平塚パイセンの唐突に始まる夏

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梗 概

平塚パイセンの唐突に始まる夏

潮汐ロック状態となった地球で、何とか生き残る術を身に着けた未来。人々は移動式のユニットの中で暮らしていた。そのユニットは平べったい長方形のような形で、短い方を地球と接続し、面を前方として進むため、推進力による上下方向のほか、両端にも地球による重力と移動による遠心力とが加わっており、釣り合うごく一部の地域以外は、左右か前後かのうち、どちらかに引っ張られて生活している。
 ユニットが正式稼働を始めてから十数年、地球の重力と遠心力が釣り合う一等地からずいぶん外れた場末の飲み屋で、反地球側に引っ張られながらウイスキーを飲む主人公。少年にお金を握らせ、塩とジュースを買ってくるように依頼。「混ぜて飲むの?」「そうだな、もう昔の飲み方だな」酒は貴重で、そのまま嗜むものという風潮。少年の幼い手から、皺くちゃな自分の手が握るカップへとジュースが注がれていくのを見ているうちに、主人公は、短いけれど人生の中でもっとも楽しかった、バーテンダーとしてアルバイトをしていた時の光景を思い出す。

まだ地表に住んでいた主人公は、小さなバーで、店主と、酒の専門知識があり通信でアドバイスをくれる平塚先輩と働いていた。おそらく似たような店舗を複数受け持ち素人の補助をする役割だったのだろう、平塚先輩は毎回、主人公の勤務開始時間から二時間だけ、教育係として主人公に音声でアドバイスをくれていた。
 先輩はお酒の知識は豊富だったが、右と左を間違えたり、頭上にある棚のことを前方だと言って譲らなかったりと、変わり者のところもあった。主人公は、そんな平塚先輩の自由で少し変わったところにも憧れを抱いていた。
 ある日、平塚先輩が「明日から夏だ」と言った。「夏休みっすか?」「え?いや違うよ。夏が始まるんだ」その日以降、平塚先輩は消えた。店主に尋ねると、平塚なんて知らないという。そのあとすぐ未成年であることがバレてクビになり、平塚先輩のこともそれっきりだった。
 成人しユニットの開発チームに加わる頃、主人公は、この環境は平塚先輩の言動と一致するのではと思い至る。平塚先輩は、未来から自分に話しかけていたんだ。ここでいつか平塚先輩に会えるかもしれない。

そんな過去を懐かしく思い返し、かつて地表を離れる際に配布された過去の地球を見ることができる装置を眺める主人公。改良し、自分の生まれ育った土地を見ていると、どうやら特定の土地を走行している二時間だけ、蓄えられた映像ではなく、自分の過去を見ているらしいことに気が付く。平塚先輩が本当に存在するとしたら、あの時の自分に通信することができる技術が必ずあるはずだ。
 また十年ほど経ち、過去の自分があのバーでアルバイトを始める頃になった。通信技術は完成した。しかし、平塚先輩はあらわれない。
 少し落胆しながらバーカウンターの光景を覗くと、ちょうど初出勤日らしい。やはり平塚先輩なんていなかったんだ。やり取りのほとんどは忘れているけれど、きっと数分後、自分は過去の自分に対して平塚と名乗ってしまうんだろうと自嘲したその時、青年がやってくる。その青年はかつて酒場でお使いを頼んだ少年で、そのことがきっかけで過去の文献からカクテルの勉強をしているとのことだった。
「この少年はカウンターに立っているけれど、何も知らないんだ。アドバイスしてやってほしい。ここを開いて話かけるんだ」「ひらく…つか、本当に俺が触っていいの?」
 振り返って確認してくる青年。過去から年若い自分の声が聞こえる。「ひら、つか…さん?ここの先輩っすか?」
 主人公はそっとその場をあとにした。
 このユニットは、45日と2時間18分4秒後に、夏の軌道へと切り替わる。

文字数:1511

内容に関するアピール

題名から決めました。唐突に夏を始めるため、地球には太陽に対しての潮汐ロック状態になってもらい、自分たちで地球の表面を走行し昼夜や四季を選択する未来にしました。走行ルートもユニットも数多くあり、全ユニットの希望や地殻・気候変動の予兆を加味してルートを制御できるシステムが確立されている。
 地球平面説の上昇し続けることで重力状態が生まれているという考えが面白かったので、走行するユニットの形を平べったい長方形のようにして、短い方を地球と接続し、面を前方にして進むことで進行方向に垂直な地面を作ることにした。地球の重力とユニットが進むことによる遠心力との比率が場所によって異なるため、ごく一部の富裕層以外は常にどちらかに偏った地域で斜めに暮らしている。そこでは自分を中心として前後左右とするよりも、地球側・反地球側と言い表すのが一般的となり、左右を表す言葉が消失。前後は、ユニットの進む方向である頭上と足元を指す言葉と混合している。また昼間の長い軌道に切り替わることを夏になると言い、逆に短い軌道に乗ることを冬になると呼んでいる。
 主人公はそういった事柄から、かつてバーでやり取りした平塚先輩に違和感があったのは、この未来の地球に暮らしていたからだと確信するに至る。

文字数:530

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平塚パイセンの唐突に始まる夏

暑い。特に意味もなく言葉に出す。
「夏だもんなあ」
「マジで、いつまでこんな暑いんだろ」
 少しでも隙を見せればどこからともなく差し込まれ、誰とでも幾度となく繰り返すことになるこのやり取りも、今回ばかりは永遠に続けていると言ってもさして過言にはならないだろう。なんてったってこの街では、もう300日以上、夏が続いている。
「やっぱ地球の自転が止まっちまったんじゃないの」
「ばーか、それでも太陽の周りを回ってるんだったら、少しずつでも日は暮れるだろ」
 友人が目を細めた。時は放課後、本来であれば夕日が伸びているはずの海を見ている。
「んー、微塵も気配ないね」
「おお、天下に名高い大先生の目で観測できないんなら、それはもう動いてないんだろうな」
 大仰にうなずいて見せると友人はひとしきり肩を揺らして笑い、
「じゃあさあ、公転も止まったか、それか潮汐ロックってやつじゃない?自転と公転の周期が一致してるから、同じ側しか向けないってやつ」
「本当にそういうの好きだよな。でもどっちにしろ、もしそうなら俺たちとっくに死んでるだろ」
 楽しく展開している空想をお決まりの帰結で切り捨てたのに、友人は大して気にすることもない。
「ま、夜が続くよりいいじゃんね。おかげで何かいろいろ発展してるらしいし。電気も問題なく使えて、ありがてー」
「おー、お前のそういうとこ好きだわ。じゃーな」
 適当だなと笑う友人に手を振り、通学鞄を右肩にかけ直した。じっとりと汗ばむシャツが気持ち悪い。日の盛り、クーラーの効いた部屋や日陰ならまだしもこんな暴力的な熱気に晒されながら夏でよかったと言えるなんて、本当に人が良いというか、物好きなやつだなと感心する。延々と降り注ぐ日射しにこれ幸いと太陽光発電や海洋温度差発電などが盛んに行われ、かつてないほどエネルギーが潤沢になっているという利点は確かにあるのだが、それにしたってこの街は夏が続きすぎている。
 呑気にありがたがっている友人には悪いが、夏は嫌いだ。暑さで夜通し寝苦しいのに、朝は太陽の光で勝手に目が覚めてしまう。だるい身体を夢うつつのまま外に出せば、太陽のエネルギーが勝手に体に入り込んで来て、自分の身以上の威力でもって通り過ぎていく。通学くらいしか出歩いていないのに、ふとした瞬間に足首に日焼けの跡を見つけたりする。人も街もエネルギッシュで、新しい何かを生み出そうと常にありとあらゆるものが動き回っている。ただでさえ、そんな夏が嫌いだった。それなのにこの街はずっと夏で、夜は来なくて、友人は地球の回転が止まったのだと言い、俺は回るものは結局いつかは止まるんだというようなことを考えている。
 夏がこれだけ続いたんだったら、今度は冬が続いてほしい。夏が大丈夫だったんだから、冬だって続いてしまって問題ないだろう。夜にしか生まれないものがとうとう死んでしまう前に夏から、この永遠の昼から脱出する必要がある。
 そんなことを思っていたのに、とうとう夏は終わらないまま、俺たちは大人になった。

 

テーブルの上に置いたグラスの中で、中身が斜めになっている。手を離せば引っ張られていってしまうから、どれだけ冷たかろうが結露で指先が湿ろうが、このグラスをテーブルへ置くことはできない。自分の体も右側に引っ張られているのを感じるがそこはもう慣れたもので、机についた肘と地を踏む足とでバランスを取りながら、俺はウイスキーで唇を湿らせた。ここは一等地から随分と離れている。立ち位置禁止エリアがすぐそばにあり、またあまり重量のあるものを設置してはいけないことになっているため、どこか殺風景だ。照明も最低限で薄暗く、かなり閑散としている。いわゆる場末の酒場というやつだ。
 そんなに遅くない時間とはいえ、あまりこの場に似つかわしくないものがある。子供だ。親に連れて来られたのか、他の大人たちと同じく体を斜めに傾けながら、退屈そうに足を揺らしている。手招きすると、ほんの少し戸惑った様子を見せたがすぐに椅子を降りて駆け寄って来た。
「ちょっと頼まれてくれない?」
 子供はまん丸な目で見上げてくる。
「そこのカウンター行って、好きなジュース2つ買って来て。あと塩もらって来てくれる?釣りはやるから」
 子供はこくりと頷くと金を受け取り、小走りでカウンターへ向かっていった。いい加減冷たくなってきた右手からグラスを移し、左手に持ちかえる。たいていテーブルにはグラスや皿を固定できる窪みなり何なりがあるものなのだが、この店にはそれがない。だからどっちみち席を離れるのが難しかった。そんな誰に向けるでもない言い訳をつらつらと脳内に並べているうちに、両腕でジュースの小さな瓶を抱え込んだ子供がちょっと顔を赤らめながら帰って来た。小さな皿をまず差し出してくる。受け取ると、塩が入っていた。
「ありがとうね。ジュースは何にしたの?」
 子供は無言のままで、相変わらずどこか恥ずかしげに瓶を二つ差し出してきた。
「オレンジとリンゴか。趣味いいなお前。どっちが良い?」
 子供が首をかしげる。
「好きなほう飲みな。そんで、いらない方こっちに入れて。そっちも残りはやるから」
 グラスを子供の方に傾けたが、子供はじっと見つめたまま動こうとしない。つられてグラスの中身をまじまじと見た。琥珀色を吸い込んだ不揃いな氷が、水面から顔を出し淡い光を乱雑に跳ね返している。催促するようにグラスを軽く揺すると、その煌めきは揺らいでカラと音を立てた。
「混ぜて飲むの?」
 その氷が余韻として奏でたかのような小さく澄んだ声にうなずきを返すと、子供はそうっとグラスにオレンジジュースを注ぎ始めた。危なげな幼い手が、ジュースの瓶を全身全霊で傾けている。零さないように注意しすぎたせいだろう、思い切りの足りない注ぎ口はかえって液体を手放せず、歪に瓶をつたって少年の手を濡らしていた。
「そうだな、もう昔の飲み方だな」
 みるみるうちに、グラスの中を明るいオレンジが支配していく。圧倒的な、厚かましいほどのパワー。憎たらしいと思うと同時に、どこか愛おしくて憧れてもいた。もう随分昔のことのような気がする。

 

相変わらず、夏が続いていた。
 毎秒毎秒かわることのない風景に人は次第に時間に追われた慌ただしい日々を手放していき、時計だけが律儀にも日や月や年を数えているのかと言えばそんなことは全くなくて、この街は以前と変わらずに寝て起きて会社なり学校なりへ行き夏季休暇なり正月休みなりを取る生活を送っている。
 変わったことといえば、バーでアルバイトを始めたことくらいだ。
 家で制服を脱ぎ捨て、開店準備に向かう。店長は開店時間を過ぎてからでないと来ない。開店前の掃除や仕込みを一介のアルバイトに任せるなんてとても正気の沙汰とは思えないが、それも平塚先輩がいるからこそできることなんだろう。
「お疲れさまでーす」
 裏口を開けて第一声、俺は店に押し込められていた昨夜のアルコールとキツ過ぎる消臭剤の入り混じった熱気がいくらかも出て行かないうちから声を張り上げた。店の奥に先輩の姿があったからでも、見えなかったからでもない。向こうが声を出さない限り、こちらには先輩がいるのかいないのかがわからないからだ。平塚先輩は、どこか遠くから指示だけを飛ばしてくるというなかなかに嫌味な役割を担っているから、俺はいまだに先輩に会ったことはない。おそらく似たような店舗を複数掛け持ち、俺のような素人アルバイターの補助をしているのだと思う。音声で俺の教育係としてアドバイスをくれる平塚先輩の酒に関する知識は、時には店長をも上回っているらしい。
「平塚パイセン、いないんすか?」
 俺はこの開店前の、平塚先輩と駄弁りながら過ごす時間がわりと好きだった。平塚先輩は結構ぶっ飛んだところのある人で、知識も豊富だ。割と年が離れているんだろうなと思うが、姿が見えないからこそ、気負うことなく軽口を叩くことができる。
「ごめんごめん、ちょっと遅れたわ。お疲れ」
 どこからともなく声がした。初めの方こそ先輩の声は店内にBGMを流しているコンボから聞こえているものだと思っていたが、まだどこの電源も入れていないうちから聞こえてくるこの先輩の声は、そういった音響機器から出力されているわけでないことは確実だ。でも店長もお客さんも気にした様子がないから、そういうものかと納得してしまい、今ではもう何を思うこともない。
「昨日のラスト遅くなったんすかね。珍しく店長あんま片づけてない」
 シフトを二十二時までにしてもらっている俺は閉店時の作法を知らないのだが、綺麗好きなのかやはり開店前の掃除を俺にさせるのが不安なのか、店長はいつもは開店前準備が必要ないくらいに綺麗に片づけて帰っている。
 洗い物を済ませて二つあるテーブルとカウンターを拭き終え、クーラーの風を浴びるため移動した。
「暑い」
「暑いの嫌いなんだ」
「そりゃそうでしょ。ってか、見てるだけより全然疲れるんで」
「うわ、嫌味なやつだなあ。俺がいるから君のような素人でもやっていけているというのに」
「違いないけど、自分で言うのはダサいっすよ。たまにはこっち来て手伝ってくださいよ」
「無理言うなって」
 従業員用に、というかほぼ俺のためだけに冷やしてあるミネラルウォーターをあおり、一息ついた。
「忙しそうっすもんね。平塚パイセンどこ住みなんすか。遊び行きたいっす」
「うーん、すごく遠いからなあ」
「時間あるから俺が合わせます」
「うん、じゃあ待ってるわ」
 きっと店長が入って来たからというのが唯一の原因というわけでもなかった。場所も時間も調整されることなく、この話はこの時これっきりで終わってしまった。
 挨拶なんだか唸り声なんだかわからない音を発しながら入って来た店長は、涼しいとちっとも嬉しそうに聞こえない声色で呟きながらカウンターに突っ伏した。
「完璧じゃん。助かるわー。昨日はお客さんが飲ませてくれる人ばっかだったから、ちょっと大変だったのよ」
 レジの鍵を開けた店長から、深いため息が聞こえてくる。
「あー、両替してくんの忘れたわ。もう銀行って閉まってるよな?」
「隣に頼めないか聞いて来ましょうか」
 近場には似たような飲食店が複数入っていて、ちょっとした助け合いは日常茶飯事だった。大抵は好意的に対応してもらえる。希望通りに両替してもらえたお札と小銭を握りしめて帰って来ると、店には何組か客が入っていた。何度か顔を見たことがある男がカウンターに座り話をしている。店長が指さしとも手のひらともつかないような状態の右手で俺を指した。
「そう、こいつな、酒まったく飲まないっつーから雇うの不安だったんだけど、なんか妙にわかってっからさ」
 すべては平塚先輩の助言があってのことだとわかっているはずなのに、店長はそんなことを言う。ツカ、と店長は平塚先輩を呼んだ。
「お前どこで覚えてきたわけ?なんか俺の知らないようなマニアックなことまで知ってっけど」
 平塚先輩はそうだなあとのんびりとした口調で返す。
「知識だけだけどね。実物はまだそんなに見たことないし」
「実物みたことなくても、わかるもんなんすね」
「ほら、これだよ。生意気だよなあ」
 店長が笑った。男性客も楽しげに頼もしいなと茶々を入れている。
「あ、お前そっちじゃないって!」
 平塚先輩の声がして、咄嗟にボトルを持ち変えた。店長に手渡そうとした酒が違っていたらしい。平塚先輩から珍しく大声で注意され、小声で「やめてくださいよお客さんの前で」と泣き言を言うと、店長からもぶつぶつ言うなとさらに怒られる。女性客がくすくすと笑い声をあげた。
「なに、新人くん?初々しい~!可愛いね」
「新しいバイト。まあ俺がついてるんだから、筋良いし、すぐに一人前になる」
「ツカ、調子のるからあんま褒めるなよこいつのこと」
 店長が客に笑いかけながら、発言に被せるように平塚先輩をたしなめた。

それじゃない、もっと右か左かの、ほら赤いラベルの。そんな風にボトルを指示する時などに顕著だったが、平塚先輩には、右と左を間違えたり、頭上にある棚のことを前方だと言って譲らなかったりと、妙なところで変人さを思う存分滲ませてくることが度々あった。
「ずっと思ってたんすけど平塚パイセン、右とか左とか、上とか前とかわかんないんすか」
「いやわかってはいる。とっさに出ないだけだ」
 いつものような軽口の応酬になると思っての発言だったのに思ったようなニュアンスの返事を引き出せなかったものだから、俺は咄嗟にフォロー側にまわってしまう。
「まあそういうことは誰にでもありますけど。それにしてもなかなかに適当っすよ」
 平塚先輩は笑いとも自嘲ともつかないため息を漏らした。
「お前、鏡がどうして左右を反転させるのか知ってる?」
「何すか急に」
「上下に比べて、左右の定義が曖昧だからだ」
「平塚パイセンが右と左間違えるのはそのせいなんすね。鏡の世界の住民なんだ」
 わかりやすくおどけて言ったのに、先輩は笑ってもくれなかった。
「お前が寝っ転がって鏡を見れば、反転するのは上下だよ」
「でも別に、上に手を上げたら鏡の中の俺の手も上に上がりますけどね」
「それはお前が余計なことをして、上も定義されてしまったから」
「鏡の世界めんどくせえ」
「さっきから何なんだよ鏡の世界って。メルヘンなやつだな」
「パイセンが吹っ掛けてきたのにその言い草は理不尽すぎ」
 
「俺、夏になったら自分の店を持つんだよ」
 ある日、平塚先輩がひどく嬉しそうに言った。
「平塚パイセンのとこは、夏が来たり去ったりするんすね」
「そう。あと何日だろう。ほんと楽しみ、夏」
 この夏が続く街では、とてもではないがそんなことは言えないだろう。平塚先輩の存在がものすごく遠くに感じて嫌だった。自分の嫌う夏を先輩が楽しみにしているのも嫌だった。なのに、
「明日から夏なんだ」
 先輩は突然、そんなことを言った。
「明日から?夏休みってことっすか?」
「いや、休みじゃない。明日から夏になるんだよ」
 そしてその日はやってきた。何を投げかけても、平塚先輩の返事はない。休むなんて言ってたっけ。あまり動揺しているとも思われたくなかったから、いつも通り出勤してきた店長に、すぐには聞けなかった。
「あの、今日は平塚先輩いないんすね」
「今日はって何?この店、お前以外にバイト雇ってないけど」
「ああ、やっぱバイトじゃなかったんすね、平塚先輩。なんか親会社の社員とかっすか?」
「いやお前、誰のこと言ってんの?……つか、たまに独りごと言ってんの、マジだったわけ?」
 店長は、怯えの交じった怒りとも焦りともつかない表情で言った。このことが原因だというわけでもないだろうが、この後すぐに成人済みだと嘘をついて面接を受けていたことがバレて、俺はアルバイトをクビになった。当然のことながら、平塚先輩のこともそれっきりだった。

 

オレンジの滴る幼い手を拭ってやった。おそらくそう短くはない時間、考え事にふけっていただろう俺を訝しがるわけでもなく、子供は何が楽しいのかグラスの中をしげしげと見つめ続けている。
「悪いな、ぼーっとしてた。ジュースの残りは好きに飲みな。ありがとうね」
 半ば強引に子供を追い返し、それから俺は何も考えないよう、つとめてゆっくりとアルコールを傾けた。
 飲み屋を出て、しばらく歩いた。体が軽い。見上げると、暗くなった空から星が落ち、また頭上から現れては落ちて来て、それはずっと落ち続けている。アルコールのせいばかりではない。俺の暮らす街が、ユニットがまるごと回転し始めたのだ。この回転で作り出される人口重力はそう強くはないが、日常の決まりきった活動を普通に近い状態で行うには十分だ。このあたりの店が賑わうのはここからなのだ。
 ユニットは、四季や昼夜を取り戻すために考案された移動式の街だ。地球の寒暖差を抑えるために大気を混ぜようという馬鹿みたいな考えが本当にあったのかどうかは知らないが、列車のように長辺を大地に着けて進むものとは違い、短辺側が地面に接続されている。地表から見上げると長方形の棟のように感じるが、よく見ると上の方はだんだんとやせ細って尖っているのがわかるだろう。それを加速させることで、地表の人間から見れば左右もしくは前後方向、ユニットの人間にとっては下方向に重力を発生させている。
 この飲み屋はその尖った側に位置し、普段は遠心力によって反地球側に引っ張られている土地なのだが、夜間はユニットの地表を走る速度が遅くなるのに伴いこの土地に働く遠心力が弱まるため、比較的過ごしやすい場所となる。そのため、どのユニットでも夜の街は反地球側に集まっていることが多い。
 そんなこんなで地表を走るユニットの多くは、減速期に入ると、失われるユニット内の重力を遠心力で補うために回転を始めるのだ。この切り替えには、とてつもなく繊細な計算がなされていることは間違いない。
 何もかもが、そうまでして回らないといけないもんかね、と俺はひたすら落ちて来る星を眺めている。

――地球が回るのをやめたのなら、俺たちが回るしかない。

胸の内に、そんな言葉が去来した。誰が言ったのかなんて、わかりきっている。今日はとことんそんな日らしい。酔いと回転のせいにして、ふわふわと歩きながら、俺は再び平塚先輩とのやりとりを思い返していた。

その頃の俺は、回転するものを信用してはいけないという刷り込みに苛まれていた。原因はわかっているし、そのくだらなさも十分に理解している。それでも幼い頃に味わったそういう思いはどうにもことあるごとに思い出されて、何となく思考の方向を決めてしまうものなのだ。
 小さい頃、それは祖母の家で見つけたのだったか定かではないが、どこへ行くのにも持って歩いていたオルゴールがあった。子供が片手で持つには少し重いそれはアンティークのようで、側面のねじを巻くと、異国の人形が三人くるくると回転するのだ。その三人は井戸端会議をするように向かい合っていて、中央には小さな花が咲いていた。それがくるくると回るのを見ているのが好きだった。鳴っている音楽も他では聞かないようなもので、どこか遠い国の音楽だったのかもしれない。
 ある日、それは壊れてしまった。どれだけ巻いても回ることはなく、音も鳴らない。あまりに落ち込む俺の姿を見かねてか両親は修理に出すと言ってくれたのだが、俺の手元に戻って来たのは、別のオルゴールだった。手渡されたぬいぐるみの紐を引くと、当時流行っていた映画音楽が流れた。俺は喜んでみせた。喜ばなければいけなかった。
 異国の歌は映画音楽になり、花を中心に回る人々はその映画のキャラクターのぬいぐるみとなった。自分しか知らない古い歌、誰も知らないような異国の歌。婆ちゃんがたまに歌っていた、小さな歌。それが、誰もが知る映画音楽に塗り替えられてしまった。音の記憶はだんだん薄れていく。婆ちゃんの歌も、回らないオルゴールの音も。
 いつのまにか、回っているものを見るのが苦痛になっていた。止まるその時を想像してしまうからだ。それはいつか止まって、壊れて、取り上げられてしまう。地球だってそうなった。回るから壊れるのだ。初めから回っていなければ、壊れて止まることもなかったのに。
 だから、このユニットという仕組みが検討されていることを知った時、俺は回転しているものを見たときと同じ調子で、何だか嫌だなと思ったのだ。
 回るものはいつか止まる。壊れてしまう。回らなくたって、冬が恋しけりゃ移動すればいいし、金さえあれば夕方だって手に入る。だから俺は一刻も早く大人になって、金を貯め、この夏を捨てて夜の続く街に行くつもりだった。
 
「本当に可能なんですかねぇ」
 客と店長が世間話をしている。地球が止まったから云々という、どうにも苦手なその手の話題だった。友人は適当に想像して楽しむだけだったから問題なかったが、ここで時間を過ごす大人たちは時折、まるで今ここで未来を決定することが出来るかのように議論を始めてしまうから困る。
「地表にも問題なく住めるっていうのに、わざわざそんな平たい板に住み着くだなんて」
「まあ、四季が恋しいっていうのは間違いないですけどね」
「折れちゃったりしないんですかね、そんな長方形の短辺だけを地表のレールに固定したりして」
「まあその辺は強度やら抵抗やら、ちゃんと計算されているんでしょうけどねえ。私が気になるのはあれですね、推進力で重力状態をと言ったって、永遠に加速し続けるわけにもいかない」
「なんでも夜の間は減速して、速度をリセットするとか」
「そしたら地面がなくなってしまうじゃないですか」
「その間だけ、回転させるらしいですよ。紐の短いブランコが回転しているような図を見たことがあります」
「大丈夫なんですかねえ、それ」
 俺は間違っても話を振られることがないように身を縮こませていた。同じく黙っていたはずの平塚先輩が、うーんと場違いに明るい雰囲気で唸った。
「まあ地球が回らないってんなら、俺たちが回るしかないよな」
 平塚先輩のその言葉は妙に透き通って聞こえ、俺の頭の中で、やけにはっきりと鳴り響いた。
「――何すかパイセン、その無茶苦茶な前向きさは」
 声がかすれて上手く出なかったから、店長や客にはもちろん、平塚先輩にも届かなかったかもしれない。それでもこの言葉はずっと俺のなかで息づいており、ことあるごとに取り出して眺めては、どこか行動的な気持ちにさせられるのだ。
 そんな平塚先輩の言葉が浸透したというわけでは勿論ないだろうが、この世界の人々の多くは自分たちが回ることを選択し、俺も結局はいろいろなユニットを渡り歩きこの地球を回る生活をしている。

飲み屋から少し歩き自分の住居に戻る頃には、心はほとんどあの日々に戻っていた。寝床に入り、端末で“今日の地表”を検索する。入力した日付と場所から地表の記録が映し出されるというもので、きちんとしたデータが撮られ始めたのはここ三十年ほどのことだ。それ以前の日付の映像は、実際の記録とAIの補った風景とが入り混じっていると言われている。自分が学生だった頃を入力すると、それなりの風景が映し出された。俺はこの風景をあの日々だということにして、今夜この胸にやけに広がってくる懐かしさに思う存分、浸ることにした。
 その違和感に気が付いたのは、数日あとのことだった。その映像が見せた世界には、冬が来ていたのだ。俺が入力したのは俺があのバーでアルバイトを始めた頃の日付だ。すでに夏が続いていたはずだった。入力した値が間違っていたのかと思い、また似たようなサービスが誕生したのかと疑い、いろいろと試しているうちに、どうやら夕方から夜にかけての数時間だけそういう風景を見ることが出来るということを突き止めた。俺はそれからも幾度となく試し続けた。どうやらこの住居のあるユニットで、冬のこの軌道で夜の始まる数時間だけ、そういう現象が起きるようだった。

俺は仕事柄、いろんなユニットに出入りしている。仕事は主に荷物の積み出しだ。ユニットの減速期には、数分間、車両が並走するエリアが設けられているところが多い。地表からの搬入物やユニットからの搬出物、その他ユニットを出入りする人間なんかは、その間にユニットと並走車を跨いで行き来することができるのだ。その区間が過ぎると車両は地表へと降りていき、そこでまた荷の上げ下ろしが行われる。
 今日の仕事はユニットへの運び入れだ。並走車両が完全に接続されたのを確認してから、ユニット側の受け入れ担当の若者と一緒になって手早く荷を積み入れていく。
「あ、その右側のやつ下に積んでください!いちばん重いから」
 声を張り上げた。搬入搬出は効率が命だ。ある程度は機械の補助があるとはいえ、狭い並走車の中では人間が動かなければならないところもたくさんある。
「右って、どれでしたっけ。すみません、自分は物心ついたときからユニットで暮らしてるので、直感的にわからないんですよね」
 若者は申し訳なさそうに言ったが、悪いのは明らかに俺の方だった。ここではそれが当たり前で、もはや右や左などという言葉は通用しない。なにせ地面方向以外にも重力があり、それは自分がどこにいるかによって変わる。自分自身を中心として左右や上下を定義するよりも、地球側や反地球側と言い表した方が効率がいいのは道理だった。
「いや、地表暮らしのほうが、よっぽど左右は曖昧だったですよ」
 鏡にうつるものの左右が反転するのは、左右の定義が曖昧なせいだ。自分から出てきた言い回しがこの平塚先輩の言葉だということは、口に上る前には気が付いていた。

何かと平塚先輩を思い出すことが多いのは、自分の未練なんだと思っていた。もっと話したかったとか、もっと強引に会う約束を取り付けておくんだったとか。でも、どうやらそういう感情の面ばかりでないのだと気が付き始めたのは、この頃だったかもしれない。平塚先輩が左右をよく間違えていた状況が、幼いころからユニットで暮らしてきたというこの青年と接しているとよくわかる。
「ここからの搬入ってことは、ウイスキーかな。仕分けのとき特に気を付けて。割ったら酒好きに相当恨まれますよ」
 わざとらしく大仰な手つきで箱を手渡すと、青年はくすくすと笑った。
「こういう地表でしか作られていないものって、やっぱり人気ですよね。俺にはちょっと良さがまだ分かんないですけど。辛いばっかりに感じる」
 青年はうえ、と小さく舌を出して見せた。
「好きなもんで割って飲んだらいいのに」
「割るって、薄めるってことですか?それはちょっと、何かもったいない気がしちゃうな」
「そういう感覚の方、多いみたいですね。地表では結構あたりまえにそういう飲み方をしていたものですけど」
「このユニットって、この夏の軌道への切り替えの時しか酒類の入荷ができないんですよ。だから余計にそうなのかも知れないですね」
 ――夏になったら、自分の店を開くんだ。
 青年の言葉に、再び平塚先輩の言葉が思い起こされた。
 こうなってしまってはもう、意識に上らないよう抑えるのも限界だった。諦めにも近い感情で、俺は自分の内にあるのは知ってはいたが目を反らし続けていた思いをゆっくりと受け入れた。

もしかして平塚先輩は、この時代のどこかのユニットで暮らしているのかも知れない。

 

それからというもの、俺は行く先々のユニットにできるだけ長く滞在し、平塚という男性を知らないかと尋ね回った。何百人もいるようなユニットばかりではない、いるとすれば必ず見つかるはずだと思ったのだが、思うような成果はあがらなかった。似たような名前を知っていると言われれば、それが老人だろうが女性だろうが会いに行った。仕事を終えても帰宅せず、別のユニットへ行ってまた仕事をするということを繰り返すようなスケジュールで、いろいろなユニットを回った。だいたいは二十四時間くらいで昼夜を繰り返すユニットが多かったのだが、一度だけ赤道付近を回っているユニットで仕事をしたことがある。そんな軌道を選ぶのはどんな人たちなのか、どんな生活を送っているのかそれはそれで興味があったのだが、仕事のため次の減速期でおりなければならない時には少し残念だった。
 そんな生活を何年も繰り返し、俺はようやく自分の住居に戻ってきた。いろんなユニットを回ったからこそ思うのだが、ここはひときわ偏りがひどくて住みにくい。このユニットは初期に作られた小規模なものだから仕方がないのだろうが、最近のものだと二千人近くが住むようなもっと性能の良いユニットもあるらしく、かなりの落差を感じる。それでもここが、自分の住居なのだった。俺は長期の休みをもらった。意欲的にいろんなユニットを回ったせいか、体にガタが来ていたのだ。そのかわり俺は立ち入り禁止エリア付近に小さな店を構えた。いろんなユニットを回るうちに手に入れた雑貨や部品なんかを投げ売りして生活している。
 寝具に横になり、端末で地表の様子を眺めた。ほとんど日課になっているこれは、今ではもう冬が見られる条件が分かっていた。このユニットが冬の軌道での減速期に入ってから俺が就寝するまでの間の数時間のみで、他のユニットや地表での滞在時には起こらない。冬ばかりでなく、それは昔の四季を忠実になぞっているようだった。
 違和感に気づくのが遅れたのは、やはり地表暮らしを離れていたからだろうか。四季の移り変わりに鈍くなっているのかもしれない。思えばそろそろ秋も通り過ぎ冬が来ていたっておかしくない頃なのに、夕焼けは見えず、それどころか夜の気配もない。
 この端末が見せる映像は、ただの昔の四季の再現などではない。あの日々をなぞっているのだ、この街に夜が来なくなって、過去の自分が平塚先輩と出会ったあの日々を。そんな馬鹿な考えは持つべきではないと冷静なふりをする頭を裏切って、震える手は当時アルバイトしていたバーを探してしまう。それらしきビルを見つけ拡大すると、視点は内部に移り、カウンター内側の上部からバーの全体が見える位置で停止した。
 平塚先輩が本当に存在するとしたら、ここからあの時の自分に通信することができる技術が必ずあるはずだ。
 そんなわけがない、過去の自分と通信できる装置なんてあるはずがない。でも逆に、もしも仮にそれがあったとしたら、それは平塚先輩が確かにここにいるという証ではないのか。

俺は住居を飛び出し、自分の店へと走った。何か使えるものがあるかもしれない。きっと物は何でもよかった。これがあれば過去とつながるというものがありさえすれば、今ここで先輩のいる過去が成立する。
 壊れたオルゴールが目に入った。宝箱のような形のそれは、本来であれば開くと音が鳴るはずのものだ。箱の中では、飾り気のない機械めいた部品がむき出しになっている。正常に動いていた時の姿を見ていないのでどんな音楽が鳴るはずだったのかはわからないが、鳴らないのなら、これはオルゴールでない可能性だってある。
 体裁は整った。ここを開いて話しかければ、過去の自分とやり取りができるかもしれない。そんなこと出来るはずがないと思う心は当然ある。いくらあのバーで過ごす自分の過去を覗き見たとて、これは映像だ。ここから話しかけなければ過去に出会った平塚先輩が消えるというようなものでもない。話しかけようがかけまいが、自分が先輩と話した過去は変わらない。
 それならなぜこんな理屈の通らないものを使ってまで、無理やりなお膳立てをしているのか。こうすれば先輩が現れざるを得なくなるのではという思惑があった。あとは平塚先輩がいれば、いてくれさえすれば、俺のあの日々が確かな意味を持って完成する。
 映像の中、バーに人が入って来た。店長と自分らしき少年とが見える。宝箱のふたをそっと開き、咳払いをしてみた。眼前に立てかけた画面の中の少年が、辺りを見渡すような様子を見せる。
 つながるかもしれない。ドクリと心臓が大きく波打ったのが、そっとふたを閉めた指先のピリピリとした痺れからも自覚できた。画面の中の自分は、すぐに店長に呼ばれて何事もなかったかのように設備を教わるために移動していく。
 俺は画面から視線を上げ、自分の狭いジャンクまみれの店をゆっくりと見渡した。
 平塚先輩は現れなかった。
 けれど頭のどこかでは分かってもいた。平塚先輩なんていなかったんだ。やり取りのほとんどは忘れているけれど、きっと数分後、自分は過去の自分に対して平塚と名乗ることになるのだ。
 こういう結末か。まあ意外と面白かったんじゃないか。そう自分を慰め、誰に見られるでもないが口の端に浮かんだ笑みをうつむいて隠した。
 その時。
「いたいた」
 飛び込んできた、聞き覚えがあるとまでは言えない声が、突如として俺の顔を上げさせた。
「お兄さん、探したよ」
 それは携帯してきた希望で俺の胸に懐かしさを湧かせたが、俺の体は確信が持てずに二の足を踏む。
「俺のこと覚えてないの?俺ほんとに人生変わるかと思ったのに。いや変わったからここにいるのかな。ほら昔、お兄さんのウイスキーにジュース入れたんだけど。俺、何でだかあれが忘れられなくてさ。親に何度もねだって、昔の酒の本とかいっぱい買ってもらって。地表まで行って、飲ませてもらったり」
 覚えていないのはどちらだと文句を言いそうになって、先輩にとってはまだ起こっていないことなのだと、いやこの青年が先輩なのかどうかも、まだ、
「俺、夏になったら自分の店を開くんだよ。金貯めて、いろいろ買い揃えたんだ。夏の軌道に変わるときの減速期で運び込まれることになってる。楽しみ過ぎてさ、お兄さんにも来てほしくて」
 冷静でいようとする心は、歓喜に震える胸を抑えるのに失敗し続けている。
「え、お兄さん生きてる?よくできた肖像画じゃないよね?立体のやつとかある?」
「生きてるよ。驚いただけだ」
 青年を手招きした。きょとりとした顔に、確かに面影があるような気がする。
「店だ。うわ、理想だなあ。どこ?お兄さんの?」
 青年が端末に映し出されたバーを覗き込んでいる。青年が今ここに現れたことで、このオルゴールは過去の自分へとつながる通信技術となった。
「とても遠くのバー。この少年はまだ何も知らないんだ。アドバイスしてやってほしい。ここを開いて話かけるんだ。君の声は、この少年以外には聞こえないから」
 自分の座っていた場所を譲ってやり、小さな机と椅子に腰かけるよう促す。画面がよく見えるように置いた机と青年との間に、宝箱をコトと置いた。
「ひらく…つか、俺が触っちゃっていいの?」
 いいの?と振り返って確認してくる青年。過去から年若い自分の声が聞こえる。
『ひら、つか?平塚先輩っすか?』
 ――本当に遊びに来ましたよ。パイセンがなんの約束もしてくれなかったから、思った以上に遠い道のりになったけど。
 でもまあ、こんな若造をもう先輩とは呼べないな。彼の本当の名前を知るのが楽しみだったが、とりあえずは過去の自分に譲ることにし、俺はそっとその場をあとにした。

このユニットは、27日と5時間18分後に、夏の軌道へと切り替わる。

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