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創造するものたちを求めて

 

二〇〇九年にカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で公開され、少なくない人数の気絶者を生じさせたことで知られる『アンチクライスト』は、監督であるラース・フォン・トリアーのそれまでの作品とおなじく賛否両論の嵐をまきおこした。おそらく、フォン・トリアー監督に見えているものを想像しない(したくない)観客にとっては、忌まわしくグロテスクで意味不明なこけおどしとして非難の対象になるだろう。反対に、彼がどのように世界を見ているのかを漠然とでも理解する観客にとっては(それを共感や好意を持って受け入れるかどうかは別として)、監督の世界観を最も抽象的に美しく映像化した作品だと評価する映画になるだろう。

雪の降りつもるある日、ウィレム・デフォー演じる「夫」とシャルロット・ゲンズブール演じる「妻」が風呂場で愛し合っている。夢中になるあまり幼い息子がベビーベッドを抜け出してしまっていることに気がつかず、窓から転落死させてしまう。心理療法士である夫は自分の手で何とか妻を救おうと「エデン」と名づけた森へ妻を連れていき、そこでセラピーを試みるが、妻の様子はますます悪化していく。たまたま目にした息子の検死記録や残された写真などから、夫は妻が以前から息子を虐待していた事実を知る。自分は捨てられると思った妻は夫を残虐な方法で拘束し、みずからのクリトリスを鋏で切除する。夫は力をふりしぼって拘束を解き、われを失い抵抗する妻の首を絞め死に至らしめその亡骸を焼く。彼が足を引きずりながら「エデン」から解放されるというところで映画は終わる。あらすじだけをたどるとなんとも云えない忌まわしきストーリーだが、プロローグからエピローグに至る綿密な構成、そして美しい映像美とそこかしこに配された象徴的なメタファーによって、眼をそむけたくなるような禍々しい数々のシーンにもかかわらず、全体として説得力のある作品になっている。

この映画で少なからず話題になったのは、エンドロールでの「アンドレイ・タルコフスキーに捧ぐ」という一文だ。上演時には失笑も漏れたというこの献辞の意味について、フォン・トリアー自身は明確には語っていない。しかしこれはけっして、スクリーンのうえに私たちが目にするいくつものモチーフや舞台設定が、ソ連の巨匠タルコフスキー監督の作品へのオマージュになっているという表面上の類似性にとどまるものではない。

フォン・トリアーはカンヌ映画祭でのインタヴューのなかで、この映画は『アンチクライスト』というタイトルをいちばん先に決めただけで、宗教的なものはあまり出てはこないと答えているが、それでもやはりこの作品はフォン・トリアーの宗教観、それもきわめて明確にキリスト教的なものへの違和感と抵抗を全編に見せた、文字通り「アンチクライスト」な映画であると云わざるを得ない。そしてその反キリスト教的なものの表現の偉大な先達としてフォン・トリアーの頭にあったのが、他でもないタルコフスキーその人であった。

 

芸術のはたすべき救済の意味を考えつづけたタルコフスキーは、ソビエト連邦の無神論的唯物史観に抵抗した宗教者であった。たしかに彼の世界観のベースには間違いなくロシア正教があり、その映画からは静謐ではあるが強い宗教的な使命感を感じさせる。しかしそれでもなおタルコフスキーは、キリスト教的なものへの違和感と抵抗をその生涯にわたって表現し続けた、すぐれて「アンチクライスト」な監督だと考えられるのである。

タルコフスキーの中期の大作『アンドレイ・ルブリョフ』では、神への無条件の畏れを説く師であるフェオファン・グレクの教えに納得できない画家ルブリョフの苦悩がえがかれている。自然のなかにおいて裸で儀式を繰り返す異教徒の祭りに遭遇したルブリョフは、肉体的な愛を否定しない自由と、価値観と忠誠を強要する支配階級の理不尽さとを突きつけられる。最終的にルブリョフは優れたイコン画によって宗教画家として名を残すが、支配と抑圧にたいして芸術をもって新しい価値観を創りだす可能性にこそこの作品のテーマがあることはあきらかだろう。そして、その抑圧をなしている権力である当時のモスクワ大公国をソビエト連邦政府に重ねることができるならば、同時にまたそれを父なる絶対者への無条件の信仰を求めるキリスト教的なものに重ねることも容易である。

父なるもの=男性的なものとしての「権力」への違和感と、母なるもの=女性的なものとしての「自然」へのあこがれは、それ以降のタルコフスキーの作品において繰り返されるテーマである。とくに『ストーカー』以降の作品においては「世界をこの手で再創造すること」への積極的な試みがえがかれるようになる。

遺作となった『サクリファイス』では、いつもとかわらない日常に突如として起きてしまった核戦争による世界の終末に、引退した俳優である主人公のアレクサンデルが救世主となるべく立ち向かう話である。神を信じないはずのアレクサンデルは、家も家族もすべてを捧げるので愛するものを救ってほしいと神に祈る。魔女だという家政婦のマリア(なんという名前だろう!)と性交することで世界は救われると啓示を受けた彼はマリアの家に向かう。

アレクサンデルの苦悩は、彼が俳優であることと無関係ではない。俳優は演奏家などとおなじく「再現芸術家」といわれる。「再現芸術家」は作家や画家といった「創造芸術家」とはことなり、なにか存在として形あるものを産み出すことはしない。他人の創りあげたフィクションを演じることしかできなかった俳優アレクサンデルには、みずからの手で世界を産み出すことへのきわめて強いあこがれがある。世界が滅びゆこうとするその時にあたって「私はこの時を一生待っていた。この時がくるのを待っていたのだ」と云うアレクサンデルが、神の作ったこの世界の外へあらたな世界を切り開くのは芸術家であるという強い自負を持っていたタルコフスキー自身と重なることは明白だ。

キリスト教的な世界観のなかに生きるものにとって、究極の父なる秩序として立ちはだかるのは云うまでもなく神にほかならない。その世界観の中では、エデンの園において神はまず男を創ったのち、その肋骨から女を創った。女であるイブが本能に身をまかせ堕落した存在としてえがかれる。しかし女は子供を産むことができる。神が世界を創造したように、新たなものを産み出すことができるのは女なのである。魔女だというマリアと交わることで世界を救う『サクリファイス』のアレクサンデルも、魔女の禍々しい無数の手が絡みつく大樹(生き生きとした生命の躍動を感じさせる自然そのものだ)のもとで妻と交わる『アンチクライスト』の夫も、母なるもの=女性的なものとしての「自然」へのあこがれ=欲望そのものだ。そしてその欲望こそが、父なるもの=男性的なものとしての「権力」であるところのキリスト教的な神への決別、すなわち「アンチクライスト」である。

 

しかしながらフォン・トリアーがえがくものがたりは、結局のところ神の創った世界のなかにどまるものでしかない。

『アンチクライスト』でのエピローグでは、妻の亡骸を焼いた夫が森を出ると、それまで映画の中で「三人の乞食」という禍々しいものとして登場していた「grief(悲嘆)」=鹿、「pain(苦痛)」=狐、「despair(絶望)」=鴉があらわれる。ディジタル・エフェクトによって周囲の草地と溶け込こんでえがかれるその無垢な姿に、夫も心なしか微笑んでいるようにも見える。やがてどこからか顔を持たない数多の女たちが夫を取り囲むように現れて山の斜面を覆いつくす。実に生き生きと山を登っていく彼女たちを見る夫の表情も、実に穏やかだ。こうしてこの悪魔的な禍々しさに満ちた映画は、さわやかなカタルシスを残し終わる。妻を殺し焼いたことで夫は女性的なものと和解し、調和したみずからの居場所を取り戻した「かのように」見える。

しかしこのエピローグ全体がラストにいたるまでモノクロであることが、そのハッピーエンドからリアリティを決定的に失わせている。それはタルコフスキーがその作品においてしばしば、記憶や妄想といった意識内の世界をモノクロで表現したことを思い起こさせる。フォン・トリアー自身、重度のうつ病に悩まされた経験を持つが、そんな彼にとっては恐ろしく忌まわしいものとして見えている世界と「うまくうやっていく」ことをしなければ生きていくことができないのだろう。『アンチクライスト』では、父なる「神」と母なる「自然」との二項対立が見せる風景のなかで、他者を解釈しなおすことで世界と折り合いをつけたにすぎないのである。

一方、タルコフスキーの作品はその先にある救いを予感させる。『サクリファイス』でアレクサンデルが魔女としてのマリアと交わったのち、目が覚めると世界は平穏を取り戻す。アレクサンデルは神への約束を果たすべく生贄として自分の家に火を放つが、駆けつけた救急車によって病院に運ばれて行く。いっけんアレクサンデルもまた、世界を再創造することなく結末を迎えるように思える。

しかしここで救いがあるのは、ラストシーンで枯れ木に水をそそぐ子供がつぶやく「はじめに言葉があった……どうしてなの、パパ」という問いかけだ。ロゴスによって混沌とした無意味に意味を与えて世界を創造するという、理性的な世界観に対する素朴な違和感。名づけられる以前の、あらゆるものがそれ自体であった地点へのあこがれ。ひとの一生とは留まることなく流れる水のたまさかの淀みにすぎないという、東洋的な無常観をも思い起こさせる、タルコフスキーのさまざまな作品で象徴的に使われる「水の流れ」のなかに、その可能性は見いだせる。残念なことに神がタルコフスキーにその時間を与えることはなかったのだが。

 

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