梗 概
異次元からの使者
高速道路の防音壁に激突して大破した車は水でぐっしょり濡れていた。まるで水没していたかのように。
しかし、事故現場の降水記録はその前後二日間にわたってゼロだった。乗っていたのは男性二人。運転席の一名は奇跡的に助かり助手席の一名は死亡していた。命を取りとめた運転席の男は岡崎拓也という三十八歳のサラリーマンだった。体調も回復して岡崎は警察の事情聴取に応じた。
その夜は雨が降っていた。岡崎は残業で終電を逃してしまう。仕方なくタクシーで帰ろうとすると、同じように終電を逃したらしい女性が親しげに話しかけてきた。あまりに親しげだったので岡崎は知り合いかと思い記憶を探ったけれど、初めて会う女性だった。でもなぜか岡崎は懐かしい想いがする。だからだろうか、岡崎は逆らうことが出来ずに、まるでその女性に操られるようにして同じタクシーに乗ってしまった。
その女性が運転手に行き先を告げる。彼女の声が小さくて岡崎にはよく聞き取れない。運転手は黙って車をスタートさせる。タクシーは街灯もない暗闇の道をひたすら走り続けた。岡崎は運転手に停めてくれと叫ぶけれど運転手には聞こえないみたいで催眠術にかかったようにハンドルを握り続けている。やがて車は止まる。その女性は、ここは自分が生まれ育った村です、と言う。岡崎はタクシーから降りて夜空を見上げる。大きな赤い満月が浮かんでいる。大きすぎる。いつも見慣れている満月の三倍くらい大きい。岡崎は異次元の世界に連れてこられた。
その女性は異次元からきた生命体だった。その生命体の実体は水滴。その村にある大きな湖が異次元生命体の本体だった。しかし、この女性は自分が異次元生命体であることを自覚していない。異次元生命体は水滴となってこちらの世界にきて、雨が降る日に人の想念を受信して実体化する。そして、人をかどわかすことができる。岡崎はその夜、五年前に交通事故で亡くなった妻のことを想いながら駅まで走った。その想いを受信して異次元生命体は実体化して女性になった。だから岡崎は初めて会うこの女性に、なぜか懐かしさを感じていた。
この異次元の村は鬼に襲われ続けている。この異次元は元は日本の戦国時代。落ち武者に襲われた村。落ち武者が鬼になり、そして、何らかの原因で異次元空間になってしまい水滴の生命体が生まれた。
異次元生命体の女性は岡崎に助けを求める。岡崎こそこの村を助けてくれる人だと信じてこの異次元に連れてきた。なぜなら私のことを想ってくれていたから。しかしそれは異次元生命体の想い違いだった。
村を取り囲む四方の山から鬼たちの咆哮が聞こえてくる。咆哮が岡崎と異次元生命体の女性に迫ってくる。
岡崎は異次元生命体の女性と一緒にタクシーに逃げ込む。エンジンをスタートさせて異次元生命体の本体である湖に向かう。岡崎は、迫りくる鬼たちを振り切ってアクセルを力いっぱい踏み込んで、湖に飛びこんだ。
文字数:1200
内容に関するアピール
異次元の生命体とのファーストコンタクトを考えてストーリーにしました。想像空想妄想力を全開にして創造した異次元と生命体です。力不足だなぁーということと、ファーストコンタクトという課題からはちょっとズレてしまった感が大きいなぁーということは、自覚しています。
実作は、岡崎と異次元生命体女性との接触をもっと深く描きたいと思います。講座も残り少ないので、今度こそ実作を書けるよう全力をつくします。
文字数:194
雨滴
タクシーだった。運転手の鈴木正雄 四十六歳は、なぜか助手席で死んでいるのを発見された。運転席に座っていたのは、会社員の岡崎拓也 三十八歳で、奇跡的に命は取り止めていた。車体は、ボンネットが完全に押しつぶされ、ほとんど大破の状態だった。しかし、ある理由により爆発炎上は免れた。また早朝の四時という交通量の少ない時間だったため、他の車両を巻き込むこともなかった。不思議なのは、防音壁に対して垂直にその車はぶつかっていることだった。路面にはタイヤ痕やブレーキ痕はまったく認められなかった。
車の大破具合から、衝突時のスピードは割り出されたが、この角度で、このスピードで道路の側面にある防音壁にぶつかるのは、まず不可能ではないかと考えられた。警察は頭を悩ませていた。もう一つ不思議なことは、その車体がぐっしょりと水で濡れていたことだった。しかも外面だけではなく、社内も水浸しの状態だった。その状態はまるで何日間も水中に没していたかのようだった。これが爆発炎上を免れた理由だった。しかし、その地方の気象台によると、事故の前の二日間にわたって降水の記録はゼロだった。
運転席に座っていた会社員の岡崎拓也は幸いエアバックにより、命を助けられたが、数日間意識不明のまま眠り続けた。意識の回復を待って、警察の事情聴取が始まった。
でも、刑事さん、最後まで僕の話を聞いて、後悔しないでくださいね。あぁ、やっぱり聞くんじゃなかったなんて・・・・・・。
あれは、そう、梅雨が明けて、まだ数日しかたっていない頃、蒸し暑い夜のことでした。その夜は梅雨の名残のような雨が降っていたんです。ほら、今年は梅雨明け宣言後も、すっきりと晴れる日が少なかったじゃないですか。あの日の夜も、躰に粘り着くような、生温かい雨が、いつ止むとも知れずに辛抱強く、降り続いていました。
そういえば五年前のあの時も、こんな雨が降っていたなぁって、哀しい昔のことを想い出すような雨でした。あ、すいません。ちょっと関係ないことを思い出してしまいました。はい、話を戻します。
その時僕は、いくつかの仕事上のトラブルを抱えていました。一つ一つは小さなトラブルで、その対応さえ間違えなければ、すぐに片付くものばかりだったんですが、なぜかその時は、同時にいくつものトラブルが発生してしまったため、僕は毎日残業に明け暮れていました。まあ、僕は独り暮らしですし、他にやりたい趣味などもなかったものですから、特に不満もなく、毎日会社に行って、そのトラブル解消のために時間を費やしていました。疲れだけは体に溜まっていきましたけどね。
あの日の夜も僕は残業をしたあと、終電車に乗るため駅に向かって走っていました。運動不足の四十を間近に控えた体には、結構こたえますね。ええ、普段は会社から駅までは、歩いて十分ほどで行けるんですが、あのときは、時間を忘れて仕事に集中していたんで、気が付いた時には、最終電車が来るまで、あと五分くらいしかありませんでした。どうせ明日の朝は一番に来て、仕事の続きをしなければいけないので、片付けるのも、そこそこにして、僕は会社から飛び出しました。
もう走るしかありません。はい、たしかに、会社に泊まるという選択肢も、まあ、あったんですが、息抜きというか、気分転換というか、とにかく一度家に帰りたかったんです。それに、今日はちょうど五年前のあの日なんだなあって、思い出したものですから。あ、また脱線しそうですね。すいません、話を続けます。ええ、大丈夫です。まだあの日の記憶はあります。でも、急いで話さないと、だいぶ記憶が薄れてきました。
ムッとするような息苦しい蒸し暑い空気の中、汗だくになり自動改札口を通り抜けた時には、最終電車は無情にも行ってしまったあとでした。汗だか雨だか分からない滴を垂らしながら、息を荒くして立ちすくむ僕を、最終電車から降りた何人かの人たちが、横目で見ながら通り過ぎていきました。仕方がない、タクシーで帰ろうと、改札口に引き返そうと振り返ったとき、ホームの端に立っている女の人に気がついたのです。
真っ白なワンピースを着た二十代前半くらいの若い女性でした。僕のほうを見てるんです。周りを見ても、ホームには駅員以外、もう僕とその女性しかいません。
あれ、知り合いかな?会社にこんな人いたかな?と考えたのですが、心当たりがありません。でも間違いなくその女性は、僕のほうを見ている。間違いなく僕の目を見ているんです。しばらくの間、僕はその人を見つめて、呆然と立ち尽くしていました。するとやがて、彼女はこちらに歩いてきました。肩に垂らした黒い長い髪が揺れていました。なぜかその髪は濡れているように見えたんです。えぇ、確かに丸い水滴もいくつか髪に付いていました。それを見て、あ、この人も雨の中を走ったのかな、とぼんやりと考えたのを覚えています。
どう考えても知らない人です。彼女は他の人と僕を間違えているのだろうと思いました。えぇ、そうです、無視して行ってしまってもよかったのですが、いや、そうするべきだったのですが、そのぉ、信じて貰えるかどうか分かりませんが、そのとき躰がまったく動かなかったんです。彼女はまっすぐに僕の目を見て歩いてきて、そしてその顔は、笑っていたんです。すごく嬉しそうでした。
「待っていました。さぁ、行きましょう」澄んだ声で彼女はそう言うと、僕の前を通り過ぎ、ついてくるようにという感じで、改札に向かって歩いていきました。僕はまるで、そう、催眠術にかかったみたいに逆らうことができず、彼女の後についていったんです。えぇ、なぜ逆らえなかったのか、分かりません。心の声は、ついて行ってはいけないと叫んでいたんですが、躰が自分の意志通りに動かなかったんです。
でもその時、僕の中に何故か、懐かしい切ない感情があふれていました。どうしてだかその時にはまだ分かりませんでした。
駅前からタクシーに乗りました。行き先は彼女が運転手に告げていました。彼女がなんと言ったのかは、よく聞き取れませんでした。不思議なことに運転手も「どちらまで?」と言って彼女の声を聞いたあとは、一言もしゃべらず黙ってうなずき、車を動かしました。
どこを走っているのか、まったく分かりませんでした。窓から外を見ても真っ暗で。えぇ、ほんとに真っ暗だったんです。街灯の明かりも見えませんでした。運転手は一言もしゃべらず、まっすぐ前を見て運転していました。そう、まるで何かに取り憑かれているようでした。
タクシーに乗り込んで、僕の躰は金縛りから解かれたように、自由に動けるようになっていました。横に座っている彼女のほうを見ると、やっぱり笑っているんです。僕の顔を見て、何ともいえない微笑みを、たたえていました。
「ようやくあなたを見つけました。ずっと探してたんです」
嬉しそうに彼女は言いました。でもその後、彼女は黙ってしまい、タクシーは走り続けていました。信号で止まることもなく、一定のスピードで。え、どのくらいのスピードかって?それは、えっとぉ・・・・・・よく覚えていません。というか分からなかったんです。何しろ外を見ても真っ暗なんです。とにかく灯りがない。通り過ぎる灯りが見えないのだから、どのくらいのスピードだったのかと訊かれても・・・・・・、えぇ、走っていたことだけは間違いありませんでした。車体は揺れていましたから。彼女は黙ったままです。そして車は、何処とも分からない闇の中を走り続けている。僕は、とうとう我慢しきれずに運転手に言いました。ほとんど叫んでいたと思います。
「どこでもいいから止めてください。この人は人違いをしている。すぐに止めてくれ」
でもタクシーは止まりません。運転手に僕の声は聞こえていないようでした。
「この車は止まりません。目的地に着くまで。それと、人違いじゃない。わたしが探していたのは、間違いなくあなたです」
彼女はそう言ったんです。僕を見ながら。真剣な眼差しでした。でもそのときにはもう笑顔が消えて、寂しそうな表情に変わっていました。
えぇ、もちろん早く帰りたかったです。疲れていたし、翌日も朝八時から会議の予定が入っていましたからね。でも、彼女の寂しそうな顔を見たら、話を聞かないではいられなかった。彼女はぽつりぽつりと話し始めました。
「わたしが生まれ育ったのは、深い山の中の小さな村です。住んでいる人を全部集めても五十人にもならない、小さな集落です」
彼女は囁くように小さな声で話しました。密閉された車の中は静かで、その彼女の小さな声でも、よく聞こえました。
はい、そうです、もうそのときには、これは普通ではないな、おかしなことに巻き込まれてしまったなと、思いました。だってそうでしょ、都心の駅からタクシーに乗って、十分ほどしか走っていないのに、信号もない、街灯もない道路なんて、あるわけがない。これはもう、帰れないのかなぁと、思い始めていました。
僕が考えていることなんて知らないように、彼女は話し続けました。
「わたしの村では、毎年秋になると村祭りが開かれるんです。村の人たちは全員農家で、その年の収穫を祝って、村の神様にお礼をするんです。収穫された、お米や野菜をお供えして。わたしは村の学校を卒業すると、街に出て仕事を始めました。家の仕事の農業を手伝ってもよかったのですが、必ず一人は街に出て、仕事をする決まりが、村にはあります」
僕は黙って彼女の話を聞いていました。その山の中の村って、いったい日本のどこにあるんだろうと考えながら。そして、おかしなことにも気付いていました。五十人しかいない村に、学校なんて作ることができるだろうかと。それに街というのは・・・・・・。
「一年に一度の村祭りの日には、わたしは毎年村に帰りました。それがわたしの仕事でもあったからです。村は、完全な自給自足で成り立っていました。村で作られた食料を村人たちで分け合って暮らしていたんです。えぇ、そう、村の外に出すこともしませんでした」
気がつくと彼女の話は過去形になっていました。タクシーはまだ走り続けています。
「その村から街に出ているのは、わたしだけでした。一年に一度のその祭りの日には、父や母や村の人たちは、温かくわたしを迎えてくれていました。わたしも毎年、その祭りを本当に楽しみにしていたんです。去年、あんなことが起こるまでは」
彼女の仕事っていったい何だろうって、そのとき考えていました。初めは、ごく普通の会社のOLだと思っていました。でも、一年に一度、村に帰るのが仕事って・・・・・・。
「去年の村祭りの日。私たちの村に鬼がやってきました。そして村人全員を殺したのです」
そこまで話すと彼女は黙ってしまいました。それからしばらく走って車は止まりました。彼女は自分でドアを開けて、車から降りました。どうやら目的地に着いてしまったようでした。運転手を見ると、気を失っているようでした。僕は覚悟を決めて、車から降りました。その時には、もう雨は止んでいました。
外に出ると、白い靄と生温かい蒸し暑い空気に包まれました。風はまったく吹いていなくて、完全な無風状態でした。むせ返るような濃い緑の匂いが充満しています。周りを見渡すと、何軒かの家がありました。え、灯り?あ、そうそう、月明かりで見えたんです。雨の上がった空には、雲の切れ間から満月がのぞいていました。月の光ってこんなに明るいのかぁーと驚いたんですが、明るいはずです。普段見慣れている満月より三倍くらい大きな赤い月が夜空に浮かんでいたんです。
その建ち並ぶ家を見て思いましたよ。ここは現代じゃないってね。そこに建っている家は全部、見たこともない古い家だったんですよ。藁葺き屋根のね。そりゃあ、地方に行けば、そういった家はまだ今でもあるでしょうけど、そんなのとは感じがまるで違ったんですよ。もう何百年も前の、時代劇に出てきそうな家だったんです。それに、辺りを見回しても、電信柱がありません。いくら深い山の中の村と言ったって、現代の日本に電気が来ていないところなんて、ないですよね。その時、悟りましたよ。僕は彼女に、いつだか知れない過去へ、連れてこられてしまったんだってね。いや、たんなる過去じゃなかったかもしれない。本当に大きな赤い満月だったんですよ。、
ある一軒の家の前に彼女は立って言いました。
「これがわたしの家です」
それはその村の中でも一際大きな家でした。彼女はその家の庭に入り、雨戸を閉めていない縁側に座りました。僕も隣に座りました。赤い月明かりに照らされた彼女の黒髪は、やっぱり水に濡れているようで、キラキラしていました。彼女の話は続きます。
「鬼はたくさんやってきました。あっという間に村は取り囲まれ、村人たちは斬り殺されてしまいました。食料が目当てだったようです。鬼は戦に負けた侍たちでした。何日も飲まず食わずで山の中をさまよい歩いて、偶然にわたしたちの村にたどり着いたと、その中の一人がわたしに言ったんです」
彼女と村の人たちには、落ち武者達が鬼に見えたんでしょうね。
「君はすぐには殺されなかったの?」
僕の質問に、彼女は一瞬戸惑いながら、それでも小さな声で答えました。
「えぇ、若い女はわたし一人だけだったもので。しばらくは生かされていました」
虫の鳴き声も聞こえない、静かな夜でした。風の流れも時間の流れも感じませんでした。月明かりだけが音もなく静かに降り注いでいました。
「でも、もう耐えきれなくなって、わたしは決心したんです。この鬼たちを退治してやろうと。食料は全部村の中心にある神社の祠にしまってあります。わたしは夜中に、その祠に忍び込んで、毒を混ぜました」
憑かれたように、彼女は話し続けていました。月明かりに照らされたその横顔は、妖しい美しさを湛えていました。そして、僕はやっぱりその彼女に、上手く言葉では言い尽くせない懐かしさと切なさを、感じ取っていたんです。
「翌朝、食事のあと鬼たちは苦しみ始めました。その中の一人が気付いたんです。わたしが毒をいれたことを。苦しみに耐えるもの凄い形相のその鬼は、逃げるわたしの背中から斬りつけてきました。助からないと覚悟を決めたわたしは、村のはずれにある湖に飛び込みました」
彼女はやっぱりもう死んでいたんです。僕の隣に座って話をしている人は、もう生きてはいないんだと、わかりやすく言えば、幽霊ですよね。でも、そう考えても、そのときは怖くありませんでした。タクシーに乗せられて、ここへ連れてこられるまでの間で、何となく気付いていたし。それに、僕の感情の中に渦巻いているものが、その時、ようやく分かりかけてきたんです。彼女の着ている白いワンピースが・・・・・・、五年前のあの日の・・・・・・。
「でも、死ねなかった・・・・・・」
彼女はぽつりと呟きました。
「あの湖に、不思議な力があるのかどうか分からないけど、わたしの躰は、気がつくと、斬られた傷跡もなく、元通りに戻っていたんです」
「どうしてあの駅のホームにいたの?」
「分からない。気がつくと、いつも違う場所にいるんです。そして、そこには必ずわたしのことを考えてくれている人がいる。その人を連れて、ここに帰ってくるんです。その人がきっとわたし達を助けてくれると思って」
彼女はそう言いました。でも僕は、彼女のことなんて考えたことがなかった。ほんとうですよ。会ったことのない女性です。ただ僕は、あることを思い出してしまったのです。彼女の着ている白いワンピースのことを。あれは、確かに間違いなく、五年前、あの雨の夜に、僕の妻が着ていた服と同じだったんです。そのことを僕は、彼女に聞いてみようと思ったのですが、なぜか怖くて聞くことができなくて、だから、その時僕は、もう一つの気になることを彼女に訊きました。
「と言うことは、今まで何人もの人を、連れてきたってこと?なんのために?その人たちは今どうしてるの?」
僕の質問には答えずに、彼女は話を続けました。
「わたしのしていた仕事、まだ話していなかったですね。鬼たちが来る前にしていた仕事、それは、一年に一度村祭りの日に、村の神様への捧げ物を持ってくるのが、わたしの仕事でした」
「捧げ物って、一体何を?」
「生きている人です」
彼女が言うには、村人たちが一年間、平穏無事に過ごせるように、村祭りの日に神社に奉納をしたそうです。生きている人間を。
「でも、それも鬼たちが来る去年までのこと。今は違います。あなたは捧げ物じゃない」
時間が止まってしまったと、彼女は言いました。鬼たちを毒で退治はしたけれど、その時、この村は、時間の流れから取り残されてしまったと、彼女は僕に話したのです。そうです。実際には、もう何百年も前の話だったんです。でも、彼女にとっては、いつまでも一年前の出来事なんです。そして、
「鬼たちはまだここにいます。この村を取り囲むようにして」
彼女のその言葉を待っていたかのように、空気を震わす低い声が聞こえてきました。その咆哮は、村を取り囲む四方の山から聞こえてきました。怒りと恨みを含んだような、低く空気を震わす声でした。あんな恐ろしい声を聞いたのは初めてです。そしてその声は、山を下りて僕と彼女を取り囲むようにして迫ってきました。何百人もの鬼達の咆哮です。
「やっぱり、あなたにも無理だったんですね」残念そうに、すまなそうに彼女がつぶやきました。
「あの鬼達は、毒を盛ったわたしを殺そうとやってくるんです。殺すことのできなかったわたしを今度こそ殺してやろうとして」
「逃げよう。もう一度あのタクシーに乗って、元の世界に帰ろう」
僕がそう言うと彼女は哀しげな表情をして、首を振りました。
「わたしには、あの世界への帰り方が分からないんです。ここへ連れてくる道を知っているだけで、それに、もう時間が」
ここにいても鬼達に捕まるだけだと思い、僕は彼女の手を取り逃げました。どちらへ走ったらいいのか分からず、それでもとにかく走って逃げました。
「こんなところに、連れてきてしまって、ごめんなさい」
謝る彼女の手を引いて、僕は走りました。気がつくと神社へ来ています。
「鬼達を退治する方法は?」僕は彼女に訊きました。
「分からない、わたしはただ、わたしのことを考えてくれる人を、連れてくるだけ」
「でも僕は、君のことなんて」
「いいえ、あなたはわたしのことを、心に思い浮かべてくれていたんです」
彼女はそう言って僕のことを見つめている。でも僕はどうしても思い出せない。いくら思い出そうとしても、今、目の前にいる彼女に、以前会った覚えは本当にないんです。あの夜は、会社の仕事のことしか頭になかった。本当です。でも、雨に濡れながら駅まで走っている時に、僕は自分でも気がつかないうちに、あることを思い出していたんです。それは五年前の今日が、僕の妻が交通事故で亡くなった日だということです。
五年前のことを話します。
あの日も同じような雨が降っていました。妻は学生時代の友達に会うということで、夜、出かけていったんです。十一時ごろに電話がありました。今、駅に着いたから、これから歩いて帰ると。僕は迎えに行くと言いました。駅から家までは、歩いて二十分ぐらいかかるんです。雨も降っているし、車で駅まで行くと言ったんですが、でも、彼女は大丈夫だって、少し歩いて、酔いを醒ましたいって、とても楽しそうでした。
僕は、分かった、それじゃあ、気をつけて、といって電話を切りました。
それから十分ほどして聞こえてきたんです。サイレンの音が。
雨音に混じって聞こえてきたそのサイレンの音は、僕に不吉な胸騒ぎを起こさせました。妻の携帯電話にかけてみても、繋がりません。足元から冷たい水が沁み込んで、胸元まで上がって来るような、不安な気持ちに襲われた僕は、家を飛び出していました。
そしてその不安は的中してしまったんです。いくつもの回る赤い光の中に、僕の妻は倒れていました。雨に濡れて、真っ赤に染まりながら・・・・・・。
ひき逃げでした。犯人はまだ捕まっていません。
話を元に戻します。
僕らは祠へ逃げ込みました。そこは、白骨死体で溢れていました。今まで彼女が連れてきた、捧げ物になった人達、そして助けを求められた人達でしょう。鬼達は迫ってきていました。耳が痛くなるほどに咆哮は大きくなり、一番目の鬼が来たのでしょう、祠の扉と四方の壁全体を大きく揺るがしています。
「あの、湖に行けば、もしかしたら・・・・・・」
「湖って、場所はどこ?」
「村のはずれ、ここから見える、一番高い山の、ふもと・・・・・・。ああ、もう時間がないみたいです。雨が止んでしまうと・・・・・・わたしはこの体のままで・・・・・・いられなくな・・・・・・」
それだけ言うと彼女は、気を失ってしまいました。
祠を取り囲んでいる鬼達は、何百人もいるようで、四方八方から様々な声が響いてきて、小さな祠を揺るがしています。でも、壁の隙間から外を覗いても、その姿を見ることが出来ません。だから僕は思い切って、動かなくなった彼女を背負って祠から出ました。
鬼達の姿はやっぱり見えません。恐ろしい声だけが、あたりに響いていました。鬼達は実体のない悪霊になっているのでしょう。だから僕の目には、その姿が見えなかったのかもしれません。でも、周りの空気の中に恐ろしい気配だけは感じました。その中を僕はタクシーまで走りました。
タクシーは沈黙を保ったまま月の光を浴びて、夜の空気に溶け込むように、さっきと同じ場所にいました。運転手はまだ気を失ったまま、運転席に座っています。僕は彼をなんとか助手席側に押しやり、彼女を後部座席に押し込んで、運転席に座りました。幸いキーは刺さったままです。エンジンがかかるようにと祈りながら捻りました。
突然眠りから起こされたように車体が震え、エンジンは掛かりました。鬼達の声は目前にまで迫っています。目をこらせばその姿が月の明かりに浮かんで見えそうでした。でも、僕の目にはやっぱり姿は見えませんでした。かえってそれが良かったのかもしれません。恐ろしい鬼達の姿を見てしまったら、あまりの恐怖で僕は動けなくなっていたでしょう。
僕は彼女に教わった村はずれの湖に向けて、車を走らせました。彼女が言っていた一番高い山のふもとを目指して・・・・・・。
ヘッドライトに照らされた木や納屋や家が、もの凄い早さで後ろに飛んでいきます。いろいろな物にぶつかりそうになりながら、必死に迫ってくる鬼達から逃げました。鬼達は、車に追いついてきているようで、右から左から車に何かがぶつかってくる衝撃を受けました。
前のボンネットにも、後ろのトランクにも、ものすごい音と衝撃が、車を襲います。姿の見えない鬼達ですが、捕まれば間違いなく僕は取り殺されてしまうでしょう。そして、あの祠の中にあった骨たちの仲間入りです。そんなことには、なりたくはありません。なんとかして元の世界に帰りたい。襲い掛かる衝撃の中、僕はかまわずアクセルを踏み続けました。彼女の言うその湖が、この恐ろしい異界からの出口だと信じて、ひたすらその湖を目指しました。
そしてようやく、目の端に水のきらめきが見えたのです。赤い月光に照らされた湖面です。あ、あそこだと思い、僕は右足に力を込め、その水面の光に向かいました。そして目の前いっぱいに湖が広がったとき、僕は息を止めて一気にアクセルを踏み込み、水面へ飛び込みました。最後に目に映ったのは、湖面にきれいに浮かぶ、大きなまん丸の赤い月でした。
あぁ、そうですか、刑事さん。後部座席に彼女はいなかったんですね。じゃあ、また雨滴になって、きっとどこかを彷徨っているんですね。
彼女はあの雨の夜、僕が死んだ妻のことを心に想い浮かべたとき、その気持ちに引き寄せられて、雨滴の一粒一粒から、人間の体になったんだと思います。ええ、彼女の顔は妻とは似ていなかったんです。だから、始めは気づかなかった。五年前の夜、妻はお気に入りの真っ白なワンピースを着て出かけたんです。雨が降っているから、別な服にしたほうがいいんじゃないかと、僕は言ったんですが、妻はどうしても、これを着て行きたいと言って、笑顔で玄関から出て行きました。真っ白なワンピースと彼女の眩しい笑顔が、僕に残された妻の最後の記憶です。
でも、僕の中にはもう一つ、別な色が焼きついて離れないんです。
それは、白から変わってしまった、真っ赤なワンピースです。
あの異界からきた幽霊の彼女は、僕の真っ白なワンピースの方の記憶だけを受け取ったんでしょうね、刑事さん。はい、全部僕の想像ですけどね。
ねぇ、刑事さん、僕の話を信じるかどうかは、あなたにお任せします。でも、刑事さん、雨の夜は気をつけたほうがいいですよ。一人で街を歩きながら女性のことを想うのは。
気がつくとその女性が目の前にいて、山に囲まれた村の中に連れて行かれるかもしれない。
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