梗 概
私たちは眠りを喰らう
冬眠ごっこが子どもたちの間で流行した夏は、十数年ぶりの冷夏だった。
誰かが「やたらねむくて草」と言い出し、次第に睡眠時間をSNSで競うようになった。平均睡眠時間は延び続け、一日中眠り続ける様子を投稿する子どもも出現した。
湖畔樹の娘、湖畔琥珀もその一人だった。
児童精神科医である涼は子どもたちの異変に気付いていた。冬眠ごっこはただの遊びじゃない。最終的に医者たちがヒントを見出したのは、かつて中国の若者の間でみられたある運動だった。
寝そべり族。
熾烈な競争社会から背を向けるように路上に寝そべるようになった若者たちの現象を、今の子どもたちが無意識に反復しているとすれば?冬眠ごっこには琥珀と同じく中学受験を控えた年齢の子どもたちが多く含まれていた。激化する受験戦争の最中に未来に対する絶望をいち早く察知し、解離性昏迷がSNSを通じて感染している。大規模な集団ヒステリーという仮説は同じくSNSで拡散され、解毒剤として作用した。
かのようにみえた。
秋になっても、多くの子どもたちは眠り続けた。
そもそも琥珀は受験戦争を楽しんでいたように樹からはみえた。子どもたちは大人には窺い知れない葛藤を抱えながらも、知恵を駆使してタフに生き延びようとしていた。
生物学的な原因を探るために、樹は眠っている琥珀から髄液を採取する。
驚くべきことに、髄液では未知のウイルスが再組織されていた。そのウイルスは免疫系が未成熟な小児間のみで感染し、オレキシンを抑制し起きられなくし、そして何故かミラーニューロンの活動を亢進させる。
ミラーニューロン?とあくびをする琥珀に、樹もあくびをしながら説明する。
「あくびが感染る、この現象。感染者が動画をシェアしただろ?それを見て、みんな余計に眠くなった」
ウイルスはまるで玩具みたいにシンプルな構造で、ワクチンの開発には時間を要さなかった。
国連が「極めて重大な太陽活動の低下」という予測を発表したのは、ワクチンの有効性が証明されたまさにその日だった。
それはつまり氷河期の到来を意味していた。
樹はやっと気付く。
冬眠ごっこはただの遊びじゃない。本当に冬眠のつもりなんだ。
順序は逆だった。まずミラーニューロンを過剰に発達させた子どもたちがネットワークを形成して、お互いに影響を及ぼして眠り始めた。それからそうじゃない子どもや大人も巻き込もうとして、体内でウイルスを再組織した。
子どもたちは未来に対する絶望をいち早く察知し、知恵を駆使してタフに生き延びようとしていた。
荒唐無稽な子どもたちの無意識のアイデアにどう応えればいいだろう?樹は自問する。来たる長く厳しい冬が与える壊滅的な影響を、樹にはまだうまく想像出来ない。すると琥珀が「おはよ〜」と起き上がってくる。「やたらねむくて草」と笑いながら机に並んだ食事を勢いよく食べ尽くす姿をみて、樹は琥珀に、子どもたちに、賭けてみたくなる。
──遠い未来まで、この子が在り続けますように
琥珀という名前に封じた祈りを今一度唱えながら、樹はポケットの中のワクチンをへし折る。
文字数:1278
内容に関するアピール
ミラーニューロンとは不思議な細胞群/機能であり、模倣とか共感を超えてテレパシーの域に足を踏み入れているよう感じることも多い。特に小さな子どもの場合は。最近の10代は反抗期もなく、とても真面目で健気だという。僕の実感もそうだ。僕の時代とはぜんぜん違う。今の時代は、飽食の果ての飢餓(©甲本ヒロト)なんて言ってる場合じゃないのだ。それでも子どもたちはシビアな現実をサヴァイブするために、色々なことを試しては日々失敗したり成功したりしている。子どもたちがテレパシーを駆使して、地球規模のクライシスを乗り越えようとする。その健気さの前に、その真面目さの前に、僕ら=大人は何が言えるだろう?こんな時代にして申し訳ないと過剰にアポロジェニックになるでもなく、馬鹿げているとシニカルに振る舞うでもなく、「子どもの目線に立つ」なんて横柄なことも言いたくない。僕はただ賭けようと思う。同じ時代を生きる、偶然の友達に。
何にどれだけ賭けようか
友達、今がその時だ
(真島昌利「ルーレット」)
文字数:432
私たちは眠りを喰らう
夏を知らせる雷が落ちた。
数日後、いつもみたいに激しい雨が降った。それからしばらくすれば毎年、ひどい暑さがやってくる。なのに今年の夏は気温が上がるどころか、涼しくなる一方だった。
*
自分のくしゃみの音で目を覚まし、樹はソファーの上で舌打ちをした。
膝の上で開きっぱなしのパソコンの電源が落ちていた。
冷えて固まった身体を持ち上げ仕事着を脱ぎ捨てると、胸ポケットから名札ケースが落ちた。ケースには病院の鍵も入っていて、金属音が部屋に響いた。
今日も蝉の鳴き声は聞こえなかった。
身体を暖めようとして樹はベランダに出たが、Tシャツ一枚ではむしろ肌寒い気温だった。建物の前に群生するブナの木に目をやっても蝉は見当たらない。毎年びっしりと貼りついて、耳障りな音楽を鳴らしていたのに。
「異常気象だな」
煙草に火をつけながら樹は独り言をいった。
ニュースが騒ぎ立てるこの冷夏に、樹が困ることはとりたててなかった。暑いのは苦手だったし、うるさい蝉もいない。何より今日みたいな寒い朝に吸う煙草は格別に美味しかった。
しんと静まりかえった冷たい大気に晒されながら、樹は澪のことを懐かしく思っていた。
澪が生きていた頃、夏の家族旅行の行き先は決まって湖の近くのペンションだった。彼女はぜんそくを煩っていて、まとまった休みには自然の中で過ごしたがった。ペンションの予約の電話は樹の役割だった。「湖畔です」と名乗るたびに、ペンションの管理人はくすくすと笑った。最初こそ不愉快になったが、毎年のことだから次第に楽しみになった。「変わった人ね。好きよ、私」と澪も気に入っている様子だった。
湖畔というのは澪の苗字だった。交通事故で澪を失ってからも、樹は彼女の姓を名乗り続けていた。彼女の存在を自分に刻みつけたかった。
だけど近頃は、澪を思い出すことは随分と少なくなっていた。
あの日の事故の直後、自殺まで思い詰めいていた自分が、今の樹にはまるで別人のように感じられる。
なるようになるさ。
心の中でそう呟きながら、樹は青い空に向かって煙を吐いた。
今朝の冷たさは、ペンションの湖畔で迎えた朝の空気によく似ていた。そのまま記憶を辿って澪の姿を細部まで思い出す。胸がちくちくと痛んだ。かつて致死性だったその痛みは、今や甘やかですらあった。
琥珀が部屋の扉が開くのが見えた。
彼女は12歳になった。母親によく似てきた。中学受験を控えていて、樹の心配はもっぱら娘のことだ。
「パパ、寒いよ。なんで窓なんか開けてるの」
両目をこすりながら「馬鹿じゃないの」と悪態をつく娘の姿に、感傷的な気分は遠くに飛び去ってしまった。
「ねえ、お腹がもうぺこぺこ。なんでもいいから、なにか作って」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼女はソファーに飛び乗り、またすやすやと眠りに落ちていった。
*
待合室のベンチは横たわる子供たちであふれていた。
猛スピードで運ばれるストレッチャーの軋み。支払窓口で飛び交う老若男女の怒号。絶え間ない院内放送と呼び出しのアナウンス。
三年前、樹は静かな精神科病院からこの騒々しいK市総合病院に出向を命じられた。蝉の大群にも似た騒音のなか子供たちは身動きひとつしない。ベンチに身を寄せながら呼び出されるのを待っていた。
この光景を前にすれば医療者が疑うべきは熱中症だろう。
だけど今年の夏は例外だ。今日みたいな雨が降る日は、気温は13℃まで冷え込んでいた。
冷たい夏に子供たちは「冬眠ごっこ」で遊びはじめた。
始まりはSNSだった。「やたら眠たい」「ずっと寝ていたい」といった内容の投稿が急増し、それらの大半は十歳前後の子供たちによるものだった。次第に子供たちは睡眠時間をSNS上で競いだし、眠っている姿を配信するようになった。平均睡眠時間は延び続け、ついには18時間を超えた。
その現象がニュースで取り上げられると、誰が言い出したのか冬眠ごっこという呼び方が定着した。
真っ先に疑われたのは薬物乱用だった。だから冬眠ごっこの子供たちはまずは保健所へと運ばれた。しかし尿からは鎮静作用を有する成分は一切検出されなかった。
薬物汚染でもないが、かといって熱中症みたいに身体の治療が必要なものでもない。困り果てた親は子供をそのまま寝かせておくか、あるいは精神科に連れてゆくしか選択肢がなかった。
『小森聖仁さん。二番診察室にお入りください』
車椅子を母親に押されて入ってきたのは12歳の男の子だった。脳画像検査やバイタルサイン、血圧や心拍数といった身体の異常を知らせるサイン、は軽度の低体温以外は目立ったものはなかった。
耳元で大声で名前を呼び身体を揺らすと、わずかに表情に変化が生じた。少なくとも意識はある。耳をすませば呼吸もしっかり確認できる。「やっぱり……眠っているだけでしょうか」と母親が深くため息をつく。
樹は患者の身体を抱き上げ、診察室に備え付けのベッドの上に置いた。そして患者の両手を持ち上げ、寝顔の上で掴んだ手を離した。両手はそのまま眠る彼の顔へと落下したが目を醒ます様子もない。
Arm Drop Testの結果を打ち込んで、樹も深いため息をつく。念のために行った血液検査や尿検査ではきっと異常は見つけられないだろう。
樹は母親から小森聖仁の生い立ち、出生時の異常の有無や発達の偏り、小学校の成績や友人関係、などを事細かく聴取する。解釈次第ではどれも冬眠ごっこに結び付けられそうな気がしてくるが、本人は眠り続けていて確認する術もない。
お母様、と前置きして樹は母親を見据えた。
「良くも悪くも、聖仁くんは異常な状態ではありません。命に関わる疾患の可能性は極めて低い。言うまでもなく良いことです。では、なにが悪いことかというと、正常な状態は一般的な意味での治療の対象にはなりません。しかし精神科が取り扱う領域には正常な状態も含まれています。お母様がクリニックから児童精神科を紹介されたのは、なので、決してたらい回しではありません」
小森聖仁の母親は看護師だった。現場の人間ほど精神科に回されることにセンシティブになりがちだった。
「冬眠ごっこを説明するひとつの仮説として、この異常気象による影響も研究されています」
「天気のせい、ですか」
嘲笑うように母親は答える。
「冬眠ごっこの数少ないバイタル変化は軽度の低体温です。この寒さで体温調整を司る自律神経が乱れ、それが波及して生物時計に狂いが生じている可能性は否定できません。ですが原因は脳だとか身体にあるのではなく、こころにあるのかもしれない。私たちとしては、低気温によって子供たちが軽度抑うつ状態に陥り過眠を引き起こしている可能性を疑っています」
頭の中の定型文を読み上げながら、この数ヶ月何度同じ説明をしただろうかとうんざりした気持ちになってくる。自己矛盾に引き裂かれそうだった。冬眠ごっこがこころの問題だとは、樹にはどうしても思えなかった。
はいそうですか、と引き下がる親は皆無だった。聖仁の母親も、その理屈だと、冬が来るたびに同じような現象が全員に起こるはずではないか?と呆れたように反論する。
「思春期の精神は大人よりはるかに繊細で壊れやすい。それ以上の論理的な説明は、私の手に余ります。子供たちは夏を待ち焦がれていた。だけど夏は来そうにない。その絶望は、大人の物差しでは計り知れないのかもしれない」
「薬の効果はないんですか?」
「薬は眠らせることは得意ですが、覚醒させることは不得意です」
なぜなら、そういった薬は覚醒剤と呼ばれるので、と樹は付け足す。
ふたりとも途方に暮れ、ベッドで眠り続ける背中を黙って見つめるしかなかった。
「先生、髄液検査はどうでしょう?」
樹は力なく首を横に振る。
「あまりに侵襲的です。倫理的に許されない」
実は、同じ提案を樹はカンファレンスで再三行っていた。その度に却下された。背骨のあいだから穿刺針を刺して髄液を採取する髄液検査は神経の不可逆的な損傷や感染症の危険性があり、各種検査に問題がない子供に行うには確かにリスクが大きすぎた。
何より子供が同意できる状態ではない。命に危機でもなければ、たとえ親が同意しても勝手に検査を行うことは許されない。
「……本当にどうしたらいいのかしら。先生、この子、寝ている場合じゃないんです。中学受験もあるのに」
縋るような表情でこちらをみる母親に、思わず樹は言ってしまう。
「……うちの子も、実は、まったく同じです。彼女が何を考えているのか、僕にも……。今は、だから、待つより他ない。理解しようとしたり、解釈しようとすることが、子供たちを傷つけることもある。大人にできることは、慌てないこと、そして冷静でいること」
医療者はみだりにプライベートを開示すべきではない。臨床の初歩だ。苦し紛れに絞り出した教条主義的な言葉なんて以ての外だ。だけど、明確な治療的な意図をもたない言葉がこころの深い場所に不意に触れることを、経験として樹は知っていた。
母親は少し顔をあげるだけで、返事はない。だけど沈黙の質は確実に変容したように樹には感じられた。
深呼吸して母親は立ち上がった。「わかりました」と樹に軽く頭を下げ、「ほら、聖仁も」と眠る息子の頭を手でさげた。はじめて少し微笑んでいるようにみえた。
診察室を出ていく親子の向こうに、眠っている子供たちがみえた。
*
「絶望なんてしてて当たり前だから。私たちは絶望には慣れてる」
ピザを平らげながら琥珀は父親の話を笑い飛ばした。机の上には空箱が積み重なっていた。
最近の琥珀は日が昇る前に目を覚まし、樹が出勤する頃には既に眠くなっている。よく寝て、よく食べるから、体格も少し大きくなった。連日の塾通いで荒れていた肌にも鮮やかな艶が戻ってきた。
「だけど夏期講習に行けていないのは、ちょっとショック。ごめんね」
謝ることじゃない、と樹はピザを皿に置く。鳥の鳴き声がした。もうすぐ朝がやってくる。琥珀がしっかりと覚醒しているあいだに、伝えなければいけない。
「ゆっくり休むべきタイミングだったんだ。本当にごめん。もっと早く琥珀のサインに気がつくべきだった」
「本当にそう思っている?」
真剣な顔で、琥珀は父親に問いかける。
「パパはお医者さんだよね?」
透き通った茶色い瞳。琥珀という名前の由来だった。
その大きな瞳が樹をとらえている。なにか大事なことを言おうとしている。
「もし私がサインを発信していたなら、パパだったら見逃さないんじゃない?プロだし、父親じゃない。これは、そんなのじゃないと思うの。もちろん勉強がしんどいときもあったし、塾に行きたくないときもあった。でも私は私なりに、けっこう楽しかったんだよ」
冬眠ごっこはこころの問題ではない。樹はそう考えながら、同時に、子供のこころが脆く壊れやすいのかも知っているつもりだった。
「だから、パパたちにはどうしようもないことだったと思う。助けてなんて思ってないもん。それなのに、今更私たちは絶望に飲み込まれているだなんて言われても、それって、なんていうか……」
琥珀は一呼吸置いて、改めて父親を見据えた。樹は息を殺して言葉の続きを待った。
「見くびられている気がして、不愉快」
そう言って、大きなあくびをした。
つられて樹もあくびをしたから、ふたりは顔を見合わせて笑ってしまう。張り詰めた空気が弛緩して、樹は「そうかもしれない」としか今は答えない。
「あくびが感染るのはどうしてだっけ?前に教えてくれたよね」
「パパと琥珀のあいだでミラーニューロンが作動したんだ」
「不思議。人間の頭の中に鏡があるの?どうして?」
父親の答えを待たずに、琥珀はスマートフォンで検索する。
ミラーニューロン。
目の前の他者の行動や感情を理解し、予知し、模倣する際に活動するその神経細胞。他の動物と比較して人間では圧倒的に複雑に発達していることが知られている。発達には個人差があり、その多寡が一部の精神疾患のトリガーとなっている可能性は古くから指摘されていた。
精神と身体を繋ぐ存在として多くの研究者がミラーニューロンに注目していた。院生時代の樹もそうだった。彼が研究対象に選んだのは感応精神病と呼ばれる感染する精神病だった。主に思春期で発症し、その感染のメカニズムにミラーニューロンの関連が疑われていた。
樹は磁気共鳴機能画像法を用いて、一定数の児童にミラーニューロンの過剰興奮が認められることを発見した。その成果で一躍脚光を浴びた直後に、澪の事故があった。樹は大学院をドロップアウトし、しばらくは寡夫として過ごした。
研究は道半ばで投げ出してしまったが後悔はしていなかった。あの頃に得た知見が、臨床医としての自分を支えていた。
ミラーニューロンがどうして人間にだけ発達したのかを今の科学はまだ説明できない。だけど樹には持論があった。
「人間は社会をつくってしまった。社会を維持するには、言葉だけじゃ足りなかったんだよ」
ふうん。スマートフォン片手に、琥珀はあくびまじりに返事をする。
「逆じゃない?ミラーニューロンみたいなのがあったから、社会ができたかもしれない」
検索画面はいつのまにかSNSに切り替わっていた。そこでは子供たちが秘密のネットワークを形成している。睡魔に抗いながらそこにメッセージを投げ入れている娘の姿に、昨日の芦川の発言を樹は反芻していた。
「子供たちからSNSを取り上げろ。そうすれば冬眠ごっこなんてあっという間に終息する」
だけど、そんな権利はあるのだろうか?
*
真夏なのにコートが必要だった。
『8月の平均気温は過去最低の14℃』
『歴史的な冷夏の影響で自殺者は過去最高』
『冬眠ごっこの児童は全児童の約1割』
コンビニの喫煙所でニュースを読みながら、樹はぼうっと信号の向こうを眺めていた。どうやら今日は登校日だったらしく、道には子供たちが溢れていた。
大半の子供たちは何も変わらず過ごしている。
あの子たちは絶望しているのだろうか?
冷たい夏に、子供たちは心なしか憂鬱そうにも見えた。
「私たちは絶望には慣れてる」という琥珀が樹の脳内でリフレインする。
あのとき、琥珀は笑っていた。
突然、樹の目の前をとぼとぼ歩いていた子供たちのグループが一斉に駆け出した。かと思うと急に立ち止まって、全員がけらけらと笑い出す。気がつくと、違うグループの子供もその輪っかに加わっている。
いきなりの夕立みたいな光景に樹は勇気づけられた。子供は、その知恵を駆使してタフに生き延びようとしているようにみえた。
その余韻をかき消すように院内PHSが鳴り響いた。着信元は画面を確認するまでもなかった。
うんざりした気持ちで、芦川からの電話に出た。
芦川と樹は大学院生時代の同期だった。
樹と同じく神経生理を志したが、徐々に精神分析などの心理領域にのめり込んだ。大学院をドロップアウトした樹と違って、順調に博士号を取得した芦川はそのまま大学に残り長らく付属病院で勤務していた。
出世欲が強く野心家の芦川がK市総合病院に異動になったことを、誰もが驚いていた。それは教授選から外れることを暗に意味していた。現教授に謀反を試みたなど黒い噂は絶えなかったが、真相は闇の中だった。
そんな芦川にとって、冬眠ごっこはまさに格好の獲物だった。世間を騒がす冬眠ごっこで成果を出せば、大学に戻ることは容易いだろう。かつては気の置けない仲だった樹も芦川の振る舞いには辟易としていた。
『困るな、勝手にいなくなっちゃ。いまどこにいる?』
「すぐ戻るよ」とだけ答え、樹は重い腰をあげる。
『もう報道も随分集まっている。院長も来てるぜ。時間には間に合うんだろうな?』
「別に、僕がいなくても問題ないだろう?」
電話口の向こうから舌打ちがした。
『おいおい、何回も言ってるじゃないか。腐っても神経生理学の専門家だろ?世間の連中だって馬鹿じゃないからな。いかにも尤もらしいように見せるには、俺の隣りにいてもらう必要があるんだ』
あまりの明け透けなやり方に、樹は思わず吹き出してしまう。
『世界を欺くわけじゃないんだ。子供たちを助けたい一心なんだよ。出世はそのおまけだ。それに、お前だってカンファレンスで感心してたじゃないか』
「娘に言ったら、笑ってたよ。笑いながら怒っていた」
『琥珀ちゃんが?なんて?』
「私たちを見くびるなって」
*
カメラやマイクを携えた報道関係者たちが、最後列まで席を埋め尽くしていた。中央のステージには長いテーブルが置かれ、その背後には市章と病院のエンブレムが掲げられている。
芦川に手招きされるままに、樹は居心地悪そうに登壇者席に腰掛けた。
報道陣や病院関係者に混じって大学教授や准教授の姿も確認できた。どれも芦川のコネクションだろう。
「すごいじゃないか」
隣の芦川に耳打ちするが、ニヤリと笑うだけで返事はなかった。
壁一面のスクリーンにはこの場で発表される内容に関する資料がいくつか既に投影されていた。
「広報担当」と名乗る見目麗しい女性が(樹が初めて見る女性だった)がマイクを握り、声を弾ませて話し始めた。
「皆さま、ご多忙中のところ、このような場に足を運んでいただき、誠にありがとうございます。本日、早発性特発性過眠症、いわゆる児童思春期で流行する冬眠ごっこの原因と対策について、当院児童精神科医局長である芦川先生からご発表頂きます 」
照明が一斉に芦川に向けられた。芦川の肌が更に白く照らされていた。
経歴と業績を読み上げられるのを待って芦川がマイクを手にした。慇懃無礼な挨拶を早口で済ませると、「こちらを御覧ください」と一枚の写真を提示した。
夕暮れ時。公園らしき場所で数人の若者たちが草の上に寝そべっている。彼らは雲を見ているようにも、眠っているようにも、死んでいるようにもみえる。
躺平族というキャプションを、芦川は驚くほど流暢な中国語で発音した。「かつての中国で見られた、寝そべり族と呼ばれる現象です」と説明し、冬眠のアナロジーと考えて差し支えないと付け加えた。
そこから先の説明は、既に散々聞かされたものだった。
まず、寝そべり族が過去の奇怪現象としてインターネットミーム化した。そのタイミングから少しズレて冬眠ごっこが出現したことが、時系列のグラフで提示されている。”冬眠ごっこは寝そべり族の無意識的な刷り込みと反復である”。それが芦川の主張だ。冬眠ごっこの好発年齢が中学受験を控えた10〜12歳であること。比較的高IQな子供が多いこと。この国の受験戦争がいかに過酷であるか。寝そべり族が現れた当時の中国の苛烈な競争社会とどれほど似通っているか。かつての集団ヒステリー、たとえばこっくりさん騒動、と冬眠ごっことの類似性。
それらを精神分析の言葉遣いを織り交ぜながら、芦川は巧みに説明していく。
「かつての中国の青年たちのように、子供たちは絶望しているんです」
そう締めくくり、芦川は一旦マイクを置いた。
樹が再度感心させられたのは、その内容以上に芦川の語り口だった。この発表会は配信もされていた。琥珀がもし見ていたら、どう思うだろうか?見事に煙に巻かれたかもしれないし、やはり「そんなんじゃないと思う」と笑い飛ばした(あるいは怒った)かもしれない。
──人間は自分のことなんて、少しも分かっちゃいない。それが精神分析の知だ
芦川ならそう言いくるめるだろう。
とはいえ聴衆のリアクションは半信半疑といったところだ。
冬眠ごっことはSNSを介して拡大した集団ヒステリーである。たしかに、眉唾ものの説明だ。だけど天気のせいにするのだって、同じくらい莫迦げたことじゃないか?
気がつくと、樹の前にマイクが差し出されていた。自分の役割は承知していた。尤もらしさには適度な反論が必要だった。
「脳神経生理の専門家であり、かつて新進気鋭の研究者として将来を嘱望された湖畔先生」
そう告げる広報担当のわざとらしい笑顔が伝染したみたいに、樹もにこやかにマイクを受け取った。
樹が診察した300人超の子供たちの検査所見が表にまとめられていた。それらデータは冬眠ごっこがこころの問題であることを支持していた。しかし芦川が目をつけたのはArm Drop Testが多くの患者で陰性だったことだ。
「これは何を意味するのですか?」
わざとらしく大仰に、芦川が樹に質した。芦川の目と口が大きく見開かれていた。巨大な魚のように樹には見えた。その口に飲み込まれ、餌になることを望んでいる自分に、樹は少し驚いた。芦川は完全にこの場の空気を掌握していた。
検査方法を説明し、次いで許可を取って撮影した実際の映像を紹介する。弛緩した両手がモザイクを施した顔面にすとんと落下する。「これが陰性の所見です」「これはつまり、ヒステリーではなく、脳疾患などの意識障害が疑われると理解すべきでしょうか?」「難しいところです」「ああ、つまり尤度比は低いと」「むしろ強烈なヒステリーの場合は容易に偽陰性になることが知られています」「湖畔先生は大学院生時代に同じ釜の飯を食った、いわば同志なのですね。先生が研究されていたミラーニューロンが関与、つまり冬眠ごっこの拡大に寄与している可能性は?」「ありえない話ではない。報告によると冬眠ごっこの罹患率は13%。生まれながらミラーニューロンの過剰発達を認める児童の割合と奇妙な一致をみせています」「ミラーニューロンは画面越しにも発動するのでしょうか?」「ええ、それはもちろん」
SNSを介して感染する精神病。
芦川がそう呟いた。そのフレーズがインターネットを通じて世界中に感染してゆく様子が樹にはみえた。
「神経生理学の観点から、誠にありがとうございます」
芦川は聴衆に向けて、カメラの向こうの大衆に向けて、大胆な提案をする。すべてはその提案を社会的に実装させるために準備されていた。
「すべての子供たちを、SNSをから締め出してください」
そして、芦川の企みは見事に成功した。
子供たちの秘密のネットワークは切断された。
それからしばらくして、子供たちは目を醒まし始めた。
*
夏が終わった。
数字が進んだだけで、そもそも夏なんて最初からなかったのかもしれない。とにかく暦の上では夏が過ぎて秋になった。気温はさらに下がった。
そして子供たちは再び眠りについた。夏よりもはるかに多くの子供たちが冬眠ごっこに加わった。
社会は子供たちを心配する余裕を失いつつあった。歴史的な異常気象の影響で生じたあちこちの歪を手当てすることに皆が必死だった。
とはいえ医者の仕事は増える一方で、樹の生活は以前と大きく変化しなかった。社会の喧騒は他人事のように彼には感じられた。
樹の関心は変わらず冬眠ごっこに、再び眠り続けている娘に、向けられていた。
SNSから切り離された子供たちは一旦眠りから目覚めた。しかし覚醒は長続きしなかった。再び冬眠ごっこは猛威を振るい、その規模は拡大した。そのふるまいは本物の感染症によく似ていた。この寒さで免疫力が低下したとしたら?とてもシンプルな、だけど理にかなった推論に樹には感じられた。
樹は長い夢から覚めたような気分だった。
冬眠ごっこはやはり集団ヒステリーではなかった。
もちろん、これまでも感染症の検査はやっていた。だけど使用した検体は血液と尿だけだ。冬眠ごっこの感染にミラーニューロンの過剰発達が関連しているなら、奴らの標的は中枢神経系だ。
冬眠ごっこ。それは中枢神経系に影響を与える感染症。
その仮説を証明するには髄液検体が必要だった。
穿刺針は病院から持ち帰っていた。部屋では琥珀が眠っている。
娘のためだ。樹は自分にそう言い聞かせていた。
余計なことしないで!
SNSが遮断されたあの日、怒りと共に琥珀が投げつけたスマートフォンは樹の額に命中した。血が流れた。容赦ない敵意だった。その傷は痣となって残り、ときに鈍い痛みが生じた。樹は殆ど初めて大声で琥珀を怒鳴りつけた。
琥珀のためにやったことだ!
それ以来、琥珀は部屋に籠もるようになった。
それからまた目を覚まさなくなった。
排泄と食事以外、琥珀は殆ど一日中寝ていた。起きてきたとしても父親とは一切会話を交わさなかった。樹は起床時間を記録して、睡眠の周期を把握しようと努めた。決して琥珀が目覚めない時間帯があった。処置はその時間に済ませる必要があった。
樹はコインで琥珀の部屋の鍵を開けた。
カーテンは開けっぱなしで、月が室内を薄く照らしていた。
琥珀の寝顔は澪と本当によく似ていた。
澪なら止めるだろうか。頭に浮かんだそんな疑問を樹は握り潰した。
──はじめよう
小さく呟いて、樹はごくんと唾を飲んだ。
仰向けで眠っている琥珀の身体を転がして横向きにする。増え続ける体重のおかげで、固定した姿勢が崩れることはなかった。肌の白さが闇を切り裂いているように見えた。樹は人差し指に力を込めて、その冷たい肌に這わせた。贅肉に埋もれた左右の腰骨を指先で探り当て、黒のサインペンでマーキングする。白い肌を汚す黒々としたふたつの丸を一本の線で繋いだ。
ヤコビー線。それより下には、神経はないとされる。
両手に力を込めて樹は琥珀の身体を丸めた。力は加減しなかった。胎児のような姿勢に曲げられた琥珀の背中に、臀部にかけてごつごつとした尾根が浮かびあがる。ひとつの突起はヤコビー線上に位置していた。「第四腰椎」。樹は口に出して確認する。琥珀は死んだように動かない。指をずらす。「第五腰椎」。もう一度、確認する。「隙間は斜めになってるから、針はわずかに頭側に傾けて刺す」。後輩に指導する時みたいに、落ち着いた声で発声する。時間をかけて第四腰椎と第五腰椎との僅かな隙間を、樹は探り当てた。見つけてしまえば、あとはそこに針を差し込むだけだった。
これも余計なことなのか?
長く鋭い穿刺針を手にしながら、樹は自問する。
琥珀の身体がわずかに震えた。「助けて」と訴えているようにみえた。
だから、樹は琥珀に針を刺した。
その先端がずぶずぶと靭帯へ侵入してゆく。ゆっくりと、抵抗に逆らって針を慎重にあちらへと進めてゆく。呼吸を整える。ぱちん。硬膜を破いた感触が樹の掌へと伝わる。額の痛みが樹の全身に広がっていった。痛みはやがて痺れとなり、手元を狂わせかけた。
針先がゆれないように、左手でしっかりと固定する。
ぽたり、ぽたり。
琥珀の髄液がこちらへと溢れてくる。養蜂家が蜜を採取するように、樹はそれを大切そうに受け取った。
*
ウイルスの構造は極めてシンプルだった。
カプセルトイのようにタンパク質の殻がDNAを取り囲んでいるだけだった。
解析も比較的容易に済んだ。このウイルスは免疫系が未成熟な小児間のみで感染する。感染が成立するとオレキシンと呼ばれるホルモンの生産を脳内で抑制される。オレキシンが減少すると人間は起きていられなくなる。
それが冬眠ごっこのメカニズムだった。
誰もいない研究室で樹は煙草に火をつけた。気が大きくなっていることに気付いていたが、それだけの発見をした自負があった。
全く未知の感染症を独力で突き止めたのだ。
もちろん、可能なら誰かの手を借りたかった。そうすれば解析はもっと早く済んで、起源を探る系統樹解析まで行えたはずだ。だけど被験者の同意を得ずに採取した髄液の解析を手助けする人間がいるはずもない。
たったひとり、芦川以外は。
電話口の向こうで芦川は明らかに高揚していた。バッシングに気落ちして職場にも顔を出さなかったのに、欲しかった玩具を与えられた子供のように浮かれている。当然だ。これは偉大な仕事だ。世間は関心を失いつつあるが、医学界へのインパクトは巨大なはずだ。教授のポストも夢ではないだろう。
「成果は全て、お前にやるよ。僕の名前は一切出さなくていい」
樹は出世には興味がなかった。子供たちが、琥珀が目を醒ましてくれればそれでよかった。
そのかわり、芦川にしかできないことがあった。そういった意味でも彼は適任だった。
「検体の出処をもみ消せ。そういうの、得意だろ?ワクチン開発の資金集めもよろしく頼むよ」
芦川の爆笑が樹の鼓膜を揺らす。
『お安い御用だ。改竄でも、賄賂でもなんでもするさ。俺は汚い大人だからな。まあ、お前も大概だが』
ケージの中のラットが樹の笑い声に反応して、がさごそと動いた。
『琥珀ちゃんの様子は?』
芦川の口調は本当に心配しているようだった。
琥珀は今もあの部屋で眠り続けている。睡眠時間は伸び続けて、今は排泄もベッドの上だ。食事も滅多に口にしない。
『栄養状態は?』
「不思議と問題がない。きっと代謝も落ちているんだろう。食欲も抑制されているのかもしれない」
『まさに冬眠だな』
だけど、解決は時間の問題だ。ワクチンが開発されれば、今度こそ子供たちは本当に目を醒ますだろう。芦川はきっと何もかもうまくやるはずだ。樹は芦川をその点で全面的に信頼していた。そして彼の崇高さにも。
子供たちが目を醒ます。その瞬間に向けて、時計の針を進めていけばいい。
たとえ針の回転が逆方向だったとしても。
芦川との電話を切ってすぐ、樹はまた電話をかけた。
「湖畔です」
嘲笑うような、懐かしい笑い声が向こうから聞こえた。
*
どの川にも繋がっていないから、厳密には湖ではないそうだ。
その水は恐ろしく透明で、覗き込めば魚たちが泳いでいるのが容易に確認できる。
魚たちは一体どこから来たのだろう?
その謎を解決するために、管理人は今日も水中を探索する。初めてここに来たときと変わらず、彼はあるはずの放水路を探していた。
琥珀が5歳のときに「お空から降ってきたんじゃない?」と管理人に言った。それ以来、彼は1日8回の空の観察を欠かさない。ペンションの宿泊者も記載できるノートには、3時間毎の天気が几帳面な文字で記録されている。
管理人は放水路が見つかり次第このペンションを畳むつもりだという。「ずっと来たいから、ずっと見つからないで欲しいです」と澪が伝えると、管理人は少しムッとしているようだった。それがふたりの最後の会話になった。
ペンションは経年変化を一切感じさせなかった。あの頃から時間が止まっているようだった。清掃は行き届いて埃ひとつない。潜水用具は定位置に置かれ、決して誰にも触らせなかった。暖炉の火で室内の温度は常に一定に保たれている。
すべてが神経症的だったが、息苦しさは感じられなかった。
感じられるのは管理人の圧倒的な無関心だった。
ここに琥珀とふたりでくるのは初めてだった。だけど管理人は澪がいないことに何も言わない。彼女の不在に気付いてさえいないように見えた。湖畔という苗字にくすっと笑うとき以外、感情の起伏は極めて乏しかった。
異常気象も、奇妙な感染症も、管理人にとっては些末なことだった。ペンションの環境を一定に保つことや、湖の謎を解くことに比べれば。
だから樹はこのペンションを避難先として選んだ。琥珀がずっと眠っていても、管理人は一切関心を示さなかった。日中の殆どを管理人は湖に潜って過ごした。新聞配達員以外の訪問者は滅多にいなかった。
芦川が率いる研究グループがウイルスの存在を公表してから、世の中は樹の予想通りに動いた。寛容さを失った社会は、奇妙な感染症に忌避感を隠そうとしなかった。冬眠ごっこの子供たちは隔離され、SNSどころか実社会から排除された。ワクチンの開発が着実に進んでいることを芦川が涙ながら訴えても無駄だった。
ずっと眠っていたほうが幸福かもしれない。眠り続ける琥珀の傍で、樹はため息をつく。
ペンションにはテレビもなければ、電波も通じていない。世の中がどうなっているかを知るには新聞を待つか、スマートフォンが繋がる湖畔まで歩く必要があった。
管理人から預かった合鍵でしっかりと施錠して、樹は湖の方に歩きはじめた。外はひどく寒くて、鈍重な雲からは今にも雨が降り出しそうだった。樹は誰かと話したくてたまらなかった。
今日はワクチンを届けに芦川がペンションに訪ねてくる日だ。
久しぶりの青空で、気温も比較的暖かかった。微熱のような高揚感に包まれて、「もうすぐだ」と眠る琥珀の背中を撫でる。管理人の姿はなく、食卓には湖で採れた魚料理が並んでいる。琥珀と一緒に食べようと手をつけずに待つことにした。
バイクのエンジン音がして、それからチャイムが鳴った。樹はわざわざ扉を開けて初めて直接新聞を受け取った。「ありがとう」と声をかけたが、配達員の男性は浮かない表情で小さな返事をかえすだけだった。
樹の予想に反して、ワクチン開発のニュースは片隅に追いやられていた。
『太陽活動低下が引き金、新たな氷河期の到来──国際気候研究機関が発表』
一面を埋め尽くすその大見出しは、まるで外国語で書かれているように樹には感じられた。
太陽活動低下?氷河期?いったい何の話だ?
記事を読みながら、次第に足元が崩れていく感覚に樹は襲われた。次いで船酔いのようなゆっくりとした周期の、だけど巨大な目眩に飲み込まれた。
「太陽活動の正常化は現時点では予測できない。明日かもしれないし、百年後かもしれない。我々人類は冷静を保つ必要がある。希望を捨てるな。太陽が正常になれば、8分後には元の世界に戻るのだから」
専門家のコメントはそう締めくくられていた。
椅子に腰掛けて呆然としていると、管理人がペンションに帰ってきた。髪の毛がまだ水で濡れていた。
「どうしました?具合でも悪いのですか?」
流石の樹の様子にただならぬものを察知したのか、管理人が尋ねた。樹は黙って新聞を差し出した。
読み終わっても何も喋らない管理人に痺れを切らして、樹は彼に問いかけた。嘲笑うように。
「それでも、あなたは放水路を探し続けますか?」
世界が終わるかもしれないのに。
返事はなかった。沈黙を切り裂くように、クラクションの音が鳴った。
「約束の品だ」
芦川は完成したワクチンのアンプルを樹に手渡し、「どうも世界はそれどころじゃないがな」と苦笑いした。
「ここはのどかでいいな。都会はパニック状態だ。みんなうろたえて、戸惑っている」
そんな大人たちをよそに、子供たちは眠り続けている。
「どうすればいいんだろうな」
知るか、と芦川は樹を一蹴する。そんなことより、と言って「信じがたいデータがあるんだ」と鞄からタブレットを取り出した。資料にはウイルスの系統樹分析の結果がまとめられていた。
青空の下で樹はそれを読んだ。こんな時でも新しい発見には胸が高鳴った。
「3ヶ月前?」
樹は声を出して驚いた。
ウイルスの推定起源はたった3ヶ月前。子供たちをSNSから締め出した直後に発生したことになる。「急造されたウイルスだから、その構造がシンプルだった」と芦川たちは暫定的に結論づけている。そんな子供じみた理由が、果たしてウイルスにも通じるのだろうか?
資料を読み進めながら、突然、樹は思い至る。
理屈より先に確信に撃たれた。
「子供たちは、全部分かってたんだ」
「俺からすれば氷河期よりよっぽど驚くべきことだ」と芦川も頷く。
子供たちはいち早く氷河期の到来を予知した。子供たちはSNSを通じて、無意識的にアイディアを共有していった。それからまず、13%の生まれつきミラーニューロンが過剰発達した子供たちが、互いにネットワークを形成して眠りについた。最大の参照先は本当に寝そべり族、──かつての冬眠の模倣の模倣、だったのかもしれない。SNSに支えられていたその秘密のネットワークが途切れると、子供たちは別の方法を考える必要があった。今度は、残り87%の子供たちを巻き込める方法を。ミラーニューロンを通じた合議が子供たちの体内で玩具のようなウイルスを合成した。
感染症ごっこから真の感染症へ。
それらプロセスは、おそらく中心を欠いた集合的無意識の過程だったに違いない。とにかくそれは成功した。
樹はワクチンを地面に叩きつけていた。
お前ならそうすると思った。芦川が笑う。
「どれだけ荒唐無稽でも、僕は子供たちに賭けるよ。もう余計なことはしたくない」
「一概に荒唐無稽とも言えないぜ」
嗜めるように、芦川は樹を見据える。
「ウイルスはオレキシンを抑制する。すると過眠になって、食欲は抑制される。だけど子供たちの体重は低下していない。基礎代謝の低下だけではその現象は説明できない。何か喰ってるんだ。だとしたら、子供たちは何を喰ってるんだ?」
推論の粋を出ないが、と芦川は続ける。
「どうして子供たちの間だけで感染が成立するのか。免疫系が低下していても、成人には感染しない。ウイルスが成長ホルモンをターゲットにしていると仮定すれば、その説明がつく。過眠で蓄えられたエネルギーを、成長ホルモンの異常分泌で極めて効率的に回収しているとすれば……」
睡眠を栄養として摂取する。
もしそんな事が可能なら、百年だって人間は眠り続けられるかもしれない。
「知らないうちに、特別な、最短距離の道を見つけ出していたんだ。天才的な研究者みたいだ」
負けを認めたスポーツ選手みたいな晴れやかな表情で芦川は笑う。
子供たちを見くびっていた。
そう言い残して、芦川はペンションを去った。
空気を入れ替えるために客室の窓を開けた。
刺すような冷気が長く伸びた琥珀の髪をなびかせ、樹の頬を叩いた。
割れずに残ったワクチンのアンプルが、樹の手に握られていた。さっきの決意が早くもゆらいでいた。
眠り続けることが、本当に琥珀の幸せなのだろうか?
樹は琥珀と話しあいたかった。彼女の意志を確かめたかった。だけど起きていたとしても、琥珀は父親との会話を拒否していた。
助けてと言っている気がして、樹は琥珀の頬へと手を伸ばした。
その手が払いのけられた。強い敵意を込めて。
「触らないで」
目を見開いて、琥珀ははっきりとそう言った。
琥珀色の目が威嚇するように父親を睨みつけていた。
「また変なことする気?」
「ごめん」という言葉を樹はぐっと飲み込んだ。それが最低限の礼儀だった。自分が楽になりたいだけの謝罪なら、しないほうがマシだ。ありったけの力でアンプルを握り潰した。
ガラスの破片で血が流れた。
掌の鋭い痛みを樹はじっと耐えた。
どれだけの時間が経っただろう?
やがて、樹はあくびが止まらなくなった。
強い眠気に襲われて、立っていられなくなった。これまで体験したことのない強烈な眠気だった。
──ありがとう、僕も仲間に入れてくれるのかい?
沈みゆく意識の中、樹は子供たちに感謝した。そして飲み込まれるように深い眠りへと落ちていった。
*
浮上する管理人の頭が水面を揺らした。
闇を反射して一面が黒くなっていた。今日も放水路はみつからなかった。
「お空から降ってきたんじゃない?」
それが誰の言葉だったか彼は思い出せなかった。
思い出す必要もなかった。すべきことはいつも同じだから。
仰向けに浮かんで、じっと空を見上げる。
すると白い破片が空から降りそそいだ。魚ではなかったが、彼は驚いた。
「雪だ」
それは観測史上最も早い降雪だった。
〈了〉
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