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ささげる、ゆらぐ、とどまる

 

 

世の中には映画批評なるものがあるらしい、ということを最近知った。この映画批評ってのを牛耳っていたのが、蓮實重彦というおじさんらしい。東大の総長にもなったらしい。すごい。だが、僕はこのおじさんに馴染みがない。このおじさんが東大総長だった時期に僕は生まれたのだから、当然と言えば当然か。

どうやら、この蓮實おじさんを筆頭にシネフィルという人たちがいるらしい。年間何百本も映画を見るらしい。これも最近知ったことだが、そうすると、映画を見るための超人的な動体視力がつくらしい。おお、すげえ、と素直に思う。僕の周りにはシネフィルがいないから、新鮮な驚きだ。ユーチューバーならいるかもしれないけど。

こういう人たちの存在を知ると、僕も映画を見てみようかなと思う。だから、トリアーという監督の『アンチクライスト』という映画を見てみたんだけど、不思議な映画だった。この映画について言葉を紡ぎ出すのは難しい。言葉にした瞬間に、複雑な気持ちが解きほぐされてしまうような気がする。

だから、僕はこの映画の内容を批評するというよりは、この映画のただ一つの点に注目してみたい。トリアーがこの映画を「アンドレイ・タルコフスキーにささげる」ことの意図について。

タルコフスキーに映画をささげるとはどういうことか。この文章を貫く問いはこれに尽きる。結論を先に示しておけば、トリアーからタルコフスキーへの奉献は、哲学的な深い領域にまで踏み込む所作だ。それは、敬意を表してささげるというような、一般的な奉献以上のことを意味している。トリアーは「ささげる」ことによって、主観を超えた世界へと接近しようとしている。

とはいえ、いきなりこんな仰々しいことを言われても、意味が分からないよね。だから、順を追って話していこう。まず、先に挙げた問いについて考えるべきことは二つある。一つ目。なぜタルコフスキーなのか。これはタルコフスキーとは何者か、もっと厳密に言えばトリアーにとってタルコフスキーとは何者かということを考えることで見えてくるであろう。二つ目。一般的な使用法をこえた深い意味、哲学的な意味での「ささげる」とはどういうことか。これはある哲学者のテクストを読解することで見えてくるであろう。この二つの考察を通じて問いに迫っていく。

それでは始めよう…といきたいところだが、まずは少しの寄り道から。

 

 

はじめに、映画論についてものすごく簡単な整理をしておく。そうすることでタルコフスキーについて考える意義がつかめると思うからだ。

使い古されて、手垢がついた議論ではあるが、映画を人文学的に考えるときには、人間の知覚形式との関係は見逃せない。映画は、近代西欧の知が築きあげた世界認識の枠組みを最もシームレスに体現しているとされてきた。西欧近代哲学の言説の中では、人間は現実をアプリオリな知覚形式をもって変換し、現実の写像を通して世界=現実を見ているとされる。カメラを媒介としてスクリーン上の写像を見る映画の形式は、哲学が思い描く世界認識の図式にぴったりと重ね合わされるわけである。この説明は常套句ではあるが、映画はもとより、人間について、世界について考えるポテンシャルを持っていることは確かだ。

この図式を踏まえたうえで、古くはリアリズムとフォルマニズムの対立構図が描き出されてきた。乱暴にまとめれば、この対立は画面の中に注目する(リアリズム)か、画面のつなぎ方に注目する(フォルマニズム)かのどちらに重心を置くかについての論争である。ただ、この論争は映画についての考察であり、映される現実そのものについての考察は(リアリズムにおいてさえも)少なかったように思われる。

あるいは、映画を記号学的に読解する研究方法が隆盛を極めた時代もあった。しかし、そこでもやはり問題になるのは、画面内で語られるものであり、映される現実ないしは映すということへの注目は希薄であっただろう。

このような状況分析を経た後で、タルコフスキーについて考えることはなお意義深いものであるように思う。なぜならば、タルコフスキーは以上の議論とは別の次元で映画を考えているからだ。では、どのようにして?いよいよ冒頭で掲げた一つ目の考察、タルコフスキーについての考察に移ろう。

 

 

ピーター・グリーンというイギリス人は『アンドレイ・タルコフスキー 映像の探求』の中で次のように言う。

 

タルコフスキーの映画は、映画は視覚的で聴覚的なメディアであり、文学の延長ではないということを、つねに思い起こさせるものである。(中略)その映画は、おもに文字による教育では準備されてこなかったような知覚の形式をある程度予想させるものである。

 

グリーンは映画の知覚形式としてのメディア性に言及しながら、映画の映す媒体としての側面を強調している。しかし、さらに興味深いのは、タルコフスキーの映画は「文字による教育では準備されてこなかったような知覚形式」を予想させる点である。これは文字によって体系づけられてきた哲学における知覚形式とは、別の世界認識の可能性を感じさせる。それは、近代哲学が思い描くものとは、別の世界の在り方を示すものでもある。

タルコフスキーの映画には、近代との癒着関係が希薄な知覚形式が潜んでいる。例えば、ヴィクトル・ボジョーヴィチという人は次のように言う。

 

人間を周囲の世界からへだてている境界は存在するだろうか。大気や植物や雲や岩や水から人間をへだてている境界は。もちろん存在するだろう。理性的意識はこの境界を明確に感知し固定してきたのである。(中略)だが、この境界が消えてしまう瞬間もある。人が自分を失うことなしに、樹木や岩石や水流になったように感じる瞬間…まさにこのようなエクスタシー(自己の限界の越境)の瞬間こそが、ポエジーの瞬間なのだ。 

『タルコフスキーの世界』 アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編

 

ポエジーの瞬間。タルコフスキーは、自己と他者の境界が曖昧になり、消えてしまう瞬間を映画で表現する。それは、認識可能な領域と認識不可能な領域に二分された近代哲学の図式とは、異なる知覚形式を提供する。タルコフスキーは近代哲学が二分した限界を越境する、詩的映画を作り続けた。タルコフスキー自身も述べているように、彼が創造するイメージは「生それ自体の詩的反映であり、比喩である」。

タルコフスキーが追求した詩的映画性は、トリアーの『アンチクライスト』にも引き継がれている。それを象徴的に示すのが緑色だ。この映画は色彩が厳しく制限されてはいるが、そんななかでも緑色は多用される。しかし、なぜ緑色なのか。もっとも、シーンの大部分が森で撮影されていることは大きくかかわるだろう。

だが、より重要なのは、おそらく、緑色が持つ歴史的象徴性である。今でこそ、緑色は自然の健康的なイメージをまとってはいるが、もともとは多義性、不安定性を象徴する色であった。例えば、道化師は緑の服を着ていたし、賭け事をするテーブルは緑色であることが多い。この世とあの世をさまよう存在である悪魔やドラゴンも緑色で描かれる。『アンチクライスト』でも、森は悪魔の教会で、そこでは死んでいくもののなき声が聞こえると語られる。これらは決して偶然ではないだろう。トリアーはタルコフスキーが試みた曖昧な世界観を緑色で象徴的に示しているのだ。

緑色に象徴される不安定性は、非合理的なものをその陰に潜ませる。賭け事の勝敗を決する運命や偶然性は非合理なものであるし、悪魔やドラゴンなどの神話的存在も非合理的なものである。トリアーは1995年以後、自身の映画に積極的に非合理的な「他者」を取り入れており、『アンチクライスト』でもその試みは読み取れる。本作で言うなら、気が狂ってしまい二重人格的に振舞う妻が「他者」であろう。

トリアーがタルコフスキーに対して(一般的な意味で)作品をささげていることを踏まえれば、その影響関係は決して少なくないであろう。だとするならば、曖昧な世界観と同様に、非合理性のモチーフもタルコフスキーから引き継いだものだと見ることもできる。というのも、タルコフスキーも非合理性を映画に導入したからだ。ただし、タルコフスキーの非合理性への構えは考察の余地がある。再び、ピーター・グリーンは次のように言う。

 

たとえば『ストーカー』で、その遠征の最中に、作家はこれ以上先に進むなという警告の声を聞く。最初はそれは不可視の存在、おそらく神の声のように見える。しかしストーカー〔実際は科学者〕は即座にそこに説明を加え、それは作家が内心先に進むのを恐れていたので、戻りたいという気持ちとのジレンマを解決するために、自分自身で言葉を発したのだという。・・・(神話や超心理学的現象は)どう考えてもわれわれの感知しうる現実世界からすれば、リアルではなく非合理的であるが、そのようなものはタルコフスキーは否定しようとしたのである。

 

タルコフスキーは非合理性を映画の中に導入しつつも、それを科学的言説で覆い隠す。理性による境界線や近代的な知覚形式を揺さぶりながらも、完全に破壊しつくすことはない。それどころか、非合理性を見て見ぬふりをする。ここで幾つかの疑問が浮上する。タルコフスキーは非合理性を否定したが、それならばなぜわざわざ導入したのか。そこに意味があるとするならば、タルコフスキーの否定の身振りは何を意味し、トリアーはどのようにして受け取ったのか。

 

 

タルコフスキーは近代的な知覚形式を揺さぶるために非合理性を導入した。しかし、そこから一足飛びで非合理性へと向かうわけではない。知覚形式を完全に破壊しつくすことはしない。むしろ、非合理性を否定し、境界内部へと帰ってくる。だが、一度揺さぶりをかけられた知覚形式は、今までのような絶対性を保つことはできないだろう。それは世界の変容の契機を把握しながらも中途半端に固定され続けるのだ。

いわば、タルコフスキーは映画を通じて、主体を完全に破壊しつくさないまま、もう一つの世界の可能性を呈示した。これはタルコフスキーの映画制作の核心に迫る試みである。三度、ピーター・グリーンによれば、「タルコフスキーは芸術を、理想の追及、もうひとつの現実の創造であるとみなしている」。世界を分身させること、いや、分身的にありうるという世界の在り方を呈示すること。これがタルコフスキーの詩的映画が持つ哲学的なポテンシャルである。

その意味で、タルコフスキーの非合理性に対する振る舞いはマゾヒズム的である。いきなりSMの話をして驚かれたかもしれない。大丈夫、ちゃんと説明する。千葉雅也は、ドゥルーズの対概念を説明しながら次のように言う。

 

サディストにとって二次的自然の諸形態は、破棄されるべき半端なものでしかない…追及されるのは、非形態化なのである。

マゾヒズムにおいては、サディズムとは別のしかたでの否定性が働いている。これを指すためにドゥルーズは、「否認 denegation」という概念を用いる。否認とは、次のような操作である。この世界がこのようであるという「現実性」を認めない、しかし、破壊活動なしで、所与の素材を使って、もっと「理想的」である世界の形態を勝手に構築してしまう。この世界がこのようであることを、破壊的にではなく否定し、別のしかたを提案するのである。

『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』

 

少しじっくり説明しよう。サディストが破棄するべき二次的自然の諸形態とは、ここで言う近代的な知覚形式に相当する。近代的な知覚形式と映画が図式的に重ね合わされて説明されるように、人間の世界認識は、観客がカメラによる写像を見るのと同様に、現実そのものを全的に捉えることはできない。人間の世界認識は、現実の一部分を変換して表象される、恣意的で半端なものでしかない。そこになんら必然性はなく、その非合理性に気づいたサディストは半端な知覚形式を破棄して、現実そのものに近づこうとする。ここまで話してきたことの表現を使えば、サディストは非合理性の方へ一足飛びで向かおうとする。

しかし、このような非合理性への跳躍に対して、タルコフスキーは慎重であるのだった。むしろ、タルコフスキーは知覚形式をひとまず否定しながらも、中途半端にとどまり続け、世界を分身させるのであった。マゾヒストとして。

マゾヒズムは非合理性に突き動かされて形態を破壊しつくしはしない。マゾヒズムは破棄ではなく、否認という別のしかたで既存の世界認識を否定する。そうして、周りにあるもので、理想的な別の現実を勝手に作ってしまうのである。このような状況にあって、既存の知覚形式が見せる世界=現実(表象)は相対的なものでしかなくなるであろう。それは、マゾヒズム的に作られたもう一つの現実にとって、無関係で、無意味なものにすぎなくなる。つまり、マゾヒズムは既存の知覚形式を中断して、宙づり状態においてしまう。

タルコフスキーの狙いもここにあっただろう。詩的な映画によってもう一つの現実を作り出すことは、既存の世界=現実を宙づりにすることを意味する。そして、おそらく、トリアーがタルコフスキーから得たものも、マゾヒズム的な宙づりであろう。だからこそ、トリアーは『アンチクライスト』において奉献の所作を取るのだ。これは一体どういうことか。

 

 

議論はいよいよ終盤だ。ここからは、冒頭で掲げた二つ目の考察、奉献についての考察へ進んでいこう。

トリアーが示した「ささげる」という所作は、一般的な意味だけでなく、それ以上の哲学的な意味を孕んでいる。それが僕のとる立場だ。では、哲学的な意味での「ささげる」とはどういうことか。このことを考えるにあたって、ジャン・リュック・ナンシーという人の話を聞いてみよう。

このおじさんは基本的に難しいことばかり言っている哲学者なのだけど、彼は「崇高な捧げもの」というテクストの中で、「ささげる」ことを哲学的に説明している。例えば、ナンシーは次のように言う。

 

問題となるのは別のものなのである。それは呈示そのもののなかで、そして結局は呈示によって生起し、到来し、起こるものだが、呈示ではあらぬものなのだ。すなわちそれは動き(モーション)であって、それによって限界づけられぬものが、おのれを限界画定し己を呈示する限界に沿って、たえず自分を浮かび上がらせ、自分を限界からはずしていくのである。この動きは限界の外縁をある仕方で縁取るであろう。(中略)ある意味でそれは、(再)呈示された輪郭とおなじものである。だが、別の意味では同時に、それは限界づけられずにあること、縁そのものの上での縁の消失―それは溢れかえることであり、カントのいう「流出」である。溢れかえりのなかでなにが起きるのか。流出とともになにが到来するのか。すでに言ったことだが、それをわたしは捧げものと名づけることになろう。 

『崇高とは何か』

 

ほらね、難しい。順を追って説明しよう。まず、ナンシーの議論の中で、呈示されるものは形象である。形象とは簡単に言えば知覚形式そのもののことであり、世界=現実の切り取り方を指す。ただし、このパラグラフで問題になっているのは形象が与える世界認識の内容ではなく、形象を生成する呈示の運動である。つまり、形象によって固定的に呈示される写像ではなく、動いている状態にある呈示作用、そのものの運動を問題にしている。

呈示によって生起する形象とは、知覚形式、すなわち世界の切り取り方であった。したがって、呈示作用の運動に注目する時、呈示は世界を切り取る限界画定の営みであることになる。この限界画定の営みは主観の働きによるものではない。形象成立以前には、知覚=主観は発生していないからだ。したがって、それは世界=限界づけられぬものが行うことになる。そうした限界画定の営みを通して、世界=限界づけられぬものは己自身を呈示するのである。

つまり、ナンシーは近代哲学の認識における二分法(認識可能な領域と認識不可能な領域の二分法)が生成される運動に注目している。このことによって、世界それ自身が呈示される。ただし注意しなければならないのは、世界の全体が呈示されるわけではないということだ。あくまでも、世界=限界づけられぬものが呈示されるのは、画定された限界の縁においてなのである。ナンシーは非合理性の方へ一気に跳躍することはない。

限界は、その外縁において非合理的な世界と触れ合っている。形象の呈示作用の中にある限界を通じて、限界に収まりきらなかったものが呈示される。その運動の中で、限界線=境界が曖昧になること。この詩的な状況を、縁から「溢れかえる」とナンシーは表現する。そして、ここにおいて生じるのが、「ささげる」という所作なのである。

要するに、「ささげる」という所作が意味するのは、知覚形式外部にある非合理性を把握しながらも、曖昧化した知覚形式の境界線上に踏みとどまることなのである。非合理性へ跳躍するのではなく、変容した世界の輪郭を引き受けること。これこそ「ささげる」という所作に求められることである。

ここには、マゾヒストの非合理性への構え方に通ずるものがある。そして、マゾヒズムは既存の知覚形式を中断して、宙づり状態におくわけだが、ナンシーは奉献について次のように言っている。

 

そしてそれらの呈示が呈示するのは、輪郭であれ枠であれ筆跡であれ、呈示自体の中断である。呈示された(形象化された)統一が由来してくる統合は、この中断として自らを呈示する。すなわち、限界が線を引かれたり浮き上がったりする場である構想力の(形象化作用の)この宙づり状態として現れるのである。

同上

 

ここでいう形象化された統一とは、知覚形式が呈示する表象=写像のことを言う。奉献においては、この写像の呈示自体が中断される。奉献において問題になるのは、呈示の内容ではなく、呈示の運動だからだ。こうして既存の知覚形式は宙づり状態におかれるのである。以上を踏まえれば、「ささげる」という所作は、マゾヒズムの振る舞いと明らかに一致すると言える。

まとめよう。「ささげる」という所作の哲学的な意味の中心は、既存の知覚形式の輪郭線を変容させ、それを宙づり状態におくことにある。いわば、奉献とは、形象を通じて、表象から世界の方へ向かいながらも、向かい合うところに踏みとどまる、存在論的な実践なのである。

 

 

さて、長らくお待たせした。ようやく、冒頭の問いに答えるときが来た。

この文章は、タルコフスキーに映画をささげるとはどういうことか、という問いに答えるために書かれてきた。そして、タルコフスキーの考察、奉献の考察を経た今、次のように答えることができるだろう。

「ささげる」という所作は、形象の外縁で世界=現実に触れる。それは表象から非合理性へと一気に跳躍する試みではなく、形象を通じて非合理性を浮かび上がらせる、向かい合う試みである。スクリーン上の見えているものだけを見るのではなく、またスクリーン外部の見えないものを見ようとするのでもなく、その間にある限界線へ注目し、既存の世界を宙づりにすること。そうすることでマゾヒズム的に別の現実の可能性、世界の分身的な在りようが示され、映画は存在論的な領域まで歩を進める。トリアーにとって、この領域に入り込んだ偉大な先人がタルコフスキーであった。だからこそ、奉献はタルコフスキーに向けられる。

つまり、トリアーの奉献は二重の意味を帯びる。一つは既存の世界を宙づりにする哲学的な所作として。もう一つは、タルコフスキーとトリアーとの境界線を曖昧化するために。こうして、映画における存在論的な実践が引き継がれるのである。

文字数:8000

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