真赤な人間

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梗 概

真赤な人間

 遊牧騎馬民族であるキンメリアの騎兵隊長カスラーズは、怒りから体を震わせた。彼の愛馬が衰弱死したのだ。
降雪地域ではまれに、氷雪藻が増殖して赤い雪が積もることがある。大抵の赤雪は人には無害だが、紀元前7世紀の黒海付近で例外的に強毒性の氷雪藻が繁茂していた。
キンメリアの姫の祈祷に反して積もり続ける草原の赤雪は、陽の光を受けて葡萄酒色の光を放つ。辺りの積雪から漂う根腐れに似たにおいは日々悪化し続けている。カスラーズが立ち上がるとともに、赤雪の病で死んだ愛馬に集る蠅の軍団が大儀そうに移動した。
「決行は今日だ。今日、姫に想いを告げ、共に群れを出るのだ」
カスラーズはそう決意し、人目の少なくなる夜を待った。
 
 ここのところ、キンメリアの姫スワシビリは運命という言葉を反芻していた。
はじめ、「自分が勲章を授けた、精悍なカスラーズが私を連れ出してくれないかしら」と子供らしいことを自覚しながら考える。その後、「空っぽの心で神の言葉に耳を傾け、国とともに滅ぶことが私の運命なのだろう」と悲観的に思い直す。
カスラーズがテントにやってきたのはその思考の浮き沈みの最中であった。潜めた声での提案に彼女は日頃うかべない笑みで応じた。
 
 赤雪の影響下を脱するにあたり、カスラーズは草原のモミの木で筏を作っていた。各地のテントからうめき声が聞こえる病める夜に、羊の干し肉や金品の類を筏に積み、カスラーズとスワシビリはアラス川を下り始めた。
 明くる朝、スワシビリは嘔吐した。赤雪の病の初期症状である。カスラーズは手持ちの薬草や麦粥で看病したが、その甲斐がない。真夜中、カスラーズは敵対勢力の集落に忍び込み、脛への矢傷と引き換えに、羊肝、鹿角や麻などを持ってきた。彼は麻を焚き、スワシビリに薬を飲ませ、また、出血の止まらない自分の脛を焼いた。二人は空元気を出し、煙越しに理想の生活について話し、やがて疲れて眠った。
 
 数日後、筏は赤雪のない地帯にたどり着いた。それを視認するやいなや、食欲が無いにも関わらず、二人は精を付けるために食物を詰め込んだ。両者とも達成感から大声で笑いあい、脂で光った唇のまま口付けした。やがて、カスラーズが話に聞いていた港町が見えた。
港町で二人は金のバックル、豪奢な剣や鎧、上着を売り、家、食料と薬を買った。晩餐のさなか、スワシビリはこの状況こそ幸福というものだと訳知り顔で語った。その夜、久々に満たされた表情を浮かべながら二人は眠った。
 
 翌朝、カスラーズが寝床で死んでいた。残されたスワシビリは昨日の商人を訪れ、家を売り、鎧などを可能な限り買い戻した。スワシビリはカスラーズに鎧や剣を着け、海の方へ引き摺って行った。浜に近づいた彼女が見たのは赤い海であった。どのみち、赤雪の病からは逃れられなかったのだろう。
スワシビリは水平線に向かって歩みを止めず、そのままカスラーズと共に葡萄酒色の海へ沈んでいった。

文字数:1202

内容に関するアピール

 二回ひねる構成として、悪い→良い→悪いという状況展開としました。
 内容については好きな要素を詰め込んでいます。具体的にはバラード「結晶世界」、星空めてお「腐り姫」、エヴァ旧劇の終末世界観、安部公房「けものたちは故郷をめざす」のテーマ、いよわ「あだぽしゃ」の赤い色彩・愛の終わり。加えて、特にリファレンスはないのですが高貴な身分、叶わないのならば装いに徹する武士道的な思想などです。
上記のアイデアを成立させる、赤い雪で滅ぶ環境、姫に近づける警備、史料が残っていない文明としてキンメリアを持ってきました。また、ホメロスの云う葡萄酒色の海等々の情景と合わせてエキゾチシズムが読後に残ることを意識しています。
 梗概は情景に特化しましたが、実作では「黒海付近の地層に毒の成分ミクロシスチンが見つかった」というような歴史モノ・枠物語として直すことも考えております。何卒宜しくお願い致します。

文字数:390

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真赤な心

 黄昏時の草原に凍える風が吹き、テント内にいるカスラーズを雪が強く打った。そのまま頬に張り付いた雪が溶け、雫が顎を伝う。頬から根腐れのような強い臭いが漂い、彼は手の甲で拭った。手の甲を見やるに、雪片混じりの赤い液体が映っている。そのまま赤色は血のように滴り、皮膚に馴染んで消えた。
彼は、生を受けてから赤い雪を見た経験はない。また、ギリシアの地から遥々伝ってきた叙事詩からも、このような異常気象を聞いた覚えはなかった。ましてや、赤い雪に毒があり、人間含めた動物に害を為すということは、誰しも想像できず、対策のしようがないことだったろう。
「この赤雪さえなければ!」
彼は耐え難い憤懣を覚え、目の前のテーブルに拳を叩きつけた。それと同時に、彼は、彼の心中の何かが、ぷつりと切れたような気がした。
振動と音を受けて、先ほど息を引き取った馬に集る蠅が大儀そうに飛び立ち、黒くぼやけていた馬の姿を明らかにした。遊牧騎馬民族であるキンメリア人にとって、馬は片身のように扱われる。カスラーズは馬を変えることなしに騎兵隊長となったから、この死馬への愛着もひとしおであった。
赤雪が降ってきてからは、人獣共通で体力・食欲低下、咳、嘔吐、黄疸、皮膚のかゆみ、からだのむくみ、腹水といったような症状の病が流行っている。傷んだ物を食べた時の症状に似ているとして、キンメリアの医者が様々な虫下しを自分で試したが、複数飲み合わせたのが悪かったのか、薬の効能に耐えられずにかえって死んでしまった。そんな出来事もあって、未だこれだという原因は明らかになっておらず、避けられない赤雪の穢れ・呪いという説がキンメリア人の間で一番有力視されている。その悪評通りに必死の看病も効果がなく、カスラーズが愛馬の最期にしてやれたのは、ただ体を撫でてやることだった。

 カスラーズは首を上げ、やる瀬なくテントの外を眺めた。地面に積もった赤雪が、雲間から漏れた陽の光を受けて葡萄酒色の光をぼんやりと放っている。そのまま彼は地面から空へと視線を移す。太陽は分厚い雲に覆われており、ここ二週間ほどはその姿を現していない。「神は我々を見捨てたのだろうか」と彼は考えた。数日前、キンメリアの姫スワシビリが夜通しで祈祷を行った光景に思いを馳せる。
 あれは、比較的に、風と降雪が弱い夜だった。カスラーズは儀式において姫に側付き、羊を締め殺してその臓物を地面に撒く役目を担った。絞殺ののち、切り落とされた羊の頭を、隣のスワシビリが天高く掲げる。しゃなりと、彼女が着けた同心円状に広がる金の鎖のネックレスが鳴った。その間に、脇で羊を解体していたカスラーズが、羊の骨を煮立つ鍋へと入れてゆく。後は、動物達が刃に彫られた金剣を持ったスワシビリが、鍋の周りで踊り続けた。
幸薄く、垂れ下がったスワシビリの眉と唇を焚火は明らかにする。肩にあたりで切り揃えられた彼女の黒い直毛が海月のように揺れ、ティアラのルビーが、赤雪が周りにあるからこそ美しく思える赤色で焚火の光を反射した。役目を終えたのちも、その必要はないのに、カスラーズは儀式を見届けた。彼女の忘我の視線がカスラーズを認めるたびに、うなじがうずき、彼女を幸せにしてやりたいと思った。
 残念ながらその祈祷は神々に届かず、何も空模様が変わっていないようだ。
この凶事に加えて、屈強なスキタイ人たちがこの地に南下していると聞く。仮にこの流行り病を耐え忍べたとして、疲弊したキンメリアでは戦に勝てない。キンメリア王族側は国土をすてて逃走するよりも祖国で死んだ方がいいということで、全員殺し合って死亡することすら真面目に計画している。
「姫は、不幸なままに死ぬのか。俺は、何者なのか」
と彼はふと思う。
「今日、姫に想いを告げ、共に群れを出るのだ。俺は決めたぞ」
彼は己の恋慕に従うことに決め、人目が少なくなる夜を待った。

 テントの明かりはもう数時間前から消えていたけれど、スワシビリは寝付けないでいた。跳ねる鹿の絵が刺繍されたテントの前幕が時々はためき、赤雪がちろちろと入ってくる。今日も、獣の唸り声のような風の音だ。彼女はもうすっかり宴の歓声が聞こえない夜に慣れてしまった。
静かな環境だと、自然と内省が増えてしまう。手慰みに絨毯を撫でながら、最近、父がよく口にする「運命」という言葉について彼女は考える。
「キンメリアは滅ぶ。それが運命なのだろう」
父が繰り返して言う。「それが正しかったとしたら、自分は何のために生きてきたのだろうか」とスワシビリは思う。
「これまで、叶えられることはないとはいえ、自分というものを不実に扱ってきた。人と隔てられ、親の言うことに従い、ただただ、空っぽの心で神の言葉に耳を傾け、国とともに滅んでいく。それが自分の運命で、限界なのだろう」
そう悲観的に思う。けれども、その後、
「あの透き通った目をしたカスラーズが、私を英雄譚のように連れ出してくれる。そんな運命があってもいいのではないか」
と子供らしいことを自覚しながら、密かに想っているカスラーズを持ち出して、スワシビリは妄想する。ただ、そんなことはありえないし、国民に申し訳が立たないとして、彼女は再度悲観的に現実を見つめた。
 その思考の浮き沈みの最中、つと、前幕が開いて、戦でもないのに皮鎧を付けたカスラーズがテントにやってきた。松明台に明かりを置き、彼は上に羽織った防寒着の赤雪を払いながら「起きておられたのですね」と言った。
「単刀直入に申し上げますが、私と国を出ませんか」
カスラーズが姫に話しかける。
「ご存知かもしれませんが、あなたの御父上は国民の存命を諦めている節がある。あなたは、あなたの人生を送れないまま、命を失うことになるでしょう」
「……お言葉ですが、あなたはご自身の境遇を不幸とは思われませんか?別にそれが私である必要はありませんが、私はあなたを幸せにしたいと、先日の祈祷の際に思ってしまったのです」
「……色々と考えてきたのですが、中々言葉にできませんね。それで、ええと。急に答えを迫って申し訳ないのですが、いかが思われますか?」
カスラーズはスワシビリが反応を示さなかったので、徐々にうろたえながら、最後には眉を下げて言葉を続けた。けれど、スワシビリは第一声の時点で決めていた。彼の言葉を嬉しく思って返事をしようとしたが、即答した際に、考えなし、子供っぽいと彼に思われることを恐れたのだ。先ほどまでの内省から、言葉を選んで、スワシビリは発言する。
「逃避がいけないことだったら、その罰も運命に織り込まれているのでしょう」
「私は、自身が不幸であるとも断言できない程の物知らずです。だからせめて、そうであるかないかを知りたいと思う」
カスラーズの潜めた声での提案に、日頃中々うかべない笑みで彼女は応じた。

 急いで荷物をまとめ、姫を伴ってカスラーズはテントから出た。来るときには明かりが一つもなかったので警戒していなかったが、国王のテントの周りに明かりが灯っている。そこでは、国王が松明を持って静かに佇んでいた。カスラーズは思わず逆方向に身じろぎしてしまい、静かな夜の草原に、雪を踏みしめる音が鳴った。「しまった」と思った直後、国王とカスラーズの目が合い、続いて、後ろに控える姫に視線が流れた。
10秒程、その状態が続いた後、国王の目が逸れた。カスラーズは、国王に逃走を見逃されたのだ。
「国王は何をお考えになったのだろうか」
スワシビリの言葉に引っ張られてか、「運命」や、「人間」やら、大それた言葉を彼は連想した。
「赤雪も、国王の心も、解らず終いだ」
ただ、カスラーズは国王の側を通る際に、その横顔へ頭を下げた。

 カスラーズの、雪を踏みしめるざくざくという足音に、姫の控えめなさくさくという音が、リズムよく続く。松明と月の周りだけ照らされて、赤雪が綿毛のように漂う様が見えた。ふと、自分と姫と赤一面、自分たちの周りが世界の全てであり、何でも叶えられるようにカスラーズは思った。
「いやに、きれいな夜ですね」
彼はつぶやいた。
「私も同じことを思っていました。なんだか、はじめて世界が見えたような、そんな気がしています」
スワシビリも、罪を負うことによってようやく、世界に根差せた気がしていた。
「不謹慎と知りつつ、少しだけ、喜びも感じています。この心が他人から見えたとしたら、グロテスクな、赤色をしているのでしょうね、なんて」
「ごめんなさい、変なこと言っていますね、私」
「遠慮なんていりませんよ。そうですね、きっと、どこか美しい、赤色だ」
道中、罪悪感と、その中に潜むほの暗い喜びを共有しつつ二人は歩を進め、目的地であるアラス川へと着いた。

 数日前のスワシビリの祈祷の後から、カスラーズはモミの木で三畳ほどの大きさの筏を作っていた。そこに、今日の夕から夜にかけて、羊の干し肉や金品の類など、思いつく限りの物を運びきっていた。馬はいつ死ぬかも分からないため、代わりに筏で赤雪の範囲を抜け出す計画だ。一先ず、カスラーズは、川の果ての港町を目指すことを考えていた。
筏に乗り込んだカスラーズが、スワシビリに手を差し伸べる。彼女が手を握って、彼にすっかり体重を預けてしまう。カスラーズは彼女を筏へと引っ張り、留めていたロープを外し、陸を能う限り強く蹴りとばす。衝撃とともに、筏がアラス川を下り始めた。
無事に出発できたことを確かめて、カスラーズは灯りを消した。
「かなり冷えますね、ちょっと待っていてください」
カスラーズは積荷から二枚の分厚い毛布を取り出して、片方をスワシビリに渡した。二人は首元までしっかりと毛布にくるまった。後は、目的地まで筏に乗り続けるだけだ。暫くの間、二人の会話が雪原に響いていたが、やがてそれも消え、全き夜が訪れた。

 朝が来て、川の音でカスラーズが目を覚ました。上体を起こし、焚火を挟んで向かい合うように毛皮にくるまっているスワシビリを見る。まだ彼女は眠っているようだ。
ここまで下ってきた、国がある方向をカスラーズは見た。もう、遠く離れてしまっていて、川の他には何も見えない。
「今年は筏で下れるくらい川の流量が多い。凍り切っていなくて助かった」
カスラーズは現状を評価した。ただ、脱出は決して楽な仕事ではない。彼は気を引き締める。赤雪の影響は川にも及んでおり、川辺のあぶくが赤みがかっている。流水が赤色になっているというような異常は流石にないが、死んで浮かび上がった魚をよく見かける。そのため、川からは赤雪の根腐れのような甘い臭いにすっぱさが加わり、酷い臭いが漂っている。どんな病気になるか分かったものではないから、新たに川から食料を得ることは難しいだろう。
 カスラーズが雲越しの陽を眺めて、ぼうっとしていると、ごほごほとスワシビリが毛皮でくぐもった咳をした。カスラーズが血相を変える。彼が素早くスワシビリの方へ向かい、症状を診たところ、高熱が出ているようだ。赤らんだ頬をした彼女の、虚ろげな瞳と目が合った。眠っていたのではない、起きられずに横になっていたのだろう。
「こんなことになってしまって、ごめんなさい」
スワシビリが謝る。
「あなたは、何も悪くありませんよ」
カスラーズがすかさず言葉を返した。赤雪の病の初期症状の可能性が高い。彼は最悪の状況を想像して、口を固く結び、顔をゆがめた。彼は筏に乗せていた薬草を飲ませて、彼女の様子を見ることにした。

 それから数時間経ったが、飲ませた薬草の効果がなく、スワシビリの消耗が激しい。先ほどから悪化して、彼女はぜぇぜぇと息をしている。昼過ぎに、カスラーズは栄養を取らせようと麦粥を作ってスワシビリに食べさせたけれども、受け付けずにすぐ戻してしまった。発熱に加えて嘔吐となると、まずもって赤雪の病だろう。このままでは、赤雪の影響下から逃れる前にスワシビリは死んでしまう。早急に、薬が必要だ。カスラーズは採れる手段を必死で探す。
「近くから、薬を取ってきます。少しだけ待っていてほしい」
キンメリアから川を下って行ったところに、キンメリアに敵対している、トレレス族の集落があったことに彼は思い当たった。薬がそこに残っているか定かではないが、カスラーズは集落に忍び込むことに決めた。
「もし、私が夜明けまで戻らなかったら、私のことは捨てて、筏を出してください」
スワシビリは情けなさから涙を流しつつ、頷いた。

 夜、記憶に残っているトレレス族の集落から少し離れた所に筏をとめた。カスラーズが足で赤雪に押しつぶす音のほかには何も聞こえず、昨夜同様に静かだったが、一人分の足音がなくなったことを彼は寂しく思っていた。足元を照らして川辺を歩いていると、水を汲みに来た足跡をすぐに見つけた。
「トレレス族は人を対象にしたシャーマニズムを専門としていたから、呪いに用いるために彼ら独自の薬などもあるはずだ、複数の種類を持ち帰れれば、そのうちのどれかがスワシビリに効くかもしれない」
カスラーズは希望的に未来を想った。

 20分ほど足跡を辿って、雪原を歩いたころだろうか、カスラーズの前方にトレレス族の集落が見えた。深夜にも関わらず起きているのか、集落内に灯りがついており、歌声や打楽器の音が聞こえる。カスラーズは灯りを消して、より慎重に集落に近づいていった。
 集落の周りは簡素な木の柵に囲われており、それらに羊などの動物の骨が括り付けられている。骨々に赤雪が積もり、柵はまるで不気味な果実の実った森のように見えた。柵の隙間から集落の中を覗き込む。広場に焚き火があり、羽根飾りの付いた帽子を身に着けた男が、革張りの太鼓を叩いて踊っている。多少の物音なら気づかれないだろう。カスラーズは骨を踏み台にして柵に昇り、集落内に侵入した。

 入口を背にしたとき、目の前に数十人が寝転がっても平気な大きさの広場があって、その周りには住居と思われる建物が10棟ほど立っていた。広場から左手方向に50歩程度離れた場所には馬小屋などがまとまり、反対方向の右手側にはゴミ捨て場があった。入口から広場を直進してたどり着く建物が一番大きく、恐らく族長の家だと察せられる。
共用という前提があると、倉庫は比較的大きいことが必要だろう。そう考えると、羊達を囲った柵や馬小屋の近くにある二番目に大きな建物が倉庫なのではないかとカスラーズは考えた。そちらに向かって、見つからないように、かがんで歩いていく。
じりじりと歩いていると、急に、広場の太鼓の音と歌が止まった。カスラーズに緊張が走り、足を止めて広場を見る。トレレス族は両手を胸の前で握り、頭を下げている。
「大丈夫だ。気づかれたのではなく、祈っているだけだ」
彼は胸をなで下ろした。推測通り、2,3分後に歌が再開した。
 倉庫と思われる建物の扉にはかんぬきがかかっており、革紐でかすがいに縛られていた。
「この厳重さはまず当たりと考えていいだろう」
カスラーズは早速紐を解こうとしたが、暗くて手元が見えない。そのため、やむなく切断することにした。
鈴がついていないことを確かめ、かすがいの革紐に剣を差し込み、てこの要領で切り落とす。「ぎっぎっ」と音の鳴る4,5回程の抵抗ののち、紐が千切れた。
かんぬきをそっと外し、扉を開けて身をすべるようにしてカスラーズは中に入っていった。

 彼の予想通り、入口から左手側に物資が入っているであろう壺などがまとまっていた。予想外だったのは、それらの荷物に加えて複数人が寝転がっていることだ。彼らの口の周りに吐瀉物が広がっている。発症者の隔離棟としてトレレス族は使われているものと予想された。革を切る音で起こしてしまったのか、そのうち一人と目があい、カスラーズの恰好をじろじろと見て、息を吸い込んだ。
「敵襲ーーーー!」
叫びの後に広場の歌が止まり、何やら物音がしはじめた。先ほど叫んだ男が、熱で呆けた顔で、肩で息をしながら。再度息を吸い込みはじめる。目覚めた他の患者が、カスラーズの姿を認め、恐れから壁へ体を引き摺っている。
「敵襲ーーーーーー!」
カスラーズは瞬時に、「はやく薬を入手して、捕まる前に逃げなければならない」と思考した。彼は即座に行動を定め、次々と蔵の壺を持ち上げ、割っていった。破砕音とともに、草や骨が床に散る。その中から鹿角や麻はじめ、一通りの薬品を急いで巾着に詰めた。最後、壁にかかって干されていた羊肝をおまけにもぎとって、カスラーズは脱兎の如く蔵を飛び出した。
 蔵から出た後、カスラーズは前方を確認して、既に、40,50歩離れたところから槍を持った男たちがやってきていることを認識した。その後ろのほうに、大勢の弓持ちも見える。
「徒競走ではひょっとしたら追いつかれるかもしれない。来る途中に見た馬小屋から馬を拝借しよう」
カスラーズは出口とは異なる方向に走り出す。ぴゅんぴゅんと風を切る音がして、複数の矢が飛んでくる。幾つかの矢が運よく皮が厚い部分に当たっては逸れた。蔵からさして離れてはいないので、何とか無傷で馬小屋まで彼は辿り着く。
すかさず、一番手前の、鞍がついていない馬にカスラーズは飛び乗った。それに驚いた馬が、上下に首を振り、ひどく暴れる。カスラーズは、太ももで馬の胴を強く挟み、たてがみを掴んで無理矢理に出口の方へ向け、背を叩いて、馬を走りださせた。速度がつくまでの間にも、容赦なく矢が飛ぶ。馬に速度がつき、追って達から少し距離が出来る。扉まで、もう少し。
「しまった、かんぬきがついているぞ!」
カスラーズは馬から勢い付けて飛び降りた。そのまま、扉に向かって左肩から体当たりをして、かんぬきごと壊してこじ開けた。瞬時の判断の巧みさが、彼が戦場で生き抜いて来た理由だ。木片とともに彼の体が地面に転がる。立ち上がっている間に、後ろを確認した。
「追って達からは大分距離を稼げたようだ」
息を整える暇なく、体勢を整え、這う這うの体でカスラーズは走る。筏の方向向けて、必死に進んでいる中、左のふくらはぎに痛みが走った。矢があたってしまったようだ。カスラーズはそれでも、痛みなど無いと自分を騙してただただ走った。

 結局、傷を受けたのは左のふくらはぎのみで、カスラーズはトレレス族を撒いて筏まで逃げおおせた。矢が刺さったまま全速力で走って内部を痛めたせいか、彼の左足が震えて、黙って立っていることができない。起床したままで、カスラーズを待っていたスワシビリは、血を流している彼を見て息を呑んだ。
「大変、お怪我をされたのですね。大丈夫ですか?」
「見た目より傷は深くありませんよ。途中、手当をする暇がなかった」
カスラーズは咄嗟に嘘を吐いた。そのまま彼は糸が切れたように座り込み、戦利品をスワシビリに向かって広げた。効き目のありそうなものを彼は選別しながら、スワシビリに話しかける。
「それより、あなたの容体はどうですか?」
「先ほどよりは良い、というような感じでしょうか。喋れる程度には、具合は悪くないと思います」
依然、ぼうっとしているようだが、スワシビリは真実を言っているようだ。カスラーズは「よかった」と笑みを見せた。
二人の傷と病から気を逸らすため、カスラーズは取ってきた麻を早速焚いた。麻が効いてきた所で、カスラーズは出血の止まらない自分の傷を焼いて塞ぐ。スワシビリがその様子を見て、小さな悲鳴を上げた。カスラーズは面白がって傷を見せびらかしたが、彼女のために付いた傷であるので、ばつが悪くなってすぐに意地悪することをやめた。

 夕飯には、羊肝と鹿角を刻んで入れた豪華な粥をこしらえた。火を囲いながら、彼らはぽつぽつと話をする。
「私たちはこれからどうなるのでしょうね」
「薬も無事取ってこられた。大丈夫です。きっと、脱出できます」
不安げなスワシビリをカスラーズが勇気付けた。
「未来の話をしましょう。万事うまくいったとき、何も考えていなかったでは苦労する」
「……どう生きていくかは世間知らずで考えが及ばないのですが、こんな生活をしたいなって、あなたがいない間、実は考えていました」
「聞かせてください」
「水の周りに小屋を立てて、静かに暮らしたいです。犬も飼って。後は、ふと、旅をしたいと思ったら出来るような余裕と関係も、欲しいな」
「素敵だ。より一層、今を踏ん張ろうと思いました」
麻の煙越しに二人は理想の生活を語り合った。煙に、麻の効果もあいまって視界に映る相手の姿がすっかり滲んでしまった頃、いつの間にやら二人は眠っていた。

 数日後、二人は赤雪のない、緑が見える草原地帯にたどり着いた。道中、カスラーズは傷の化膿から、スワシビリは病から息も絶え絶えであったが、二人は麻で体調をごまかしながらなんとか命を繋いでいた。二人共落ちくぼんだ瞳をして、意味もなく笑い合い、支離滅裂なやり取りを交わし、突如として沈黙が訪れるような異様な空間の中、はじめにそのことに気が付いたのはスワシビリだった。
「ひょっとして、雪、止んでいませんか?」
 二人は夢と現が分からない有り様だったので、幻を見て何度も同じようなやり取りをしていた。そのため、赤雪の範囲を抜けたとぬか喜びとならぬように、しばらくの時間をかけてそれを確かめた。視界上で、草原から一時的に虫が湧いたり、雪が積もったりしたが、基本的には緑の大地が二人に共通して見えた。一つの幻が続くことはまずないから、本当に抜け出せたのだろうと判断した。久々に見ることの出来た太陽を眺め、カスラーズとスワシビリは喜びから抱き合った。

 食欲は二日程前からなかったが、こんなところで死んでしまっては浮かばれないと、トレレス族の集落から取ってきた薬品全てと、温存していた干し肉を煮込んで薬膳スープを作り、無理矢理にでも精を付けることにした。カスラーズは表面には出ていないが酷い倦怠感を感じていた。一方、スワシビリは小康から財布度悪化しつつある、という体調だ。
スープは、料理に慣れていないカスラーズが「これが兵糧の作法です」といっていちいち塩を入れるせいで、塩辛いものとなったが、二人にはその不味ささえも生きる喜びに感じられるのであった。
「脱出するという目標は、成し遂げられましたね」
カスラーズがしみじみと言った。
「そんな不思議な表情で言う言葉じゃありませんよ。こういう時には笑わなくっちゃ嘘でしょう」
スワシビリはそう言って、出発時より自然になった笑みを浮かべた。カスラーズもそれに釣られてにっこりと自然に笑った。二人は笑みを湛えたまま見つめあう。カスラーズが焚き火を飛び越えてスワシビリの近くにやってきた。飛び散った火の粉が、彼女の赤い頬を照らした。二人は、薬膳の油が浮いた唇のまま、口付けをした。
「カスラーズ。恋を教えてくれて、ありがとう」
やがて、太陽が最も強く照る頃に、カスラーズが当初目的としていた港町がはるか前方に見えた。

 港町マルモス、ウラルトゥ王国の国境沿いに位置する、漁業がさかんな町だ。キンメリアとは異なる、ギリシャの影響を強く受けた日干し煉瓦による堅強な建築が多い。キンメリアとの関係は先王の時代より良好である。
 このマルモスで一旦身を落ち着けようと、二人は生活用品を求め、商人のもとへと向かうことにした。

 成人が済んでいない少年期に、カスラーズは父に連れられてこの町に来たことがあった。
カスラーズの父は先代のキンメリア王に付き添い、緩衝地帯として、ウラルトゥ王国との間にマルモス不可侵条約を結ぶために来たのだったが、出張することを聞いたカスラーズが「遊びに行くなんてずるい!」と言い、父に同行を強要した。同行を許された彼は、キンメリアから出た直後は威張っていたが、徐々に見知らぬ風景になっていくにつれてその元気は萎れ、現在向かおうとしている、門の近くに居を構える豪商の前で挨拶させられた際には、名前を言うことが精一杯であった。

「そうだ、そのあとマルモスが怖いとまた無理を言って、二階建ての日干し煉瓦の宿に引きこもったのだったな」
カスラーズはスワシビリにマルモスでの一連の経験を言って聞かせた。
「幼いころはいまとは全く違って、やんちゃだったんですね」
「あの頃は、自分が一番賢い人間であると思っていました。子供の頃に、自己完結できない目標なんてないわけですからね」
カスラーズはそう言って、頬を掻いた。
「さて、ここがその豪商の家です。彼が私を覚えているとは限りませんが」
カスラーズは足傷のせいか、時々足を引き摺るようにして歩いた。自身の体調が悪化しかけていることに加えて、彼の歩行を気遣ったスワシビリが、休みを提案しながらゆっくりと歩いたので、二人が目的地についたのは日が沈まんとしている頃だった。
門を通ると、カスラーズの記憶通りに、マルモスで一番大きな中庭付きの家が眼前に立っている。彼は身なりを簡単に整えたあと、勢いよくドアのたたき金を鳴らした。

 二人を出迎えたのは、カスラーズの知っている商人とは異なった。しかし、同様に商いを行っている人間だった。以前住んでいた豪商はここで貯めた金を使ってウラルトゥ王国首都に引っ越し、彼が入れ替わるようにして首都から空いた建物に移り住んだとのことだ。
自己紹介をお互いに交わした後、住人が変われど、覚えがある内装をカスラーズは懐かしみつつ、二人は応接室へと案内を受けた。

 応接室の壁には鹿頭の剥製がかかっており、その視線の先には大きな一枚板のテーブルが鎮座している。直線的な部屋の構造に対して、優美な曲線を示す背もたれの椅子など、品の良い家具達が持ち主の確かな財を示していた。着座を促されたカスラーズは、椅子の座り心地に驚く。
「宿をとるのも良いですが、ここで身を落ち着けるのはいかがでしょうか」
彼は不動産を専門としているらしく、挨拶もほどほどに、カスラーズたちに商談を持ちかけた。
「ここから2棟離れた、庭付きの家が丁度空いていましてね。首都へ知らせを出す手間賃と、それから埋まるまでの維持費の分を踏まえてお安くいたしますよ」
商人が満面の笑みでセールストークを行う。追加で譲歩が必要だとカスラーズの様子を見て考え、商人は言葉を続ける。
「お金でなく、物品との交換で構いません。お二人はどうやら訳ありの様子だから、土地のものは早々に手放したほうが良いのではないでしょうか」
今だけという言葉と、指摘されたリスクからこの提案に惹かれて、カスラーズは唸る。出された葡萄酒を飲み、唇についた雫を舌で舐め取りながら考える。
「この取引を拒否するメリットがあるだろうか。拒否すれば、結局は行く宛がないので、この地に宿をとることになるだろう」
「購入と賃貸と、二択を天秤にかける、判断はそれだけでいい。購入には、キンメリア由来の物を金に換えられるメリットが付いてくる」
カスラーズは決意して、スワシビリの意向を伺った。スワシビリは頷く。商人が騙していないことを確かめるために、一行は内見のために移動した。

 数分歩いたのちに、こじんまりとした庭がついた、2,3人で暮らすには丁度いい大きさの平屋に着いた。一通り外観を眺めたのちに、二人は中を改め、全体的に生活感が残っているものの、3部屋の他にキッチンが付いたこの家が、大事に扱われてきたことが分かった。
「この広さですと、使用人なしでもやっていけそうだ。私が仕事でいないときにも、貴女は犬と過ごしていれば、寂しくないでしょう」
カスラーズが家を評価して言った。スワシビリも購入に乗り気で、具体的な生活の要望を二人は散発的に喋りつつ、商人の家へと戻った。
特段、訳あり物件という訳ではないようだったので、二人は身に着けている、金のバックル、豪奢な剣や上着などを売り、その代わりに、家に加えて食料と薬を商人から得る思い切った判断をした。「ここまで疲れただろうから、すぐに休めるように手配しますよ」
言葉通り、歓待を受けている数時間の最中に家具等の搬入も済ませてしまった。

 我が家となった家に二人は入った。直線的な柱と梁から成る一般的な構造の平屋ではあるが、庭に生えたオリーブが立派で、対価に比べて得なようにカスラーズは改めて思った。ようやく得られた安らげる場所で、二人は息をついた。
商人から買った魚や野菜を用いて、スワシビリが夕飯を作った。慣れない新築のキッチンを使ったため、強火によって彼女は魚を焦がしてしまったが、初々しさを可愛いと思ったカスラーズが「旨い旨い」といって頬張り、すぐに平らげた。空となった皿が並ぶ食卓を囲い、二人が酒を呑む。
「連れ出してくれる時、幸福にしたいって言ってくれましたけど、叶ってしまいました」
「言葉にはまだ上手くできないけれど、一人で完結しないといいますか。こんな生活を、幸せって言うんだろうなと思います」
スワシビリは途中言葉をつかえさせながら、赤面しながらカスラーズに告げた。
二人はくたくただったので、早々に就寝することで合意した。スワシビリが就寝したのを見て、カスラーズは痛みが増してきている足傷の膿をひそかに搾り取った。商人から買ったアロエの軟膏を塗った後、満たされた表情で眠るスワシビリを見て、カスラーズも眠った。

 翌朝のことだ。スワシビリが日差しを受けて目覚めた。スワシビリは隣に眠るカスラーズを見ていたが、様子がおかしいことに気が付いた。息をしていない。カスラーズは事切れてしまっていた。スワシビリは動転して、ぼろぼろと涙を流した。これから幸せが続いていくというところで死んでしまうとは、何という不幸だろうか。
昨日、幸福について述べたスワシビリは、それが叶わなくなった際にどうすれば良いのかを考えた。
結果、叶わなくなってしまったからこそ、彼女の思う人間的なもの、幸福的なものをかき集めて、装うことに決め、今後の行動を固めた。

 彼女は一人で昨日の商人のもとを訪れる。カスラーズの見様見真似で、ならし金で扉を叩き、商人へと相談を行った。
「急にすみません。やっぱり旅に出ることにしたので、昨日売った品々と家を交換できないでしょうか」
昨日とは違い、商人は決まりが悪いような顔をした。あまり歓待されていないようだが、応接室へとスワシビリは連れられた。
「カスラーズ様はどうされたのですか」
商人が言う。
「旅に必要なものを手分けして、用意しているのです」
スワシビリが胸を張って、堂々と返事をした。彼女の発言を聞いて商人は損得勘定をしているのか、暫く黙した後に言った。
「……やっぱり気が付かれましたよね。私もこの家を購入したのは、あなた方と同じで以前の持ち主に半ば騙されたからなのです」
「いいでしょう。ですが、あなた方の為に家具等の配置を行いましたし、実際に一泊はされました。全てはお返ししませんからね」
商人が何のことを言っているのか、前半部分の発言はスワシビリに分からなかったが、藪蛇をつつくことを恐れて商談をまとめた。結果として、スワシビリの身に付けていた金のバングル以外は取り戻すことが出来た。帰り際に、疲れた表情で商人がつぶやく。
「元とはいえ、騎士様を敵にするのは怖いですからね。私はおとなしく、今の町を受け入れる人が来るか、時勢が良くなるのを待つことにします」

 商人の家から出たスワシビリは、カスラーズがもういない事実から暫くその場で涙を流したが、再度決意の表情をして我が家だった場所へと戻った。家の中に入ると、カスラーズの死体から醸される、ナッツのような臭いがスワシビリの鼻を突いた。彼女は、カスラーズが眠る寝室へとそのまま進み、死体に革鎧や剣などを着せ飾ってやった。その作業の途中、矢を受けた彼のふくらはぎが半ば腐り、深部の黄色い肉が露出していることに気が付いた。この腐敗が原因で死んでしまったのだろうか。
「しかし、なぜカスラーズはここまで傷が酷いことを黙っていたのでしょうか」
スワシビリは考えたが、昨日、この町に歩いて来るまでの様子から考えるに、自身に心配をかけまいとしての痩せ我慢だったことに思いあたった。彼も、今のスワシビリ同様に、叶わない何かを装っていたのではないか。死期を察していたのかいないのかは定かでないが、どうしようもならないと感じたからこそ、最大限幸せな時間を共にするべく、彼は平気なふりをしていたのだろう。
「もっと対話を交わして、本当に彼のことを理解したかった」
そんな後悔を彼女は抱いた。
カスラーズの胸元で泣き疲れ、彼女はいつの間にか眠ってしまっていた。スワシビリは今朝のように気を張りなおして、死体の両手を引き摺って家を出た。そして、そのまま後ろ足で海の方へ歩いていった。

 商人の家は町から少し離れていたので昨日は気がつかなかったが、この街には全くと言っていいほど人気がない。往時だったら馬車が行き交うはずの煉瓦の道路、出店が並んでいただろう円形の広場などは、与えられた目的を果たせず、侘しくその空間を広げていた。海へ引き続き移動していると、時々、家の中から咳の声が聞こえる。スワシビリは商人が何について言及していたのかを察した。赤雪の病は、ここでも流行していたのだ。

 町の外の舗装された道を過ぎて、スワシビリが海へ着いたのは、半ば日が沈んでいる頃だった。スワシビリが生涯見た中で、最も赤色が出ている夕焼けだ。その赤色から、赤雪の終末的な美しさを彼女は少し懐かしく思った。
潮風が吹いて、スワシビリの髪が頬をかすめる。潮の香りとは別に、もうすっかり嗅ぎなれてしまった腐臭がしていた。スワシビリはそのまま浜に近づいてゆく。そこで彼女が見たの光景は、夕日だけのせいではない、赤色をした海だった。海面では、大小様々な魚が死んで浮かびあがっている。眼前の光景から、ここは寧ろ、赤雪の発生源だったのではないかと、スワシビリは予想した。
「どのみち、赤雪の病からは逃れられなかったのだろう」
彼女はそのことを知ってしまい、諦めの笑みを浮かべた。

 浜辺の砂でさくさくとスワシビリが歩く音、ずりずりとカスラーズが引き摺られる音がする。スワシビリは、一度立ち止まって、夕日を照り返す赤い海を見つめた。激しい運動をしたためか、病がぶり返して、彼女の視界がうねって見える。まぶたを閉じると、ほの暗い赤色と目玉の熱が伝わってきた。息を吐きながら、目を開くと、太陽からの強いフレネル光が彼女の目を差してくる。光に慣れると、今度は、赤色の波が宝石のようにきらきらと光ってきた。視線を遠方に移すと、その光を集積したような、深紅の地平線がかなたに見えた。彼女は、カスラーズに連れられた日からはじまった世界が、そこに運ばれて、集積されていくような、そんな気がした。落陽を見届けたのちに、彼女は移動を再開する。
「冬の海は冷たいですね。カスラーズ」
スワシビリは死体とともに赤い海に足を踏み入れた。その際に、カスラーズに連れられて飛び乗った筏の寒さを、スワシビリは連想していた。
「もはや、この世界で幸せに生きられないのだったら、命を投げうったって、かつて存在した幸せのために奉仕するほかない、そう思うのです」
彼女は水平線に向かって歩みを止めず、そのままカスラーズと共に葡萄酒色の海へ沈んでいった。

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