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「アンチ・トリアー」を主張する人は常に存在する

1 はじめに
 ラース・フォン・トリアー『アンチクライスト』(2009)は、アンドレイ・タルコフスキーに献辞が捧げられている。
 トリアーは、以前からタルコフスキーに対する賛辞を示していたため、まず、トリアーが具体的にタルコフスキーのどの作品の、どのような箇所に感銘を受けていたかを示す。
 次に、タルコフスキーがどのような映画製作の考えを持っていたかについて、幾つか抜粋する。タルコフスキーは旧ソ連邦において映画制作についての講義を行っているため、出典元はこの講義録による。
 さらに、タルコフスキーの映画製作についての考え方(とりわけモンタージュが意味するところ)が、映画理論において、どのような位置付けを持っているかを記す。
 最後に、タルコフスキーの映画に対する持論と、ラース・フォン・トリアーのあるインタビューを紹介した上で、トリアーがタルコフスキーを一時期どのように解釈していたのかについて、推論してみたい。

 

2 ラース・フォン・トリアーのタルコフスキーに対する影響について
 トリアーはタルコフスキーの『鏡』(1974)を、「この地球からではなくて、宇宙空間から降りてきたような作品」(トリアー、ビョークマン 2001,p.41)と表現している。
 また、トリアーが監督した『解放のイメージ』(1982)においては、「モノクロに色をつけるというのは、タルコフスキーに倣ったことだ。ちょっぴり『鏡』みたいでしょ」(同上,p.71)として、同じく『鏡』からの影響を挙げている。同作品の背景に流れる合唱音楽によって、映画が儀式的性格を持っている、というビョークマンからの指摘にも「それもタルコフスキーの影響だ。彼は、バッハを使っていた。僕は、一歩進んで、合唱音楽を選んだ」と答えている。
 『アンチクライスト』に限らず、トリアーの作品にはタルコフスキーからの影響が大きい。下記の「参考サイト」に掲げたJordan Raupの記事によれば、トリアーの作品中、タルコフスキーの影響がもっとも大きいのは『エレメント・オブ・クライム』(1984)であるとされている。

 以上に挙げたのは、全般的な影響関係についてであり、『アンチクライスト』においても、タルコフスキーと類似した映像のつなぎ方について、指摘をすることは可能である。
 タルコフスキーの作品においては、『鏡』に限らず『ノスタルジア』『サクリファイス』等においても、現在進行形の物語とは別に、個人(大抵は主人公)の脳内で再生されているイメージが突然に割り込むことがある。
 タルコフスキーの場合、戦争の場面などの過去のイメージの多くはモノクロ画面で表示され、現実の場面ではないことが観客に示される。
 これに対してラース・フォン・トリアーの場合(『アンチクライスト』の例で言えば)、登場人物の脳内イメージは、カラー画面で撮影されている。セラピストの夫が、夜中に呼吸困難を起こした妻に深呼吸をし、「アザミの綿毛を吹くところを想像して」と助言する場面で(映画では18分頃から)、妻が脳内において、草原でアザミの綿毛を吹くシーンが突如カラー画面で示され(背景に現在の夫の声が重なる)、現実に引き戻されると、照明の少ない真夜中のシーンに切り替わっている。

 

3 『タルコフスキーの映画術』から
 映画において、別個のショットをつないで新たな意味を生じさせる方法は、モンタージュと呼ばれているが、タルコフスキーは、映画をモンタージュの芸術だと認めていない。その理由は二つ挙げられている。
 一つ目は、モンタージュというのは、カットをつなぎ合わせる理想的なヴァリエーションにすぎず、この理想的なヴァリエーションは、撮影された映画のフィルムの内部に(既に)存在している、という考えにもとづいている。それらの内部には法則があり、その法則に従ってカットのつなぎ目や、切り取りを決定する実感が、監督には必要なのだという(タルコフスキー 2008,p.162)。
 そのような実感はどこから出てくるのだろうか。
タルコフスキーはこの問いを、ショット内の時間は、われわれにどのように知覚されるのだろうか、という角度から検討している。そして、ショット内に、同等に真実が存在しているという特別な意義が出来事の背後に感じられる場合に、ショット内の時間を知覚することができるとしている(同上,p.165)。

 二つ目は、タルコフスキー自身の言葉に従えば、「映画がスクリーンを超えて延びていくのを、モンタージュが妨げるからである」(同上,p.166)という理由による。
 モンタージュを駆使する映画は、観客に謎解きやシンボル解明の楽しみを与え、観客の知的経験にアピールする。ただし、この謎解きは、正確に形式化された答えを持っている。
 言い換えれば、観客には、自身の経験を参加させる権利を与えられていない。
 タルコフスキーが望むのは、「時間がショット内を堂々と自立して流れること、観客が無理やり知覚を強制されている、と感じないこと、自発的に監督の「捕虜となる」こと、映画の題材を自分自身の体験と感じ始めること、自分自身の新しい補足体験として、自分のものとする」ために、監督の「個人的な時間の流れを作り出し、ショット内に時間の流れとその走行の感覚を伝えること」(同上,p.170)を自分の課題だとしている。

 上記の二つの理由は、全く別のことを述べているわけではない。
二つ目の課題において提出された、監督が個人的な時間の流れをショット間に作り出すことができれば、ショット内の時間を知覚しなければならない、という一つ目の問いも導き出されるからである。

 

4 モンタージュに対する二つの考え方について
 映画史におけるモンタージュの考え方は、およそ二つの流れがある。
一つは、映画におけるモンタージュを重視する見方であり、『戦艦ポチョムキン』(1926)『イワン雷帝』(1945-46)の監督であるセルゲイ・エイゼンシュテインが理論化した。
 各映像・音の断片が連鎖することによって新たな観念が生成し、観客の心理に影響を及ぼすことが可能であるとされたのは、人間のあらゆる行動が刺激→反応の複合に還元されるという考えがその出発点にあったからである。
 のちにエイゼンシュタインは、映画の表象機能によって、観客が有機的(生理的)に自己からの離脱機能をおこない、映画作品に情緒的・知的に自ら参入していくという立場をとるようになった。(J・オーモンほか 2000,p.98)

 もう一つの流れが、モンタージュによって現実の曖昧さが減少させられるという、アンドレ・バザンによる理論である。
 バザンは『映画とは何か』第六章「禁じられたモンタージュ」において、モンタージュが映画において必要な場合(『とんでもない妖精』(1956))、不要な場合(『赤い風船』(1956))、映画作品の一場面においては、モンタージュを行うことにより著しく効果を損なう場合(『白い馬』(1952))の三パターンに分けて論じている。

 一番目の、『とんでもない妖精』という映画は、本物の動物の写真のモンタージュを使って、観客に感情移入を誘っている。写真に対する擬人効果が生まれているため、仮に訓練された動物で行われていたならば擬人効果は損なわれて、動物の芸の見事さの方により多く観客は感情移入しただろう。
 二番目の『赤い風船』は、赤い風船という無生物が擬人化されているが、風船の動きをカメラが追うことによって擬人化が生じているのであって、「モンタージュの抽象的な性質は、少なくとも心理的には絶対的ではない」(バザン 2015,p.87)ことが指摘されている。
 三番目の『白い馬』は、少年が白い馬を捕まえようとする場面において、馬と少年を別々のショット(切り返しショット)に収めてしまったため、空間的な滑らかさが断ち切られてしまった、とされている。

 『映画とは何か』におけるバザンは、イタリアのネオレアリズモを評価しているが、それはこれらの映画に「あらかじめ決められた物の見方に現実らしさを隷属させないところ」(バザン 2005,P.175)があるためであるとしている。
 リアリズムという言葉は「対象が写実的」であったり「観客が真実らしさを感じること」であったり、「(唯名論との関連でいえば)普遍者の存在を認める立場」であったりと多様な意味を持つが、『映画とは何か』においては「存在と物を相手にしてごまかしをすることなく観客の精神に参加を働きかけることーそれこそは芸術におけるリアリズムの確かな定義なのではないだろうか」(バザン 2015,p.353)とされている。

 そして映画に対するこの態度は、タルコフスキーの「まずは出来事を描くべきであって、出来事に対する自分の関係を描くのではない」(タルコフスキー 2008,p.156)として、観客の経験を参加させることを拒むモンタージュ技法を、映画の芸術と認めていない立場とも通じている。

 

5  タルコフスキーはどのように解釈されうるのか
 『アンドレ・タルコフスキーの映画術』は、タルコフスキーの講義の速記録をもとに作成された著作であるが、ここには自分自身について語ることの大切さと危険性の両面が扱われている。

映画にとって危険なのは自分自身から遠ざかることである。「詩的映画」は一般にシンボル、アレゴリー、その他、これに類するものを生み出すが、それらは映画に自然に備わっている形象性と共通するものを何ひとつ持っていないのである。(タルコフスキー 2008,p.19)

自分自身を表現するため、何らかの考えから解放されるためにあることをしても、実際のところ、もしそれが自分のことだけを扱っているなら、いかに個人的な映画であれ、決してうまくいかないことが、時には起こりうるものだ。(中略)もしそれが作家自身にとってのみはなはだ重要なノスタルジックな限界にとどまってしまったなら、誰もそれを理解することはできないと私は思う。(タルコフスキー 2008,p.107)

 これに対して、ラース・フォン・トリアーの映画には、あまり自伝的な要素が出てくることはないと言われているが、タルコフスキーの影響が強いとされている『エレメント・オブ・クライム』について、興味深いインタビューが残されている。

ぼくらは、象徴、象徴言語についてずいぶん研究し、ひとつひとつの絵にひそむ象徴を解き明かす理論を深めていた。絵の構造と輪郭を強調した。際立たせ、はっきりさせるため、シーンを水浸しにしたり、壁にオイルを流したりした。絵画や彫刻でするようなことだ。ぼくらは異常なほど、画面に映るものが古色蒼然と見えるように気をとられていて、そのための作業にほとんどの時間を費やしていた。『エレメント・オブ・クライム』を撮っていたときは、その極致といってもよかった。(トリアー、ビョークマン 2001,p.55)

 『エレメント・オブ・クライム』が公開されたのは1984年のことなので、当時は『ノスタルジア』が1983年に公開されていた(『サクリファイス』(1986)はまだ撮影されていない)。
 シンボル、アレゴリーといった、受け手によって「読み解く」こと(製作者にとっては「読み解かれる」こと)に熱中していた時期のトリアーにとって、タルコフスキーの作品は「決して読み尽くすことの不可能な象徴絵画」のように映っていたのではないか。
 ラース・フォン・トリアーの作品が一義的な理解を拒むのも(多くのトリアーの作品は賛否両論を巻き起こす)、トリアーのタルコフスキーに対する賛辞と無関係ではないはずである。

 

【参考図書・参考サイト(URLについては最終確認2018年12月5日)】
ラース・フォン・トリアー、スティーグ・ビョークマン(オスターグレン晴子訳)(2001)『ラース・フォン・トリアー ースティーグ・ビョークマンとの対話』水声社

 https://thefilmstage.com/news/see-andrei-tarkovskys-influence-on-the-films-of-lars-von-trier-in-side-by-side-video-essay/

https://www.timeout.com/london/film/lars-von-trier-discusses-antichrist-1

https://www.pastemagazine.com/articles/2009/10/catching-up-with-antichrists-lars-von-trier.html

アンドレイ・タルコフスキイ(扇千恵訳)(2008)『アンドレイ・タルコフスキイの映画術』水声社
J・オーモン、A・ベルガラ、M・マリー、M・ヴェルネ(武田潔訳)(2000)『映画理論講義』勁草書房
アンドレ・バザン(野崎歓、大原宣久、谷本道昭訳)(2015)『映画とは何か』岩波文庫

文字数:5294

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