説明をする。
 一般的に、自分が属している集団の中で、十六%くらいの人がやっていることを、流行っていると認識して追従する。この十六%をクリティカルマスと呼ぶ。クリティカルマスを超えると、その集団の中で一気に流行が加速する。
 たとえば十人の小さなグループの中で、ある投稿を二人がシェアすると、そのグループの二十%がシェアしたことになり、そのグループで一気に伝染する。
 鳥井はまず、たくさんの小さなグループを抽出し、広告をあてた。特に無思慮にシェアする人々がいるグループだ。そこではすぐにシェアが広がり、共通見解のように見えるようになる。
 小さなグループであっても、その中には別のグループとつながるユーザーがいるものだ。そのため隣接するグループにもシェアが広がっていく。
「でも、結局それって小さいグループだけの流行りがたくさんあるだけじゃない?」
「最初はそうです。でも広がっていく過程で、発言するユーザーの絶対数が増えるので、キーワードがトレンドにあがっていきます」
「ああ、だから、大きなグループに伝わっていくころには、ソーシャルメディア全体の流行りのように見えちゃうわけか」
「そうです。実際、多数の小グループで流行っているわけですから」
 マリコが「すごいね」と感心する。
「これまでは理屈っぽくて、細かい理屈ばっかり言う人だなって思ってたけど、実用的な知識なんだね」
「僕はあなたが何も考えてない軽薄な人だと思っていましたよ。でもメッセージを作るのは、ほんとうに上手ですね」
 ノートパソコンの画面でソーシャルメディアの様子を眺める。破壊活動がダサい、社会の悪だ、という発言が増えている。関連キーワードもトレンドに入っている。
 活動を煽っていたインフルエンサーは、実は最初から暴力は良くないと思っていたんだよ、などと言い訳をしながら、鳥井が作り出したこの新しい流行りに乗ってきた。そのフォロワーたちも、そのとおりです、シェアさせていただきます、とシェアを始めた。

翌朝。鳥井が、電車の中でスマホで見たところ、は騒動は収まっている。職場についてから、腰を据えてソーシャルデータを分析していく。破壊活動に対抗するネット世論が優勢になっている。
 隣の席の先輩も同じことを確認していた。
「だいぶ収まったな」
「はい」
「こんな一晩で変わるなんて、あっけないな」
 そのとおりだ。ちょっとした弾みで、ソーシャルメディア上の人々の意見や認識は変わってしまう。そのあやうい情報の流れを追って、自分は仕事をしてるのだ。
 念のために、原発関連施設に関する発言のフィルターをしかけておいた。鳥井のちょっとした活動で、一晩で流れが変わったのだ。当然、揺り戻しがあってもおかしくない。昨夜の自分の行動については誰にも話していない。公務員としての職務を逸脱している。

食堂で昼食をとったあと自席にり、フィルターが効いているか、もう一度確認すると、活動家たちは静かになっている。代わりに、起業家の卵を集めるイベントが話題になっている。
 発信源を辿っていくと、いくつかの小さなグループで同時多発的に、イベントに登壇するメディアアーティストのインタビュー記事がシェアされている。読んでみると、マリコが書いた記事だ。
 早速、クリティカルマスを制覇する方法を使っているということか。思わず鳥井は苦笑する。
 スマホには、マリコからメッセージが届いている。
――サンキュー、バズったよー! お礼に今度飲みに行こう!
 いいねをつけて、スマホをポケットにしまい込んだ。

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