蟲飼いたちの夏

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梗 概

蟲飼いたちの夏

大学二年の夏。葉野は、気になる同級生の式見しきみの帰省に誘われて、二人で田舎で夏休みを過ごすことになる。帰省の目的は、無人となっていた実家の古民家と土地の売却先が見つかったため、その片づけをすること。
 式見は小柄で中性的な顔立ちだが、美形・美人といった目立つタイプではない。ただ白くて傷ひとつない綺麗な肌をしている。そしてとにかくよく食べる。
 レンタルした軽トラックに乗り、山の中にある式見の実家に到着。二人で片づけを開始する。夜に花火を見に行くなど、途中で何度かいい雰囲気になるが、式見が気のない素振りをみせ進展はしない。
 滞在中、村の人から、六十年ほど前までこの辺りの山奥に再生医療の研究所があったが、火災が発生し閉鎖されたという話を聞く。そして研究所の閉鎖後、山の中で赤い霧が発生したり赤く光る虫を見かけたりするようになったという噂があった。
 式見は子供の頃に虫を見たことがあると話す。記憶を頼りに二人は虫を探しに出かけるが、途中で式見は引き返したいと言いだす。理由を聞くと、過去に友人と二人で赤く光る虫を探すため山に入って遭難し、転落事故で大けがを負ったという。友人は亡くなり、式見は一命をとりとめた。式見は自分の身体には蟲が寄生しており、その影響で傷が再生されたことを告白する。友人の遺体は見つかっていないという。
 蟲は研究所で開発された自己複製マシンだった。式見は蟲の再生能力を証明するため、自分の体に傷をつけてみせる。すると傷の周りの皮膚が赤く発光し、すぐに傷は癒えていった。式見の特異な体質に葉野は戸惑い、二人は気まずい雰囲気になる。
 もしかしたら蟲の力により友人の遺体は保存されているのではないかと考え、二人は再び山に入り、式見がかつて遭難した場所をみつける。危険な崖を慎重に下りた二人は、狭い洞窟に入り、友人の遺体の一部を発見する。蟲に食われて断片化していたが残っていた部位は保存状態もよく生きているように艶やかだった。
 遺体を回収した二人は洞窟から脱出を試みるが、式見のミスにより葉野は足を滑らせて転落し意識を失う。葉野の怪我を治療するため、式見は友人の遺体に残存していた蟲を葉野へ移植し、さらに不足分を自分の体内から移す。
 これで世界に二人きりの「蟲飼い」になったと微笑んで、式見は葉野に口づけし、葉野もそれを受けいれる。蟲を取り込んだ葉野は異様な空腹感を覚えるのだった。

文字数:1000

内容に関するアピール

ひねりで大きな転換(意外性、どんでん返し)を生むのではなく、シンプルな一本のストーリーラインの上に小さなひねり(仕掛け)を散りばめて、作品に流れる感情や空気感、読み味などが次々変化することを目指します。
 本筋は「気になる相手と二人きりで過ごすうちに良い感じになる」という単純なものとし、そこに夏らしく虫と死体というホラー的な雰囲気を導入することで、平穏、長閑、不穏、恐怖、色気と空気を変化させます。また式見の秘密(過去・体質)が開示されていくことで、二人の好意のベクトルを葉野→式見、葉野×→式見、式見→葉野、式見⇔葉野と変化させつつ、恋愛モノとしては気になっていた二人が結ばれる形とします。ほぼ二人だけの登場人物のやり取りの中で、目まぐるしく作品の色が変化していく流れを想定しています。また、梗概のとおり二人を性別不詳のまま書き切ることと、式見の故意・・のミスをうまく演出できればと思います。
 

文字数:400

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蟲飼いたちの夏

「どうだった?」
 学期末の試験が終わり、教卓の上に答案を提出して教室を出た葉野はの式見しきみが声をかけてきた。五分ほど前に式見が教室を出ていったのを確認していた葉野は「待ってたんだ、暇だね」と返す。
「うん、暇、暇」と式見は嬉しそうに笑う。たった今、夏休みが始まったのだ。大学二年の夏、まだアルバイトの予定も入れておらず、目の前には長大な休日が横たわっている。
「葉野も暇でしょ」と訊かれて、葉野は夏の間にやりたいことを考えてみる。
――とりあえず大作群像ドラマ『ママタレ‼ 三國志』全四シーズンを一気観いっきみする……くらいしか思いつかず、葉野は「うん、暇だよ」と答えた。
「それじゃ、手伝ってほしいことがあるんだけど」断るわけないよね、といった調子で式見は葉野の返事を待たずに話を続ける。
「夏の間に実家の片づけをしなくちゃならなくてさ。三食寝床付き、おまけに最高の避暑地で何と平均気温は三十度以下、どう?」
 七月中旬から連日三十五度以上の猛暑日が続いていた。今日も最高気温三十七度の予報で、歩いているだけで汗が噴き出してくる。日陰を選んで歩こうにも、夏の太陽は高く逃げ場も少ない。三十度以下の避暑地がどんなものか、葉野には想像すらできなかった。
 そんな猛暑日でも式見はいつもどおり長袖シャツにキャップを目深に被っている。曰く、肌が弱くて日に焼けると真っ赤に腫れてしまうとのこと。そのせいか、式見はいつ見ても白く透き通ったきれいな肌をしていた。
 服装のわりにまったく汗をかいていないように見える式見を羨ましいと思いながら葉野はタオルで汗をぬぐい「で、実家ってどこよ」と訊く。
「え、長野のほうだけど」軽井沢、白馬と葉野が避暑地の名前を挙げると「諏訪湖があるよ」と式見は答えた。
 葉野が通信端末で長野のここ数日の平均気温を検索すると、確かに二十九・三度となっている。
「葉野、免許持ってるよね」
 式見は、葉野が去年の夏に合宿で普通自動車免許を取得したのを知っていて、当然のように言ってくる。
「全然運転してないけどね」
「平気でしょ、山ん中で車少ないし」
「山道なんて逆に怖いし」
 大丈夫、大丈夫、と他人事のように笑いながら、式見は「じゃ、決定、よろしく」と葉野の肩を軽く叩いた。人手がいるなら他にも誰か誘わないのかと葉野は考えてみるが、湯崎はIT企業のサマーインターンに参加し、貝原はアジア横断一人旅に出発する。つまり式見の実家には二人きりで行くことになる。
「ま、暇だし、東京暑いし、いいよ」
「さすが葉野、お昼奢っちゃう」
 ちょうど昼時で学食は混み合っていた。葉野が味噌か醤油かラーメンの食券ボタンを前に悩んでいるうちに、式見はコロッケ定食とカツ丼の食券を購入。相変わらずよく食べるなと思いながら葉野が「味噌で」と言うと「オッケー。餃子も付けちゃう。一個ちょうだいね」と式見は味噌ラーメンと餃子のボタンを押した。
 向かい合って式見の食べっぷりを眺めながら、葉野は餃子に箸を伸ばす。一個のはずがすでに式見は餃子を二つ食べている。
 シャツの袖をまくり、キャップを外した式見の肌はやはり滑らかで白く、ニキビはおろか小さな傷ひとつ見当たらない。何でも美味しそうに頬張ほおばる式見の表情は葉野を和やかな気分にする。
「それじゃ、来週の水曜からよろしくね。詳細はまた連絡するから」
 別れ際、軽く手を振って式見はバスに乗り込んでいく。見送って駐輪場に向かいながら、式見と二人、楽しい夏になりそうだと葉野は思った。

朝七時半に八王子駅で待ち合わせて、特急あずさ3号で上諏訪を目指す。左の窓側席に座った式見は、去年の秋に祖父が亡くなって以来の帰省だと話しながら、富士山が見えるとはしゃいでいる。
 幼いころに親が離婚し、母方の実家で育った。中学のときに病気で母を亡くし、一昨年と昨年、立て続けに祖母と祖父も亡くなって、と式見は身の上話を手短に葉野に伝える。
 今回、売りに出していた実家に買い手が見つかって、引渡し前に荷物を整理するという話だった。
 十時前に上諏訪に到着し、駅前でコミュニティバスに乗る。
 A町のバス停で下車すると式見は通信端末で知合いに連絡を入れた。数分後、白い軽トラックが二人のそばに停車し、中から四十代くらいの男が下りてきて「おう、久しぶり」と式見に向かって手を振った。
「ありがとうございます」と式見が頭を下げると「いいよ、どうせ使わんし」と言って男は車のキーを式見に渡す。
「こちら、藤森さん」と紹介されて、葉野が会釈すると「こっちは涼しいだろ」と藤森は笑った。
「じゃ、何か困ったことあったら連絡して」と藤森は来たほうに歩いて帰っていき、彼を見送った二人は軽トラに乗り込んで県道をA峠のほうへ進んだ。
 藤森は祖父が中学校の教員をしていたころの教え子で、以前からお世話になっているのだと式見は説明した。
「ガスの立ち合いもお願いしたから、着いたら電気、水道、ガスも使えるよ」と式見。
 車を一〇分ほど走らせて、左右に雑木林の広がったカーブの多い峠道を抜けると車道の脇に畑が広がり、その先にまばらに民家が見えてくる。そのうちの一軒を式見が指差す。脇道を少し上がって、そのまま平屋の古民家の庭へ入り、物置蔵の前に車を停めた。広い庭のある赤い瓦屋根の日本家屋を前に「ようこそわが家へ」と自慢げな式見だった。
 玄関の引戸を開けると土間からすぐに六畳ほどの板の間があり、正面と右手の奥に薄暗い和室が覗いている。埃っぽく、うっすらとカビ臭さも漂うが、室内はきれいに片づいており、人が暮らしていた雰囲気が残っていた。
「広いな」と葉野が呟くと、「まぁね」と言って式見は玄関横のスイッチで明かりを点けた。白い土塗りの真壁が照明の光を反射して、和室の褪せた畳の色が目に入ってくる。
「まずは窓を開けよう、空気が籠ってる」
 式見は靴箱からスリッパを二足取り出して「ちょっと埃被ってるかも。払ってから履いて」と一足を葉野に押し付けて、正面の和室に向かう。内窓を滑らせてカギを開き、窓を勢いよく開ける音に混じって「スリッパのままでいいから」と式見の声がする。
 葉野もスリッパを履いて「お邪魔します」と板の間にあがり、右手の和室に入って障子張りの内窓、それから古い単板ガラスのサッシを開けると、網戸を通して外の心地よい風が吹き込んでくる。すべての障子と窓を開けると、室内は陽の明かりと爽やかな風に満たされた。
 式見は板の間の電灯を消して、玄関左手にあるキッチンとその奥のトイレや浴室の窓も開いていった。
 キッチンは年季の入ったステンレスの天板で、白い扉の収納棚が付いている。トイレは一見ふつうの洋式便器だがウォッシュレットは付いておらず汲み取り式。そして浴室はレトロなピンクのタイル貼りで小さな正方形の浴槽がある。キッチンと浴室の間には急勾配の狭い階段があり、その上が小屋裏収納になっていて今回の片付けのメインだという。
「お風呂はたぶん使えないからシャワーだけ」と言ったあと、忘れていたと式見は冷蔵庫のコンセントを差し込む。中身は空っぽで「とりあえず町に買い出しに行こうか」と式見。
「うん、喉乾いた」と言いながら葉野はキッチンを眺める。食器棚にあるガラスのコップが目に入るが水道水を飲もうという気にはならない。換気扇の付いている天井の隅に大きな蜘蛛の巣を見つけて、葉野が小さな悲鳴をあげる。
「どうしたの?」「蜘蛛の巣。虫苦手で」どうやら巣の主はいないらしい。「大丈夫、見つけたら捕まえて外に出しちゃうよ、虫平気だから」という式見の言葉に葉野は安堵する。これほど式見を頼もしいと思ったことはない。
「それじゃ、食料と掃除道具買いに行こう」
 二人は再び軽トラに乗って峠を下った。

大型スーパーとホームセンターで買い出しを終え、町で昼食を済ませて家に戻ると「まずは寝場所を確保しよう」と言って式見は和室の押入から敷布団を引っ張り出し「葉野も一枚持ってきて」と縁側から庭に出て古い物干し竿に布団をかけた。
 マスクを装着した式見はキッチン隅の蜘蛛の巣をさっさと片づけると、階段下の収納からレトロなキャニスター型掃除機を取り出し「よろしく」と葉野に託し、自分は真新しい雑巾を濡らして拭き掃除を開始した。
 涼しい風が吹き込んでくるとはいえ、身体を動かしていると汗が滲んでくる。葉野は首にかけたタオルで汗を拭いながら家の隅々まで掃除機をかけ、式見は床や窓ガラスをせっせと拭く。
「休憩」とおやつのドーナツを頬張りながら式見は日陰になった縁側に腰掛けて目の前に広がる山々を眺めている。隣に座り葉野も一つ取ってかじる。洗ったガラスのコップにペットボトルの麦茶を注ぎ「風鈴でも吊るしたいね」と葉野が言うと「今度買ってこよう」と式見。
 午後四時過ぎには見違えるほど室内はきれいになり、埃っぽさやカビ臭さは感じられなくなった。とりあえず今日はこのへんで、荷物の片づけは明日から、と式見が宣言して、二人で家の裏手にある神社へ散歩に出た。蝉の声が響く林の中、石の鳥居をくぐって苔むした古い石段を登っていくと狭い境内に数本の石灯篭、閉鎖された社務所と小さな本殿がひっそりと佇むように配されている。片隅には「馬頭觀世音ばとうかんぜおん」と刻まれた石碑を囲むように石仏が並んでいる。
「馬頭観音って、昔は愛馬の供養とか、最近だと競馬場の近くに祀られてるらしいよ」という式見の豆知識を聞き流し、「静かでいいね」と葉野は緑に囲まれた境内の澄んだ空気を吸い込んだ。
「夕飯どうする? 買ったラーメン茹でてもいいけど、町に下りてどこかで食べてもいいし」三食食費は式見が持つ約束なので、葉野は遠慮する必要もなかったが「今日は家で食べるのでいいかな」と答えると「オッケー」と快活な返事。食べ物の話になると気分が高揚するらしい式見を、葉野は可愛いいと思う。
 函館塩ラーメンを一パックずつ、式見はそれに加えてカップのソース焼きそばを平らげた。「炭水化物……」と葉野が呟くと「エネルギー補給」と式見は満足気に笑う。デザートに梨の皮を葉野がナイフで剥いていると「器用だねぇ」と式見は手元を覗き込む。式見は切り分けられた梨を「サンキュー」と手づかみで一切れとって頬張る。葉野はフォークを使って一口、少し若い歯ごたえによく冷えた瑞々しい食感、ほどよい甘みが疲れた身体に染み込んでいく。
 外はすっかり暗くなって、虫の声と蚊取り線香のにおいが夏の夜を感じさせる。「テレビでも観る? 何やってるかわかんないけど」「テレビはいいかな、しばらく静かにのんびりしたいかも」空腹も癒えて、畳の上に寝転がって伸びをしながら葉野は天井から吊り下がった電灯を見上げる。明かりの周囲を小さな蛾のような虫が飛び回っていた。
「暇だね、花火でも見に行く?」と時計を見ながら式見が呟く。夏の間、毎日午後八時半から諏訪湖で花火が上がるらしい。今から向かえばA峠の手前あたりから見られるということで、二人は軽トラを五分ほど走らせ峠を下った。
 車を停めて、座席に腰掛けたままフロントガラスに映る約一〇分間五〇〇発の花火を遠くに眺める。今朝、八王子から来たばかりなのに、ずいぶんこの場所に馴染んでいるような気がして、葉野は小さく笑った。「どうしたの」という式見の声に葉野が花火から目を離して顔を横に向けると、遠い花火に照らされた薄闇のなかで目が合った。
 光に遅れて、微かに破裂音が響く。式見の白い肌の色艶いろが、妖しく浮かび上がり、葉野を幻惑する。
「式見……」と呟いた葉野の言葉を遮って「待って、何言おうとしてるか当てるから」といたずらっぽく式見が笑う。頬と唇の柔らかい動きで幻想が崩れてゆく。
「うん、当ててみなよ」式見の顔から視線を外し、葉野は正面の花火を眺める。式見はすこし考え込んでから「わかった。葉野、お腹空いたんでしょ」と言った。
「それは式見でしょ。さっき食べたばっかじゃん」脱力して葉野が応えると、最後に大きな花火が続けて上がった。
 帰宅して順番にシャワーを浴びると、式見は手際よく和室に蚊帳を二つ吊った。昼間干しておいた布団は暖かく、陽のにおいが残っていた。明日は小屋裏を片づけることにして、十時過ぎには明かりを消して横になった。東京の熱帯夜とは比べものにならないほど涼しくて、よく眠れそうだと葉野は思う。夜の闇に目が慣れてきて、薄い蚊帳の向こう側で寝息を立てはじめた式見の横顔がぼんやりと見えた。それは妖しい幻想ではなく、見慣れた式見の顔だった。

小屋裏の物置からアルバムの詰まったダンボール箱を見つけて、二人で降ろして和室で写真を眺めている。子どものころの式見は当たり前に今よりもずっと小さくて、葉野は一枚一枚に映るあどけない式見の姿をじっくりと眺めてしまう。
 そして、ふと違和感を覚えた。子どもの式見は半袖短パン姿で、肌もよく日に焼けていて健康的だ。日射しを避けるように帽子を目深にかぶり、長袖シャツといった今のような印象はなく、白く透き通った肌もしていない。肌が弱いと言っていたけれど、子どものころはそれほどでもなかったのか。
 葉野がそのことを茶化すように言うと、「うん、まあね」と式見は曖昧な返事をする。式見がこの話題にあまり乗り気でないことを察して「小さい式見、可愛いね」と葉野は頁をめくった。
 順にアルバムを眺めていくと、小学校高学年あたりから、式見が今のような服装になり、肌も急に白くなったように見えたが、葉野はそのことは口に出さずにおいた。
 小屋裏には他にも古くなった衣類や式見が子どものころに遊んでいた玩具、カセットデッキと大量のテープ、弦の張られていない琴など様々な物が無造作に詰め込まれていた。数日かけて処分するものと残すものを仕分け、使えそうなものはリサイクルセンターへ、廃棄するものはクリーンセンターへ、軽トラの荷台に積んで持ち込んだ。
 小屋裏をすっかり空にして、庭の隅にある物置蔵の農耕具も処分する。あとは家のなかの家財道具を整理すれば片付けはおしまいで、一週間ほどで作業は落ち着いてしまった。
 少なくとも八月中は居られるということで、式見はこのまま残るというので、葉野もしばらく世話になることにして、ちょっとした避暑地で二人、のんびり過ごすことになった。
 県道を峠の先のT町側に向かって少し行くと、古民家を改装したカフェがあって、地元客を中心ににぎわっていた。創業移住支援制度を利用して始まったカフェ「和み茶房」は、三十代の夫婦が経営しており、妻の日奈美と式見が知り合いという縁もあってランチに訪れるようになった。
 式見はいつも特盛カレーとパンケーキを、葉野は日によってハヤシライスやフライ定食を注文した。定食の副菜についてくる地元の大根を使ったたくあん漬は固い食感が絶妙で葉野のお気に入りだ。何度か通っているうちに、帰省中で夏の間だけ常連客だというレンと知り合った。京都の大学の三年生だというレンはT町側から遊びに来ており、二人をシキミー、葉野っちと呼んで、おすすめの観光スポットや美味しいお店から町の噂まで、いろいろな話を聞かせてくれた。
 その日は「天ぷら食べに行こう」という式見の一言で和み茶房に行くことになった。天ぷらなどメニューにあっただろうかと疑問に思う葉野に、お盆の期間限定で食べられるのだと式見は説明する。ちょうどレンも天ぷらを食べに来ており、三人は相席になる。席に着くなりレンは「週末の諏訪湖のおくり火法要がおすすめ」だと観光案内をはじめる。法要の後にはいつもの花火よりも大規模な花火祭りがあるという。
「行ってみようか」という式見に、揚げたての天ぷらをかじりながら葉野は頷き返す。昔は諏訪湖のとうろう流しが有名だったというが、ある時期から開催が見合わせられ、代わりに始まったのがおくり火ということだった。
「湖面に浮かぶとうろうの火が幻想的なんだよね」というレンに「子どものころ見たことある」と式見も同意して、二人は意気投合。葉野も興味を惹かれるがもう見ることはできず、「おくり火もけっこう迫力あるよ」というレンの言葉を信じることにして、二つ目の天ぷらにかじりついた。
 とうろうからおくり火、さらに花火の話になって「そういえば」とレンが、この辺りに伝わる昔話をはじめた。「昔って言っても、五、六十年くらい前らしいけど」と前置きを入れて、S市とO市とT町の境界が重なるあたりから少しT町のほうへ入った山中に、以前、政府関連の再生医療の研究施設があったらしい、と語り出す。
「その研究所でさ、大きな火災があって、けっきょく閉鎖して取り壊されたんだけど」レンは少し声をひそめ「それから、その周辺の山の中で、不気味な赤い霧が発生したり、赤く光る小さな虫を見たって話があって」
「その話なら聞いたことあるよ」と式見の注文したゆずアイスクリームをテーブルに置きながら日奈美が話題に加わった。
「一億年以上前、ホタルの先祖は赤く光ってたんだよ」と式見が謎の豆知識を披露する。「それじゃあ、生きてる化石ってこと?」と葉野が訊くと「見つけたら大発見じゃん」とレンが乗っかる。
「でも、けっきょく実際に見たことあるって人知らないな。最近じゃ、その話自体、滅多に聞かないし」と笑って日奈美は厨房のほうへ戻っていった。
「ま、とうろうとか、おくり火とか、赤い光って話で思い出しただけなんだけど」とレンも話を打ち切ってしまう。葉野は闇の中で赤く光る無数のホタルを想像して、まるで今は見ることのできないとうろう流しのようだと思い「見てみたいな」と呟いた。
「葉野、虫嫌いじゃん」「ホタルは平気だよ、たぶん」「本物のホタル見たことある?」「ないけど」などと、他愛のない話でにぎやかな昼食の時間は過ぎていった。

「どの辺だろうね」
 軽トラを運転しながら呟かれた葉野の言葉に「ん?」と式見は疑問形で返す。
「研究所の跡地。近いのかな」
「気になるんだ」
「まぁね」
 言ったきり、葉野は黙ってハンドルを操作する。
「お盆てさ、死んだ人の霊が帰ってくるんだよね」と式見が訊くと「そうらしいよ」と葉野は応えた。今度は式見が何か考え込むように黙り込んでしまう。葉野がラジオのスイッチを入れると高校野球の中継が流れ出す。
「葉野、行ってみようか」
「ん?」
「研究所の跡地。どうせ暇だし」
 式見の案内で脇道を走り、舗装道路から砂利道をさらに奥へ進み、突き当りで車を停める。そこから細く入り組んだ山道を登っていくという式見の一言に葉野は一瞬ためらった。さらに「虫も結構いるかもね」と追い打ちをかけられて葉野の足は止まるが、無視してどんどん先へ進む式見の背中を追いかけて再び歩きだす。
 昔はもう少し整備された道だったのだろうが、研究所がなくなり人通りも絶えて、一部は雑草に覆われている。式見の言ったとおり森には様々な虫がいて、葉野は顔の前の虫や葉を払いのけながら、いつの間にか蚊に刺されたところを搔きむしる。
 しばらく進むと背の高い木々が少なくなり、前方に背丈ほどの雑草が生い茂った草原くさはらが広がった。
「ここに研究所があったらしいよ」と振り返って式見が言った。長く歩いてきたせいか、式見の肌は火照ってほんの少し赤らんでおり、珍しく汗が浮いている。葉野は大量の汗をハンカチで拭いながら式見の半歩ほど後ろに立って草むらを眺めた。
「見たことあるんだよね。赤く光る虫」
 式見は前に向き直って「この草むらのもっと先、友だちと探検ごっこのつもりでさ。赤いホタル、探そうって」と続けた。
 どうする? 行ってみる? 式見の問いかけに葉野は再び草むらに目を向けるが、半袖膝丈の軽装で草の中を突き進んでいく気にはなれなかった。それに、ここまで率先して前を歩いてきた式見が、先に進むかどうかの判断を委ねてきたのも気になった。式見はあまり乗り気ではないのかもしれない。
 前に立つ式見の背中がいつもより小さく、寂しそうに見えて、葉野は抱きしめてしまいたい衝動にかられる。一歩踏み出そうとしたところで式見が振り向いて「帰ろっか」と微笑した。
 けっきょく二人は引き返すことにして、登りとは逆の傾斜を慎重に下っていった。疲れもあって、多くは言葉を交わさずに軽トラのところまで戻ったころには、辺りは夕陽に染まりはじめていた。
「戻ってよかったね。暗くなったら遭難しちゃうよ」と葉野が笑うと「うん、そうだね」と式見は力なく頷いた。
 家の前を通り過ぎ、いったんA町のほうへ抜けてスーパーで夕食を調達する。しらす釜飯と焼き鳥の特大パックをカートに乗せた式見が「何か飲もうよ」と言うので葉野は缶チューハイを数本カートに入れる。
 酒のつまみだと言って式見はさらにビーフジャーキーや枝豆を追加していき、いつもより多くないかと心配する葉野に「たくさん歩いたから疲れた」と答えた。
 汗をかいたからと、食事の前にシャワーを浴びてすっきりしたところでチューハイで乾杯。酔いが回ったのか、しらす釜飯と焼き鳥を平らげると式見はおつまみには手を付けずにテーブルに突っ伏して眠り込んでしまった。
 葉野は和室に布団を敷いて、「布団で寝なよ」と声をかけるが式見の反応はない。仕方なく肩を支えるように式見を立たせて、何とか布団まで連れて行く。
 式見を寝かせて、葉野はしばらく横で肘枕をついてその寝顔を眺めていた。普段は前髪に隠れている眉、まぶたの先にある睫毛、白い鼻の影になった小さな鼻孔、ほんの少し開いた唇の隙間、穏やかな寝息、ゆっくり上下する胸元、汗に混じったアルコールと焼き鳥のにおい。
「何だか暑いね」と同意を求めるように葉野が呟くと、式見は「う~ん」と小さく唸って寝返りを打つ。その背中には研究所の跡地で見せたような寂しさはなかった。

「葉野、起きてる?」
 声をかけられて葉野が重たいまぶたを開くと、夜を遮るように暗い式見の顔が目の前にあった。とつぜん現れた顔のアップに葉野は息をのむ。
「見せてあげようか、赤く光る虫」
 アルコールが抜けて甘さだけが残ったような温かい吐息が葉野の頬を撫でた。暗くて、しかし見つめ合っていることはお互いに感じられる距離。
「見られるの? ここで」
「うん。見せてあげる」
 そう言って、式見は立ち上がり、キッチンのほうへ歩いていく。離れてしまった顔が名残惜しくて、葉野はそのまま天井を見つめている。足音が戻ってきて、ようやく葉野は式見のほうに顔を向ける。立った式見のシルエット、右手に何かを握っている。それは、葉野が梨を切るのに使っている果物ナイフだった。
 ナイフを握った式見が一歩ずつ近づいてくるのを、葉野は目を凝らして、身動きせずに見つめていた。式見は葉野のすぐ横に腰を下ろす。
 葉野が身体を起こそうとすると「そのままでいいよ」と言って式見はTシャツをたくし上げ、白い腹部をさらけ出す。それからおもむろにナイフを腹に押し当てた。
 目の前の闇に浮かぶなだらかな白い肌に見惚みとれる間もなく、一筋の傷が描かれていくさまを葉野は見せつけられる。傷から滲み出してくる血が熱をもったように、うっすらと赤い光を帯びていく。
 赤い光は傷の周りを覆うように輝きを増していき、やがて霧のように式見の腹部の周辺を漂いはじめる。どこから集まってきたのか光に引き寄せられるように数匹の小さな羽虫が血を求めて舐めるように傷の周辺を浮遊していた。その羽虫の一匹一匹も赤く発光しているように見える。目を凝らすと霧のように見えていたものは、微小な蟲の群だった。
 羽虫は少しずつ増えていく。傷周辺の皮膚がほどけるように剥離し、それが羽虫へと形を変えて傷口をつくろうように舐めるのだ。
 異様な光景に葉野は背筋が震えるのを感じつつも見入ってしまう。
 霧が晴れていくように次第に光は薄れていって、羽虫たちも肌に溶け込むように傷痕に同化していく。夜の闇が戻ったとき、式見の腹部に傷はなくなっていた。
「これが赤く光る虫」
 声に導かれるように葉野が視線を上げると、式見が不安気な面持ちで見下ろしている。
「うん」と短く言って、葉野は視線を逸らして天井を見上げた。
 しばらく沈黙が続き、「気持ち悪いよね、こんなの」と式見が呟いたのに、そんなことはないと返事することができず、葉野はただ黙っていた。
 式見が布団に横になると、葉野は背を向けるように寝返りを打って「どうして見せる気になったの」と訊いた。
「いろいろ、思い出しちゃってさ」
 葉野と二人で森の中を歩いているうちに、子どものころに友だちと研究所の跡地に行ったときのことが浮かんできたのだと式見は言う。
「もしかしたら、葉野なら受け入れてくれるかもって」
「ごめん」
 口にしてから、葉野は軽く首を左右に振る。
「いいよ別に。普通じゃないもん」
 式見の言葉に、葉野は再び寝返りを打って身体の向きを変えた。式見の背中は普段と変わらず小さくて、少し遠くにあるように見えた。
 半日ほど会話らしい会話もなく過ぎていった。葉野は食欲がわかず水分をとる程度だったが、式見は菓子パンやバナナ、つまみに買ったビーフジャーキーや枝豆など旺盛に食事をとっている。
 葉野が縁側に座ってぼんやりと山並を眺めていると、トレイに麦茶とスイカ味のアイスバーを載せた式見がやってきて、間にトレイを挟むような形で腰を下ろした。
「アイス食べよう」
「うん」
 ホームセンターで買ってきた風鈴の音が響き、式見は子どものころの話を語り出した。

 * * *

小学生最後の夏休み、赤く光る虫の話を聞いて、親友のアキと二人、自由研究で発表しようといって虫を探しに山に入り、遭難した。
 戻ろうにも方向を見失って、次第に暗くなっていく森の中で、あてどもなくさまよい、歩き疲れてうずくまった。しばらくすると風が強まってきて木々が鳴った。そして風に紛れてうっすらと赤い霧のようなものが漂っていることに気がついた。霧をたどって歩いていくと、崖を少し下ったところに小さな洞穴があり、霧はそこから漏れ出しているようだった。
「行ってみようよ」というアキに「危ないよ」と式見は止めたけれど、けっきょく二人は慎重に足場を選びながら崖を下りて行った。洞穴の入口から先は斜面になっていて、先は真っ暗で何も見えず、いよいよ危険な雰囲気が漂っていた。先に進むアキの肩に右手を添えながら、式見は一歩ずつ踏みしめるようについていった。
 不意にアキの肩が下がって、式見はつんのめるように前方の闇へ落ちた。全身を強打して意識を失いかけながら、濡れた坂を滑り落ちるような感覚が右半身を伝わってきた。
 気がつくと式見は冷たい水たまりの中に仰向けに倒れていた。霞んだ視界のなかに、点々と赤い光が灯って見えた。痛みはなく、身体を動かすこともできそうで、式見は上体を起こしてみた。Tシャツは裾から胸元にかけて大きく破れ、血で黒く染まっていた。驚いて濡れたTシャツを捲ってみると、肌の表面に細密な絵のように無数の小さな蟲が赤い光を帯びて浮かび上がり、うごめいていた。よく見ると腕や脚の一部も赤い光をまとっていて、蟲たちが皮膚と同化するように形を失い溶け込もうとしていた。
 ぞっとして、式見は全身を手のひらで撫でまわして蟲を払いのけようとした。式見にまとわりついていた蟲たちが赤い霧のように舞い散って、再び傷口を求めるように舞い戻ってくる。
 何度か繰り返すうちに、無駄な抵抗だと悟り、また蟲たちに敵意はなく、むしろ傷を癒そうとしているのだと気がついて、式見は手を振るうことを諦めた。
 蟲たちに身を任せて、洞窟のなかを眺めてみた。あちこちでうっすらと赤く光っている場所には蟲たちが群れ集まって、岩から養分を吸いだそうとでもしているかのようにへばりついている様子だった。全体を眺め、アキの姿が見えないことに気がついて「アキ」と呼んでみたが、声が響くだけで返事はなかった。
 やがて夜が明けて、岩の隙間から外の光が一筋差し込んできた。式見が隙間に指を差し入れて力を込めると、壁面はもろく、半時間ほどで外が覗けるくらいの穴ができた。穴は緩やかな崖に面しており、何とか下りて行けそうだった。
 ものすごい空腹感に襲われながら必死で穴を広げて、崖を下りた。崖を下りながら無数の擦り傷を負ったが、蟲たちがすぐに癒してくれた。蟲が蠢くほど余計に腹が減って、身体は養分を吸われていくようにだるくなっていった。それでも必死で森の中を歩き続けて、やっとO市方面の県道に行きあたって保護された。
 その後、捜索が行われたが洞穴の場所はわからず、アキは見つからなかった。

 * * *

自分の身体に巣喰った蟲のことは誰にも話せなかったと式見は言った。しかし、昨日研究所の跡地に立ってアキのことを思い、黙っていられずに葉野に話した。話してくれたことは嬉しかったが、葉野はどう受け止めればいいのかわからず、戸惑っていた。
「アキは、どうなったんだろう」
 呟いて「もし式見と同じ蟲に憑かれたとしたら、アキも生きてるかもしれない」と葉野は続けた。
「うん、でも蟲は傷は治せるけど、たぶん死んだ人間を生き返らすことはできないと思う」
「アキが落ちたときに死んでいたら、遺体はそのまま洞穴のなか、ってことか」
 ずっと気がかりだったのなら、答えを見つけに行けばいいと葉野は思った。恐らく他人事なので式見よりもずっと気楽にそう考えることができるのだろう。提案すると、式見は頷いて「一緒に来てくれる? 蟲がたくさんいるかもだけど」と言った。
「いいよ。慣れるよ、たぶん」
 今日は準備を整えて、明日の朝、出発することにする。
 空になったコップの底に氷の溶けた水が溜まっている。蝉の声が響く中、風鈴の音が凛ととおった。

研究所跡の草むらを抜けて、森の中を進んで行く。はっきりとした場所はわからなかったが、地図とコンパス、通信端末のGPS機能を頼りにO市方面の県道を目指して進む。式見は洞穴への道は記憶していなかったが、アキと二人、大きな石に座って休憩したことを覚えていた。そして、その石から赤い霧の漂ってきた崖まではそれほど離れていないということだった。
 一時間ほど歩き回ったとき「何となく嫌な感じがする」といって式見の指さした方向に、葉野が前に立って進んでいくと、薄っすらと苔の生えた大きな石が見つかった。
「この石かな」
「たぶん」
 実際に石の上に腰掛けて感覚を確かめながら「ここだと思う」と式見は言った。
 徐々に記憶が甦えり、式見の導くままに進んで行くと、急な崖に突き当たった。式見の指さした先に、蔦に覆われて半ば隠れた、小さな岩の裂け目のような洞穴の入口があった。
「あそこまで降りて行ったの?」
 崖を見下ろして葉野は足がすくんでしまう。式見は頷いて、洞穴の真上辺りまで近づいていき、降りるための足場を示しながら先に下りて行った。手近な木に命綱代わりのロープを巻いて腰に括り付けていたが、葉野は足を滑らせるのではないかと気が気ではない。
 何とか降りて狭い入口からなかを覗き込む。日中でも暗く、数メートル先には深淵な闇が広がっている。二人はヘッドライトの電源を入れて、足を滑らせることがないように慎重に一歩ずつ進んで行った。
 緩やかな傾斜になった道を下っていくと、やがて地面が微かに湿り気を帯び、まばらに苔が生えているのが見られるようになった。さらに進んで行くと傾斜が急になった場所があって「たぶんここで滑って落ちたんだと思う」と式見は呟いた。
 傾斜は螺旋状に下っており、何かに掴まりながらであれば降りられそうだった。葉野はホームセンターで買い込んできた道具のなかからハーケンを見つけて、ハンマーで岩に打ち込んでいく。「大丈夫かな?」素人が打ち込んだハーケンに式見は不安を覚えたが、葉野が引っ張ってみたところしっかりと固定されているようだった。
「ちゃんと見てて、押さえててね」と念を押して、式見はハーケンから下ろしたロープにつかまって斜面を降りて行く。すぐに「葉野、大丈夫そう。そんなに深くないよ」と下から声が響いてきた。
 下は大小の岩が凹凸を作った複雑な形状をしており、少し先はなだらかな滑り台のようになって、さらに下に続いていた。
「アキ、いるの?」呼びかけるように式見が声を発する。それから二人はヘッドライトを消してみた。暗闇の中、目を凝らすとほんの微かに赤みを帯びてうっすらと発光している場所があった。明かりを点けて式見が近づいていく。
「葉野は見ないほうがいいかも」
 しかし、ここまで来た以上、見ないわけにはいかないと思い、葉野は踏み出して式見の肩越しに前を覗き込んだ。刹那せつな、目が合った。背筋が震え、一瞬呼吸が止まる。驚いたように見開かれた瞳、そのすぐ横に小さな耳があり、鼻の先は半分欠けて、唇は端がほんの少し残っているばかり。髪は抜け落ちていた。
 二人の目の前にあったのは子どもの頭部、それも左側の三分の一ほどが残っただけの断片だった。立ち尽くす葉野の前で、式見はしゃがんでその断片に触れる。触れたあたりの肌がフワッと揺らぎ、赤い霧のように数匹の蟲が舞った。
「アキ、遅くなってごめん。迎えに来たよ」
 式見が触れるたび、蟲が舞い、再びアキの断片へ溶け込んでいく。アキの肌は白くて色艶もよく、まるで生きているような、あるいは精巧に作られた模型か蝋人形のように見えた。両手で包むようにして持ち上げると、顔の断面に傷はなく柔らかな肌に覆われていた。
 おそらく即死だったのだろう、見開かれたままの目。式見はまぶたに触れて、そっと閉じてやる。アキはこのまま徐々に蝕まれ、蟲とともに滅びてしまう。蟲は傷を癒すことはできても、やはり失われた命を再生することはできなかったのだ。
 こんな寂しい洞穴ではなく、せめて生まれた村の近くに葬ってあげたいと、式見はアキを丁寧に風呂敷で包んで荷物の中にしまった。代わりにアキのいた場所に白樺の皮を置いて火をつける。何をしているのかと葉野が訊ねると、かんば焼きと呼ばれる霊を送り迎えするためのお盆の風習ということだった。式見はアキが既に死んでいると考えていて、せめて弔いのためにと用意していたらしい。二人は白樺が燃え尽きるのを黙って見守った。
 帰り道を上下どちらにとるか考えて、けっきょく下から降りることに決めた。斜面を逆行していくのは足を滑らせて落ちるリスクが大きい。式見は荷物からハーケンを取り出して岩に打ちつけ、ロープを結んだ。
 名残惜しそうに白樺の燃えカスを見つめている式見に「先に行くよ」と葉野はロープをつかんで下りて行った。何かが欠けるような音がして、冷たい金属音が響いた。離れた場所で重たいものが落ちる鈍い音が、式見の耳に届いた。
「葉野?」と呼んだ式見が傾斜の先に目を向けると抜け落ちたハーケンが転がっていた。
 再度、叫びのように葉野を呼んだ式見の声が洞穴内に反響したが、返事はない。式見は急いで新しいハーケンを打ち込んでロープをきつく結び、傾斜を降りて行った。
 水たまりに葉野が仰向けに転がっている。腹部を岩に打ちつけたのか、シャツは破れて血で汚れている。葉野は意識を失っているようだった。
 あのときの自分と同じだと式見は思った。違うのは、もうこの洞穴にはほとんど蟲が生き残っていないということだ。かつて岩にへばりついて養分を吸っていた蟲は、付着したまま色褪せて、渇いた模様のようになっていた。ほとんどの蟲は養分を求めてこの場所を離れるか、養分を失って朽ちてしまったらしい。岩の模様と化した蟲を見て、自分に寄生している蟲たちも、養分を失えば枯れて朽ちてしまうのだと式見は理解し、急に空腹感を覚える。
 足を滑らせないように近づいて、式見は葉野の腕をとり胸元に耳を当てる。まだ生きている。腹部に視線を向ける。傷は深い。手足にも無数の擦り傷、さらに右の肩から首筋にかけて大きな傷があった。
 式見は荷物からアキの断片を取り出して、「アキ、ごめんね」と謝って頬のあたりを万能ナイフで裂いた。それを葉野の腹部に近づけると、裂け目から蟲が這い出し、赤く光りながら傷口を舐めはじめる。蟲によってかたどられていたアキの断片は、次第に崩れて形を失っていく。
 アキをほどいて現れた蟲は葉野の傷を覆っていく、しかし数が足りない。式見は自分の身体を数か所ナイフで裂いて葉野に覆いかぶさった。痛みはあるが、すぐに蟲が癒してくれる。それから唇を嚙み切って、口づけるように葉野の首筋に近づける。
 式見は全身の蟲が蠢いて身体が熱を帯びていくのを感じた。蟲たちが活性化している。自らが創られた使命を果たすことを喜ぶかのように、式見の体内に閉じ込められていた蟲たちが飛び回り、二人の周囲を赤く染めて霧のように包んでいく。蟲が自分からほどけ出して身体が薄くなっていくのを式見は感じた。次第に蟲によって傷と傷が結ばれて葉野と一つに溶け合うような感覚に包まれていく。
 自分と葉野と、二人を維持するのにここにる蟲の数は十分なのだろうかと式見は不安を覚える。もし、どちらかが助かるとしたら蟲はどっちを選ぶだろうか。あるいは二人ともここで朽ちてしまうのか。しかし、式見の不安は杞憂に終わり、やがて蟲たちはそれぞれの宿主を見つけて、二人の身体に分け入っていった。

「葉野、起きて」
 声をかけられて葉野が重たいまぶたを開くと、式見の顔が目の前にあった。
「どうしたの、式見」
 なんだかすごく疲れた顔してる、とは言葉にせず、葉野は自分もひどく疲れているのを自覚する。全身のエネルギーを吸われたような倦怠感で、このまま目を閉じてまた眠ってしまいたいと葉野は思う。
 それでも気力を振り絞って、ここはどこだろうと考えて、式見と洞穴に来たことを、そして自分が斜面から落ちたことを思い出す。全身に痛みが走って、それから先は思い出せない。いや、しばらく式見に抱きしめられていたような気がする。そんなこと、あるだろうか。
 痛みはどこへ消えてしまったのか。葉野は上体を起こしてみるが違和感はない。シャツがひどく破れて汚れている。捲ってみるが血で汚れたシャツの下に傷はなく、腹部は白く滑らかだった。左手を見てみると、中学のときに体育の授業で転んでできた手首の傷痕が消えている。
 葉野は式見に視線を向けてその白い肌を見つめ、自分の腹部と見比べて、自分は式見と同じになったのだと理解した。試しに親指の腹を噛んでみる。痛みが走り、血が滲み、赤く光って、傷とともに消えた。
「こうするしか助ける方法が思いつかなくて」
 それはそうだろうと葉野は思う。疲れ果てた様子の式見を見て、全力で自分を助けてくれたのだと理解できる。
「世界で二人だけの、蟲飼いだね」
 状況を何とか笑いに変えようとして、式見はおどけた調子でそう言って微笑を浮かべた。
――蟲飼い。式見はこれまでずっと、孤独に自分をそう呼んでいたのだと、葉野は切なくなった。そして、式見と二人だけということを嬉しいと感じてしまう。
「あのさ、葉野」
 改まった様子の式見の言葉を遮り、「待った。何言うか当てるから」と葉野は言った。
「そう、じゃあ一緒に言おうか」と頷いて、呼吸を合わせる。
『お腹空いた!』
 直後、腹部がうずき、低く唸るように蟲が鳴いた。

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