梗 概
鹿鳴館の人魚 ――隠された生命――
農商務省農林局害獣課は明治十四年に設立された。表向きは日本中から寄せられる有害生物の情報を収集し対策を研究、駆除法を指示する役所である。しかし実態は国内各地に潜む怪獣、隠された生命を調査し、捕獲ないしは退治することを目的とする秘密機関であった。
明治十七年、鹿鳴館に巨大な翡翠と瑪瑙の原石が運ばれた。黄金の国ジパングと呼ばれた日本だが金銀の国外流出は止まらず、外貨獲得の手段を真珠や宝石に切り替えようと誇示したのである。
瑪瑙は江戸城大奥の遺物で出土先は不明だが、翡翠は群馬県下仁田から算出されたという触れ込みだった。この翡翠とともにやってきたのが研ぎ職人渡邉鉄蔵である。実は鉄蔵は刀鍛冶技術を用いた模造翡翠を作り、外国人に売りつけて身を立てようとしていた。
瑪瑙は水石で、中には「人魚」と呼ばれた生物が眠っていたが、鉄蔵が曇った石を研ぎ出すと目を開き、更に舞踏会の楽器演奏に歌った。
鍛冶の温度管理を耳で行うために聴覚が並外れた鉄蔵だけがその言葉を聞き分けた。
人々は人魚の歌を聞けないのに催眠され、ゆめうつつに水を求めた。鉄蔵は華族令嬢 統子が井戸に投身しようとするところを助け、返って侮辱されたが令嬢の友人 満穂にとりなされ、翡翠を売りつける。しかし居合わせた農商務省の役人小林に模造品と見破られる。みつほになぜ騙したと叱責され、自分は将来の見込みがない悪人なのだと答える鉄蔵。幕末に徳川幕府を守ろうと意味の無い下仁田戦争に巻き込まれた父親によって将来を絶たれたのだからと。小林は鉄蔵をわざと逃がす。
その後も鹿鳴館に出入りする華族婦人が入水するという事件が立て続けに起こり、あやかしが出ると噂が立った。
小林に探し求められた鉄蔵は再び鹿鳴館に赴く。農商務省に生物標本を提出する職務の遂行だと説得され、水石を割り人魚を取り出す。江戸城以来の宝を壊したとみつほは言うが、それは叱責ではなく感謝だった。人を助けるためにしたのだろうと言われる。石を割った犯人を追う官警の手から匿ってくれたのは統子だった。
人魚は生物でなく機械だった。江戸城で覚えたことばで、鉄蔵に広い水の世界に連れて行ってくれと懇願する。そこで海中の知性生物に挨拶するのが任務なのだと。人魚はただ海を求めており人間など眼中になく、その歌に人間は惑わされただけだった。
小林は、怪生物捕獲は富国強兵政策の一環で兵器利用研究がなされていると言い、人魚は要人暗殺に利用できるだろうと語る。しかし人魚を標本にせず海に逃がす。なぜ職務違反を重ねるのかとたずねる鉄蔵に、小林は「俺は悪人なんだ」と笑う。「いい戦争をしようと思っている人間が、この時代では善人らしい。俺は嫌だ」と。
そして鉄蔵に、農商務商に入ることを求める。異常聴覚の人間は必ず役に立つからと。
鉄蔵は、生まれて初めて本物の悪人に出会ったと思う。
文字数:1218
内容に関するアピール
文明開化に取り残された少年が未知の怪物に出会い新時代に生きようと決意する物語とします。共闘し友情を育てるのは女学生と華族令嬢で、怪生物を収集する政府機密機関職員がそれを助けます。
明治の史実に、異星で作られた半機械生物との出会いを重ねて荒唐無稽な冒険譚を成立させます。
・鹿鳴館時代に踊れる婦人が少なく、近隣の女学校に要請して体操の授業でワルツを習わせ、女学生を招待の名目で駆り出したのは史実です。
・幕府軍と尊王派水戸天狗党が凄惨な戦い(下仁田戦争)をした群馬県下仁田は硬玉翡翠の名産地です。
・怪物=人魚は、生物の情動を操る声を持ちますが人間に関心はなく、異星から地球の海洋知性に贈られた半機械生物とします。
・農商務省は明治十四年に設立されましたが、農林局害獣課は(当然ながら)架空です。
文字数:342
鹿鳴館の人魚
§1
「ほい。東京府じゃ」
利根の支流を下り下って汐留の船着場に着いたは昨夕であった。上州から一人の客とその荷を運んだ船頭は、艫綱を杭に舫うと先に桟橋に降り立って、その手を差し出した。老衰に腰の曲がり始めた船頭が年若い客の下船を助けてやろうとしたのには理由がある。それというのは、
「渡辺さん、ひどい様子じゃの。くちびるが葡萄色しとる」
船客の渡辺鉄蔵は、東京も船酔いも初めてなのだった。物慣れた船頭は、病人の顔色をした若者を気遣って下船に手を貸したのである。常ならば平底船から桟橋まで一飛びに移っただろう鉄蔵は立ち上がるのもようやくのありさまで、老爺の手を借りることになった。
鉄蔵は丁年(二十歳)にも満たないと見える薄い体つきで、つい二十年も昔であれば元服したてで本田髷を結っていただろう。もっとも開化の世を感じさせるのは断髪ばかりで、その身なりは明治の御代とも思われない田舎者の旅姿、刺し子を重ねた木綿物に草鞋脚絆であった。
ただ皺びた手を握る手が大仰な皮手袋にくるまれていることだけは奇妙だった。
「大酒をあおったような心地がする。波の音まで狂うて遠くから押し寄せて、空気まで臭いようだが、酔うたせいだろうか。それとも江戸とはこんなものなのかい?」
その声も、やっと声変わりしたばかりに違いない。
「なに、一丁前のふりをするだ。酒など舐めたこともない若い衆だろうがよ」
船頭は酒に酔ったようなどと大人のふりをする鉄蔵を笑い、
「将軍様から陛下様のお膝元と様変わりしても、このにおいは変わらんぞ。お前さんが臭いと言うはよ、海の、潮のにおいじゃ。ここはもう坂東太郎の川ではねえのだ」
そう言ってあたりの夕景を眺め渡した。桃の節句が近づく水辺は、夕焼け前で明明としている。
「日も長くなって来たから、しばらく座ってお休み。宿に向かうはそれからでも良いだろう」
どかりと座って腰に下げた竹筒の水を飲み、差し出した。鉄蔵は受け取らなかった。
「ありがたいが、とてものこと水も飲めん。おれは耳がやられると何もできんのだ」
そればかり言ってよろよろと尻を桟橋の板につけた。足は踏み固められた土に下ろし、それが初めて踏む東京の地になった。そこまでの十歩ほどを歩くのも大儀そうに運んだ大風呂敷の包みにもたれて、
「船頭さんは親切じゃのう。俺はひとり旅で舐められてはいかんと随分威張っておったが、麻幹のように体から芯が抜けた心地がする。まこと、休まねば荷も負えん」
気の抜けた声で続けた。
「しかし酒手をはずもうにも俺は持ち合わせが心もとない。せめてもよ、」
懐から古びた印伝の革袋を取り出し、口を開いて中をつまみだした。
「下仁田産の翡翠じゃ。金目になるような上等のもんではないが、お内儀にでもやっとくれ」
袋の中を見もせず探った一粒は緑がかった滑らかな光沢で、山鳩の卵よりも小さかった。
「ほう。きれいな石じゃの。猫の目みたようじゃ。よくこうたなもんを持っていなさる」
「俺は研ぎ職人なのだ。鍛冶屋もするが、石も磨く」
そう言った鉄蔵の声には自負の響きがあったのだが、
「新吉原で馴染みの女にくれてやれば、さぞ暖かい思いをさしてもらえべえな」
船頭は軽い調子で応じた。貧しい身なりの小僧の持ち物だから、「上等のもんでもない」という言葉をその通りに受け取ったのだった。
「売り物の女は金の次にきれいなものが好きじゃ。俺の連れ合いなど婆さんになって花も喜ばんがの。閉じ込められている者はよ、道端の小花を渡しても喜ぶぞ。お前も東京に長居するなら覚えておくがいい」
女を買うということなど考え及ばない鉄蔵は、船頭の話を聞いてもその意味を理解していない顔だった。
「これから先は何でもあるというて、東京というところは貧乏人には何もないぞ。王子の狐に騙さるるより、吉原の女狐にかわいがられるが良かろうよ。おれなど幾たび利根を行き来しても楽しみなんぞそればかりよ。江戸者は上州に来れば空っ風が肥臭いなんぞと言うが、なに大東京と威張っても魚の腐ったよな潮風ばかりじゃろう。新吉原さえ裏長屋のどぶ臭さが白粉に混じっとるよ」
世間知らずな山出しの若い者に教えてやろうとしたのだろう。西の空が朱色を帯びかけるまで船頭はそんなことを語り、二人は別れた。
その晩、船頭は翡翠の粒を女郎に見せたが暖かい思いどころではなくなった。女は石を見るなり肝をつぶし、目の利く古手の仲間に見分を頼んだ。
「こりゃ、琅玕でござんしょう。これほど艶やかないい形の仕上げは見たことない」
お幟を張ったこともあるかつての太夫は、位を落とす前にとっくりと贅沢品を知っていた。妓楼中はちょっとした騒ぎになった。揚屋の主は船頭を特別にもてなそうとし、船頭はやっと気づいて、
「女は二人といらぬし酒を飲む腹も一つじゃ。それよりこれを買うてくれろ」
その申し出に主が差し出した十円という金は船頭を震えさせるに十分だった。懐は暖まったが、肝は冷えた。
(下仁田の翡翠なんぞと、金目でないなんぞと。王子の狐どころかあの渡辺と名乗った小僧は、日光殺生石に凝った九尾の狐ではあるまいか)
よりによって渡辺といえば渡辺の綱を始祖とする、鬼を退治する血統の姓である。それも妖の悪い冗談に思われて、船頭は大金も畏ろしく急ぎ上州へ漕ぎ戻った。
それから翡翠が木の葉に変わったと言われるのではないかと怪しんで、二度と吉原に足を入れなかった。
§2
明治政府の商務省農林局害獣課は明治十四年に設立された。表向きは日本中から寄せられる有害生物の情報を収集し対策を研究、駆除法を指示する役所である。しかし実態は国内各地に潜む怪獣、隠された生命を調査しする機関であった。クリプトビオシスは捕獲し、有用であれば利用される。また危険であれば秘密裏に退治される。それが害獣課の密かな任務であった。
「これがためにおんしを招いたぞね」
鉄蔵は目の前に据えられた大石の塊と奥の長椅子に腰かける官吏よりも、生まれて初めて踏み入れた洋館の威容に圧っされていた。しかし耳になじまぬ九州訛りに一層身をすくめた。
木賃宿に泊まって早朝から目指したところは此処、明治外交の華と謳われた鹿鳴館であった。書状を懐から取り出したものの正面階段の豪奢を半時も見上げ続けただろう。やがて雇いの下男女中が出仕する時間となり、通りから裏手に回って行くのを見て、それに続き通用門をくぐった。
それでも裏庭でためらい、誰に声をかければいいものかと次々見知らぬ者たちが洋館に入っていくのに会釈し続けていたのだが、洋装の給仕が怪訝そうに訊ねてくれた。
「おまえさん、物売りではないよな。新しい下男かい」
その口調は宿の人々や町中で耳にした江戸訛りである。舌先ばかりで素早くしゃべる。慣れた上州訛りと違うのだが、音のひとつひとつが籠らず耳に伝わるそれは、鉄蔵にとって懐かしい響きだった。
(父者の話しぶりだ)
父は外では無口だったが、家内では母や自分に向けて良く話した。その言葉は旋律の早い音楽のように鮮明な音だった。折節見せる立ち居振る舞いも周囲の男衆とは異なり、それをなぜだろうかと尋ねる鉄蔵に、母はそっと、「父さんは都育ちさ」と明かした。「ここには上野の戦争の後に来てわっちと所帯を持ったの。お友達の墓がたんとあるのだよ」上野の戦争とは徳川方が官軍に江戸城を明け渡したことだ。無血開城とされたが江戸城も上野一帯も暴風雨に荒らされたような大混乱だったという。戦としての血は流れなかったが市民のいさかいで命を落とす者はあったし、乱に乗じての盗みは横行した。
「あのな。” 石ころひとつ人の物を盗らない”という決まり言葉があるだろう。父さんは石ひとつを盗んだとわっちに白状したよ。あの鍛冶場の隅にある大石。あれは伽藍堂になったお城の中に転がっていたのだとさ。父さんは荷車にあれを乗せて、墓石だと言ったもんだから上野から下仁田までの街道で咎められずに済んだと言ってなさった」母は夫の盗みを子に聞かせるというのになにやら嬉しそうな口ぶりをした。関東一帯は幕末大荒れに荒れて、怪しげな武士は捕縛されるものだった。尊王討幕と謳って下仁田戦争を起こした侍たちの一派が、幕府瓦解後には徳川再建を掲げだしたという右往左往の無闇な状態で、浪人たちはまさに凶族、簡単に命のやり取りをしていた中で、値打ちの無い重いばかりの石くれを運んでみせる機転で、父は命拾いしたらしい。
それは命にかかわる秘密だと念を押されて、鉄蔵は父にもそれを確かめたことが無かった。ただ父は江戸詰めの武士であったらしいと思っていた。何藩とも知れないが下仁田戦争で朋輩が死んでいるとすれば宇都宮か水戸の藩士でもあっただろうか。鍛冶の心得からしても明治政府に放っておかれる程度の下級の侍だったのだろう。
父の出自など鉄蔵にはどうでも良かった。家は貧しいが口に糊することはできたのだから。そして父の語りは心地良かった。鍛冶の火加減の音や鳥の声のように精妙さがあった。それは多分都会の洗練で、ひきかえて上州で生まれ育った自分の口はさぞ田舎ぶりで聞き苦しかろうと鉄蔵は気おくれしていた。
「いえ、これを、」とばかり言い、書状を差し出した。
片手で受け取ったボーイは巻紙を広げ眺めわたし、それから、
「農林局の花押、でごさいますね」
いきなり口調を変えた。
「正面玄関から、ああその扮装ではまことに失礼ながら、勝手口でようございますか?」
おもしろいほどおろおろとしだして、鉄蔵を導いた。
「お荷物をお運びしましょう」
「いや、大事の仕事道具で人には渡せぬのです」
畏まって頷かれた。
薄暗い勝手口から入り巨大な調理場を通り抜ける途中、立ち働く者たちが、
「あら、新しい下働きかい」
そう声を掛けたが、
「馬鹿。失礼な口をきくな。害獣課の捜査官様だ」ボーイは返した。
「ほ。御庭番様かい。ずいぶんと身をやつしていなさる」
白い二列ボタンの上着に珍妙なほど丈高い白帽子をかぶった小男が―――この時の鉄蔵には解らぬことだったがそれは西洋料理のコック長だった―――軽口を飛ばして来た。
「失礼なことを言うな。この方のおかげで俺たちは枕を高くして眠れるんだ」
ボーイの高飛車な剣幕に、小男は鼻白んだように黙った。これも後でわかったことだが料理長に給仕風情が逆らうのは異常なことだったのだ。ボーイは料理長よりも鉄蔵の体面を守ろうとしたのである。
それからふたりが調理場を抜けるまで誰もが無言になった。皿鉢や鍋の音ばかりが調理場に響いた。ボーイはことさら胸を張って歩を進めた。
長い廊下に出るなり、彼は鉄蔵の正面に向き直った。
「渡辺様。ご書状を拝見いたしまして失礼ながら先にお名前を知りました。私、中村と申します。これから閣下のお控えになる奥の間にご案内いたしますが、お着替えをお持ちでしょうか」
「いえ、まことに不調法ながら」
中村給仕の口調に引きずられて、鉄蔵は大仰に返した。
確かに自分は農林局害獣課の仕事を依頼されてここまで来たのである。しかし捜査官や御庭番などというものではなかった。鉄蔵は江戸から下仁田に流れ着いた鉄砲鍛冶の息子である。幕末に高崎藩が戦うことになった尊王攘夷派の急先鋒である天狗党は、下仁田戦争に敗れ残党が山に隠れた。危険な凶族に備えて下仁田一帯では猟師だけでなく百姓も鉄砲を持ったから、鉄蔵は父の教えを受けて鍛冶仕事を覚え研ぎも務めた。山へ柴刈りに行くにも鉄砲を下げて行くのが常態となっていた上州の山野は荒れ、大猪や化け狼が出ると噂されるに及んでいたから、明治政府のお役人がお助けに来て、そこで鉄蔵は害獣課の命を受けたのだった。
鉄蔵は今までの顛末を思い出した。
害獣課捜査官は小林と名乗り猟師と共に数日山狩りをしたのだが、鉄蔵親子の鉄砲に興味を持った。鍛冶場に訪れて、
「和式の銃だが、洋式並みに性能が良い」
そう言って鍛冶場にある銃器を手に取った。そうしてなにくれと父に質問を重ねた挙句、炭と錬鉄の温度管理を鉄蔵が行っていると聞きだした。
「物が熱くなる時、冷める時には音を発します。それの頃合いを聞き分けねば、良い長筒ができません」
刀のように打って鍛える板物と異なり、銃は筒物なのである。
「息子の耳は特別で、猟師が犬を呼ぶ笛も聞こえ申す」
小林はぴくりと眉を上げた。
「犬笛が、とは」
鉄蔵は自分に話が向けられて畏まっていたが、嘘と思われてはいけないと思い、
「はい聞こえます。あれほど甲高い音が他のお人の耳には届かぬことが不思議です」
そう答えた。
「低い音はどうかな」
更に尋ねられて、鉄や石を研ぎあげるには手触りでは足りない、耳でわずかな摩擦の違いを頼りに仕上げていると答えた。
「今、何か他人が聞くことのできぬ音はしているか」
「今は聞こえません。けれど時折か細い歌が聞こえます。それを聞くたびに川で泳ぎたくなるので、カワセミに呼ばれているのだと思っています。それが証拠に、川で泳ぐと度々翡翠の原石を拾えるのです。それからここ数日、夜に梟の声が甦りました。猪狩りをなさっているから獣どもが穴に隠れておって梟の天下なのでしょう」
「面白いのう。異才はいずこにもおるようだ。そのような異才を育むものといえば、木霊の類だが、」
小林は楽しむように、というよりも何か企むように言葉を切って、
「どう見ても人の子ごたる」
そう結んだ。
小林は帰りしなに「明日も参る」と告げた。
そうして翌日言葉通りにやって来た小林は荷馬車を仕立てていた。彼は鍛冶場の隅に埃をかぶる大石を召し上げたのである。
父が江戸城から運び出したという大石は、土間で半球形をのぞかせている。表面はギザギザと尖っている。河原の上流にあるような表面の滑らかな石ではなく、表面の結晶構造からして下仁田名産の翡翠でも無い。渡辺の家に出入りする者はみな、ただ奇岩であるから置いてあるのだろう、庭石にも腰掛けにもならないと見捨てていたその石の正体を小林は見抜いたのだった。
同行させた軽輩たちに、石をひっくり返させた。
「長く土にまみれてすっかり断面が曇っておるが、この石は瑪瑙だな。瑪瑙の水石であろう」
父は応えなかった。
「江戸城を開いた折、価値ある文物はあらかた持ち去られていた」
小林は父が口を引き結び、首を落としているのを見届けてから続けた。
「害獣課には我が国万古の妖物、クリプトビオシスの伝承が集められておる。中の一つに大奥の人魚石というものがある。瑪瑙の中には水が満たされ、人魚が閉じ込められていたということだ」
小林は、呆気にとられた父を見、それから鉄蔵に顔を向けた。昨日鉄蔵を「異才」と褒めたと同じ表情をしている。
「人魚は美しい歌を、時には常人に聞こえぬ歌を歌ったというよ。お前はこの石に耳を育てられたものだろう」
「そのような物とは」
父が常ならぬ喉から絞る濁った声を出した。
「であろうな。つゆ知らなかったであろう。妖物の仕込まれた石など常人が欲しがるものか。だから伽藍堂に盗みつくされた江戸城大奥に、この石は放り出されておったのだろうよ。お前も金儲けになるなんぞと思うて運んだのではなかろう」
父が口を開けようとするのを遮って、小林は続けた。
「いかな仔細があったかは俺の管轄ではない。ただ一橋公の命に逆らって官軍と決戦を企てた者どもが開城後に逃げ延びようとて、身一つでは怪しまれるから百姓や大工石屋なんぞになりすまし荷車を引いて街道の詮議を通ったとは良く聞いておる。いや、鍛冶屋もおったかの。水戸藩は鉄砲方の藩士が多かったと聞く。だが、今何かを語ることはいらぬ。ただひとつだけ、のう顔を上げられよ」
父は覚悟したようにまなじりを決していた。
「この石を召し上げたい。かまわぬな。繰り返すが仔細はいらぬし他言も無用じゃ」
それから、
「今、人魚の歌は聞こえるかい」
そう鉄蔵に訊ねた。
「いいえ」
「まあ、これがその人魚石と決まったわけでもない。害獣課で検分いたしてからだ」
小林は終始楽しそうな顔で、あるいは底意地悪そうな性根を見せて、家令たちに石を運ばせた。
それがふた月前のことで、鉄蔵は以来川に入る気にならなかったから、石には本当に人魚がいたのだろうかと思いめぐらした。そうして小林からの召喚状を受け取った時にはすっかり覚悟していたのだった。
(何をさせられるか得体が知れない。しかし逆らえない)
用向きは何も知らされず、ただいついつまでに鹿鳴館にという書状ばかりを受けて鉄蔵は足より速い川で東京府に来たのだった。
鉄蔵が全くの手元不如意だと見ても、給仕中村は親切だった。
「白シャツとズボンは私共のものがございますが、上衣が無い」
「いや、生まれてこの方洋装をしたことが無い。有り難いがこのままで対面させていただきましょう」
中村は不思議の顔をして、
「渡辺さんは、地方でばかりお働きですか」
そう言い、では、と廊下を歩みだした。
長い廊下を曲がると、また長い廊下だったが、鉄蔵は異状を感じた。
「もし、中村さん」
「はい?」
「つまらぬことでしょうが、この廊下は先ほどと何が違うのでしょう。この壁は、今までと同じ石壁に見えますが靴音の響きが変わりました。なにか特別な場所なのでしょうか」
同じ重厚な煉瓦壁に見えるのに、足音の残響がいきなり違うのである。鉄蔵は音が軽すぎると奇妙の感に打たれたのであった。
中村は瞬きを数回してから、
「お気づきになるとは。それほどお若くて害獣課に奉職なさるとは、よほどの異能の持ち主でいらっしゃるのだと、感服しておったのです」
感激の面持ちをした。
「山や海のクリプトビオシスは町中の狸囃子なんぞとわけが違うと聞いておりましたが。全く狸どころか鯨を相手どるような大したお仕事をなさるのでしょう」
そして、
「お部屋にご案内いたしましょう」
煉瓦壁の足元を蹴った。そして屈んで蹴りつけた場所に何やら指を滑らすと再び立ち上がり、煉瓦壁を軽く押した。
「失礼いたします。お連れいたしました」
そこは朝だというのに瓦斯灯に照らされた、密室だった。奥の長椅子には小林、そして手前には鉄蔵にとって見慣れた、あの大石があった。
「渡辺君、面倒な挨拶は抜きだ。早速人魚石を磨いてもらおう」
小林はそう言いおきながら案内してくれた中村には短くねぎらいの言葉をかけて退出させ、
「これがためにおんしを招いたぞね」
急に語調を変えた。
「舞踏会までに、働きば見さっせ」
§3
満穂が橋元家の馬車から降り立つと、辺りには桃の香が漂っていた。宵の空気はしっとりと湿度を帯びる。日盛りには感じられる春泥の埃臭さは消えて、花の香が運ばれる。慣れぬ洋装の首元には肩掛けがあってもほのかな寒さを感じたが、それは満穂に、未知を味わう緊張と憧れの思いを覚醒させた。
花の香は目の前の豪壮な洋館から漂っているのだった。雛の節句の舞踏会とて、鹿鳴館の前階段の両側は満開の花の枝で埋められていたのである。瓦斯灯の光に照らされた館の威容に臆していた満穂は、自分が人形になってドールハウスに並べられるようだと思った。幅の広い石段と淡い朱鷺色の花、そして瓦斯灯は、雛壇や雪洞を連想させたからだ。
(現実の様とも思えない)
昨日まで洋髪にしたことさえ無かった自分が、バッスルで膨らませた仏蘭西人形の装いをして、西洋人の集う舞踏会に招かれている。満穂は灰娘のおとぎ話と自分を重ねた。といっても満穂は王子と踊ったり玉の輿に乗ったりといったことに憧れはなかった。ただ、平凡な女学生である自分が明治の華とうたわれた鹿鳴館の舞踏会を垣間見ることに驚きと気おくれ、そして何より好奇心を抱いていたのだった。もし舞踏会で美しい貴公子と恋に落ちるなどということがあるとすれば、自分ではなく隣に立つ統子だろう。鹿鳴館の世界は統子のもので、自分はその異界で一時を過ごすだけだと思った。女学校の友人である統子の父は明治政府の要職にある。その令嬢らしく、落ち着き払ってあたりに一瞥もくれない統子は、女学校で過ごす時よりも悠揚せまらぬ様子で佇んでいるように見えた。
(自分は小商人の娘で令嬢などという者では無い。ここは別世界で、自分は何もわからない不作法者だろう。けれどやれることは務めてみせよう)
満穂は御者台に頭を下げた。そして統子の父に丁重に礼の口上をした。
「ほんにありがとうございます。私のような者をお連れいただいて身に余る光栄でございました」
慣れぬ車中は揺れも激しくほとんど会話もできなかったから、馬車に乗る時点で「よろしくお願いいたします」としか言えなかった。それで大げさに世辞を交えた礼を述べたのだが、気難し気な統子の父は満穂のおだてるような言葉を当然のように受け、
「伊藤公のご意向に沿うよう、新婦人らしく踊られよ」
そう返した。それは数え十七歳で世間を知らない満穂の耳に、いかにも政府高官らしい言葉に聞こえた。
けれど統子は違う思いを抱いたらしかった。鹿鳴館の階段を父の後から満穂と並んで上る間にこっそりと、
「父が威張った口をきいて、ごめんなさいね」
そんなことを言った。それから声を大きくして、
「新婦人らしく踊られよ」
と父親の口真似をして笑った。先を歩む父親にも聞こえただろうが、気を悪くしないと読んでいる様子だった。
統子が謝ったには特別なわけがあった。この舞踏会へ満穂が来たのは、統子の父に懇願されたからなのである。なにしろ鹿鳴館では夜毎に舞踏会を開こうとする政治家たちがいるのに、このところ肝心の婦人たちが集まらない成り行きだった。洋舞を踊れるものならと、東京中の女学校に急遽要請がかけられ、素町人の娘たちの希望を募った。統子の父は高級官吏であるから娘を鹿鳴館に出さぬわけにはいかないが、さて気心の知れぬ者たちの中に娘を投げ入れるとは不安で、何を置いても満穂に舞踏会に出てほしいと頭を下げられたのであった。
体操の授業でワルツを習っているだけの女学生たちが招集されるほど鹿鳴館の人気が落ちたのにはわけがある。鹿鳴館の舞踏会では、最近凶事が続いているのだった。令嬢や夫人が立て続けに裏井戸に身投げしたというのである。
その昔大奥では女中の身投げが後を絶たなかったと言われるほど続いたのだが、美しい女が集まる場所には大奥と同じ妖が出るのではとさえ噂されるに及んで、名流夫人や令嬢たちは仮病を言い立てて舞踏会を拒むようになっていたのだった。
そんなわけだから、舞踏会に来たのは満穂自身の願いではない。むしろ統子の父は満穂に感謝すべきところなのに居丈高に振る舞ったことを統子は咎めたのであった。
もっとも女学校の同級生同士が天下に名高い鹿鳴館の舞踏会に来るのだから、君の悪い噂など吹き飛んでしまう。もうすぐ本科は卒業たが四月から専攻科に持ち上がるのだからまだ楽しい毎日が続く。二人は髪に飾る揃いの花細工を用意して、円舞を踊ることを楽しみにしていた。どんな楽曲が流れるのだろう。舞踏室はどれほど贅を尽くしているのだろう、食べ物はどのような献立なのだろう、飲み物はシャンパンと聞くがまさか自分たちには酒ではあるまいなどと、二人の楽しみは尽きなかった。
そうして互いに一緒に時を過ごすことを最上の喜びとしていることに嘘は無かったけれど、満穂は思っていた。
(統子さんは自分とは違う)
統子には謝りながら父親をからかうことができる天衣無縫さがあった。
女学校でも統子は、師範の真似をして大人をからかうことがある。けれどあまりにあっけらかんと子供っぽく、叱られることはつい無かった。今も満穂に向けた笑顔の口からは小粒な八重歯が覗き、邪気が無い朗らかさだ。
むしろしっかり者と頼られる満穂こそ、女学校では訓戒を受けたことがある。新任師範があまりに居丈高で校長教頭にばかりバッタのように頭を下げ、一方では校内の雑用をする雇い人に居丈高であるのに、講義では「四民平等の世」と説くから逆らったのだ。
母は嘆いたが、父はその晩満穂を庭に呼んだ。
満穂の家はご一新前は水戸藩のお出入り商人であった。同じお出入り商人でも商いの一等地である日本橋の大店とは違い本所に暖簾を掲げるお店ではあったけれど、本家のある水戸藩から運ばれる品々を船で荷受けして身過ぎ世過ぎしてきたから、庭には光圀公駒留の梅がある。それは一家の誇りだった。
「お前な。この木をなんと思う」
如月の、月が冴え冴えと明るい夜だった。徳川光圀公が立ち寄って手ずからご乗馬の綱を結んだのだと伝わる梅の古木は、月明かりに黒々と枝を伸ばしていた。身に染む寒さに凍えながら、梅の木の前で叱られるのだと思っていた満穂に父が続けたのは、意外の言だった。
「こりゃな、ただの木だ。お家の自慢ではあるが、なにありがたいものでは無い」
そう言って手を伸ばし、枝を一本折り取ってみせた。庭師さえ鋏を入れるのに畏れ入る梅の木であるのに、父は折った枝を無造作に振り回してみせた。
「ただの木切れじゃ。枯れれば焚きつけにしかならん」
そして満穂の目を見た。
満穂はこのとき父の目が月明かりに光ったことを覚えている。それは見慣れた厳父の、子を見下ろす目つきではなかった。どうだと問いかけるような、見たことのない不思議な表情だった。
「ご老公様はよ、この本所で妖怪退治をなさったことがある。置行堀で釣りをなさったのだ。あそこには大獺が住まいおって、年を食って自分で魚が獲れなくなったから人の釣果を巻き上げておったのよ。ご老公様を化かそうとしたカワウソはな、化けの皮を剥がれて這う這うの体で川に逃げこもうとしたがな、どうなったと思う」
「……打ち殺されたのでしょうか」
満穂はおずおずと口にした。見当もつかないのはカワウソの運命より話のなりゆきだ。
「光圀公のご家来になったのよ。死ぬまで人に化けぬいて、八幡の藪知らずにも御供して、森に隠された底なし沼に泳ぎ入り平将門の骸骨を引き上げたそうだ。大獺は常陸の国に住み替えたが墓は本所にある。本立院の間宮様だ」
「間宮海峡の、林蔵様の、ですか」
満穂はあっけにとられた。八幡の藪知らずに入った徳川光圀が将門の亡霊を一喝して治めたという話は誰でも知っている。平将門は京で成敗され、遺骸は故郷の常陸を目指して飛んだという。しかし八つ裂きにされていたから霊力衰え、力尽きて関東各所に落ちた。大手町にも首塚があるが、市川に残る八幡の藪知らずもその一つだったという。それは子供でも知っていることだ。
そして本所本立院に墓所を持つ間宮様と言えば、蝦夷やギリヤークにまで探検し間宮海峡を確認して日本の領土を守った水戸藩御庭番、間宮林蔵を指す。世界地図に名を記された護国の英雄として学校で学んだ人物だ。
「ご先祖がカワウソとは」
「安倍晴明はキツネの子じゃ。並みの人間が船も通わぬ海峡を渡れるわけがなかろ」
父はあっさりと言った。高等女学校にまで進んだ娘に迷信を吹き込もうというのだろうかと、満穂は途方に暮れた。
「満穂」
呼ばれて、さまよう視線を父に向けると父はある感情を表情に示していた。
「俺はご老公様は立派なお方だったと敬っておる。そして改心したおいてけぼりのカワウソの行いも立派だと思う。確かに人と狐狸妖怪は違うじゃろう。だが時に友にもなり、交わりもするもんだ。どちらが偉いと決めるもんでは無い。まして人間の身分なぞよ、人や獣なぞよ、ただ生きとるだけで偉いも何も無いもんじゃ。他人様のお役に立つものが偉いのじゃ。身分や立場で他人を見下す者が一番下らん。」
父は満穂に、笑顔を向けていたのだった。
「おまえが学校で先生と呼ぶお方に楯突いたは、なんぼう叱責されることではあろ。おれも番頭の計算違いを丁稚が言い立てたらきつく叱る。だが上の者の間違いを見抜ける丁稚なら、先の見込みがあるから引き立てる。おまえは、」
父はにこりと唇の両端を伸ばした。我が意を得たりという笑みだった。
「見込みがある。俺は嬉しい」
それから真顔になって、
「だがわきまえて振る舞わねばならん。世の過ちを正すのは新政府樹立みたよに難しいこったよ。まして心に宿る卑しさや悪は、楯突いてなくなるものでは無かろ」
そう諭した。満穂は父母に恥をかかせたという思いに駆られ、そして見込みがあると言われて、頬が熱くなった。目に涙が膨らむのが感じられた。
「冷えたろう。家に戻って薄茶を点ててくりょう」
「はい。」
やっと返事ができて、それと共に涙が引いた。そうして満穂は気づいた。
「お父様、」
「なんぞ」
「光圀公がおいてけぼりで釣りをなさったご時代とは、」
父は頷いた。
「そうよ。生類憐みの令の、綱吉様の、ご時代じゃったのだ。光圀公と新しいご家来は魚籠いっぱいの魚を持っていたから江戸屋敷に帰れず、我が家にお泊り遊ばしたのだ。」
水戸藩藩主であった人が徳川将軍のおふれに逆らって、こともあろうに江戸市中で釣りをしてみせたというのだ。カワウソと違って食べ物に困るなどというお方ではない。明らかに犬公方に対するあてつけだ。
それは秘密に伏せられねばならぬ話だったろう。けれど光圀公が綱吉を諫める振る舞いの数々は人の口にのぼり上つ方の耳にまで入ったと聞いている。こともあろうに犬の皮衣を誂えて献上してみせたとさえ幼い頃の読み本に記されていた。ご老公様は人をたぶらかすカワウソとも、将門の怨霊とも、意気を通い合わせる器であったのだろう。
満穂はカワウソが間宮林蔵の先祖だなどということは本気にできかったけれど、父の教えを身に染み込ませた。
用心深く自分の分をわきまえながら、人にわけへだてなんぞしない。満穂は本当に四民平等の世の新婦人になりたいのだった。
舞踏室は二階にある。一階のクロークに肩掛けを預けて、満穂たちは更に階段を昇った。もう音楽が聞こえてくる。華やぐ人声も漏れる。
なにか失敗をするかもしれないが、ただ楽しいだけに違いない。浮き立つ気持ちで満穂は歩んだ。慣れない裾を踏まないように、両手でスカートの腰布をつまみながら。
しかし演奏曲に合わせて、聞こえない歌が歌われていることを満穂は知らなかった。
§4
舞踏室には音楽が満ちていた。
あちこちに桃の花が活けられて、その花瓶の花丈と身長の変わらぬような大公が胸に幾多の勲章を帯びていたり、贅沢な宝石を飾った奥方がいれば趣味のいいすっきりとした夫人もいる。
淡い華やかな色合いの、娘たちが着られるドレス姿が集まっている溜まりがあって、二人は統子の父と別れた。彼は仕事の知り合いでもあるのだろう、勲章を肩に垂らした人物と語りだした。
統子は少女たちの群れの中に入るなり、青年に歩み寄られた。彼は満穂の隣にいる統子に向かって、胸に手を当て、滑稽なほど型通りの会釈をした。ところが、
「すみません。ポルカは踊れませんの」
そう断ったことにも、笑顔を見せなかったことにも、満穂は驚いた。青年は「ではまた」とささやくように小声をだして、他の令嬢を誘いホールの中に踊り入ってしまった。
「踊ってらしたら良かったのに。あたしを気にする必要なんかないのに」
「違うの」
「なあに」
「あの方ね、知っている人なの」
「なおさら踊ればよかったのに」
満穂は踊れば楽しいし、踊る相手が現れなくともやはり、楽しいだろうと思っていた。統子が踊るのを―――男の人と手をつないでだ!―――見るだけで楽しいだろう。
舞踏室には音楽が満ちていた。
しかし統子は、
「そんなんじゃ。ねえ、あの方ね」
言いさしたところへ銀盆を掲げ持った給仕が近寄ってきて、そこへ娘たちが押し寄せた。
「ねえなんだかひどく喉が渇かないこと?」
「シャンパンよりお水が欲しい」
「あ私もお水」
銀盆の水差しから小さなグラスに注水する給仕に、娘たちはお代わりまで求めた。
満穂は統子の言葉が続くのを待って、それが与えられないのを知った。何か気が差すことがあるらしい。満穂は話題を変えてしまおうと、
「私も喉乾いた。お水ちょうだいしない?」
そう投げかけた。
「お水なんか、」
統子はついぞ見ない顔をした。唇を噛んで目をさまよわせたのだ。
舞踏室には音楽が満ちていた。
急に泣きべそをかきそうになった統子に、満穂は驚いて何もできなかった。
統子は小走りに駆け出し、舞踏室を出て行ってしまった。満穂は何もわからず、友人の名を呼ぶもできず、やはり駆け出して後を追った。何事かと視線を集めてしまったが、恥ずかしがる場合では無かった。統子は明らかに変だ。
統子は階段をそれを追いかける満穂は、
(シンデレラみたいに靴が脱げそう)慌てているのにそんなことを思った。
中庭に走り込んだ統子を追おうとして、不意に庭の瓦斯灯が消えた。館内の明かりが漏れるから闇ではないのに、いきなりの暗さに目が慣れないで何も見えない。
満穂は立ちすくんだ。
足音も聞こえない。舞踏室からの音楽にかき消されて。
舞踏室には音楽が満ちていた。
無性に心細くなり、水があればいいのにと思った。先ほどの銀の水差しから注がれる水。水。水の世界が無性に恋しくなった。水を飲むのではない。水に入りたいのだ。
ただもう無性に。不安は水に入れば溶けると今の満穂は知っていた。
水に入れば幸せ。
空を切り裂く鋭い音がして、それは上空に向けていっさんに飛び、それから―――花火が空いっぱいに、花開いた。
満穂は我に返った。花火の明かりに庭が照らされ、奥の細い通路沿いに囲い井戸が見えた。鹿鳴館の身投げ井戸とまで噂が寄った裏井戸に違いない。その囲いを乗り越えて蓋を取ろうとする統子が見えた。
「統子!」
叫んでも気づかぬように蓋を外してしまった。井戸は生活用水で必要だから、厳重には蓋できないのだ。
「待って!」
やめてでもなく、駄目だと言うのでもなく、満穂は待ってと口をついた。待ってほしい。もしそれをするなら一人ではなく。なぜだか狂おしく、その場で自分の命は惜しくなかった。一人で行っちゃだめ。水に入りたい、二人で。
舞踏室には音楽が満ちていた。
満穂が井戸に駆け寄るのと、鉄蔵が統子をつかまえるのはほとんど一緒だった。
統子の胴体を抱える鉄蔵に、満穂は怒りをぶつけた。
「あなたのような悪人、わたし、初めて見ました!」
けれど鉄蔵は何も答えなかった。
「鹿鳴館の人魚」前編終了。
後編は、次回課題をご覧ください。次回実作と合わせて公開いたす予定です。
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