梗 概
イン・ザ・スモーキングルーム
ラッキーストライクは名の知れた殺し屋だ。いつも煙草を咥えて、悠然と標的を撃ち抜いている。この男はなんでも「当たる」という能力を持つ。
相棒のマルボロは発火能力を持つ渋い中年男。
ふたりに共通するのは、特殊能力が煙草を吸っている間だけ発動するという点だった。
義賊として悪党を狩るラッキーストライクは、去り際必ず決め台詞を吐く――「当たらない弾はないぜ。ラッキーストライク!」
******
完全栄養食のパウチが散乱する部屋で目覚めた児玉友樹――現実世界のラッキーストライクは、冴えないフリーターだ。昨晩は遅くまでオンラインゲーム『イン・ザ・スモーキングルーム』で遊んでしまった。日本で喫煙が禁止されて以来、煙草会社はパチンコやゲームでのIP化に活路を求め、その中で生まれたのがこの人気作だ。
今日も友樹はそのゲームを生み出したゲームメーカーの会社で、ビル清掃員として働く。ビルには〈喫煙室〉と呼ばれるサーバールームがある。一部の社員がこっそりと集まり、違法に入手した煙草を楽しむ部屋だ。
ある晩、友樹はサーバー室から出てきた冴えない中年男性を尾行し、脅迫する。男はあっさりと首を縦に振る。友樹は思わず、チャットでよく使うセリフを呟いた。途端、男性は驚いた様子で自分がマルボロだと明かす。一転、意気投合したふたりは誰もいない時間を見計らい、〈喫煙室〉で煙草を吸いながらゲームをするようになる。やがて、会社の開発サーバーをランサムウェアでハッキングするという計画を思いつく。
ランサムウェア攻撃は驚くほど簡単に成功した。開発中の大型タイトルのデータは暗号化され、復号キーと引き換えに高額の仮想通過が要求される。
しかし、事態は急速に悪化する。違法煙草の出所を追っていた警察がマルボロに目を付け、〈喫煙室〉の存在が明らかになる。警察はオフィスビルで二人に事情聴取をしようと試みるが、焦った友樹が逃げ出してしまい、〈喫煙室〉に立てこもる。マルボロは仕方なくその人質になる。
追い詰められたふたりは、いったん煙草を吸う。吸いながら、『イン・ザ・スモーキングルーム』をプレイする。いつかは出なければならないが、出たら逮捕されるだろう。
煙草が残り一本となったところで、友樹がふと「当たらない弾はないぜ。ラッキーストライク!」と呟く。と、突然ビルに雷が落ち、停電する。暗闇の中、ビル内は混沌とする。待機していた警察が〈喫煙室〉に突入するが、マルボロが落とした煙草が、ヤニと埃の溜まったサーバーのファンに引火。大騒ぎの中、ふたりはなんとかビルを逃げ出すことに成功する。
ラッキーストライクとマルボロは、今でも日本の各地を転々としながら、こっそりと『イン・ザ・スモーキングルーム』をプレイしているらしい。
文字数:1141
内容に関するアピール
エンタメといえば異能力バトルを書きたい! と最初に思い、「煙草を吸うと異能力を発現する」という設定で考え恥じました。ところが、異能力にSF的な説明をつけることができなかったため、異能力パートはゲームの世界ということにしました。メインはうまくいかない青年と中年が無茶苦茶をする話です。気づけば異能力の話ではなくなってしまいましたが、展開はテンポよく進められそうかなと思っています。
文字数:189
イン・ザ・スモーキングルーム
暗い部屋の中でカチッと火花が散る。ラッキーストライクは煙草を突き出すと、その小さな明かりをそっと掬った。
「そのライター、必ずと言っていいほど点くな」
暗がりからマルボロの低い声。やすり紙のようにざらざらしている。
「当然さ。俺はラッキーストライクだからな」
部屋の中央に立つ男はゆっくりと煙を吸い込んだ。
二人は雑居ビルの中にいる。窓から差し込む青白い光が、斜めに部屋を裂いていた。
ラッキーストライクは煙草を咥えたまま窓ににじり寄った。移動しながら、拳銃の安全装置を手慣れた動きで解除する。
「待て、俺も吸う。ライターを寄越せ」
暗がりからマルボロが踏み出した。渋い中年おやじの顔は無精ひげで覆われている。ラッキーストライクは視線を窓の外に向けたまま、ライターを放り投げた。マルボロはそれを受け取り煙草に火を点ける。
前触れもなく、銃声がした。それより一瞬早くラッキーストライクは屈みこんでいた。
ダダダダダダ。
「クソっ」
マルボロは頭を抱えながら床に伏せる。壁に次々と弾丸が打ち込まれる。
「勘づかれたか」
「慌てるな」
ラッキーストライクは窓ににじり寄ると、拳銃だけ窓の外へと突き出した。ランダムに方向を定めながら引き金を引く。
弾幕が止んだ。
「なんで当たるんだよ」
呆れて言うマルボロに、ラッキーストライクは唇を歪める。
「当たらない弾はないぜ。ラッキーストライク!」
「決め台詞を言ってる場合じゃあない。とっとと連中の煙草を奪いに行くぞ」
二人は階段を駆け下りる。雑居ビルには住人達も住んでいた。扉の隙間から、怯えた目があちこちから覗く。
「おまえらはしばらく引っ込んでろ!」ラッキーストライクは階段を三段飛ばしで降りながら呼びかける。「俺の弾に当たりたくなかったらな」
表に飛び出ると、複数の男たちがトラックに乗り込んでいるところだった。
「おいギャングども、待ちやがれ!」
ラッキーストライクはタイヤを目がけて銃を撃つ。しかし、一発も当たらない。はっと口元を抑えると、そこに咥えていたはずの煙草がなくなっていた。
「クソ、階段で落としちまった」
「どけ。俺がやる」
マルボロが冷静な声で言うのと、トラックが走り出すのはほぼ同時だった。険しい顔をした中年男は、「燃えろ、くそったれ」と呟く。
走り始めたトラックが勢いよく燃え上がる。
「おいおい、煙草ごと燃やす気かよ……」
「贅沢言うな。止めてやったのに」
遠くからサイレンの音が聞こえる。ラッキーストライクは慌てて新しい煙草を取り出すと、火を点けた。
「まずい、煙草取締局の連中だ。ずらかるぞ」
「やれやれ」
燃え上がるトラックと大量の違法煙草をわき目に、二人は走り出す。先ほどまでいた雑居ビルからは、住人たちの顔が窓から次々現れた。
「ありがとうなー!」「ギャングなんてクソくらえだ」「やっぱりおまえさんたちが一番の頼りじゃよ」
「相変わらず義賊は気分がいいな」
ラッキーストライクが言うと、マルボロは鼻で笑った。
「ただの犯罪者がよく言うぜ」
しかし、ラッキーストライクは聞いていない。後ろを振り返り、住人達に大きく手を振るのに忙しい。
「当たらない弾はないぜ。ラッキーストライク!」
しっかりと決め台詞を残して、男たちは夕陽に向かって消えていく。あとには紫煙だけが細くたなびいていた。
****
狭いワンルームの部屋に、完全栄養食のパウチが散乱している。
志賀礼人はスマホのアラームを止めると、可能な限り緩慢な動きで起き上がった。カーテンの外で煌々と輝いている現実とはまだ、直面したくない。机の上ではモニターの画面が点いたままになっている。暗い部屋の中で、それは異次元への抜け穴のように白く浮いていた。
昨晩は遅くまでプレイしてしまった。〈イン・ザ・スモーキングルーム〉——仮想空間で異能力を使って戦う、オンラインゲーム。禁煙法が施行されてから、IP化に舵を切った煙草会社が大きく当てたヒットコンテンツとして人気を博している。
プレイヤーは各々煙草の銘柄の名前を冠したキャラクターを選び、スモーキングルームという架空の都市でギャングや煙草取締局と対決する。
ゲームの中にいる間、礼人はラッキーストライクという無敵の人物でいられる。ラッキーストライクの特性は、なんでも「当たってしまう」最強の運。現実の自分とはまるで正反対だ。
どうにかベッドから体を引きずり出すと、礼人は完全栄養食のパウチをリュックサックに放り込み、外に出た。
街の白さに視界がくらむ。
二十一世紀初頭、東京都は大胆な浄化政策を執り行った。ホームレスは駅や公園から放逐され、落書きは執拗に壁からそぎ落とされ、わいせつな看板や広告は徹底的に剥ぎ取られた。
禁煙法が全国的に施行されたのもこの頃である。
「喫煙および煙草の所持は、法律で禁止されています。違反した者は、7年以下の懲役及び200万円以下の罰金を課せられ……」
道端のスピーカーからは繰り返し「浄化条例」のアナウンスが発せられている。礼人はその横を肩身の狭い思いで足早に過ぎ去る。綺麗すぎる街に逃げ場はない。すっかり裸にされて、自分のようなみっともない人間は、まるで存在する権利もないようだ。
白すぎる街で、礼人は自分が一点の黒いシミであるかのように感じる。無性に煙草を吸いたくなるが、それは錯覚だ。礼人は現実世界で煙草を吸ったことがない。
大手ゲーム会社レビオコープスのエントランスをくぐると、塵ひとつないタイルが礼人を迎える。
二十階建てのオフィスビルは朝から晩まで人の出入りが絶えない。礼人は従業員用通路からロッカールームに入ると、清掃員の制服に着替えた。
「おつかれさまでーす。よろしくお願いします」
警備員室で挨拶をして、前のシフトに入っていた老人と交代する。だれも見向きすらしなかった。警備用ロボットだけが、こちらを向いてピロピロと電子音を上げた。
午後からのシフトでは、トイレの掃除や備品の補充を行う。夜になってオフィスの人が減り始めると、ゴミ袋を回収する。
清掃業をやっていると執務エリアに入る機会もある。そんなときは、興味ないふりをしながらつい社員たちの机の上や、張り出された資料をちらちらと見てしまう。
〈イン・ザ・スモーキングルーム 緊急メンテ〉
〈三月上旬 新キャラ・ピアニッシモ解禁!〉
〈来期企画会議資料 金曜日15時〆切〉
たまにキャラクターのフィギュアや、新ビジュアルのラフなどが置いてあると、まるで正体を隠して潜入しているスーパー・ヒーローかのような気分になる。
〈イン・ザ・スモーキングルーム〉はレビオコープスの主力タイトルのひとつだ。派遣の清掃員としてたまたまレビオスコープのオフィスビルに配属されたときは、思わず「当たった」と思った。現実の世界にもラッキーストライクの能力が及んだかのようだった。
しかし、実際に働いてみれば憧れは儚くも崩れた。
社員は疲れた顔で夜遅くまで残業。机の上には、礼人が家にストックしているものと同じ完全栄養食のパウチが散乱している。自動販売機の隣のゴミ箱は、エナジードリンクの空き缶で溢れていた。ゲームの世界に逃げ込む必要があるのは、ここで働く社員たちのように見えた。
それに加えて、少し前から礼人はある異変に気付いてしまった。
十二階の奥の、サーバー室。レビオスコープのような大手ゲーム会社は、メインのサーバーは外注で委託するのが常だが、一部開発用のサーバーを社内で管理している。それが格納された部屋の中で夜な夜な、社員が煙草を吸っているようなのだ。
〈喫煙室〉——社員の間では、そう呼ばれる小さな部屋。礼人は業務の合間に、この部屋をそっと覗く癖がついていた。
「ゲーム中毒者のおかげで、俺たち煙草中毒者の財布が潤うんだ」
一度、〈喫煙室〉からそんな言葉を漏れ聞いたこともあった。
――自分が彼らをカモにしてやったらどれだけ気持ちがいいだろうか。そう考えた瞬間、礼人はある計画を思いついた。
そして今晩、礼人はその計画をいよいよ実行に移そうとしている。
礼人は退勤時間になると制服から着替え、ビルを出た。二十二時。遅い時間だが、オフィスビルの各フロアにはまだ人が残っている。駅に向かわず、エントランス付近のベンチに腰掛けた。
目当ての男は十分ほどで出てきた。何度も〈喫煙室〉で見たフォルム。ややずんぐりした小柄な体形に、見事に禿げ上がった頭頂部。いかにも冴えない中年オヤジ、といった風貌。
礼人はそっと男の後を尾行した。だれも近くにいないことを確認してから、礼人は一気に距離を詰めた。腕を掴むと路地裏に引きずり込み、首元を抑えて壁に押し付ける。
「動くな」
荒い息遣い。加齢臭がむんと漂う。
「おまえが会社で違法に煙草を吸っていることは知っている。大人しく指定のロッカーに200万円を現金で入れろ。でなければすべてばらす」
「わかった、わかった。なんでも聞く」
男は拍子抜けするほど抵抗しなかった。その声は恐怖で震えている。礼人自身、慣れない脅し文句を口にするので緊張していたが、男の返事を効いた瞬間、ふっと力が抜けた気がした。なんだ、こんなに簡単なことだったのか。
気づくと、いつも向こうの世界で口にしている台詞をぽつりとつぶやいていた。
「当たらない弾はないぜ。ラッキーストライク」
と、男が鋭く息を吸ったのが聞こえた。礼人がいぶかしげにその顔を覗き込むと、男は震える声で、「……ラッキーストライクさん、ですか?」と訊ねた。
礼人は思わず腕の力を緩めた。男は首を抑えて咳き込みながら、一歩離れる。驚きと興奮で瞳孔が開いている。
「僕です。マルボロです」
男は震える声でそう言うと、「も、燃えろ、くそったれ」と小さく付け加えた。
「いや~ラッキーストライクさんなら、早く言ってくれればよかったのに」
深夜のサーバー室に朗らかな笑い声が響き渡る。
いつもであれば、サーバーのファンが軽やかに回っている音が聞こえる静謐な部屋だが、ふたりが入室してから男はひっきりなしに話していた。礼人はただ圧倒されてそれを聞いている。
丸井円。〈イン・ザ・スモーキングルーム〉でのハンドルネームはマルボロ。発火能力を持つキャラクターを使い、ゲーム空間上で礼人と数々の協力プレイをこなしてきたやり手のゲーマーである。現実世界の丸井は、レビオコープスの情報システム部にと務める課長らしい。
「この会社はクソですよ、クソ」
まるで酔っ払いのように頬を紅潮させながら、何本目かもわからぬ煙草を咥える。礼人がライターを差し出すと、「あ、どもスミマセン」と恐縮しながら火種を受け取る。
「結局、いかに大きな夢を見せて人を惑わすかっていう話なんです。ロマンもクソもない――あ、スミマセン、火ぃ点きにくいですよねえ、このライター。ラッキーストライクさんのだったらよかったのに、へへへ――そそ、だいたいね、ゲーム会社ってのは本当の狂人も一部いますが、あとは憧れだけで入っちゃった凡人なんですよ。まあ、私もそうなんですけど。そういう人間にとっては、地獄みたいな環境ですね。やりがい搾取ですから」
「それでも、〈イン・ザ・スモーキングルーム〉はプレイしてる」
丸井の勧めに負けて、礼人も煙草を咥えた。恐る恐る火を点ける。何度かうまくいかず、数回カチカチ鳴らしたところでようやく火が点いた。
ラッキーストライクのように渋い顔で深く吸ってみる……盛大に咳き込んだ。丸井は優しく背中を撫でてくれた。
「ああ、無理はせずに……まあ、ゲームには罪はないですから。あれはいいゲームですよ、私が偉そうに言うことじゃないですけどねえ」
時刻はとっくに十二時を過ぎている。ふたりとも終電はないが、あとでタクシー代を出すと丸井が言って聞かなかった。ふたりで会社に戻ってからは、こうして〈喫煙室〉で煙草を吸いながら、話している。
「こんないい歳して、独身の中間管理職ですよ。そりゃあ、現実逃避したくなります。だってゲームの世界では渋いイケオジで、火を出す能力だってあるんだもん」
「それはわかります」
礼人はそっと賛同する。
「ゲーム内だと無敵になれる。まあ、煙草を吸ってる間だけだけど」
「それがまたいいんですよ。現実の世界では、こうしてこそこそ吸うしかないですからね……ここもね、昔は防犯カメラがあったんですけど、いろいろ手を回して撤去させたんですよ。おかげでいまでは職場のオアシスです」
ようやく煙草の煙にも慣れてきたのか、頭が冴えてきた気がする。礼人は箱からもう一本煙草を取り出した。何気なく見ると、古びたパッケージには「ラッキーセブン」と書いてあった。
「あ、そうだ、せっかくならここでゲームしますか?」
丸井はサーバーの後ろから段ボール箱を取り出した。中にはゲーム機とヘッドセットが入っている。
ゲーム機を起動すると、聞きなれた起動音とともに〈イン・ザ・スモーキングルーム〉のロゴが立ち上がった。
「ちょっくらギャングでも倒しに行きましょうよ、礼人さん……いや、ラッキーストライクさん」
礼人は煙草を咥えたまま、ヘッドセットを受け取った。
「もちろんだぜ、マルボロ」
雑居ビルの中で、マルボロとラッキーストライクは向かい合っている。
「また囲まれちまったな」
窓の外をちらりと見て、マルボロがため息を吐く。
「まさか向こうにも能力者がいるとは」
ラッキーストライクは右手で煙草を吸いながら、左手でくるくるともう一本の煙草を回す。
「ゲームのパワーバランス的に仕方ないんです」マルボロが相変わらずの渋い声で言う。「ここらで魅力的な能力者を投入しないと。ピアニッシモという女性キャラで、まあいわゆるお色気系ですね。能力はステルスで……」
「おい、マルボロ。ゲーム内だぞ。雰囲気をぶち壊すな」
マルボロは咳ばらいをした。
「……すまん。つい」
「で、この状況をいったいどうするかだ。ビルを出れば五十人の敵。地上には能力者と、トラック一台分の煙草。さすがに俺様ラッキーストライクの能力だけじゃあ、外にいるギャングどもを全員倒すことは出来ない」
「だが、ずっとここにいるわけにもいくまい。煙草はお互い残り一本だ」キャラを取り戻したマルボロはあごに手を当てた。「なあ、ラッキーストライク……俺の能力はしょせん、ただの発火能力だ。おまえの幸運でどうにかしてくれよ」
ふたりはしばらく黙っていた。もうすこしで、別世界でヴンヴンと鳴っているファンが聞こえてきそうな気がするが、そこは無視する。
「外にある煙草が積んであるバン、燃やせるか?」
マルボロがゆっくりと顔を上げる。
「まさか」
「それを目がけて飛び降りれば、煙を吸って能力を発動することができる。運よくバンに着地して、運よく俺の弾が全員に命中すれば、ここから抜け出すことができる」
マルボロは低い口笛を鳴らした。
「さすがラッキーストライク。大胆な作戦だ」
「やるのか? やらないのか?」
答える代わりにマルボロは立ち上がった。すでに短くなっている煙草から深く吸うと、外に向かって指を差した。
「燃えろ、くそったれ」
火柱と煙が上がり、混沌が生まれる――。
「ランサムウェア攻撃?」
「そうです。聞いたことありませんか」
礼人と丸井は〈喫煙室〉で煙草を吸っている。夜は遅く、他の従業員はとうに帰宅している。いつの間にか、週に数回、こうして〈喫煙室〉でいっしょに煙草を吸いながら、ゲームをするのが習慣になっていた。
「言われてみればニュースかなんかで見た気もするけど……俺、あんまりそういう難しい話、よくわかんないから」
礼人がお茶を濁すと、丸井は丁寧に説明を始めた。
「簡単に言えば、会社にハッキングを仕掛けて、奪ったデータを返してほしければ金を払え、と脅すんです」
「俺が、丸井さんにやろうとしたみたいに」
「ええ、その通り。ただし、企業を相手にするわけなので、それだけ額も大きくなります」
礼人は思わず煙草を唇から離した。
「でも……それって結構重い犯罪になるよね?」
ははは、と丸井は朗らかに笑った。
「よく言いますよ。礼人さんだって、私から揺すろうとしたじゃないですか」
「それは申し訳ない」
礼人は慌てて謝ると、考える時間を稼ぐために再び煙草を咥えた。
「もちろん、リスクもあります」丸井の声はいたって冷静だ。「でも、私はこの会社も社会もとっくに嫌になっちゃったんです。私が本当にマルボロだったら、こんなビルすぐに燃やしちゃってます。礼人さんだってそうでしょう? 大丈夫、大企業は腐るほどお金を持ってるんです。すこし奪ったくらいで、誰も困りはしませんよ」
礼人は目の前で法則性もなく揺れる煙を見つめている。その先にいる丸井も、ゆっくりと揺れているように見える。
「やるか」
思うより先に、言葉が煙といっしょに吐き出される。
「やった!」
丸井は子どものように嬉しそうな声を上げた。
「ラッキーストライクが味方に付けば、百人力ですねえ。言ってくださいよ、決め台詞」
「……当たらない弾はないぜ。ラッキーストライク」
「くぅ~、たまんないですね!」
最初、礼人は冗談半分だろうと思っていたが、翌日丸井が具体的な計画を提示してくると、どうやら本気らしいということがわかった。
丸井が提案したのは典型的なフィッシングによるランサムウェア攻撃だ。
「うちはサイズが大きいくせに、ITリテラシーが低い人間が多いんです。特にクリエイティブ部部門」
再び〈喫煙室〉で煙草を吸いながら、丸井はぺちゃくちゃと話す。今日はポテトチップスを持ち込んでいた。丸っこい指先が脂でぬらぬらと光っている。
「まあありがちですよね。彼らはバックオフィスを見下してるし、ルールやセキュリティーは無意味な足枷だと思ってる。傲慢なんです」
丸井が会社の悪口を言い始めるときりがない。礼人が「それで」とさりげなく促すと、丸井は携帯用の灰皿にとんとんと灰を落とした。
「私は内部の人間なんで、だいたい誰に送れば引っかかってくれるかがわかります。問題は、私まで辿れないようにしないといけないということ」
「そこは俺がやればいい」
「さすがです、礼人さん」
「ラッキーストライク、でいいよ」
話しながら、二人はヘッドセットを装着して〈イン・ザ・スモーキングルーム〉の世界へと入る。
ゴミが散乱した裏道を二人で走る。後ろからはギャングの追手。ラッキーストライクが振り返らずに後方に発砲すると、銃弾がビルの壁面に跳弾しながら、ギャングたちに次々と命中していく。
「足のつきにくい海外のサーバーを経由して、その社員にウイルスを忍ばせたファイルを送り付けてほしい。ウイルスはこっちで用意する」
礼人は手探りでポテチを掴む。
「それで、取り分はふたりで山分けか」
「悪くないでし……だろ?」
「悪くない」
ラッキーストライクとマルボロは荒廃しきった街を駆け抜ける。黒く染まったこの世界でこそ、彼らは星のように輝ける。
「全く以て悪くないよ、マルボロ」
計画実行まで、礼人と丸井はなるべく接触しないようにした。
〈喫煙室〉での密会も最小限にとどめた。少しでも丸井と礼人の接点が発覚すれば、足を辿られる可能性がある。
限られた密会の時間のなかで、ふたりはランサムウェア攻撃の準備を着々と進めた。といっても計画の大半は丸井が担っている。社内のシステムを熟知しているのも、ウイルスを用意するのも丸井だからだ。礼人は実行犯に過ぎない。成功報酬が山分けというのもなんだかおかしい気はする。
しかし、礼人がこれを指摘すると、丸井は「いやあ、そんなこと」と首を振るのだ。
「ラッキーストライクはその場にいることが大事ですから。お守りみたいなものなんです」
はたしてそうだろうか。礼人は現実世界では決して幸運な方とは言えない。だが丸井の信頼を真っ向から否定するのも気が引けて、曖昧にうなずくだけにした。
ある晩、礼人は執務エリア内で清掃をしていた。時刻は夜の九時を回っていて、人はまばらになってきている。礼人は同じフロアのどこかにいるであろう丸井をそれとなく気にしながら、掃除機をデスクの下に差し込んでいく。
ふいに、怒号が聞こえた。
礼人は思わず掃除機のスイッチを切った。辺りを見回すが、周囲に社員はいない。気になったのは、怒号のあとに聞きなれた声がしたからだ。
声はすぐそばの会議室から漏れていた。礼人は机の下のごみを拾うふりをしながら、何気なくドアに耳を近づける。
「だからなんで俺が知らないっていう状況が生まれてるんだよ! おかしいだろ、ふつうに考えてよお」
「すみません……はい……」
すぐに謝っているのが丸井で、その丸井を詰めているのが、いつも話題に挙がっている上司だと察した。礼人は逡巡した——自分が丸井だったら、こんな場面を聞いていてほしくはないだろう——だが、次の言葉を聞いて固まった。
「おまえが管理してる煙草の数が多少早めに減ってようが、俺は構わないんだ。でもな、もし新しいメンバーを引き入れてるなら……」
「メンバーに変わりはありません」
〈喫煙室〉の話だ、と礼人は思う。鼓動が早くなる。丸井は礼人とつるむようになってから、煙草の消費数が増えている。だが礼人の存在を明かすわけにもいかないので、誤魔化しているのだろう。
「なあ、丸井。なにかあったときに責任取らなきゃいけないのは俺なんだよ」上司の声が滑らかになる。「知っとかないといけないんだ。責任取るためにさ、な?」
「はい……」
我慢の限界だ、と礼人は思った。掃除機のスイッチを入れると、勢いよく会議室の扉にぶつける。
中の会話が途切れた。
「失礼しました!」
礼人は声を張ってそう言うと、急いでその場を離れた。鼓動はまだ早鐘を打っている。それが怒りのせいなのか、自分の行動に驚いたせいなのかは、わからなかった。
「いやあ、先日は助かりましたよ」
丸井と礼人は久しぶりに〈喫煙室〉で煙草を吸っている。礼人は迷った挙句、先日盗み聞きした内容には触れないでおこうと決めていた。
しかし、丸井はまるで気にする素振りもなく朗らかに笑っている。
「ヤバいでしょう、あの人。この〈喫煙室〉を始めたのもあの人だし、遅くまで働いている部下を労うと言って煙草を配り始めたのもあの人なんですよ。それなのにあの言いぐさ、あははは」
「なんだかムカッときて、つい掃除機を扉に当てちゃった」
「いやあ、『当たらない掃除機はないぜ』って言ってれば完璧でしたけどね。おかげで上司も勢いを失って、あのあとすぐに解放されました。なので、今日はたくさん吸ってください」
まるで礼人の罪悪感を無透かすように丸井は言う。礼人は唇で支えているわずかな重みを確かめるように、ゆっくりと吸った
「もうじき、お金も入る」
礼人はいつもより自分が大きな声を出したことに驚いた。
「ええ、いよいよ明日ですよ」
「意外と、やることってないんだね」
「高度にテクノロジーが発達すると、そこらへんの泥臭さはないですからねえ」
丸井はおもむろにサーバー室の奥に隠されたゲーム機に手を伸ばす。
「でも想像してください。あいつらが気づいたときの顔を!」
礼人は想像してみた。しかし、「あいつら」の顔が思い浮かばずに戸惑った。礼人は丸井の上司の声しか聞いていない。いつも見ているのは、残業している社員たちの疲れた顔ばかりだ。
仕方ないので代わりに、この街の鳥観図を想像した。白骨化したように白い街の幹線道路に、銃弾が当たる。銃弾が食い込んだ箇所から、黒いタールのような液体が流れていく。その液体は蟻の巣を満たすように、肺胞の隅々まで浸透して、不完全さを排除する「あいつら」を染めていく……。
「気分はどうだ、ラッキーストライク」
薄汚い街が夕闇に沈んでいく。
マルボロとラッキーストライクは、それを雑居ビルの上から眺めている。
「拍子抜けしてるよ」
「ほう」
「こんなにうまくいっちまうのか、って」
マルボロは黙って手を差し出す。ラッキーストライクはそのごつごつした掌にライターを置いてやった。
「全部当たっちまう、っていうのも虚しいもんだな」
マルボロが煙といっしょに吐き出した言葉は、風に流れて瞬く間に消えていく。
「なあ、マルボロ」ラッキーストライクは暗闇を見つめている。「おまえはどうして毎回、俺にライターを借りるんだい? 自分で火を点けられるじゃないか」
「野暮なこと訊くなよ、ラッキーストライク……」
ランサムウェア攻撃は拍子抜けするほどうまくいった。
「いやあ、見ましたか、経営陣のあの焦った顔……」
月曜日の夜。丸井と礼人は〈喫煙室〉で煙草を吸っている。先週の金曜日に開封されたメールは週末のうちに会社のパソコンからデータを盗み出した。今、ふたりは開発中の新作ゲームのデータを人質に取っている。
事実が発覚したのが今朝。そこからは、部外者である礼人でもわかるほど、社内は大混乱に巻き込まれていた。
「顔までは見れなかったな」
礼人はぽつりと呟きながら煙を吐く。レビオコープスから振り込まれる予定の「身代金」の額は大きすぎて現実味がない。
「ありがとうございます、礼人さん。あなたがいなかったらここまでできなかった。マルボロの発火能力を、一瞬でも現実で手に入れたような気分です」
そう言われると悪い気はしない、と礼人は思う。
丸井は根が優しい善良な男だ。この男が会社に苦しめられているのだとしたら、このように罰するのが正義だ。自分たちは義賊を演じたに過ぎない。
煙が揺らぎ、視界がかすむ。礼人は〈喫煙室〉にいると現実が歪んでいくような錯覚にとらわれる。
「お金が振り込まれても、洗浄するまでには時間がかかります――つまり、足がつきにくい状況になるまでは、実際にお金を引き出すことはできません。しかし、準備ができ次第山分けにします。そこはご安心ください」
「別に疑ってもないし、山分けじゃなくてもいいよ」
礼人はぼんやりと言うが、丸井は「いやそれは」と食い下がる。
「わたしたちはバディじゃないですか。ラッキーストライクとマルボロ。わたしが礼人さんとこの計画を実行したいと思ったのも、〈イン・ザ・スモーキングルーム〉でお会いできたからです。義賊は大量の煙草を奪って、夕焼けの空をバックに走り去る。無能な警察は追いかけ、市民は歓声を上げる。ねえ、いまネットニュースではもう話題になっているそうですよ」
ゲームの中ではたいてい、ギャングから強奪した金品は基本的に手に入らないのだが、礼人はそこをあえて指摘することはしなかった。
それより、茜色の空に染まっていく白い街を想像した。タールのような闇に、真っ赤に燃えて揺らぐ摩天楼。
「そうだね。ありがとう、マルボロ」
「こちらこそ、ラッキーストライク」
しかし、ここから事態は急速に悪化していった。
きっかけは煙草だった。
夕方、礼人がいつものように制服に着替えて執務フロアに上がると、オフィスは騒然としていた。複数の警察官がいる。礼人は心臓をドキドキさせながら通り過ぎた。警察官は彼をちらりとも見ない。みな、腕を組んである部屋を覗き込んでいる——〈喫煙室〉こと、サーバー室だ。
「煙草の灰だって」
野次馬のように距離を置いて群がる社員たちから、そんな声が聞こえる。
「前から目つけられてたんだってさ……」
「なんか色々重なってヤバいね」
「続くもんだなあ」
礼人は下を向いたままトイレに向かった。必死で耳を澄ませて丸井の声を拾おうとするが、聞こえない。トイレに入ると個室に駆け込んで鍵をかけた。便座の上に腰を下ろす。息が浅くなっていた。煙草を吸いたい、と思ってから現状を思い出す。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。ランサムウェアの事実が発覚したわけではない。煙草の取引だって、聞く限りは集団的に行われていたことだ。丸井にすぐ疑いの目が向けられるはずはない。
そう思って、個室の扉を開けると、そこには丸井が立っていた。顔面蒼白で今にも卒倒しそうだ。
「もうダメです、礼人さん。終わりです」
「どうした」
礼人は慌てて丸井を個室に引き込み、便座に座らせた。遠くの方から、ゴロゴロと雷の音が聞こえる。そういえば今日は夕立の予報だ。
「警察が来てる理由、煙草の件だけじゃないんです。ランサムウェアについても、内部協力者がいたんじゃないかって……」
「でも、そんなこと知りようがないでしょ」努めて冷静に喋ろうとしながらも、礼人は自分が早口になっていることに気づく。「丸井さん、なにか言ったの?」
「まだボロは出してないと思うのですが、煙草の件と合わせて事情聴取でもされたらすぐに私なんか……」
丸井はすっかり憔悴しきっていた。礼人はその襟首をつかむと勢いよく扉に押し付けた。肥満体がぶつかる鈍い音と丸井の「ひぇっ」という短い悲鳴が反響する。
「いいか、マルボロ」
拳にぐっと力を入れて、礼人は目の前の中年男を睨みつけた。
「気をしっかり持て。俺たちを誰だと思ってる? 俺を誰だと思ってる? 当たらない弾はない、ラッキーストライクだろ?」
「そ、そ、それはゲームの中の、話です」
気づけば手が出ていた。パアン、と乾いた音が響く。礼人と丸井はしばらく黙って互いを見つめていた。
沈黙は、足音によって破られた。
「すみません、どなたか中にいますかー? 大丈夫ですかー?」
礼人と丸井は目を見開いて互いを見た。これだけ大声を出していれば、怪しまれるのも当然だろう。近くの警察官が様子を見に来たのだ。
黙っていると、続いて扉をノックする音。
「すみませーん」
だんまりを決め込むふたりに、ノックは容赦なく続いた。礼人は腹をくくってロックを外した。そして、覗き込んできた警察官を突き飛ばすと、「来るなよ! 来たらこいつを殺す!」と丸井に架空のナイフを突きつけながら、トイレを出ていく。後から何事かと駆けつけてきた警察官たちは、礼人の勢いに一瞬だけひるんだ。その隙に礼人は〈喫煙室〉に一直線に向かう。
礼人は丸井を半ば突き飛ばすように〈喫煙室〉に押し込むと、自らも中に入り、扉を閉め、鍵をかけた。廊下では戸惑ったような警察官たちの声が聞こえる。
「入ってくるなよ! 入ってきたらこいつを殺す!」
念のため、礼人は再び叫んだ。
外のざわめきが落ち着くと、礼人はへなへなと扉にもたれかかった。
「な、なにをしてるんですか」
「しかたないだろ、こうするしか」
言いながらも、礼人は反射的に行動してしまったことをすでに後悔し始めていた。適当に誤魔化せば切り抜けられたかもしれないのに。
「わ、わたしたち、捕まりますよね」
丸井の顔がみっともなくて、そしてきっと自分の顔も同じようなことになっているであろうことが想像できて、礼人はずるずるとしゃがみこんだ。
「そうだな」
「一服、しましょうよ」
「え?」
「最後に一服、しましょう」
丸井は今にも泣き出しそうな顔で煙草の箱を取り出した。ゲームの中とは違って、あってもなにも変わらないこの代物。
しかし一本咥えると、礼人は心が落ち着くのを感じた。
「そうだな。ついでに、〈イン・ザ・スモーキングルーム〉でもするか」
「最後くらいは、マルボロとラッキーストライクでいたいですからね」
〈喫煙室〉には煙草の煙が蔓延していた。空調の効いた部屋でたゆたう無数の線が、礼人の視線をぼかす。
立てこもりを始めてからすでに三時間が経過した。今のところ、外からの突入の気配はない。
「ここまで来ると、立てこもり犯としても舐められてるんじゃないかって気がしてきますね」
丸井がそう言う傍ら、ゲーム内のマルボロは敵を次々と発火させて倒していく。
「なんで立てこもってるのかも聞いてこないしな」
礼人は心の中でまだわずかな希望を抱いていた——違法煙草の使用を疑われていても、ランサムウェアの方は無関係を装えるのではないか、と。
「あるいはただ、喉が渇いて出てくるのを待っているだけなのかもしれません」
「それもそうか。会社の従業員がオフィスの一室に立てこもってるだけだもんな。よくあるんだろうな、こういう事件」
「きっと、ニュースとかにも取り上げられないんでしょうね」
「凶器も持ってないの、バレバレだし」
考えてみれば自分たちはあいつらに一矢報いたいだけであった。ちょっとでもいいから義賊のような気分を味わってみたかっただけなのだ。
――あるいは、そう思い込んでいただけだろうか。
しかし、このもくもくと煙が立ち上る狭い部屋で、小太りの中年男と仮想空間でのゲームに耽っていると、だんだんとそんなこともよくわからなくなってくる。自分がラッキーストライクで、ラッキーストライクが自分。
「マルボロ、そこの壁の裏に敵がいる」
「さすがだな、ラッキーストライク」
「……俺、ずっと言いたいことがあってさ」
「なんだよ」
「でも、こんなこと言っちまったら、仲間やめられちまうかもと思って言えなくて」
「水くせえな。おまえらしくないぞ」
ラッキーストライクは煙草の箱を振って、中身を取り出した。最後の一本だ。火を点けると、すっかり聞きなれたBGMが流れる。遠くで市民の歓声が聞こえる。自分の名前を呼ぶ声がする。こっちの世界は、俺のあの言葉を待っている。
ゆっくりと煙を肺に流し込む。
「俺はただ、頼って、頼られる仲間ができてうれしかったんだ。だから思うよ。おまえに会えたのが、俺にとって一番のラッキーストライクだったって」
「……かなわんね」
マルボロは顔を背けると、自らの能力で煙草に火を点けた。ラッキーストライクは差し出していたライターをそっとポケットにしまう。
「最後にひと暴れするぞ」
ギャングたちは倒され、最後の一本も吸いきった。ラッキーストライクとマルボロは肩で息をしながら、夕陽を浴びて立っている。
魔法が終わる。礼人はそっと呟く。
「当たらない弾はないぜ。ラッキーストライク!」
轟音が鳴り響いた。とともに、ぷつりと〈イン・ザ・スモーキングルーム〉の世界が消える。
それだけではない。礼人がヘッドギアを外すと、暗闇が広がっていた。そして、異様な静けさ。サーバーのファンが止まっている。
「停電です」
隣を見ると、光を失った世界でただひとつ、丸井の指に挟まれた煙草だけがほのかな灯りを放っていた。
「どうして、いきなり」
「すごい音がしました。たぶん、雷じゃないかと……」
扉の外がなにやら騒がしい。と、前触れもなく扉が開き、ふたりの警察官が入り込んできた。
「わっ」
丸井は驚きのあまり、最後の煙草を放り出すようにして落としてしまった。煙草はサーバーの近くに転がると、長年にわたって堆積してきたヤニと埃にまみれて、ぼっと不穏な火種を撒いた。
「燃えろ、くそったれ!」
捨て鉢になった丸井の叫び声が響く。
警察官の視線が丸井と火種にとらわれている隙に、礼人は腰を屈めてそのうちのひとりにタックルした。礼人の頭が相手の腹にめりこみ、ふたりは扉の外へと転がり出る。そのまま暗闇のなかでもつれ合うが、礼人に勝ち目がないのは明白だった。暗闇の中で複数の足音が聞こえる。
「大丈夫か?」「確保した、部屋のなかを頼む」「おーい、だれかライト」
一筋の光が礼人を照らし出す。逆光の中、礼人には自分を捕えようとする者たちの顔は見えない。
屈強な肉体に組み伏せられながら、真っ先に頭に浮かんだのは丸井の顔だった。あの泣きそうな顔。上司への不満を口にしたときの顔。マルボロのときに見せる渋い面立ちとはまるで違う。だが大事な仲間の顔には違いない。
「丸井さーん!」
思いのほか大きな声が出た。と同時に、サーバー室から「火事だ!」と叫びながら警察官と丸井が転がり出る。
「礼人くん!」
怒声が飛び交う中、贅肉にたっぷりと包まれた体がぶつかってくる。礼人の上に馬乗りになっていた警察官は「あ」の一声とともに消えた。礼人はすかさず立ち上がる。その場に留めるように向けられていたライトの光は、支離滅裂に交錯している。
サーバー室の火勢が強くなっている。煙草のものではない煙がうっすらと漂い始めている。
「礼人くん、こっちだ」
暗闇から腕を掴まれる。その手の導くままに、礼人は走る。闇の中で破片のように飛び散る光の中で、一瞬だけ、丸井の顔がマルボロのそれに見える。
だれかが追ってきている。しかし、そんなのは慣れっこだ。非常階段の扉を開けると、ふたりは二段飛ばしで駆け下りていった。
「ラッキーストライクと、マルボロだった」
丸井は明らかに礼人より息を切らしている。それでも、嬉しそうに声を弾ませながら、喋り続ける。
「わかるかい、礼人くん。きみが『ラッキーストライク』と呟いた瞬間、雷がこのビルに直撃した。そして、僕が落とした煙草が発火したんだ。僕たち、ラッキーストライクとマルボロだったんだよ」
「運が良かっただけ」
そう言いながら、礼人は笑みをこぼした。暗いから丸井には見えやしない。暗闇の中を猛然と駆け降りていく。危なっかしくて仕方がない。しかし、礼人の頭の中にはあの夕暮れの街を颯爽と駆け抜けていく、ふたりの異能力者の姿だけが克明に浮かんでいた。
ビルを出ると、外は土砂降りだった。稲妻が走り、雷鳴が空気を揺らす。隣では丸井が死にそうな顔で喘いでいる。礼人の肺も焼けるように熱い。
夕立の中をふたりはがむしゃらに走り出す。
走り終わったら煙草が吸いたい、と礼人は思った。
三か月後——。
連日メディアを賑わせたレビオコープスの立てこもり・放火事件も、いまではすっかり熱が冷め、世間からは忘れられ始めていた。
志賀礼人は今日もとある地方都市の、清潔すぎるネットカフェにいる。新しく作り直したアカウントで〈イン・ザ・スモーキングルーム〉にログインすると、迷わずラッキーストライクを選ぶ。
待機室にはすでにマルボロの姿があった。
「遅かったな、相棒」
「そこら辺で運をかき集めてたら時間かかっちまった」
本当のことを言えば、遅れたのは監視カメラをかいくぐるために遠回りを強いられたためだ。しかし、仮想空間上では現実の話はしないことが暗黙の了解。それがお互い逃亡犯であるなら、なおさらのことだ。
「——それじゃあ、ちょっくら一服しにいくか」
礼人は、丸井が今どこにいるのかを知らない。もしかするともう日本にいないかもしれないし、あるいは隣の個室にいるかもしれない。
それくらいがちょうどいい、と礼人は思う。
汚れが排除された白い街で、煙のように曖昧に、仮想世界と現実世界の境界線上を行き交うふたり。
「当たらない弾はないぜ。ラッキーストライク!」
礼人は扉を開けて、白い街から出ていった。
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