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郷愁のアンチクライスト

本論考の見取り図

アンドレイ・タルコフスキー『ノスタルジア』(1983年)は、映画の終わりで「母の思い出」に献辞を捧げている。よってラース・フォン・トリアー『アンチクライスト』(2009年)が、エンドロール冒頭でアンドレイ・タルコフスキーに献辞を捧げている理由はこの事実を手掛かりにして考え始める必要があるだろう。『ノスタルジア』が世界の根源についての問題を扱っているとすれば、『アンチクライスト』は人間の根源=母についての問題を扱っている。そしてその両者は最終的に箱庭療法と神の問題へと収束することになり、『ノスタルジア』の存在論を経由した『アンチクライスト』の実在論はもう一度その根本的な存在論に疑問を突き付けることになる。従って本論考ではそれらの問題について具体例を参照しつつ、順を追って論じてみたい。

世界の根源

アンドレイ・タルコフスキーはアルケー(万物の根源)を徹底的に画面上で反復、流転させていくことで観客を世界の根源へと導こうとする。例えば『ノスタルジア』では炎はゴルチャコフの眠る横で詩集を燃やしガソリンを被ったドメニコをも焼き尽くし、水は霧や雨として形を変えながらラストシーンの水溜まりへと流れ着く。土に覆われたかのようなドメニコの住処は1+1=1という世界の根源への疑問を呈し、モノクロとカラーによって描かれる空気の移り変わりは時間の変換、つまり過去のノスタルジアと現在の対比を示唆する。これらのイメージはエンペドクレスの言うところの火、水、土、空気といったアルケーの世界観を応用していると考えられるが、同時にキリスト教のアルケー=神とも密接に関わり合い宗教的世界観を構築することに成功している。また演説後に焼身自殺するドメニコへの大衆の無関心な振舞い、もしくはゴルチャコフの見つめる水溜まりに反射する三位一体を象徴する教会の建造物はどちらも彼らの信仰が辿り着いた先としては余りに無機質かつ皮肉に満ちている。つまりこれらの結末によって明らかになるのは、世界の根源は余りに人間に対して無関心かつ無関係に振舞うということだ。

人間の根源=母

一方でラース・フォン・トリアーは『アンチクライスト』の中でキリスト教のモチーフを借用しつつ人間の根源=母に迫る。冒頭で子どもの死と夫婦のエクスタシーを重ねて描くシーンは余りに綺麗かつ暴力的であるが、そもそも死やエクスタシーは磔刑やセックスの禁忌などを扱うキリスト教にとって重要なモチーフであり、彼らの原罪を象徴するに足るシーンとなっている。またセラピストの夫とその事件によって精神錯乱状態に陥った妻は森で治療を行うことになるが、この森はエデンと名付けられ、夫婦はアダムとイヴを象徴することになる。結果としてセラピーは失敗に終わるのだが、それは単純に治療が失敗したからではない。彼女が恐れる対象は人間の本性→悪魔→自分へと変化していったわけだが、これはつまり治療が成功するにつれて彼女の異常性癖、性器切断、子殺しといったアンチクライスト的な、もしくは一般像としての母親からはかけ離れた本性が曝け出されてしまったということだ。つまり『アンチクライスト』における母親とは魔女、悪魔の象徴であるが、人間の根源たる母がこのような暴力性、残虐性を持っていた場合、治療とは一体何を目指すべきなのだろうか?

箱庭療法と神

『ノスタルジア』によって世界の根源が人間に対して無関心かつ無関係に振舞うことが明らかになり、『アンチクライスト』によって人間の根源=母の本性が魔女や悪魔であることが明らかになったとするならば、人間が世界に存在するためにはそれらの関係性が適切に治療されなければならない。そこで治療の観点から両者の作品を捉えると、まず『ノスタルジア』における世界は箱庭療法の場として捉えることができる。箱庭療法とはセラピストの河合隼雄によって日本に紹介された心理療法の一種であり、セラピストが見守る中、患者が箱庭のおもちゃを自由に配置して表現することで心理的な問題を解決する手法のことだ。そもそも先程も述べた『ノスタルジア』におけるアルケーから成る世界をエデン=箱庭だと仮定するならば、『アンチクライスト』におけるエデンの森はその箱庭を模していると考えられる。従ってここではそれらの箱庭を用意して成立させている主体=神の問題を避けては通れない。

『ノスタルジア』において神や箱庭は完璧な調和を保つものであり、その世界に存在する人間は徹底的に翻弄され、無視されるしかない。アンドレイ・タルコフスキーがロシア正教の影響を受けていることは知られているが、『ノスタルジア』におけるゴルチャコフやドメニコは神に対する抵抗は見せたとしても神や箱庭自体を疑いはしない。よって箱庭療法としての人間の振舞いは運命に翻弄されるがまま、その配置を変えることくらいしかできない。一方で『アンチクライスト』ではそのタイトルの通り神は悪魔である可能性が示唆され、エデンの森での箱庭療法が失敗することによってその世界を構成する枠組み自体への疑問が呈される。そもそも人間の本性→悪魔→自分という連鎖が正しいのであれば、治療という行為は成立しない。何故なら治療すればするほど症状は悪化するのであり、本性ではなく別の人格へ移行させるとするならばそれは都合の良い洗脳行為と何も変わらないからだ。よって神や箱庭を信仰しても、逸脱してもどちらにせよ待っているのは世界と折り合いのつかない発狂した人間の死だけだ。

また『ノスタルジア』では修道女が聖母に祈りを捧げ、子どもの象徴として多数の鳥が羽ばたくシーンがある。『アンチクライスト』ではそのシーンと対比するように、夫が妻の襲撃から隠れるために入った穴の中で鳴き声を上げる鴉を叩き殺すシーンがある。この鴉が子どもを象徴していると考えるならば、『アンチクライスト』では冒頭の飛び降りシーンから一貫して子どもの殺戮が繰り返されていると言える。このような親の子に対する扱いは他の動物でも同様であり、悲嘆、苦痛、絶望の象徴として鹿、狐、鴉が登場するが、例えば鹿は生まれかけの子どもに対して全く無関心かつ乱暴に扱っている。これは生物の再生産に対する悲嘆、苦痛、絶望を示すと共に、親が子どもを殺すことによってその負の連鎖を終わらせているようにも見える。

存在論と実在論

このような解釈を踏まえた上で、最後に冒頭の問いに戻る。ラース・フォン・トリアーが『アンチクライスト』でタルコフスキーに献辞を捧げた理由についてだ。これを一言で述べると、アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』は存在論的な意味合いとして世界の根源を提示しており、『アンチクライスト』はその続編として実在論的な人間の根源=母について表現することで、逆説的に前提となる存在論に疑問を突き付けるという展開を可能にしたからだ。さらに具体的に言うならば、『ノスタルジア』では神や世界の根源はたとえ抵抗したとしても疑念を抱くような存在ではなく、人間に対しては無関心かつ無関係に振舞う。しかし一方で人間の根源=母について考えた場合、人間自体が悲嘆、苦痛、絶望のサイクルの中に存在し、そのサイクルから抜け出すためには一度神や世界の根源について疑念を抱かなければならない。この存在論→実在論→存在論というアップデートを行うための基盤としてアンドレイ・タルコフスキー『ノスタルジア』は存在しているのであり、ラース・フォン・トリアーは『アンチクライスト』でその世界認識を形成した郷愁の念として彼に献辞を捧げているのだ。

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