打ちぬいた後の泡

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梗 概

打ちぬいた後の泡

郊外の一角にある小さなタップルームで、主人公の女性は一人でビールを飲んでいる。仕事帰りに立ち寄っただけで、特別な目的はない。カウンターの向こうには女性の醸造家がいる。四十半ばくらいで屈強な身体の持ち主だ。繁盛する喧騒のなか無言のまま手際よくグラスに注いでいる。主人公はその様子を見るのが好きだった。
 クラフトビールは、二度と同じ味にならない酒だと知識として理解している。たとえ同じ銘柄であっても材料や仕込みの条件、作り手のその日の手つきによって、味はわずかに変わる。工業製品ではないから当たり前のことだ。
 そしてその性質はいまの社会ではほとんど価値にならない。
 主人公は文化体験を保存・管理するアーカイブ施設の末端職員として働いている。未来社会では、失われやすい体験をできるだけ残そうとする動きが制度として定着していた。裏を返せば揺らぎが大きく、再現性の低い体験は『不適合』とされ、文化的価値の外側へと弾かれる。彼女の仕事は、それらをひそかに調査し、保存の必要性を吟味することだった。
 その日、新しい運用指針が端末に配信された。保存基準の見直しの通達である。理由は月並みで、運用コストの問題だった。判断はさらに機械的になり、個別の事情は考慮されなくなるだろう。実際、酒類部門では、それまで適合していた酒蔵やワイナリーが一転して不適合判定とされた。次々と届くメーカーからの悲痛な訴えと罵詈雑言は彼女を疲弊させた。
 帰宅途中、いつものタップルームの灯りが目に入ったとき、主人公は反射的にドアを開けていた。この醸造家のビールは、彼女が初めて飲んだクラフトビールでもあった。今日くらいは、基準の外にあるものを、そのまま口にしてみたかった。
 目の前のビールを前に、彼女は無意識に評価しようとする。味を言語化し、既存の指標に当てはめようとするが、うまくいかない。泡はすぐに消え、苦味が舌の奥にわずかに締めつけるように感じられた。この一杯は、文化アーカイブとしては明らかに不適合だろう。しかしそれがなぜか愛おしい。彼女はもうひとつ同じものを頼んだ。醸造家がレバーを引くと気の抜けた音が鳴り、注ぎ口からビールが出なくなった。醸造家は「打ちぬいたね」と笑う。
 主人公はカウンター越しに尋ねる。「このビールは記録されるべきと思いますか」。醸造家は少し考え、「残らない前提で、作ってるかな」と答えた。
 文化は残るべきものだと、主人公は思ってきた。しかしそのビールは、記録できなくても確かによかった。再現できなくても、飲んだ瞬間にしか存在しない価値があった。
 後日、主人公はその体験ログに「保存不適合」の判定を下す。正しい処理だ。それでも彼女の中には、誰にも渡さない感覚が静かに残った。あのビールをもう一度飲むことはできない。それでも、残らないものもまた文化として生きているのだと、彼女は初めて思えるようになった。

文字数:1195

内容に関するアピール

エンタメSFとして誰に読んでもらいたいかを考えたとき、普段あまり小説を読まなさそうな層に届く作品にしたいと思いました。読書のとっかかりになるよう、狭く具体的なテーマとSFを組み合わせ、本作ではクラフトビールを題材にしています。評価や保存が前提となった社会で、華氏451度のfireman的職業人を主人公に、記録できない一杯が人に何を残すのかを、身体感覚を軸に描きました。

文字数:185

課題提出者一覧