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梗 概

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中学生の桃子は、大きな事故で家族を失い、自身も大けがをしたが回復した。
 施設に引き取られたが、やや古く、「ママ」とよばれる小柄な施設長も高齢だった。
さまざまな事故で体の一部を失って、部分的に機械化されたものが集められた施設であった。桃子は左腕も義腕だった。ママによると、桃子も中枢の一部損傷してそこだけ回路化されたらしい、そんなに大したことないとママは言った。
 記憶に関しては、脳も、人口中枢も、定期的なバックアップが行われることになっていた。失われていた場合は書き込みも行われる。桃子の記憶もそれで回復されたのだった。
 施設には高校生までの女子が集められいている。ふたりづつの部屋に分けられる。同部屋は桃子同様に背の低い花梨という、高校生の女子だった。花梨は左足義足だった。花梨はとくに困っていなかったが、かなりの体を機会に入れ替えたママは、卒業記念に、自分はもう先も長くないからと花梨に自分の左足を贈与した。あまり花梨はありがたがっていなかったが桃子は単純に感激した。そして、桃子も、自分になにかあったときのこりの身体を提供する登録を出した。
 こうして、かなりの部分をママは機械化していた。しかし中枢は手つかずであった。物忘れも多くなってきたと、よく回復室に入っていた。
桃子は気に入られ、なかばママの世話係になった。ときどきママは意識を失うようになった。
あるとき、体の動きも悪いので、また気を失ったら、そのまま回復室に連れて行ってくれという。記憶の回復も行われる回復室では、リフレッシュボタンで、からだにある人口回路をすべてリインストールしてあたらしく動きなおすことができる。
 花梨が、ヘルパーとして施設に派遣されるようになった。花梨は、桃子はじめ施設収容者の記憶のバックアップをときに手伝うようになった。バックアップは個人が管理する。
 ママは一時意識を失い、戻ったときは言葉がしゃべれなくなっていた。桃子はなんとかママを回復室に連れ込みリフレッシュボタンを押した。そのまま意識を失った
 病院に二人は運ばれ戻ったのは一人だった。桃子は実際には事故で大脳の大部分を失っており、リフレッシュボタンで記憶を失った。ママがわからぬよう廃棄したため桃子の記憶のバックアップがみあたらず、身体提供登録して、リフレッシュボタンを押したのも桃子ということで、ママの中枢移植のために体を提供する覚悟があったのだろうということになったのだった。ママははじめからそのつもりだった。
 施設にすっかり機械のない若い体でもどったママ(体は桃子)が、定期バックアップに入ると、操作が花梨だった。花梨は手に桃子の記憶のバックアップをもっていた。花梨はママのことをずっと疑っていたのだった。
 ある時から後のことを知らないままに、桃子がまたよみがえった。よかったと花梨は喜び、自分はほんとうはママの足なんかほしくなかったんだと言った。

文字数:1201

内容に関するアピール

回転というのは構造の問題で、そこからアイデアを出すのは私には難しく、書けそうなアイデアをひねって、なんとか回してみました。ママに体をのっとられるのがひとつめのオチで、ママの大笑いで黒く終わるところなのですが、このたび登場人物を増やして、めでたく桃子が戻ってくるようにいたしました。

文字数:140

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雨だった。
 部屋は暗い。桃子はベッドでシーツにくるまっていた。おなじ部屋にあるもうひとつの、花梨のベッドは空だった。この時間に部屋から出てはいけないはずなのに花梨はいない。
 むかし多くの園生がそれぞれの部屋にいたこの寮の建物に、いまいるのは、桃子と、花梨と、園長である「ママ」だけだった。20人近い未成年の園生がおり、寮監や炊事人、洗濯係も住みこんでいたというのだが、いまは食事は配達で洗濯も外注、ふたりの園生のために寮監をおくこともしない。
 入口から入ってすぐの赤系の幾何学模様の内装の広間の吹き抜けを、園生の居室の扉が囲んでいる。廊下を残して吹き抜けのあいた二階にも扉が並び、奥に調整室と園長の部屋が並ぶ。多くの園生の部屋は長く閉じられたままだった。
 建物全体に風の音が響いていた。
 桃子がじっとしていると、扉のむこうの広間の、建物の入り口を叩く音が聞こえた。こっそりキー番号を自分用に設定したと嬉しそうに言っていたのだからあれは花梨ではないはず、と思いながら桃子はベッドからおりた。床がきしむ。小柄で太くもないのに体重が重いのは、右腕が機械のせいと桃子は思っていた。
 扉に触らず耳を澄ませた。奥の階段から一階に下りてきた気配が、部屋の前を、いろいろな部品の作動音をかすかにさせながら通り過ぎていく。この寮の園長である「ママ」だった。ママが、広間の端まで行って扉を開ける音。
「わからないはずがないでしょう、あなたも、桃子のお手本にならないといけないのに」
 ささやくようなママの小言に、花梨が、不承不承に謝る声が聞こえた。桃子はベッドに戻ってシーツを胸まであげたが、目は閉じなかった。
 機械の左足をやはりわずかにきしませながら花梨が戸を開けて部屋に入ってきた。髪の短い、やや釣り目で痩せた花梨はそのまま桃子のところに来た。横になったまま桃子は、フリルのついた白いシャツに紺色のパンツでベッドサイドに立って見下ろす花梨のほうに目を向けた。
「桃子、私が出たことをママに言ったの?」
 黙って桃子は首を横に振った。花梨は腰に手を当てたが何も言わず、部屋の中央をあけてもうひとつの壁際の自分のベッドに向かって、着替え始めた。桃子はその後ろ姿にむかって、何やってきたの、と訊いた。
「なんでもいいでしょ」
 花梨は振り向きもしなかった。桃子は、花梨に向けた顔を、また天井に向けて目を閉じた。カーテンの向こうで、閉じられた窓が風に吹かれて叩かれるような音を出した。

朝食には三人揃う。一階の奥には広間から短い廊下が伸び、右側に厨房があるがいまや流しの横に大きくそびえる冷凍庫しか使わない。配達されたものがストックされ、桃子と花梨が交代して調理器で準備したものを廊下を渡ってむかいの食堂に運ぶ。食堂には四人掛けのテーブルが五卓、窓の近くから廊下まで二-一-二で配置され、いつも廊下から入ったところにあるテーブルに食事は包装のままおかれるのだった。
 桃子と花梨がいつものようにテーブルにつくころ、ママが階段を下りてやってくる。
「おはよう、花梨、桃子」
 昨夜のことはなにも言わず、白いシャツにチェックのスカートのママもテーブルについた。窓の外は昨夜の雨のせいで緑が濡れている。花梨も桃子も紺の標準服を着てそのまま出られる恰好になっている。
 ママの齢は高齢な以外よくわからない。花梨も桃子もその歳として小柄で、花梨とママは背丈はあまりちがわない。ママの顔は丸く髪はややおかゆ色で、手足がひとつづつ機械になって いる。
 花梨も桃子も体の一部は機械だった。ここは、事故などで体の一部を損傷し身寄りをなくした子供を育てる施設なのである。
 桃子は物心つく前に両親を亡くし、桃子自身は大きな怪我をしたものの救命された。右の肘から先は機械である。外見ではほとんどわからない。中枢も一部機械に交換されているはずだが、桃子は詳細は教えてもらっていない。ママが把握し、管理している。中学一年生でここにきてからまだ半年しか経っていない。自己管理は高校生になってからなのだ。
 脳幹や中脳など生存にかかわる部分が損傷されたらもう救命はされないが、脳死にならないレベルであれば必要な部分を機械で補うのが基本救命方針とされていた。機械でまず対応して、その後、金があれば自分の細胞部分を組織器官まで育てて自家移植する。そうでなければ他家移植である。金がなければいつまでも機械で、公的社会保険でまかなわれるものは規格品なので完全にフィットするとはいいがたく、皮膚の色も揃わず、重く、動きもあまりよくなかった。それでも上肢なら指先で端末操作ができ、下肢なら走り幅跳びができるのが標準規格である。
 桃子の右肘から先も、花梨の左腿から先も、公的保険レベルの機械である。成長期は交換の間隔が短いのでそれでも仕方ないが、高校二年生でほぼ成長のおわった花梨はそろそろいいものがほしいだろうと桃子は思っていた。口には出さない。中学生になる時選ばれてここに移されただけでも感謝しなければと、まえの施設の教育職のおばさんにこんこんと言われてきたのだ。ママが高齢化して引き取りを絞っている、手篤さに定評のある施設だった。
 ママは金持ちの筈だったが、あなたがたが機械なのに私だけそうじゃなくするわけにいかない、というのが口癖だった。
 肉体の右手と機械の左手で、ママは盆の上の朝食の包装紙を割いた。花梨と桃子もそれに続く。なかから湯気が上がる。皿をとりだして、三人は習慣として手を合わせた。北向きの窓は大きく、明かりは十分である。
「花梨、あなたいい成績だから、私はうれしいわ」
 ママはゆっくり食べる。合間にすこし喋る。花梨も桃子も口にものがある間は話をしないことになっていて、喉の奥で相槌をうちながらきいている。
「技術系に所属をかえて。大学もいかないというし、勿体ないんじゃない、むかしみたいにネイルアーチストになるっていうなら反対したんだけど、」
 花梨は口のものを飲み下して口を開く。
「私はそれでいいの」
 短く言って、のこりのパンを口に運んだ。
「まともな成績で先に進むならお金の心配はいいのよ」
 花梨は黙って首を振る。桃子は黙ってミルクを口に運んだ。カップをテーブルに置くところでママは桃子に向いた。
「桃子、あなたも頑張ってるわね、誇らしいわ、進路はゆっくり考えていいのよ」
 桃子は、ありがとうございます、ママ、と答えた。
 食事が終わるころに、園内に通信が通る。夜の間はつながらなくなっているのである。桃子も花梨も早速端末を専用ポケットから出して、学校からの連絡事項の確認を始めた。花梨が、目を見開いた。ママが言った。
「ひとつ奨学金があたったわね、お祝いしないといけないわ」
 これで進学しないなんて、とママは首を振った。花梨はすこし表情を明るくした。
「これで、就職がしやすくなったわ」
「ママがなんとでもしてあげますよ、就職なんて」
「それはわかってるわ、ありがとうママ」
 ごちそうさまと花梨は盆の上をまとめて立ち上がった。花梨がいなくなったあと、桃子が短い時間だがママの相手をすることになっていた。
「あの子は夜出てなにしてるのかしらね、何も言わないのよ、桃子は何か聞いたの?」
ママはやっとその話を始め、桃子は、自分にも教えてくれないのとママに答える。
「危ないことをする子じゃないと思うんだけどねえ、成績も落ちてないんだし」
 桃子は黙っていた。
「足が使いにくくて困ってるんじゃないかしら、それであれこれいわれたりしてないわよね、昔はよくあったのよ。桃子は学校でいじめられたりしてないわね」
 桃子は困惑した。この園にきて通うことになった中学校は、すこし金持ち向けの学校で、そこに成績のいい子供やらも混ぜられている。桃子は、ママの力で金持ち枠として入れられている。学校側としてはママの資産があるからで、多様性というのがその理由付けだった。ママはママで、ちょっとでもいいところと人間関係がある方がいいのよという。しかし内実は出身クラスタで人間関係は完全にわかれていた。どのクラスタからも、桃子は異物なのだった。監視も強いのでいじめすらない。笑顔で会話するものの、持続する人間関係はなかった。よい成績をとればどこかのクラスタには入れるのだろうが、桃子はそこまでには至っていない。機械の前腕のことをいじられるどころではなかったのだ。
 日々の会話はママとばかりで、花梨もあまり相手してくれない。朝の五分ほどのこの会話は習慣だった。
「さあ、あなたも準備なさい」
 ママはゆっくり立ち上がった。花梨は、ママと自分の盆を、調理室の処理機に運んだ。食堂の外の芝生のむこうの木立は、残る水滴できらきら光った。

桃子が夕方部屋に戻ると、ベッドの手前のデスクに花梨が頬杖をついている。入口で靴を脱いで、黙って、その対面の壁にむいた自分のデスクにバッグを置いたところで、名前を呼ばれて振り向いた。
「桃子」
 花梨はもう一度名前を呼んだ。
「あたしがなにやってたか見せてあげる、教えてもらいに行ってたのよ」
 花梨は立ち上がって、自分のベッドに腰を下ろした。パンツの裾をたくしあげてソックスを外す。生足があらわれたが、左足は機械であることが色でわかる。
「これ、見てよ」
 桃子が向かいの、自分のベッドに座る。縦に長い窓からの夕方の明かりのなかで、花梨は右足を浮かせた。足趾の先がきれいに装飾されていた。桃子は目を見開いて花梨に、きれいね、といった。
 花梨は微笑んだ。
「ネイル、クラスメイトのお姉さんがやってるの」
 各趾はすこしづつ違うピンクで染められ、黄色や白のラメがちりばめられ、白いエナメルが貼られている。
「むかしこれを進路にって言ったけどママが反対して、だからすこしづつそのお姉さんにこっそり習ったの、もちろんお礼して、基本的なところだけね、昨日、自分で仕上げまではじめてやったのよ、趣味でやるならこれで十分っていわれたわ」
 桃子は、仕事にする気なのだろうかと思い、花梨にそう尋ねた。
「まさか」
 花梨は首をすくめた。
「ここから先は自分でいろいろやってみるけど、これだけでやって行けるなんてさすがに今更思ってないわよ、自分をアゲることができたらいいし、それを自分でできたらいうことないじゃない」
 機械の左足の、爪のない先にも、生足とおなじように模様が付けられていた。桃子の視線に花梨は気づいた。
「こっちも、大切な足なのよ、機械でもね、でも、ママが、奨学金ももらったし卒業ちゃんとできたらお祝いにママの左足をくれるというの、私のまえのひとに右足をあげたからあなたには、っていうのよ」
 桃子はそちらに驚いた。この園をつくるきっかけは事故で、ママの機械の部分はそのときのものだときいていたからである。
「それは左手ね、右足はひとにあげたのよ」
 桃子は、こんどは機械の左足を浮かせて、その先を桃子につきつけた。
「そろそろ終活だから、自分の体をご褒美にするわって言って。組織適合性気にせず他家移植するのだと、いろいろ処理しなきゃいけないことがあるの、だからあたしはお金を稼いで自家移植目指してるのよ、ネイリストじゃ無理よ。でも、そんなのいつになるかわからないでしょうって言われて、さっさと稼がないとね」
 機械で代替が効くといっても、生きているうちから自分の一部を他人に善意で渡してしまう話はあまりない。機械で制度がまわっているところには、死後譲渡の手足もあまりまわってこない。馴染めば生体の方がずっといいもののはずで、本当にくれるなら素敵ではないかと、桃子は正直に言った。花梨はすこし意地悪く笑った。
「桃子、あなたも頑張ったら、右手をくださるかも知れないわよ」
 花梨は桃子の顔を見ていたが、浮かしていた足を下ろし、これも私の足なのよ、と小声でつぶやいた。
 窓からの明かりはずいぶん暗くなり、気づくと天井の照明が部屋を照らしていた。花梨の足先はそれでも華やかだった。

桃子がきて一年、中学も二年生になった。花梨は高校三年生になる。
 一学期に一度、調整室にひとが入る。
 昔はこれも職員がいたというのだが、いまは契約した会社から作業者が派遣されてくる。やや年輩の男が、二階の奥、ママのいる園長室隣の調整室の鍵をママから受け取って、電源を通して機械をチェックする。
「自前でこれをもつ施設はなかなかないのよ、運営権はもう渡しちゃったんだけど」
 ママの自慢であった。
 今はもっぱら、記憶の定期バックアップに使われていた。調整室に入ったすぐにそのための自動椅子がある。部屋の奥には、透明アクリルのスライドドアのむこうに初期化室があった。体の一部となっている機械部分が、長く使っていると時にフリーズすることがある。調整室の中の初期化室は、そうなったものをその中で全体初期化してしまう。機械をいれたものが3人しかいない今、その機能を使った覚えは桃子にない。
 バックアップはママ、花梨の順に続き、桃子はママから自分用の記憶ユニットを受け取って調整室に入った。
「桃子ちゃん、またちょっと大きくなったかな」
 谷田という名札を付けた、灰色の規定作業衣のやせた男は、ユニットを受け取り、髪の薄い頭を振りながら、自動椅子に座った桃子に愛想よく言った。体重は増えたわと桃子は心の中で答えた。
「勉強してるかい」
 桃子は顔を見るのが四度目になるこの明るい男が嫌いではなかった。愛想よく、試験があったばかりで今は休み期間だと答えた。椅子が伸びてベッドになる。
「じゃあ、覚えたことはしっかり残しておかないとな、ここから先毎日寝て暮らして忘れても、今日のバックアップを使えば、ぜんぶ元に戻る」
 その代わり、今日からあとのことがなくなっちゃうのはねえ、と桃子は真面目に言った。
「でもそれで桃子ちゃんも助かったんだから」
 桃子は事故でほとんどなにも覚えていなかったところで、バックアップで記憶を戻されたのである。ものごころもついていない時期ではあったが、事故数か月前のバックアップまでの父母との生活だけがかすかに残っていた。
「まあ、よくできてるよいまどきのシステムは、記憶補助装置だってグラデーションつけられるんだからね」
 扉が開いて、ママが入ってきた。
「谷田さん、むかしの事故の話を気楽にするもんじゃないですわ、思い出すのがつらいものだっているのよ」
 そりゃすみませんと谷田はまじめな顔になった。
「ま、こういう記憶の定期バックアップも、最近はずいぶんルーズになりましたけどね、開始すぐのむかしは全年齢対象で最低四か月に一度だったのが、立場年齢状況で、数年に一度の人が増えましたよ、戻すのに金がかかるし、記憶装置のリソースがきりないし、実際それで法的に問題のある状況なんてほとんどないんだし、いまだに四か月に一度のここのおかげで、うちの会社もやっていけますんで」
「そんなはずないでしょ、おたくはしっかりしてるんだから」
 ママは愛想よく笑った。
「そこそこの大手じゃないの、外部社員もとらないしお給料もいいって評判いいわ」
「おかげさまでね、もうじき私もリタイヤですが、新人は毎年ちゃんと入ってくれるんで安心ですよ」
 ママと谷田は、リタイヤ後の話などを延々と続け、自分の記憶のバックアップはいつやってくれるのだろうと、横になったまま桃子は思った。

この夏には花梨は谷田のいる会社に就職が決まった。支店は多く、給与も悪くない。
「ママが何か言ってくれたの?」
 花梨が珍しく早く帰り、三人が食堂のテーブルにつく。まだ庭は明るい。中学二年生の桃子は、小柄ながら少し育って前より肉が付いている。同じ部屋の花梨はともかくママとまともに喋るのは食事の時間ばかりで、そのうちママの顔を見たらおなかが空くようになるのではないかなどと、学校の理科の授業で聞いたばかりの話を反芻していた。
「あなたがちゃんとしてなきゃ採用してくれるわけないんだから安心なさい」
 胡椒のきいたポテトスープを飲み下して、ママは答えた。
「最近は黙って夜出ないし、成績もいいし、うれしいわ」
 花梨は黙ってパスタをフォークで巻いている桃子を見たが、ママに顔を向けなおした。
「私がいなくなったあと、誰か来るの?」
「それねえ」
 ママはスプーンを皿に残して手を下ろした。
「もう先もわからないから、次は考えてないのよ、桃子、寂しくなるけれどごめんね」
 自分の次はどんな子がくるのだろうと思っていた桃子は、驚きとまではいわないが、少し落胆して、口の動きを止めた。
「私がしっかりしてるうちは桃子の面倒はみられるけれど」
 花梨が首を振る。
「ママしっかりしてるじゃない、まだ処理もしてないんでしょう」
「お金もかかるし、いろいろ忘れるかもといわれるとねえ、花梨だって、それで、私が足をあげるといっても迷っていたじゃないの」
 花梨はママの顔を見た。
「だって実際に記憶がおかしくなったときに、バックアップから戻すのだって無料じゃないのよ、バックアップとるのだけ補助金が出るのっておかしいわ」
 それはもう仕方ないじゃないの、お金は遠慮しなくていいのとママは首を振った。
「私はもうなにもしないで、あげるだけあげたら終わりにしていいかと思っているのよ、でも、桃子がここを出るまではしっかりしてなきゃとも思うの、ここの資産運用もそのつもりでやってるの」
 ふたりは桃子を見た。桃子は会話の内容があまりわかっていない。花梨はまじめな顔で言う。
「処理ってわかる?」
 桃子が、わからない、という仕草をすると、花梨は続けた。
「ひとことでいえば若返りね、テロメレーズ処理とかいう、それだけじゃなくいろんな処理の総称よ、全身の細胞の若返りで。これがまずお金がかかるの。すべて若くなるわけじゃないわ、生きた細胞成分でできてないところなんていくらでもある、靭帯とか、いろんな基底膜もね、でも、細胞に関してはぐっと若くなる。」
 こういった知識は高校になれば習うんだろうかと桃子は思う。
「その処理が、HLAをあわせない他家移植のあともいることがあるの、まとめてなじませるのね。でも、神経回路に影響するようでいろいろ忘れるらしいのよ、それで、バックアップから記憶を戻すんだけど、直前のバックアップから戻すのにまたお金がかかるのよ。」
 そんな処理だってうちの調整室でできるんじゃないのかと桃子は訊いた。
「そこはロックがかかっていて、法的な手続きがすんでお金の払い込みがあってはじめて装置が動くのよ、開発環境の維持にはお金が要るんだって」
 ママは頷きながら、ホワイトソースのかかったブロッコリーを口に入れた。窓の外はやや暗く、三人のテーブルの上の天井だけが明るくなっている。
「花梨に私の足をあげたら花梨に処理がいるかもしれないし、私自身ももっと先まで生きるなら私自身も処理しておいた方がいいかもしれないし」
「ママはまだ若いわよ」
 花梨の言葉にママは苦笑した。
「最近忘れることが多いの、バックアップから戻すほどではぜんぜんないんだけれど。先もわからないから花梨、卒業するときに左足をあげるわ、ちはやに右足あげたときは処理は要らなかったんだし」
 ちはや、というのは、花梨のさらに年上のかってのルームメイトの名前であった。花梨は目を瞬かせて、ママ、ありがとうとしか言えないわ、と言った。ママはそのあと、ちゃんとしてくれたら、桃子にも右手をあげるわとも言った。
 ちゃんとするというのがどういうことなのか、桃子にはよくわからなかった。

花梨がいなくなり、中学校三年になった桃子は、二階の、ママのいる園長室の横に部屋替えをした。もうこの建物にふたりしかいない。
「なにかあったら来てほしいの」
 ママは、部屋替えの時に、園長室と桃子の部屋のあいだのドアをあけてみせた。。
「花梨に左足もあげちゃったでしょう、手足四つのうち三つも機械になって、フリーズのリスクもあがったし、このところよく色々忘れるような気がするの、もともと隣の部屋は、世話係をおいていたから行き来できるようになっているのよ」
 桃子に世話係をしろということで、ちゃんとするというのはこれのことかと桃子は思った。
 世話係といってもほとんど話し相手になる。部屋の掃除も衣類の入れ替えも朝のうちに業者がきてやってしまうのである。
 あいかわらず学校ではういてしまっていて、深く話せる友達もいない。ママが、桃子は学校で大丈夫でしょうかと担任に頻繁に連絡をとるもので、余計注意深く扱われているようだった。持ち上がりで高校に上がれる程度の成績はとっていた。
 担任のほうは、しきりに、園での暮らしを桃子に訊いた。虐待はないのか気にしているようだった。園長をどう思うのかというので、えらいひとで、お歳になって自分の下が入らないのが残念だ、もっと長く続けてくれたらいいと思う、と答えるのだった。
 前の施設ではいつも機械の手のことをいわれた。それがないだけでもいいわと桃子は思っていた。
 朝食は桃子が調理機から出した二人分を、ママのひろい執務室の窓際の小テーブルに運ぶことになった。親からの資産でこの寮をはじめ、寝室と執務室のふたつある園長室に住んでいて、ほんとうの家も外にあるというのだが帰っている様子はない。
「来年には高校に上がるのだし、そろそろしっかりといろいろ考えなければいけないわね」
 初夏の朝、食後のお茶を飲みながらママが言った。
「私はね、なにが自分にできるか、そのころから考え始めたの。まだ自決権はないにしても、意思を示しておくのは大切だから、臓器移植についても自分に何かあったら使ってほしいと登録したわ」
 ママは桃子を見ながら頷く。実際に手や足を自分のまえにいた寮生に渡してしまっているわけだからなにもいえない。
「でも、実際にあげるようになったのは事故で左手をなくしてからよ、片方の腎臓をあげたわ、機械がずいぶんよくなったし、組織適合考えない代わりにことによると若返り処理しなくちゃいけなくなってかえってドナーが減っちゃって、でも必要とする人もいるんだしね」
 ママの部屋からは、食堂から見える景色が上から見える。建物の影は芝生の向こうの木立にかかり、そのむこうの家並みは茂った葉に隠れ、幹のあいだに道路が見えるだけである。芝生はいつも手入れされている。きれいなものしかここからは見えない。
「きれいな朝は、気持ちもきれいになるわね」
 会話がおわったようなので、桃子はごちそうさまでしたと立ち上がった。二人分の盆を重ねて部屋を出ようとする桃子に、ママは声をかけた。
「ドナー登録は、個別IDのページからできるけれど、あなたは未成年だからそのあとわたしの確認がいるのよ、その気があるなら仰言なさい」
 桃子は黙って頭を下げた。

一階の吹き抜け広間の奥の右側、厨房の横には、ずっと使っていないミーティングルームがある。夏休みに、久しぶりに空気を通さないと、とママにいわれて、夏の間の部屋着にしている半袖短パン上下のまま、桃子は木の扉の鍵を回した。はめったに使わないこの部屋の手入れは業者には頼んでいない。
 明るい昼の窓は厚い茶色のカーテンに遮られ、隙間から漏れる光で部屋は薄明るい。埃臭い熱気に汗が噴き出す。思わず、入口はいってすぐにコントローラーのある空調をつけようとしたところで、桃子から遅れてやってきたママが廊下から声をかけた。
「まず窓をあけましょ、桃子」
 部屋はほぼ正方形である。はいって左の壁は書記ボードが立ち、右側にはそれにむかって、二人までつかえる横長のデスクが二つづつ五列並んでいる。デスクには背のない木製の長椅子がついていた。桃子は部屋の奥側の大きな二つの窓のカーテンをあけてそれぞれ端にまとめた。生地は日に焼けたにおいがして少し重かった。
 透明な硝子を通る光に挟まれて、桃子は、窓と窓のあいだにあるハンドルを回した。窓枠が音を立てて動き、下のほうが外側に開いていく。すっと空気が入り込んできたが、涼しくはなかった。
「むかしはここで合唱の練習なんかしたのよねえ」
 ママが部屋に入ってきた。白い漆喰の、少し古風な内装だった。
 機械になっている右腕以外は汗をかく。ママは右腕以外の手足は機械だが、それらも含め白い長いシャツとスカートで暑そうに見えない。
「あなた、夏休みなんだから、お友達の家とかに遊びに行ってもいいのよ」
 いきなりママが言う。そんな社交的な性格だとは学校の担任は言っていないはずと思いながら、大丈夫です、と桃子は答える。ママは、いちばん前の列の長椅子に腰を下ろした。
「窓を開けたまま空調つけて頂戴、埃が出るかもしれないから」
 桃子は入り口横まで移り、コントローラーをオンにした。かすかな音に空気が動いて、わずかに土のにおいがした。能力の高い機械で、部屋の温度がすっと下がってきた。
「懐かしいわ、ここでみんなで歌ったのね、いい子たちばかりだった、あんなふうにまたやりたいと思いながらいままできたのよ」
 窓からの光はママのところまでは射し込まない。ママはため息をついて桃子に向いた。
「ここが私のすべてだったの、あなたはあなたのすべてをささげられるものを見つけなさい、あなたがいなくなったらたぶんここはもう終わりなんだから。いろんな本やら動画やらを、落としてるのは知ってるのよ。いまはなんでも取り込むのよ、ちゃんとしてたら応援してあげるんだから」
 知られてしまっていたかと思ったが、すべてのアカウントはママの管理下にあるのだから予想できたことだった。だから、変なものには手は出さない。
 桃子は、ママにとってこれもちゃんとすることの一つなんだろうと思い、その夜、寮の通信が切られる前に、桃子は国のサイトにつながって、自分の身体の機械ではない部位について手早くドナー登録を済ませた。
 翌朝ママに言うと、ママは嬉しそうに頷いた。そして、ミーティングルームに空気を入れないと、と口にして、昨日やったかしらね、と言い直した。

秋のバックアップの日である。みおろす庭にはまだ夏の気配が濃い。
 自分の番を知らせる呼び出しベルがやっと聞こえて、桃子は調整室に入った。すでに記憶のバックアップの終わったママが作業者と話をしている。
「あげた足の具合がよさそうでよかったわ」
 灰色の作業衣を着た花梨が、桃子を見てにやっと笑った。桃子が驚いて戸口で立ち止まっていると、ママが桃子の記憶ユニットを、じぶんの手元のケースから取り出した。
「谷田さんも定年だから、はやいうちに交代したんですって」
「元気そうじゃないの、桃子」
 ママは花梨に、桃子のよと、ユニットを渡した。
「花梨、会社でうまくいってるのはわかったけれど、調整室回りはいつからしてるの?」
「谷田さんについて先月からはじめて、今月からはひとりで回ってるわ、ママ、ああ、ごめんなさい、回っています、園長先生。さっきもそうでしたけれど、谷田さんほど手際よくないから時間がちょっとかかるかもしれません、よろしくお願いします」
 ママは満足そうに微笑んだ。
「しっかりしたわね、あなた、もともとしっかりしたコだけれど。状況もよく読むし」
「よくわからないけど褒めてるんですかママ」
「そのへんはまだまだよ」
 ママは桃子に顔を向けた
「花梨はしっかりしてたから、はやくからいろんなものは自分でさせていたの、ユニットの自己管理もね。あなたもそろそろそうしてもらうわ」
 ママが出て扉が閉まると、花梨は桃子を自動椅子に座らせた。椅子は伸ばさず、そのまま花梨は桃子に訊いた。
「今学校でどうなの、成績は大丈夫なの?」
 桃子は、進級はなんとか大丈夫だと答えた。
「園長が、あなたがくる前にちょっと言ったのよ、桃子、あなた、めだたないけど知能等級はかなり高かったんでしょう。こっちでも勉強してたし、進級がなんとか、という感じに見えなかったの」
 いきなり園長とそのまま花梨は呼び捨て、桃子は目を下にそらした。花梨は裸足に細い革を粗くきれいな編んだ靴を履いていた。片方の足先しか見えない角度だが、その趾にきれいなネイルが見えた。
 桃子はすこし黙っていたが、ゆっくり、目立ったらろくなことはないし、まえの施設ではいろいろあったがいまはおとなしくしていたら誰にもなにもされないし、と答えた。こういうことをいうのは初めてだった。
「それで、最近園長とはどう」
 桃子は手短に、世話係としてつながった部屋に移ったこと、ちゃんとしてたら右手をくれるといったこと、自分もドナー登録したことなどを説明した。花梨は、首を少し傾げ肩をすくめた。
「どこにいってもおとなしくしてたら放っておいてくれるなんてことはないし、相手の気に入るようにしてたらそれでいいなんてこともないの。ルームメイトの、もと姉役としては心配なの、ここの担当になるのにちょっと苦労したのよ」
 花梨はため息をついて、椅子をベッドに伸ばし、桃子にヘッドギヤを装着した。
 作業の終了まで、谷田よりずっと時間がかかった。花梨から記憶ユニットを受け取って部屋に戻ると、ママがやってきて桃子のユニットを受け取った。

桃子は、前の部屋では音を出して好きな音楽を聴いていたのだが、ママの部屋の隣でうるさくするわけにいかないと、ヘッドホンで聴くようになった。声をかけられたらわかるように外音透過式である。
 窓の外はもう薄暗い。遅い台風がきたせいで、学校は休みになっていた。風の音はうねり、ときどきさあっと、窓ガラスに雨がかかる。
 部屋の明かりはつけず、座ってデスクに肘をつき、目を閉じる。最近聴くようになったのである。訛りのきつい黒人が、自分の生い立ちやら何やらを、ときどき差別的な慣用句を混ぜながら韻を合わせてセリフにのせる。体を少し左右に揺らし、自分の人生よりよいものなんてないんだという言葉を繰り返し聞きながら、そのあいまに高いビープ音が聞こえるのに気づいた。
 顔をあげると、ママの部屋への扉の上に赤いランプが点いている。ヘッドホンを外す。甲高い音が続く。はじめてのことだ。
 あわててママの部屋に駆け込む。薄暗く、雨で窓がばたばた揺れる。
 ママはデスクの横に座り込んでいた。右手をデスクの上に載せている。緊急ボタンをそれで押したようだ。桃子を見て、ママは言った。
「フリーズしちゃったのよ、お願い、初期化室に連れて行って」
 ママは小柄だが、桃子も小柄である。両足が機械で動かないママの、やはり機械で動かない左腕の下に入って背中を抱き、ママは動く右手だけで床に体を支える。
 床がきれいに磨かれていて、滑りがいいので助かった。桃子はしゃがんだままママの移動を助け、なんとか廊下に出た。廊下はセンサーでうすく明かりが点いた。やや赤っぽい明かりの下を、なかばママを引きずりながら向かいの調整室に向かう。
 突き当りの窓が光り、雷の音が鳴った。こんな秋に嘘でしょうと桃子はどこかで思いながら、調整室にママを引きずり込んだ。
 息を弾ませながらママは言った。
「初期化室はそのまま入って、ボタンを押すの。だれが作業してもいいのよ、赤いボタン押して顔で作業者確認したら、緑のボタンで自動手続きできる、初期化は緊急扱いだからそのまま救急車もきてくれるわ」
 スライドドアをあけてママを入れると、十センチ四方のインターフェース部に顔を向けていわれたとおりに赤いボタンを押す。
「行政データベースで確認しました」
 自動音声が流れた。桃子は緑のボタンに指をかけてちらっとママを見た。
 桃子が手を離した左腕の先にママがなにかを持っている。記憶ユニットに見える、そもそも左腕は動かないんじゃないのか、桃子の頭に疑問が浮かんだが、ママが
「押して」
と叫び、勢いに押されて桃子はボタンを押した。
 建物を風が揺らす音を聞いたのが、最後だった。

天気のいい冬の日。花梨は、園長室にいた。
 デスクの前に立ち、バッグから記憶ユニットを出して、チェアに座った人物に報告する。
「念のため修復できるかみてみましたけど、駄目でした、ええと、園長先生」
「残念だわ」
 チェアに座っているのは桃子である。
「ちょっとでも可能性があるなら戻してあげるのに。こうやって全部入れ替えて機会もなくなって」
 救急車が来た時、初期化室には桃子が倒れていた。
 初期化したら設定等すべてクリアされる。手や足ならそのまま動くからそれだけなら救急車は帰ってしまうし、そもそも手足がフリーズしても急ぐ必要すらない。しかし、桃子は大脳のかなりの部分を機械にしていた。記憶もすべて飛んでしまっていた。
 桃子が初期化室で倒れているのを見つけた、桃子自身に自己管理させようと渡した記憶ユニットを持ち込んでいたと、泣きながら、園長は証言した。記憶ユニットも初期化され、桃子を戻す手段はなくなってしまった。初期化の手続きをとったのが桃子自身であることは記録に残り、とくに取り調べも行われない。
 学校でも話し相手がいなかったこと、園長がもっと仕事を続けてくれたらいいといっていたこと、全身についてドナー登録していたことなどもあわせ、桃子ははじめからそのつもりだったのだろうというとりあえずの結論が導かれた。残る誰もそれで困らなかったからである。
 このまま桃子の体をからっぽにしておくのはどうかという話になり、園長が、自分が体をもらって園を立て直す、と言ったときにも、反対する者はいなかった。そもそも関係者などほとんどいなかった。
 桃子の機械の部分に、園長の部分が移植された。大脳と、右手である。すべて生身の桃子の中身はママになった。
 そのあと、不適合の兆候が現れた。もともと老化を気にしながらも処理をママはしぶっていたが、桃子の中に入ったあとは、そこで率先して処理を受け、すっかり若い体になった。
 しかし、処理の後、いろいろ忘れてしまっていた。
 処理直前にバックアップは受けている。あらためて前のバックアップから本体に記憶を戻さねばならない。安くない記憶復旧については前払いのうえでロックが外された。作業のために花梨が呼ばれたのである。ママは、処理されてから今までのことはこまかくログにつけていた。準備がすごくいいと花梨は思った。
 花梨は、念のために、園長からもらった桃子のユニットから桃子が再生できないか再検査の依頼を受けていたのだが、空っぽだった。
「足は大丈夫そうね」
「園長先生はほとんど入れ替えですが、大丈夫なんですか?」
 花梨は、桃子の姿のママに、園長先生とは、大変呼びづらいものを感じたが、かまわずママは続けた。
「すっかり大丈夫よ、あなたもわかるでしょう、機械じゃなくなってよかったって」
 桃子の顔のママは笑った。
「園はどうするんです?」
「まったく同じようなことをするのもなんだしねえ、まあ復旧の後の私が考えてくれるでしょ、私まえのことをよく覚えてないんだから。作業お願いね」
 窓の外は明るい午後である。朝に軽く積もっていた雪が、いまは建物の影に溶け残るばかりである。
 調整室で、横になってヘッドギヤをかぶされた桃子の姿のママのそばで、ママの記憶ユニットを準備台においた花梨は、持ち込んだ作業バッグから、黙って、もうひとつの記憶ユニットをとりだした。
「始めるわよママ」
 作業を始める。すっと意識をなくしていくママに花梨は続けた。
「さようなら」

桃子は目覚めた。ヘッドギヤを花梨が外してくれる。
「おかえり」
 花梨の言葉に、バックアップがおわっただけなのに大げさなと思いながら、起き上がって違和感を桃子は感じた。右手が機械ではなかった。
「桃子驚かないで、あなた今までこの世から消えていたのよ」
 なんのことだろうと怪訝な桃子に花梨は説明した。
「ママがあなたの体を乗っ取っていたの、私は、最後のバックアップの時に、あなたを二回バックアップしておいたのよ、私のユニット使ってね、だから私はバックアップのないすごく危ないひとになっていたのよ。あなたをあなたの体に戻して、ママはこっちのユニットからもうでられない」
 花梨は桃子に、ママの記憶ユニットを持ち上げてみせた。桃子は話があまり理解できず、花梨のバックアップはどうなっているのか、とりあえず尋ねてみた。
「あなたの入ってた空のユニットに入れたから今は大丈夫。これで足りないのは体一つ分よ。ママはあちこちで、桃子が戻るなら体を返すとわざとらしく言ってたから問題なしね、それにしてもママは私になにを期待したのかしら」
 桃子は黙って目を落とす。革を編んだ作業靴の先から花梨の足先が出ている。
 ネイルがきれいに描かれているが、片足だけである。視線に気づいて、花梨は、ママからもらった、ネイルの描かれていない左足をあげた。
「私、ママの足なんて、欲しくなかったのよ」

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