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ノスタルジア、救済と慰め

■勃起メランコリー

男は概念であり、女は自然である。ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』は、男と女の関係を容赦なく徹底的に描いた傑作である。本作の「エピローグ」を除けば、嫌になるほど、概念的な男と自然的な女の関係が執拗に反復されている。女は男を不条理に晒す存在であり、男は女をどうしても殺すことができない。布施明の歌謡曲よろしく、殺した男が殺されるときはじめて女を知るのか、というべき執念深い命題が提示されている。

冒頭、スローモーションの夫婦のSEXシーンから悲痛がはじまる。SEXに夢中になった夫婦が、息子から目を離しているうちに息子が窓から転落し、息子は死んでしまうのである。息子の死に意味はない。意味があるとすれば、夫婦に愛は無いということである。夫婦に愛がないゆえに、男と女の関係がより強調されている。あるのは支配の欲望だけだ。

息子を失った苦悩から女は精神を衰弱するのだが、男は自分のちからで女を回復させようとする。馬鹿げたはなしだ。男は試行錯誤の末、女が畏怖する森に行けば女が回復するのではないかと思い、女を連れて森に入る。物語を手短に言えば、男の試みた概念的なカウンセリングは失敗に終わり、「あなたはわたしを捨てるのね」と理性を失った女に殺されかける。身の危険を感じた男が女を殺し、「エピローグ」となる。

男の不自由さ、女の支離滅裂を、露悪的に尖鋭に容赦なく徹底して概念的に描いた本作であるが、「エピローグ」においては極めて詩的になる。森から出る途中の傷ついた男に向かって、無数の裸の女が走ってくるのだ。それは超言語的だと言っていい。それゆえ、タルコフスキーに献辞が述べられる「エピローグ」は映像的にそのまま受け取るしかない。仮に言語的説明を試みれば、①男は女に敵わない、②男は女に悩まされ続ける、③男は超自然的に女あるいは<世界>を知る、のどれか凡てが解釈の選択肢になるだろう。だが、それは僕が「男だから」でもある解釈に過ぎない。結局のところ、女がこの映画をどう読むのかわからないのだ。単なる「男の女嫌い」として受け取るのだろうか。

思えば学生時代、付き合っていた彼女とふたりで宮崎駿監督『風立ちぬ』をみて、彼女が宮崎駿の演出に怒っていたが、その理由を当時の僕はよく理解することができなかった。情けない話である。僕はよく概念的/水平的であることの悪口ばかりを書いてきたが、水平性にも現代的な価値はある。それは男根信仰の破壊である。一例をあげれば、ブータンで修行していた友人から聞いたはなしではあるが、ブータンではかつて「賢者がファルスを熱い鉄の棒に変え、女悪魔を退治した」という伝説があるらしい。それゆえ、ブータンの伝統的な家庭では男根の彫像が大切にされ、家の壁にファルスが描かれていたという。しかしながら、近年の急速な近代化がもたらしたマスメディアの情報によって、ブータン民族は男根信仰を恥だと思いはじめたらしく、ファルス像は家庭から姿を消しつつあるという。ブータンにおける文化現象の価値判断は保留するにしても、ファルス中心主義の弊害があるとすれば、過剰な競争原理と結びついたとき、男も女も殺しすぎるということだろう。それもまた男根的虚妄なのかもしれないが、『アンチクライスト』には勃起し続ける表現と病がそそり起っている。容赦ない水平性の徹底が垂直性を開示するのだ。

本筋に戻れば、「エピローグ」でわれわれが知らされるのは、男も女も100%の概念でもなければ、100%の自然でもないということである。「女は悪魔なのよ」と言って悪魔的に振舞う女は概念に溺れる存在でもあったし、女を殺す男の衝動は自然的だった。「エピローグ」における超自然的な森の存在が男と女を動物に過ぎない存在であると暴くのである。男は男に溺れ、女は女に夢中になる。手短に言えば、『アンチクライスト』とは、徹底的に概念的であることで理性の限界に挑み、「エピローグ」において理性の限界を突破した雄弁な怪作なのである。

そんなわけで、タルコフスキーに捧げた「エピローグ」を読み解くためには、タルコフスキーを参照する必要もあるだろう。それゆえ、ここではタルコフスキー『ノスタルジア』(1983年制作)を参照したい。

■ノスタルジア、射精

なぜ『ノスタルジア』なのか。息子を失い苦悩に落ちる女の病こそが「ノスタルジア」だからである。フロイト精神医学の発展によって「ノスタルジア」は「メランコリー」の一種として処理されることになるが、精神分析によってそれを完全に癒すことはできない。これはフロイト精神分析の負の側面なのかもしれない。喪に必要なのは、分析ではなく受容だからだ。終末なき終末幻想に分析的情熱は水と油の関係にみえる。なにより分析は<世界>に対する感受性を萎えさせる。勃起し続ける社会は早死にするほかないが、勃起が不可能な社会も絶滅に向かうほかない。ベンヤミンはソクラテスを「知の勃起」だと揶揄したが、孕むことなしに受胎する純潔理念<ノスタルジア>は、射精的な哲学では破壊されるだけだろう。それは僕の記述の限界でもある。愛なき射精と勃起はひとを嫌悪させる。それは『アンチクライスト』の一般的反応でもあったのかもしれない。性器を切除する悲痛によってしか、男女は<世界>と関連できなかったのだから。悲痛によって<世界>を獲得する形式は、ラース・フォン・トリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』においても同様に顕著であった。

言い換えれば、悲痛の形式によってしか「ノスタルジア」を治癒できない困難は、現代社会に大きな影を落としている。「ノスタルジア」の鎮魂は、国民主義か実存的去勢、生殖の放棄かの選択に迫られている。仮に優生学的な種の保存を科学的に優先させれば、文化、文明、医学、公衆衛生の進展を否定しかねない皮肉な顛末が予想できる。種の原理の古典的欲望は健康と健全に夢をみたが、それは相互扶助的な共同体幻想/類的な社会の原理を破壊することを代償にするものであった。勝利と祝祭を無垢に成就できない時代の病は、自殺的な健全幻想に回帰するほかないのだろうか。

■詩人が狂人に出会うとき

前置きは長くなったが、タルコフスキー監督『ノスタルジア』のはなしをしたい。あらゆる理念が概念に失墜する宿命を背負うなかで、<芸術のための芸術>を理念として最後まで描き切った『ノスタルジア』は、天才の息吹をわれわれに感じさせる世紀の傑作であった。天才とはなんであるか。<世界>を彼が芸術的直観によって開示する、純粋さと偉大さを持った才能の奇跡なのだろう。偉大な作品は面白い人間がつくる、<世界>を鷲掴みにして決して手放さない勇気、そんな才能の残酷を彼らは容赦なく誇示するのである。「催眠効果」が高いと言われるタルコフスキーであるが、中盤に訪れる数秒間の弛緩を除いて、高次の次元で徹底的に醒めている。

物語のあらすじを手短にいえば、望郷の念を抱えたロシアの詩人の男が放浪中のイタリアで郷愁を抱える狂人「ドメニコ」に出会う。そこで詩人は狂人の<魂>に感染する。狂人に出会うまで詩人は翻訳者の女と旅をするのだが、そこに愛は芽生えない。それゆえ彼女は詩人のもとを去ってゆく。観念世界に生きる男の宿命でもある。終末を予期する狂人は詩人に「蝋燭に火をつけ、水を渡れ。火を消すことなく温泉の広場の端から端まで渡れたら、人類は救済される」という世界救済の儀式を託し、ローマで3日間の演説を行い、焼身自殺を遂げる。ローマに旅立った翻訳者の女から電話で狂人の様子を知らされた詩人もまた、火と水の儀式に挑み、それが達成したところで、持病の心臓発作に倒れる。悲痛の形式が、理念的でありながら徹底的に貫かれている。そこでわれわれは<世界>の不条理を知るのだ。

『ノスタルジア』の見どころをひとつあげれば、崖っぷちから下を走る高速道路を眺める子供が「これが世界の終わり?」と父である狂人に尋ねる回想場面にある。森のなかを駆け抜ける自動車のスピードが現代社会の相貌を鮮やかに不気味に映し出していた。それは無垢であることの卓越でもあった。ただ決着をつけずにいる者が、理想と現実を生きることができる。

詩人が狂人に出会うとき、彼は何を獲得したのだろう。詩人は神に似た狂人に魂を売ったのか。狂人は身の丈に合った観念のなかで自殺するほかなかったのか。アルベール・カミュよろしく、哲学は自殺の問題を解決していない。絶対に向かう精神を許すのが理性だけならば、思考の結末は自殺しかありえない。合理的精神を基盤にした分析は破滅的にならざるを得ないのだ。理性はその限界で崩壊を約束されている。

狂人の演説は「語りかけるのはだれか。私の頭脳と肉体は同時には生きられない。だから一個の人格になりえない。私は同時に無限を感じることができる。」からはじまる。苦悩の告白である。

ニーチェの影響が伺える興味深い主張も続く。以下、抜粋すれば、「我々の時代の不幸は偉大な人間になれないことだ。我々の心は影に覆われている。」「無意味と思えることにも耳を傾けよう。(中略)”ピラミッドを作ろうではないか”。重要なのは完成ではない、願いを持続させることなのだ!」「もし君たちが進歩を望むなら、一つに混じりあうことだ。健全な人も病める人も手を取り合うのだ。健全な人よ、あなたの健全が何になる」「私はどこに存在するだろうか。現実にも空想にも存在しない。」「強者が滅びて弱者が生き延びるだろう。混沌とした世界を統一するのだ。」と観念的理想が声高らかに主張される。

狂人の演説の最後は「母よ、母よ、風は軽いものだ。私がほほ笑めば、風がそっと動く」で終わり、断末魔のような「歓喜の歌」が流れる炎のなかで狂人はうめき声をあげ絶命する。殺したのはだれなのか。

狂人はまた演説中に「ニーチェ」の名を口にするが、日本語字幕においては固有名が落とされている。ニーチェは芸術家ではなく、科学者だというのか。思想史家マーティン・ジェイによれば、フロイトは科学を渇望しながらも精神の習性が他律的にあり続けることによってフロイト主義にならざるを得なかったという。フロイト精神分析は、個人的救済を捨てきれず、超主体的であることを躊躇った人文科学的習性によって(あるいは狂人が母殺しをできなかったがゆえに)、「ノスタルジア」を「メランコリー」に変えてしまったのである。同様に『アンチクライスト』の「エピローグ」でわれわれが見た無数の裸の女たちは、顔なき母の亡霊だったのではないか。あるいは、母ではなく、なぜ女を愛せないのかと。いずれにせよ、母を殺そうと殺さまいとこの世は地獄の楽園である。生存する母の喪失に苦悩する狂人にも、故郷を希求する詩人にも救済はないといえど、狂人を信じる詩人には救済の細い筋がみえなくもない。それは誤りだろうか。汝、直観を愛せ。それが『ノスタルジア』における静かで絶望的な決着であったのではないか。

■芸術の原理、慰め

『アンチクライスト』も『ノスタルジア』も<悲痛の形式>に貫かれた芸術作品であった。別の見方をすれば、前者は誇張に、後者は純化に、その優れた表現に富んでいた。動物学者デズモンド・モリスによれば、誇張と純化は、人類の(視覚)芸術の先史時代まで遡る歴史から発見できるアートの法則でもある。非日常を生み出す秘訣だとも彼は言っていた。それでも、詩人が女に言うように、すべての芸術は不可能なのだ。良くも悪くも人類の原動力は偏狭と狂信だった。「大切なのは幸福になることではないよ」とは『ノスタルジア』冒頭での「女はなぜ祈るのか」に対する教会の監視人の台詞であった。

僕の友人の木工職人の言説を要約すれば、「他者に幸福を与えることはできない、ただ自分がキラキラと輝くこと、それだけが自分の周りの限定的な他者を幸福にできる」と彼はよく言っていたが、(自殺を越えて)生きる術は<救済>を放棄することにあるのかもしれない。それは「真理とは、AがAであることが、AがAでないということだ」と仏教のお坊さんに教えられた説法によく似ている。非合理そのものである。

『アンチクライスト』の「エピローグ」とは、救済を諦めた男に訪れる慰めではなかっただろうか。愛も芸術も不可能だ。裏返せば、愛とは救済を放棄した慰めにも似ている。射精とは慰めでもある。ノスタルジアに苦悩する狂人を信じた詩人が救済の鍵を握るならば、僕が語りうるのは慰めに過ぎないのだから。

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