宙の厨房、無重力を添えて

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梗 概

宙の厨房、無重力を添えて

球体型ガラスの「皿」で複数の立方体が浮かぶ。

〈野菜とチーズの賽仕立て〉。飾り包丁の施された野菜とチーズのキューブは、皿を揺らせば転がって様々な面を見せる。審査員から多数の票を得て、制作者のジョルジュは言う。

「無重力下の料理を終わらせに来ました」

憧れの人物の発言に、若手料理人のルカスは衝撃を受ける。

 

宇宙進出時代黎明期、観光客向けに誕生した無重力調理技法〈ゼロ・ジー・ガストロノミー〉は料理ジャンルの一つとして成立。

その腕前を競う大会〈エアロ・テーブル〉が今年も開幕されたが、大会最多の入賞歴を持つ名匠ジョルジュ久々の出場が話題を呼んでいた。

 

本選は前菜・メイン・デザートを一皿ずつ作る1日目と、大皿料理を作る2日目で構成。

前菜とメインの幕間でルカスはジョルジュを問い詰める。彼の作る料理に魅了され宇宙まで来たルカスとしては発言の真意を知りたかったが、吐かせることはできなかった。

「終わらせたくないのなら、止めてみなさい」

返され、ルカスは改めて大会の優勝を目指す。

 

メイン。ジョルジュ作〈王冠風円環ローストビーフ〉が注目を集める。肉の角にジュレを塗布し、輪状に浮遊するように設計した一品だ。

技巧で勝てないなら発想を膨らませ、ジョルジュのような動きのある料理を作らなくては。

そう考えたルカスが提出したのは〈海裂きのブイヤベース〉。球状のスープを割ると、中から二層目のスープと魚介が溢れる。

ルカスにも票が集まり、デザートへ。クリームが舞うジョルジュの〈雪化粧のティラミス〉に対し、ルカスは〈新天体ジャンドゥーヤ〉を披露。ナッツペーストの塊を球状の液体チョコが空中で包む、球体同士の融合を新天体の誕生に例えた。これによりルカスはジョルジュと僅差に迫る。

 

1日目を終え、再びルカスはジョルジュに発言の真意を尋ねる。口を開いた彼は、近年開発が進行している重力制御装置について話し始めた。

宇宙での重力を地球に近づける重力制御装置は、実用化可能なほどに進歩。今後普及していけば無重力で料理をする環境は消える。無重力調理技法も衰退し、料理の数々も残らない。ならば自分が腕を発揮できるうちに今を最盛期として刻み、終わらせたかった。

どうすれば今が無駄でないと彼に伝えられるのか。料理を振り返り、ルカスは答えに辿り着く。

 

2日目。ルカスが用意した、巨大な筒のような大皿料理が一同の目を奪う。

〈鴨と木の実の流動テリーヌ〉。具材ごとに三層に分かれ美麗だが、ルカスは最後の仕上げと皿を高所から緩く投げる。すると層が崩れ、互いに混ざり、模様に変化が起きる。

微弱な推進力で姿と味を変える料理。重力制御装置が実装されてもいきなり地球と同じ重力は再現できない。その微重力環境で生まれる料理は無重力調理技術がなければ作れない。

無重力を否定せず、依存もしない未来の料理。その将来に、ジョルジュは笑みを零す。

彼の憂いを取り払い、ルカスは大会に優勝する。

文字数:1200

内容に関するアピール

見たことのない世界を最大限見せること。それがSFのエンタメ性だと解釈しました。相手が知らないニッチな分野を繰り出すには自分の得意分野を探るべきと考え、今までの手触りから「カルチャーSF」をやることに。

そしてエンタメで盛り上がるのがバトル。その要素を組み込みたいと思い、派手な料理がバンバン飛び出す「料理バトルSF」を選びました。

さて、SFの料理描写で考えていたことがあります。「宇宙船で地球と同じ料理をするには、重力を制御できる前提がないと無理では?」……何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、現段階でも宇宙で料理をする試みはいろいろ行われているようです。重力制御技術が完成する前に人類が宇宙へ進出した際、人は無重力環境で平然と料理を始めるのでは……?

これは無重力が有重力に変わる前の、狭間の時代に言及したSFでもあります。技術の更新で生まれ変わる文化を書きたいと思います。

 

文字数:391

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最後の皿、無重力を添えて

——アストレア社の今回の発表によりますと、新型機器の作動によって得られる疑似重力の発生範囲は約十平方メートルとなり、前回発表から重力の制御範囲は大きく拡張されました。同社は研究を続け、今後三十年以内を目標に、小型宇宙施設への重力制御機能の搭載を目指すとのことです。

それでは、続いてのニュースです。

本日からマルベール国際宇宙ステーションにて、宇宙空間での調理技術を競うコンクール、エアロ・テーブルの本選が開催されます。本選では予選を通過した十人の料理人が集い、二日間に渡ってその実力を示します。

人類の宇宙進出以来、宇宙での調理技術は無重力調理技術〈ゼロ・ジー・ガストロノミー〉として独自の発展を遂げてきました。今回は大会最多の入賞歴を持つ名匠、ジョルジュ・シルヴァンさんの出場が話題を呼んでおり、大会の行方は目が離せないものとなっています——。

 

 

 赤、緑、紫、橙。それぞれの色が散りばめられた四種類の小さなキューブが、球体ガラスの中で浮遊していた。重力に囚われず浮かぶキューブは自然と回転し、美しく仕上げられた表面の数々を見せる。

 エアロ・テーブル本選会場。普段はイベントホールとして使用されている空間には、調理場がいくつも設営されていた。壁面には大窓が取り付けられ、黒い宇宙の景色を壮大に映し出す。

そうした場所から離れた、審査員たちが座る長卓にて。球体ガラス——〈皿〉の提供を終えたジョルジュは、白いコックコートの胸元に結ばれたネクタイへ手を添えた。オールバックに整えられたグレイヘアの頭を上げ、目の前にいる審査員と、その奥に座る大勢の観客に目配せをする。

「名前を付けるならば、〈酢漬け野菜とチーズの賽仕立て〉……どうか、御賞味あれ」

 審査員たちが皿の蓋を開く。小型のトングを片手に、ジョルジュの正面に座る女性が赤のキューブを掴んで回す。側面では、白いチーズと交互に赤い層が織り交ぜられている。年季の入った顔の皺をさらに深くして、彼女はキューブを睨んだ。

「これは……ジュレ状にしたイチゴね。前菜では珍しいから、確信を持てませんでした」

「真っ先にそちらに注目するとは、流石はドロテア審査員長。ちなみに他のキューブを構築している野菜はズッキーニ、ビーツ、ニンジンです。四種四色のキューブが、これからの料理への期待を高める……前菜に適した一皿です」

 トングで再び掴み直して、ドロテアは上からキューブを眺める。箱の天面で、花が咲いていた。ジュレで作られた赤い面へ、薄く切られたイチゴが輪状に載せられ、断面の白がコントラストを生んでいる。

「ところで、あなたのいう賽仕立てとは何なのでしょう?」

「縦に回してみてください」

 ジョルジュの言葉に従い、ドロテアはキューブを回す。裏面を捉えて、目を見張った。

 飾り切りされたイチゴの面はもう一つあった。より細かく切られたイチゴの欠片により、六輪の花が咲いている。

「無重力という環境において、人が最初に発想したのは浮かべるという概念でした。天地はもはや存在しません。本来なら裏面となる部分にも装飾を施すことが可能であり、浮遊や回転による鑑賞をこの皿では実践しました」

 解説を終え、ジョルジュは審査員たちを細い目で見回した。

「そうして体感した無重力の神秘を、さぁ」

 促されるまま、審査員たちはキューブを口に運ぶ。好みの面から齧りついたり、一口で頬張ったり。ドロテアは一輪の花の面をまじまじ見つめ、一息で口へと放り込んだ。

まず口の中で広がったのは、野菜そのものが持つ風味。ドロテアが食したイチゴのキューブでは、甘さを抑えながらも酸味が引き出されていた。酢は野菜全体へ均等に浸透していて、どこか一点に偏っているということがない。驚かされていると、その感情を飲み込むようにまろやかなチーズの味わいが喉へ流れ込む。

「他に質問がなければ、評定に移っていただきたいのですが」

「一つ、いいでしょうか」

 片手を掲げたのはドロテアだった。

「あなたは何故、料理人としてエアロ・テーブルに戻ったのですか? 功績を考えれば、あなたは審査側に回るべき人間のはずです」

「あぁ、それですか。インタビューでも避けてきた話題ですからね。そろそろいいでしょう」

 質問を咀嚼するように何度か頷いてから、ジョルジュは口を開く。

「無重力料理、最後の皿。それを作りに参りました」

 

 ジョルジュの放った一言は設置されたマイクに乗って、会場全体に伝わる。観客席に座る人々が騒ぎ出すのに遅れて、会場後方の調理場で待機する料理人たちもその言葉を聞く。

「最後の皿……?」

 反芻するように、リュカは呟く。店から借りた黒のコックコートに包まれた腕を組み、口許を歪める。短く刈り上げられた金髪の頭を振り上げると、青い瞳でジョルジュの背を見つめた。

 彼に誘われるように宇宙へ飛び出し、そして今は同じ空間にいる。これほど喜ばしいことはないはずだった。

しかし、浮ついてばかりもいられないらしい。

 

 

「引っかかるな、あの言葉」

 後ろに声をかけながら飛ぶように壁を蹴って、リュカは通路を移動する。ここにも大窓が取り付けられていて、外では青い地球がその存在を堂々と誇示している。それを視界の端に置いて、リュカはまた壁を蹴る。無重力を使った水平移動も慣れたものだ。

 ふと、壁の手すりを掴んで静止する。振り返ると、後ろをついてきているはずの助手は遠く離れた場所にいた。リュカと同じ黒のコックコートを着た若い女性が、何度も壁を蹴って近づいてくる。

「ニーナ、まだこの移動に慣れてないの……?」

「ごめんごめん。でも、店でこの長距離を動くことってないでしょ?」

 追いついたニーナが弁明する。一つに結ばれた髪を揺らしながらようやく手すりに掴まると、ゆっくり息を整えた。

「それで……ジョルジュさんの言葉が気になる、って話?」

「うん。できれば、この時間を使って意味を聞き出しておきたくて」

「食材を確認しに行ったんだっけ。ついでに私も、食材の状態を見ておきたいかな」

 二日間に渡って開催されるエアロ・テーブル本選では、一日目と二日目で審査の主旨が異なる。一日目は前菜・メインディッシュ・デザートを一品ずつ作り、単品での完成度を競う。二日目は立食パーティを想定した、取り分ける形での大皿料理を仕上げる。料理ごとに十人の審査員が持ち点を振り分け、総合点によって優勝者を決定する。

 前菜を終え、今はメインディッシュまでのインターバル。ニーナはリュカの顔を見て、思い出したようにぷっと噴き出した。

「誰かさん、ジョルジュさんの前でいいところ見せるんだってあれだけ息巻いてたのに、前菜はほとんど票が集まらなかったなぁ。全部ジョルジュさんに持ってかれちゃって」

「それはいいだろ、全然本領発揮できなかったんだし……ニーナこそ僕に感謝してよ。同期対決で負けたのに、本選に出てるんだから」

「助手として、でしょ? 屈辱でしかないっての。来年こそ私が勝って、出場権を……」

 ニーナの言葉が途切れる。視線が自分の後ろへ飛んでいるのを察して、リュカは振り向いた。

 通路の奥から、ジョルジュが浮かんでこちらに近づいてくる。脇をすり抜けようという軌道に対して、リュカは急いでその前へと飛び出した。

「ジョルジュさん、突然すみません。レストラン・アン・サテリトのリュカ・マチューと申します。こちらは助手のニーナ・ユゴーです」

「君は……さっき、〈ひよこ豆のコインプレート〉を出していたシェフか。すまないね、名前まで覚えていなくて」

「料理だけでも覚えていただけて光栄です。それで、お尋ねしたいことがありまして」

 ニーナへの態度とは対照的な愛想の良さで、リュカは尋ねる。

「さっき言ってた最後の皿ってどういう意味ですか? これを機に引退とか……」

「まさか。引退するとしてもここじゃない。料理人としては今後も厨房に立ち続けるつもりだよ」

「そうですよね! あれを聞いてから僕までハラハラしちゃって。安心しましたよ」

「まぁ、これで身を引いた方がすっきりするのかもしれないね」

 憂いがジョルジュの声に混ざる。笑みを保ったその顔に仄暗い色が入り込むのを、リュカは捉えた。

「私はこれ以上、無重力料理に発展性はないと思っていてね。だからここで、その極致とも呼べる料理を振る舞って、歴史にピリオドを打ちたいと考えている。今後の優勝者が霞むような、最後の皿を」

「すごい宣言ですね。自分が優勝することは想定内みたいに言って」

「皿を見ればわかる。君では私に及ばない」

 決まり切ったことのようにジョルジュは告げる。言葉を受けて、リュカは笑顔のまま奥歯を噛んだ。二人を横から眺めているニーナの顔色がただただ青褪めていく。

「言っておきますけど、僕も本選に出るからには優勝するつもりで来てるんです。あなたが何を作るつもりであっても、ただ指を咥えて見てるわけじゃないですよ」

「そうかい。視線からして、君は私のファンであるように思っていたのだが……その前に、矜持のある料理人だったようだ。だが、手は抜かない」

「当然です」

「では、楽しみにしているよ」

 それだけ言うと、ジョルジュは場を去った。一転して静かになった通路で、ニーナがリュカに詰め寄る。

「何で目を付けられるような真似してんの!? よりにもよってあのジョルジュ・シルヴァン相手に! 無重力調理技術の開拓に長年関わってる人間だって、本当にわかってる?」

「ああまで言われて黙ってられないよ。僕たちなんてまるで眼中にない。だったら目くらい向けさせたいよ」

「だからって……あーもう! そもそも参加制限がないからって、若手もいるような大会にあんなベテランが出てきていいわけないのに……!」

「ねぇニーナ。相談なんだけどさ」

 ニーナの怒気をさらりと受け流して、リュカは口角を上げた。

「オーナーが僕に用意したレシピ、無視してもいい?」

「あんたねぇ……! あのレシピは大会本選に合わせて、オーナーが店の看板を汚さないように考えてくれたものでしょ!? あんたがいつもみたいに暴走して、滅茶苦茶な料理を作らないように!」

「でも予選を突破したのは僕が考えた僕の料理だよ。それにただ上品なだけの料理じゃ、ジョルジュさんの料理には勝てない。少なくとも、今の僕の技術と知識では」

 拳を握り固めると、リュカはそれを胸の前に掲げた。

「だから、創造力でぶっ飛ばす。ジョルジュさんと同じ舞台で競えるなんて、今後一生にあるかないかだ。それに勝った方が、店に箔も付く。そうだよね?」

「今からレシピを変更して、あんたの即興に合わせろって……?」

「即興じゃない。普段から試作して、ここに入ってる」

 とんとん、と人差し指で頭を叩くリュカを、ニーナは苦々しい顔で見つめた。

「幸い、この大会はレシピの事前提出が必要ない。食材を宇宙に輸送する関係上、品質の劣化が起きる可能性も高いし、使用食材やレシピを柔軟に変更してもいいことになってる。大会規約に違反するわけじゃない。こっちが煮詰めたレシピを勝手に捨てるだけであって」

「それが問題だって言ってんの!」

「だったらニーナは、今のレシピで勝てると思う?」

 尋ね返され、ニーナは口を結んだ。リュカの指摘した通り、オーナーが用意したレシピは気品に満ちてはいるものの、目を引くような新しさはない。それではジョルジュの作る料理に圧倒されてしまうのは明らかだった。

「じゃあ決まりだ。早速、食材を見てくるよ」

 沈黙を肯定と解釈したリュカは、床を蹴って宙に浮かんだ。くるりと身体の向きを転換すると、通路の先にある保管庫へと進んでいく。

「何を作ろうかな」

 ふふっ、と不気味な笑い声が漏れ出る。大きなため息を一つ吐いて、ニーナもその後ろへと続く。お目付け役として同行するようにオーナーに言われていたが、止める役目は果たせそうにない。

リュカ・マチュー。レストラン・アン・サテリトが近年雇い、小規模な新人料理コンクールを荒らして回る料理人。

 惑いの彗星。生み出される料理を知る者は、彼をそう呼ぶ。

 

 

 調理場に戻ったリュカは、目を細めてその時を待つ。調理場が並ぶコンクール会場には本選の参加者たちも戻っていたが、大舞台を前にしてどの顔にも緊張が滲み出ていた。

 平然とした顔で調理場に佇むのは、ジョルジュただ一人。助手を一人付けることが許されている今大会でも、彼だけは単騎でこの場に臨んでいる。

 やがて、場内にアナウンスが響いた。

『全食材の解凍を確認。全員の準備が整いました』

 料理人たちが姿勢を正す。リュカも伸びをして、三日月のような微笑を浮かべた。

『第二品目:メインディッシュ、調理開始——!』

「やろう、ニーナ」

「はぁ……了解。今回だけ、わがままに付き合ってあげる」

 一斉に、料理人たちが動き出す。同時に機械音が鳴り、食料解凍庫のロックが外れる。蓋を開き、リュカは急速冷凍から解けたばかりの食材を放り投げた。

 玉ネギ、セロリ、ニンニク、ショウガ。くるくると宙を漂う野菜の群れは、同じく宙へ跳び上がったニーナによってキャッチされた。

「空気洗浄にかけてからフードプロセッサーで粉砕。挽き目は玉ネギから順に……」

「指示されなくてもわかってる!」

 声を飛ばすと、ニーナはそのまま下処理に取りかかった。

 地球の厨房を囲いに例えるなら、宇宙の厨房は壁に例えられる。調理台や各種調理機器を横に並べる都合上、地球では料理人を取り囲むようにそれらを置くが、宇宙では異なる。

調理台を一つだけ前に配置して、調理機器の搭載された機械類は縦に積み上げる。積み木のように組み上げられたそれは本物の壁のようで、点滅するランプがおもちゃらしさを高めていた。

 壁の側面に取り付けられたドライヤーを握り、ニーナは空中に浮遊したまま、野菜の霜や汚れを吹き飛ばしていく。一つ終わるごとに吸引機で汚れを回収。洗浄された野菜のうち、ニンニクとショウガを別々の容器に入れると、ニーナはそれを壁の窪みへ嵌め込んだ。細かな挽き目を設定し、スイッチを入れる。回転音が唸り、プロセッサーが食材を砕く。

「流石、いい動きだね」

「あんたも自分の仕事をする!」

 手際のいいニーナを一瞥してから、リュカも手許に集中する。調理台には同様の洗浄を終えた食材が並ぶ。タラ、エビ、イカ。急速冷凍により宇宙まで運ばれた魚介たちは、どれも高い鮮度を保持している。どれも個別のまな板に、ベルトで巻かれて固定されていた。

「腕の見せどころだ」

 包丁を手に取ると、リュカは調理台から飛び出すように生えたハンドルを掴んだ。無重力で浮き上がる身体を調理台に引き寄せて、抗うように包丁を振り下ろす。

 タラの頭と胴体を絶ち、吸引機で吸いながら鱗を取っていく。まな板を動かしてタラの向きを変えると、刃を素早く魚の内側へと滑り込ませる。内臓を取り除き、背骨に沿って刃を走らせれば、分厚い切り身が空へと浮かび上がった。

 トレイで切り身を受け止め、エビやイカの処理にも取りかかる。エビはワタだけを取って殻つきのまま、イカは捌いて脚だけを。

「それで、あんたの料理に勝つ算段はあるわけ?」

 頭上からニーナの声がした。すべてのフードプロセッサーが轟く中で、リュカは別の調理場にいるジョルジュを遠く眺めた。

 迷いなく、ジョルジュは縦横無尽に厨房を動く。跳び上がって壁の調理機器に触れたかと思えば、次の瞬間には細かな作業に取りかかっている。少しも動きに無駄がない。身体の制御もままならないこの空間で、物理法則すら手駒にして操っているかのように。

「わからない、かな」

「はぁ!?」

「でも、度肝を抜くことはできるよ」

 にやりと笑い、リュカは食料解凍庫に手を突っ込んだ。

 舞い上がるように、みずみずしいトマトが無重力を飛んだ。

 

 

 調理時間の終了を迎え、審査の時間へ。ランダムに振り分けられた順番ごとに、参加者の皿が審査員たちに差し出される。

球体ガラスにはそれぞれの料理が籠められ、提供を持っていた。皿の中で浮かんでいたり、ガラスに張りついていたり、個性豊かな料理がそれぞれの調理台に並ぶ。

 しかし、観客のほとんどの関心はジョルジュの品にしか向いていなかった。順番が巡り、ジョルジュが前へ出る。係員によって皿が配膳されても、ジョルジュが何を作ったのかは判然としなかった。

 皿が、白い靄で満たされていたからだ。

再び審査員長の席に着いたドロテアは、球体ガラスを凝視した。

「これは……湯気ですか」

「その通りでございます」

 ジョルジュがくくっと笑う。重力から解放され、全方向に拡散するようになった湯気が皿の中身を隠しているらしい。

 蓋が開かれる。湯気が晴れていく中、ジョルジュのメインディッシュが姿を現す。香ばしい匂いを浴びて、ドロテアが声を上げた。

「ローストビーフが、浮いている……!」

 焼き色の付いた肉の外周と、鮮やかな赤身。薄く切られた六枚ほどの肉が大輪の花のように輪状に繋がり、皿の中を浮遊している。位置を固定するための一本の凧糸を含めて捉えれば風船のようでもあり、やはり非現実的な光景が展開されていた。

 輪の中心には付け合わせの赤と黄のパプリカ。さらには衛星の軌道のように、若草色のソースが一巡していた。

「〈王冠風円環ローストビーフ〉でございます。紐を切って、御賞味を」

 食器類と一緒に添えられていた鋏で、審査員たちが凧紐を切る。するりと紐は外れ、ローストビーフの花が本当の意味で空中に浮かび始めた。フォークでつつけば勝手にくるくると回り出す。止めなければ永遠に回り続けていそうな、不思議な回転だ。

 それを仕留めるように、フォークで突き刺す。切れ目にナイフを入れれば肉同士は簡単にほどけ、一切れのローストビーフに戻る。どうやら肉を繋いでいたのは表面に塗布された油分のようだ。ピースを失っても、本体はゆっくりと回転を続けている。

 一連を目で楽しんでから、ドロテアはローストビーフを口へ運んだ。咀嚼して噛み締めるごとに、深い旨味が舌の上をうねる。地上で味わうものにも劣らない、むしろ肉から肉汁が落ちないことでその味わいは増しているようにも思える。若草色のソースはサルサだろうか。さっぱりとした酸味が油のくどさを削ぎ落している。

「無重力下での料理、その進歩は地上の調理方法の再現から始まりました。火柱が丸みを帯び、包丁も満足に使えない宇宙空間では、使える調理方法は限定されていました。料理人にとって命ともいえる炎が使い物にならず、絶妙な火加減を要求される技法のほとんどが使えなくなった」

 審査員の全員が肉を口に入れたのを見て、ジョルジュが語り始める。

「でも、そうではないものもあった。その一つがローストビーフ。低温調理でじっくりと熟成させれば、地上にも劣らない品ができる。無重力料理を語るうえで外せないメニューです」

「それがローストビーフを選んだ理由ですか。あなたにしては王道すぎる選択だとは思っていましたが……」

「王道だからこそ、高まる期待に応えられるというものです。誰も、浮かぶローストビーフなど見たことがなかったでしょう?」

 自信に満ちた表情を崩さず、ジョルジュは言った。

彼の言葉に頷いて、ドロテアは考える。彼の作った品で一本取られたのは間違いない。これを超える品が出てきたわけではないし、やはりメインディッシュもジョルジュに票が集まるのだろうか——。

 

「すみません、まだ全員の料理は揃ってないですよね?」

 割って入るように、リュカが声を飛ばす。穏やかながらも、力強く。

「そうですね、次に移りましょうか……シェフ・リュカの皿へ」

「では、お願いします」

 ドロテアの号令でジョルジュの皿が下げられ、リュカの皿が審査員たちの前へ運ばれる。ジョルジュの皿を味わった後で、気の抜けていた審査員もいたらしい。視界に飛び込んできた料理に、悲鳴に近い声が何発か上がった。

「なっ……何ですかこれは!?」

 球体ガラスの内側には、もう一つの球が浮かんでいた。大きくて赤い球体を、濁った膜が包み込んでいる。巨大なイクラのようでもあり、何かの細胞のようでもある。様々な皿を食してきたドロテアであっても、見ただけで正体を把握するのは不可能だった。

「何って、料理ですよ」

 審査員たちの長卓の前にふわりと躍り出て、リュカは笑う。

「これを、どのように食べれば……?」

「警戒しないでください。ナイフとフォークで切ればいいだけですよ」

 審査員たちが顔を見合わせる。全員が互いの顔を見終えて、真っ先にドロテアがナイフを手にした。蓋を開け、浮かぶ球体にナイフを近づけていく。

 意外にも、ナイフは素直に球へと突き刺さった。下へ動かせばさっくりと球は裂け、赤い内側の球にも切れ目が入る。おそるおそる、今度はフォークをそこへ突っ込んだ。

 ぐにゃっと柔らかい感触がして、硬い殻がその身を晒す。

 肝を冷やしたドロテアだったが、冷静になってみるとなんてことはなかった。

 エビだ。

「出てきましたね、エイリアンが」

 堂々と冗談を言ったリュカの傍らで、ニーナだけが苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。ひとしきり瞬きをして、ドロテアはリュカに尋ねる。

「シェフ・リュカ。そろそろ本当に、これが何か教えてください」

「わかりました。これはスープベースの魚介料理……名付けて、〈火星の海裂きブイヤベース〉です」

 リュカの説明を聞きながら、ドロテアはフォークで赤い球体の中身を探った。白身魚やイカの他に、刻まれた野菜が内側から出てくる。球自体は柔らかく、ペーストを固めて作られているようだ。

「スープの土台はトマトと魚介の出汁。水分は抑えて、裏ごししたトマトをペースト状にして使っています。それを具と一緒に煮込んでから、球状にまとめました。無重力の成せる技ですね」

「この半透明の濁った膜は?」

「オリーブオイルにアガー……凝固剤を混ぜて固めたものです。丸く固めたスープの表面に垂らして、そのまま常温で。こちらも、水分が球状にまとまる無重力下の現象を使ったものです」

「エビが飛び出す仕掛けは?」

「偶然です。あそこまで上手くいくとは」

 返す言葉もなくなって、ドロテアは黙り込んだ。見た目では大層驚かされたが、問題は味だ。フォークでペースト状のトマトを掬い取り、魚介の具、砕いたオリーブオイルの膜をくっつける。疑いつつも、その一切を口へ流し込む。

 トマトに溶け込んでいた魚介の味が、つぅっと口内を通り抜ける。舌で揉み砕くほど酸味と旨味はミックスされ、次を求める口になっていく。極めつきは凝固されたオリーブオイルだ。メインとなっているどちらの食材も邪魔せずに、香りとして全体を支えている。固形として口に入るからこそだろう。

 見かけ騙しの料理ではない。ドロテアがそう考える頃には、他の審査員たちも同様の結論に達していた。

「見た目の個性も十分に、飛散しないスープ料理としての工夫も見られる……評価に値する品、といえるでしょうね」

 ドロテアのコメントに、リュカは満足気な笑みを浮かべた。ニーナが胸を撫で下ろす隣で、ちらりとジョルジュを見据える。ジョルジュもまた、不敵な笑みでリュカを見つめていた。

 

 

 メインディッシュの最終評価でもジョルジュが一番だったが、二番手として頭角を現す程度にリュカにも票が集まった。インターバルを経て、またしてもアナウンスが響く。

『第三品目:デザート、調理開始——!』

 リュカがジョルジュの対立候補となったことで、他の参加者たちにも火が点いたらしい。調理場のあちこちから熱量を感じつつ、リュカ本人はそれに意識を割いてはいなかった。

 細かく砕いたドライベリーをスプレーガンに装填。本来インクを入れる部分に粉状のベリーを充填して、リュカは仕上げの用意を済ませていた。地上なら軽く振りかけるだけの肯定でも、無重力下ではそうはいかない。

 後は食材の加工が終わるのを待つだけ。ふっとリュカが息を吐いたところに、壁の調理器具の様子を見ていたニーナが話しかける。

「リュカにとって、ジョルジュさんはどういう人なの?」

「どういう人って?」

「普段からやたらと心酔してるし、直接的な関係でもあったのかなって」

「別に。赤の他人だよ。会ったのは今日が初めて」

 言いながら、リュカはジョルジュの調理場を見ていた。彼の近くでシャワーヘッドのような噴射機が浮遊していたが、何に使うものなのか、まったくわからなかった。

「昔からね、漠然と料理人になりたいとは思ってたんだ。食べることにだけ興味があったから。でも、何の料理を作りたいかは考えがまとまらなくて。今の地球って、どこの国のどんな料理でも簡単に食べられるだろ? 僕にとって特別な料理なんてなかったんだ」

「ふーん……でも、無重力料理は違ったんだ」

「うん。デバイスに映ったジョルジュさんは、心底楽しそうにしてたんだよ」

 視界の先で、ジョルジュが跳躍する。壁の機器に向かう姿が、かつての映像のジョルジュと重なる。肉を、魚を、野菜を操って、客を虜にする魅惑の料理人。重さから解き放たれて、ふわふわと宙を泳ぐ。だが、いざ対面した彼は何かに縛られているようだった。

「今のジョルジュさんは、楽しそうじゃない」

 その時ちょうど機械音が鳴る。撹拌機と湯煎機の蓋を開け、ニーナが次々と容器を取り出した。

「ナッツペーストとチョコレート、調理完了!」

「ありがとう、仕上げに入るよ」

 ナッツペーストを丸めていくつか球体にしたリュカは、チョコの容器を手に取った。仕切りで区切られた容器の底を押して、一つのチョコの球体を宙に飛ばす。まだ温かい、液状の球体になったチョコに向かって、リュカはナッツペーストを放り込む。

「これで決めにいこう」

 ナッツペーストをチョコの球が飲み込んだところで、リュカがスプレーを吹き付ける。冷気と一緒に粉末のベリーがチョコレートへと吹き付けられ、チョコの表面は固められていく。

 

 

 審査員たちの前に並べられた球体ガラスでは、色合いの違う三つのチョコレートが浮かんでいた。色はいずれも深い黒。表面では吹き付けられた粉末状のベリーが輝いている。

「〈三種類の新天体ジャンドゥーヤ〉です」

 リュカが告げると、審査員は一様に目を白黒させた。目を疑うようなメインディッシュとは真逆の、素朴で可愛らしいチョコレート菓子。

警戒するように眺めるドロテアが、チョコの表面に波のようなものを見つけた。

「ジャンドゥーヤというと、チョコにナッツを混ぜ込んだお菓子ですが……これはそもそも、完全に冷やし固められてはいないようですね」

「鋭いですね。こちらは生に近い状態で提供しています。火傷の心配がないように、少しだけ冷気で冷ましてはいますが」

「また変わった真似を……そもそも三種類だというのに、チョコはどれも同じでは?」

「それは食べてみてからのお楽しみですよ」

 微笑むリュカに渋い顔を向けながらも、ドロテアは蓋を開ける。スプーンでチョコの一粒を寄せて、口へ誘い込んだ。

 歯を立てる。どろりと砕け、熱を持ったチョコとナッツ、そこに混ぜられているのは塩キャラメルだろうか。甘みが広がる中でベリーの酸味も香辛料のように効いて、後味としてもさっぱり仕上がっている。さっきの皿が嘘だったかのような、素直な一品。

「よくできた品です。では、次に……」

「まだ二種類残ってますよ」

「同じチョコでしょう?」

「同じじゃないですよ」

 柔らかに否定され、ドロテアはたじろぐ。そこまでいうなら、とチョコをもう一粒口へと運ぶ。

 察していた通り、チョコの味は前の一粒と同じ。だが、決定的に味が違った。

 内部に宿る熱で塩キャラメルがチョコと混ざり、その塩味でナッツのコクが引き出されている。多段攻撃のような衝撃に、ごくりとチョコを飲み込んだ。味を覚えたまま、ドロテアは最後の一粒に手を伸ばす。

「二つの球をぶつけて生まれた新天体が、時間をかけて完成する……それを目指しました」

 リュカが手を重ね合わせる。ちょうどそこで、ドロテアの口を完成された味が飲み込んだ。より塩味が強まり、相乗効果で甘みが押し上げられ、ナッツの合流によって混沌とした味にまとまりが生まれる。前段階を知っているからこそ、進化していく味の深さに驚かされる。

「溶けかけたペーストでも形状を維持できる、この空間だからこその仕掛け……見事です」

 ドロテアのコメントに、リュカは喜びを噛み締めた。

 

 だが、その喜びはすぐさま緊張に変わる。

「次は私の品のようですね。それでは、こちらを」

 ジョルジュの皿が審査員たちに提供される。今度運ばれた品も、審査員たちに冷や汗をかかせた。

 またしても、ジョルジュの皿は白に覆われていた。しかも湯気のような気体ではなく、固形の膜で。

「一体、どんな仕掛けを……!」

 蓋を開き、ドロテアが中を覗く。

 皿の内側までもが白で満たされていた。付け合わせのブルーベリーやミントが貼りついている以外には何も見つけられない。躍起になって、ドロテアがスプーンを皿に突っ込む。

 ずも、という音が似合いそうなくらい、スプーンが深く沈んだ。掻くように動かしてスプーンを抜き取ると、クリームと粉砂糖、粉末チョコの層がスプーンに生まれていた。

 噴射機の用途に、リュカは驚嘆する。

「ティラミスが皿の全面に……!」

「そうです。無重力空間では、落ちるということがありません。貼り付いたものは貼り付いたまま。そこで私は、無重力料理を構築する要素であるガラスの皿に魔法を施しました。皿の中を、雪に覆われた異世界にしたのです」

 語るジョルジュを他所に、審査員の一人がガラスを覆う白をスプーンで叩く。ほろほろと白は崩れ、砂糖菓子の欠片として宙を漂い始める。

「地上の再現から出発して、無重力料理は独自の形を求めるようになりました。まさしくそれがこのガラスでもあり、他方様々な形状の器でもあります。料理を載せるのが皿であるなら、その皿の形によって様々な景色が生まれるというものです」

外から見るとその皿は、ひび割れたスノードームのようでもあった。

「〈スノーボール・ティラミス〉……雪化粧を、御賞味あれ」

 

 

 激闘のエアロ・テーブル一日目は、ジョルジュのリードを許して終わった。リュカも第二位は確定しているほどの差をリュカはつけていたが、ジョルジュには及ばない結果となった。

 疲弊を抱えたリュカは通路へと脚を運んでいた。微睡みながら、大窓に映る地球を眺める。宇宙までやってきた人間にも自身を執着させるような、気味の悪い魅力があの星にはある。

 壁に背を預けて浮遊していると、パックのゼリー飲料を片手にニーナが近寄ってきた。

「お疲れ。大変だったね、今日は」

「うん。ジョルジュさんの背中……まだまだ遠いみたいだ」

「最後のデザートでも差は付けられちゃったし。じわじわ近づいてはいるんだけど……」

 単品料理のクオリティで上回れるとは、リュカ自身も考えていなかった。それでも優勝を諦めきれない気持ちが根底にあって、頭は漠然と、明日の大皿料理へと向いていた。

 ジョルジュは、何を出すつもりだろうか。

「シェフ・リュカ、少しいいかな」

 老けた声に意識を起こされる。

 リュカが顔を上げると、ジョルジュが斜めに浮かんでいた。

「ジョルジュさん!?」

「驚かせてしまったね。今日の発言を謝りたい。私に及ばないなどと言って、すまなかった。君は今の時点で十分、私に敵う料理人だ」

 真剣な面持ちで放たれた謝罪の言葉。申し訳なさと一緒に、じわじわと温かな感情がリュカの心をほぐしていく。

「いいんです。こちらもムキになってしまって……あの、でしたら、やめませんか」

「やめる、とは?」

「最後の皿を作るの、やめませんか。発展性なんていくらでもあるって、今日二人で証明したじゃないですか。僕はあなたに、ずっと無重力料理を作ってほしいんです」

「それはできないな」

 優しい拒絶に、リュカは食い下がる。

「なんでそこまで……あなただって、無重力料理が終わることは望んでないでしょう?」

「終わる日はもう見えている。だから、悔いは残したくない」

 ジョルジュは視線を、大窓越しに見える地球へ向けた。釣られて、リュカも地球を見る。視線までもが重力に引かれて落ちていくように感じられた。

「重力制御機器が進化しているのは、知っているかい」

「アストレア社の……?」

「アストレアだけじゃない。最近は競うように重力制御が進んでいてね。三十年後には宇宙船に重力が搭載、五十年後には全宇宙施設に重力搭載……そんな未来予測が出てる」

 料理を語る時のような、雄弁な語り口はそこにはなかった。

 リュカは真横を向いた。ジョルジュの目許から一粒の水滴が浮かんで、どこかに飛んだ。

「人間は、宇宙に出ても地球と同じ暮らしを手にする。無重力の世界はいずれ消える。そこで創られた寝具も、文具も、調理技術も。何も残らないんだよ」

「何も残らないなんて、そんなことは……」

「完全に消えるということはないだろう。だが、こんな盛大なコンクールが開かれるような料理文化ではなくなってしまうんだ。私が腕を振れなくなる前に、作っておきたいんだ。無重力料理、最後の皿を」

 ふらり、ジョルジュは浮き上がって、通路の奥へと消えていく。かける言葉も交わし合う言葉も見つからないまま、リュカはニーナと隣り合わせで壁に寝そべっていた。

 あはは、とニーナが嘘のような笑い声を飛ばす。重い空気を壊したいのが明白だった。

「ジョルジュさん、相当抱え込んでるみたいだね。まぁ、しょうがないのかな……自分が育てて大きくなった分野が、将来消えるかもって考えちゃったら」

 それが現実になるのかはわからない。しかし実際、技術発展で消えていった原始的な料理の数々をリュカも知っている。だからといって、ジョルジュがああまで追い詰められていいとは思えない。

 ああなってしまった彼が手掛ける、最後の皿。一日を振り返って、リュカは呟く。

「無重力の環境でしか、成立しない料理……」

「何か言った?」

「ジョルジュさんは無重力でしか成立しない料理にこだわってる。これが無重力料理のコンクールだから当たり前だと思ったけど、前菜からメインディッシュ、デザートまで少しずつ、無重力料理の歴史をなぞるような品を出していた」

「だから最後の大皿が、最後の皿にして極致……だけど、それって何?」

「わからない。でも僕は……それじゃ、ダメだと思う」

 壁を蹴って、リュカは宙へ浮かぶ。もう一度壁を蹴ると、保管庫の方向に向かって飛び出した。追いかけるようにニーナもリュカの後ろへ続く。

「ねぇ、何するつもり!?」

「試作だよ! ジョルジュさんの最後の皿を、僕が否定するための!」

 

 

 エアロ・テーブル二日目は異様な雰囲気が漂っていた。にこやかに余裕を忍ばせていたジョルジュの目は据わり、普段通りの柔らかさに棘のような鋭さが混じる。

反対に彼を追うリュカは、助手と一緒にふらつきながら会場へと入ってきた。

緊張の高まるコンクール最終工程、長時間に渡る調理時間が終わり、アナウンスが響く。

『最終品目:大皿、調理終了——!』

 

「では、私の品を……御賞味あれ」

 審査員たちが移動し、ジョルジュの品が置かれたテーブルへ移る。二日目のテーマは立食パーティを想定した大皿料理。そのため審査員も席を移動し、参加者それぞれが料理を飾ったテーブルを巡る。

 一日目よりも一回り大きなガラス皿が外れ、審査員や観客が息を呑む。

「〈星屑のカナッペ〉でございます」

 もはや、その料理は皿を必要としていなかった。

 精密に切られた鴨肉のブロックが、球状に浮かべられたフォアグラのペーストが、円に抜かれたクリームチーズが、オリーブが、ピクルスが、ミニトマトが。渦を描くように整列していた。

「なかなか、大掛かりなものを用意しましたね」

 圧倒されながらも、ドロテアはジョルジュが差し出したクラッカーを手にする。差し込んで、横に水平に浮いて油の塗られたクラッカーを動かす。それぞれの具材が隣合せになることはなく、適度な場所で切り上げれば、理想的なカナッペができあがった。

 ドロテアは手許を見る。クラッカーは水滴を巻き込んでいて、どうやら液化した鴨の脂を巻き込んでいるようだった。これも意図して配置されたものだろう。

 口に含み、咀嚼する。鴨とフォアグラの上質な味が身体に染みていく。

「なるほど……シェフ・ジョルジュ。あなたは無重力料理における最後の皿を作りに来たと言っていましたね。これがそうだというのですか?」

「えぇ。無重力の空間でしか成立しない、星雲のように浮かぶ食材。それを自らで集め、口に運ぶ。もしも重力が生まれて地に落ちたら、これらはすべて残飯と変わりありません」

「その境界で成立している極地の皿、最後の皿、というわけですか」

 ドロテアとしては、これを料理として認めたくはなかった。食材をただ並べただけのものが果たして料理なのか。しかし調理された痕跡はあり、事実美味ではあった。他の審査員はこのスケールに圧倒されて票を集めるかもしれない。

 

 ドロテアの思考を破ったのは、やけに間延びした声だった。

「そろそろ、こっちに来てもらってもいいですか?」

 一同が振り返る。テーブルの傍で、リュカが片手をひらひらと掲げていた。

 見ると、既にガラスの皿は外されている。テーブルの上は何もなく、ただ料理を取り分けるための小さな球体ガラスがあるだけだ。

「シェフ・リュカ、あなたの料理は?」

「すみません、たった今完成します」

「調理時間は過ぎているはずでは……?」

「大会本部に演出許可は貰いました。大丈夫ですよ、運んで切るだけですから」

 にこやかに微笑むリュカを前に、ドロテアたち審査員は辺りを見渡した。付近のテーブルはおろか、調理台にも料理らしきものはない。

 探し回っていると、頭上から声がした。

「助手のニーナです! それでは、こちらから料理を完成させまーす!」

 会場の全員が、一斉に天井を見上げた。

 手を振って、ニーナがその視線に応える。もう片方の手で、五十センチはある筒状の何かを持っている。色は肉に近く、あれが料理のようだ。

「ジョルジュさん、最後の最後で食材が被りましたね。最後は純粋な、調理技術の対決といきましょうか」

 ジョルジュに向け、リュカは笑みを飛ばす。同時に手を掲げ、指を鳴らした。

 両手で筒を持つと、ニーナは思いきりぶん投げた。筒はぐるぐると回転しながら、ゆっくりとリュカのテーブルへと落ちていく。

 ジョルジュが、ドロテアが、全員がその行く末を追いかけた。のろのろと回る筒の、その正体が徐々に明らかになる。色合いは赤茶と薄橙、それから純粋な赤。三つの層が回転によって混ざり合い、渦を描く。

ジョルジュは分析する。形状からして料理はテリーヌだろう。

食材は鴨とフォアグラ。それから、イチゴ。

「取った!」

 リュカが叫び、テーブルの上でベルトを結んで薄く切り分ける。切ったものからガラスの皿へ。

色の混ざり合った層の模様と比率は、切り分けられた欠片ごとでそれぞれ異なっていた。

呆気に取られていたジョルジュに、皿が差し出された。その奥に、微笑を浮かべたリュカの顔がある。

「ジョルジュさん……無重力料理は消えるかもしれません。でも、すぐには消えないと思うんです。落ちながら作る料理だって、ここに生まれたんですから」

 差し出されたテリーヌを、ジョルジュは口に運んだ。

「きっとこれだって、最後の皿じゃないですよ」

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