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イマージュの交響、視覚的主題群の変遷と液状化するフィクションの可能性

 タルコフスキー映画の風景は完結せずに変容を続ける。例えば「鏡」において、森を意識させる冒頭の構図以後、カメラの移動と音の変化が生み出す時間内に、自然のエレメンツは画面に即物的に定着する。水彩で描いたような瑞々しい夕景に照らされた緑色の大地、果てしない田園の広がりのなかで、訪問者が女性に向かって振り返るシークエンスでは、風が大地を撫でるようにそよぎ、森の梢がそこに共鳴する。

 如何なるドラマトゥルギーや演出作法も、タルコフスキー流「イメージの論理」に統べられている。こうした豊穣な詩的イマージュの喚起が、現実と幻想、現在と過去を交錯させる映像話法をクロノジカルに捉え難くさせる一方で、一つ一つのショットや回廊を廻るようなカメラの長回しが、時折、観客に映像の現実味や深い印象として脳裏に焼き付ける。

 彼の映画は物語の意味によって導かれると言うよりも寧ろ、画面を流れゆくイメージの強さ、つまりヴィジュアルな刺激を体感として感じさせることによって支えられている。タルコフスキー独自の時間感覚と造形感覚は観客と映画との世界の融合を促すことはない。しかし液状化し、現実に滲みわたる彼の想像力は、映画が終わり、観客が画面から去った後もその記憶に焼きついて離れない。この時映画館は彼の映画という夢を観るための装置になる。

 そして水・火・土・大気。画面内のあらゆる自然のエレメンツが彼の栄華内における運動性の表現を媒介すると同時に、その視覚的細部の微細な動きの中心でもある。象徴的な夢の映像ータルコフスキーの想像力を媒介する映画というメディア表象ーは、出来事を凌駕するイメージという現実と記憶の狭間で、自分にのみ認識可能な体験を齎らしめ、その感度は誰にとっても特別なものとなる。

 「鏡」はタルコフスキーの私的な経験を基盤にし、美的統一性の犠牲を生みながら歴史的社会的背景までをも包括する広い射程を持つ。これはある意味では家族を巡る物語である。自我の一貫性の欠如を突きつけられる「私」、性欲の発見やアイデンティティの危機に陥った少年の普遍的戸惑い、没交渉となった母。特にイヤリングのエピソードが物語の核心である。「私」の自我の確立と、母との訣別、それぞれの持つ意味が明らかになる。「私」が鏡を見つめると、そこには自分の顔が映っている。こうして「私」は初めて自身を客体として見ることができた。鏡像の「私」が屋外の夕闇の青みを帯びた光に照らされていたのに対して、それを見つめる「私」はランプの暖色光を浴びている。自我の確立という、己を客体として見つつ主体的に解釈していく手段を得て、「私」は少年時代に手を振る。把握している自分とは異なる己の内面を見ることによって、それまでたった一つであった「私」は複数の肖像となる。それ故に存在の孤独も生まれてしまう。

 タルコフスキーの描く人間ドラマは観客に罪と汚れの意識を呼び起こす。離婚や、性行為を連想させる女性役者の運動がある。しかし各登場人物は己の純粋さや愛を見出そうとし、神秘主義的な映像が、得も言われぬ孤独感や生命の始源を、論理を超えた実在性を通して謳う。

 

 「アンチクライスト」は甚だタルコフスキーとは全く異質な疑問を余韻として残す。なぜ物語冒頭と終末部の映像はモノクロームなのか、なぜ妻は狂気に陥らなければならなかったのか、なぜエンドロールでタルコフスキーに献辞を捧げたのか・・・。物語が意味によって導かれるからこそ、例えそこに解答としての解釈があらずとも、私たちは意味について思考することが重要なのかもしれない。

 今作においてラース・フォン・トリアーは、彼の一貫したテーマである過激化された人間の精神世界における葛藤を、反キリスト教的に収斂させた。性行為、生殖という生命の熱烈な営みの最中に、子供という愛の成果を死なせてしまう物語のオープニングシークエンス、性器損傷による肉体に固着した性への抵抗、夫婦の精神的離別、そして殺人。夫婦は心の傷を癒そうと歩み寄るが、次第に内的価値観の崩壊へと至る。タルコフスキーがそうであったように、トリアーもまたキリスト教を思想基盤にした西欧世界の精神的危機を登場人物に纏わせている。「アンチクライスト」における、夫婦の内なる限界との対峙とその行動こそが、閉塞した欧州の空間で、ボーダーを内面から揺さぶり、法と道徳の向こう側への途を示唆することで社会の良識の欺瞞を暴く。「アンチクライスト」の広漠であると同時に限りなく閉塞した、抽象的な空間における精神の牢獄の壁を越えようとする妻の不明瞭な思考と強い存在感、(モノクロームが暗示する)生きていながら失い、どこへも辿り着けないオープニング/ラストシークエンスに訪れる曖昧模糊にして不穏な気配の正体は、精神世界の闇に迷い混んだのは主人公夫妻だけでなく、観客と彼ら/彼女らが依存する西洋先進国のモラルやポリティカルコレクトネス、民主的な共同体の理念といった社会的状況にもまた突き刺さる。ヨーロッパの基盤としての聖書的論理を徹底的に破壊するトリアーの志向性が全面に出た映像は観客を突き放すどころか、寧ろ観客側(現実)に絡まりつき、意識に向かって攻撃を始める。しかし画面の過激な躍動は視覚情報として痛みを伝播させながらも、生命のエネルギーの力強さ、精神の運動をタルコフスキーとは全く異なるベクトルで観客に照射している。「アンチクライスト」でもタルコフスキー映画同様に自然のエレメンツが画面に瑞々しく、そして不安げな広がりを持っている。いつの時代も、作家の想像力は人間の道徳的決断力に寄与してきたように、彼のタルコフスキーへの敬意もまたトリアー自身の流儀によって異化され、21世紀において新たな芸術として黒く輝き続けている。

 

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