印刷

理由律の〈反省〉を物語るとき、世界はいかにして揺れるのか。

 

 

第1部

 

あなたは理由を考えることをしないままに、ただ世界が端的に存在することに耐えられるか。現在を生きる多くの人は、問わない強さを果たして持っているか。

本論のはじめに、「なぜ」と問うことについて整理しておきたい。理由律の問題を前提にして今後の議論は重ねられていくからだ。

例えば、哲学者のカントが理由律と無矛盾律を肯定したことはよく知られている。つまり世界は無矛盾で、世界が存在するのには理由がある。世界には外があり、モノ自体がある。カントの議論を引き継いだカンタン・メイヤスーが強調して扱っているのもまた、理由律と無矛盾律の問題である。

彼らより前、およそ2500年以上前から、世界があるのには理由があると考えられてきた。そのとき、自己理由、自己原因を避けて、世界があるとする理由は、世界の外に定められる。こうして、理由律から世界の外が要求されることになり、神と接続された。厳密には、神が存在する世界の外も考えなければならないが、どこまでの無限退行するような思考は人間を不安にするため、神に自己原因があると考えられるようになった。

そして、このような思考(世界に外があると考えるセム族的な思考)に異をとなえたのが、古代(初期)ギリシャの人々であった。彼らにとって、世界は不条理で出鱈目なまま存在していた。それに理由はない。初期ギリシャの思考とは、矛盾律(無矛盾律)を完全肯定して形式論理を認め、しかし理由律は端的に否定するもの、なのである。

メイヤスーもまた、カントに忠実に形式論理を求める。カント的な形式論理やモノ自体は、知りえなくても「考えうる」ものなのだ。理屈を使って考えれば必ず実在する世界があって、それは人間の認識と無関係に運動していると考えるほかない。だがその世界は必然性を全く欠いていて、つまり理由律を満たさない。矛盾を肯定したまま、なぜと問うことを否定するのである。

 

 

 

第2部

 

社会学者・映画批評家の宮台真司も指摘しているように、近年の映画に目立つのは1990年代後半に巻き起こった「存在論的転回」の影響である。90年代半ばから発展しつつあったニューマテリアリズム(以降MRと表記)以後の流れに、先に述べたメイヤスーらの思弁的実在論(SR)も重ねられるわけだが、例えばメイヤスーは構築主義的発想を「相関主義」と呼び、否定する。相関主義の否定は、理由律の否定とも関連する。

「存在論的転回」を受けて、「〈世界〉はそもそもどうなっているか」というontologicalな問いを回復させ、「〈世界〉がそうなっているなら、どう生きればいいか」というrealismを再起動させる志向がしばしば見受けられるようになってきたのだ。もはや理由は関係ない。世界はただそうなっている。そして、世界はただそうなっていることを示すために、社会や生活状況がいずれにせよあまり回復しないというある種の絶望感を伴ったまま、ならばどう生きるのかというテーマを含んだ映画作品が増加してきている。

加えて、そのような映画は、「人間でないものや法の外(社会の外)にこそ、人間の求める真実、意味のある世界が広がっているのではないか」という確信を感じさせる。人間の定住社会の中で培われてきた世界はすでに狭められていて、その制限が取り払われるような状況が、映画によって差し出される。

例えばその一つにドゥニ・ヴィルヌーヴの映画『メッセージ』が挙げられるだろう。突如地球上に降り立ったのは巨大な球体型宇宙船。謎の知的生命体と意思の疎通をはかるために軍に雇われた言語学者のルイーズは、その「法外」の存在とのコミュニケーションを通して、未来に自分の幼い子供が死に、夫とも離婚することを知らされる。それでもルイーズは結果的に、その既知の未来をたどることになるのがこの物語の白眉だ。彼女は、その辛い未来でさえ「引き受ける」。そしてここで未来とは、すでに決定された過去でもあるのだ。

宮台が「1990年代半ば以降、一見するだけで傑作だと分かる映画」とくくっている作品の特徴はおそらく、未来が未規定で、選択によってどうにでもなるという考え方を徹底的に否定することにある。未来はすでに存在しているという発想がそこにはある。未来は未規定ではなく、「未来は過去」なのである。

選べないが、受動態かといえばそうでもない。ただ「引き受ける」しかない。宮台は例としてpregnant(妊娠)をあげているが、このような世界のあり方はまさに中動態的であり、ギリシャ的な世界観でもある。

 

 

 

第3部

 

そして、そのような映画の流行より時期を早くして、完全否定ではないものの理由律を否定し、その反省を促した人物こそ、映画批評家の蓮實重彦なのだった。カント的な相関主義を否定しているという意味で、メイヤスーらの先駆けとも言える。蓮實の「表層批評」以降の批評的営みのポイントは、まさに画面上の荒唐無稽な物事を、物語の流れから切り離そうとしたところにあった。

もちろん、人間は過去の影響を受けて現在、そして未来を生きていくわけでもある(生きるということは、ほとんど理由律を生きるということである)のだから、理由律を捨てきることはしない。彼が追い求めたのは、理由律から逃れることができなくても、それを意識して停止することの可能性である。

なぜ目に見えるスクリーンに、その事物が写っているのか。蓮實もまた、ロラン・バルトのように目に見える事物を「形式として」捉えた。ここで形式は、蓮實が名をあげる多くの映画監督が固有に反復するものへと帰属する。いってみればそれはクセ、「型」のようなものである。映画を撮る際に、監督が情報を選択することとは関係なしに、意識しないままクセや「型」が現れる。映画を撮ると、そうなってしまう、という次元に蓮實は注目したわけだ。

理由律にこだわる多くの人々は、そのように映画を解釈しない。理由律にこだわるとは、物語を重要視するということ(彼がそれをしたのは、このような理由だ…)である。だから時に、蓮實重彦の唱えた「荒唐無稽な事物」の存在さえ、単一の物語に帰属させて考えるようなシネフィル批評が発生してしまった。そこで事物は、単一の物語内世界と理由律のネットワークに絡め取られるようにして理解されてしまう。しかし蓮實が本来提示したのは、単一の物語に従属しない、複数作品を土台に現れる作家独自の「型」なのだ。そこから世界を広げることができた。理由律に「無自覚に」従い、世界を縮減して捉えるのではなく、世界にはもっと別の享受の仕方があることを彼は示したのだ。

映画監督が作品をつくる時、明らかに作家の意図に帰属させる(能動的)場合もあれば、社会や時代の影響が作品に反映される(受動的)場合も考えることができる。そこからも、スクリーンの上の「事物」は生まれてくる。作家固有のクセや「型」とはここで、「能動態/受動態」とは異なり、意識や社会影響とは距離を保って放出されてしまう「中動態的」なあり方として捉えられる。

作家の中動態から生まれるクセや「型」(なってしまう)に注目し、それを単一の物語が持つ理由律のネットワークから部分的にでも切り離すことで、映画をみる鑑賞者の前に荒唐無稽な世界が現れる。蓮實の批評の持つポテンシャルは、まさに理由律に自覚的になり、矛盾律を受け入れて生きていく態度へ向かって開かれていたのである。

 

 

 

第4部

 

まわり道を経て、ようやく以下の問いに応答を近づけることができる。ラース・フォン・トリアーの映画『アンチ・クライスト』は、なぜアンドレイ・タルコフスキーに献辞を捧げているのか。

蓮實の議論を経由した今、物語の奥にある作家のクセや「型」への注目を強める。先に核心を述べるならば、そうすることで『アンチ・クライスト』がいかに〈理由律を反省させる作品なのか〉が明らかになるだろう。加えて筆者が解釈するに、「両者の比較を通して」判断できるトリアーからタルコフスキーへの献辞の内実は、2段階に用意されている。

まずひとつめに、それは表現されるモノの類似に関係する。例えば映画冒頭、アパートの部屋の中ではシャワーの細かな水分が霧のように散らばり、開いた窓から侵入する雪とともに下降する水分の存在が強調されるが、今作の多くの場面で見受けられる水の運動は、タルコフスキーが『惑星ソラリス』や『ノスタルジア』などの他作品で表現する「水の揺れ」、しいては流動体に伴う画面の揺れに類似する。

また、タルコフスキーが『僕の村は戦場だった』において、沼や川の水面を時に堆積物で覆い、まるで「揺れる地面」のような足場の中で人物が歩いている様を表現していたことをふまえれば、トリアーの描く人物が時折地面に足を埋めたまま歩き進行していることにも類似を見いだすことができる。そして、彼の『アンチ・クライスト』や『メランコリア』だけでなく、タルコフスキーの『惑星ソラリス』や『ノスタルジア』にも「馬」が出現する。

トリアーは、揺れ続ける水や地面(他には植物など)、さらには人間以外の生き物の存在を「事物」としてタルコフスキー作品の中に見出した。そして、これらの事物がNMの思想や、人間の理由律を反省させる方向と相性が良いことは言うまでもないだろう。トリアーはおそらく、世界を縮減させないモノをタルコフスキーのクセから見つけ出し、「意識的に」引用することでメッセージを伝えている。これが献辞のひとつめの背景である。

ふたつめに、マクロの視点でみれば、トリアーという作家自身が〈物語の「型」〉のレベルにおいてもタルコフスキーに親和性を感じていると考えられる。2人の作家が描く物語の骨格もまた、理由律を自覚的に受け止め、矛盾律の世界を生きる可能性を示唆しているのではないだろうか。

『アンチ・クライスト』が描くのも、理由律に半ば支配された夫と、理由律の外の世界を考える妻の関係である(結局夫の方は妻を通して変化していくのだが)。セラピーで言語的に妻を治そうとするも、効果が出ずに悩む夫。彼女を理解するために、妻が紙に書いたピラミッド状のメモの中で、神(エデン)の上位に置かれた空白におさまるものを発見しようともがく夫。理性を超えた経験に惹きつけられる妻。窓の外から死んでいくものすべての泣き声がきこえるという妻。彼らを通して、観客は理由律と矛盾律の葛藤、そして「受け入れ」という理由律の反省を作品に見出すのである。

この系譜を、『メランコリア』や『奇跡の海』などの他作品にも展開すれば、トリアーが描いているより具体的な〈物語の「型」〉が明らかになる。それは理由律と結びついた「結婚」の困難だ。なぜか。結婚とは「2人の人間が神の前で結ばれること」であり、それは時に神の前に這いつくばるしかない状況をも生み出すからである。象徴的なのが『奇跡の海』の主人公ベスであり、彼女は夫が事故で重傷を負い全身不随になったことをきっかけに、全てに「なぜ」を問うていく。彼女は真摯に神に問い続けるのだが、それを続ける結果として良心が裏切られ、最後には彼女自身が死んでしまう。懸命に生きようとする夫婦の「法外」の愛の可能性が、神によって潰されてしまう。トリアーは、「結婚」の不可能性を表現する〈物語の「型」〉を通して、理由律だけに囚われない世界の享受可能性を追求しているのである。

タルコフスキーもまた、理由律を反省させる〈物語の「型」〉を持っている。『惑星ソラリス』や『ノスタルジア』などを参照しても良いが、観客は「登場人物たちは、スケールが大きく、理由律に収まらない世界や人々に出会い、何を頼りに生きていくかを追求することになる」という〈物語の「型」〉を待ち受けるかのように、彼の映画を鑑賞することができるのだ。類似する「型」を通して映画を受容できるという点からも、トリアーはタルコフスキーに献辞を捧げていたのではないか。

蓮實重彦の提示した映画批評を継承し、作家のクセから現れる事物や「型」に注目する。さらには、トリアーが『アンチ・クライスト』でタルコフスキーに献辞を捧げている理由を考え、理由律の反省やNMを経由することで、読まれている対象と読む主体というまるで1対1関係のような旧来の表象の関係性を崩し、より複雑で微妙な関係性を捉えることが可能になる。「新しい表象」の輪郭は、こうして露わになるのだ。

 

 

 

第5部

 

ここからは、トリアーがタルコフスキーをいわば踏襲したことにより、両者の間からこぼれ落ちるようにして明らかになった議論、さらにはその範囲を補う映画作家の試みについて掘り下げたい。

例えば先に紹介した「水の揺れ」は、間接的に理由律の反省を促そうとする。つまり、複数作品に散見される作家のクセであっても、それはその時帰着する映画を土台にして機能するため、(内容ではなく)「機能としての」物語を離れてただ表現だけを見たときには、理由律を見直す効果はやはり薄れてしまうのだ。これは「映画」である以上、仕方のないところもある。形式は映画の中で物語を媒介することで主張し始めるのである(映画−物語−クセ・型)。ここに、おそらく2人の向かい合った創作の困難、ねじれも存在する。理由律の反省を「物語ること」から生まれる映画の不自由さといっても良い。クセが単一の物語(内容)から独立するのと、「物語ること」(機能)から独立するのは異なるのだ。

タルコフスキーやトリアーの提示する問題系を更新する作家として、ウェス・アンダーソンの名を挙げたい。先に要点だけ述べれば、彼の場合は人形アニメーションという創作手法を応用して、間接的ではなく直接的に、理由律の反省を含んだ世界の享受を示唆してしまうのである。アンダーソンは、説話においてその間接的なベクトルを保持しながらも、アニメーションの特性を利用して直接的に世界の見方を押し広げることに成功しているように思える。もちろんその手法は彼のクセに起因する。クセが映画の展開と繋がったまま効果を発揮するのではなく(間接的)、クセがまずそのままに世界認識を深める効果を発揮する(直接的)。ここでクセは物語がなくとも意味を成立させるため、物語の媒介をかわしているのである(映画−(物語)−クセ・型)。どういうことだろうか。彼の最新作『犬ヶ島』を通して、以下に分析していこう。

犬の伝染病が蔓延し、社会問題となっているメガ崎市を舞台にして物語は始まる。市長の小林は、血清の完成を目指す科学者らの意見を無視して、市内の犬たちを海を隔てたゴミ島へ隔離することを決める。はじめにゴミ島に送られたのは、小林の養子アタリの愛犬スポッツだった。それから半年後、少年アタリは飛行機を使ってスポッツを探しに島へとやってくる。彼は、本土を追放されて移住させられた犬たちだけでなく、元からゴミ島に暮らしていた「野良犬」たちに出会うのだが、彼らと協働してアタリがメガ崎市の自治を市長から取り返すまでの展開が映画では描かれていく。

アンダーソンのクセに注目しよう。彼は実写映画でも様々な快作を残しているが、人形アニメーション作品に関して『犬ヶ島』の他に唯一発表されている『ファンタスティックMr. FOX』を参照したい。人形アニメーションにおける作家の重要なクセは、作品で登場する狐や他のキャラクターの毛並みが、風が吹き抜けるかのように揺れているさまに現れる。『犬が島』においても、島に生きる犬たちの毛並みは風に揺れ動かされている。同じ場にいる人間の髪の毛に変化は起きず、動物にだけその効果はもたらされるのだ。そして、人形の毛並みが風にたなびけば、アニメーションの中に「時間」が表現されるからこそ、クセは世界を縮減しないための最も重要な鍵になり得る。

アニメーション研究者の土居伸彰によれば、アニメーションはそもそも(CGに代表されるように)細部の密度を高めることで、「いまここにある/見えるものがすべてであるかのような、時間が止まり循環する世界」を作り出すものであった。そこにはいわば「設定」された空間しかなく、外にある大きな世界へ意識が外れないように観客を導くわけである。しかしアンダーソンは、物語とは関係なしに人形の毛並みを風で揺らし続けることで、無時間なアニメーションの中に存在する不可思議な「時間性」とともに、アニメーションの外部を表現する。

またこの風は、より大きな世界を示唆させるような人形アニメーションの特質を強調する。それは土居が名付けるところの「人形性」、つまり「人間の存在が無力で小さくなり、エゴもなくなって、ただ自分自身の運命が運んでいくままに、ただ本能に従うがままに自らの歩みをたどることで、結果的に、その存在が、自分がその一部を占めるしかない巨大な世界の存在を体現する」効果を強調するのだ。

『ファンタスティックMr. FOX』から引き継がれ、『犬が島』で展開されている「毛並みの揺れ」は、まさに理由律に支配されない世界の享受可能性を強調するのではないだろうか。物語の展開とは独立して風は吹き続け、巨大な世界が渦巻いていることを直接的に感じさせる。先の整理に直せば、物語の媒介は括弧にくくられている。蓮實重彦でさえ、映画が「物語ること」を自然に内包する点を受け止め、その枠の中で議論を展開してきたことを思えば、アンダーソン映画の「毛並みの揺れ」は、まさに蓮實の理論以降に現れ、そして蓮實の継承をアップデートする真の「荒唐無稽」な戯れなのではないだろうか。理由律の反省が、映画を通して、かつ物語る機能に深く依存せずに促されたとき、アンダーソンの達成を蓮實やタルコフスキー、トリアーの延長線上に位置付けてみたい。

さらには、アンダーソン作品の分析から、タルコフスキーが真に試みようとしていたことの様相も浮かび上がってくる。映画を見れば、「水の揺れ」と「毛並みの揺れ」が端的によく似ているのがわかるはずだ。タルコフスキーは、まだアニメーションを有効に用いることができない時代(つまり無時間な空間に時間性を導入し世界を押し広げるような表現が困難な時代)に、実写映画という枠の中において、「水の揺れ」を「毛並みの揺れ」のレベルで物語から独立させることを試みていたのではないか。実写映画の中に流れる時間とはもうひとつ別の次元の「時間」を導入しようとしたのだ。実写表現の限界、その境界線上で、理由律の反省を物語ろうとする彼の試行は捉えられる。トリアーもまた、タルコフスキーの表現を踏襲し、実写映画という枠組みにおいて、デジタル技術を合わせながらその境界を刺激しようとした。

故に、ここにトリアーからタルコフスキーへの献辞の理由として、最後の可能性が示される。実写映画で理由律の反省を物語ることへの挑戦、そしてその困難への共感が献辞の背景には存在するのである。

映画には、映像化されてはじめて、いつも見ているはずのものが見えるものとして再提示されるという現象が存在する。見えなかったものが映画で見えるようになったとも限らない。観客がそれを「見ているかもしれないのに見えていないものとして見させられる」ところに、映画の魅力があるのだ。タルコフスキー、トリアー、アンダーソンの3者は、映画そのものを通して世界の享受を感覚することの豊かさを示してくれる。

 

 


 

参考文献・資料

 

・宮台真司、真鍋厚トークセッション「〈社会〉という”まぼろし”をどう生きるか」

(http://www.sairyusha.co.jp/shakaitoiumaboroshi)

・北野圭介編『マテリアル・セオリーズ』、人文書院、2018年

・『ユリイカ 第50巻第7号』、青土社、2018年

 

文字数:7989

課題提出者一覧