演算子の悪魔

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梗 概

演算子の悪魔

 記者を前に、取材を受けるひとりの男がいる。男は一代にして巨万の富を築いた。精悍な顔つきと、どこか諦念を含んだような冷めた瞳。いくつもの死線を潜り抜けたことで財を成した男だと思えば、その風貌にも納得がいくように記者には思えた。
 記者は男に名刺を手渡し、取材料を送金しようとするも、男は丁重に断りを入れて辞退する。男にとっては記者の支払う金は端した金だ。男は指先1つで国を買ってもなお余りあるほどの莫大な〈演算子〉を、ただひとりで保有している。大気圏に手が届く高層タワーの最上層を買い込んでいる男は、その頂点で人との関わりを極限まで断ち、黙々と〈演算子〉の採掘に勤しんでいる。
 ゆえにこそ、なぜ男がこのような取材に応じているのか、記者には測りかねていた。
「もともとは貧困層の出身でした」男は静かに語る。

 人間の思考を拡張・補助する電脳が社会基盤となって以降、電脳の演算能力を売買する市場が形成された。黎明の時代に生まれた通貨〈演算子〉は謂わば、演算能力を直接的な流通貨幣とするために整備された仮想通貨のひとつだった。それが前世紀はじめの出来事だ。
 電脳の性能がまだ未熟だった黎明期は、性能の有無によって貧富に壮絶な差が生まれたものの、やがて訪れた電脳の技術的な性能限界によって格差はなめらかに均されていく。人間が生来持つ頭脳の出来などが些事になるほどに、電脳の性能は上限を迎えていた。
 前世紀のおわりになって、天井に達したと思われていた演算の性能を、急激に上昇させる手法が編み出され話題を呼んだ。それが〈採掘〉だった。
 人の頭脳は死に接するほどに、瞬間的な演算能力が跳ね上がる。この現象は俗に、走馬灯として知られたものだった。その現象を利用して、瞬間的な人間の頭脳限界を引き上げ余剰な演算リソースを生産する。命を危険にさらして埋もれた演算子を掘り出す行為。それが採掘と呼ばれる所以だった。
 採掘はひとつの流行を生み、一攫千金を狙った無謀な者が何人も命を落とした。築き上げられた屍の山、その頂でただ一人悠々と息をしている者がいる。——それが、記者として派遣された”私”が消さねばならない男である。

  *

 男は採掘で財を成した。驚くべきは、男はいまに至るまでのすべての財を採掘のみで手に入れたことだ。命知らずのギャンブラー、などという言葉では片付けられないほどの豪運。男の秘密主義も相まって、男の採掘には裏があるのではないかと囁かれていた。
「なぜあなたは、それほどまでの採掘を可能にしているのでしょう」
 記者は男の核心へと迫る。
「演算子の本質は、ただ通貨であることじゃない。莫大な演算リソースを注ぎ込めば、高度な予測が可能になる」と男は静かに語る。記者は息を吞む。
 男はまるで記者の考えを見透かすようににこやかに頷き、「未来予測」と思考の先を読む。それが叶えば、どのような無謀な賭けにも打ち勝つことができる。尽きない原資があるからこそ可能な、馬鹿げた芸当だ。記者はそのとき、世界から男を消さねばならない理由を理解する。
 記者は懐に隠し持った拳銃を引き抜き、男へと向ける。
「撃つといい」と男はさして驚いた様子もなく言う。
「これも見えていたとでも言うつもりか」
「君には見えない世界があるんだよ」
 嘲るように言う男の眉間へ記者は引き金を引き抜く。男はあっさりと、銃弾を額に受け止めて絶命する。
 
  *

 男は変わりない自室のベッドで目を覚ます。もう少しで約束の時間になる。秘密主義の男のセキュリティを掻い潜り、取材のためとコンタクトを取ってきた記者が、じきにエレベーターを昇ってここへやってくる。
 やがて来客を告げるベルが鳴り、扉が開かれる。
「はじめまして私は——」
 既に見知った名刺を差し出した記者の眉間へ向けて、男は正確な一発を撃つ。演算世界で増えた演算リソースが、演算子となって男の口座を潤す。

文字数:1594

内容に関するアピール

私の性癖と呼べる概念のうちのひとつで、特に好きなものが「ラプラスの悪魔」がある。ある地点の物理状態を完全に把握することができれば、未来さえ予測できるという仮説である。
それはそれとして、締め切りが近づくほど執筆は加速するなと実感している。

文字数:118

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踊る演算子のショーマン

 

 ——浮遊感。

     * * *

 するすると目に見えない糸を手繰るようにして、ガラス張りの箱は静かに天頂を目指して昇る。幾重もの強化ガラスを隔てた向こう側は、遮るもののない空そのもの。対流圏に押し込まれた雲がはるか眼下に敷き詰められ、遠く臨んだ境界面がスカイブルーに滲む。浅い丸みを帯びた地平の輪郭を足下へ押しやりながら、軌道エレベーターは駆動する。
 眩しすぎるほどに、薄い大気に溶かされた日光が小さな箱の内側まで満ち満ちていた。濃度のある光の層に晒された顔をしかめ、サングラスを持ってくるべきだったと、記者は無計画だった今朝の自分を恨む。地表ではひどい雨に降られた。磨いたばかりの革靴を汚したどころか、染みこんだ水がまだ不快に足を湿らせている。
 腕に巻いた時計の針を見やる。時刻は午前10時を指す。約束の時間(アポイントメント)に間に合うように地表を発ったものの、延々と縦に連なる軌道エレベーター上では時間の感覚を見失う。
 階層表示では高度20,000メートルの後半に近づき、末端の数字はめまぐるしく回る。目に見える変化と言えば、それくらいだった。圏界面を越えるとそこはもう、気象の揺らぎが削ぎ落とされた成層圏の下層に踏み入る。記者を乗せたカゴを重力に逆らって巻き上げるリニアモーターは制動に優れており、静音で快適ではあるがしかし、外に望む景色が平坦であるのも相まって移動の実感に乏しい。これでは昇っていたものがいつの間にか落ちていたと言われても、気付きようがない。綿密な安全設計の施されたガラス壁の先は、人間が息をすることを許されない死の世界だ。
 このような場所に、腰を据えて住もうと思える人間の気が知れない。まして10年あまりも地上に降りることなく、ただ一人で暮らし続けるなど、常人ではとてもまともな神経ではいられない。——もっとも、この先で待つ男にそんなものを求めることこそが過ちなのかもしれないが。
 ほどなく到着の自動音声(アナウンス)が流れて、ゆるやかな速度の減衰が身体を軽くさせるのを感じる。完全に運動が静止すると、内部環境への接続が行われたのちにドアが開かれる。ここに踏み入った記録の残る人間は、片手で数えるほどもいない。緊張に固まった表情筋をゆるめるために記者は自身の顔を揉んだ。できるだけ柔和に、おだやかな笑顔を。
 室内は十分に手広く、そして想像よりもずっと簡素な造りをしているように見えた。極限まで情報の削ぎ落とされた部屋だ。と記者は思う。
 床は繋ぎ目のないホワイトで塗りつぶされて、外面に接する壁はすべてガラスで吹きさらされている。余計な装飾品もなければ、腰を休めるためのソファすら見当たらない。住むための部屋というより、生存するための部屋だと形容される方がより素直に納得できるだろう。
 なるほど風景とは確かに、死ぬものではなく殺していくものだと記者は感心する。殺風景と呼ぶには過剰な、実験室にも似た清潔感が徹底されている。そこには周到な意識が張り巡らされている。ただ死ぬだけで風景はこうはならない。思えば、窓の外は高度3万メートルの安定したオゾン層に位置している。酸化性の高いオゾン環境下は強い殺菌と漂白作用がある。大気も薄く気温の変化も穏やかで落ち着いているこの環境では、実験室というのもあながち間違った印象ではないように思えた。
 男は記者に背を向けて座っていた。立方体から削り出したような直線的なフォルムの椅子である。眠っているのかそうでないのか記者にはわかりかねた。声を掛けるべきか躊躇っていると、男は腰を上げて記者の方へ振り向いた。”電脳”でなにかを閲覧していたのだろうと記者は察する。男は振り向くより前に、記者には見えない窓(ウィンドウ)を閉じる仕草(ジェスチャ)を見せた。
 精悍な顔立ちをした長身の男だった。ウェブに残る男の写真はどれも荒々しく解像度に劣るものばかりであったが、男の風貌は記者が事前に見知ったイメージとは外れない。頬は削がれたように痩け、目つきが鋭く厳めしい。男の年齢は37だと聞いているが、男がまとわせる禁欲的で堅い風格は退役軍人か、それに近しい死線を潜り抜けた生還者(サバイバー)と言われる方がしっくりと来る。
「採掘ですか」と記者は訊ねる。
「いえ、——少しばかり考え事を」
 記者が微笑んで手を差し出すと、男の節くれ立った指がぎこちなく握り返す。
「人と会うのは久しぶりで。失礼があれば先に謝ります」
「とんでもない。まさかあなたのような人に、取材を受けてもらえるなんて」
 記者が挨拶として名刺を手渡すと、男は珍しそうに手渡された紙片を眺める。人間の備える脳機能を拡張する電子デバイス——いわゆる〈電脳〉が社会インフラとなってからは、こうやって印刷のなされた情報を直にやり取りする文化はすっかりと廃れた。男は「はじめてもらったな、こういうの」と笑って、それを懐に仕舞い込む。
 男は個人でありながら、巨大資本に匹敵するほど莫大な〈演算子〉を保有する世界有数の資産家だった。人間の思考を拡張・補助する電脳が社会インフラとなって以降、通常の人間の生活では余剰を生む演算能力を直接、通貨として売買するために生み出された仮想の流通制度——その通貨の呼称が、今では一元化されて〈演算子〉と呼ばれている。
 男の保有する総資産は杳として知れない。一国を買える値段とも、月の半分を買える値段とも言われるが、実際の底を知る者は男だけだ。男のあらゆる情報には、男自身の保有する演算子によって強力な暗号処理が施されている。その強固な秘密のヴェールを乗り越えるには単純に、男と同等か、それ以上の演算子が必要になる。その壁が依然として破られていないということは即ち、少なくともこの地球上に、男より資産を持つ個人が存在していないことを暗に示している。
 男は軌道エレベーター上——高度3万メートルに住居を建設する権利を買い上げ、もう10年あまりも地上に降りることなく、徹底的に人との関わりを断って生活を続けている。
 だからこそ、記者には男の真意が読み切れない。一切メディアに露出することのない男が、記者のような大手でもない個人ライターの取材に応じている。記者は今でもまだ、自分の身体が高度3万メートルの位置に磔にされていることを信じられていない。
「お会いできて光栄です」
 記者は湧き上がる疑念に強引に蓋をする。読み切らなくてはならないのだ、と記者は奮い立つ。それが記者の仕事であるなら、全うするほかにない。

     *

「——珍しいですね」
 持ち込んだ照明やカメラといった機材を設営する記者に向けて、男はそんなことを言う。何のことかと問うことをしないのは、記者がその手の問答に慣れているからだ。記者は男とは違い、剥き出しになって晒された無防備なうなじをさする。そこには本来、男のように電脳デバイスが装着される。
「あなたほどの資産家に比べたら、電脳を持たない人間くらい珍しくともなんともないですよ」
 電脳を持たないことは、今や戸籍を持たないことに近しい。電脳はどんな貧民であっても、この国では等しく無償で貸与を受けられる。理由は簡単だ。電脳を利用する人間が多いほど、そこに社会的な演算リソースの余剰が生まれる余地ができる。つまり演算子を生む文字通りの肥やし(リソース)になる。
 出生から死亡まで、現代社会においてあらゆる社会的手続きは電脳で済ませられる。役所や仕事で、いったい何度苦い顔をされたかわからない。電脳を持たない人間を見る目は、まるで絶滅した生き物だとか、原人を見るそれに近い。男が記者を見る視線にも、そういった類いの好奇をかすかに帯びている——というのは流石に、記者の行き過ぎた被害妄想かもしれない。
「私にとっては、私こそ珍しくともなんともない。むしろ、どんな他人でも珍しく思えるよ。——どういう背景か伺っても?」
 記者は肩を竦めて「持たないのではなく、持てないと言えばわかりますか」と答える。男はそれだけで「ああ」と了解したように頷く。記者のように電脳を持たないのではなく、持てないのだとなれば、その背景の想像は容易い。記者は幼少期に、手厚い国境警備の網目を抜けて命からがらこの国へ転がり込んだ不法滞在者(イリーガル)だ。電脳の貸与を申請した途端、記者は祖国へ強制送還されかねない。
「にも関わらず、記者ですか。また風変わりな仕事を選ぶものだ」
「記者は昔から、地道な肉体労働と相場が決まっています。犬のように這い回って、駆けずり回るのが仕事ですから。それに——」
 記者はそこで、ズボンのポケットにしまっていた一枚のコインを男の前に取り出して見せる。遙か昔に流通した、古銭と呼ぶべきブロンズの硬貨である。
「単純な演算や検索では引き出せない情報にこそ、価値があるとは思いませんか」
 たとえば、と記者は前置きして指先でコインを弾く。甲高い音を立てて回転するコインの行方を、男の視線が捉えていた。めまぐるしく回りつつ落ちてきたコインを、記者は左手の甲に受け止め、同時に右手で覆い隠す。
「たとえば、こんな情報とか」
 促すような目線をやる前に、男は静かに「裏」と答える。記者は頷く。それくらいは電脳によりブーストされた視覚によって簡単に見抜くことができる。
 だが、おもむろに記者が開いた手からコインは消えていた。記者は両手を翻して、どこにもコインがないことをアピールしてみせる。単純な手品だ。きっと男ならば、既に電脳でこの現象を説明するに足るタネを調べ終えているはずだ。しかしそれで調べられるのは精々、記者がコインを消したところまで、といったところだろう。これから記者がどこからコインを現すかは、記者しか知り得ない。記者は満足して、隠し持ったコインを胸ポケットから取り出して見せる。
「わたしは、こういった体験を大事にしたいのです。他人の体験が金で買えても、いまこの瞬間の現実は買えない。そうでしょう?」
「どうやら君は、電脳を持たないのに人より情報のことをよくわかっているようだ」
 男の賛辞に対して、記者は微笑みで返す。
「それとは別に、記者として都合の良いこともありますからね」
 記者は自身のこめかみを指先で二度叩く。男もその意味を理解しているようで、深く頷く。電脳はいつも情報漏洩のリスクを孕んでいる。演算子を一度に注ぎ込めば、他人の電脳から任意の情報を抜き出すことも可能になる。もちろん他人の電脳から情報を抜き出すことは法によって取り締まられてはいるが、男ほどのリソースを持つ人間ならば、痕跡を消しながら電脳をハックすることも——果ては鮮明な記憶をそのまま盗み取ることさえ難しくはないはずだ。
「それでも、不便じゃないのかい」
「生まれつきないものですからね。羽がないことを不便に思ったことはないでしょう。それに、そんなに悪いことばかりではないですよ。こうやって、ひとつの話題になることもある」
 記者は男にやわらかな笑みを向ける。記者にとってそれは作り慣れた表情だ。電脳もなく、敵意もないことを示すための振る舞い。こちらが先に武装解除をすることで相手の警戒を解き、相手の銃口を下ろさせるための笑みだと記者は自覚する。目に見える限り男の表情に、緊張や警戒といった色は浮かばないように見えていた。
「そんな君だから、取材を受けようと思ったんだ」
 男のひとことに、記者はやはりかと腹落ちする。男は取材を引き受ける前からとうに、記者の来歴を調べ終えている。男にとって、記者の素性を調べることくらいは端した金もいいところだろう。当然、記者が電脳を持たないことも、すでに行き着いている。
「あらかじめ、全部知っていたんですね」
「まさか。今知ったことばかりだよ。——単純な演算と検索では引き出せない情報にこそ価値があるんだろう? 私も、同意見だ。興味深いブラックボックスは頼んでも金では買えない」
「多くの人にとっては、あなたこそブラックボックスですよ」
 設置の終えたカメラのピントが男に合わさるのを、男は気付いたように目を向ける。瞬間、記者はシャッターを切った。これまで10年間、表に顔を現さなかった男の素顔。男からは事前に、音声も映像も自由に記録して構わないと伝えられている。それさえも、記者は不可解に思う。男が長く厳重に守っていた秘密を、無防備に晒そうとするのか。だが、裏があるのはお互い様だと記者は考える。
「では存分に、暴き合うとしよう。お互いに」

     *

 電脳の普及に伴って〈演算子〉が生まれ、演算能力そのものに対して価値がつけられるようになった黎明の時代において、ヒトはより多くの富を得るために如何にして余剰な演算リソースを生み出すかを激しく競い合ったという。まず試行されたのは、電脳の性能の向上だった。他人より優れた電脳を手に入れれば、それだけ余剰な〈演算子〉を生産できる。そのムーブメントは一時、大きな格差を生んだ。
 間もなく電脳というデバイスの性能限界という天井が見え始めたことで、電脳における格差は次第に均されていく。電脳はあくまでも、人間の脳機能を補助的に拡張するためのデバイスだった。つまりここで訪れた電脳の性能限界とは、裏を返せば人間の頭脳の備える演算能力そのものの限界さえ示していた。これ以上の演算能力の向上を求めれば、基底となる人間の頭脳自体を向上させる必要があった。
 おわりの見え始めた隆興の中で、ある方法で人間の演算能力を瞬間的に引き上げ、演算子を生産する余地が生まれることがにわかに知られるようになる。それが〈採掘〉だった。
 人間の頭脳は死の際に接するほどに、爆発的に演算能力が跳ね上がる。それは俗に走馬灯と呼ばれる現象として広く知られたものだった。採掘によって得られる演算子は、危険性を度外視すれば単純な労働よりも実入りがいい。当時多くの人間が一攫千金を狙って、命を落としたと言われる。
 採掘はただ命を危険に晒すだけではいけない。人間の頭脳に刻まれた本能が、逃れられない生命の危機に直面するまで、リスクに見合う演算能力は引き出すことができない。いわば諸刃の剣だった。
 記者の追う男は、ある瞬間になって爆発的に資産を増やしたことが知られている。順当に考えれば、男は他多くの命知らずの採掘者(マイナー)と同じく、無謀な採掘によって資産を築いたと考えるのが自然だ。
 そしてそれら有象無象の採掘者たちと違って特異であるのが、男は留まることなく〈演算子〉を採掘し続けていることにある。増やしても増やしてもなお、男の資産は天井を見せない。これを確率の上で可能にするには、10万の命があってもまるで足りない。
 男はまるで死に続けながら生きているようだった。男が外界との関わりを断ち、経済活動を行うことなく資産を増やし続けていることを考えれば、男の〈演算子〉の生産手段はやはり採掘に限られてしまう。そして誰もが、その不可能性について行き当たる。
 採掘には、男にしか知り得ない抜け道がある。爆発的に資産を男が、膨大な資金を注ぎ込み誰の手も目も届かない軌道エレベーター上に居を構えたのも、男が自分の身を守るためだと考えれば納得がいく。
 男の持つ資産はスイッチに手の掛かった核爆弾のようなものだと誰かが言う。幸いは男がただ資産を溜め込むばかりであるということに尽きるが、男がその気になれば国防省(ペンタゴン)さえ丸裸にされかねない。
 記者が”彼ら”と接触を持ったのは、おおよそ半年前だ。深夜のパブで唐突に、見知らぬ男たちに声を掛けられたのが事の始まりだった。
 男たちがタダ者ではないだろうことはすぐにピンときた。男は記者の名乗らない——祖国で名付けられた名を呼んだからだ。それを知るのは祖国の親兄弟を除いて、この国にはいないはずだった。
 彼らが要求したのは、記者として——なにも元より記者であったわけだが——世界で最も資産を保有するあの男に接触を図ることだった。男とコンタクトを取る手はずは彼らによって整えられた。間もなく男の取材の約束が取り付けられ、記者は高度3万メートルへの切符を手にすることになる。
 彼らが記者に提示した指示は簡潔に二つだ。男の保持する採掘の秘密を暴くこと。出来なければ男をそのまま始末すること。後者が達成できれば、記者には在留資格が与えられることを彼らは約束する。記者だけでなく、祖国に置いてきた家族まで、この国で生きていくための十全な手続きが保証される。達成できなかった場合のことは伝えられない。その先を言うまでもないことは、記者にもわかっている。
 男との接触を持つ人間に記者が選ばれたのは、生い立ちゆえだろうと記者は推測する。生まれてこの方、記者は一度も電脳に触れたことがない。それはつまり、男の電脳によって暴かれることが何もないということだ。男の莫大な演算子によって思考が暴かれることもない。男の懐に潜り込むには最適な人材だと、記者もわかっている。
 ——違和感。男の行動には得体の知れない引っかかりがある。彼らが巧みに男との接触をこぎ着けたとしても、納得がいかない。なぜ、男はわざわざ記者を自身の懐まで招き入れる必要があったのか? 記者は考え続ける。考えは留まることはなく、絶えず回り続ける。
     *
 取材が進むほどに、男はこれまでの10年の沈黙が嘘のような饒舌さで語る。記者が促すと、男は上機嫌に酒を呷りはじめた。
「これでもね、贅沢をしているつもりなんだ。心から信頼できるのは、酒ぐらいしかないものでね」
 男の生活物資は定期的に、軌道エレベーターによって運ばれてくる。男は食料といった生活物資を厳しく選定していると聞いていた。それらの行動はきっと、毒殺を恐れてのことだろうと記者は検討を付ける。男はたった数人の世話人を雇い、本当に信頼された物資だけを部屋に運び入れる。
「こんなところで暮らしていて、恐ろしいと思ったことはないのですか」
 記者がそう尋ねると、男は苦笑いを浮かべる。
「恐ろしいさ。だが、高度があることを除いて地上よりはよっぽど危険が少ない。……わかるだろう? 金を持っていると、思わぬところから恨みを買う。ただ持っているというだけでね」
 男は開けたばかりのヴィンテージワインを差し置いて、新たにウイスキーを——それも、記者ですら知っているほど名の知れて高額なものを——気安く開栓して注ぐ。まるで躁にでもなっているかのように記者には見えた。記者では一生かけても手に届かないであろう貴重な酒を次々と、男はグラスに注いでは舐めるように飲み干していく。
「ここはいい。戦闘機も飛んでこなければ、ミサイルも届かない。命綱はたった一本だが——それが切れない限りは地上で核戦争が起こっても、ここならどうにかなる。なにより、余計な裏切りに怯えることもない」
「あなたほどの人でも、死を恐れるのですね。偉大な採掘者であるあなたが」
 記者の物言いを、男は鼻で笑い飛ばす。
「何度も死にかけてわかったのは、死は避けられないってことさ。必ずやってくることがわかっているから、何よりも恐ろしい」
 そこまで言うと男はグラスを傾けて、「君も一杯どうだね」と記者を誘う。記者は「困ったことに、下戸なんです」と断りを入れる。
「酔うとすぐに、記憶を飛ばしてしまうものですから」
 男に向けて目配せをすると、視線から記者の意図を汲み取ったのか、男は新たにグラスへウィスキーを注ぐ。
「これからされる話を、わたしは”つい忘れてしまう”かもしれませんが——それであなたともう一段、深い話ができるなら、喜んで記憶を飛ばしますよ」
 男は記者へグラスを手渡した。ひと息に飲み干した酒の熱が記者の喉を焼く。

     *

 

「君は、走馬灯を経験したことがあるかね」
 男の声色は高く、酒が回り始めていることが記者には感じられた。記者は男の問いに首を振る。
「とても経験したいとは思えませんよ。なにしろ、わたしには採掘ができませんから。無駄骨もいいところですよ」
「それは間違いない。あんなもの、知らないまま生きる方がよっぽどいい。死ぬのは恐ろしい。とてつもなく」
「あなたが言うと、誰も反論できない。なにせあなたほど、採掘に慣れた人間もいないでしょう」
 男は新たにグラスに酒を注ぎ、口に含む。その口元は笑っているように見える。男にとって、採掘は日常であるに違いない。常に生と死の間で揺らぎながら、男は着実に、しかし爆発的に〈演算子〉を生み出し続けているのだから。
「いろいろと、憶測が飛び交っていますよ。ここに無数の奴隷を飼って〈演算子〉を搾取しているだとか、あなたは東洋の秘法を修めていて、特殊な瞑想によって知力を底上げしているとか。おもしろいもので言うと、既にあなたが死んでいるんだなんて話もある」
「見てわかるだろう。ここは一人で住むのに精いっぱいで、残念ながら私は生まれてこの方この国を出たことがない。当然、私は私のままで生きている。ただ……そうだな。私が熟練者としてひとこと言えることがあるとするなら、たった一つだ。採掘に抜け道なんてない。ただ地道に、せっせと鉱脈を掘ることしかできない」
 だとするならばどうやって——。という言葉を記者は慌てて喉元に抑え込み飲み込む。記者の浮かべた表情になにかを感じ取ったのか、男は「どうやら、君はまだ記者の顔をしているようだ」と空になった記者のグラスへ新たな酒を注ぐ。忘れろ、ということだ。
「ほんとうに良い酒だろう」男はグラスを傾ける。「ここには、私が本当に気に入ったものしか置かないんだ」男はまたひと息に、酒を飲み干す。
「人は私のことを幸運なギャンブラーなんて呼ぶが、そんな大層なものじゃない。私はずっと”なにも勝負しちゃいない”んだ。ほんとうの勝負から逃げ続けて、ここにいる。私は、臆病なイカサマ師でしかない」
 そういう君はマジシャンだったんだ、と男は記者を見やる。
「マジックとイカサマはよく似てる。決定的に違うのは、マジックはタネ明かしさえもエンターテイメントになることだ。イカサマ師はタネを墓場まで持っていかなきゃいけない。タネを明かされるときは、ほんとうにイカサマ師が死ぬときだ」
 男の饒舌さが走り、話題が脇へ逸れそうになる予感があった。記者は話の流れを逃さぬように慌てて食い止める。
「と、言うことは——やはりあなたの採掘には、知られざるタネがあるということですね?」
 男はそこで、静かに口をつむぐ。少しの沈黙を挟んだ後で、やがて男はゆっくりと口を開く。「君が仮に、鉱山夫だったとしよう。舞台は1848年、カリフォルニア・ゴールドラッシュの最中だ。——君が1日に働ける体力には限界がある。身体の限界を超えて、より多くの利益を上げるために、君は何をするだろう」
 記者は考え込む。しばしして「昼も夜も働く、でしょうか」と答えると、男は笑って「どうやら君の上司は随分と幸せ者らしい」と言う。
「簡単な話だ。君は”大金脈だけを掘り続ければいい”んだ。クズ山を掘ることなく、まだ誰も知らない金脈を当て続け、独り占めにする。ただそれだけでいい」
「まさか。それではまるで、当たる宝くじだけを買えと言っているようなものだ」
 記者が茶化すように言う。男の目は笑っていなかった。
「ギャンブルで負けないためのただひとつの方法は、勝てるギャンブルだけを選び続けることだ。スリルを犠牲にね」
 男の手のひらにはいつの間にか、一枚の硬貨が載せられていた。見覚えがある、と気付いたときには男はすでにそのコインを親指で跳ねていた。宙に回転するそれは、記者がここへ持ち込んだものだ。いつ盗んだ、と考えをめぐらせている間に、男は左手にコインを受け止めて、それを素早く右手で叩いて隠す。
「手品もイカサマもしない。当ててみるといい」
 記者に湧き上がった懸念を拭うように、男は先回って言う。裏、と記者が答える。果たして開かれた男のコインは、表を見せていた。
「これが、電脳とある者とない者の差だ。そして同じくらい、〈演算子〉を使い方を知る人間と、そうでない人間の差は大きい。——演算子の役割は、通貨であることじゃない。皆んな忘れてしまっているだけだ。演算子の役割は、通貨であることじゃない。演算子は演算にこそ使われるべきなんだ」
 記者は息を吞む。男の発する意図、その馬鹿げた想像に思い当たり、記者は「まさか」と口にする。
「未来予知——」
 記者がそう呟くと同時に、まるで思考の先を読むように男も重ねて言う。まるで思考がトレースされているようだった。しかし記者に電脳は備わっていない以上、読まれたのは記者の思考ではない。考えられるのは、未来そのものだ。
「そうだ」と男は深く頷く。その返事は、未来の記者へと向けられていることを理解する。予定調和のようにして、記者はおののき、その仮説を声に出す。
「この部屋の全てを”演算”しているのか」
 男は肩を竦めて、肯定も否定もしない。
 記者の脳裏には、ひとつの知識が頭を過ぎる。ラプラスの悪魔と呼ばれる物理学上の仮説だ。ある時点における物理状態を完全に把握することが出来れば、未来の予測すら可能になるというものだ。
 記者は気付く。この部屋の徹底された殺風景も、ここが凪いだオゾンの空域に属していることも全て、複雑な演算要素を排除し、未来予知の演算コストを削減するために設計されたものだ。
「君は電脳がないのに、よっぽど物わかりがいい」
「まだ信じられない。いくら限定されているとは言え、これだけの物理現象を演算しきるなんて——」
 そのとき不意に、男は天井を見上げる。男はすでに記者の言葉を意に介さない様子でいた。
「なるほど。やっぱりそういうことか」
 男が呟くと同時に、記者の背後で閃光が爆ぜた。途端、盛大な爆発音と共に部屋を覆うガラスに重い衝撃が走るのを感じた。記者は咄嗟に、床に伏せ頭を守る。
「”上”から落としてきたわけか。いやはや、上手いことを考えたものだね」
 激しい音を立てて、外気と部屋を隔てるガラスに亀裂が走る。マイナス40度の、限りなく真空に近い外気が徐々に、部屋の空気を吸い上げていくのがわかった。男は記者の方へと向き直って「どうやら見捨てられたみたいだね、君は」と笑う。床に伏せたままの記者の傍に寄ると、男は記者の懐をまさぐり、そこから小さなチップを取り出す。”彼ら”に渡された発信器だ。この発信器が衛星通信を通して、ここで起きている一部始終を地上へ届けている。
「君の端末から通信が発されてるのはわかっていたが……、如何せん宛先がわからなかったものでね。だいたい察しはついていたけど、やっぱりこんな芸当が出来るぐらいの存在ではあるらしい」
 記者も男のひと言で、状況を理解する。記者に接触を図った”彼ら”は一体、男の未来予知をどこまで知っていたのかと考えをめぐらせる。おそらく、仮説があったはずだ。男の未来予知が届かない場所からの攻撃。入念に計画された匂いがそこに残る。
 ——違和感。では男はなぜ罠と分かっていながら、こうも易々と己のタネを明かしたというのだ?
 男の発した言葉が過る。イカサマ師はタネを墓場まで持っていく。タネを明かされるときは、ほんとうにイカサマ師が死ぬときだ。
「まさかあなたは——とうにここで、死ぬつもりだったのか」
 瞬間、二撃目の衝撃が走る。ガラスが致命的に砕け、床の底が抜ける。記者の身体は為す術無く、呼吸を許さない極限の冷気へと放り出される。
 記者の身体は死を覚悟する。男を見やると、彼はいたって平静なまま落下の速度に身を任せる。崩れゆく最中、男の口が何かを発するのを記者は見ていた。

     * * *

 ——浮遊感。
 極限まで引き延ばされた意識の中、”わたし”の意識は長い旅路を経てようやく”現在”へと辿り着く。まるで全てが止まっているように見える。砕けたガラスが氷の粒のように太陽の光を反射してきらめく。身体を焼かれると思うほどの冷気。その全てがひとつひとつ切り分けられたように、丁寧に理解が及ぶ。ここは長い長い走馬灯の終着。引き延ばされた頭脳演算の特異点。目を凝らせば、原子の揺らぎのひとつさえ手に掴めそうだった。
「そうか、ここは——」
 わたしにはもう、それがわたしの口から発せられたものか、引き延ばされた精神の時空の中で発せられたものかも判然としない。
 わたしの走馬灯の終着は、わたしの目にした男の口元を演算する。豪風と轟音の中、男がゆっくりと発した口の動きから、いまになってその言葉の意味をわたしは拾い上げる。
『ここはまだイカサマの途中だよ』
 ——ここは、すでに演算(シミュレーション)された世界だったのか。
 そうしてわたしの走馬灯が終わり、わたしはこの世界と共に避けようのない死を迎える。

     * * *

 目と肌を焼かぬように程よく減衰された暖かな太陽光が、ガラスを通して部屋に降り注いでいる。男は深い眠りに似た演算から覚めて、電脳から発された時間を取得する。——午前10時。まだ約束の時間には余裕がある。約束の人物を乗せた軌道エレベーターはまだ昇り続けているようだと理解する。
 男は椅子から立ち上がる。立方体をそのまま削り出したようなフォルムをした、彼の設計したオーダーメイドチェア。
「そろそろ、潮時かもしれないな」と男は呟く。何者かが、男を執拗に探ろうという動きを見せていることは漠然と把握していた。それがどうやら、簡単に男の手には負えない存在であるらしいことはわかった。
 今しがた覚めたばかりの”夢”を思い出して、男は少し笑ってしまいたい気分になる。男の〈演算子〉によって構築(シミュレーション)された演算世界の存在とは言えど、”彼”には随分と、楽しませてもらったように思う。男は演算された世界の中で、半径120メートルの事象”すべて”を把握している。——記者が最後に見た長い走馬灯、つまり記者が想起した彼の人生のすべてを男は同じように見ている。
 やがて来客を告げるベルが鳴り、軌道エレベーターの到着を男は感じ取る。
 エレベーターの扉が開かれ、そこから既に見知った男が姿を現す。
「お会いできて光栄です。わたしは——」
 一枚の名刺を差し出そうとした記者の胸へ向けて、男は正確な一発を放つ。その一発は、記者の懐に隠された発信器ごと、記者の心臓を精密に撃ち抜いている。——その瞬間、彼は走馬灯を見ただろうかと男は考える。記者の瞳からはもう、生の輝きは失われている。
 男はすぐさまに室内の隅にあった宇宙服にも似たスーツを身にまとう。実際それは、ほぼ宇宙服で用いられるそれと同じ作りをしている。背面にパラシュートと酸素、極限環境を耐える断熱仕様の施された超高高度のスカイダイビングに耐える特殊仕様だ。既に訓練は、過去無数に構築した演算世界の中で試し尽くしている。
 男は行く先を考える。まずは亡命だ。ハッチが開かれると、地上で雇い上げた協力者が信号をキャッチする手はずになっている。地上に降りた後は、彼らの回収を待つだけで良い。彼らが裏切ることはないという確信が男にはあった。彼らは定期的に男の住み処を訪れ、電脳を通じてその思考と人格を何度も読み込んでいる。
 吹きさらす極寒の暴風を身に受けながら、男は落ちる。遠い雲海の向こうに、昼間の月が浮かんでいるのが見える。
 音速に迫る自由落下の最中「そうだ」と男はあることを思いつく。男は溜め込んだ〈演算子〉の残高を確認する。そこには既に、演算世界の中で男が体験した〈採掘〉の成果が加算されている。それは命に対価にしては、十分すぎるほどの額。
 ——いっそ本当に、月の半分くらいを買ってしまうのもいい。地上に降りてすぐに、どこかの国からロケットを買い上げるかと、男は思索を巡らせる。

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