自扗じざいの夢

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梗 概

自扗じざいの夢

江戸時代、平和が訪れ武具の注文が減った甲冑師らは、手すさびに、昆虫、甲殻類、鳥類などのほか、龍のような想像上の生き物の動物模型をつくった。関節部分が自在に動き、技巧が詰まった置物は本物そっくりで、銘字と呼ばれる札を入れ、入魂という所作を経ると、自由自在に動くものが現れた。それらは自扗じざいと呼ばれ、技術者が一度に一つしか入魂できない貴重なものとなった。自扗は名のある武将や将軍に所望され、武将らは所持する自扗を戦わせ、かつての戦闘を懐かしんだ。

明治時代に入ると自扗の注文も消え、複数あった自扗氏の流派も明道みょうどう家だけが残り、技巧も途絶えかけていた。明道家の最後の子孫である晶久あきひさは、鉄鍛金の技巧を磨き、日用品をつくる職人として生計を立てるつもりだった。
ある日、晶久の下に国からの使い、阿澄礼二あずみれいじが来る。聞くところによれば、江戸期につくられた自扗が欧米に流出しており、アメリカの権威あるコレクターが飾っていたところ、動いたので話題になった。外交官が自扗の特質を述べたところ、是非戦うところを見たいと言われたという。

晶久は、今の自分には自扗の技巧はないと言って断り、阿澄は理解して尽力してくれるが、当時の日本は外貨が欲しかったのと、国力を海外に示す必要があった。晶久は、動く自扗をつくれなければ家はお劣り潰しにし、未開発地に追放すると言われてしまう。晶久には、もはや鉄を打てない体になった祖父がいて、逃亡も難しい。晶久は祖父から必死で技巧を学び、家に一つだけ残っていた動かない祖先の自扗龍を研究し、古いものを修理しながら新しい自扗龍を完成させ、依頼を果たす。

勝負当日。海外に渡ったのは自扗鷹の名品で、かつての明道家のライバルの家筋がつくったものだった。自扗鷹は強かった。晶久のつくった龍は、闘いの末、ばらばらにされてしまう。
涙をこぼす晶久だったが、どうにか会場に来ていた祖父から、祖先の龍を手渡される。それは修理はされていたものの、晶久の目からすると老朽化していたが、祖父に、堅牢さは見た目に宿るのではない、技巧は修理できなくなった時に途絶えるが、古い龍とお前は自扗そのものの命をつないだのだと言われる。晶久が入魂すると古い自扗龍は軽やかに動いた。
蓄積された技巧のなす動きで圧倒する龍は、頑強さで勝る鷹を翻弄し、両者は互角に戦う。一昼夜の戦いの末、勝敗は引き分けとなった。

晶久の依頼主は、外国と互角に渡り合う力を認められたと喜ぶ。一方で阿澄と晶久は、鷹の強さや、相手の実力を見極める分析力から、今回引き分けにできたのは運でしかなく、自扗を自国だけに置くのは危険だと悟った。鷹の持ち主と握手を交わしながら、晶久は技を磨きながら後継者を育てること、阿澄は外交の道具兼分散管理の一環として、自扗を他国に献上することを心の中で計画する。

 

文字数:1186

内容に関するアピール

ひねりとしては
1.新しい自扗の完成と敗北
2.古い自扗の復活と引き分け
 を設定しました。上述のひねりを、
①過去の技巧を取り戻す(1.)
②勝負に負ける(1.)
③古い作品を修理して使う(2.)
④引き分ける(2.)
 という主に4つの場面と連動させることを想定しています。

自扗は、かつて天皇陛下の玩具ともいわれ、ローマ法王にも献上されたという、自在置物をモデルにしています。古い自扗龍を使うことにこだわったのは、自在置物の話を伺った時に聞いた、「修理できなくなる時が、技巧が途絶える時である」という言葉が忘れられなかったためです。

文字数:260

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自扗じざいの夢

帝城の天守に飾られた白金のしゃちほこを背にして通りを行き過ぎ、川にかかる太鼓橋を渡りきると、初夏のみどりのにおいが漂う。買い物を終えた明道みょうどう麟之助りんのすけは、人込みから抜け出して、ほっと溜息をついた。
 田畑の手前にぽつんと建つ茅葺の簡素な建屋に到着すると、薄汚れた門の近くで緋色の塊が動くのが見えた。近づくと、年の頃十一、二ばかりの少女であった。緋の着物に黄の帯を締め、黒の碁石のように艶めく髪を肩先で切りそろえている。
「どうしたんだい、椿つばきちゃん」
 身をかがめて尋ねると、椿と呼ばれた少女は、はにかんだ表情で麟之助を見つめ、掌を差し出してゆっくりと開いた。翡翠色した小さな塊が、身をこごめている。それは丸々太った機織虫はたおるむし(きりぎりす)だった。芥子粒のような瞳を開いたまま、ぴくりとも動かない。
「止まってしまったんだ。ちょっと待っておくれ」
 そう告げると、麟之助は座ったまま緑の虫をひっくり返し、腹を上に向けて胸のあたりをぐっと押した。すると腹が開き、内部にはほんの米粒ほどの歯車や、蒲公英たんぽぽの茎の細さの砂筒、ぜんまいのように渦を描く発条ばねが見える。
 そのまま荷をほどいて桐箱を開けると、針のような道具を取り出し、虫の内部にぐっと差し込んだ。椿は目を閉じたが、麟之助が道具をくるりくるりと回していると、好奇心に負けたようで、薄目を開け、やがてつぶらな瞳を輝かせてじっと見入った。
 麟之助は血管のように張り巡らされた細い管の一本を取り出し、途切れていた別の管につなげると、爪先でゆっくりと歯車を動かした。すると歯車が勢いよく動きはじめる。腹を弾いてぱちりと締めると、椿の掌に載せた。すると虫は、そろりと足を動かした。少女は小さな声をあげ、虫を手で包み込み、小さな竹籠にそっと入れた。虫は長い触覚を動かし、ぎぃーす、ちょん、という、布を織りなす機械そっくりの声を響かせる。
「失礼します」
 突然、涼やかな声を耳にして、麟之助は慌てて立ち上がった。すっかり夢中になって気づかなかったが、門の真横で男がこちらを見つめている。この辺りは都の外れ、見知らぬ来訪者が来ることは少ない。見知らぬ男の突然の言葉に、椿は後ずさりし、籠を抱えて走り去った。
「こちらは、明道どののお宅ですね」
 男が落ち着いた口調で告げた。切れ上がった目、白磁を思わせる肌、洗練された雰囲気。齢は二十を過ぎたほどだろうか、麟之助とさほど変わらないように見える。
 違うのは身なりである。この辺りではついぞ見慣れぬ洋装で、仕立ての良さが分かる揃いの上下、足元は磨きぬかれた黒の革靴、髪はきちんと整えられている。麟之助は思わず、自分の着古した作務衣とぼろぼろの草履を見やった。
 麟之助は相手を沓脱石の方へと案内した。
「今の虫は絡繰からくりですね。見事なものです」
 男は歩みを進めながら語った。声に素直な感嘆の色が混じっている。
「いいえ。実物を真似ただけの、小手先のものです」
 麟之助は、かぶりを振って告げる。
 その時、人の気配を感じ取ったのか、奥から老人がやってきた。この家の主、明道みょうどう光蔵こうぞうである。肩までかかる髪は白銀で腰は曲がり、やや足を引きずってはいるが、眼差しは炯炯としており、小柄であるにも関わらず圧倒的な威圧感を放つ。
阿澄あずみと申します。太政省の遣いで参りました。実は、自扗龍じざいりゅうを一つ、つくってほしいのです」
 男が会釈しながら名乗ると、光蔵の口の端がへの字に曲がった。
「何のことだか、分からぬな」
「無理を言っているのは、理解しております。私も、てつでつくられた昆虫や動物が動くなど、信じられませんでした」
 淡々と語る阿澄。麟之助は光蔵の不機嫌そうな横顔を見やりながら、続く言葉に聞き入る。
「戦乱の世が過ぎ、鎧の発注がなくなった職人が、虫や獣のほか、龍のような想像上の生きものの置物をつくってみたところ、殿様が所望するところになった。やがて、出茂いずもの国の隕鐵いんてつを精錬した鐵でつくられた置物の中に、動くものが現れた。それを自扗と呼ぶ、ということはお聞きしています」
「殿様は、自分が戦わない代わりに自扗戦じざいせんに興じていた……しかし、無血開城後につ国を受け入れて以来、刀や刀装具などの金工品の買い手がいなくなり、自扗の技巧が途絶えたのは知っておるか?」
 苦虫をかみつぶしたような顔の光蔵に、阿澄は穏やかな顔を向けて頷く。
「ええ、そのあたりの事情は存じております。しかし光蔵どのは、金属を彫る・鋳る・鍛える中で、最も難しいとされる鐵鍛金の名手と謳われた方」
 阿澄の言に、光蔵はぴく、と頬を歪ませた。
「この度、外交省に賓客が来ました。その方は美術品を集めているとのことで、この国でつくられた置物が時として動くのだと述べ、取り出して見せてくださったのです」
「もしや、それが、自扗だったのですが?」
 思わず声が出た麟之助を、光蔵が睨みつける。阿澄はゆっくりと頷いた。
「ええ。十寸ほどの自扗龍は、持ち主の手を離れて羽ばたき、舞い上がろうとしました。当省に自扗のことを知っている者がいて説明したところ、客人は、是非戦わせたい、とおっしゃったのです」
「無体なことを……」
 光蔵の絞り出すような声に、阿澄は首を縦に振った。
「確かに。しかしながら当省では、我が国の存在感と、対等であることを示すためには、客人の要望を叶えなければ、ということになったのです」
 光蔵はかぶりを振る。
「かつて、明道家は自扗置物の名門だった。しかしもう、つくれるものはいない。この老体では、自扗はおろか、鐵を打つことも叶わぬ。なにしろ、最も硬い金属であるから」
 にべもなく告げる光蔵に、阿澄は言いつのる。
「そこをどうにか。先ほど、麟之助どのが、機織虫の絡繰を直しているのを拝見しました。あれほどのものをつくれるのなら、自扗も復元できるのでは」」
 阿澄の言葉に、光蔵は長椅子の木枠を叩きながら、
「甘い」
 と一喝し、
「本物そっくりなだけでは、自扗とは言えぬ」
 と鋭く叫ぶ。板の間に飾られていた置物を手に取って続ける。
「これは、明道家に伝わる最後の自扗龍」
 光蔵は、錆色さびいろの塊にしか見えないそれを掲げた。
「儂は何度も修理を試みたが、動くことはなかった。今、自扗をつくることは叶わぬ」
 食い下がる阿澄に、光蔵は黙って首を横に振るばかりだった。阿澄が承諾を得られぬままに退出した後、麟之助は床に、紋が掘り出された懐中時計が落ちているのに気づいた。慌てて下駄をつっかけ、畦道のずっと先にいた阿澄に駆け寄った。
「あの、忘れ物ですよ」
 そう告げると、阿澄は見事な時計を受け取り、
「これは……ありがとうございます」
 と述べた。そして麟之助の顔を覗き込み、
「さきほどの機織虫を見る限り、あなたは自扗をつくる力をお持ちと見受けました。光蔵どのがなぜあれほど頑ななのか、教えていただけませんか」
 と訊ねた。麟之助は迷いながら、口を開く。
「ありがたいお言葉ですが、あの機織虫は、所詮、決まった動きしかできません」
 その発言に、阿澄は首を傾げる。
「さきほどの虫は、絡繰で動いていたので、当然かと」
 麟之助は、小さく頷きながら、
「ええ、絡繰は、つくり主の考えた動作をするだけです。自扗は、鐵の中に絡繰を仕込むことで、主の意図を離れて自由自在に動くものゆえ、自扗と呼びます。優れた絡繰の機巧きこうと、すぐれた鐵鍛金の技巧ぎこうが密に結びつくことで、はじめて成立する作品です」
 と語った。阿澄は首を傾げる。
「それでは、まるで生きもののような……しかし確か、帝城の天守を飾る白金の鯱は、ある条件下に置かれると、亀裂が自然に直るのだと聞きました。金属は、時にそうした振舞いをするものなのか」
「私は動く自扗を目にしておりませんし、我が明道家に伝わる書『自扗鐵巧てっこう』の中で見ただけです。しかも祖父の目を盗んで読んだきりなので、詳しいことは分かりません」
「では、『自扗鐵巧』に何が書いてあったのか、存じる限りのことを教えてはいただけませんか?」
 そう問うた後、阿澄は言いよどんだが、当惑する麟之助の顔を見て、思い切ったように口を開く。
「私は、国からの勅命で来ている身ですが……明道家の行く末を案じた上でのお願いです」
 言葉に力を込める阿澄に、麟之助は迷いながら語った。
 神代の時代に降ってきたとされる出茂の隕鐵でしか精錬できず、金・王・哉という字からなる鐵は、その名の通り金属の王たるものであり、熱と打ち方でいくらでもかたちを変え、最も硬くて丈夫な金属である。
 鐵でものをかたちづくる際、あまりにも実物に肉薄していると、鐵の組成と内部に仕込んだ絡繰が反応し、つくり主の意図を超え、まるで意思をもったかのような、かたちに即した動きをするのだという。
「それが『自扗鐵巧』に記されている内容です。しかし祖父がいくら図版通りに作っても、動くことはなかったと聞きます」
 麟之助が告げると、阿澄は言葉を選びながら慎重に語る。
「自扗づくりにおいて、明道家以外の流派は途絶えてしまったので、手づまりなのです」
「どういう意味でしょうか?」
 麟之助の質問に、阿澄は言いづらそうに目を伏せて、
「動く自扗をつくることが実現できなければ、命に背くということで、相応の罰が与えられます」
 と語る。
「そんな、理不尽だ」
「先ほどの機織虫を見て、あなたの絡繰の腕とお人柄は分かっております。私も悪いようにはしたくないのですが……」
 歯切れの悪い調子で告げると、阿澄は小さく礼をして立ち去った。その日の夕陽は、鍛冶場で燃えさかる焔にも似たあかがね色に輝いていた。

――分からない。
 鍛冶場の奥の長机で、麟之助はばらばらにした鐵片を前に、溜息をついた。
 それは床の間に飾られていた置物だった。最初は錆の塊にしか見えなかったが、よく見ると、小さな翼と角、三本爪の脚を持ち、確かに龍のかたちをしている。麟之助は街で目にする龍の彫り物や絵などを思い返し、足りない部分を鐵で打ち出し、置物を龍の姿に直した。
 かたちが整えば、あとは動きである。光蔵の目を盗んで『自扗鐵巧』を調べた。自扗にかまけては光蔵に叱られるのは分かっていたが、なにもしないではいられなかった。
 龍は『自扗鐵巧』の最後の頁に登場した。数日をかけ、絡繰を図の通りに龍の中へ仕込んでみた。すると足がわずかに動いたが、羽ばたいて舞い上がる気配は見せない。再び検分し、絡繰をいじってみる。何度となく繰り返したが、結果に変わりはない。
 気分転換に鍛冶場から出た。外は麟之助の鬱屈など関係なく晴れわたり、田んぼの水は空を写しこんで水浅葱色に染まっていた。本宅に戻ると、縁側に絣の素朴な着物姿の椿がいて、じっと中を覗いている。後ろから声をかけると、椿はぱっと顔を輝かせて包みを差し出す。
「これ、持ってけって。母さんが」
「おや、いつもありがとうね。寄っていけば?」
 その言葉に、椿は首を横に振り、
「いいの。お爺ちゃん、恐いから」
 そう告げると、麟之助の手に包みを押しつけて去っていった。
 麟之助が苦笑いしながら包みを開けると、小麦でつくった饅頭、麺麭めんぽう(ぱん)が入っていた。口にすると、粒餡が入っており、口の中で甘くほどける。麟之助が夢中で食べていると、光蔵がやってきて眉をひそめた。
「鍛冶場を見てきたぞ。あんなことを繰り返しても、動きはしない」
 ばし、と拳で柱をたたきながら断言する光蔵。眉間に深い皺を寄せている。麟之助は険のある表情に気圧されかけたが、自覚していることを言われ、顔が熱くなる。
「……龍のかたちはつくりましたし、少しばかり動くようにはなりましたが」
「それはまだ、絡繰だけに依るものだ。機巧と技巧が合わさった、自扗の動きではない。『自扗鐵巧』の図に従うだけでは駄目なのだ」
 目を見開く麟之助に、光蔵が皮肉な笑みを浮かべながら続けた。
「書を持ち出したことを、儂が気づいていないと思ったか? そんなわけはないだろう」
「……鐵鍛金の名手と謳われ、帝室直属の技巧員にも選出された爺様にできなかったことが、すぐさま私にできるなどとは思ってはいません」
 麟之助はゆっくりと述べた。光蔵の固い表情は変わらない。
「そも、自扗は実在するのでしょうか? あの阿澄というお役人は、目くらましにあったのではないでしょうか。昔の記録では、鶴の絡繰をつくった者がいて、空中に放つと飛び翔けたといいます。これは水素瓦斯がすなるものを詰めていたそうです」
 唇を噛みながら、かねてからの疑念を告げると、光蔵は麟之助を睨みつける。
「自扗を否定することは、我が明道家を否定することだ」
――だったらなぜ、先祖は技巧を守らなかったのですか。
 口先まで出かかったが、そこで一番歯がゆい思いをしているのは光蔵だろう。麟之助が言葉を押しとどめると、光蔵が眼差しを少しだけ和らげて告げた。
「儂はお前に教えなかったが、お前は勝手に技巧を盗んだな。しかも鍛冶場から追い出されると、麟蔵りんぞうが得意としていた絡繰を学ぼうとした」
 麟之助は小さく頷いた。幼少時、祖父は今以上に怒ろしい存在だったが、鍛冶場の魅力には抗えなかったのだ。また、物心ついた頃には、父の麟蔵が床についていたので、父の枕元で話を聞くことができる絡繰にも興味が向かったのだった。
「お前の母は肺の病で亡くなり、同じ病にかかった麟蔵も完全に治りはしなかった。肺腑が弱くてはふいごも扱えないし、鍛金ができる体力はない。それなのに、愚かにも自扗に執着したのだ」
 技巧に執着するのは止められない。身をもって知る麟之助が黙していると、光蔵は言葉を続けた。
「鐵鍛金は無限に深い。儂は鐵板を叩くことで変形させているのだと思っていたが、麟蔵はそうではなく、鐵をかたちづくるものに働きかけるのだと言っていた」
「それは一体……?」
 訊ねると、光蔵も更に顔をしかめながら語る。
「分からぬ。麟蔵曰く、人も鐵も、あらゆるものは、それ以上分割できない最小単位で構成されており、鍛金はその結合を動かし、かたちを変えているのだという」
 麟之助はおぼろに思い出す。鉄鍛金の話をする時、父はいつも深く考えながら喋った。その言葉の奥には、はかり知れぬ探求心があったのか。
「父は、鍛金は、ある瞬間の姿をかたちとして表すのだと語っていました。鐵鍛金は、最小単位のものを動かすことでかたちをつくりなす、ということでしょうか」
「恐らくな。麟蔵は、鍛冶場に火が入っていない時は、ひたすら『自扗鐵巧』を眺めていた。休んでいればいいものを、結局は肺が固くなって息絶えたが」
「……父は、鍛えずとも、鐵に、自扗に近しい存在だったということだと思います」
 反発を覚えて麟之助が言うと、光蔵はかぶりを振って述べた。
「儂にはさっぱり分からぬが、新しい学問が入ってきている今なら、麟蔵の性格をもっと活かせたかもしれぬ。生まれる時代を間違えたな」
 そう告げると、光蔵は顔を上げた。視線を辿ると、軒先に阿澄がいる。光蔵は足を引きずりながら立ち去った。麟之助が謝ると、阿澄は、
「どうやら私は、嫌われているようですね」
 と苦笑し、椅子を進める麟之助の言葉を断りながら、手短に、と立ったまま言う。阿澄の重い声に、麟之助はなんとなく胸が苦しい。
「自扗の調査は進みましたか?」
 返答できずにいる麟之助に、阿澄はなにか察したらしく、返事を待たずに述べた。
「実は、自扗龍を所持している亜米利科あめりかのワーグマン氏が大変乗り気で、政府筋としても断り切れなくなったのです」
「では、自扗がつくれなくなったと言えば……」
 阿澄の白い顔が、一瞬、さらに青白くなった。
「恐らく、職人がいなくなったことにするでしょう。明道家は取り潰し、麟之助どのと光蔵どのも良くて僻地に追放、悪くすると」
「口封じ、ですね」
 麟之助が言葉を引き取ると、阿澄は唇を引き結び、力なく頭を垂れる。
「申し訳ない。私の力が……」
「阿澄どののせいではない。技巧が途絶えたせいなのです」
 精一杯の思いで、麟之助は語る。俯くと、視線の先で何かが動いた。小雀だ。先ほど落とした麺麭の欠片を狙っている。同じ方向を見た阿澄は呟く。
「あれは麺麭ですね。外つ国の小麦でつくられた」
「ええ。なかなか美味でした」
 麟之助が告げると、阿澄が考えながら口を開く。
「我が国の食べものも、あちらで珍重され受け入れられていると聞きます。しかし、自国で捨て置かれていた自扗が、外つ国から受け入れられるとは」
「もしかすると、外つ国の人の方が、新しい可能性を見出せるのかもしれません。麺麭に餡が入っておりましたように」
 麟之助の言葉に、阿澄は静かに頷くと、肩を落として去っていった。

気持ちの淀みを感じながら、麟之助は鍛冶場に戻った。
 阿澄の手前、ああは言ったが、なぜ明道家が割を食わねばならないのか、という思いでいっぱいである。
 自扗や鐵鍛金の技が失われたのは、職人が保護されなくなったからだ。開国後、職人は仕事を失い、活き場のなくなった鍔や鞘は樽に詰められて、海中深く沈められたという。中には自扗も含まれていただろう。それを今さら、外つ国へ力を誇示するために復興させよという。
 自扗が欲しいのなら、職人を守るべきだった。気まぐれに珍重されるだけだとすれば、技巧とは何なのだろう。やりきれない思いで麟之助は鍛冶場に戻った。すると文机の上に、何やら書物らしきものが載っている。表紙には「麟蔵」という文字が見えた。
 これは父の手記だ。心の臓が跳ね上がる。爺様が置いたのだろうか、と驚きながら書物を手に取った。中を見ると、まるで父が身近にいるようで、胸に小さな灯がともる。頁をめくり続けると、自扗という文字が現れた。
 紙面を読み込む。絡繰の部分は、よく分からない記号やら専門用語などが満載だが、見当はつきそうだ。一方で、鐵鍛金の方はほとんど記述がないが、「最高之技巧ニ最高之機巧ヲ」という文字が朧気に見えた。
 分からない。分からないが、技巧によって、「最高」という言葉に恥じぬかたちをつくらなければならないのか。麟之助は改めて槌を握りしめた。
 『自扗鐵巧』によれば、龍の胴は蛇のように曲がり、爪先も動くようにしなければならない。父の手記には龍の型があったので、欠損部分を改めて作り直す。龍は想像上の生きものだから、実物を参照することはできない。しかし、かたちづくるうちに、目の前の龍は生きて動くのだと実感が湧いてきた。
 槌で叩く。同じ動作を繰り返し、かつん、かつんという音の中、酩酊に陥る。

父は、鐵を叩くことで、最小単位の結合に変化を起こすと考えた。
 どんなものにも、最小単位がある。何事も変化する。鐵は変化に呼応する。そこに人と鐵の違いはない。
 この槌で、生命の流転を打ち出しているのだ。打音の一つひとつが、鐵にとっての心の臓の音なのだ。
 この営みは、場所も時間も問わず、繰り返されてきたのだ。
 そして今、自分もまた、同じ感覚のさなか、茫漠たる時の流れの中にいるのだ――

 圧倒的な静けさの中、麟之助は一人、龍をつくりなしていた。
 日が落ちて薄闇が訪れても、麟之助には鐵が見えていた。無数の部位をつくり、頭胸甲は裏から模様を打ち出し、周りにたがねで打って棘を引き立たせた。幾多の作業の末、自扗龍を組み上げた。ところどころ錆の浮き出たその龍は、時間の重みを背負い、誇らしげにも見えた。
 麟之助は、熱に浮かされたように、自扗龍の心臓部分に金属製の大きな歯車と鯨髭の精巧な発条ばねを組み込み、皮革の細い管を繋げていった。多様な道具を駆使して管を行き渡らせ、水銀を入れ、銅の梃子てこや鉛のおもりを仕込んでいった。
 拡大鏡と蝋燭の火を使いながら、麟之助はふと、小さな鼓動を聞いたような気がした。かち、かち、という僅かな音は、高鳴る麟之助の心音に一致していく。
 鍛冶場に朝日が差し込む瞬間、麟之助は龍の腹を閉じ、心臓部分をぐっと押し込んだ。
 ぱちり、ぴしり、という、何かが反応する音と、何かがゆっくりと回転する鈍い音。
 龍は、腕を動かしながら頭を上げ、ゆっくりと翼を動かした。
 一回、二回、三回、四回。羽ばたきが増えるにつれ、龍の体は少しずつ浮き上がり、やがて鍛冶場の天井近くにまで飛び上がった。数刻の後、龍は舞い降りてきて、麟之助の肩に留まると、頬に長い髭をすりつけてきた。
 麟之助は半ば夢心地だったが、竜の冷たくてごつごつした頬と、鋭い鉤爪の痛みから、これが現実なのだと実感したのだった。

古い自扗龍の呼気を感じながら、麟之助は新しい自扗龍の制作にとりかかった。
 父の型紙を使い、数百もの円胴をつくって繋ぎ合わせ、脚を取り付ける。
 雲間を軽やかに飛翔する龍を想像し、四肢も首回りもすらりと動くようにした。鐵を打つ時の感覚はもう分かっていた。体の中に刻み付けたあの経験は、決して忘れることはないと思った。
 技巧によってかたちをつくりなした上で絡繰の機巧を組み込むと、新しい自扗龍はきろりと目を光らせ、小さく息を吐き出した。
 ところどころ錆が残る古の龍と、黒光りする新しい龍をそれぞれの肩に載せ、本宅に向かう。縁側では、早起きの光蔵が一心に書きものをしている。しゅうしゅうと息を吐く二体の龍を目にして、さしもの光蔵も顔色を変え、ほんの一瞬目を細めた。麟之助は、そんな光蔵を目にするのは初めてだった。
「依頼された自扗は一匹だ。どちらを使う?」
 光蔵が尋ねると、麟之助は真新しい黒龍に触れながら告げた。
「こちらを出します」
 それを聞いて、光蔵は眉根に皺を寄せた。麟之助は首を傾げながら言う。
「古い方は錆が浮いているし、新しい方が強いと思うのですが」
 それを聞くと、光蔵は黙ったまま目を背けた。麟之助はその様子が気になったが、光蔵はそのまま立ち去ってしまった。
 自扗龍のことは、直ちに阿澄に伝わった。彼はすぐさまやってきて、二匹の龍に見入った。
「動くようになったので、面目は果たしましたよね」
 麟之助の言葉に、阿澄は深く頷きながら、
「鐵鍛金というものは、美しいものですね。なんとも言えない光沢がある」
 と漏らす。麟之助が微笑みながら述べた。
「全体の風合いを馴染ませるため、古い方は酸をかけて強制的に錆びさせる『錆着色』を施し、新しい方は油につけて火をつける『油やき』で風合いを出しています」
「見た目一つとっても、実にさまざまな技巧があるのですね」
 阿澄は頷きながら、ふと何かを思い出したように、話を続ける。
「鐵が、我々の時代のものだというのは、ご存知ですか?」
 麟之助が首を傾げていると、阿澄は語った。
「この国から見て、亜米利科とは反対側にある貴臘ぎりしあで、何千年も前から言われてきた言葉です。かの国の作家によれば、時は黄金時代、白銀時代、青銅時代と移り変わり、人々は争いを増やしてきました。そして今、『鐵の時代』なのだそうです」
「この乱世が鐵の時代……」
 呟く麟之助に向かって、阿澄は語った。
「しかし私は、この度、麟之助どのの技巧を見て、鐵は人に争いを与えただけではないのだと思い至りました。職人は自分に合った素材を見出し、共に生きる。あなたは恐らく、人に無限の可能性をもたらす鐵と共に生きていくのでしょう」
 そう告げると、阿澄は封書を渡してきた。蝋付けされた封をそっと開くと、中の書状には「自扗戦」という文字と、下部に日付と場所が書いてある。参日後、植野恩賜公園。この家からほど近い。流麗な筆文字を眺めながら、麟之助はまだ見ぬ敵を想像して身震いした。
 
 当日、麟之助は一睡もできずに張り詰めたままの意識を抱え、自扗龍の入った籠を背負って会場へと赴いた。植野恩賜公園では内国勧業第二博覧会が開催されており、洋装姿の紳士淑女のほか、外つ国からの来客で賑わっている。人々の華やかな服は会場に色を添えていたが、一際目をひいたのは、赤衣赤髪の猩々しょうじょうたちが背負う甕から水が噴き出す噴水器だった。噴き上がった水よりも高い場所には、赤地に金丸の日和旗にちわばたが掲げられている。
 自扗戦の会場は、博覧会本館の大きな階段と噴水器の間にある競技場で、会場で一番目立つ場所である。大々的に宣伝されたようで、観衆の山ができていた。目を凝らすと、阿澄は背の高い人物と話をしている。麟之助が近寄ると、その人物もこちらを見つめてきた。軍人に見まごう体躯、茶褐色の髪、天色あまいろの瞳。麟之助というよりは、背負っている籠に熱い眼差しを注いでいる。
「麟之助どの。こちらは対戦のお相手のワーグマンどのです」
 目配せをしながら阿澄は告げた。外つ国の人は、左手に自扗龍を抱えながら右手を差し出してきた。
 相手の手を握ると、麟之助と同様にごわごわとして荒れていた。技術者の手だ。
 その瞬間、麟之助は、体の芯が熱くなり、意識がすっと冷たくなった。
 さっきまで、自扗龍が動くようになったことに満足していた。それに、昔から勝負事は嫌いだった。自分が傷つくのも、他者が傷ついているところを見るのも嫌だった。
 それが今、同じ情熱を持つ者と対峙している。
 負けたくない。負けるのは嫌だ。自分の自扗龍で戦って、勝ちたい。
 無意識に唇を噛み、血の味を知った麟之助は、自分の中に闘志が眠っていることに初めて気づいた。
 両の拳を、強く、つよく握りしめる。
 定刻を迎え、麟之助は競技会場に立っていた。落ち着こうと深呼吸し、ワーグマンに向き直る。
 相手が手にしている自扗龍は、いぶし銀のような色をしており、目の部分には、持ち主の瞳に似た水色の石が嵌っている。脚はむっちりと太く、口からはしゅうしゅうと灰色の煙を吐き出している。二本の長い髭は、雉の尾羽のように長く凛々しい。
 麟之助は自扗龍を取り出した。小さいが頑強な翼を広げ、黒光りする体を宙に浮かせて周囲を見渡すと、相手の銀龍を睨みつけた。
 向き合わせると、二匹はほぼ同時に飛びつき、鋭い牙をがっしりと噛み合わせた。そのまま空高く舞って回転すると、銀龍が煌めきながら宙でしなって離れた。双方、空中で相手を睨みつけ、髭がゆらゆらと上下している。
 黒龍が口を開けた。ほぼ同時に銀龍が火を噴いた。
 刹那、二匹の龍の間で火花が飛び散り、空間がぱっと輝く。焼け焦げた臭いが充満する。
 赤黒い煙の中から二体の龍が踊り出てきた。恐ろしいほどの機敏さだ。そのまま空中で激しくぶつかり合う。ぎしり、がきん、びき、と、金属が軋む音が響きわたった。
 観衆は銀龍と黒龍どちらを応援するかを決めたようだ。龍のいずれかが上になると、一方の観衆が喜び、別の方が上になると、さきほどまで黙っていた観衆が沸き上がる。
 麟之助の龍が黒煙を吐くと、銀龍は半ば黒く染まりながら舞い、青い瞳をぎろりと動かす。そうかと思えば銀龍は一気に頬を膨らませ、灰色の煙を黒龍に吹き付ける。視界を奪われた黒龍は地に落ち、そのまま地に激突するかと思いきや、地上すれすれで姿勢を正した。麟之助と観衆は、思わず安堵の息を漏らした。
 龍たちは空を舞い、体当たりし、爪でけん制する。その様子を見ていた麟之助は、ふと、自分の龍が全力で相手に向かっているのに対し、相手の銀龍は黒龍の動きをじっと観察しているように感じた。
 まずい。そう思った瞬間、黒龍は一瞬の隙を見せた。飛びかかってきた銀龍に背中を噛みつかれ、地上でくるくると転がる。土埃が上がる。塊が場外の壁にぶつかりそうになった瞬間、銀色の何かが舞い上がるのが見えた。麟之助が駆け寄ると、ぶつかった壁の付近には黒い鐵の塊が転がっていた。
 麟之助はひざまずき、黒龍だったものを拾い上げた。かろうじて翼らしきものが残っている。それを拾い上げると、夢うつつの中で鐵を打った記憶が蘇り、目の奥が熱くなった。なんとか立ち上がったと思ったが、そのまま倒れ込んだらしい。次の瞬間に見えたのは真っ白な天井で、半身を起こすと寝台に寝かされている。傍らには阿澄がいた。
「気がつかれましたか」
 その言葉に、麟之助は握り締めていた手を開いた。黒龍の翼が残っている。
「……すみません」
 震え声で麟之助が言うと、阿澄の瞳に影がさす。彼は目を伏せて告げた。
「とんでもない。麟之助どのは自扗龍を動かしてくれた。もう、十分です」
「十分などではないぞ」
 芯の通った声が響く。麟之助は思わず背筋を伸ばした。部屋の入口付近には、椿と、椿に手を引かれた光蔵がいる。
「何故」
 呟く麟之助に、光蔵はふんと鼻を鳴らす。
「この娘に呼ばれたのよ。お前、負けたのだな。情けないことだ」
 麟之助はじっと手の中の欠片を見つめていたが、やがて小さな声で呟いた。
「……何も分かってない」
 麟之助は光蔵の顔をまっすぐに見た。
「爺様、あなたは自扗を動かせなかったじゃないか。その責務を父さんに負わせた挙句、今度は孫の私を叱咤する。情けないのは自分だろう」
 側では椿が目を見張っている。光蔵が唇の端を震わせた。
「……儂が、麟蔵を追い詰めたと」
「ええ、その通り」
 麟之助の声と共に、きんと張り詰めた空気が、場を支配する。
 時が静止したかのように、全員の動きが止まる。
 かち、かち、かちという、壁にかかった萬年時計の音が、やけに大きく聞こえる。
 森閑とした室内で、どれくらい時間がたったのか。
 ふと、光蔵が机の上に、何かをどさりと置いた。風呂敷の隙間から小さな煙が上がる。
「……自扗龍」
 麟之助の呟きと同時に、龍が布の中から飛び出してきた。
「新しい龍は、戦いの経験が不足している。お前、闘鶏や蜘蛛合戦を知らんのか? どんなに強い闘士でも、初戦で勝てるわけがない。そやつは歴戦を戦い抜いてきた古強者だ」
 麟之助は錆色の龍をじっと見つめた。小ぶりで年月を感じさせるが、黒い瞳に強靭な光をみなぎらせている。
「錆は、劣化ではなく経験の証よ。それに、堅牢さは見た目に宿るのではない。技巧は修理できなくなった時に途絶えるが、その龍とお前は、自扗そのものの命を繋いだのだ」
 虚空を見つめながら語る光蔵。彼が話しているのは、麟之助か、それとももっと大きな何かか。
「自扗の技を失ったまま、麟蔵も失った儂は、お前が同じ道を歩まないようにした。お前が自分で決めるべきことを、儂が決めてしまったと言うのなら、それを使うかどうかは自分で決めろ」
 光蔵はそう言い切ると、灰色がかった瞳で麟之助を見つめた。麟之助も、強い眼差しで見つめ返す。
 数刻の後、麟之助は荷を開けて槌を取り出し、錆龍の翼を外して黒龍の翼を打ちつけた。
 手を動かしながら、麟之助は、龍に祈りにも似た思いの全てを注ぎこむ。

鐵という素材は、劣化し、色褪せ、錆びる。
 どんなものも、変幻する。同じく鍛えられ、磨かれ、滅びる。それが命の美しさであり、輝きだ。
 鐵は、生命の流転に呼応する。だから生命を宿らせることができる。そして人は、鐵の変化に対して無力だ。力が及ばないのだ。
 ああ、この思いを、この境地を、古人いにしえびとは味わったのだ。
 自分にできることは、虚しさを抱えながら、自分の中で最高の技巧に、最高の機巧を組み込むことだ。そうすれば、技巧がかたちをさだめ、機巧がかたちをる――

慣れない場所のゆえか、槌で指を打ち据え、鋲留めを外す爪が割れ、鐵に血が滲む。
 白い空間に、錆と鐵と血の金気臭さが漂うが、麟之助はものともしない。周りの人間は、その場に釘付けにされたように動かない。
 やがて打つのをやめ、絡繰を調整した自扗龍を抱えると、麟之助は阿澄に告げた。
「この龍で挑みたいと、ワーグマンどのに伝えてほしい」
 麟之助の言葉に、阿澄は暫し黙っていたが、
「さきほどまで、私はもう十分だと思っていました。しかし……」
 彼は唇を白くなるほど噛んでいたが、やがて考えながら立ち去った。ほどなくして戻ってきた阿澄は、ワーグマンは二つ返事で承知したと言った。
 数刻後、麟之助とワーグマンは競技場に立った。時は夕刻、観客は、足を庇いながら腰掛ける光蔵と椿、それに阿澄だけだ。
 再び戦いが始まった。
 銀龍と錆龍は、牙をむき出しにして向かい合う。次の瞬間飛びかかり、空中でがちんとぶつかって地に落ちた。夕方の陽を跳ね返して、まるで二つの火の玉のようだ。くんずほぐれつすると、再び距離をもって睨み合い、飛びかかる隙をうかがっている。 
 やがて二匹は、互いに頭を突き合わせた。静中に動ありで、二匹は死力を尽くして相手を押し戻そうと、いかつい脚を踏ん張っている。どちらも一歩も引かないので、次第に太鼓橋のような格好になり、鋭い牙をむき出しにして、後足だけで懸命に体重を支えている。
 ふと、麟之助は思った。
 龍たちが守ろうとしているのは、一体、何なのだろう。
 外つ国で偶然に導かれて動いた銀龍、昔ながらの技巧を復興させた錆龍。いずれも孤高の表情だ。ふとワーグマンを見ると、戦いに、技巧に、集中力の全てを注ぎ込んでいる。
 麟之助は、自分の中で少しずつ、勝ちたいという熱が鎮まっていくのを感じた。心は平らかになり、明鏡止水の境地に近づいていく。
 日が落ち、篝火が燃やされ、眉のように細い月が上った。二匹の龍は、夕の陽から闇色に染まった後、月の光に照らし出されてほのかに輝いた。
 どちらの龍も微動だにしない。長い時間が過ぎた。麟之助たちは固唾を呑んで見守る。更に時が過ぎて夜明けが近づく頃、本部から何者かがやってきて阿澄に耳打ちした。すると阿澄は、龍の主たちに言い渡した。
「この勝負、引き分けとします」
 麟之助は錆龍のもとに駆け寄り、胸に抱きしめた。見ればワーグマンも銀龍を抱きかかえている。二人は互いに頭を垂れ、熱い握手を交わした。

縁側で、麟之助と阿澄は薄茶を飲んでいた。
 先刻、阿澄が手土産に麺麭を持ってきてくれたのだ。濾した餡のまろやかさが、麟之助の舌を喜ばせる。阿澄は麺麭をしげしげと眺め、真ん中の臍のような窪みを押しながら呟く。
「自扗ならば、ここから絡繰が……」
「大分、自扗に毒されましたね」
 麟之助が告げると、阿澄はゆっくりと頷く。薄い唇に浮かべる微笑みは、どこかあたたかい。
「お借りした書で、勉強しましたから」
 そう述べると、改めて麟之助の顔を見る。
「実は、相談があって参りました。自扗龍を二つ、つくってほしいのです」
 麟之助は、口にふくんだ熱い茶を、一気に飲み下した。
「それは……どうするのです?」
「ひとつはこの国の主上のために、いまひとつは、外つ国の主上のために」
「それは、ワーグマンどのの国のお偉方にも、お渡しするということで?」
 麟之助の問いに、阿澄は深く頷いた。
「外交上の必然として、許可は得ております。それは建前で、いずれこの国の人々は、戦いに巻き込まれるとも知れません。そうなった時、せめて技巧が残ってほしいという、僅かな望みです」
 阿澄の言葉を聞きながら、麟之助はワーグマンとのやりとりを思い返していた。

引き分けたあの日、彼は目を輝かせながら、麟之助の方に向かってきた。
「あなたの龍、素晴らしいですね。是非またお目にかかりたい」
 そう告げるワーグマンの瞳は、好奇心で輝いていた。麟之助が頷きながら銀龍を見つめていると、熱い眼差しに気づいたワーグマンがこう言ったのだ。
「私の龍、見たいですか?」
 勢いよく頷いた麟之助が、銀龍を受け取って検分すると、それは明道家のものではなく、かつてあった鐵鍛金の某流の作品のようだった。しかし海を渡って残っただけのことはあり、細工の細かさや今にも動き出しそうな気迫など、作品として申し分ない。
 麟之助が食い入るように見つめていると、ワーグマンはおもむろに龍をつかんでひっくり返し、心臓部分を押し込んだ。すると腹がぱかりと開き、見慣れた歯車や発条の間に、光る素材に包まれた色とりどりの線や、見たこともない物質でできた軸や機械要素が見えた。
「この絡繰は……ご自身で直したのですか?」
 麟之助が尋ねると、ワーグマンはにこりと笑って頷いた。
「中の仕組みは、見当がつきました。ただ、これとそっくり同じものをつくっても、どうしても動かなかったのです」
 そう述べると、彼は龍の腹を閉めながら、
「秘密を教えていただけませんか?」
 と聞いてきた。麟之助が返事できずにいると、相手は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと立ち去ったのだった――

麟之助は、考えながら呟く。
「そうすると、自扗は、我らの手から離れたところに行くのかもしれません。しかし、この世から消えてしまうよりは、ずっといい」
 阿澄も頷いて告げた。
「私は、麟之助どのの話を聞いて、過去の技巧を蘇らせるのが難しいのは、昔の職人の挑戦なのかもしれない、とも思っております」
 麟之助が首を傾げていると、阿澄は考えながら言葉を続ける。
「古人は、技巧が簡単に分からないように施して、未来の職人に挑戦したのではないでしょうか」
 麟之助は考え込んでいたが、ふと、頷きながら述べた。
「後の世の人間に探求させるため、技巧に鍵をかけたということですか。厄介ですが、一理ありますね。技巧がかたちを定めるならば、定めたかたちから技巧を類推しうる。私はまだ、祖父が守ってきたものを学ばなければなりませんが……」
 麟之助は、半ば自分に言い聞かせるように呟く。
 その時、庭先から人影が現れた。髪をまとめ、簡素な作務衣をまくってすっかり職人の格好だが、つぶらな瞳はまだ少女のあどけなさを残している。
「これは……椿どのか」
 驚きで、少しばかり裏返る、阿澄の声。
 椿は頷き、手にしていた竹籠を抱えて小さく一礼した。すると、揺れた拍子に籠が転がって扉が開き、機織虫が黒土の上にまろび出た。周囲の草々からは、ぎぃーす、という音が響いている。虫は翠玉のように瑞々しい体を小さく振るわせると、椿が手を伸ばす前に草叢へと飛び込んだ。
「はじめて、うまくいったのに……」
 椿の声に無念が滲む。麟之助は、微笑みながら彼女に告げた。
「おめでとう」
 気を取り直したように、にこりと笑う椿。ふと麟之助は視線を落とし、呟くように言った。
「さらに、つくりなすのだ」
 束の間、風が止み、日没近い深藍の空気が場を支配する。
 生きものたちが誘いかける声の中、三人は薄闇に目を凝らした。

                                  完

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