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「衝動」の先へ

「衝動」とは何か。それは、突き動かすもの。スパークする瞬間、脳の中で伝達物質が駆けめぐる。それは、ほぼ無意識に。分析する時間も与えないほどのわずかな間に〈妄想〉を抱いた結末とも言える。

これは生物的に自然な反応だ。しかし、現実の社会では、これを抑えることが「正しい」し「善」だとされる。どんなに自然と思われる理由でも、個人の殺人衝動が直接実現すれば、必ず罰せられる。

歴史の側から見てみよう。社会学的には、農耕と定住化をするために、もしくはその結果、人が「衝動」を抑えるためのルール、やがては法整備を進めたのだとされている。そして時代が進み近代に至るまで続いてきた。政治的・文化的な対立が起きるたびに、「衝動」を押さえ込むルールを多く持つ側が「高度である」として支配層になった。例を挙げれば、日本におけるアイヌとヤマト政権、フィンランドにおけるサーミと絶対王政、アメリカ大陸におけるネイティブアメリカンと植民者・・・・・・このように、地球のどこでも、この手の話が尽きることはない。

そしてここでは、かつてサミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』で鮮やかに描きだした西洋・東洋という枠組みは意味をなさない。そのどちらも「衝動」を抑えたほうがエラいと思っているフシがあるのだ。

たとえば近代の日本で「大衆の面前でキスをするなんて」と指摘したかと思えば、その日本に西洋からやってくる人が「街中で眠る姿を人に見せて恥ずかしくないなんて」と驚く。お互いに知らないところで、そのように描写する日記が、そこかしこで書かれた、野蛮さの応酬。もはや泥仕合である。

宗教の側も同じだ。シャーマニズム的な「衝動」を伴う宗教行為は、キリスト教では今日でも異端とされている。だからこそ、サブカルチャーの好物・悪魔崇拝的なものは完全なアウトローである。キリスト教独自のことではない。起源を一とする(と敢えて言う)、ユダヤ教、イスラム教も、「衝動」への配慮はすさまじい。東洋の側もたいした変わりはない。仏教やヒンドゥー教もまた「衝動」を悪のひとつとみなしている。そしてこれらの宗教は、数百年の間、国を統治するのにぴったりの役割を果たしていた。これは時に人々を苦しめたが、それと同時に、救いを感じた人々がいたのも事実である。

そう、ややこしいことに、人はこの「衝動」を抑える行為自体をも心地よく思ってしまう。支配のために都合がよかっただけであれば、おそらくシステムとして長らく使ってこなかった。自然を克服したかのような、小さな満足感、優越感も得られる(だからこそ、できていない人を軽蔑するのだろうが)。いま、世界規模でアスレチック・ヨガが流行っているのも、このことと無縁ではない。ヨガのポーズ、瞑想。「この意識高い系が!」などと揶揄している場合ではない。何もインプットもない、中身のない人間が、内省をしたからといって、世の中を変えるアイデアにたどり着ける・・・・・・はずはない。しかし、一度始めてしまうとクセになる人が多い。その気持ちよさは、精神的支柱である。現代社会における心身の健康への意識は、宗教的な精神的支柱となってきている。「ヨガで心が満たされる」のも、この表象のひとつなのだ。

さらに現代社会と健康という側面を挙げておこう。私たちはいま「衝動」を抑えられないと「障害」とされる世の中を生きている。このところ話題の「発達障害」だ。たしかに、言ってしまえば、脳の一部が通常に動いていないために起きることである。脳という臓器が不自由なのが、四肢が不自由なのと同列に扱うのが同じであってもよいはずだ。しかし、ここで必ず反論があがるだろう。「それは個性ではないのか?」「社会の側が障害なのでは?」たしかにそれらは正論、理想だ。しかし人の社会が、そんな高みに達しているとは到底思えない。「衝動」をコントロールできなければ、生きるのに苦しいシステムで実際に動いているのが現代社会なのだ。

つまり、現代社会は、「衝動」をコントロールできるという前提で成り立っている。

ラース・フォン・トリアーの映画『アンチクライスト』(2009)では、この「衝動」が徹底的に描かれる。本作の一般的な評価といえば、例にもれずラース作品の典型的な――つまり賛否両論が激しいという――反応だ。

この作品が観るに堪えないという理由として、子どもへの歪んだ欲情、過剰な性愛のシーン、比喩抜きで身をよじるほどの残虐的な表現を抜き出して、「暴力映画」「女性を所有物とみなしている」というレッテルを貼る人もいる(実際、本作がカンヌのプレミア上映で失神者を出したのは有名な話だ)。そう、たしかに刺激的な作品ではある。

しかし、問題はそこだろうか。

果たして、暴力が過ぎるという理由のみで嫌悪しているのか? 女性の権利をないがしろにしているという理由のみで敵意を抱くのだろうか?

実際のところは、おそらく「わからない」ことへの不愉快さだろう。その程度が「過ぎる」のだ。さらには、感じ取ってしまった真実への反抗かもしれない。この映画を観ることは、つまり、エンドロールが終わるまでずっと、一般的に正義だと考える「理性」や「優しさ」が無効の、そして「衝動」がすべてを決める世界が眼前に広がるということなのだから。

まず「わからなさ」から。私たちは「衝動」のコントロールに加えて「共感」をも前提として生きている。今さらの感もあるが、SNSでの「いいね!」をはじめとして、「本質的にわかりあえる」ことを自明とする文化を生きている。そして「世界観に共感できる」という理由で圧倒的な支持を得ているポップミュージックや映画作品、文学作品は数えきれない。その意味では、この映画は「共感」を生みづらい。そもそも「わかりあえない」ということは心を乱す。不愉快極まりない。さらには、敬虔なクリスチャンであれば、映画に出てくる悪魔崇拝的な描写自体がショッキングだろう。

さらに進めよう。信じていたものが、信じるに足るものではないと感じ取ってしまうこと。眼前で崩れていくこと。それは恐怖である。これは、現代日本を生きる私たちにとって、決して他人事ではないはずだ。絶頂と感じた途端、1991年に始まったバブル崩壊。1995年、阪神大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件。2001年、ニューヨークの摩天楼に飛行機が突っ込んだ。2008年にはリーマンショックの飛び火。そして2011年、東日本大震災。盤石だと思っていたところで、世の中に絶対はない。一生懸命働いても、報われるとは限らない。そんな、足元が抜けるような心許なさが去来する不快感。そんな感情がわきあがる映画であることは、間違いない。

この映画は、夫婦の二人芝居をメインとする構造だ。男はセラピストで、女は人文科学系の研究者。男を演じるのはウィレム・デフォー、女はシャルロット・ゲンズブール。作品は、この艶めかしい二人のセックスシーンから始まる。美しく絶頂を味わっているが、そのさなかに、彼らの子どもが窓から墜ちて死んでしまう。その葬儀で妻は倒れ、心の病にかかる。やがて男は妻の治療方針に不審を抱き、本来は禁止されている配偶者のセラピーを行うことになる。彼女が研究で使っていた森の小屋(「エデン」と呼ばれる森にある)に鍵があるとみて、二人でその森へ入って治療を行うことを決める。しかし、その場所で露わになったのは、女が持っている強烈な衝動と、不自然なほどの自然の脅威。性的で悪魔的な、仄暗い、野蛮な感情と行動支配する世界。そこで男は、彼女の秘密を次々と知ることになる。ついには、子どもに対しても虐待をしていたことも露見。女の独占欲が過ぎた結果、男の足をナットとボルトで固定する様子は、凄惨と呼ぶしかない。さらに女は、衝動にかられて自らの性器にハサミを入れる。そしてその血で血を見る行為の果てに、男は女を殺害し、小屋ごと燃やしてしまう。最後まで救いがない。まさに「アンチクライスト」な世界観だ。

あらすじを説明したところで、この映画の価値に響かないだろう。何故ならば、「衝動」を描くうえで大切なのは、ストーリーだけではないからだ。

セックスシーンで流れる女性ソプラノは、ヘンデルのオペラ『リナルド』から「私を泣かせてください」。この印象的なアリアは日本でも人気だが、その内容はひどく宗教的である。中世の11世紀エルサレム、十字軍の時代が舞台。「イスラム側の魔法使い」に囚われた女性が、敵軍の王に求愛される場面で、愛するリナルドへの貞節を想い「こんなひどい運命に、泣かせてください」と歌うアリアだ。個人への貞節だけでなく、改宗についても示唆していることは、察するにあまりある。もちろんこれは、18世紀ヨーロッパの人が考えたファンタジーだ。

しかし、これで「泣かせてください」と訴える対象は、私たちにはいない。「神はいない」以後を生きる私たちにとって、祈りを聞いてくれる主は不在であり、そのソプラノは虚空を切り、赤ん坊は地面にたたきつけられる。冒頭で、性欲という「衝動」に駆られているそのそばで、「神はいない」けれども「泣かせてください」と歌う葛藤がある。

森へ行く前にも、その最中も風の音が流れている。そして印象的な、川の音。ドングリが木々からこぼれ落ちる音。それらは自然の、暗い領域のものである。これが、楽器音とともに、不協和音というハーモニーを生む。

本作において、これらの音は常に「衝動」の暗示である。そして、映画では結果的に、「衝動」をコントロールしようとした者は死を迎える。このことは、実は私たちの世界全体がコントロールできない「衝動」でできていることを示す証だ。

 

エンドロールでは、ロシア生まれの映画監督アンドレイ・タルコフスキーへの献辞が捧げられている。

彼の生涯は「衝動」とともにあった。そして、彼は映画を通して、世界の姿を描いたのだと思う。生まれたロシアを離れなければならない苦しみ、離れても評価されるわけではないという哀しみ。けっきょく人は、わかりあえなさを抱えながら生きているのだ、そんな未知との遭遇が連続する世界を描いた監督のひとりだったはずだ。

ラースは何度かタルコフスキーへの尊敬の念を語っているが、本作において特に「献辞」を入れたのは、「衝動」という世界の端緒を映画で見せてくれたからに他ならない。

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