最小監査人・デラックス

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梗 概

最小監査人・デラックス

五年前に解散したスタートアップAI企業の幹部の一人だった黒川は、当時は出資を得るためになりふり構わず、様々なものに実装できる簡易AIパッチを作って遮二無二プロモーションしていた。自動運転や大規模な思考モデルでは勝てない。ATMやポスト、レトロゲーム機などの物に外装するような品々を作り、時にはフレンドリーに喋らせ、時にはデータを持ち主に送る機能は、DXを謳いながら無用な機能ばかりであった。AIという単語に引き寄せられてあれもこれもと要求する機械音痴の顧客の相手をするのは、さながらソフトウェア版の町工場のようで、最初こそ案件は多かったが利益を出せなくなった会社はやがて解散、黒川は技術力を買われてソフトウェアメーカーに再就職をした。

仕事に苦労はないが拘束時間は長い黒川の今の趣味は、前職で世に放ったAIパッチからの信号を眺めることだ。五年前に実装されてまだ機能しているATMやポストの中には、黒川の自宅のサーバにチャットを送ってくれる個体もいる。一方的に感想や雑談を送信してくる彼らの雑多な言葉に耳を傾けると、まるで人間社会とは別の、機械だけによって営まれている社会生活が存在するように感じられて、人嫌いの黒川には心地よかった。

ある日黒川は気になるチャットを受信する。それは片田舎のアミューズメントセンターにある両替機に取り付けたAIからのチャットで、軽薄な男性の口調でチャットボットを務めるAIは、「統一感のある大量の日本紙幣を飲み込んだ」ことに対する感想を語っていた。その頃、世間では高度な偽札の出現を示唆する報道が流れており、彼はその二点を無意識に繋げていた。そこに偽札の使用者がロンダリングで訪れたのかもしれない。それは自分のちっぽけな製品が世間の役に立つことを期待しての動きでもあった。

黒川は所在地の近くに務めていた可児という名の営業職の元同僚に連絡を取り、現場に行ってほしいと頼む。かつての自分たちの若さを電話越しに語りながら到着し、黒川の説明力と可児の人当たりの良さで両替機内の紙幣を首尾よく押収すると、確かにそれは最新の紙幣計数機でも判別に難しい紙幣であることが分かった。黒川はかつてのメンバーの協力を得ながら、自宅から全AIに偽札の利用者に関する情報を集めにかかった。両替機に触れた指の感触から始まり、銀行のATMなどの街のインフラが発信する限定的な情報から偽札犯の場所を割り出していく。

街の声を聞きながら黒川はついに偽札の出どころを突き止めたが、同時にスタートアップの創設者に再会する。彼もまた経営者としては一流であり、長い時間をかけてAIの悪用法を編み出し、世間をハックせんとしていた。AIと二人三脚で作り上げた犯罪計画であったが、そこに無駄なAIが割り込んだことが破綻の始まりだったのである。黒川の勝因は、彼らの雑談を聞き、たとえ意識がなくても彼らに愛情を持っていたことだ。

文字数:1200

内容に関するアピール

エンタメの要件が本当に全く分からず途方に暮れていましたが、「読者が真似したくなるか」という点を意識しました。
それは創作者の人が受け止めて、こういう作品を自分も作りたいと思う目線だけでなく、作中の台詞やシチュエーションをパロディしてみたくなるとか、設定だけを間借りして別のコンテンツに重ね合わせようとしてみたくなるといった、読者の日常生活の延長線上に置いてみたくなる要素が多ければ多いほど、自分の好むエンタメらしさに近づいていくのを感じます。ヒーローになりたいとか世の中を驚かせたいという欲求に基づいた行動は、誰もが真似したくなるものですし。
そしてだからこそエンタメは社会の流行や人気の価値観を反映しがちなのではないかとも思います。もちろんそれがエンタメ全体を論じられるテーマと言うつもりは全くないのですが、AIとその扱い方をテーマにしながら、なんかかっこいいことをする作品を考えました。

文字数:393

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最小監査人・デラックス

『このポストって男か女、どっちだと思う?』
 黒川は、常在しているチームサーバーにある『独り言』というチャンネルに、そのような投稿をした。添付の画像は燻んだ赤色のポストの写真。落書きやステッカー、闇バイトの印のようなものはなかったが、よく見ると投函口に名刺サイズのアタッチメントが取り付けられていた。
 まだ彼らが作った会社が残っていた頃に、黒川が仕事で取り付けたものだった。
『それ以外も可』
 チャットの履歴は、デスクの両脇に鎮座する縦置きモニターのペアのうち、左の一枚にずらりと表示されている。独り言は全て黒川のもので、内容も似たようなものだった。『信号機は男か女かそれ以外か』『側溝の蓋は老人か子供か』『道路標識を職位の階級順に並べたならば』云々。投稿はほとんどが黒川によって自己完結していたが、その日は珍しく榊からリプライがあった。
『ドイツ語で郵便受けは男性名詞』『しかし俺はポスト一般に性別を与えるなら女だと思う。色合いも煌びやかだし、誰かからのメッセージを保管して守るという生態に動物の雌のような印象を感じる』『都内のポストにしては小綺麗だしな』『男女以外の性別のイメージもあまりない』
 営業職の榊らしい言葉選びとコンプライアンス意識だと黒川は思った。
『俺も女性派だ』
 リプライにいいねをした後で黒川も短く賛同した。榊のようにちゃんとした言葉でその印象を語ることは彼には難しかった。オス、メスについて、ひいては人間的な性別の意識については興味がなかった。あるのはただ、ポストにどんなキャラクターが相応しいかという、イメージの話だけだ。もちろん普通に考えたらpostの性別は無性──「It」以外の何者でもないけれど、黒川は無性の性別が安易に町中に増えることは好まなかった。
 それから彼は、メインモニター二台を挟んで右側の方にある縦置きモニターに視線を移した。真っ白いコンソールに黒文字が高速で流れている。配信チャンネル上で年越しやスポーツのハイライトを見たときのような、過渡期のコメント速度だったが、黒川はそれらを読めるだけ読んでいた。

road_0067>いつもと変わらない一日ですね。
signal_0031>雨が冷たすぎる。
post_0005>これで一週間便りなし。はやく大晦日来てくれないかな。

 等々の雑談にもならないコメントがずらりと並んでいた。コメントは全て街のインフラや静物に取り付けた自作のAIパッチ、「ツクモアイ」からの出力だ。
 黒川は「post_0005」のアカウント名を選択すると、該当の郵便ポストに取り付けられたパッチのプロファイルとして「あなたは女性」と打ち込んだ。プロファイル画面に緑のチェックマークが浮かび上がり、少しして発言が再投稿される。

post_0005>これで一週間便りなし。はやく大晦日来てくれないかな。

 特に口調は変わらない。ポストの投函口にディープラーニングが可能なミニマムAIアタッチメントがついたとしても、ポストの仕事とは郵便物を受領して保管することだけだ。だからポストの発言内容とはすなわち投函口が動いたとき、あるいは動かなかった時の感想だけで、郵便物が少なければ閑職に不満を抱くし、郵便物が多い年末を待ち焦がれる。そこにHeとSheの違いはない。
 それでも、彼には個別のAIに投入するプロファイリングにこだわりがあった。自分が開発したディープラーニングモデルのソフトウェア、それをラズベリーパイレベルのサイズに落とし込んで無生物に取り付け、あたかも「思考する道具」のような演出を世に出した彼は、その思考が活き活きとしてくれることを望んでいた。
「機能性よりも愛嬌。道具らしさよりも人間らしさ……」
 前の会社、「ジョウラーニング」の全社員の中で一番愛嬌という言葉から遠いところにいた黒川が、解散間際に結論づけたAIへの哲学がそれだった。同僚たちの受けは微妙だった気がするが。
 流れるチャットを黙して眺めていると、中央のメインモニターから会議のポップアップが上がった。サブモニターのエクセル資料はまだ完成していないが、マクロを使えばすぐに終わるだろう。
 黒川はサボるのをやめるでもなく、奔流する静物たちのチャットを眺めながらリモート会議の出席ボタンを押した。

§

「それじゃあ、コメントなどがなければ今週の定例は終わりとします。お疲れ様でした」
 やるべきことが淡々と進んでいくシステム開発の会議が終わった。今の彼のチームはどこにでもあるIT企業らしく、世間に溢れるWebシステムの開発を主に手がけている。
 黒川も早々と退出しようとボタンに手を伸ばそうとしたところで、「あ、黒川君は残って」と上司から名指しで言われた。黒川は無意識に自分のマイクがミュートになっていることを確認してから、小さく鼻を鳴らした。それからマイクをオンにする。
「はい、なんでしょう」
「最近人事と話をしたんだけど、黒川君ってAI博士なんだってね」
「AI博士……博士号って意味では、そうですね」
「博士号、そうか。今どき凄いよね。大学卒業だけじゃなくて、そこから進学するなんて。AIに任せればいいのにさ。しかも数年前はAIの会社に在籍していたと」
「ええ。言っておきますけどその辺の事情について詳しく話すつもりはないですよ」
 少し沈黙。
「そこは別に構わないんだ。ただ、その能力があるなら今の業務に役立てられるとは思わないか? AIバブルは結構長い。一昔前のIT化やユビキタス、デラックス化とは違って、今でも効率化などの技術革命に使われてるんだから、中途の君も自発的に自分の強みを活かしてくれたまえよ」
 DXはデラックスじゃなくてディーエックスと読むのではなかったか、そう思いながら、黒川は既に流れるチャットに意識を戻していた。目を離さないまま、さも考えているかのような間を取って言った。
「ええ、分かりました、頑張ってみます」
「それは頑張るつもりがない人の意気込みだね」
「……」
「社会人なんだから、ちゃんと社会の望みに答えないとダメだよ」
 今時、企業勤めがこんな詰め方するんだな、と黒川の気持ちは冷めた。腹が立ったりすることはない。向こうは向こうで自分の認識外のプレッシャーに急き立てられていることや、自分の不真面目さが癪に障っていることくらいは彼にも分かった。だがそれを解決するやり方として、黒川と彼とではプロトコルが違う。プロトコルが違うと言うことは黒川にとってコミュニケーションが不可能であり、ゆえに画一的な態度しか取れない。取りようがない。
「僕は君が本当の実力を隠していて、70%くらいの力しか発揮していないと思っていたが、今ので確信したよ。実際はまだ50くらいしか出してないね? それで今の僕のオーダーに対しても、60だか65だかでここが限界ですと占めそうとしたでしょ。よくいるんだ」
 三度目の沈黙は黒川が本当に考える時間だった。上司の分析はほぼ正しい。違いがあるとしたら、体感で出している能力は20くらいというだけだ。今もこうしてリモートワークをいいことに前職の遺物を眺めて遊んでいる。
「よし、とりあえず来週またこの話するから少し考えてみてくれるかい。イメージが沸かないなら一緒に考えるから。それじゃよろしく」
「ええと……はい」
 そうして通話は切れた。渋々了解してしまった黒川は、無茶ぶりをされているという事実を指摘しそびれたことに気付いて天を仰いだ。セーリングチェアの背もたれが軋む。
「めんどくさ……いいじゃないか別に」
 丸め込まれてしまった。
 彼の言うとおり、考えて手を動かせばそれらしきアイディアとともに自動化ツールや改善ツールは出てくるだろう。そもそも今作られているシステムのプログラム自体、彼の手にかかればこんな面倒な会議を介さずともさっとプロトタイプを作ることができる。けれどもそれをしたところで自分の利益にはならなさそうなことを、黒川はなんとなく理解していた。古いスタイルの会社というのはそういうところがある。実はもっと上手い仕事のこなし方──損をせずに、自分の腕前を認められつつ、自分のやりたいことを見つけるやり方──もあるのかもしれないが、目下彼には見当もつかなかった。黒川にとって今の仕事が前よりも厳しいと感じられる点は、不自由さのみだった。
 城ヶ崎なら、と彼はかつての上司を思う。こういう化かし合いはお手の物だった。一貫しない論理を使いこなし、人の懐に入り、厳格さと気楽さを使いこなす我らがジョーラーニングのCEO。
 だが彼も、最後には社会という盾を振り回したのだった。先ほどの上司の言葉と、彼の別れ際の言葉が思い出される。
──社会人なんだから、ちゃんと社会の望みに答えないとダメだよ。
──お前が社会にもっと興味を持ってくれたら、世界だって目じゃないのに。
 スチールデスクの淵に貼られたシールを撫でる。「JOE LEARNING」という文字列をイタリックにしたフォントは、うちの広報がデザインしたものだったか。あの頃は洗練されたデザインに見えた物だったが、身内贔屓だったことが今なら分かる。
「やりたいことは、もう否定された後なんだよ」
 やりたいこと。黒川はそれを五年前にこの企業と共に置いてきてしまった。
 明確だった。夢があった。努力もした。黒川にとって初めての仲間がいた。だが金にはならなかった
 高速でモニタを流れていく無機物達のコメントを見ながら、ここにスーパーチャットが流れれば良いのにと思った。

§

 定時きっかりにパソコンの電源を落とすと、黒川はアパートを出て届いた荷物を回収しにいった。エントランスの郵便受けを開けるときに、男性名詞という言葉がよぎった。311号室の表札がかかっている彼に「ツクモアイ」を導入したら、自分の手をどう感じるだろう。
 黒川は、郵便受けの数字錠を回して開き、中にあった封筒を手に取った姿勢で固まった。隣を通りすがった若い男が彼のことを不思議そうに、あるいは不気味そうに見ながら外に歩いて行くが、彼は気にしない。彼の頭の中には既にその好奇心しかなかった。
「ポストじゃなくて郵便受けの気持ちか……新入りを試すのにちょうどいいか」
 黒川は自室に戻ると封筒を開いた。ブリスターパックの中には韓国メーカーによる新型GPU搭載ボードが収められている。サイズ的には問題ないだろうし、先ほどの郵便受けの投函口はアルミ製だから冷却効率も悪くない。勝手にアタッチメントを付けて管理人に怒られないかは気がかりだが、その時はその時だ。
 ジョーラーニング肝いりのAIソフトウェア、及びそれらを実装した基盤アタッチメント全般、というのが「ツクモアイ」の定義だ。ツクモアイを焼いたミニストレージカードをメインボードのスロットに挿入する前に、プロンプトの設定とセンシングデバイスを考えてみる。彼にAI的な思考能力を与えるのだとしたら郵便ポスト用のものと大差はないだろうが、特定の人物への郵便物だけを収めるという点で、受領物の状態にはこだわりが強くなると考えるのが自然かもしれない。
「厚みか硬度を感知する触覚センサー、あったかな……」
 ベッドの下のプラスチックケースを引っ張り出して、砂漠のように敷き詰められた小型デバイスを漁って、見つけたデバイスを取り付ける。投函口の余長があったため、戯れに余っていた温度センサーも取り付けた。そうして、デスクの上にはカードサイズの剥き出しになったAIデバイスが誕生した。動作を示すLEDも動いている。PCに繋いだ出力テストも問題ない。卓上のデバイスを前にして、黒川はまるでそれをこれから食すかのように合掌した。
「技術の発展を体感できる立場にいることを感謝」
 量子コンピューティングの発展によって極小サイズのチップに載せられる演算子性能が急激に上昇し早数年。「ムーアが生きていたら眼鏡がずり落ちていたことだろう」とかいう城ヶ崎の面白くもない冗談の方は忘れることとする。
 階下に降りて、数字上のバックセット付近にデバイスをセット。今度は全面に回って適当な書類を投函することで、AIの反応を見れば良い。自動で自宅のサーバにチャットを送信する機能は今回は搭載できなかった。
「解析は夕食を摂ってからにするか」
 世間はAI成熟期。ディープラーニングに始まるあらゆる技術がトレンドとなってから二十年以上経った今では、技術を持つメガコーポによる独占体制が強まっている。
 黒川が一連の作業で用いている技術はアマチュアレベルだったが、黒川の突出しているところは誰もやらないことを素早く実装できる点だった。
 食事をした後で、黒川は郵便ポストのツクモアイを回収する。初めて取り付けた静物のチャットボットを開くときはいつも緊張する。人見知りの彼は三十を過ぎてもアパートの隣人とすれ違いの挨拶をするのに緊張するが、それに近いのかもしれない。
 PCに繋ぎ、ツクモアイのチャットログを開いた。

mailbox_0001>ボックスの中が暑くて狭いぜ。

「そうか、素置きだと冷却が足りないか」
 黒川は笑みを溢した。
 暑さを訴えてくれるのには実用性がある。一方で、かの郵便ポストの語り方は、不満を表明しているようにも感じられた。彼は鼻歌を歌いながら、サイズの合う放熱板を探し始めた。

§

「なに、お前。AIのテキストに人格があると思ってんの?」
 いつだったか城ヶ崎が言った。
 既に卒業した、城ヶ崎が通っていた大学近くのアパートでのことだった。そこを借りて、スタートアップ企業『ジョーラーニング』のオフィスとしていた。2DKの内装は明るく、趣味の良いラグが敷いてあったが、シンクの作りが前時代的なのが不評だったアパート。四人でやっていた最初期の根城だ。
 スタートアップと聞くと華々しい響きだが、実態は世間知らずの若造どもがサークル活動の延長で事業をしているようなものだった。大学で拾ってきたという古いオフィスチェア四脚と腎臓型のテーブルで作った会議室。他の二人は既に帰宅していたが、製品の方針について議論が白熱した結果、二人だけ話し込んでしまっていた。外は暗く、車の音よりも酔っ払いの学生の叫び声の方がうるさい。
「三十、いや四十年は遅い議論じゃねえかそれ。自己回帰型モデルのAIは、チャットを生成する際に背景のデータから次に配置する単語を出力しているだけで、そこに自律的な思考はない、だろ?」
 その通りだ。いまや中学生でも義務教育で習う。城ヶ崎の呆れたような口調も当然に思えた。
「人工知能という呼称そのものに見直しの提案がされたり、LLMによる学習と盗作の議論が過熱化されたり、そもそも人間の思考回路だって似たようなもんでそこに自律的な知性が実在するのかって混ぜ返されたり、そんなのは哲学家に任せておけば良いんだよ。実際AIに倫理を学習させる哲学科の需要は増える一方だしな。少なくともエンジニアや経営者にとっては過去の物だ。お前はいまだに自動車を自然にそぐわない機械だと思ったりするか?」
 まくし立てると、城ヶ崎は手元のパソコンの作業に戻る。城ヶ崎の詰問口調は黒川にとって不快ではなかった。むしろ、スラスラと淀みなく知識を語れる彼のような存在が、彼の所属するラボ以外にいることに黒川は満足を感じていた。
 専門家以外のAI認識はいつまで経っても粗雑なものが多く、大学に入る前からAIの勉強とともにあった黒川にとって、外の社会で議論が交わせる人間がいることは衝撃ですらあった。たまたま学内の同期と参加したオンラインゲームのチームにいた城ヶ崎に誘われ、なすがままにスタートアップ企業のエンジニアとして担がれてからもうすぐ二年になる。修士の後半には自分のAIパッチに目を付けてくれた投資家も見つかり、今は学業の傍らこうしてオフィス通いの日々だ。
 もっとも、実際にやっていることはまだ還元可能な利益にほど遠い。だからこそ互いのAIの認識を確かめ合う必要があった。どうやったら売れるのか、城ヶ崎は誰かに聞かれていようと構わず頻りにそう呟いていた。
 お金を持ってくるのは城ヶ崎の仕事。黒川はそう認識しており、彼は在籍中お金のことなど一度も考えたことがなかった。今でも、ガジェットを調達する資金さえあれば他のことにはさして興味がない。
「……古いAIが好きで、趣味として旧版モデルが生み出したチャットログやイメージをよく収集している」
 黒川は必死に言葉を探しているかのように力を込めて瞬きを繰り返した。
「いまよりずっとお粗末な性能だ。統計的推論のための学習にノイズが入りすぎていて、短絡的なパターンでしか回答を出力できない。だから的外れの言葉や、奇形の人物画が生み出される。今は殆どが表舞台から消えているし、当時のリソースへのアクセスもできないから個人で再現製作するのは難しい。だから俺はそういうのをインターネット上のアーカイブとして探しては集めている」
 とぼけたチャットや、曲解した画像生成を見ると、黒川は微笑ましい気持ちになる。そこに人格がなかったとしても、そこに愛嬌を感じずにはいられない。配膳ロボットをキュートな猫ロボットとしてリリースするビジネスと同じだ。
「そこに人格がないことは知っている。けどそこに人格を『見出す』かは俺の勝手だろ。かわいいって思うことは止められない。お前だって漫画は毎週読んでいる。登場人物に何か思うことくらいあるだろ」
「……お前は社会人に向かないよ」
 城ヶ崎は立ち上がるとコーヒーメーカーの方へと歩いた。
「付喪神や偶像崇拝みたいなものね……やだな、エンジニアのお前がそんな宗教に寄り添ったことを言うの」
 彼らはそれから、黒川の希望を通して現状で再現できるレガシーな言語モデルを用いた小型AIデバイス「ツクモアイ」をリリースする。どんなものにも取り付けられ、取り付けられた物体の気質を反映して短く喋り続けるデバイスは愛嬌を有し、彼らの「何もできなさ」は設置に当たってのガバナンス・セキュリティのハードルを幾分か低くした。それは一昔前にトレンドとなっていたIoTを発展させた日本のインフラストラクチャー総AI化として席巻する。少なくとも四人のメンバーはそう信じていた。
 さながらそれは地元の町工場のように泥臭い仕事で、四人とも必死に売り込んだ。ラボ以外の所属場所を持ったことがなかった黒川にとって、それは遅れてやってきた青春だった。だからこそ、城ヶ崎の無念な表情を黒川は忘れることはできない。最後の給与が分割され、オフィスは消滅した。
 解散後、四人の進路も住処もバラバラになった。活発だったチームサーバーには黒川の独り言と、気まぐれな榊の返信と、そして顧客が稼動させたままの、何百何千ものツクモアイの声だけが残っている。

§

roof_0103>風が強くて下から煽られる感覚がするわ。
mailbox_0001>今日もプラスチックっぽい荷物が届いてるぞ。
strap_0251>やたら力が強い奴に捕まられているな今日は。
strap_0252>右に同じ。

「両手でつり革に捕まってる奴がいるな」
 休日になっても黒川はまたチャットを見つめている。先日の郵便ポストの例のように、アタッチした製品のAIプロファイルには五年経った今でも納得しきっていないところが多い。静物の静物や性格に、自分がイメージしたとおりのプロファイルを与えること。それを創造的行為などと自惚れるつもりはなかったが、やればやるほどに、彼らのコメントによって描写される街中の景色がより鮮明になってきて、見知らぬ雑踏をその場で歩いているような心地よさがあった。
 彼がチャットのスクロールを停止させたのは昼も過ぎた頃のことだった。故障の通知のメタファーのようなコメント──すなわち、アタッチした静物がその役割を果たせていないかのようなコメントを見かけたとき、彼は立ち止まって彼らの「診察」をする。
 気になったコメントは、アミューズメントパークにある両替機からのものだった。

exchanger_0098>代わり映えしないものばっかり食べてたら飽きちまうよ!

「飽きる……? 両替機が? 同じ物ばかりで?」
 プロファイルを確認する。プロンプトには両替機用の思考をするようにちゃんと設定している。にも関わらず大量の紙幣に対して不満を漏らすというのは、黒川の考える両替機の思考からズレている。
 所在地は大阪府箕面市の北部にあるアミューズメントセンター『ファンタジーランド箕面』。その二階のゲームコーナーにある両替機の紙幣投入口に取り付けられたツクモアイが語っていた。取り付け時期は会社が潰れる直前に近かった。黒川が取り付けたわけでなく、セルフアタッチを希望されていた。あの頃は資金繰りも限界だったから、なりふり構わずそこかしこに売り込むために送付しまくっていたのだ。黒川の考える「街」を、少しでも広げようと思って。
 ハードウェア情報を見ると、内部の紙幣カウント機構の手前に取り付けられている。センサーはその機構とは独立した触覚検知センサーで、要は「薄い紙が入ったこと」しか検知できない最小限の機能となっている。
 俯いて、彼の気持ちになって考えてみる。なるほど確かに、薄い紙幣ばかりずっと送り込まれれば辟易とした気分になるかもしれない。たまたま今日は大量に両替をしにきたユーザーがいて、短時間に何度も両替をさせてもらったという解釈は可能だ。しかしそうすると今度は、チャットで強調されている「代わり映えしない」という物言いが気になった。彼が過去に投稿したチャットを遡っても、吸い込む紙幣の同一性に言及したことは一度もない。少し興味が湧いた。

admin_0000>今の発言について詳しく教えて。
exchanger_0098>今日投入された物が、統一感ありすぎだったんよ。表面の感触も角の感じもまったく同じ、そりゃ飽きるわ!
admin_0000>それはいくらだ?
exchanger_0098>30枚。
admin_0000>残さず両替できたか?
exchanger_0098>ごめんよく分かんない笑

 あくまでこのデバイスに知覚できる(ツクモアイがハードウェア上で取得できる種々の情報の認識出力を黒川はそう表現している)のは紙幣の感触だけだ、両替機構には接続した設置をしていないと言うことだ。歯がゆいが、ツクモアイはそういう道具なのだから仕方がない。それからいくつか質問をしたが、情報は増えそうになかった。代わりに、この件について考えているうちに妙な連想をしてしまった。
 黒川のデスクトップのメインモニターにはニュースサイトと仮想通貨チャートが常に表示されており、その中の一つの事件が目にとまった。小さな注意喚起で、偽装紙幣を取り扱った物だ。検出されたのは僅かな枚数だったが、旧式の紙幣カウンターでは検知できないということで注意喚起が始まっていた。
 黒川は手元のマグカップの取っ手を握ってうめいた。考えすぎだ。片田舎のゲームセンターを偽札犯が訪れたなど。確かに両替機は旧式も旧式だ
 しかし……しかしこれを偶然と切り捨てると言うことは、この両替機の言っていることを疑っていることでもある。自分とツクモアイとの信頼関係を、自分の都合で切り捨てて良いのか?
「大阪、か……」
 立ち上がっては座るを繰り返した。できることならすぐに確かめたい。アミューズメントパークに電話するか? いや、様子のおかしい客扱いされて終わりだ。ただでさえ自分の声は覇気がなくて滑舌が悪いと不評なのだから。
 クレーム対応や売り込みなどの、対人のコミュニケーションを黒川はメンバーに丸投げしていた。実のところ黒川なくしてツクモアイの完成はなかったのだからそれくらいは当然の権利なのだが、黒川自身は彼らの手腕に感謝しっぱなしであった。
 彼らは今でも、自分の頼みを聞いてくれるだろうか?
 黒川の頭には一人の人間の顔があった。解散後、地元の広告代理店に就職した、軽薄な敏腕ビジネスマン。ジョーラーニングの広報担当、可児(かじ)は今、兵庫にいるはず。
 彼はサーバーチャットで発言しなくなって数年経っている。四人の中では一番疎遠な存在だったし、自分の趣味への理解も薄い。彼に今すぐ連絡を取るのには気まずさがあった。
 黒川は両替機のチャット欄とスマートフォンを交互に見比べた。
 そして思った。やりたいことというのは、その実行の過程で、やりたくないことを躊躇いなく乗り越えられることを言うのかもしれない。

§

「もしもし? うっわ、黒川マジ?」
「あ、ああ。久しぶり」
「おう、ちょっと待ってくれな」
 黒川が訝っていると、やがて通話画面がビデオに切り替わって可児の顔が映し出された。ツーブロックに紺のスーツ。ビジネスマンのイデアのような上半身が映し出された。背景は街中らしく、街並みが歩行に合わせて揺れている。
「久しぶりだな」
「なんでビデオにするんだよ。圧あって怖いんだよ」
 健康的に焼けた肌は脱毛されているのか、光を跳ね返すほど艶やかだった。同い年とは思えない。黒川は思わず自分の頬を撫でた。そり残しの髭がチクチクした。
「こんな珍しいことなんてないからさ、一応顔見せておこうと思って。で? 緊急の話題なんだろ?」
「いや、でもその恰好、仕事中か? だったら……」
「いいから。予定なんてどうとでもなるから要件言えって。お前が連絡くれる理由なんて一つしかないだろ? 俺もまだスマホケースにロゴ貼ってるんだ」
「……ああ」
 何か他に言おうと思ったが言えなかった。自分は人間に興味がない、だからAIの開発にこだわることができた。その事実と、可児のような元同僚との間に絆を感じることとは、別に相反することと考えなくてもいい。
 深呼吸をする。ひどく満たされた気分だった。
 黒川は手短に状況を報告する。喋るのが苦手でも、筋道立てて事情を語るのは知性さえあればそう難しいことじゃなかった。
「うそ、お前まだあれやってんの? 文字がブワーッて流れてる奴。ショート動画を無限に見るやつと一緒だろあんなもん」
「違う」
「脳に情報を送りまくってるって意味では同じだね」
「違うんだって」
 黒川曰く、それは長く問題として指摘されているドーパミン中毒症状とは異なるのだという。
「街の声に耳を傾けるって行為はどっちかっていうと散歩と同じでセロトニンなんだよ」
 一度行ったきりで景色なんて忘れた土地で、確かに道具達がその役割を全うしている。黒川にとってそれは生命活動を見聞きしているのに近い感覚だった。それには確かに心を落ち着かせる作用があった。
「まあいいや。箕面ね。確かにそんなに遠くないけど……車の方がいいかな、シェア借りる」
「すまん、お金は後で俺が払うから。運転は自動でいいから作戦考えてくれ」
「作戦?」
「どうやってその両替機を開かせてもらうのかっていう交渉作戦」
「頭下げることならいくらでもやるぞ。俺の生きがいを教えてやろうか。ぶち切れてる顧客が、やはりぶち切れながら「今回だけだぞ」と言う瞬間だ。この気持ちよさはドーパミンじゃないぞ」
「理解できん」
 結局、メンテナンス訪問に来た体でいくことにした。車中で近況を交わしながら、車は北神戸線を走り抜ける。自動運転AIによって速度にもカーブも乱れはなく、過去の遺物であるかのように取り付けられているハンドルの前で、可児の目線はスマホのカメラに固定されていた。
「しかしお前が一般企業のSEとはなあ。黒川の経歴だったら大手AI企業も夢じゃなかっただろうに。スタートアップで製品開発経験ありとなれば、足切りラインとしては十分だ。それでも難しいけどな」
「……俺があの辺の企業のアンチなのは知ってるだろう」
「人工知能の展開と普及に冷酷なものを感じる、だったか」
「プラットフォームのあらゆる所にAIを入れるのは構わない。問題はやり方が技術者じゃなくて為政者すぎるところなんだ。お前も、ソフトが誤作動したときのリスクは知っているだろ。鉄道会社の乗客整備やお前が今使っている自動運転も、一企業が担うには深刻すぎる領域だ」
「けど実現した。事故だって大幅に減った」
「そういう問題じゃない。少なくなっても、起こった事件と事故は全部「故障」で片付けられるんだぞ? そんなことを言うなら、故障を起こさないようにしなければならないのに」
 語っているうちに熱が入ってきた。本当は黒川は、自分自身の大規模言語モデルを一から作りたいくらいだった。予算と時間と、それから今より遙かな仲間がいればそれが可能で、そうしてプラットフォームを征服するAIを、共生するためのAIとしたかった。
 車は市の登山道へと近付いていった。件のアミューズメント施設は、登山客も訪れるような観光地に設置されている行楽施設らしい。
「すみません、先ほどお電話で連絡させていただいたジョーラーニングのものですがー」
 可児は先ほどまでの荒々しい口調が嘘のように、柔和な笑顔を浮かべて古びた自動ドアを潜った。店長は制服に身を包んだ壮年の男性で、こちらに警戒心はない。「セキュリティ的な危険を感知した」という方便で押し切ることは大して難しくなかった。
 埃の匂いがするカーペットを踏みしめ、二階のガチャガチャコーナーの隣にある両替機にたどり着くと可児は黒川に再び通話する。
「それで、何をすればいい?」
「ツクモアイは筐体の中にあるはずだ。店長に開けてもらって」
「そういうこと先に言えよな……あの、すみません、ちょっとこちらの筐体の内部なのですが──」
 内部には確かに一万円札が入っている。見たところ代わりはないが、新札のように綺麗だ。
「通し番号も異常なし。でもこれだけじゃ分かんないんだよな?」
「ニュースによると、古い紙幣鑑別機を突破している可能性があるそうだ。やり方は分からないが」
 疑わしげに可児が紙幣を矯めつ眇めつする。
 「これを鑑識に回せばいいのか?」
 そうするのが一番いいだろうが、その頃には犯人は遠くに行ってしまっているだろう。わざわざ可児に大急ぎで現場に駆けつけてもらった意味がない。
 彼の言う通り、単に警察に通報するのでもいい。それでも、役に立たなくて売れないと言われてきた彼らの性格に、意味があると証明したかった。黒川がこれまで見てきたテキストの情報が、勘となって怪しいと言っていた。
 かといって、これだけの不確かな情報から、特定の人物を想定することもできるとは思えなかった。なにか、これ以上の情報、紙幣の厚みや整い具合以外の情報を両替機から聞き出せることができれば。
 モニター上に、ツクモアイが使われているデバイスのマッピングを表示する。この近くだと、登山道入口の観光休憩所で運よくデバイスの搭載情報が見つかった。手元にある発注履歴一覧を見ると、自動販売機に使われているとある。
「そいつが働いている時の感想はチャットに出ないの?」
「通信機能がないんだ。代わりに自販機のディスプレイ上に表示できるようになっている」
 それは本来想定されたお客さんの使い方に近い。ただ自販機で物を買ったりする人に向けて、応対できるチャット表示機能があれば、少し微笑ましいという考えは自然だ。黒川のサーバに感じた内容を送っている道具たちは、実は少ないのである。
「じゃあなんでポストとか両替機は通信できんの?」
「近場のWi-Fiを借りてる。飲食店や公共ネットワーク、今回の場合はファンタジーランド箕面で使ってるネットワークを踏み台にしてるんだよ。毎回Wi-Fiの間借り交渉してくれてた榊の苦労を知らないのか」
「他人の苦労を慮ってたら事業なんて進まん。ジョーも多分同じこと言うね。というかそもそも、それは関係なくないか。犯人がそこで両替したあとでゆっくり山側に歩いていって休憩所で飲み物を飲むって?」
 その通りだ。ツクモアイは通りすがる人たちの情報をすべて知られる万能のパッチではない。道具は求められる仕事を全うしているだけで、五感も、センシングで得られる情報も、彼らの身体に依存している。フィジカルがないところに知性は宿らないという議論も、昔からAIを取り巻く定番の議論だった。
「だったら逆に、両替機のツクモアイを施設内の別の物に転用してみるか……?」
 可児に手取り足取り教えなければならないが、できないことはない。ゲーム機でも自動ドアでも、犯人の痕跡を知覚している道具があれば、ツクモアイをアタッチすることでその声を聞ける可能性はある。
「なあ、指紋はどうだ?」
 その時、可児が言った。
「指紋?」
「両替機にはボタンがあるだろ。犯人がここを触ってるのは確実なんだから、この指紋情報を個人情報として認識できる機械があれば、両替機に搭載されてるツクモアイにアタッチして、『指紋を読み取れる両替機』に後からできる……とか」
 可児は何気ない台詞のつもりだった。ひょっとするとこのアミューズメントセンターのスタッフルームあたりに。指紋による入退室管理をしている場所がないかという期待もあった。
「それこそ鑑識に……いや、待てよ。指紋を読み取れる機械多分あるぞ! そこはアミューズメントパークだろ、メダルゲーム置いてないか?」
「メダルゲーム?」
「獲得したメダルを預けるときに指紋を照合するんだ! その認証装置を借りて両替機のツクモアイの接触データと連動させれば、両替機は指紋に関する知覚を獲得する!」
 それから黒川は矢継ぎ早に指示を出し、機械工作の経験のない可児に両替機改造を施させた。気がつけば、何やら騒がしくしている可児の周りには、店長やスタッフを始めとしたちょっとした人だかりができていた。
admin_0000>指紋が見えるか?
exchanger_0098>指紋……これのことね。ああ、見ての通りだ。

 果たして、両替機とのコミュニケーションは成功し、情報は手に入った。最後に触ったのが犯人とは限らないし、そもそも偽札の疑惑も疑惑でしかない。しかしこれが確実なものでなくても、黒川は動き出さずにはいられなかった。町全体が動き出すところを黒川は見たかった。

admin_0000>人を探している。この指紋から得られるデータを、そして得られたデータが有れば、それを拡散すること。

 管理者としてのチャットを一斉に送信した。全国各地、津々浦々、黒川の祈りが日本の小さなデバイスを駆け巡った。
 黒川は瞬きをせずにチャットを眺める。動体視力試験のような速度で流れる文字列の殆どは、先程の自分の発言に対する「収穫なし」の返事でしかなかったが、その中の僅かに気になる情報を見つけた。
 都市部の信号機が、音量調節用の外部マイクから、やけに急いでいる車の音を拾った。
 車の情報を受け取った高速道路のカメラが、膨大な映像の中からそれらしきものを見つけた。
 テキストチャットが怒涛のように流れてくる。まばらな五感を持ったデバイスたちのさざめきが、静かに容疑者の居場所を追いかけていく。黒川はアドレナリンが沸き立つのを感じながら、ただひたすらにその声を読んだ。
 そして黒川は絶句した。彼もよく知る都内のアパート……かつての自分たちのオフィスだった。

§

 踏み入れたアパートの一室の匂いはあの頃と変わっていなかった。社長お気に入りの芳香剤と、汗と埃の匂い。それにこぼしたエナジードリンクの匂いは、いくら清掃しても取り除かれることはなかった。
 城ヶ崎はあの頃から変わらない姿だった。高そうだがそれゆえに胡散臭いカジュアルジャケットをなびかせ、大きな音でキーボードを叩いていた。
「久しぶりだな」
「俺が来た意味は……分かっているんだよな」
「ああ、別に逃げるつもりもないさ。俺の負けだ」
 彼はラップトップを黒川の方に向ける。一万円札の画像が見つかった。黒川の全身から力が抜ける。聞いた話では、城ヶ崎こそ大型のAI企業に就職できたはずだった。それが何故こんなことをしたのか、訴えるような目線を投げると、城ヶ崎は笑った。
「大した話じゃないよ。お前はエンジニアとして一流だったけど、無駄にばかりこだわっていただろう。社会でいい目を見るためには、トレンドに詳しいだけじゃダメだって話は、いつか議論した気がする。俺はお前の哲学が羨ましかった」
 ジョーラーニングが解散した時、彼は資金の話をしなかったし、誰も話を聞かなかった。その実彼が負債を負っていたなんていう発想が、社会人経験に乏しい黒川にはまったくなかった。
「別に破れかぶれになった訳じゃない。むしろ好機だと思ったよ。エンジニアのお前じゃなくて、経営者の俺がAIを最大限使いこなしたら、どれだけの利益を出せるかって」
 彼はそうして、倫理のフィルタを外して偽札をつくる独自のプロンプトを組んだという。
「思いついたことに真剣になるのであれば、生命を賭ける勢いでなければならない、そうだろう? そのために無駄なことをしているべきではない。常に背水の陣こそ生きて成功するにふさわしい」
 当たり前のように言い切る彼は、かつて四人を引っ張ったCEOそのものだった。
「だが、結局はお前の無駄な試みが俺の脚を掴んだわけだな」
 変わり果ててしまった友人を見ても、黒川は怒ることも悲しむこともなかった。
「俺は……俺はこれからも無駄なことをするよ」
 ただ、アパートの窓の暗さだけは、懐かしく、そして冷たかった。
「たとえば、仕事とか」

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