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宮台真司によろしく

(ノックの音)

―どうぞ、久しぶりだね。思ったより元気そうだ。

久しぶりなんて、この間、会ったばかりじゃないですか。

―そうだったかな。いや、最近、時間の感覚が狂ってきていて。昔のことがついこの間のように、最近のことが遠い過去のように思える。まあ、私のことはよそう。今日、この場所は君が話をするために準備した。もちろん、私は君の話をきくためにここにいる。君は問題を解決したいのだろう?君は書くことができず苦しんでいる、そうだね?

ええ、その通りです。書きたいと思うのに書くことができないんです。作家であれば、writer`s blockとでも言うのでしょうが・・・おかしな話ですよね。ぼくは別に作家ではない。書く必要なんてない。そうなんです。ぼくは、無駄なことばかりしている。ニワトリが飛ぼうとするから苦しむ。朝に鳴いて、ときどき騒がしく小屋を走り回ればいいんだ。

―ニワトリであることは何も悪いことではない、私もそう思うよ。でも、君は飛びたいと思った。飛びたいニワトリだって何も悪いことはない。そして、君は飛びたいニワトリでもない。書きたいのに書けないと悩み、この部屋のドアをたたいた。私はせっかちだ。まず、単刀直入に聞くよ。なぜ、君は書くことができないと思う?

私の言葉には、何の意味もないからです。価値がない。自分も書きたいと思ってから、色々な人によって書かれたものをたくさん読みました。始めは楽しかった。でも、読んでも、読んでもきりがなく、いつしか読まなければと憂鬱になるようになった。『スーパーサイズミー』という映画があります。マクドナルドを30日間食べ続けたらどうなるかを記録した映画です。開始からしばらく、被験者は健康、むしろすこしハイになっているようにも見える。ところが、ある日数を越えるとうつ症状が現れるようになる。ちょうどそのような感じです。人間は飢餓状態の方が対処しやすく、飽食の方は対応が難しい。言葉も同じなのではないか。こんなにも言葉があふれている時代には、むしろ言葉を大量に取り込んで、消化不良になり、肥満になる方が問題なのではないか。つまらないとお思いですね?よくあるパターンだと。宮台真司という社会学者は、いつからか「言葉の自動機械」という用語を使うようになった。そうです、私もまた自動機械だ。ありふれてなんの価値もない。

―私は、君の今の発言に否定も肯定もしない。たしか宮台という社会学者はひどい飽き性ではなかったかな。宮台を好んで読むなら、君もそうだろう。つまらない話はよそう。私は君に宿題をだした。この部屋のドアをノックしたということは、準備はできているはずだ。

そうですね。始めましょう。

(セッションの開始)

ぼく自身はいま、母の教育方針のトラウマから解放されるために、自らにセラピーを課していると言っていい。人は親に対して怒るべきだろう、そう思わないかい?すべては、根本的に親のせいじゃないか。だいたい、ぼくたちがこの世に送られてきたこと自体からして。―『ラース・フォン・トリアー』

}それが問題だ ― アンドレイ・タルコフスキー

まず、『Anti Christ』を観ていて、園子温監督作品との類似を感じました。

―たしか、園子温は『園子温という生きもの』というドキュメンタリーで、トリアーについて触れている。

そうですね、私もそのドキュメンタリーを観ました。類似を感じたのは直感ですが、理由は別にドキュメンタリーの園監督の発言をそのまま鵜呑みにしたわけではありません。なぜ似ていると感じたのか。園もトリアーも、自分の精神世界こころに空いた大きな穴について、作品で執拗に描いている。<心に空いた穴>という言葉は、フロイト-ラカンの精神分析理論を背景に口にしています。園は、父親によってあけられた。トリアーは母親によってあけられました。

重要なトリアーのエピソードをおさえたいと思います。トリアーが生まれたとき、父親は50歳を過ぎていました。また、その父親とトリアーとの血のつながりはありません。そして、その実の父親ではないという事実を知ったのは、最後を迎える母の告白によってでした。トリアーが自らの生い立ちについて語った部分を要約します。トリアーは典型的中産階級の出身、役人の家で育ちました。父親は社民党支持だったが、そこまでラディカルな思想は持っていなかった。ラディカルな思想を持っていたのは母親。母はコミュニストで、自由教育の信奉者だった。トリアーは母について次のように述べています。

ぼくの母、インゲル・トリアーは、少なくとも見かけ上、ひとりの自由な人間をつくりだすことを望んでいた。と同時に、彼女自身が実現できなかった心にくっきり描いていた理想像、ある水準以上のクリエーターあるいはアーティストになるよう、ぼくに望んでいた。母の頭には、それしかなかった。

ぼくが芸術的な遺伝を確実に持ってこの世に生まれてくるために、母は外をうろつきまわったということになっている。ぼくの父、ウルフ・トリアーは本当の父ではない。それをぼくは母の臨終のときに聞いた。

父親についての、トリアーの発言もおさえておきたいと思います。

―父上はきみにとって近い存在?

ああ、とても。父が大好きだった。ぼくが18歳のときに亡くなったんだけれど、ぼくが生れたとき50歳くらいだったから、もういい年寄りだった。そう、まわりの友達と較べても、ぼくの父は年をとっていたから、一緒にサッカーをしようなんて言ったこともなかった。スポーツマンタイプでもなかったし。でも、とってもおもしろい人で、ふざけるのが大好きだった。(中略)

父は安心できる人だった。何をやりたいのか、自分ではっきりと知っている人だった。それに対して、母は、意思が弱くて決定を下すことができないタイプだった。

ここでの、トリアーと両親とのエピソードと『NYMPH()MANIAC』でのJoeの両親の描写とはつながります。Joeは明らかに、母親よりも父親と深いつながりを感じており、父親のようになりたいと思っています。では、トリアーは女嫌いの監督なのか?答えはNOです。たしかに、母はトリアーに大きな穴をあけた張本人ですが、その穴はトリアーの生き方そのものと分かちがたいものです。トリアーの映画に登場する女性は、彼の母であり、また母の亡霊がとりついたトリアー自身に私には思えます。幾度も描かれる、色情狂ニンフォマニアックの女も、友情と理性によって大切な人を支える献身的な女も、すべてトリアー自身なのです。

―すこし、論理が飛躍しているようだ。できる限り、自分以外の人にもわかるように説明してほしい。まず、今は『Anti Christ』の話をしていたはずだ。けれど、『NYMPH()MANIAC』の話になってしまっている、そして献身的な女というのは『NYMPH()MANIAC』の話でもないんじゃないかな。

その通りですね。すみません。私の悪い癖です。私は、ひとつの作品で完結して観ることがどうにもできない。私は何かの作品に接したとき、その向こう側にある誰かの世界のほんの一部を垣間見たに過ぎないと考える。私が興味を持つのは、その世界を描いた誰か、すなわちその世界を持つ誰かであって、その作品ではない。きっと、私の心の穴がそうさせるのでしょう。私を生んだ母親は精神科医です。ですが、育てたのは祖母。私は、母が私よりも精神分析を選んだと憎んでいる。でも、一方で。ここからは、言葉にしにくい。あるエピソードがあります。それは、自分の大変に恥ずかしい部分を吐露することになるので、途中でやめてしまうかもしれない、というよりも、私はさらに脱線しようとしていますね。やめたほうがいいでしょうか。

―君次第だよ。好きにするといい。

告白1

―本当なら、私は長いフィードバックをするべきなのだろうが、残念ながら時間がない。簡単にまとめれば、君もトリアー監督と同様に母親の亡霊に取りつかれているということだね。それゆえに、精神分析的に物事をみずにはいられない。

それで構いません。思いのままに、トリアー監督の話に戻りましょう。『Anti Christ』の登場人物は、とても少ないですね。冒頭に、事故死してしまう子供とその両親の、あわせて3人。父親はセラピストで理性の人です、一方で母親は論文を書き上げることを辞めてしまったエピソードからわかるように、非理性の人です。父親は献身的に母親に寄り添いますが、一方で非理性的なものに対して傲慢で、支配的であろうとします。結果、崩壊をきたします。この構造は、『メランコリア』でも反復されています。ラストシーンに描かれるのは子供と理性、非理性の人です。

トリアーの発言から、彼が理性的なものと、非理性的なものをどのように考えているかをおさえたいと思います。『イディオッツ』について語った部分です。

―映画のどこかで「イディオッツは、未来だ」という箇所がある。

うん、彼らは、ぼくらを取り囲む理性的なものすべてを計る重りのような存在だといえるから。ぼくは、理性を不安に基づいたものとして体験する。混沌に対して不安を感じるなら、摩擦と矛盾でいっぱいの人生を生きるのも不安だ、そこで人は、理性を武器として手に取る。少なくとも、ぼくはそうやって育ってきた。ぼくの過程で、ほとんどすべてのものが、理性の光で照らされていた。

ぼくは、非理性的なものに弱いんだ。映画の仕事の大部分は、非理性的性質を帯びている。

トリアーは、大変な不安神経症を患っていますが、その原因は理性にあり、不安は創造的な側面がまったくないと別の個所で述べています。一方で、非理性的なものは映画の仕事、つまり創造的な行為、芸術と深く結びついています。映画と非理性とについて語っている部分を今度はみてみましょう。

―きみは、ずいぶんまだ小さい頃に、母親の小さなカメラを借りて、映画を作り始めた。すでにその当時から、大人になったら映画関係の仕事につこうと考えていたの?

うん考えていたと思うよ。映画というものが家庭のなかで、ひとつの位置を占めていた。母方の叔父ポルェ・ヘストは、ドキュメンタリー映画の監督として成功していて、彼がぼくを支え、計画を支持してくれた。ぼくには、自分自身の現実を描く必要があったんだ。ぼくの努力を、現実逃避と呼んでもかまわない。人生が危険なものだと体験するとき、なんらかのファンタジー世界が生み出され、そこでは現実世界で支配できなかったものを自由に操れるんだ。これこそ、フィクションに身をささげるようになる、第一の理由だとぼくは思っている。

これ(映画製作)は、深いところで自分自身の宇宙、自身が操り支配できる、なにものかを作りあげることを意味している。この上ない満足感を与えてくれ、しかもとても幼稚でこどもっぽい。こどもは、自分が支配者である独特の世界を作り上げる。

映画製作も、自己独特の世界を造り出すことだ。監督の仕事というのは、まず第一に製作に関わる人々すべて、カメラの前に立つ人、後ろに立つ人にも、監督の遊びに付き合ってもらい、その要求に答えてもらうことだ。

映画製作は、自分の支配できるもう一つの世界を造り上げる子供っぽい遊びであるとトリアーは述べています。そして、それは人生が不安だと感じる人間にこそ必要とされるものだと。つまり、それはセラピーです。別の個所でトリアーは、箱庭づくりが好きだとも述べています。たしかに、映画製作の根っこには、箱庭的な行為があります。

―トリアー自身が、意識して、つまり自らの症状のセラピーとして映画を撮っている。それは精神分析的に作品を観ようとする君にはぴったりの作家だったろう。

はい。だから、すぐにひきこまれました。世間のトリアー監督の評価、つまり、難解であるとか、悪意があるとか、まったくそのような印象をうけませんでした。多くのものがクリアーで、また、理解できない部分もいずれ分かるように思われました。

さて、そろそろ、このセッションも閉じていかなければいけませんね。なぜ、トリアーはタルコフスキーに献辞を捧げたのか。『Anti Christ』はどのような映画なのか、それに答えて、終えたいと思います。ですが、すぐに『Anti Christ』の話には戻りません。先ほど、トリアーにとって映画製作は<子供の遊び>の延長線上にあると指摘しました。さて、『NYMPH()MANIAC』の冒頭、Joeはある遊びを思いつき、大人になってもなお、その遊びをやめられません。そう、Joeは自慰行為をやめることができない色情狂ニンフォマニアックでした。自慰行為、性交などは、トリアーの作品では映画製作や芸術行為のメタファーです。母は、トリアーが大好きだった父親でもなく、血のつながりのある実父でもなく、トリアーでもなく、芸術を求めました。母の求めたファルスは、芸術だったわけです。

そのようなことを理解すると、トリアーの映画に、去勢された男性や女性を性的に満足させられない男性が頻出する理由もわかります。トリアーには、信仰や家族を裏切ってまでも、芸術を求めた母親の亡霊がとりついています。その亡霊は、平凡なファルスでは満足することができません。トリアーは、芸術、それも特大の芸術を心の穴から湧き出す欲望によって、仕方がなく求め、本能的にかぎつけます。その一人がタルコフスキーでした。トリアーは、タルコフスキーの『鏡』はこの地球からではなくて、宇宙空間から降りてきたような作品と評し、幾度も見直して、今も取りつかれているといいます。

すこし、タルコフスキーという作家にも触れたいと思います。トリアーほど、理解することはできていませんが。タルコフスキーの日記『殉教録』を読みました。いくつか、彼が考えていたことが垣間見れる部分を抜き出したいと思います。

8月14日

文化は、人間の最高の成果である。

だが文化に、たとえば人間の尊厳よりもまさっている点が何かあるのだろうか(文化と尊厳は同じものだと考えないとしたらだが)。文化の建設にかかわる人間には、もし彼が真の芸術家であるならば、それを誇りにする根拠はない。才能は神に授けられたものであり、芸術家は、おそらく、それを人々に与えなければならない。

だが才能に価値があるとしても、それは偶然手にはいったものなのだ。

これは、たまたま富裕な家庭に生まれついた人が、真の尊厳にたいする感覚、ほかの人への尊厳の気持も持っているのと同じようなものだ。精神的・倫理的文化を創造するのは、才能を偶然に与えられた人間ではなく―民衆である。みずからの中から、その願望とは無関係に、創造的な活動と精神的な生活に適した人物を引き出してくる民衆なのだ。才能はみんなの共有財産であって、才能の担い手も、大農場で働く奴隷、麻薬中毒者、ルンペンと同じように、乞食なのである。

才能は不幸である。なぜなら才能は、自尊心や尊敬を求める権利をいっさい与えないばかりか、その一方で、巨大な義務を負わせるからである。それは、正直な人間が、自分では使う権利の一切ない高価なものを預けられ、守っていかなければならないのと似ている。

自尊心は、欲しければ誰でも持てる。なぜ名声が、いわゆる芸術家の夢の到達点であるのか理解できない。虚栄心はどう見ても無能さの徴しではないか。

タルコフスキー日記を読むと、彼が、いかに映画撮影のための資金繰りに追われ、彼の考えを理解しない批評家・スタッフに苦悩し、様々な身体的不調に苦しんでいたかが分かります。そして、それでもなお自分の映画の価値を、芸術の才能を疑わずに撮り続けた。タルコフスキーにとって、才能とは、神から与えられたもので、芸術家とは、その贈与物よきものを守り、広める使命を持った人間でした。そのような人間こそ尊く、真に芸術家と呼ぶにふさわしいものと考えていました。神・贈与物よきものへの奉仕者が本来の貴族でそのような人間に価値を置くのが、貴族主義、エリート主義です。ラース・フォン・トリアーのフォンは貴族・準貴族の姓の初めに冠する言葉です。トリアーがタルコフスキーの日記を読んでいたという発言はありませんが、同様の考えを持っていることは明らかです。

『Anti Christ』にまつわるエピソードに、2005年に撮影を開始したが、途中にトリアーがうつ病になったというものがあります。うつ病の理由には、映画製作のスタッフとのトラブルがあったと記述されていますが、それは発端ではあれ、根本的な原因ではないでしょう。ニコニコ動画が本格的に展開しだしたのは2007年。you tubeはそれよりも前ですから、ちょうどインターネットによる動画配信の萌芽が垣間見られた時期と『Anti Christ』の撮影時期は重なります。そう、映像表現を誰しも行えるようになった時代が来ていました。

『Anti Christ』という映画の題材が、精神分析セラピーですが、映画自体、トリアーのセラピーです。セラピーの目指すところは、不安・恐怖の克服です。この映画で、トリアーがみつめた不安・恐怖の対象は何なのか。とても明確です。絶望・苦痛・悲嘆、そしてそれとともに戦い、死ぬことです。説明しましょう、といっても冒頭の印象的な場面は、誰しも思い出すことができるでしょう。美しい音楽とともに、子供が転落死する場面です。窓際には、3つの兵隊の人形が飾ってありました。そのおもちゃにはそれぞれ、絶望・苦痛・悲嘆という言葉があてられていました。あの場面に流れる美しい音楽と、子供が転落死する映像とは、本来つながれないものです。美しい音楽のもつ正の価値と痛ましい映像のもつ負の価値はつながれ、両価性をもったメッセージとなり、受け手は日常から非日常へと意識が飛躍します。変性意識状態です。

あの冒頭のメッセージは、いったいどちらにとればいいのでしょう。

『Anti Christ』において絶望・苦痛・悲嘆を象徴したのは、兵隊のおもちゃだけではありませんでした。シカ・キツネ・カラス、自然もまた、それら恐怖の象徴として描かれています。ですが、最後の場面だけは違います。混沌のちに訪れた、平穏。離陸したのちの、出発点とはちがう着地点。男は台地に生えた草木の実を口にし、わずかですが空腹を癒します。混沌に至る前には、恐怖の対象にみえた動物たちは穏やかにこちらをみつめ、男もおだやかにみつめかえします。次に表れるのは何か。顔のない、無数の女の姿をした人の群れです。それぞれがてんでばらばらの方向に、山の斜面を登ったり下ったりしています。あなたは、前者と後者のいずれに親しみの情を抱くか。私は、いや、言うまでもないことでしょう。

2000年代後半、映画を、芸術を、真の意味で続けると覚悟するには儀式を必要としました。なぜなら、訪れた時代において、自分の信ずる芸術モノを捨てずに殉教すると選択するなら、絶望・苦痛・悲嘆と親しくしながら、長く続く戦いを乗り越えていかなければならないことは明らかだったからです。そして共同体のなくなっていく(人間の顔がみえなくなる)世界では、自らも動物であり、自然の一部であるという真実を今一度みつめざるを得ませんでした。それが、『Anti Christ』の最後に、タルコフスキーに献辞がささげられた理由になります。

―最後に聞きたい。問題は解決したかな?つまり、君は、また書くことができると思うかい?

分かりません。ただ、どうすればいいかは分かりました。

―聞こうか。

自分の心の穴に従います。


 


あの頃、宮台真司に憧れた、あなたに、この文章を捧げる。

 

 

 

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