梗 概
沈黙の破裂音
呼吸可能な空気、歩行可能な重力、そして豊かな緑——–。僕たちは第二の地球と呼ぶべき小惑星PK388での入植を始めていた。僕たちが住む地域から500mほど離れた小島にどうやら先住民と呼べる存在がいることがこの1年で分かった。というのも僕たちは沈黙交易(※)を始めていたのだ。
僕(ニブ・12歳)は子ども交易隊(大人に混じって子どもが数名選出)に選ばれた。ずっと交易隊に入りたかった。なぜなら人類ではない生き物と間接的にでも関われるなんてドラマチックだし、この星で最も重要な仕事のように思えたからだ。
交易隊の仕事とはこんな感じだ——–。僕たちが米、小麦、酒などを海岸に並べて立ち去る。夜になると小島から海を渡って先住民たちがその海岸にやってくる。(しかしその姿は闇夜で見えない。)彼らは僕たちが残していった品々に見合うだけの毛皮(小さな熊みたいで僕は被って遊ぶのが大好きだ!)やあざらしのような海獣の肉(ごちそうだ!)を置いて立ち去る。僕たちはそれを翌朝見に行き、毛皮や肉を持ち帰る。その夜、再び先住民たちが海岸線にやってきて僕たちの品々を持ち去る。そうして全く接触せずに交易を行っているのだ。
なんでこんな面倒くさいやり方をするのか僕には分からないけど、大人たちも先住民も言葉が通じない以上にお互い警戒しているのかもしれなかった。
ある日、友達のマハリが罠を仕掛けようと言ってきた時は、まずい気がした。海岸に物品を置いて来る役目を受けたマハリと僕は任務だけをちゃんと行えばいい。だけど僕はマハリが砂浜にトラップを仕掛けるのを止められなかった。
翌朝見に行くと目を疑った。象よりも巨大な、プードル犬にしか見えない動物が足を罠にくい込ませ、身悶えしている。マハリは不用意にも駆け寄った。すると巨大なプードルは二本足で立ち上がり、マハリに食らいついた。即死。マハリの肉はプードルに食われ、骨はしゃぶり尽くされた。僕は恐怖で腰が砕け、愕然としていた。しかし駆けつけた大人たちがその巨大なプードルを射殺した。
その日から、ジャイアントプードルは姿を隠すことなく、交易を忘れたかのように人間を襲うようになった。マハリの血の匂いが彼らに人間食の魅力を喚起してしまったのだ。ある時は、人間を口に加えて海を泳いでいくジャイアントプードルの背中がいくつも確認された。またある時は、海岸線にジャイアントプードルの死骸が何十頭も積み重ねられ、燃やされた。来る日も来る日も、大人は戦いのことばかり。小島を制圧しに行く話も持ち上がっている。
海の向こうから活火山のような吠え声が聞こえる。警備隊が入植地区の周りで急襲に備えている。今夜も何人も殺され、何頭も殺すのだろう。僕たちはこの星に住み続けるのだろうか。もしそうだとしたら彼らを虐殺し続けるのだろうか、それともどうにかして和平を目指すのだろうか。大人はどんな決断を下すのだろう。もう後戻りができない。地鳴りのような足音が聞こえる。わあ、揺れる! お家が体当たりされた!
※接触を忌避する、二つの共同体の間で行われる交易形態。
文字数:1277
内容に関するアピール
アイヌの勉強をしている時に、道東アイヌと千島アイヌが「沈黙交易」という謎めいた交易をしていたことを知りました。調べてみるとスカンジナビア半島、シベリア、エチオピア、チュニジア、北米ニューメキシコ州など世界中で同様の例が記録されています。沈黙交易の根底には”接触忌避”があります。接触忌避の理由は様々ですが、共同体の外部は悪魔・病気・死・ケガレ・厄災を内部にもたらすと考えられていることが一つに挙げられています。ファーストコンタクトというテーマいただいた時、この沈黙交易を描くことを決めました。接触忌避を犯す前と犯した後、そこにある取り戻せないなにかを、少年の目を通して描きたいと思います。
参考文献)
瀬川拓郎(2015)『アイヌ学入門』講談社
文字数:320
宣誓、なかよくなりたい
Ⅰ.
砂浜に残された足跡は、まるで犬のものみたいだ。
だけどこの足跡の持ち主は犬じゃない。だって大きいもの。僕のお尻よりも大きい。4本足で歩いてるものあれば、2本足で歩いてるんじゃないかと疑いたくなるものもある。いったいこの足跡の持ち主はどんな生き物なんだろう。
僕たちがこの星にたどり着いたのは1年前。この星はほとんどが海に覆われていて、小さな島が二つあるだけ。その二つのうち、ちょっとだけ大きい方の島で、パパやママと僕、その他大勢の大人たちが入植を始めたんだけど、いつごろからか隣の島と交易を始めていた。そこには先住民という人たちがいるらしい。
いつだったか「交易ってどんなことするの?」とソファにふんぞりかえったパパに聞くと、「商売みたいなもんだ」とクッキーをパサパサこぼしながら答えてくれた。でも宇宙船で生まれて宇宙船で暮らしてきた僕には商売がなんなのかよくわからない。僕がしつこく説明を求めると、「物々交換だ。俺たちが持ってるものをあげて、こっちに住んでる奴らが持ってるものをもらうんだ」とのこと。ここでは僕たちの他に先に住んでる人たちがいるから、その人たちとうまく付き合っていかなければいけない。だけど僕たちの家族や仲間とは違う付き合い方をするらしい。一緒にご飯を食べたり映画を見たり、同じ部屋で寝たりすることはないのだそうだ。
鼻から息を吸うと、塩っからい匂いがする。この海風の匂いが僕は大好きだ。これが世界だ。宇宙船ではない、外というものだ。僕は外にいるということに、一年たっても嬉しくてたまらない。
僕はひとつひとつ足跡を追っては、その大きさと存在感に胸を踊らせた。砂浜にさざなみが押し寄せる。ほんのちょっとずつ満ち潮になって、波に掻き消えていく足跡を、何時間もじっと眺めてはその姿を想像してみる。ゴリラみたいにマッチョでいかつい顔をしていたり、宇宙船のアニメ室でみんなで見た進撃の巨人みたいだったり。もしかしたらティラノサウルスみたいなおそろしい恐竜かもしれない。でも正解はわからない。大人のひとたちもまだ会ったことがないんだって。それはとても不思議だ。なんで会ったこともない人たちと交易ができるんだろう。僕は家に帰ったら、もう一度パパに聞いてみよう。いや、ママの方がいいかもしれない。パパはいつもお酒ばかり飲んでるからな。宇宙船の種子管理室で働いていたママは、ここにきてから畑仕事を一生懸命がんばってる。にんじん、トマト、キャベツなどの野菜や小麦を育てて、この大地で自給自足することに必死だ。いざとなったら再び宇宙船の工場で作物を育てることはできるけど、この星の大地で持続的に育てていくことが大事なんだってママは話してくれた。僕は工場で育つ食べ物もこの星の土で育つ食べ物も、味の違いは分からないからどっちでもいいんだけど、ママは「大切なのは味じゃなくて、私たちがどこに根を張って暮らしていくのか、その決意が試されてるの」そう語ってくれた。僕はそれをお手伝いするだけだ。
この砂浜の向こうに見える島はこちらと同じように木々におおわれている。あの森の奥に先住民たちが住んでる、らしい。もしかしたら今も僕の方をこっそり覗いてるかもしれない。
「おーい、僕はここだよ」と手を振ってみたくなる。でもそれはきっといけないことだ。誰もやってないし、お互いのプライバシー(そう、きっとそれはプライバシーというものだ)を守らなければいけない。
早いなあ、もう太陽が海に沈もうとしてる。この星から1億キロ離れた太陽PS9から差し込む光はとっくに赤くて、海にキラキラ光る道もできてる。この星の1日は18時間。僕には短すぎる。海岸や森を探検するにはまったく足りない。でもそろそろ晩ご飯の時間だ。おうちに帰らないと。砂浜の裏手に広がる大きな森の中に僕たちの入植エリアがあって、そのうちの一つの家でママがきっとご飯を作っていることだろう。お家への帰り道はバッチリ頭に入ってる。だから、そう、早く帰らなくちゃいけないんだけど…
森に入ると、たくさんの木から長く伸びる影を踏んだり、ひなたに出たり、影遊びをしなくちゃいけないから、すんなりおうちに帰れない。どうしてまっすぐおうちに帰れないんだろう。僕はおかしいのかな。でもこれがおかしいって言われてしまったら、どうしていいかわからない。だって僕はこの体で、世界を、外を、いっぱい体験してるんだ。砂浜も足跡も、森も太陽も影も、全部が全部ドキドキするんだ。
影を踏むとなぜだかこわい。影が生きてるみたいで、すぐに出ないと食べられてしまいそうな気になる。それがまたスリリングでおもしろいんだけど、すぐにママの顔を思い出すことにしてる。「いつまで遊んでるの!」ってママが怒る顔を想像するだけで、お尻を叩かれたみたいに足取りが早くなるんだ。
赤く染まる木の葉の絨毯もフカフカしていて踏み心地は最高だ。よし、走ろう! 影だけ避けながら。うわ、おしっこの匂いがする! 風に乗ってあっちの方からアンモニアくさい臭いが流れてきた。「あそこはお湯が湧いてるから掘って温泉にするんだ」ってパパが言ってたな。今度あっちも探検に行ってみよう。それよりも今夜の晩ご飯はなんだろう。お腹すいたな。パパはまだお酒飲んでないといいな。パパはこの星に来てからお酒ばっかり飲んでるからな、ママもなんか言ってほしいよ。
Ⅱ.
サルリは畑でとれた小麦で作ったバゲットを切り分け、テーブルへと運んだ。
テーブルには養鶏場から配給される鶏のもも肉を使ったトマトスープや、緑野菜の炒め物が載っている。
「健康的な空気があって、歩くのにちょうどいい重力があって、生活しやすい気候があって、それにおいしいご飯があればいうことなし」
サルリはエプロンの紐をほどいて椅子の背にかけると、ニブの顔を満足そうに見た。
「天然酵母を使って、伝統的な製法をやってみました」
「かたいの?」
ニブは不安そうに聞き返した。
「そうよ、ハードパン。これが本場なの」
サルリにそう言われたニブは、残念そうな顔をした。
「かたいのってバリバリするだけで味しないじゃん」
「スープにつけて食えばいいんだ。わがまま言うもんじゃない」
深緑色の酒をグイッとあおって、アリトがぶっきらぼうに言った。
アリトはサルリたちが野菜を育てる畑を作るべく、森の開墾に従事している。チェーンソーや鉈を使って汗をかくのが仕事だ。肉体労働の後はすぐに酒が飲みたくなるし、子どもののんきな言い分を聞いているとイライラしてくる。森になる緑の果物〈ラノンラ〉の果汁を発酵させて作るこの星ならではの果実酒〈ラニー〉は、まだ作り方も洗練されていないため、苦味と酸味が強い。しかしアルコールであることには変わりない。宇宙船にはエタノールを精製する装置が組み込まれることはなく、酒を断念せざるをえなかった。あれから20年… アリトは常々、人間らしい暮らしには酒がなくてはならないと考えていた。そしてようやくこの星でアリトは酒を飲むべく、仲間たちと一緒に酒造りから手がけていた。苦かろうがすっぱかろうが、コップ一杯の酒が宇宙の流浪の終わりを告げ、敗残者に与えられたせめてもの人生讃歌であると感じていた。
そもそもニブの両親たちの一団は、オニキスから追い出された受刑者たちの集まりだった。オニキスには地球から旅立った人類が200年の後にたどり着いた星で、到着から30年間で8億人にまで人口を増やした。そこでは地球と同様に都市文明を構築したが、当たり前のように犯罪も起き、犯罪者は刑務所に送られた。そしてある時、オニキス統一政府が断行した政策の一つが〈宇宙流刑〉だった。毎年一回、その年に犯罪を犯した者、その家族が集められ、宇宙船に乗せられ、宇宙をさまよう。そうやってオニキスから追い出す方が刑務所を維持管理するよりもコストが低かったのだ。
受刑者たちは宇宙船で生存するだけの権利は認められた。野菜や穀物の種子の管理、野菜工場、養鶏施設など、最低限の衣食住が保証され、コンピューターには移住可能な惑星の探査機能も実装された。しかし実際に発見することは不可能だというシミュレーションが出されており、もはや死出の旅に向かうものと思われていた。当然ニブの両親もそのつもりで乗船した。それが20年後の今、あろうことか大地を踏みしめている。アリトが酒をあおるのは、いつまでたってもやまないその高揚感に、待て待て落ち着けよと自分に言い聞かせるためでもあった。
「ニブ。そういやお前、交易隊の子ども班に選ばれたぞ」
アリトが思い出したように言った。
「ホント!? やった!」
ニブは目をまるまると見開いた。
「マハリも一緒だ」
父のその言葉にさらに心を弾ませた。
バゲットの硬さにしょげていたことも忘れたかのように、喜びを体中に巡らせていると、
「なにがそんな嬉しいんだ? 交易はそんなに楽しいもんじゃないぞ。ただ物を置いて、持って帰ってくるだけだからな」
アリトがぶっきらぼうに言った。
「先住民がどんな人たちか、もっと知りたいんだ。この星にずっと住んでるなんてすごいよね。どうやって暮らしてきたんだろう」
ニブは興奮を隠せない。しかし、
「あいつらはまだ近代化すらされてない野蛮人だよ。原始人に近いんじゃないか? たいしたやつらじゃないよ」
アリトはバゲットをバリバリと口でちぎり、退屈そうに鼻から大きくを息を吐いた。
ニブは父にそう言われても、近代化も分からないし、たいしたやつらじゃない、の真意も分からない。黙りこくったニブは、バツが悪そうにスプーンでスープをすくってはパンをちぎって口に入れた。
「なにごとも体験よね。社会見学みたいでおもしろそうじゃない」
サルリが気をきかせて助け舟を出すと、ニブは人懐っこい笑みを浮かべた。
Ⅲ.
日が傾き、空が紫色に染まりかけた頃、交易隊のメンバーが集落の中心の広場に集まった。メンバーはアリトと同年代と思しき中年男性が8名、子どもがニブとマハリの2名。ニブは父親と似た空気感を持った大人たちに囲まれ、心なしか萎縮している。それに引き換えマハリは堂々としていて、荷車に手をかけてあくびをしている。
広場には木製の荷車が3台用意され、小麦やキャベツ、にんじん、ピーマンが載せられている。時間が来て、大人たちが顔を確認しあい、点呼をすませると、
「今季の交易隊にはニブとマハリの二人が参加することになった。みんなよろしくな」
とリーダーが二人を紹介してくれた。
リーダーはその昔マフィアの一員だったようで、何があったのか、額を横切るように縫い跡がくっきりと残っている。
ニブは緊張した面持ちで挨拶すると、さっそく海岸に向けて交易品の運搬を始めた。大人たちは皆、昼間はそれぞれ仕事を持ち、交代で交易隊の役を担っている。物品は夜までに置いておけばいいだけから、仕事がある程度片付いた夕方に運ぶことが常だった。
「そろそろなにか新しい物を入れた方がいいんじゃないか? 向こうはなにがほしいんだろうな。こっちは勝手に作った野菜なんかを入れてるけど」
小麦が入った荷車をひく小太りの男が言うと、
「言ってくれりゃあ、もっと役に立てるかもしれないのになあ」
と同じ荷車を後ろから押している背の高い丸坊主の男が答えた。
ニブとマハリは3台の荷車のそばをつかず離れず歩くこと以外にすることがなく、大人たちが話す言葉を一言一句聞き逃さないようにしていた。
「薬草は嬉しいよ。妻の偏頭痛にはユファの葉が効果てきめんだ。宇宙船であんなに悩まされたっていうのに」
山盛りのキャベツの荷車をひく男が嬉しそうに言う。
ユファの葉はこちらの島にはない雑草で、たまたま偏頭痛持ちの者が食事で緑野菜のサラダに混ぜて食べたところ、痛みがひいたのだという。それから胃痛や神経痛など病気が改善した者が現れる度に、いくつかの雑草が薬草であることがわかり、重宝することとなった。
「ニブはもらって好きなもんあったか?」
リーダーが尋ねてきた。
「僕はドドンの毛皮が好き! かぶってマハリと追いかけっこしてる!」
「そうかあ、追いかけっこしてるのか。でも大事に使えよ。冬はあの毛皮を着るだけでだいぶあったかいからなあ」
ドドンとは時々海に顔を出すセイウチのような海獣で、その毛皮は交易品でもらう主要な品だった。冬が来れば羽織ることもあったが、たいていは各家庭のソファの足元に敷いてある。
ニブは交易隊に参加して、こうして大人たちと交易について会話していることにワクワクしていて、夕暮れの森を砂浜に向けて歩いていることにも胸を弾ませていた。初めて経験することばかりなのだ。今日ばかりは木々から伸びる長い影も怖くない。生き物じみた感じが消え、影の中を歩いても食べられそうな不安はない。それはきっとたくさんの人が一緒にいるからだ。たったそれだけで世界の感じ方は変わる。ニブは通り過ぎる木々の肌を触りながら、すこし大人になった気がした。
森が終わり、砂浜が広がる。群青色の空に海が明るく照り返している。この星には月もある。ニブはチラチラと波頭が輝く水面に思わずみとれた。
「持って行くぞ」
リーダーが肩を回して言う。
ここからは砂浜だから、荷車は引いていけない。
「かつげ」「おうよ」
男たちが声をかけ合う。
「ニブ、マハリ。お前たちはこの袋を二人で持て」
リーダーはにんじんとピーマンが入った布袋を指さした。
それはニブの上半身くらいの大きさで、二人が抱えてもずっしりと重かった。しかし二人は初めて任されたその役割に大きな使命感を感じていた。
「せーの!」
二人は向き合うように袋を抱えて、砂浜をザクザクと横歩きして行った。
潮が満ちても波が届かないところにポツンと巨大な岩があり、そこを目印にするように品々が集められている。そこで大人たちが二人を待っている。ようやく二人が袋を降ろすと、ニブの額にはじんわりと汗が滲んでいた。
「明日の朝、またここに交換品を取りに来るからな。広場に朝7時に集合だ。ニブ、マハリ、寝坊するなよ」
リーダーが二人に注意して、村に帰ることになった。
みんなが森に入り、薄暗い木々の間を歩いていると、マハリがニブの袖をひっぱり、
「ちょっと待てよ」
とヒソヒソ声で話しかけてきた。
マハリに合わせてゆっくり歩いて最後尾まで来ると、マハリはメンバーに見えないように木の裏に隠れた。
「ニブ、こっち来い」
ニブもマハリと一緒に木の裏に隠れた。
「まだちょっとだけ遊ぼうよ」
マハリは不敵な笑みを浮かべると、木陰から顔をチラッと出し、大人たちの背中がゆっくりと遠ざかっていくのを確認した。
「ついて来い」
マハリは家路とは別の方へ走っていく。ニブは訳もわからないままマハリを追いかけて行った。
「ここに罠を隠しておいたんだ」
「罠?」
一本の木の根に、金属製の輪っかと金槌が置いてある。輪っかは、動物がそれに足を踏み入れると一瞬で閉じて、鮫の歯のような鋭い刃が肉に食いこむものだ。
「俺のオヤジが作ったんだ」
その言葉にニブは驚いた。マハリの父親も先住民を捕らえようと考えていたとは。
マハリはその表情を読み取ったのか、
「違うよ。先住民を捕まえるために作ったんじゃない。この島についた直後、なにか動物がいるかもしれないと思って、捕獲用に作ったんだ。でもこの島には動物はいなかった。それがわかるとこの罠は物置にしまいこまれた。俺はそれを持ってきたんだ」
と、この悪戯が自分の発案であることを告げた。続けてマハリは、
「これを、しかけるんだ」
と金槌を振る仕草をして、ニヤニヤした。
「ダメだよ、そんな勝手なことしちゃ」
ニブは大人たちに怒られるのも怖いし、捕まえた後にどんなことが起きるのか想像すらできなくて、ただただ拒絶するしかなかった。
「お前は見たくないのか、先住民がどんなやつらか?」
ニブはこれまで何度も砂浜で見てきた大きな足跡を頭に浮かべた。
どんな人たちなんだろう、それはニブがこの星で一番興味をそそられていることだ。
「知りたいけど…」
「じゃあ、行こうぜ。すぐだよ。走って行って、砂の下に隠して、走って帰ってくる。それだけだよ」
それでもニブが戸惑っていると、
「行くぞ」
とマハリは罠を持って走っていった。そしてまだ立ち止まったままでいるニブを振り返り、
「早くしろよ」
とけしかけた。
困ったニブはどうしていいかわからず、思わずマハリを追いかけた。先住民を見てみたい、という気持ちもあるにはあるが、この薄暗い闇が広がる森の中でひとりぼっちになるのがいやだった。
ニブは森を出た。さっき二人で重い袋を抱えた砂浜を駆けてはみるが、重いものを持って歩くよりも足を取られる。それでもマハリに近づいて、積まれた品々の傍にしゃがみこんだ。
マハリが両手でしゃにむに砂を掻き、穴を掘っている。ニブもためらいがちに、右手、左手と、マハリの顔を伺いながら砂を掻く。
「よし、埋めるぞ」
マハリは浅い穴に罠を置き、上から砂をかけた。そして罠から伸びる鎖の端についたクサビを金槌で岩に打ち付けた。
「これで完成だ」
マハリはニブの顔を見て、悪そうな笑みを浮かべた。
「早く帰ろうよ」
ニブは立ち上がり、マハリをせかした。
マハリはこのいたずらを自分と同じように楽しんでくれないニブに、
「わかってるよ」
と不満げに立ち上がり、膝の砂を払った。
「内緒だぞ、ニブ」
マハリがそう言うと、二人は一緒に森へと駆け出した。
「親に言うなよ」
マハリは走りながら念を押した。
ニブは森の中を走りながら、マハリの言葉にたいした返事ができないでいた。
森は暗さを増していて、早く帰らないと真っ暗になってしまう。しかしそれ以上に、ニブはやってはいけないことをしてしまった罪悪感が胸を締めつけていた。僕は付き合っただけだ、マハリがやったんだ、僕にはどうしようもなかったんだ。そんな言い訳ばかりがぐるぐると頭をめぐる。
帰宅したニブは、言葉少なに両親と食事をし、すぐにベッドにもぐりこんだ。サルリはその様子を多少はいぶかしんだものの、大人と一緒に仕事をしたんだものね、と初めての交易に参加して疲れているのだろうと思った。アリトはと言えば、ニブの様子に特に関心を持つこともなく、鶏肉のローストを頬張ってはラニーを流しこみ、鼻から抜ける揮発性の香りに、一日の終わりの充足を感じていた。
Ⅳ.
「マハリが来ねえな」
朝の清々しい空気に包まれた森の中央に開けた広場には、マハリ以外のメンバーが集まっている。
リーダーは眉根を寄せて苛立っている。
「ニブ、マハリの家に行ってくれ」
「うん」
使いっ走りになったニブはマハリの家に駆けていき、10分後に帰ってきた。
「マハリはもうすでに家を出たって」
ニブはリーダーに、マハリの母から教えられた内容を告げた。
「なに? とするとあいつ… フライングしやがったな」
「あのヤンチャ坊主が」
大人たちから笑い声が起きると、さっそく砂浜へと向かうことにした。
森の中から、砂浜が見えるところまで歩いていったメンバーたちの誰かが、異変を察知した。
「おい」
一行は駆け足で森を抜け、砂浜に踏み出た。
「あれは… なんだ?」
昨夕、自分たちが置いた物品の前で巨大な生き物がうずくまっている。ゆるやかにツイストした茶色い毛をふさふさと全身にまとわせてかがんでいるが、足に鉄の牙を食い込ませ、血を流している。しかしそれだけではない。口元からも血が垂れている。その付近に、血だらけのサッカーボールのようなものが転がっている。ニブはそれに目を凝らした。
「マハリ!」
ニブは全身が凍りついた。
ガラス玉のようにまんまると見開かれたマハリの黒目と目が合った。
「マハリだ! マハリが食われてる!」
リーダーが数歩踏み出て、声を震わせた。
すると誰かがたじろぐように呟いた。
「ジャイアントプードル…」
真っ赤に染まったマハリの頭部を舐めている巨大な怪物は象よりも大きく、姿形はそっくりそのままプードル犬のようだ。
ズタボロに引き裂かれたマハリの衣服と、食い散らかされた体がジャイアントプードルの足元に転がっている。ジャイアントプードルは口を開いては肉を引きちぎり、丁寧に噛んでは飲み込み、剥き出しになった肋骨を丁寧に舐めまわす。ニブは恐怖に固まってしまい、自分が息をしていることさえ忘れてしまった。
ジャイアントプードルが、くりっとした大きな目をこちらに向け、真っ赤に濡れた口を開くと、獰猛な太い牙が何本も見える。ジャイアントプードルはどうやら相当興奮しているようだ。
リーダーが隣に立っている小太りの男に、
「ダラ、武器になりそうなものを持ってきてくれ。1時間くらいで用意できるか?」
と話しかけた。
「やっつけるのか? マハリの遺体はどうする? 助けるのか?」
ダラは反対に聞き返した。
遺体を助ける、というのはおかしな言い方だが、すでにマハリが生きている望みはなく、たとえズタボロだとしても遺体を回収して、弔ってやるのかどうか、リーダーがどうしようと思っているのかを確かめたのだ。
「そうしたいと思っている」
「でも、あいつを殺したら… あとで仲間が復讐しにくるんじゃないか?」
「そうかもしれない。だけどやるしかないだろう」
リーダーの体の芯で、オニキスで悪さをしていた頃の粗暴な決意が宿っていた。
ダラはもう一人の仲間に声をかけ、荷車を2台ひいて村へと急ぎ足で帰っていった。およそ1時間後、戻ってきた二人が荷台に載せてきたのは、数本の鍬、鎌、鉈、それに長さ1メートルほどの木材がいくつかと化学繊維のロープとやすりだった。
「鍬、鎌、鉈であいつに近づいたら殺されるだろう」
リーダーは荷台の武器からジャイアントプードルに視線を移した。
ジャイアントプードルは喉の奥でグルルグルルと吠え、こちらの慌ただしさが伝染するように空が割れんばかりの吠え声を続けざまにあげた。
「これで弓矢を作ろう」
ダラが数人の男たちと木材を切り、弓と矢を作り、梱包用や非常時用のために持ってきていた化学繊維のロープをほぐし、弦に適した太さに調整した。
30分後、即席ではあるものの数本の弓矢が完成した。矢尻は、金属がないのでやすりで尖らせるのみにとどまった。先端に重しがない分、遠くから射るとうまく矢が飛ばない可能性がある。ジャイアントプードルにできるだけ近づいて射る必要があるようだ。罠の鎖の長さを慎重に目視し、男たちは海を背にしたジャイアントプードルににじり寄った。近くには野菜の山、それにマハリの片腕や片足、頭部、胴体が、砂を赤黒く染み込ませて散乱している。ジャイアントプードルの後ろで波が押し寄せ、砂を洗う音だけが聞こえてくる。
リーダーは弓を引く手を絞った。並んだ男たちもジャイアントプードル目掛けて弓を構えている。
ジャイアントプードルは危険を察知したのか、黒い目に怒りをたぎらせて猛々しい吠え声を一つあげた。その瞬間、一本の矢がジャイアントプードルの左肩に突き刺さった。突然の痛みに体をのけぞらせたジャイアントプードルは山積みの野菜を右腕で弾き飛ばした。その動きにニブは違和感を感じた。4本足の前足を動かしているような感じじゃない。あれは前足じゃなく、手じゃないのか…?
男たちが次々とジャイアントプードルに矢を放った。横腹や腕、足に10本以上もの矢が突き刺さると、ジャイアントプードルはまるで陸に打ち上げられた魚のように体を跳ね上がらせた。しかし、痛みにもがきつつも、ジャイアントプードルは右手で体に刺さった矢を次々と掴み、体から引き抜く。
男たちが鎖の長さを確認しながら、じりじりと距離を縮めていく。その瞬間、ジャイアントプードルは突如二本足で立ち上がり、鎖を引きちぎった。怒号をあげながら大股で男たちに歩み寄ると、まるで木の幹をスウィングするかように数人の男を右腕で殴り飛ばした。その立ち姿は10メートルもあろうかと思われ、適正な距離を保っていたと信じていた男たちは不意打ちに対応しきれず、数メートルはじき飛ばされて砂浜にうずくまった。
腕が折れた者、肋骨が折れた者、鎖骨を砕かれた者、それぞれが痛みを堪えるように奥歯を噛み締め、砂の上を後ずさる。立って弓を構えていた者たちも、後ろに下がり、数人が怪我をした者たちに駆け寄った。
鎖を引きちぎったジャイアントプードルは足に罠を食い込ませたまま、苦しそうに膝をついた。フサフサの毛に隠れてどれくらい血を流しているのか見えないが、毛を伝って滴り落ちる血は砂浜をドロドロと赤黒く染め上げており、決してかすり傷ではないことが見て取れる。確実に矢は効いているようだ。
ジャイアントプードルは膝で立ったまま、こちらに届かない腕を何度も振り回し、舌を出してぜえぜえと苦しそうな呼吸をしている。黒く光る目がとろんと正気を失いかけている。
「こいつを、今、ここで殺す」
リーダーの覚悟に、ニブは胸が潰れそうな恐怖を感じた。目の前で起こっている戦いは、自分が想像していた未知との遭遇とはまったくかけ離れている。マハリの惨殺死体、真っ赤に濡れた牙をむくジャイアントプードル、そして砂浜に倒れ込んだ大人たち… 荒唐無稽な夢を見ているかのようだが、止まらない足の震えが現実だと教えてくれる。それでもなおリーダーと数人の男はジャイアントプードルを睨みつけ、矢を放ち続ける。ジャイアントプードルはぐったりとうつ伏せに倒れると胸や腹に刺さった矢がバリバリと音を立てて折れた。リーダーはジャイアントプードルにもはや抵抗する力がないことを見てとると、弓を捨て、鎌を手にもち、ジャイアントプードルの背の上に立った。
「勝利だ!」
目をギラつかせたリーダーはジャイアントプードルの首元に鎌をかけ、力いっぱいその手を引いた。
ジャイアントプードルの首元から血しぶきが上がる。足に返り血を浴びたリーダーが、
「マハリを回収しろ」
と男たちに命令した。
横たわったジャイアントプードルの背後で波が寄せてはひいていく。赤黒い砂が洗われ、水面が薄く赤く染まっていく。ジャイアントプードルはぴくりとも動かず、焦点を失った黒い瞳は海の向こうの島を向いていた。
Ⅴ.
その日の晩、顔を真っ青にして食事に手をつけないニブに、
「もっとくわしく教えろよ。で、ムラダナはその後どうしたんだ?」
アリトはパンをかじりながら嬉々として話しかけている。
ムラダナとはリーダーのことで、話の続きといえば、ムラダナがジャイアントプードルの背中の上に立ち、鎌で首を掻き切るのだが、ニブは思い出すのが辛そうで、うつむいたまま言葉を継げないでいる。
「やめなさいよ、アリト。この子はショックを受けてるのよ。その場にいた大人たちだって憔悴してるのに」
すぐさまサルリがたしなめた。
「うるせえなあ、こいつは俺の息子なんだから、これくらいで食いっ気がなくなるようじゃダメなんだよ。なあ、ニブ、続きを教えろよ」
アリトは久しぶりに血がたぎるのを抑えられなかった。ラニーを一口飲んで、ニブの顔を覗きこみ、
「腹の底が震えるだろ。ビビっていいんだ。やべえ現場をいくつも経験して男になってくんだよ」
アリトは息子が特別な体験をしたことが嬉しそうで、いつになく口数が多い。
朝の砂浜での出来事は当然、村中に知れ渡っていた。マハリが無残な姿になっていたこと、先住民とは巨大なプードル犬のような怪物だったこと、その怪物に弓矢で果敢に戦ったこと、最後はムラダナが鎌で相手の首を掻っ切ったこと、すべて事細かに伝えられた。そして同時に、これから何が起こるかわからないという非常事態宣言が村人の口々に上がった。
先住民であるジャイアントプードルはいったい何者なのか、いったいどれほどの文明を持っているのか、その思考体系は、行動様式は、生態は、どんなものなのか、皆一様に興奮まじりの恐怖のさなかで、自分たちが取るべき選択肢を模索した。
そして決定したのは、〈交易をいったん中止して、ジャイアントプードルの攻撃に備えよう〉というものだった。
トマトソースのパスタを一口、二口食べただけで、ニブはベッドに潜りこみ、横になって膝を抱えていた。
リビングではアリトが、
「俺もやってやる。ぶっ殺して食ってやるよ」
と鼻息を荒くしている。
それを聞いたサルリは、
「もうちょっとまともなこと言えないの? 私たちの生活がかかってるのよ?」
怒りを込めてアリトに釘をさした。
「とにかくニブは親友を失ったの。なんで慰めてあげられないよ」
サルリは自分も母親としてニブにどう接するのが正解なのかわからず、落ちこんでいた。
その時、夜風に乗って、遠くから獣の野太い吠え声がいくつも聞こえてきた。
「復讐にきやがったな」
酒でゆるんでいたアリトの表情が一変した。
「どうしよう、どうすればいいの!?」
まるで警報を聞いたかのように、サルリは気が動転した。
「心配すんな、家は頑丈にできてる」
しばらくして人のものと思われる甲高い悲鳴が一つ響いた。
ニブが寝室から飛び出てきてサルリの胸に飛び込んだ。サルリは自身も恐怖を感じながらもニブを強く抱きしめた。アリトだけは冷静に、じっと外の音に耳を澄ましている。
人の悲鳴が聞こえなくなった。
〈やられたか〉
アリトは胸で呟いた。
それから床の一点に視線を投げかけながら、意識を耳に集中させ、今どこで何が起きているかを必死に頭で描こうとした。
〈やつらはどんな姿をしてるんだ? どでかいプードル? 二本足で立つだと? ふざけんじゃねえ〉
イメージの主体となる敵をイメージしようとすればするほど一笑にふしてしまいたくなる。
〈畑の方にいるみたいだな〉
獣の吠え声が聞こえてくるのは、自分が開墾し、サルリと数人のチームが耕している畑の方角だ。
数分か、十数分か、アリトは時計を見るのも忘れて耳に届く吠え声に集中していた。
しばらくして、波が引くように吠え声が聞こえなくなり、静寂が広がった。
〈まだやつらはうろついているかもしれない〉
アリトは油断することなく、静まりかえった夜にじっと耳を澄まし続けた。
一時間がすぎたと思われる頃、
「もう大丈夫そうだな」
アリトはいまだ固く抱きしめ合う妻と息子に言うと、二人に張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。
ニブは母親から体を離すと、涙のたまった目で大きくため息をついた。サルリはそんなニブをあやすように優しく頭を撫でた。
ニブは父親の顔を見た。アリトは食卓の椅子に股を大きく広げて座り、何かを睨みつけるような目つきをドアに投げかけている。誰かを脅しているようで、決して善良とは言えないその表情だが、ニブはこんなにも父親が頼もしく感じたのは初めてだった。
翌朝、日の出を待ちわびていた村人たちは家のドアをおそるおそる開けると、お互いの生存を確認するように中央の広場にぞろぞろと集まった。
その中の一人に、顔に絶望の色をを浮かべ、うつろな瞳をした女性が、「夫が畑に行ったまま帰ってこない。私の夫が殺されたのよ」と声を絞り出すように言って膝から崩れ落ちた。
村人たちが一斉に畑へ駆け出すと、巨大な足跡で荒らされたピーマン畑の端に、人間のものと思われる骨が散乱しているのを発見した。それが人のものと判別できるのは、頭髪が張り付いたままの頭蓋骨が転がっているからで、肉や内臓はあとかたもなく食い尽くされ、骨という骨もしゃぶり尽くされている。
殺された男の名はダニク。宇宙船内では野菜工場の従業員の一員で、この星に来てからは主にピーマン畑を担当していた。「ここの土はこんなおっきいピーマンができるんだ」と握り拳を作っては自慢していた快活な色黒の男だった。妻のミネージュとは宇宙船で仲良くなり、船内の窓から見えるシリウスに永遠の愛を誓い、婚約の儀とした。ミネージュとの間には7年間の結婚生活で子どもを授かることはなかったが、たった一度でも妊娠しない妻を責めることはなく、ミネージュは時にそうした夫の優しいばかりの対応が心苦しく、たまには思いきり感情を出してくれた方がいいと思ったこともあった。しかしそれもダニクの不器用さだと感じられるようになってからは気をつかうようなこともなくなり、子どもを授からない自分に負い目を感じることもなくなった。ダニクはオニキスにいた頃に、傷害致死で懲役25年を求刑されていた。殺した相手はダニクがまだ8歳の頃に27歳だった母親を自分の目の前で強姦して殺した男で、20年の歳月を経て復讐を果たしたのだった。
それを正義と呼ぶかどうかは別として、ダニクにとっては成し遂げなければならない人生の落とし前で、それ以外の部分の彼は、誠実さと実直さを絵に描いたような性格で、嘘をつくことも、人を傷つけるようなことも、どこか道端に落としてきたかのように生涯を通して決してしなかった。
遅れて家から出てきたアリトが、ダニクの大腿骨と思われる太い一本の骨を拾い上げた。
「まだ濡れてやがる」
アリトは唾液が乾ききっていない白い骨をためすつがめつ眺めては、ジャイアントプードルの丹念なしゃぶりように怒りをグツグツ煮えたぎらせた。
「武器を作ろう」
眼球もおいしくいただいたのだろう、きれいにくり抜かれたダニクの頭蓋骨の暗い眼窩を覗き込み、アリトは誓いを立てた。
近くに立っていた大人たちは、そのアリトの一言に無言で頷いた。
その日から、男たちは畑仕事を女たちに任せっきりにして、こぞって武器の製造にいそしんだ。弓矢を作るのは森の木々を伐採すればすぐにできる。しかし刀剣の類は金属がないと作れない。まだこの星で金属の原料を採掘できる土地を見つけられていなかったため、村人たちは貯金を切り崩すように宇宙船を解体することを決定した。宇宙船に乗ってここから逃げ出すか、宇宙船を壊して武器を作るかの二者択一は、武器製造が圧倒的多数で勝利したのだ。村人たちは宇宙船の板金を真っ赤に溶かしては刀剣や槍を鋳造することに成功した。
はたして一番苦心したのはライフル銃の製造だった。銃身や銃弾に使う金属は作ることができる。村人の中には、拳銃や自動小銃の密売に関わっていた者、製造工場で働いていた者もいて、試行錯誤すれば最低限の製造マニュアルを完成させることはできた。しかし唯一、火薬だけはどうやって製造すればいいのか、誰もアイデアを出せずにいて、しばらくしてライフル銃の製造計画は頓挫することとなった。
その間、何週間にも渡って、毎夜ジャイアントプードルの集団は海を渡り、こちらの島を襲撃に来た。火山が爆発するような吠え声が響き渡り、餅つきの杵で打つような振動が家々を襲った。わかったことはひとつだけ。ジャイアントプードルは夜行性の生き物であるということ。そしてもうひとつうっすらと感じ始めていたのは、奴らは決して仲間の復讐のためではなく、人間を食いたいがためにわざわざ海をやって来ているのではないかということ。その証拠に、畑が荒らされても、ほんの少ししか野菜を食われるようなことがなかったのだ。興味の対象が野菜から自分たちに変わっている—- 村人たちはそう理解し始めていた。
〈夜間、屋外に出れば死は必定〉。
そうとわかっているにも関わらず、おろかにも死人は次々と出た。それは人目を忍んで不倫をする男女や女女だったり、ラニーを盗み飲みしようとするアルコール中毒の独居老人などだった。その都度、肉や内臓は跡形もなく、骨はピカピカにしゃぶり倒されていた。
ある昼アリトが、矢を削りながら、
「火薬さえあればさっさと形勢を逆転できるのに、クソッ」
とこぼすのをニブは耳にした。
ニブは父親にもじもじしながら近づき、
「ウンチがあればなんとかなるかも」
と父親に呟いた。
その滑稽とも思える一言を、アリトはバカにしなかった。
「詳しく教えてみろ」
ニブは宇宙船にいた頃、電子図書館で花火の電子書籍を読んだことがあった。それはかつて地球やオニキスで行われていたエンターテインメントで、その電子書籍には様々な種類の花火の解説と、花火動画が何十ページにもわたって紹介されていた。その美しさ、壮麗さに感動したニブは、花火がどうやって作られるかのメカニズムを紹介する『花火職人に訊く』という電子書籍にも手を伸ばし、そこで語られる火薬の歴史やハンドメイドでの作り方などを読んでは鼻息を荒くしていたことがあった。
ニブは自分が読んだ本の知識を父に語り終えると、アリトは宇宙船に駆け込み、電子図書館で該当書籍を見つけた。そしてじっくりと苦手な読書と格闘し終えると、ニブの言葉になにひとつ偽りがないことにほくそ笑んだ。
「ウンチを集めろ」
翌朝、アリトは広場で村のみんなにそう言った。
「火薬を作るには、木炭、硝石、硫黄が必要だ。木炭は木を燃やせばすぐにできるな。お次は硝石。硝石の作り方はこうだ。ウンチを適度に燃やして枯草の灰と一緒に土の中に埋める。そしたらアンモニウムが酸化する。乾燥したら硝石の出来上がりだ。かなり効率が悪いけど、今はそれしかない」
「硫黄はどうする?」
「森の中にアンモニアくさい湯が湧いてるところがあっただろ。あの辺りを掘ってくれ」
アリトが目配せをすると、数人の男がうなずいた。
「採掘できたら教えてくれ。後は慎重に配合するだけだ。硝石もウンチからじゃなく、自然から取れるならそれが一番だ。みんなも、その… ウンチをずっと集め続けるのもイヤだろう。硝石が採掘できそうな場所も探しておいてくれ」
集まった村人たちは苦笑しながらもアリトの言葉を実行に移すことを誓いあった。
そうして1ヶ月後、10丁のライフル銃と数百発の弾丸が出来上がった。
Ⅵ.
月明かりに浮かび上がる海を、肩に銃をかけた男たちが森の中から見つめていた。
遠くから泳いでくる巨大な化物が十数匹。
「クロールで泳いでくるぜ」
「犬泳ぎじゃないのかよ」
「あいつらは四つ足で歩く動物じゃないからな」
男たちはジャイアントプードルの集団が海を泳いでやってくるのを初めてその目で見ていた。
「浜辺に上がってきたら撃ちまくって殺してやる」
アリトが言った。
こちらは15人の精鋭と15丁のライフル銃。銃弾は1000発用意してある。
アリトはオニキスにいた頃はマフィアの若頭を務めており、これまで30人以上の殺しを経験していた。殺しにおいてためらいを感じることは一切ない。
「ムラダナ、絶対に相手に近づくんじゃねえぞ。徹底して遠くから殲滅するんだ。いいな。弾が尽きたら、何も考えずに走って帰るんだ」
「わかってるよ」
ヒットアンドアウェイ。それが自分たちにできる唯一の戦術だった。
ジャイアントプードルが次々と海から上がってくる。
二本足で立つその姿は、月光を背に受けてよく見えず、まるで真っ暗な壁のようだ。
「ずいぶんでかいじゃないか」
アリトは武者震いを一つして、携帯ボトルに入れてきたラニーを一口あおった。
ジャイアントプードルたちは濡れそぼった全身を震わせ、大きな水滴を辺りに飛ばしている。毛は撥水性があるようで、その体から水っけを飛ばすだけで、その体躯がひとまわり大きくなったように見える。
アリトはジャイアントプードルたちが武器を手にしていないことを逆光の中で確認した。ジャイアントプードルたちが砂浜を中ほどまで歩いてきたところで、
「撃て!」
アリトが全員に号令を発した。
その瞬間、森の中から乾いた破裂音が立て続けに鳴った。
ジャイアントプードルたちは、何が起きたのか事態が飲み込めないまま、胸や腹、頭に次々と銃弾を撃ちこまれた。
しかし隠れる場所といえば岩が一つあるだけ。全員がその背後に隠れることなどできない。グオォォーーーーーと地鳴りのような声を一様に轟かせ、巨体に似合わない俊敏さで、散り散りに駆け出した。
アリトたちは撃ちまくる。すでに砂浜に倒れているのが3匹。何匹かは岩影に隠れ、4匹が海へと走って戻り、3匹はこちらめがけて四つ足になって走ってくる。その速さたるやサバンナの肉食動物のようだ。しかし男たちは焦るようなことはない。むしろ迫りくる命の危険を楽しむかのように次々と銃口から火花を散らし、向かってくる3匹を撃ち倒した。
銃声がやみ、静まりかえった砂浜に波音が静かに響き渡る。
「ほらほら、隠れてないで出てこいよ」
アリトは目を輝かせた。
岩陰に何匹のジャイアントプードルが隠れているのかは分からないが、いっこうに動く気配がない。砂浜に倒れているのが6匹。そして海の中から頭を出してこちらを伺っているのが4匹。
「いくぞ」
アリトの声に促され、男たちは森から砂浜へと一歩ずつ足を踏み入れた。
「岩に隠れている奴らを殺す」
男たちは駆け出し、岩の側面が見えるところまで来るとライフル銃を発射した。
そこには3匹のジャイアントプードルが重なり合うように体を丸めていた。男たちはジャイアントプードルの背中を撃ち続けた。ジャイアントプードルたちは背中の毛を赤く染めながらピクリとも動かない。どうやらそのままの姿勢で力つきたようだ。
男たちは海から顔だけ出してこちらを眺める4匹のジャイアントプードルたちに銃口を向けた。ジャイアントプードルたちは慌てて海に潜った。
「はっ! 骨のない奴らだ!」
ムラダナが額の傷を撫でるように手の甲で汗を拭き、勝ち誇った口調で叫んだ。
「油断するんじゃねえ」
アリトは気を抜かない。
〈海に潜った奴らは逃げる、そう思うのが普通だ。だけど普通が通じない世界に俺たちはいるんだろう? 奴らがどれくらいの間潜れるのかもわからない、もしかしたら左右に分かれて砂浜から急襲してくるかもしれない。どこから出てくる、お前ら。まだやる気はあるのか? どうなんだ、やるのか、逃げんのか、どっちだ? かかってこいよ!〉
アリトは明るい海のあちこちに銃口を振り、いつでも撃つ準備をしていた。
30秒か1分か、どれくらいの時間が経ったのか分からないが、しばらくすると遠くの水面から3つの頭が浮かび上がった。夜行性なのだろう、影になって見えない顔から小さな目が爛々と輝いている。
アリトは銃を構えたが、遠くて狙えない。周囲の男たちが何発か狙ってはみたものの、周辺の水面を弾くだけだ。
「やめろ」
アリトが男たちを制した。
穏やかな水面を崩しながら、3匹のジャイアントプードルの影が小さくなっていく。
「俺たちの勝利だ」
アリトはじめそこに集まった15人の男たちは凱歌をあげるように空に向かって何発か銃弾を発射した。そして砂浜を赤く染めるジャイアントプードルの死体に向かって、
「こいつら食っちまおうぜ!」
「そいつはいいな!」
「豪勢な食事ができるぞ!」
有頂天で勝利に酔いしれた。
Ⅶ.
翌朝。10メートルもの巨体をどのように村まで運べばいいか、男たちは思案したが、砂浜で四肢を解体し、腕、足、頭、胴体を3台の荷車に積めるだけ積み込み、村の広場まで総勢20名で何度も往復して運搬を完了させた。
まず足と腕の毛をむしりとり、ピンク色の引き締まった肉を鉈でぶったぎり、各家庭に食肉として等分して切り分けた。
「腹の中身を見てみようぜ。こいつら何食ってんのかな」
誰かが呟くと、そいつはいいと胴体の毛もむしられ、腹が切り裂かれ、胃袋が取り出された。
腹の中にはドドンの肉や、見たこともない小動物らしき肉、ハーブと思われる緑色の繊維が詰まっていた。
「向こうには動物がいるのか!」
「肉も食って、葉物も食って!」
「いい暮らししてるじゃねえか、ちくしょう!」
元犯罪者の男たちの目に新たな欲望の火がついた。
その晩、ニブの家庭にもジャイアントプードルのステーキが出された。
「もも肉よ。ローズマリーと一緒に焼いたから、臭くないはずだけど。初めてのお肉だから不安だわ」
そのサルリの言葉に、ニブはある変化を敏感に感じ取っていた。昨日まで自分と共感してくれていた母の態度ではない。どこか嬉しそうなのだ。
サルリはふさぎがちなニブを見て、
「ニブ、パパが頑張ってくれたんじゃないの。私たちを守ってくれたのよ」
慰めるようにニブの手を握った。
サルリはアリトたちが勝利したことに何よりも安堵していた。これからの生活に安全がある。それだけで人生が祝福されているような気がしていた。
「わかってるけど…」
ニブはそれでもこの食卓を肯定することができないでいた。
アリトがナイフで熱々の肉を切り分け、口に運ぶ。
「うめえ! ジビエ中のジビエだぜ! こいつらハーブも食ってるからかな、噛んでると、こう、鼻からいい香りも抜けてくような気がするよ! はっはっは! 俺たち今までなに食ってたんだろうな!」
上機嫌で頬張るアリトの言葉が止まらない。
「失礼ねえ。今までの食事がおいしくなかったみたいじゃない」
サルリが不満げな顔をわざと作った。
「そんな話じゃねえよ。俺は今まさに人生を謳歌してる最中だって言ってんだよ」
アリトはラニーをグイッと飲み込み、
「ニブ、熱いうちに食えよ。めちゃくちゃうめえぞ」
火照った頬を満足げに吊り上げた。
ニブはどうしてもステーキを食べることができなかった。父の手前、一切れだけ無理して口に入れて、おそるおそる噛んでみたが、とたんに吐き気がして、勢いよくトイレに駆け込んでしまった。
Ⅷ.
あの日以来、ジャイアントプードルたちの襲撃はピタッとやんだ。でも、僕はこの静けさが怖い。嵐の前の静けさってやつなんじゃないだろうか。今、向こうの島で作戦会議を開いていて、どうやってこっちを攻めてこようか話し合っているんじゃないのかな。それとも、僕たちに怯えてブルブル震えているのかな。大人のひとたちは「奴隷にしようぜ」「主食にしようぜ」「あっちに行って、征服しようぜ」なんて言って笑ってる。ジャイアントプードルがどんな人たちか知らないのに、勝手に自分たちの物みたいな言い方するなんておかしいよ。そもそもジャイアントプードルは犬じゃない。2本足で立つし、クロールで泳ぐし、ドドンの毛皮だってなめすことができる。ハーブを摘むし、交易だってしてくれた。僕たちがバカにしていいような動物じゃなくて、ほんとは普通の人たちなんだ。ジャイアントプードルは人間と同じように生きてるんじゃないの? 犬だって大事にしないといけないのに。なんであんなに簡単に殺せるの? 僕たちが食べられるから? ママもしょうがないって言ってる。でも、しょうがないってなに? やらないとやられる、やらないとやられる、やらないとやられる。だから殺す? いつまでこの状況は続くんだろう。ほんとに奴隷にしちゃうの? 主食にしちゃうの? 向こうの島を征服するの? 僕は大人になったら殺しに参加しなくちゃいけないの? イヤだ。そんなの絶対にイヤだ! ジャイアントプードルと仲良くなるんだ。ジャイアントプードルは今なにを考えてるんだろう。僕たちを殺す秘策を考えているのかな。ジャイアントプードルって言葉を喋らないのかな。喋るんだったら僕が彼らの言葉を覚えてあげるのに。喋らないんだったら… どうやってコミュニケーションを取ってるんだろう? それも知ってみたい。僕がそうやってこっちとあっちの間を取り持つ人間になれたら… そしたらもう一度交易ができるのに。
僕は怖い。殺すのも、殺されるのも、怖い。この村はどうなってしまうんだろう。この戦いは終わるのかな。この星で、この村で、この大人たちに囲まれて、僕はどんな大人になるんだろう。和平ってどうすれば作れるんだろう。
そうだ、宇宙船の電子図書館に行こう! もしかしたら、歴史に解決の糸口が載っているかもしれない。もしかしたらパパが花火の作り方のときみたいに、僕の話を聞いて、新しい行動を起こしてくれるかもしれない!
Ⅸ.
それから2週間が過ぎ、村からジャイアントプードルの肉が尽きた。
ある朝、アリトはライフル銃を肩にかけてニブの前にしゃがみ込み、ニヤニヤしながら大きな手で頭を乱暴に撫でた。
「ニブ、父さんたちは、向こうの島に打って出ることにした。ボートも作ったんだ。待ってろよ。おいしいジャイアントプードルの肉をたんまり持って帰ってきてやるよ。それにあいつらが交易でくれていたドドンの毛皮も取ってきてやる。毛皮だけじゃない、肉も手に入れてやる。これからはメシが豪華になるぞ。野菜と鶏肉ばっかりは飽きただろう。地産地消だよ、大地を食らえってな! お前、ちゃんとジャイアントプードルの肉が食えるようになれよ。俺たちはこの星を食って生きていくんだぞ? はっはっは!」
そして最後に付け加えるように、
「ニブ、お前は10年待て。10年経ったら一緒に狩りに行こうぜ!」
アリトは意気揚々と玄関のドアを開けて出ていった。
それがニブが見た最後の父の後ろ姿だった。3日経っても、7日経っても、アリトたちが帰って来ることはなかった。村人たちは、再び「復讐だ、征服だ!」と血気盛んな声をあげている。そのさなか、幸か不幸か、硝石の採掘場所が発見された。火薬の生産体制が整った村で、さらなるライフル銃を製造するべく、宇宙船から金属が剥がされ、溶かされ、鋳造されていった。もはや宇宙船は半壊状態だった。
それでも、ニブは朝が来ればかろうじて機能を保った電子図書館にこもり、夜が来ればサルリと口数少ない食事をして、ある時はサルリがニブを、またある時はニブがサルリを慰め、励ました。
サルリがキッチンで皿を洗っている。
「私も、プードルさんたちとなかよくなりたい」
ニブに背中を向けたまま、震える声で小さくこぼした。
しかしその声は蛇口から流れる水音に負けてしまい、ニブにはきちんと聞き取れなかった。
「なに? ママなんか言った?」
ニブに聞き返されて、サルリは水を止め、決意を込めるようにそっと目を閉じた。そしてお腹からあらんかぎりの声を発した。
「私も! プードルさんたちとなかよくなりたい!」
ニブの頭に母の宣誓が鐘の音のように響きわたった。母の背中が、まるで海に向かって叫んでいるように見えた。
〈好きだったママに戻ってくれた〉
父を失った痛みはまだ消えていないが、ニブはたったそれだけで生きていく勇気が湧いてきた。
「僕がママを守るよ」
思いがけず口から飛び出した言葉に、ニブは顔を真っ赤にした。
「え、なんか言った?」
今度はサルリが聞き取れなかったようだ。涙をぬぐいながら振り返った母に、
「ううん、なんにも! なんにも言ってないよ!」
慌てて大きく首を振った。照れくささで頭が真っ白になったニブはなにかに突き動かされるように椅子から立ち上がり、
「ママ!」
母に駆け寄り、胸に飛び込んだ。
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