【注記】
大きなヒントを与えるならば、この問いは、従来の映画批評に欠けがちな視座に、目を向けることを目的とする。欠けている視座とは、「<世界>(ありとあらゆる全体)はそもそもどうなっているか」という問いである。この問いを存在論ontologyという。
1990年代半ば以降、一見するだけで傑作だと分かる映画の多くが、「<世界>はそもそもどうなっているか」というontologicalな問いを据えている。なお、「<世界>がそうなっているなら、どう生きればいいか」という構えが実在論realismだ。
ちなみに、1990年代半ば以降にスペルベルやラトゥールなどの人類学者が起爆した「存在論的転回」が、哲学からAI論まで含めた広い分野に影響を与え、構築主義的な社会学を用済みにした。長い目で見ればrealismの内側でしか「構築」できないからである。
今回の問いは前年の問い(蓮實重彦の功罪)を踏まえた、より高度なものだ。蓮實重彦の影響下で長く展開されてきたシネフィル的批評の後に展開するべき「表現としての批評」の形を、おぼろげにでも掴むための一助になればと願っている。

<運営による追記:今回ゲスト講師から文字数制限はありませんので、批評再生塾の基準である「2000字~8000字」を選考対象とします。>

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