梗 概
受刑者404
死刑の代わりに、「存在凍結刑」が導入された世界。
凶悪犯は、その存在を国民の認識から削除される。誰からもその名前や顔、抱いていた感情を思い出されなくなり、自分でさえ自己認識が出来なくなって抜け殻のように強制労働をさせられる。
14歳で殺人犯として「存在凍結」を受けた主人公・サガンは、真犯人の逮捕により冤罪が証明され、例外的に「復活」する。
9年間の服役中に監察官から受けた苛烈な暴行によりボロボロになった体を引きずり帰郷したサガンは、かつての恋人が新しいパートナーと暮らす現実を目の当たりにする。かつての恋人は記憶の復元とともに涙するが、今の生活を選びサガンを退ける。サガンは、自分を孤独に追い込んだ真犯人を憎む。だが真犯人はすでに凍結されており、どうしても名前も顔も思い出せない。覚えているのは、事件現場に5歳ほどの少女がいたことだけだった。
やがてその少女キサトア(14歳)が訪ねてくる。サガンの凍結解除をきっかけに、封じていた凄惨な記憶が揺らぎ、真相を知りたくなったという。二人は当時の調査記録に辿り着き、「×××が孤児院の養父を殺害。居合わせた孤児のキサトアとエーコを保護」という一文を見つける。だが「エーコ」という名は、目を離すと認識から滑り落ちるように消えてしまう。サガンは忘却に抗うため、自らの腕に「エーコ」と刻みつける。断片的な情報と、刻まれた文字に触れサガンを抱きしめたキサトアの温もりから、過去が思い出される。
真実は、こうだった。
エーコは、キサトアの姉だった。そして、姉妹とサガンは、同じ孤児院で育った。孤児院の養父には裏の顔があり、ある夜養父が幼いキサトアに暴力を振おうとしたところを、守る一心でエーコが殺害してしまう。サガンは、エーコを守るために殺人の罪を被って自首したのだった。エーコはサガンを救うため、真犯人は自分だと訴え続けたが、サガンの「存在凍結」実施は決定してしまう。エーコはサガンを忘れないようにするために、存在凍結者の情報を唯一閲覧することができる「監察官」になり、密かに無実の証拠を集め続けていた。そして最新の鑑定で自らの罪を証明し、サガンと代わって「存在凍結」を受けた。
サガンは、国から支払われた冤罪への賠償金のすべてを使って、ダークマーケットで一人の存在凍結者を買いに行く。誰にも気にかけられることがない存在凍結者たちは、監察官たちによって人身売買の恰好の商品にされていたのだ。しかし、サガンが9年間も肉体を売られずにいたのは、監察官になったエーコが虐待狂を演じてサガンを傷つけ、「こいつは売り物にならない」と同僚に言って守っていたからだった。
サガンは、「存在凍結」受刑者のなかからエーコを探そうとするが、その顔を認識することができない。
すでに売り払われてしまったのか、と思ったとき、一人の受刑者の腕に、サガンの名が刻み付けられていることを見つける。
文字数:1194
内容に関するアピール
憎いと思っていた相手が、自分が守ろうとしていた愛する存在であった、という展開を描きたいと考えました。
存在を忘れさせてしまう技術は、科学というよりは魔法のように扱い、巨大な勿忘草が受刑者の存在を忘却させる香りを放つ様子とともに描きます。
「エンタメ」と聞いて、最初に思い浮かんだのは白亜紀末の恐竜人間の物語でしたが、考えていくうちに、人間関係の変化が一番のエンターテイメントなのではないかと思うようになりました。
文字数:204
受刑者404
(梗概から登場人物の名前を変更しました)
一
思い出さなくたってよかったのに。
そんな風に思うことは誰にだってある。恥ずかしい失敗を思い出して、枕に顔をうずめたり、ちょっとしたトラウマを呼び起こされてあわてて大声でかき消したりさ。ただ俺の場合、その恥ずかしい思い出、トラウマ的体験ってのが、そっくりそのまま自分の人生まるごとなんだから、手がつけられない。
忘れたままでよかった。
俺の人生なんか、思い出さなくたってよかったのに。
それが俺がこの世界に復帰してはじめて強く抱いた感情だった。
14歳の夏からつい最近までの9年間、俺は俺という存在を凍結されていた。それは「存在凍結刑」という刑罰を受けた結果だった。少なくとも、連中がいうにはそういうことらしかった。
「つまり、君はこの世界のだれからも忘れられていた、ということです」
固いベッドのうえで俺はその医者のいうことに耳をかたむけていた。
「だれからも、というのは、まさに文字通りだれからも。つまり、佐野穣(さのじょう)くん。君自身さえ、君のことを忘れていたということですよ。ただ、忘れられていた、というのはあくまで結果にすぎません。脳科学的には『順化』とか『ハビチュエーション』というんですがね。どちらかというと、思い返せなくなる、ってイメージに近いですかね。透明人間になるわけじゃないが、その人物に抱いたどんな印象も感情も、よくわかんなくなっちゃうんだ。たとえば、空気の匂いとか、衣服の肌触り、自分自身の唾液の味なんかを、君の脳はいまこの瞬間も認識してはいる。でも、それははっきりと感じることも、覚えておくこともできないでしょう? もしもこの世界のすべてをありありと感じつづけたとしたら、君の脳はたちまちオーバーヒートしてしまうからですよ。ちっぽけな人間の脳は、『これは重要じゃないな』って情報を、あらかじめ無視できるようにできている。『存在凍結刑』は、そんなふうに君を、あらゆる人の脳みそから『こいつは重要じゃないな』って判断されるようにしてしまう処置なんです」
話をきいているうち、からだのあらゆる箇所が痛みはじめた。というより、あらゆる箇所が痛いということに気づきはじめた。しかも、痛みの種類もバラバラで、ズキズキと脈打つように痛むところもあれば、ヒリヒリと焼けるようなところもある。からだじゅうのパーツが別々に喚き散らして、俺は学級崩壊したクラスの担任みたいにそれらを黙らせることができないでいる。はっきりいって、医者の言葉はろくに入ってこなくなっていた。
「具体的には、君のその肺にギッシリつまっていた勿忘草(わすれなぐさ)の花粉が……」
と、いっても聞いていなさそうですね。そうして医者は看護師になにか指示を出し、俺は腕に点滴をうたれた。たぶん鎮静剤のようなものだろう。この痛みだ。そうあってほしい。それにこのノドの奥の強烈な異物感。ついさっきまでなにか太いチューブがつっこまれていたにちがいない。俺は何度もえづいた。はやく鎮静剤がまわってくれ。俺は、また眠りたいんだ。
「すっきりしたら出て行くといい。君は自由になったんです。君はもう『順化』されません。たとえばこの部屋の匂いが、もしも長い旅を経て帰ってくることがあればその瞬間だけは、ありありと感じとられるみたいに。君はそんなふうに、ふたたび、あたりまえに、ありありと感じられながら生きていくんですよ。まあ、シャバに出る者にかけるありがちなセリフで言えば、もう帰ってくんなよ、ってところですね」
ふざけるな。薄れていく意識のなかで俺はそう思った。
俺は無罪だ。
冤罪が証明されたから、こうして復活することになった、そう説明したのはおまえたちだろ? ちょっとは申し訳なさそうにしたらどうなんだ?
……そうして、俺は眠った。このときよりも深く安らかな眠りを、俺はそれ以来体験していない。
二
施設をあとにした俺は、わりあいすぐに絵美のもとをたずねた。
数日のあいだは、自分が佐野穣という人間だってことさえしっくりこなくて、佐野穣、佐野穣、ジョウ、じょう、JOEって呪文みたいに唱えたり書いたりして、腹落ちさせるまでに時間を費やしていた。が、なんとか俺が俺だと思えるくらいに回復して、そこでふと頭に浮かんだのが絵美だった。
絵美は俺の恋人だ。
いまの連絡先がわからないので、俺は来る日も中学校のまわりや公園や、絵美と過ごした覚えのある場所を思い出しながらぶらぶらした。絵美はクラスのなかで別段目立った存在でもなければ、勉強だとか運動だとかなにか秀でた一点があるわけでもなかった。でも、絵美だけが、いつも必ず俺に教科書を見せてくれた。優しい女の子だった。
電車賃は障碍者手帳をみせるとタダになった。俺の左脚は、服役中に壊れたみたいだ。あまりはっきりと思い出せないが、ハードに肉体労働をさせられていたし、忌々しい監視官に面白半分にいたぶられたりしていたから、そのせいだと思うが、ともかく。
絵美は「バーナーズ」という喫茶店で働いていた。
ある日の夜、路面に面したバーナーズの窓越しに、テーブルを拭く絵美を見つけた。
すっかり変わっているかもと思っていたが、顔を一目みるだけですぐにわかった。たんに写真を引き伸ばしたみたいに、すこし背が高くなっただけに見えた。窓をノックしようと足を踏み出すと、絵美がテーブルの拭き掃除をやめて、からだをおこした。絵美のお腹は大きかった。店の奥から男がやってきた。男は絵美になにか言って、その手からダスターをひきとり掃除をかわった。言葉は聞こえなかったが、二人がかわしたまなざしはとても自然で、あたたかかった。
俺は思い出した。あの男は、喫茶バーナーズの新人店員で、むかし絵美にちょっかいをかけてきた、いけすかない男だった。俺は奴を呼びだすと気のすむまで殴り、絵美に近づくなといいふくめて、二度とバーナーズには行かなかった。彼は、店長にでもなったのだろうか。さっきまできれいにしていた座席に腰かけた絵美は安心した様子で、大きなお腹をいたわっている。男もそのとなりにやってきて、絵美のお腹に触れた。
俺は行くあてをなくしてしまった。
どうがんばって思い出しても俺は天涯孤独で、親も兄弟もいなければ、絵美のほかにろくに思いあたる友達もいない。育った孤児院も、事件をきっかけにつぶれたらしい。
だれを恨めばいいんだろう?
俺は帰りの電車には乗らず、ひたすら歩いた。
左脚をひきずって、延々と歩いた。
売店で酒を買ってみた。店員はなにもいわずに酒をよこした。俺はいつのまにかもう23歳なのだ。夜中の神社では学生たちが笑ったり小突きあったりしていた。その笑いは俺がなくした9年間のすがたに見えた。まあ、14歳になるまでろくな友達もつくれなかった人間が、そのあとも普通に生きたからって笑えやしなかったかもしれないが。酒は不味かった。それに、一度にあおると、首元のあたりがびしゃびしゃに濡れるのが気になった。喉に小さな穴が開いているみたいだ。そこから酒が漏っている。俺のからだには、植物のツタがのたくったあとがそこかしこにある。不便だ。酒は、路地裏で寝ていた右手と右脚のない男にやった。物乞いになった傷痍軍人たちは、9年前と変わらずそこらにいた。その帰還兵はアコーディオンを抱いていて、片手でどうやって演奏するのか気になったが、別に知ろうとは思わなかった。
総じて、思い出さなくてよかった。忘れたままでよかった。
いっそ本当に人でも殺して、また凍結されてみようか。
殺すならやっぱり、絵美の旦那かな。
まあでも、結局いいやつそうだったしな。なんか、恨むほどでもないっていうか、恨むだけのエネルギーが湧いてこねえよ、ほんと。
俺は立ち止まった。
恨むべき人間を見つけたのだ。
真犯人だ。
思えば当然だった。俺が冤罪をこうむり、存在凍結刑を受けるきっかけとなった殺人事件には、真犯人がいる。俺はそいつになにもかもを奪われたのだ。どうしていまのいままで思いいたらなかったんだろう。もしかするとそれこそが、存在凍結の力なのだろうか。真犯人が捕まって、俺が釈放されたということは、そいつは俺と入れ替わるようにしていま存在凍結刑を受けているはずだ。だが、俺はそいつを知っている。間違いなく。だって俺は、その事件に立ち会っていたのだから。殺された被害者の、血を、虚ろな目を、思い出した。目撃していた。殺されたのは、俺を育ててくれた孤児院の寮父だった。
憎しみがたちあがるのを感じた。俺から家族同然の存在を奪い、陥れた真犯人。俺はこいつを、憎むことができる。それから、殺すことだってできる。そう思った。
存在凍結に処された受刑者は、ダークマーケットで売買されている。そのときは俺自身、なにも理解できていなかったけれど、おなじ受刑者が消えることはよくあった。存在凍結を受けていたころの記憶は、とりとめもなく散らばってしまっている。だがきっとなんの理解もせずに脳が頭に見たものや聞こえたものを放り込んでいただけで、いまの頭で根気よく焦点を絞っていくように思い返していけば、断片的に意味をもって思い出すことができる。受刑者が消えるのは、いつだって監視官が「ゲスト」を呼んだあとだった。きっと金持ちのゲストを招いて受刑者を売っては、監視員が懐に金を入れていたに違いない。それならば。真犯人のやつを俺が買えばいい。買ってこの手で殺すのだ。俺はいつのまにか笑っていた。暗い感情を杖にすれば、壊れた脚でも立って歩くことができた。
空は白んでいた。
俺は結局、歩きどおしでアパートにたどりついた。
ここまでずっと真犯人のことを思い出そうとしていたが、ついになにもわからなかった。顔も、名前も、なにかずっとつかめそうでいて、必ずすりぬけていってしまう。
俺は階段をのぼった。ここは国にあてがわれた、出所後の身寄りがない人間たちの仮住まいだが、とにかくボロい。それに、脚の悪い人間に4階の部屋をわりあてるなんてどうかしてる。やっとの思いで404号室にたどりつくと、扉の前にひとりの女の子がいた。両ひざを抱え座りこんで眠っていた。チョコレートみたいな色の髪がジーンズのひざにかかっていた。
「おい、危ないよ」
こんなところで寝ていたら。ここにはいらだった人間や絶望した人間もいるんだ。そう言いかけて、それじゃ自己紹介じゃないかと思った。ともかく。
女の子のまぶたが開いた。
三
彼女は、希咲(きさ)と名乗った。
「それで私、パパと縁切っちゃったから。しばらくこの部屋に住もうかなって思ってるんだよね」
「この部屋って、この部屋?」
「それ以外ないじゃん」
「俺の部屋なんだけど」
「俺のって、国のでしょ? 税金で建ってるんでしょ。別に出てけって言ってるんじゃないんだから。スペースをわければいいじゃん」
「あのさあ、オマエいくつだよ。税金払ってないだろ」
「14歳。消費税払ってる」
「バカ」
「バカじゃない」
「そもそも、国のアパートに勝手に居住者が増えていいわけないだろ。バレるって」
そういう問題じゃないだろ。そもそもこいつは何者なんだ。希咲の勢いに飲まれて、はじめに問うべき疑問が棚上げになっていた。
「つまんないこというのやめてよ。ここにたどりつくまでだってけっこうパワーつかったんだからさ、佐野穣氏」
そうだ。こいつ、なんで俺の名前や居場所を知っているんだ?
「おとなりの山井さん。けっこうヤバい前科者なの、知ってた? そういう人って、居場所が公開されてるんだよね。GPS。このあたりのそういう人たちのアパートに順番にアタックして、やっと見つけたんだよ。苦労したぁ。てか山井さん、喋ってみたらめちゃくちゃ普通の優しいおじさんなんだよね。それがあんな犯罪するなんて、世の中怖いよね」
俺は頭を抱えた。また、「バカ」と言った。バカ、バカバカバカ、バーカ! 口をついて出た。
「はあ? なんなの? むかつくんだけど」
「自分でなにしてるか理解してんのかよ。お前なんか、ぱっと見ただけでわかるよ。縁切ったかなんか知らないけど、お前には家族がいて、ちゃんと愛されてて、身なりもきれいにできるように育ったんだろ。わざわざエサぶらさげて、自分を危険にさらすような真似すんなよ。淋しい奴からしたら、そんなの、壊してみたくてたまんないんだよ。バカガモがバカネギかついで歩いてんじゃねえよ、バカ」
「……」
「……」
「……バカじゃないし」
希咲は父親の話をはじめた。
とはいえ話は、希咲が自分の父親が血のつながった父親ではないことに気づくまでの物語だった。希咲の育ての父親は、植物学者だった。
「ねえパパ。ちょっといい?」
白髪の乾博士は、顕微鏡の接眼レンズから目をはなし、希咲のほうへ向きなおった。
「私って、人が殺されるのを見たことがあるの?」
「だれがそんなことを言ったんだい?」
「何日か前から、変なイメージが頭からはなれなくなったの。血と、虚ろな目と。最初はただの夢だと思った。でも、頭に浮かぶたびに現実感が増していく気がして」
「それは変なことじゃないよ。人間の脳は、おなじ情報を何度も思い描くことで、それを強固なものとして記憶していく。それが現実のことであろうと、なかろうとね。そのうち、妄想も本当の記憶と区別がなくなるくらいありありと感じられてしまうんだ。きみの年齢なら、残酷なビジョンを想像してしまうことは珍しくもないはずだ」
「これは想像じゃないよ」
「そう思うだけさ」
「パパの研究が関係しているんでしょ? その花が、私になにか機能してる」
希咲は、作業机のうえに置かれたうすい青色の花びらを1枚、つまんだ。飾り気のない小さな野花だが、その色の淡さだけはなににも似ていない。勿忘草だ。
「この花で、パパが私に昔のことを忘れさせたんじゃない?」
乾博士は深いため息をついて、言った。
「これはそれほど便利なものじゃないよ、希咲。これにできるのはただ、特定のだれかを思い出せなくすることだけなんだ。特殊なやり方で種を人間に植えると、勿忘草はその肉を苗床にして成長する。成長の過程で、宿主の細胞膜を溶かし、DNAを転写して吸い上げていくんだ。そして宿主の情報を花粉につめて、放出する。すると、そこここに植えられている勿忘草のレセプタが反応して、おなじ情報をもつ花粉を複製するんだ。そうして花粉にのせられた宿主のDNAは連鎖的に国中に拡散していく。すると、人々は知らず知らずのうちに、息をするたびに宿主の情報とふれることになる。人々の脳は、この種の勿忘草に寄生された人間のことを、空気の匂いや衣服の肌触りや、唾液の味とおなじように、背景化してしまう。どんな花壇にだって、小さな青い花が咲いているのは、このしくみのためなんだ」
「パパがその花をつくったの?」
「まさか」
希咲は、乾博士の話を聞いてなお、やはりこの花が自分に作用している、と確信していた。
「この花をつくった人たちのことは、だれも知らない。たぶんきっと、つくったあとで最初に、自分たちの存在を消してしまったんだ。だけど、ぼくもこの年だから、どうしてこの花がつくられたのか、その理由はわかる」
「どうして?」
「戦争の傷を忘れるためさ。あの戦争では、あまりにも人が死にすぎた。およそ310万人。ぼくらは、統計上の死者数を数学的に認識することができる。でも、実際にその数字ほど悲しみにくれて生きてはいない。すべては死者の遺体を一部でも持ち帰り、そこに種を植え、静かに水をやりつづけた人々の努力の結果なんだ」
「それって悲しい話よね」
「ああ」
しばし沈黙があった。
「パパは、私の本当のパパじゃないんだね」
「……」
「きっとその花粉は、止めることもできるんでしょ? 私、5歳より前を覚えてないことなんて、普通だって思って気にもとめなかった。でも、急に記憶のフタが開いたの。私はその事件以前は、まったく別のくらしをしていた、って感じる。それから、血と、目のイメージの奥に、だれかがいる気がする。だれかが、凍結された世界から帰ってきた。だから私の頭のフタが開いた。そうなんでしょ?」
「……どうしても、ぼくがお父さんじゃいやかい?」
「いやじゃないけど、お父さんではないじゃない」
乾博士が苦笑した。
「そうか。まあ、そうだね」
「つか、お母さんいないの変だって思ってたし。パパ独身だし。無理あるでしょ」
「きみはいつでも元も子もないな」
◇ ◇ ◇
9年前に発生した孤児院寮父殺害事件で、加害者として存在凍結刑を科されていた佐野穣(さの・じょう)氏(23)に対し、最高裁判所は昨日までに無罪を言い渡す判決を確定させた。科学鑑定の進歩により、当時の証拠物件から受刑者とは異なる第三者のDNA型が検出されたためである。殺人などの重大事件で冤罪が認められた例は、戦後を通じてもきわめてまれである。
◇ ◇ ◇
「やっぱり思った通り、最近放出がとまった遺伝情報があるってパパは教えてくれた。でも、いくら探してもあてはまるニュースはこの短い記事だけだった」
希咲は新聞の切り抜きを握りしめて、俺にきいた。
「教えて。私はどこで生まれたの? 私の本当の家族はどこにいるの?」
俺は頭のなかをひっかきまわし、必死で答えを探した。
「ごめん。俺の答えは、たぶん気にくわないと思う。たしかに思い出したよ。お前は、あの日あの事件にいあわせていた。ちっちゃな子どもがいたんだ。あの子が、希咲だったんだ。でも、だとすると、十中八九お前も俺とおなじ、孤児院で育った子どもだ。事件の日にいたってこと以外、俺に子どものころの希咲について思いあたる記憶もない。たぶん、どこかからひろわれたばかりの孤児だったんじゃないか。それも珍しいことじゃないが、だとすれば希咲は、天涯孤独だ。本当の家族は、もういない」
「じゃあ、希咲って名前はだれがつけたの」
「さあ。寮父なんじゃないか。俺たちは寮父を父さんと呼んでいたし、事実、とても立派な人だった。もう、殺されてしまったけど」
希咲は泣いた。あまりにもしずかに涙をこぼすので、俺のほうがこの部屋の雑音であるような気がして、音をたてないように部屋を出た。そこらを歩いた。また階段に苦労して404号室に戻ると、希咲は勝手に布団を広げて眠っていたので、俺は畳で寝た。
四
希咲と俺は、孤児院だった場所をたずねることにした。
もちろんすでにつぶれていることは知っていたが、ほかに行くあてもなかった。
そもそもくわしい住所をつきとめることができず、いくつかの記事やおぼろげな記憶で地図上にあたりをつけた場所をただ順々に見てまわった。だが、正解の場所は、近くのバス停へ降りた瞬間に俺も希咲もなんとなくわかった。そこでは元の孤児院の面影を残す廃墟が、だらだらと取り壊されはじめていた。俺と希咲は、工事の作業員が引き上げたら廃墟に入ろうと決めた。喫茶バーナーズが近かったので、そこで時間をつぶした。かつての俺の行動範囲は、じつに狭かったみたいだ。絵美は何度か俺たちのテーブルの横を通り過ぎたが、俺に気づくことはなかった。
夕方になると、もう解体作業は切り上げられていた。俺がすぐにオレンジ色の立ち入り禁止フェンスを越えていこうとすると、希咲が立ち止まった。希咲は、パイロンのわきにかがんだ。そこには、小さな石のプレートがたてられていて、いくつかの花束や缶の飲み物が手向けられていた。プレートには、「クワジマヨシユキさん、安らかにお眠りください」と書かれていた。俺たちの父さんへむけたかんたんな慰霊碑だ。希咲は熱心に手をあわせていた。俺も横に続きたかったが、なんとなくからだが動かず、その場に立ち止まったままだった。たぶん、うらやましかったんだと思う。9年間忘れられていた俺とちがって、父さんは記憶され続けてきたんだ。花束のみずみずしさは、その差異を強調していた。
「おお、びっくりした。なんだ。お嬢ちゃん、供養かい? 珍しいなあ」
背後で、中年の男が希咲に話しかけるのがきこえた。彼が父さんの碑をたてたのだろうか。
「はい。私は小さかったのであまり覚えていないんですけど、たぶん名付け親なんで」
「そうか、そうか。クワジマさんはとても立派な人だったんだ。もともと名のある学者だったんだが、すっぱりと学界を退かれてからは教育に打ち込まれた方でね。あんな凄惨な最期を迎えるなんて、本当にいたましいことだ」
「おじさん、事件のことを知っているんですか?」
「ん? まあ、そりゃあそうだ。いまとなってはむかしのことだけどね。このごろ急に、無性に気になってなぁ」
「おじさん、よく聞いて。じゃあ、真犯人が捕まったことも知ってる?」
「んん?」
希咲は、あわただしい手つきでリュックから新聞記事のファイルをとりだし、男に見せた。俺は半分だけ振り返って、そのやりとりを横目で見ていた。
「……そうか、犯人が違ったのか。そうか。真犯人が捕まったんだな、それはよかった」
「ええ」
男は、両目に涙を溜めた。
「よかったなあ。クワジマさんを殺した人間が捕まったのなら、本当によかった。やっぱり、隠し事はできないようにできてるんだなあ。その女、そうとう泡を食っただろうな。9年間も雲隠れして、逃げおおせたと思っただろうが。クワジマさんは、女の逆恨みで殺めていいようなお人じゃないんだ」
俺は振り返って男を殴った。
「穣! なにしてんの!」
希咲がさけんだ。しかしかまわず男の胸ぐらをつかんで上体を起こさせると、もう一度顔面を殴りつけた。理由はなかった。男が、真犯人を罵ることがなぜだか無性に癪にさわった。それだけに駆り立てられていた。しかし、希咲がとめるのをふりはらって3発目をたたき込んだとき、俺を突き動かした根本的な違和感に気づいた。
「お前、なんで真犯人が女だと思うんだ?」
男が口をおさえる手から血が漏れている。口の中を切ったらしい。俺は髪をつかんで俺と男とひたいをくっつけ、目を逸らさせずにいった。
「真犯人はいま、だれにも認識できないはずだ。なんで女だと思うんだ?」
男が歯ぎしりをして、お前が、とつぶやいた。なんだって?
お前が、佐野穣か。
男が持っていた手提げ袋を俺の左脚に打ちつけた。なにか硬く重たいものが入っていたらしく、俺は苦痛に手をゆるめてしまった。男が全力でもんどりうち、俺に肘鉄を食らわせながら俺から抜け出した。一瞬のうちにいろいろな場所に目線をやると、男は一目散に逃げだした。俺は左脚が動かない。奴を逃がしてはいけない、全身がそう言っていた。
ガス、と鈍い音がした。希咲が、「クワジマヨシユキさん、」のプレートを引き抜いて、男の後頭部をなぐっていた。
殺してないだろうな?
五
男が持っていたドリルで開けたのは、孤児院の基礎からわずかにのぞいていた隙間にあった、地下室ともいえない、床下収納のようなスペースだった。そこには乱暴にモルタルが注ぎこまれて固まっていて、開けさせるまでにすっかりあたりは真っ暗になった。
モルタルの下に隠された空間には、小さな木箱があった。
「これを埋めたのはお前か?」
「お、俺は埋めただけだ。クワジマさんが殺されたってきいて、とにかく、すぐに隠さなきゃって」
「帰れ」
「はい?」
「帰れ。ドリルは置いていけ」
「はい」
男は去った。
俺は、木箱を開けた。何枚ものポラロイド写真が入っていた。孤児院にいた女の子たちの写真だ。「希咲は見るな」といった。よくわからない写真も多いが、裏面には丁寧に名前と日付が書かれている。日付は何年にもわたっている。俺がいたころの日付があるものには、覚えがある名前もいくつかあった。俺は泣いていた。吐き気が止まらない。
俺が父さんと呼んでいた男は、悪魔だった。
「俺が凍結刑から目を覚ましたとき、医者は、こんな風に説明したんだ。長い旅から帰ってくると、自分の家の匂いに気がつくものだって。順化していてわからなくなった匂いに、わずかな時間だけ気づけるんだって。……ひどい匂いだ。俺が生まれてから、これはずっとあったんだ」
希咲は、俺が強く握りしめている指を一本ずつはがして、写真の束をひったくり、ガシャガシャとめくった。
ガシャガシャ、ガシャガシャ。
「見た。私も見たよ」
「……」
「だから穣、これから穣がしなきゃならないのは、」
「……」
「このなかから探すこと、そうでしょ」
俺は、写真をすべて裏返しにして、一枚ずつ名前を見た。名前を見たら、目を瞑った。目や鼻からあふれる体液が邪魔で仕方なく、何度も拭った。名前を見て、目を瞑る。それを繰り返した。
「Eiko Tokita」
目を瞑る。そして、いま見た名前を思い浮かべる。
消えた。
目を開けて、もう一度その名前を見る。
「Eiko Tokita」
エイコ・トキタ。栄子・時田? 時田栄子。栄子。栄子。目を瞑る。
その名前を思い浮かべる。
頭のなかで、像を結ぼうと意識する。あとほんの少しで、ピントが合いそうなのに、
消えた。
「これだ」
希咲に、その名前を指さして見せた。
「ときた・えいこ……」
俺は、近くに転がっていたモルタルの破片を右手で掴んで、左腕に突き立てた。
「穣?」
血が噴き出した。切っ先が鈍くて、肉が擦りきれる激痛が走る。
痛みで憶えなければ。からだに憶えさせなければ、頭のなかで消えてしまう。
俺はモルタルの破片で腕を引き切って、文字を刻みつけた。
頭のなかで、消えていく文字列を一文字ずつ、強引に手元に引き戻しながら。こぼれていく砂を、手や脚や口をなんでも使って一粒でも多く留めようとするみたいに、文字を刻んだ。希咲が、はおっていたカーディガンを俺の腕に巻いて、血があふれてくるのにかまわず布地の上から押さえつけた。血が止まって、カーディガンをめくると、腕に刻まれた文字はひどく線がガタガタで、バランスもグチャグチャで、辛うじてこう読めた。
「Echo」
希咲が少しだけ笑った。
「これじゃ、エコーだよ。バカ」
希咲が俺にキスをした。
驚いて俺は希咲を見た。
希咲は唇を離して言った。
「息、しないで。私たちのまわり。この国中。どこにいても、勿忘草の花粉が舞ってる。だから、息をしないで、集中して」
俺は希咲の目を見た。その奥に、なにかが見えそうだ。
「ひとつだけ思い出した。私の名前、本当は時田希咲っていうの。その人は、たぶん私のお姉ちゃん」
「たぶん、俺にとっても兄弟みたいなやつだったと思うよ」
「うん」
「絶対」
「キスすると、人間は相手のDNAを憶えてしまうんだって」
「本当に?」
希咲はうなずいた。
俺たちはもう一度キスをした。
キスすると、人間は相手のDNAを憶えてしまうんだって。
だから、息をしないで集中して。私のDNAを憶えて。このDNAの半分は、私たちが求める人のものだから。息をしないで。頭のなかで何度も描いて。私は忘れてしまうから、私の唾液の味を憶えて。きみのは私が憶えておくから。
言葉にしなくても、希咲の声は頭のなかにエコーみたいに響いた。
六
「どうしたんですか。シャバに出たらもう帰ってくるなよ、ってはっきり言いませんでしたっけ?」
かつて俺の存在凍結を解いた医者のもとを、俺はふたたびたずねていた。
「受刑者を買いたい」
「買いたい? 人間は売り物ではありませんよ」
「どの口が言ってんだよ。お前なんだろ。監視官どもとグルになって金稼ぎしてたのは。臓器でも取り出す役目なのか?」
「まさか。そんな雑用は下の連中にやらせますよ」
俺は病室の椅子に深く腰掛けた。ここに来るまでも、ずいぶん賄賂に金を食われてしまった。
「俺の父さんは……クワジマヨシユキは、クズだった。クズって言葉も足りないくらいに。9年前の晩、クワジマは、5歳の希咲に手をつけようとしたんだ。それであいつは、妹を守るためにクワジマを殺してしまった。もののはずみの事故だったはずだ。でも、あいつがナイフで突き刺した背中の傷口からは、たくさんの血が出た。クワジマの目は虚ろになった。俺はそれをたまたま、向かいの窓から見てた。俺はすぐにあいつからナイフを奪って、そのまま警察に行った。なにを聞かれても、ひとつしか答えなかった。俺がやった」
「さっきから、あいつ、あいつ、って言ってますけど、だれなんですか? どれかわからなきゃ、売れるものだって売れやしませんよ。君もいい年齢だし、ためしに売店でタバコを注文してごらんなさい。番号を言えっていわれるはずですよ」
俺は左腕を見た。そして言った。
……エコー。
ぶふっ、と医者が吹き出した。エコー、エコーですか。それ、ほんとにタバコの名前じゃないですか。それはうちではとりあつかっていないなあ。
俺はそれから、さらに目線を落として、俺の左脚を見た。左脚に触れた。
「いいからさっさと売り物を見せろよ。てめえがそそのかしたんだろ。新しい科学検査の方法ができた、とかなんとか言って。おれが一生凍結されてればよかったのに。てめえの口車に乗せられて、あいつは自首してしまった。俺の左脚を壊した監視官。そいつが俺が欲しい真犯人だ」
この国で、受刑者同士を除いて、存在凍結刑を科せられた受刑者の顔と名前を憶えておけるほとんど唯一の職業。それが受刑者たちの監視官だ。目の前の医者も同様のアレルギー薬を服用しているのかもしれないが、ともかく。あいつは事件のあとしばらくして、監視官になったはずだ。俺は希咲と孤児院の廃墟から去ったあと、受刑中の断片的な記憶をひとつずつ検品していった。するとどうしても、俺を執拗にいたぶり、傷つけ、この脚を破壊したはずの監視員のすがたかたちだけが思い出せなかった。痛みははっきりと脳の古層に刻まれていたのに。たぶんあいつは、虐待趣味を演じて俺を傷物にすることで、商品価値をなくさせていたんだろう。若い男でゲストに買われていかなかったのは、俺だけだった。
「言っておきますが、私にもどれがどれだかわかりませんからね。私が憶えておく必要はありませんし。まあ、ヒントを出すとするならば、彼女はなかなか美人だったような気がしますがね。私の日記を見る限り、どうせなら、得意先のゲストたちを招いてオークション形式にしようかなんて考えていたみたいですから。ただ、うっかりもう売ってしまっていたらすみませんね。存在凍結された若い女はとにかく人気が高くて。なにせ、1日もすればすっかりどんな具合だったか忘れてしまうんで、飽きってものと無縁だ。とにかく、一番そそる女を選べばそれが大正解、かもしれませんね」
地下へむかうあいだ、医者の無駄話は無駄に続いた。黙らせる必要もなかったので、言わせておいた。悪の密度にあてられた哀れなやつだ。
地下の工場には、予想以上の人数の受刑者たちがひしめいていた。
どいつもこいつも、からだのあちこちから勿忘草の葉と花を生やしていた。不思議な感覚だった。男も女も、若い者も老いた者も大勢いるはずなのに、人いきれの存在感がまるでない。受刑者たちをかきわけて進むけれど、視界をはずれたそばから印象が消えていって、いったい全体で何人くらいいるのか見当がつけられない。ただたしかなのは、それだけ多くの人間が、だれかを忘れたいと願ったということだ。
あいつを見つけられるかどうかは、純粋な賭けだった。
それも普通に考えれば、ほとんど目のないギャンブルだった。
医者が大笑いする声が地下に響いた。
「ちょっとちょっと、気づいてないんですかね? さっきから同じところをグルグルまわってますよ! ああ、よくできたコントだ!」
俺は、あああっと叫んだ。その声も地下工場に反響した。
受刑者たちがいっせいに俺を見た。穴みたいな目が並んでる。俺もこんな顔をしてたっていうのか。俺は―。左脚がふいに刺すように痛んだ。俺はひざをついて倒れた。足元は、勿忘草の青い花びらが何重にも折り重なって、やけに滑る。
「もう決めてくださいね。次のゲストの時間ですから」
倒れ込んだ俺が視線を上げると、ひとりの受刑者が俺に手を伸ばした。
自我をなくしても、他人に手を差し伸べることができるのだろうか。
俺はその手をとった。そして、その腕を見た。袖口からなにかがのぞいていることに気がついて、あわててその受刑者の袖をめくった。
その腕には、アルファベットで三文字、深い傷がつけられていた。
「JOE」
その瞳を見た。希咲にそっくりだった。
胸元から、氷みたいな色の花がのぞいていた。
俺はそいつの手を引いていき、ポケットから封筒を取り出して、医者に投げつけた。
国から受け取った賠償金の残りすべてだ。
地上には、希咲と乾博士が待っている。乾博士には、こいつの勿忘草を取り除く方法を見つけてもらわなくては。あの医者にできたのだから、乾博士にできないはずはない。それまでほんのすこしのあいだ、やすらかに凍っていればいい。俺はいつでも待っていられる。なぜならこいつは、文字通り空気みたいに、そこかしこに存在しているのだから。だけどそいつの目にはやっぱりなんの表情もなく、口のはしからは透明な唾液の線が垂れていた。
俺がずっと凍ってまんまでいればそれでよかったのに。わざわざ無駄にするようなことしやがって。
そもそも、監視官になるなんて、そんな無駄なことしなくてよかったんだ。俺が思うに、こいつはとびきり頭がよくて、機転もきいて、なんにでもなれたすばらしい人間なのだ。俺なんか放っておいて、好きなように生きてくれればよかった。
それを、こいつは。
思い出さなくたってよかったのに。
忘れたままでよかった。
俺の人生のことなんか、思い出さなくたってよかったのに。
それが俺がこの世界に復帰してふたたび強く抱いた感情だった。
終
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