梗 概
帰ってきた利休
ある日千利休が現代で目覚めた。
利休は戸惑ったが、彼の美意識に反する町並みを見て使命を悟った。この世界を美しくするために天が蘇らせたのだ。
そのころアパレル系ECサイトの創業社長である長谷川アンは、とあるブランドの担当者とZoom会議をしていた。アンを不愉快にしたのは相手が喫茶店のテラス席から会議に出ていたことだ。なめられている。そしてもう一つ気になったのは、背景に写り込んだ別の席の客だ。僧侶のような衣に黒い頭巾という珍妙な衣装をしている。
数時間後、アンの会社のオフィスに来客。なんとさっきの僧侶風男だった。男は千利休と名乗った。利休はアンにリモート会議のダメ出しを始める。特に背景がよくない。自分がリモート会議専用の部屋をコーディネートするから、空き部屋を貸せと。アンは利休を追い払おうとするが、利休は、有益な情報を渡すという。実はアンとブランド担当者の会議の後に、担当者がその上司と会議した内容を聞いていたという。
利休はアンの会社で働き始める。
従業員の卓也は、恋人へのプレゼントに悩んでいた。利休はかつて信長と南蛮人との貿易を仲介した経験を元に、安物しか変えなくても雰囲気で乗り切るコツを助言する。
アンはインスタライブの運営に悩んでいた。トレンドを過ぎた売れ残りがなかなか売れないのだ。そんなアンに利休は、木守という茶器の話をする。木守とは晩秋の柿の木に翌年の豊作を願って、たった1つ実を残すこと。利休はかつて、売れ残った茶器に木守と名付けることでその値段を吊り上げたことがある。
今売れ残って困っているのは5年前に流行ると言われて流行らなかったデニム・オン・デニムスタイルのアイテムだ。アンは「これはコーデの難易度が高いと思われて敬遠されているので、バッチリなコーデを教えます」といって在庫を掃いた。
アンは採用に困っていた。どうしても入社して欲しいソフトウェアエンジニアからファッションに興味がないと断られているらしい。利休はそのエンジニアにこんな話をした。
かつて黒田官兵衛は茶の湯嫌いだったので、よく秀吉の茶趣味を注意していた。だが秀吉は官兵衛に「こそこそ会議をすると勘ぐられる。だから自分が茶の湯にハマっていると思わせておく事にした。すると秘会をしても、また茶の湯かと思われるから安心だ」。
付け加えて、「ファッションも同じでコミュニケーションツールとして有効だ」と言った。採用に成功した。
利休はアンを海岸の砂浜に誘った。秀吉ともこうして二人で砂浜に来たことがある。
利休は今の流行は誰が作っているのかとアンに聞いた。もちろん聡い利休は、流行が消費者ではなく業界の誰かに作られていると気づいていた。アンはファッション業界の裏側について利休に話した。
利休はそれを聞き、転職を決意した。
「天下の美は私が決める」
文字数:1155
内容に関するアピール
ジャンルがわかりやすいということを求められているのかと思い、
最初の数行で話の方向性がわかるような梗概にしました。
単調かつ先の見える話ではありますが、読者に「利休なら上手いこと言うんじゃないかな」と予想させつつ、それを上回れたら高得点が取れるのではないかと打算しています。
また個人的に、エンタメとしては『仲が悪かった二人が仲良くなる』というのが一番おもしろいと思っているので、そういう筋にしたいです。
文字数:199
利休からはじめよ
気がついたとき、利休は仰向けに倒れていた。
七十歳の身体のはずなのに、軋みがない。手のひらを開いたり閉じたりすると、節くれた指がよく動く。腹に手を当ててみた。小袖の裾が乱れているだけで、血の一滴も見当たらない。利休は立ち上がった。
(わしは、どこにおる)
しばらく、そのまま立ち尽くした。
目の前に広がっているのは道だ。幅は六間か七間はあろうか。その両脇に、見たこともない構造物がそびえている。四角い箱を積み重ねたような建物で、どれも同じ高さ、同じ形をしている。窓と思しき四角い穴が、規則正しく並んでいた。
道の上を、大きな生き物のようなものが走っていた。
最初の一台が目の前を通り過ぎたとき、利休は思わず後ずさった。しかしすぐに、腕を組んで観察する姿勢に戻った。南蛮渡来の乗り物か、あるいはまったく別の何かか。利休にはわからなかった。二台、三台と続く。
堺の港で、象を見たことがある。あのときも最初は肝を冷やしたが、二度目からはなんとも思わなくなった。これも同じだろう。
利休は、しばらく道の端に立って、行き交う人々を見ていた。
男も女も、様々な衣をまとっている。脚の形がわかる筒状のものをはいている者が多い。それを奇異とは思わない。ただ。
(あれは、いかがなものか)
利休の目が、とある女の衣の上下に止まった。上は草色がかった緑。下は、橙色に近い茶。どちらも単品ならそれほど悪くはないが、並べると良くない。上の緑が沈み、下の橙が浮き上がり、全体がちぐはぐな印象になっていた。
その隣の男も悪い。黒の上衣に、白と黒の格子の下衣。格子の目が荒くて主張が強すぎる。黒が重なって、全体が締まるどころか、ただ重たくなっている。
(ここの人々は色の重なりをどう考えておるのか)
少し歩いてみる。周囲を見まわすほどに同じ印象が積み重なった。一枚ずつ見れば悪くない衣が、合わせることで台なしになっている。色と色が響き合う場所を、見つける目がない。
建物の壁には、大きな紙が貼ってあった。
女の顔が、嫌に大きく描かれている。利休が気になったのは背景の色だった。鮮やかすぎる赤を背にして、女の顔が置かれている。赤は強い色だ。それを背景に選んだのなら、顔の色もそれに呼応するだけの力がなければならない。しかしこの女の顔色は白く、赤に対して弱い。結果、女が背景に負けている。
(なぜ、これで良しとする)
利休は首を傾げた。
道を少し歩くと、今度は別の大きな紙があった。青を背景に、白い文字が並んでいる。文字の形は読めないが、青と白の取り合わせは悪くない。青が深く、白が清潔だ。この二色は互いを殺さない。しかし文字の大きさが不均一で、全体の静けさを乱している。惜しい、と思った。
(この世は、かように見事に醜うなったのか。あるいは、もとよりこうだったのか)
足を止め、利休は長い息を吐いた。
建物は多い。灯りも多い。人の数も多い。誰も腹を空かせた顔をしていない。豊かな場所なのだろうと思う。だが豊かさが美しさを殺すことがある。あの男が、そうだった。秀吉は豊かさを手に入れ、それを美しさと勘違いした。
(あの猿めと、同じにおいがする)
そのとき、利休の脳裏に、ある確信が降りてきた。稲妻のように、瞬く間に。
自分はこの世に戻ってきたのだ。天が、もう一仕事させようとしているのだ。利休は、長い息を吐いた。
(ならば、やるほかない)
利休は背筋を伸ばした。黒い頭巾を直し、衣の裾を整えた。見知らぬ時代の、見知らぬ道の上に、利休はまっすぐに立った。行き交う人々が、奇妙なものを見るような目で利休を見ていったが、利休は気にしなかった。人の目が気になるようでは、茶は点てられない。
どこに行けばよいのか、まだわからない。
しかし行く先は、必ず現れる。茶の道とはそういうものだ。
◆
アパレルのECサイトを営む株式会社でにーろの社長、長谷川アンがノートパソコンの画面を睨んでいたのは、午後二時を少し過ぎた頃のことだった。
画面の中で、ブランド「SHISO」の営業担当、田村が笑っていた。三十代前半、髪を後ろで一つに束ねた、どこにでもいる男だった。問題は、その場所だ。白いテーブル。紙コップ。街路樹。喫茶店のテラス席である。
アンは、この会議のために朝から資料を三種類用意していた。次シーズンの仕入れの見直し、新規顧客層へのアプローチ、それに伴うSHISOとの取り扱い条件の改定案。いずれも、数字を出すのに丸二日かかった。その相手が喫茶店のテラス席から打ち合わせに出ている。
(なめている)
アンはそう思ったが、顔には出さなかった。十年でここまで会社を大きくしてきた。感情を顔に出さないことは、もう呼吸と同じくらい自然になっている。
「ご提案の内容、確認させていただきました」
と田村は言った。
「ただ、今期はちょっとご予算の都合もありまして」
この男の口から出る言葉の九割は「都合」か「確認」か「検討」だ。
「では、いつ頃までにご回答いただけますか」
アンは静かに聞いた。追い詰めるような声ではなく、ただ確認するような口調で。それが効く相手もいる。
「来週中には」
「来週の金曜日、午前中にメールでいただけますか」
「ええ、まあ、その方向で」
方向で。アンは手元のメモに「金曜午前」と書いた。
会議が終わる直前、アンはふと田村の背後の景色を見た。
テラス席の奥に、もう一つテーブルがある。そこに、妙な人物が座っていた。
黒い頭巾。茶系の、ゆったりとした衣。袖が広い。帯のようなものを腰に巻いている。一瞬、映画かテレビの撮影スタッフかと思ったが、撮影機材らしきものは見当たらない。コスプレにしては仕上がりが地味すぎる。
男は、背筋をまっすぐ伸ばして座っていた。
テーブルの上には紙コップが一つ。ただ、両手を膝の上に置いて、微動だにせずに、テラスの外の景色を見ている。その視線の先には、駅前のロータリーと、その奥の商業施設の看板があった。
看板を見ている、というより、看板を見ながら何かを考えている、という目だった。
静かな目だった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、深いところから、じっと見ている。老人なのか、中年なのか、よくわからなかった。画面越しで小さく、しかも後方に映り込んでいるだけだから、顔の細部は判然としない。けれどその座り方が、アンの目に妙に引っかかった。
あれほど静かに座っている人間を、アンはあまり見たことがない。
「では、よろしくお願いします」
田村が言った。
会議が終わりアンはノートパソコンを閉じた。
椅子にもたれ、天井を見上げた。オフィスは池袋から一駅の、古いビルの三階だ。社員は今年で十一人になった。倉庫と発送は外部委託で、ここには営業と企画と経理が詰めている。アンの席は窓際で、外を見れば線路と、その向こうに低い住宅地が見える。
つまらない景色だ、とアンはいつも思っている。しかしオフィスの立地にお金をかけるくらいなら、在庫に回すほうがいい。美しい場所で仕事をしたい、という気持ちがないわけではない。ただそれは、今の自分には贅沢だ。
アンは首を振って、次のメールを開いた。
◆
インターホンが鳴ったのは、午後五時を回った頃だった。
受付に出た経理の沖が、困惑した顔でアンのところへ来た。
「社長、あの……お客様なんですけど」
「アポは?」
「ないんですけど」
アンは立ち上がった。
受付の前に、黒い頭巾の男が立っていた。
昼間、Zoom会議の背後に映り込んでいた人物だった。画面越しに見たときより、はるかに存在感があった。背が高い。アンより頭一つ分は高い。衣の生地は近くで見るとやはり上質で、長年使い込まれた風合いがある。顔は、七十前後に見えた。しかし老人特有の萎縮した感じがなく、むしろ全体に密度があった。岩が長い年月をかけて磨耗して、角が取れた状態、というのが近いかもしれない。
男はアンを見て、わずかに頭を下げた。
「あの、どちら様?」
「千宗易と申す」
アンは一秒、間を置いた。
「はい?」
アンは続きを待った。
「失礼ながら、会議の背景がよくなかった」
アンは眉を動かさなかった。
「よくなかった、というのは」
「あなた様の打ち合わせの背景のことでございます。白い壁、雑然と積まれた書類の束、半開きのままの扉。そのような場から発せられる言葉は、どれほど内容が確かであっても、軽く聞こえる。見る者に、この方の話を真剣に聞かねばならぬと思わせる、そういう佇まいが、背景にはございませぬ」
アンは、この男が何者かを判断しようとした。新手の営業か。いや変な宗教かもしれない。
「それで、うちに何のご用ですか」
「空き部屋をお貸しいただきたい」
「は?」
「リモート会議専用の間をしつらえます。床の間、掛け軸、花入、釜。あるいはこの時代に合わせた別の誂えでも構いませぬ。要は、そこから発せられる言葉に、ふさわしい重さと静けさを持たせる。それだけのことでございます」
アンは腕を組んだ。
「うちに就職したいと」
「就職、とは存じませぬが、お役に立てることはあるかと」
「履歴書は?」
「持ち合わせておりませぬ」
「名刺は?」
「これを」と言って、男は懐から何かを取り出した。紙だった。手書きの紙で、「千利休」と、流れるような筆跡で書いてあった。それだけだった。
アンは、もう一度この男を頭のてっぺんから足の先まで見た。落ち着き払いすぎて不気味なほどだ。
「結構です。お引き取りください」
だが、その次の一言にアンは動きを止めた。
「田村様はその後、上の方と会議されておりました」
「なんですって」
「喫茶店のテラスは、隣のテーブルの声が筒抜けでございます。田村様は会議が終わったあと、すぐに上の方とお話になっていた。その内容を、わたくしは聞いておりました」
「……何を話していたんですか」
「ずばり、掛率をいくらまで下げてもよいか」
「いくら?」
「お貸しいただける部屋があれば、お話いたします」
アンは、この男を見つめた。男は静かに立っていた。急かす様子はないのに高圧的で、礼儀正しいのに無礼。ただ、そこにいる。重心が低く、いつまでもそうして立っていられそうな気配があった。
(なんなんだ、この人は)
アンは小さく息を吐いた。
「……わかりました」
アンは顔を上げた。
「ただし、うちのオフィスのルールは守ってもらいます。就業時間は十時から十九時、昼休みは一時間、それから」
「着替えは、いたしません」
アンは一瞬、間を置いた。
「わかりました」
こうして利休は、株式会社でにーろの社員でも業務委託でもない、何か別のものとして、池袋から一駅のビルの三階に居場所を得た。
翌朝出社すると、空き部屋の前に、どこで調達したのかわからない小さな植木が一鉢、置いてあった。
◆
営業担当の佐伯卓也は、昼休みにスマートフォンを握りしめたまま、給湯室の前で立ち尽くしていた。
画面には通販サイトが開いている。アクセサリーのカテゴリだ。
「恋人へのものでございましょう」
声がして、卓也は飛び上がりそうになった。
振り返ると、利休が立っていた。いつの間にそこにいたのか、まったく気配がなかった。利休がこのオフィスに現れてから三日が経つ。最初に見たときは目を疑ったが、社長が認めているので文句も言えない。
「あ、いや、ちょっと……」
卓也はスマートフォンの画面を伏せた。
「予算がないと顔に出ております」
卓也は眉根を寄せた。スマートフォンをポケットにしまい、会話を打ち切ろうとする。しかし利休が強引に話を続けた。
「信長様に仕えておったころ、南蛮の商人と取引を仲介したことがございます」
卓也は「はい」と言うほかなかった。
「南蛮の商人というのは、物の売り方が巧みでございました。布一反でも、香辛料一袋でも、ただ差し出すのではなく、必ず由来を語る。この布はいかなる職人が何日かけて織ったか。この香辛料はいかなる地の、いかなる土から生まれたか。語れば語るほど、同じものが別のものに見えてくる」
「……はあ」
「物の値打ちとは、物そのものではなく、物をめぐる言葉。三千円の品であろうと、三万円の顔で渡すことはできる」
卓也は少し考えた。
「つまり、プレゼントの仕方ってことですか」
「さよう」
「箱とかラッピングとか」
利休は首を振った。そして給湯室を出ていく。卓也はついその後を追いかけた。利休は窓の外を見て立ち止まった。曇り空だった。
「間が大事にございます」
「間?」
「取り出してすぐ渡すのではない。一瞬、手の中に持ったままにして、それから差し出す。その間に、相手は期待する。期待した分だけ、受け取ったときの喜びが増す。それから、言葉でございます。『これ、プレゼント』では値打ちが出ませぬ」
卓也は、スマートフォンを取り出してメモを開いた。
「じゃあ、なんて言えば」
「見たときに、あなたに似合うと思った、と言えばよろしい。似合うかどうかは関係ない。その言葉を言うために、あなたがその品を選んだのだ、ということが伝わればよい」
卓也は、メモを取る手を止めた。
「それって、嘘をついてもいいってことですか」
「嘘ではござらん」
利休は窓の外を見たまま言った。
「演出」
卓也はしばらく考えた。たしかに、さっきスマートフォンで見ていたアクセサリーの一つで、これ彼女に似合うかもな、と一瞬思ったものがあった。三千円の細い銀色のリングだった。地味すぎるかと思って飛ばしてしまったが。
利休は給湯室の方へ戻っていった。湯を沸かすためだろう。利休は一日に何度か湯を沸かして、茶を点てる。誰かに出すわけでもなく、ただ自分で飲む。その手つきを、卓也はまだ遠くからしか見たことがなかったが、見るたびに何となく目が離せなかった。
卓也はスマートフォンを開いて、さっきのリングのページに戻った。
改めて見ると、悪くなかった。細くて、主張がなくて、しかし確かにそこにある。
「これでいいや」
◆
その週の木曜日、アンは自分のデスクで頭を抱えていた。
画面には在庫管理のスプレッドシートが開かれている。赤くハイライトされた行がいくつもある。五年前に業界誌が「次のトレンド」と特集した、ジャケットとスカートをデニム素材で上下を揃えるスタイルで、当時アンは強気で仕入れた。結果、流行らなかった。業界誌の予測がこれほど綺麗に外れたのは久しぶりだった。
五年間、倉庫の棚の一角を占領している。
インスタライブで何度か取り上げたが、反応が薄い。コメント欄に「難しそう」「着こなせる気がしない」という言葉が並ぶ。値引きすれば多少は動くが、それでは仕入れ値を割る。かといって、いつまでも持っているわけにもいかない。
「デニム・オン・デニムというものですか」
利休が通りかかった。湯飲みを手に持っている。午後の茶の時間らしい。
「知ってるの?」
「この時代のことをなるべく見聞きするようにしております」
アンは画面を指さした。
「在庫。どうしても売れないのがあって」
利休は近づいて、画面を見た。スプレッドシートの数字が何を意味するか、理解しているのかどうかわからなかったが、しばらく黙って見ていた。
利休は湯飲みをアンのデスクの端に置いて、椅子を引いて座った。断りなく座る人だ。もう慣れている。
「上下を同じ布でそろえるというのは、昔からある発想でござる」
「流行るって言われて仕入れたんですけど全然」
「なぜ売れぬ」
「着こなしが難しいの。デニムって元々カジュアルな素材なのに、上下揃えると急にコーデとして成立させるのが難しいって思われがちで」
利休はこう言った。
「木守をご存知か」
アンは首を振った。
「晩秋に柿の実をすべて収穫せず、たった一つだけ枝に残しておく。翌年の実りを願う、木への贈り物でござる。わしはかつて、その名を売れ残った茶入に使うたことがある。同じ窯で焼かれた揃いの品の、最後の一つ。どうしても買い手がつかぬ。そこでわしは、その茶入に木守という銘をつけた」
利休は湯飲みを手に取って、少し傾けた。
「揃いの最後の一つ。ひとり残された者には、特別な寂しさと愛しさがある。そう思えば、同じ品が別のものに見えてくる」
「売れたの?」
「高値で」
「商魂たくましいわね」
「その茶入が美しい仕上がりだと確信しておったからこそ」
アンはしばらく、利休の顔を見ていた。
「つまり名前をつけろということ」
「物語でござる。なぜこれが残ったのか。残ったことにどういう意味があるのか。それを語れば、売れ残りは勝ち残りになる」
アンは視線を画面に戻した。インスタライブのデータを開く。再生数、コメント数、購買転換率。コメント欄には「難しそう」が並んでいる。しかしその言葉をよく読むと、拒絶ではなく、惜しんでいる言葉に近い。難しそう、でも気になる。そういうトーンだ。その時、まるで劇場の書き割りが動くようにアンの中で見え方が変わり始めた。難しそうなら、難しさを武器にすればいい。これはもうファッション上級者向けって切り口でやってみるか。かなり背の高いモデルさんを呼んで『これが似合う人は限られてるかもね』って言ってしまおう。
アンはテキストエディタを立ち上げた。次のインスタライブの原稿を作るのだ。すると利休が言った。
「お任せください」
利休は懐から和紙を取り出し、最近お気に入りの筆ペンを走らせ、セリフとト書きを組み上げ始めた。
アンは、在庫の売値を2倍にした。
インスタライブの後、我こそはという一部の挑戦者がデニム・オン・デニムを買っていったので、それでも残った在庫を全て破棄しても利益が出た。
この日から利休はインスタライブの演出担当となった。
◆
そのWebエンジニアの名前は、坂本といった。
三十二歳、フリーランスだ。アンの前職の同僚で、ずっと株式会社でにーろに誘い続けている人材だった。だが坂本は決まって同じことを言う。
「ファッションに興味がないので」
アンは、その言葉を三回聞いた。四回目のチャンスは、渋谷で開かれたWebエンジニアの勉強会だった。坂本が登壇すると知って、アンは参加した。
会場はコワーキングスペースの一室だった。折り畳み椅子が三十脚ほど並んでいる。坂本のLTが終わった後、軽食と飲み物が出て、参加者が思い思いに話し始めた。
アンは坂本を見つけて、近づいた。
「発表、よかったです」
「あ、長谷川さん」
「たまたま。APIの設計の話、わかりやすかった」
「ありがとうございます」
二人はしばらく、発表の内容について話した。アンは事前に坂本の過去の登壇資料をいくつか読んでいたから話についていけた。坂本も、相手が理解しているとわかると、少し饒舌になった。技術の話から、最近読んだ本の話になり、それから仕事の進め方の話になったところでアンは言った。
「うちのこと、もう一回考えてもらえない?」
坂本の表情が、少し曇った。「いや、ファッションって僕には遠くて」
「遠くていいのよ別に」
「でも、モチベーションが持てないところで働くのは、お互いよくないと思うので」
にべもなかった。アンは一秒、間を置いた。
「そうかぁ」
それ以上言えなかった。言葉が出てこなかった。三回断られて、四回目もここまで来て、それでもやっぱり同じ答えだった。
坂本が、アンの後ろに目をやった。
「ところで、後ろにいる僧侶みたいな人、誰ですか」
アンは振り返った。利休がすぐ後ろに立っていた。
「いや、この人は……」
「黒田官兵衛と同じでございますな」
利休が、坂本に向かって言った。
坂本は目を丸くした。アンも、思わず利休を見た。利休は坂本だけを見ていた。断りなく、前置きなく入るのが、この男の流儀だった。
「……誰ですか」
「千利休と申す。ファッションに興味がないとおっしゃる。官兵衛も、そういう男でございました」
坂本は、助けを求めるようにアンを見た。アンは小さく首を振った。止められない、という意味だった。
「官兵衛は秀吉の茶の湯好きが気に入らなかった。天下の政を預かる身でありながら茶の湯などに現をぬかすとは何事か、と。たびたび諫言しておりました」
坂本は、話の行き先がわからないという顔で聞いている。
「あるとき秀吉が官兵衛に言いました。わしが茶の湯にのめり込んでいると思うておるか、と」
「……思ってたんじゃないんですか」
「ところが秀吉はこう言うた」
利休は少し間を置いた。
「こそこそと会議をすると、周りに勘ぐられる。だからわしは茶の湯に夢中な男だと思わせておくことにした。すると内々に人を集めても、またあの茶の湯かと思われる。誰も怪しまぬ」
坂本は、少し黙った。
「隠れ蓑だったと?」
「コミュニケーションの道具でございます。人を集める口実であり、場の空気を整える仕掛けであり、相手の緊張を解く手立てでもある。茶そのものへの関心など、さして必要ではない」
坂本はテーブルの上で、指を一本立てた。考えるときの癖らしかった。
「ファッションも同じだと言いたいわけですか」
「さよう。いわば、ファッションは人間のAPI」
利休はあっさり言った。
「ファッションに詳しい必要はない。されど、ファッションがコミュニケーションの道具だということは、知っておいて損はない。この会社の商売は、人が何かを選ぶ理由を扱っておる。人がなぜその服を買うのか。なぜ今日その色を着たいのか。それはつまり、人がどう見られたいか、どう感じたいか、という話でございます」
坂本は、指を降ろした。
「そっちの話なら、わからなくはないですけど」
「さようでございましょう。技術で解くべき問いは、人の行動の中にある。その人の行動を理解するのに、ファッションへの興味は要らぬ。ただ、人がなぜ着飾るのかという問いへ鋭さは要る。人間を機械だと捉えれば、むしろ坂本殿の得意では」
坂本はしばらく黙っていた。利休も黙っていた。アンは二人の横で、息を潜めていた。
「秀吉は、本当にそんなことを言ったんですか」
「わしはその場にいた」
坂本は、また少し黙った。それから、小さく笑った。初めて見る表情だった。
「少し、考えてみます」
帰り道、アンと利休は並んで駅へ向かった。夜の街で、利休の黒い頭巾は相変わらず浮いていた。
坂本が入社の意思を伝えてきたのはその3日後のことであった。
◆
土曜日の朝、利休がアンに言った。
「海へ参りましょう」
アンは返事をする前に、利休の顔を見た。いつもと変わらない顔だった。急いでいる様子もなく、かといって暇つぶしのような軽さでもない。ただ、行く、と決めている顔だった。
アンはノートパソコンを閉じた。
「どこの海ですか」
「近ければどこでも」
一時間ほど電車に乗って、湘南の海岸に出た。三月の海だった。人は少なく、風が冷たく、波の音だけがよく聞こえた。利休は砂浜に出ると、靴を脱いだ。裸足で砂を踏んで、少し歩いた。それから振り返って、アンを見た。
「よい砂でございます」
アンは靴を脱がなかった。砂浜の手前で立ったまま、海を見た。水平線がまっすぐに伸びている。空と海の色が、今日はよく似ていた。
「秀吉とも、こうして砂浜に来たことがある」と利休は言った。
秀吉と砂浜。
「博多の箱崎でございました。あの男は、砂浜を歩きながら朝鮮への出陣のことを話しておった。わしには、関心のない話でした。ただ、砂浜は好かった」
利休は波打ち際の近くまで歩いて、立ち止まった。
「海を見ていると、天地の大きさを思い出す。わしの一生など、砂粒一つにも満たぬ」
アンは、その背中を見ていた。
「あなたに聞きたいことがある」
利休が振り返らずに言った。
「何ですか」
「今の流行は、誰が決めておるのか」
アンは少し間を置いた。
「消費者、と言いたいところですけど」
「違うのでございましょう」
アンは砂浜に一歩踏み出した。冷たい砂が、靴越しに伝わってくる。
「実際は業界の人間が決めてる。ブランドと媒体とメーカーと。あとはここ最近だとインフルエンサーが絡む。この4つが組んで、これが来季のトレンドだと打ち出す。消費者はそれを見て、自分が選んでいると思っている」
「思っているだけで、選ばされとると」
「まあ、そう」
利休はしばらく黙っていた。波が来て、砂を濡らして、また引いた。
「そのブランドと媒体とインフルエンサーというのは、美しいものを選んでおるのか」
アンは答えに詰まった。正直に言うべきかどうか、一瞬迷った。しかしこの男に対して、言葉を選んでも仕方がない気がした。
「美しさより、売れるかどうかね。売れる見込みのあるものをトレンドにする。トレンドにすれば売れる。その循環。むしろ美しすぎると、手が届かない感じがして売れないこともあるし」
利休は、ゆっくりとアンの方へ歩いてきた。砂の上を、裸足で歩いている。足跡が、波打ち際まで続いている。
「媒体というのは、雑誌か」
「今はウェブが主流ね。記事を出して、広告を取る。ブランドからお金をもらって記事を書く。人気のモデルに着せたり、アニメでタイアップしたり。どこまでが編集でどこからが広告か、境目が曖昧なことも多い」
「銭を出した者が、美を決める」
「そうね」
利休はアンの隣に立った。二人で、しばらく海を見た。風が来て、アンの髪が揺れた。利休の頭巾は、びくともしなかった。
「秀吉と同じでございますな」
アンは利休を見た。
「あの男も、銭と力で美を決めようとした。黄金の茶室を作り、高価な名物を集め、それが美しいのだと周りに思わせた。わしはずっと、それに抗っておった」
利休の声は、静かだった。怒っているのか、懐かしんでいるのか、アンにはわからなかった。
「で、最後は腹を切らされた」
「……そりゃご愁傷さま。それでも、抗ったことは正しかったと思う?」
利休は少し考えた。
「正しいかどうかは、わからぬ。ただ、わしには、それしかできなかった」
波が来た。今度は少し大きい波で、利休の足元まで水が来た。利休は動かなかった。冷たい海水に、裸足の足が浸かっている。それでも、動かなかった。
「わしは、この会社を辞めます」
アンは、少し驚いた。驚いたが、なぜか引き止める気にはなれなかった。
「どこへ行くんですか」
利休の目が静かに光っていた。
「わしはブランドでファッションデザイナーになる。銭では決められない美を思い知らせてやる」
「また秀吉と戦うってこと?」
「さよう」
「負けるよ、また」
「天下の美は、わしが決める」
風が来て、波が来た。水平線は、さっきと同じようにまっすぐに伸びていた。空と海の色が、よく似ていた。
◆
ある日、業界で少し話題になった媒体の記事を読んでいたとき、アンは妙な感覚を覚えた。その記事は、あるブランドの新作コレクションを紹介するものだった。写真は美しく、文章は短い。何かを饒舌に語るのではなく、ただそこに置いてある、という感じの記事だった。
これは。
アンは画面から少し顔を離した。
記事に署名はなかった。ライターの名前も、監修者の名前も、どこにもなかった。ただ、記事の末尾に、小さな茶碗のアイコンが一つだけ、置いてあった。
文字数:10839




