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「犬」についての考察 ―トリアーとタルコフスキーにおける人間でも自然でもない存在―

 

 

『アンチクライスト』の人間と自然

 

 

 

ラース・フォン・トリアー監督作『アンチクライスト』(2009)では様々なモチーフが描かれている。神や自然、人間、性愛、欲望、そして男と女。激しく対峙し、時には調和しあうこれらの要素は、どうやったらうまく整理できるだろうか。

まず大局的な見方として、神:人間:男(夫)は共通の項であると理解できる。セラピストである夫は、無神論者的であり、神というより心理学を信頼しているが、妻が反キリスト的、悪魔的な発言をしたことに激しく憤ったことからもわかるように、彼は理性が信仰や人間性と対立するものであるとは考えておらず、最終的には信仰の希望として描かれている。

一方で対応するものとして、悪魔(サタン):自然:女(妻)の項がある。妻の反倫理的、非合理的な行いや神秘的な感性は、キリスト教と近代合理主義を真っ向から否定するものである。ここではキリスト教と近代合理主義は対立しない。そうではなく、キリスト教もしくは「大規模定住社会*」を支える倫理(夫)と、自然的な欲求(妻)が対峙しているのだ。宮台真司が指摘するように、「大規模定住社会」を支える倫理は、それ以前からある自然的な欲求を抑圧もしくは変装させることで、なんとか成り立っている。映画では、このなんとか保たれている倫理と欲求のバランスが、終盤にかけて急速に崩壊していく。殺されかけた夫が、「お前は俺を殺そうとしたのか」と問うたのに対して、妻が「いやまだよ」と答えるシーンは、時折我に返って自分の行いを責めていた妻の正気がついに消滅し、いまや完全に狂気によって支配されていることを示す。

この絶望的な状況から、夫は妻を殺して生還する。人間と自然は完全に決裂したのだ。しかし、それにもかかわらず、ラストシーンでは夫はGynocide(魔女狩りなどの女性殺戮)によって殺められてきた女性たちと遭遇し、最終的に、人間(夫)と自然(妻)は調和したように見える。これはなぜなのか。一連の流れは単なる自然の気まぐれと捉えるべきであろうか。だが他方で、明確に夫とコンタクトを取ろうとするものたちがいることを忘れてはならない。それは動物たちである。キツネ、シカ、カラス。彼らは人間(夫)になにかを伝えようとして、また妻の狂気の予兆として現れる。たしかに動物も自然(妻)の一部である。しかし、キツネが“Chaos reign”(混沌による支配)と声を発するように、人間とコミュニケート可能であり、またラストシーンで、女性たちと遭遇する前に、夫を導いたのも動物たちである。自然と人間を媒介する存在としての動物たち。彼らは果たして人間と自然の関係になにをもたらすのだろうか。というより、この動物たちように我々に示唆をもたらす存在がもっと身近にいないだろうか。

 

 

『ドッグヴィル』と社会の不可能性

 

 

 

トリアー監督作品の中でもとりわけ人間社会にフォーカスした作品が『ドッグヴィル』(2003)である。ロッキー山脈の麓にある小さな町、ドッグヴィル。住人はわずかに15人である。ここに一人の美しい都会女、グレイスが迷いこむ。彼女はマフィアに追われており、隠れ家を必要としている。そこで、ドッグヴィルの善良な青年であるトムが、村で匿うことを提案する。住民たちはグレイスが町の仕事に従事することを条件に、彼女を匿うことを認める。トムは彼自身またはドッグヴィルの住人が、この機会に、グレイスを助けることで善良な人間になれると考えたのである。

トムの目論見は失敗する。それどころか住人たちは善良とは正反対の方向に進んでいく。当初こそ働き者のグレイスを快く思い、親しく接していたドッグヴィルの住人だったが、彼女が追われる身であるという弱みにつけ込んで次第に傲慢になり、グレイスを奴隷のように扱うようになる。住民たちのエゴはさらにエスカレートして、毎晩男たちは彼女を陵辱するようになり、女たちは彼女が淫らであると嫌悪するに至った。

良心の呵責に耐えられなったトムは、グレイスを追っていたマフィアに彼女の居所を伝える。その後マフィアが到着して、グレイスがマフィアのボスの娘であることが判明する。町人は唖然とし、状況を把握したマフィアのボスは、すぐさま住人たちを処刑しようとするが、グレイスはこれを逡巡する。これにより、いままでの立場は逆転し、住民の命はほとんど奴隷の身であったグレイスの決断に委ねられたのだ。

ここでグレイスは、この「<クソ>社会*」とどう向き合うかという問題に直面する。つまりグレイスには、三つの選択肢があった。

1.迷わずボスの言うとおりに住人を射殺する。

これはすぐさま却下された。なぜなら、彼女は傲慢(arrogant)になることをひどく嫌悪する性質であったからだ。そもそも彼女が父(ボス)から逃げていたのも、そのような傲慢な判断を嫌ったが故である。住人を射殺すれば、結局彼らと同じ傲慢な人間であることになってしまうと考えたのだ。

2.彼女の慈悲により住人たちを許す。

グレイスはまず寛大な容赦を考えた。しかし父は、それではお前は傲慢であるという。なぜなら、住民たちが彼女にした罪を考えれば、彼らを許すこと自体偽善であり、しかるべき処分しないことは傲慢に値するというのである。

ボスはいう「彼らは犬だ。もし犬が自らの嘔吐物を食らうなら、鞭を打たなければ止めることはできない。」「犬は様々な有益なことを学ぶことができる、しかし、もし彼らの自然の性質を許せば、そうはいかなくなる。

考えが少しずつ変わりだし、彼女がボスのもとに戻り自分が権力を持てばこのようなことは二度と起きないのではないかとも考えだす。しかしそれでもグレイスはまだ住民たちを許すつもりでいた。

私はこの世の中を少しでも良くしたい

そのあとトムがグレイスに命乞いをしようとする。しかし彼は、驚くことに「今回の事件は人間が啓発されるいい例(illustration)になった」と自分の行動を正当化する。グレイスは愕然として、ついに決断する。

もしこの世界にほんの少しでも良くなる見込みがない町があるとしたら、ここのことだわ

3.彼女の慈悲により、住人を射殺する。

町の建物は焼かれ、住人たちは子供も含めて全員射殺された。彼女はボスのいったように彼らにすべきことした。しかし実際は、彼女はこの選択肢を取ったわけではなかった。グレイスは選択を放棄したのだ。もっといえば、彼女は自分が彼らの命を選択する立場にないことに気づいたのだ。そう、彼女もやはり「<クソ>社会」の一員であり、どうあがいてもこの社会では傲慢にならざると得ないである。グレイスは住人たちを処刑する際、母親より子供を先に殺すように命じて、自分を責めた女に復讐する。そこではもう慈悲も傲慢も関係はないのであった。

 

この映画の最大の特徴は、「自然」が出てこないことである。すべてが狭い舞台の上で行われ、背景や風景はなく、建物の壁すらない。そこにあるのは剥き出しの人間だけである。『アンチクライスト』で描かれた人間:自然の構図は一切出てこない。そのため人間の醜さが凝集したような作品となった。ではこの結末に希望はないのだろうか、人間社会をとらえ直す他の視点はないだろうか。実は最後の場面で、本物の「自然」が少しだけ顔を出す。全員の殺戮が終わってグレイスたちマフィアが町を去る時、町で一頭だけ飼われていた犬が姿を現す。そして最後に具現化する。つまり劇中では犬がいるフリでしかなかった犬が本物の犬として顕れたのだ。彼の名はモーゼスである。

ここで「犬」は二重の意味をもつ。一つはボスが住人たちを犬呼ばわりしたように、醜く貪欲で野蛮であるということ。もうひとつは、まったく人間社会に関与しないものとしての「犬」である。グレイスがはじめて町に来た時、彼女がモーゼスの骨を取ったために、モーゼスが彼女に吠えた。最後のシーンでも、そのことを覚えていたモーゼスはグレイスに吠えるのだ。モーゼスはただかつて骨を取られたがゆえに吠えるのだ。モーゼスは「<クソ>社会」に唯一関与しない者であった。

 

 

 

『ノスタルジア』と犬

 

 

 

アンドレイ・タルコフスキー監督の表現世界は、一般に複雑難解であるとされているが、彼がテーマとするものは、芸術と創造、女性と愛、神への帰依、自然への畏怖、物質主義の批判など、非常に普遍的なものが多い。それらは彼の「存在論的な関心**」によって導きだされたものである。彼の詩的な表現から、この「存在論的な関心」をどのようにして受け取るべきだろうか。

 

『ノスタルジア』(1983)はタルコフスキーの晩年の作品であり、美しい自然描写や絵画的な映像が印象的である彼の傑作のひとつであるが、それと同時に自伝的な映画であることも指摘されている。**

詩人であるアンドレイ・ゴルチャコフは、かつてイタリアで客死した音楽家サスノフスキーの旅路を追って、トスカーナ地方に行く。そこは朝霧がかかった美しい田舎町であった。彼の旅にはエウジェニアという美しいイタリア人女性が通訳として付いている。彼女はイタリア文化をロシア的に翻訳し、またアンドレイのいうロシア文化をイタリア的に理解しようとする。彼女はイタリアとロシアを結ぶ存在だ。彼女は最終的に彼に対して、愛を告白するが、彼に届くことはなかった。

アンドレイは温泉町で会ったドメニコに興味を持つ。彼は終末論を信じ込み、家族を7年間監禁したため、町人からは狂人扱いおり、結局ローマにて狂信的な演説をしたあと焼身自殺するのであるが、アンドレイはこのドメニコの「広場の温泉を、蝋燭をもって渡れば、世界は救われる」という言葉を信じ、死の間際にそれを実践する。そうしてその後アンドレイは、イタリアとロシアが混ざったような理想郷に至り、物語は終わる。

この映画は会話や説明の非常に少ない映画であり、冗長とも言える長い静かなシーンが続き、モチーフも大変多様にあるので、決して一度で了解できるような映画ではない。しかしここでもまた、わかりやすい登場者が「一人」いる。それは「犬」である。このシェパード犬は、あらゆる場所に登場する。ドメニコが住む廃墟、アンドレイの回想、アンドレイの泊まるホテルなど、絵画的で静的なシーンの中に、時に躍動的に、時に穏健に、映り込む。ドメニコが焼身自殺するとき、周囲の人間たちが固まる中、「一人」吠え続けるのもこの犬であり、ラストシーンで理想郷のなかに、アンドレイと寝そべっているのもこの犬である。この犬は果たしてどういう存在なのだろうか。

タルコフスキー自身ダークスというシェパード犬を飼っていたようである。彼の郷土への思いの中に、そのシェパード犬がいたとしても不思議ではない。しかしこの映画で与えられた「犬」の役割は、思い出の一場面に登場する単なる犬ではない。「犬」は、作品のなかに表れるタルコフスキーの強い信仰心からも、故郷への思いからも、芸術への献身からも、自由である。そして、「犬」がロシアでもイタリアでもないが故に、最後のシーンが成立する。当然この映画のテーマが「犬」であることは絶対にありえない。なぜなら、その中立的存在がゆえにフレームの中、シーンの中、時間の中を駆け巡り、タルコフスキーの思想に一つの道筋を示す存在として「犬」がいるからである。

 

 

 

 

3つの作品に共通して現れる人間でも自然でもない「犬」の存在。「犬」は複雑に絡み合った糸を解すように、美しい詩に冷静な解釈を与えるように、彼らの作品に配置される様々なモチーフを一度クリアにして、私たちの前に現れる。だがしかし、それは「犬」が答えを持ってきてくれることを意味しない。「犬」は時に不合理な自然と共に人間を脅かし、時に傲慢な人間たち象徴になり、また美しい理想の伴侶にもなり得るのである。

「犬」は彼らの作品で希望であり、絶望でもあり、可能性でもある。いずれにしても、トリアーはタルコフスキーから、人間でも自然でもないこの余白のような存在を、決して欠くことなく受け継いでいることは間違いないことだろう。

 

 

参考文献

*『正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く』著宮台真司

**『アンドレイ・タルコフスキー 映像の探求』著ピーター・グリーン 訳永田靖

文字数:4978

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