梗 概
きみの手のひらを裂いて
蟲【ムシ】 ①淡水の生き物。川の上流や水田など水の綺麗な場所を好む。➁人間の体内に寄生させることで、皮膚感覚を共有する媒体。
転校生のナオは周囲に馴染めず孤立しているが、同じクラスのユイに憧れを抱いている。クラスでは、仲の良い女子同士で一匹の蟲の半身ずつを分け合う〈共鳴〉という行為が流行っていた。〈共鳴〉とは、蟲の半身ずつをお互いの手のひらに飼うことで、一方が触れたものの温度や感触をもう一方も克明に感じることができる、というものだ。
人気者のユイは、いろんなグループの女の子たちから〈共鳴〉に誘われていたが、すべて断っていた。ある日、ナオは、ユイの好きな人がナオの兄の親友であるミナト先輩だと知ってしまう。毎日、家に遊びに来ては兄の部屋に入り浸っているミナト先輩との仲を取り持つことを条件に、ナオは強引にユイとの〈共鳴〉を果たす。
ユイと〈共鳴〉したナオはクラスメイトに妬まれ、悪口を言われたり、いやがらせをされたりするが、ナオにはそんなことはどうでもよかった。ナオにとって大事なのは、ユイと蟲を共有しているという事実だけだった。ふたりは、他の子たちと同じように、手のひらの蟲を切ったり刺したりすることで、痛みを共有し、お互いの絆を確かめ合った。
放課後、ユイは毎日ナオの家に遊びに来て、ミナト先輩と距離を縮めていく。ミナト先輩との仲を深めるにつれ、ユイはナオと疎遠になってゆく。ユイとミナト先輩の仲に嫉妬してしまったナオは、ユイのことを全部わかってるのは自分だと告白する。一方的な気持ちをぶつけるナオに、ユイは、自分の手を切り裂いてみせ、皮膚感覚を持たないことを告げる。そもそも〈共鳴〉がまやかしであること、ナオの気持ちは思い上がりに過ぎず、自分のことを何も理解していないと言い放つ。
しかしナオはユイが痛みを持たないことを知っていた。幼少期に、自らが痛みを持たないことから、ナオのことを身を挺して救ってくれた初恋の相手がユイだった。
ナオがユイと分け合った蟲は、本当はただのレプリカだった。嘘でもいいから、ナオはユイに自分の痛みに触れてほしかったし、ユイにも、自分の痛みに触れようと手を伸ばして欲しかった。ただ、ユイにとっての特別な存在になりたかった。しかし、ナオはこの気持ちが単なる自分のエゴだったことに気づく。
ナオは、床に落ちたユイの血を見つめながら、ユイが自分のために初めて血を流してくれた日のことを思い出す。そして、ユイと同じように手のひらを切り裂いた。少しでも痛みが長引くように、痛みを体に刻み込むように、ゆっくりゆっくり手のひらに埋めた偽物の蟲を引きはがした。
文字数:1097
内容に関するアピール
ひねりは下記の2点です。
①ユイが実は皮膚感覚を持っていなかったということ
➁ナオが渡したのは本物の蟲ではなかったこと
わたしたちは、お互いを完全に理解することはできなくて、心の痛みも、身体の痛みも共有できないから分断されてしまうのではないでしょうか。だから、お互いに分かり合うことの究極は、痛みの共有なのではないかと思います。物語を通して、相手のことを全部わかっているというまやかしがもたらす仄暗い幸福感と、わかりえないことを前提として、それでも手を伸ばさずにはいられない切実さのようなものを描きたいです。
文字数:252
きみの手のひらを裂いて
手のひらがじっとりと湿ってゆく。私は、心細さと焦燥感で圧し潰されそうだった。息を吸おうにも、ハッハッと浅い呼吸を繰り返すことしかできなくて、水のなかにいるみたいに苦しい。すぐ近くで、薔薇の花の強い匂いがした。頬が燃えるように熱い。頬に触れると、指先に生暖かいなにかを感じた。おそるおそる指先を確かめると、赤い血がついていた。私の目から涙が溢れた。
どうやら私は、一輪車で転んで、薔薇の植え込みに頭から突っ込んでしまったようだった。しかも、薔薇の枝に髪が絡まって動けなくなってしまった。誰かに助けを求めようとしても、こんな学校の裏手にある辺鄙な、小さなベンチと薔薇の植え込みしかない寂しい場所には誰も来ない。必死に髪を解こうと薔薇の枝に手を伸ばしたせいで、手も傷だらけになってしまって、私はもうぽろぽろと泣くことしかできなかった。
あたりを赤く照らしていた夕日の光がどんどん弱くなってきた。私は、耐え切れなくなって、俯いたまま、ぽろぽろと泣いた。泥だらけになったスカートが涙で濡れてゆく。涙のシミが増えていくのを見ているうちに、私はどんどん悲しくなって、もう周りを気にせず大声で泣いた。しばらく泣いていると、頭の上から「どうしたの?」と女の子の声が降ってきた。驚いて顔をあげると、目の前に、白いワンピースを着た綺麗な女の子が立っている。ひとりぼっちじゃなくなったと、安心したら、また涙が溢れてきた。私は震える声で「髪が引っかかっちゃって」と必死に訴えた。女の子はすぐに、薔薇の枝に絡まった私の髪を解こうと手を伸ばした。咄嗟に私が「大丈夫? 痛くない?」と聞くと、女の子は「大丈夫」と言って笑った。しばらくして、ふっと身体が自分のところに戻ってきたように感じた。私は、女の子の手を借りて立ち上がった時、ようやく、自分の身体が自由になったことを確信した。私が「ありがとう」と言うと、女の子は傷だらけの手を振って笑った。
私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
冷たい雨がびしょびしょと降っていて、暗い朝。昇降口で、上履きに履き替えながら、ふと今朝の夢を思い出した。夢というより、うんと遠い記憶。白い蛍光灯に照らされた廊下は、むわりと肌にまとわりつく蒸し暑い空気と、雨の匂いに満ちている。教室に入ると私はすぐに、窓際の前から三番目、萌ちゃんの席に目をやった。
萌ちゃんはとても綺麗。まるで、教室からも、この世界からも、ひとりぽっかりと浮いているみたい。陶器のように白くなめらかな肌に薄茶色のゆるくウェーブのかかった長い髪、小さな顔に均整のとれた目鼻立ち。細くてまっすぐな脚を雑に前に投げ出して、椅子に浅く腰かけている姿も、他の子だったらすごくだらしなく見えるのに、萌ちゃんだとうっとりするほど絵になる。私は、窓際から三番目の列の一番後ろにある自分の席に早足で向かった。椅子に座ると、すばやく鞄から文庫本を取り出して、いつものように読書をしているフリをしながら、萌ちゃんをこっそり盗み見る。
萌ちゃんの周りには、いつも当たり前のように人が集まっている。
「見て見て! お姉ちゃんが友達と〈共鳴〉はじめたの!」
クラスで一番声が大きくて、お化粧の派手な篠原さんが興奮気味に萌ちゃんの顔の前にスマホを掲げた。
「〈共鳴〉で感覚を分け合ってるうちに、相手の気持ちの上下とかもなんとなくわかるらしいよ。まあ、蟲の質やコンディションにもよるらしいんだけどさ」
篠原さんは早口で捲し立てると、「気持ちまでわかるって、最高の友情だよね」と言って笑った。篠原さんの言葉に、取り巻きたちが、うんうんと大きく頷く。篠原さんたちの会話はいつも大げさで、なんだかお芝居みたいに見える。
〈共鳴〉っていうのは、なんとかっていう難しい名前の、身体の感覚がなくなっていく病気の治療に使われる蟲を媒介にして、お互いの皮膚感覚を共有する遊びだ。主に同性同士で効果を発揮するこの遊びは、男の子にはあまり人気がなく、もっぱら中高生の女子の間で場爆発的に流行っている。このクラスでも、まだ入学式から二ヶ月しか経っていないのに、もう〈共鳴〉している子たちが三組もいる。〈共鳴〉に必要なのは、蟲だけ。一匹の蟲をふたつに裂いて、半身ずつをお互いの手のひらで飼う。篠原さんのスマホには、きっと、お姉さんの手のひらの写真が表示されているのだろう。篠原さんの取り巻きの女の子たちが画面を覗き込んで、「すごーい」とか「きれい」とか口々に囀り合う。けれど、得意げな顔の篠原さんに対して、萌ちゃんは興味がないことを隠そうともせず、ただ、小さく「ふーん」とだけ言った。篠原さんの顔は、一瞬くしゃりと歪んで、それからすぐにひび割れみたいなつくり笑いに変わった。
「萌はほんと〈共鳴〉に興味ないよね!」
篠原さんは茶化すような口調でそう言うと、小麦色に日焼けした腕を伸ばして、萌ちゃんの頬を軽くつねった。萌ちゃんは、小さく「ごめん」と呟く。
「前からそう言ってんのに、しーやんがしつこすぎなんだよ」
舞浜さんが後ろから萌ちゃんに抱きついた。そして、「萌の、そういうちょっと変わってるとこがいいんだよ」と萌ちゃんの髪を撫でた。舞浜さんとその友達たちがくすくすと笑って篠原さんを挑発する。
「まいまいには関係ないじゃん」
篠原さんが舞浜さんを睨みつけたのと同時に、チャイムが鳴った。篠原さんたちは、萌ちゃんに「またあとでね」と手を振って自分の席に戻ってゆく。萌ちゃんも気怠げに薄い手のひらをひらひらと揺らした。
萌ちゃんの周りでは、いつもみんなが萌ちゃんを取り合う。みんな、この美しい生き物と繋がりたくてしょうがないのだ。
教室に担任が入ってきて、ホームルームを始めた。私はスカートのポケットに忍ばせたコンタクトケースにそっと触れる。私は篠原さんや舞浜さんとは違う。胸の中で自分に言い聞かせるように唱えた。私が一番萌ちゃんを理解している。
夕方になって、ようやく雨が止んだ。薄い雲の隙間から、夕日がほのかにあたりを照らす。月末に控えた期末試験に向けて、すべての部活が休部期間に入ったため、校舎も校庭もしんと静まり返っている。誰もいない放課後の美術準備室は、やわらかな光に包まれて、なにもかもがやさしく見えた。
美術準備室は三階の端っこにあって、滅多に人が来ない。うんと昔、美術部の活動が盛んだった頃には、活用されていたらしいけれど、今ではただの物置と化している。私は美術準備室の雰囲気が好きで、お昼休みや放課後にふらりと入って、しばらくぼーっとしたりする。美術準備室は静かで、時間の流れがゆるやかで、学校の中で一番居心地がいい。
部屋の中は、石膏像や画材、キャンバスやイーゼル、さらには動物の骨なんかも転がっていて、とにかく雑然としている。私は、隅っこに立て掛けてあった小さな脚立を椅子の代わりにして腰かけた。次第に緊張が込み上げてきて、ゆっくりと深呼吸をする。肺いっぱいに吸い込んだ美術準備室の空気は、絵の具と埃の匂いがした。
萌ちゃんは、五時半ぴったりに美術準備室のドアを開けた。私を見ると、少し驚いた顔をした。けれど、すぐに私をきっと睨みつけて、
「知ってる秘密ってなに?」
と、私の手紙を突き返しながらつっけんどんに言った。手紙は、お昼休みに萌ちゃんの鞄にこっそり入れた。手紙には、「萌ちゃんの秘密を知っています。五時半に美術準備室にきてください」と書いた。
私をまっすぐに見つめる萌ちゃんの目が不安げに揺れる。私は立ち上がって、萌ちゃんの視線を受け止めた。
「あのさ、萌ちゃんって、湊先輩のこと好きでしょ?」
萌ちゃんは、一瞬、意外そうに目を丸くしたあと、みるみる顔を赤くした。湊先輩っていうのは、高等部の一年生の先輩。高等部のバトミントン部のエースで、面倒見が良くて、私と萌ちゃんの所属する中等部のバトミントン部にもたまに指導に来てくれる。
「なんで……?」
「なんでって、同じ部活なんだから見てればわかるよ」
私は咄嗟に嘘をつく。本当は、部活だけじゃなくて、ずっと萌ちゃんのことを見ていたからわかる。萌ちゃんは顔を赤くしたまま、俯いた。
「それでね、わたし、お兄ちゃんがいるんだけど、お兄ちゃんと湊先輩って、幼稚園の頃からすっごく仲が良くて」
昨日、何度も練習したはずなのに、上手く言葉が出てこない。つい、俯いて上履きの先を見てしまう。萌ちゃんが訝しげな目で私を見つめた。
「えっと、つまり、今は休部期間で先輩に会えないけど、私の家に来れば、毎日会えるよ」
私の言葉に、萌ちゃんはぱっと顔を上げて、期待に満ちたまなざしを向けた。私は慌てて「だから」と付け足す。
「だから、私と友達になって、〈共鳴〉してほしい」
言い終わった瞬間、背中や脇や手のひらから、ぶわりと汗が吹き出た。静かな部屋の中で、私の心臓がどくどくと脈打つ音だけが大きく響いているみたいに感じる。私をまっすぐに見つめる萌ちゃんは西日に照らされて、髪や頬の輪郭が金色に光っていた。萌ちゃんは、しばらく考えてから、小さく「いいよ」と頷いた。
私はコンタクトケースの緑色の蓋の方を開けて、萌ちゃんに見せた。中には、三センチメートルくらいの大きさの蟲が入っている。蟲は透明で、水気のある身体はぷにぷにと柔らかく、日に透かすとほのかに薄緑色に光った。
萌ちゃんが蟲を眺めている横で、私は新品のカッターナイフに消毒液をかけて刃先を綺麗に拭いた。ティッシュと絆創膏もすぐ隣にある石膏像の台の上に置いた。石膏像の頬には深いひび割れが刻まれているのが見えた。
「準備できたよ」
私が声をかけると、萌ちゃんは少し顔をこわばらせた。私はまず、コンタクトケースの蓋の上で、蟲の身体を半分に切り裂いた。蟲は微動だにせず、何の抵抗もなくまっすぐに切れた。次に、萌ちゃんの左手の手のひらのちょうど真ん中あたりをカッターで切り裂く。萌ちゃんの柔らかくて薄い皮膚の感触がカッター越しに伝わってきて私は少しどきどきした。萌ちゃんは、ぴくりとも動かず、ただ手のひらに伸びてゆく赤い線を見つめていた。ちょうど、蟲の長さと同じくらいまで切ったら、傷口を少し開いて上から蟲で覆う。すると、みるみるうちに、蟲は萌ちゃんの傷口に貼りついて同化してゆく。蟲は、萌ちゃんの手のひらの上で、小さな水ぶくれのように見えた。わたしは萌ちゃんの手のひらをうっとりと眺める。
「次は神崎さんの番」
萌ちゃんは私の手からカッターをするりと引き抜くと、わたしの左手を掴んだ。手のひらの真ん中に突き立てられたカッターの刃が私の皮膚の上をゆっくりと滑ってゆく。鋭い痛みに私は息を呑んだ。鼻の奥がつんとして、自然と涙が零れる。
「もっと力抜いて」
萌ちゃんの咎めるような声。私は声が震えないように「ごめん」と呟いた。萌ちゃんは慎重な手つきで私の傷口の上に蟲を乗せた。私は、萌ちゃんとまるで双子のように同じ場所にある傷がこの上ない宝物のように思えた。ずきずきと手のひらを走る痛みさえ愛おしい。
「今日、これから神崎さんの家に行っていい?」
私は頷いて、それから慌てて「神崎さんじゃなくて」と言った。本当に伝えたい言葉が口に出せず、また自分の爪先を見てしまう。窓から入ってくる日差しが弱くなって、床に落ちる石膏像たちの影の色が変わっていた。私は急に焦燥感に駆られて、
「菜緒って呼んで」
と勢いで言った。萌ちゃんは、なんだ、そんなことかみたいな顔で軽く頷いた。
私たちは、蟲の上に絆創膏を貼って、美術準備室を出た。しんと静まり返った薄暗い廊下を萌ちゃんと歩く。人気のない校舎は、まるで、世界からたったふたりだけ取り残されてしまったみたいで、心地良かった。
家に帰ると、ママは庭で花壇の手入れをしていた。私が「ただいま」と声をかけると、顔を上げて「遅かったわね」と言って、そのまま固まった。私は茫然とするママに、「萌ちゃん、私のお友達」と紹介した。萌ちゃんは、私の背中に半分隠れたまま、「お邪魔します」と言って小さくお辞儀した。
私が萌ちゃんを部屋に案内すると、ママはすぐにお茶とクッキーを持ってきた。私が初めてお友達を家に連れてきたから、浮かれているのだろう。少し恥ずかしい。
窓際にある勉強机の前のスツールに萌ちゃんを座らせて、私は隣のベッドに腰かけた。自分の部屋なのに、どこか居場所がないような、妙な緊張感がある。「たぶん、お兄ちゃんたちもうすぐ帰ってくるから」と言うと、萌ちゃんは、少し不安げな顔でゆっくりと頷いた。窓の外には、少し遠くに隣の家の庭が見えた。庭では、小さな犬が三匹、女の子と一緒に走り回っている。私たちは、しばらく黙って窓の外を眺めた。
それから十分も経たないうちに、階下からお兄ちゃんたちが帰ってきた声が聞こえて、私は救われた気持ちになった。隣の部屋から、お兄ちゃんと湊先輩の声が聞こえてくる。
「お兄ちゃんたちのとこ、行ってみる?」
私が声をかけると、萌ちゃんはかすかに頷いた。じゃあ、と私が部屋を出ようとしたけれど、萌ちゃんはスツールに腰かけたまま微動だにしない。萌ちゃんは視線すら、自分の爪先に落としたままだ。私は、萌ちゃんを傷つけないように、おそるおそる「もしかして、緊張してるの?」と聞いた。萌ちゃんは、がばっと顔をあげると、縋るような目つきで私を見た。
私たちは結局、手を繋いで、お兄ちゃんの部屋に入った。お兄ちゃんはお母さんと同じように、私に友達ができたことが衝撃だったみたいだけど、私の初めての友達をあたたかく迎え入れてくれた。萌ちゃんは、あんなに緊張してたのに、いざ湊先輩と話し始めると、よく笑うただの可愛い女の子になった。私は、それを見て、少しもやもやした気持ちになったけれど、まだそれが何なのか私にはよくわからない。けれど、萌ちゃんが笑ってくれるなら、それで良いと思えた。私たちは、期末テストまでの間、お兄ちゃんと湊先輩に勉強を教えてもらう約束を取り付けた。
私が「ふふっ」と思い出し笑いを漏らすと、萌ちゃんは、私の手の甲をつねった。私が笑うと、萌ちゃんも笑った。なんだか、大仕事を終えたあとみたいな、清々しい気持ち。私は、今日だけで、萌ちゃんとの距離がぐんと距離が縮まった気がして嬉しかった。
大通りまで出ると、萌ちゃんが「ここまででいいよ」と言った。私はもっと萌ちゃんと一緒にいたかったけれど、なんとなくそれを言うのは憚られて、うん、と頷く。「またね」と手を振ると、萌ちゃんも「また明日」と言って走っていった。
次の日、教室では大変な騒ぎになっていた。萌ちゃんの手のひらの蟲を見つけた篠原さんが、「誰と〈共鳴〉したのか」と萌ちゃんを問い詰めていた。私が慌てて萌ちゃんのもとに駆け寄ろうとすると、萌ちゃんは目で私を制止した。そして、篠原さんに向かって「んー、秘密!」と言って笑った。篠原さんは、肩を落として「そっか」とだけ言うと、自分の席に戻っていった。あまりに気落ちした様子に、少しだけ胸が痛んだ。
私の部屋で二人っきりになると、私はすぐに、どうして「秘密」といったのか萌ちゃんに抗議した。萌ちゃんは、「特に理由はないけど」と前置きしてから、
「無駄ないざこざは避けた方が良いと思って」
と茶化すように言った。私は初めから隠すつもりはなかった。篠原さんにバレて、いじめられたり、嫌がらせされたって平気。別に、誰に何をされようと、萌ちゃんと〈共鳴〉しているのは私だという事実は変わらない。私にとって、それだけが大事で、その他のことはどうでもいいのに。私は、萌ちゃんに今の率直な気持ちをぶつけたかったけれど、萌ちゃんとこれ以上争いになるのが怖くて、何も言えなかった。ちょうど、お兄ちゃんたちが帰ってくる声が聞こえて、この話はうやむやになった。
私たちは、お兄ちゃんの部屋で、勉強を教えてもらいながらテスト対策を進めた。私は、いつもの癖で、勉強をしているふりをしながら、つい萌ちゃんのことを盗み見てしまう。昨日は私の部屋で固まっていた萌ちゃんも、湊先輩に積極的に話しかけている。湊先輩は、萌ちゃんが話しかけると、必ず身体ごと萌ちゃんに向けて、まっすぐに萌ちゃんを見る。萌ちゃんは、すぐに照れて俯いてしまうけれど。私は、湊先輩のそういう誰にでも丁寧に接するところがすごく良いなと思った。
萌ちゃんが数学の問題を解き終わると、「えらい!」と言って萌ちゃんの前に拳を突き出して、グータッチを促した。萌ちゃんは、嬉しそうに笑いながら、湊先輩の拳に触れた。
萌ちゃんは、湊先輩の前で笑うときが一番きれい。そう思ったら、ふいに、胸がチクリと痛んだ。私は、咄嗟に自分の手のひらの蟲に触れた。やわらかく、ひんやりと冷たい異物は、私の心を鎮めてくれる。萌ちゃんと分け合った蟲と傷跡だけが私の信じられる確かなものに思えた。
それから、萌ちゃんは毎日こっそり私の家に来た。私は、インターホンが鳴ると、階段を駆け下りて、誰かも確認せずに玄関のドアを開けた。萌ちゃんは、そんな私を「不用心だよ」と笑う。お兄ちゃんたちが帰ってくるまで、私の部屋でしゃべって、お兄ちゃんたちが帰ってくると、四人で勉強する。そんな毎日の繰り返しだった。萌ちゃんは、湊先輩とSNSでもやりとりをしているらしく、時々、私に「どう返信したらいいかな?」とか「これって脈ありってことかな?」とか、メッセージのやり取りを見せてくるので相談にのった。けれど、湊先輩の前で緊張したり、湊先輩の何気ない言葉におろおろする萌ちゃんを見ると、なんだかどこにでもいる普通の女の子みたいに思えて、イライラしてしまう。私は本心を隠しながら、萌ちゃんの些細な相談にも「大丈夫だよ」とか「自信を持って!」とか言って励まし続けた。そのせいか、萌ちゃんは、徐々に私に信頼を寄せてくれるようになったけれど、私は複雑な気持ちだった。
期末テスト前の最後の土曜日の夜、お兄ちゃんと湊先輩が花火を買ってきた。みんなで庭の真ん中に輪になって、次々に火をつけた。鼻をつんと刺す火薬の匂いとともに、あたりがぱっと明るくなる。色が次々に変わる花火を持って笑う萌ちゃんを見て、本当にこんな日が来るなんて夢みたいだと思った。
私たちは最後にみんなで肩を寄せ合って、線香花火をした。かすかに触れた肩から萌ちゃんの体温を感じる。私は、急に萌ちゃんがこの上なく大切に思えて、今までイライラしていたのが恥ずかしくなった。〈共鳴〉で萌ちゃんにこの気持ちが伝わればいいのに、と思うと胸の奥がきゅっと苦しくなった。
期末テストの最終日、最後の科目の数学が終わった瞬間、教室のあちこちで歓声があがった。ホームルームが終わると、萌ちゃんは、篠原さんたちに連れられて早々と教室を出て行った。昨日、「お兄ちゃんたちもクラスはみんなで夜までカラオケらしいから、湊先輩は家に来ないと思う」って言ったから、当然のことだと思いながらも、身体の真ん中にぽっかり穴が開いたみたいだった。私は家に帰ると、お昼ご飯も食べずにひたすら眠った。
二、三回インターホンの音が聞こえて、私はゆるゆると身体を起こす。突然、枕元に置いたスマホが鳴って、びくりと肩を震わせた。着信の相手も確認せずに、スマホを耳にあてると、「……いま家にいる?」という萌ちゃんの声が聞こえた。
私は慌てて階段を駆け下りた。リビングの電気が消えている。ママはきっと買い物にでも出かけたのだろう。玄関のドアを開けると、目の前に萌ちゃんがいた。頭の中は、どうして?という疑問でいっぱいだけれど、何も言えない。ただ、ふわふわと浮足立つ感覚だけが私の全身を駆け巡っていた。
「寝てた?」
私が頷くと、萌ちゃんは「ごめん」と言いながら、いたずらっ子のような目をして笑った。
私の部屋は、水の中のようにとろとろと薄い青色で満ちていた。私はそのまま電気を点けずにベッドの上に座った。なんとなく落ち着かなくて、何度も寝ぐせを撫でつけてみたりする。萌ちゃんは、床に鞄を置くと、ごそごそと鞄の中をまさぐっていた。
「篠原さんたちと遊びに行ったんじゃないの?」
「うーん……そうなんだけど、抜けてきちゃった」
萌ちゃんは鞄の中に視線を落としたまま答えた。私は、胸の奥がきゅうっと苦しくなる。
「私に会いに来てくれたってこと?」セリフは繰り返し頭の中をぐるぐる回り続けるのに、私はいつも肝心なことを声に出せない。
「あったあった!」
顔を上げて、楽しげに笑う萌ちゃんの手には、夜空を溶かしたみたいに深い青色のマニュキアが握られていた。
「菜緒にこれ似合うと思って買ったら、急に菜緒に会いたくなっちゃって」
萌ちゃんは、「いま塗ってみてもいい?」と言って笑った。
ベッドの上で体育座りした私の足の上に覆いかぶさるようにして、萌ちゃんは私の爪に色を塗ってゆく。手のほうに塗ると、学校で怒られてしまうからという理由で、ペディキュアになった。時折、萌ちゃんの髪が私の足の甲の上を流れて、くすぐったい。萌ちゃんが選んでくれた深い深い青色は、私の爪先からゆっくりと空気に溶けだして、部屋の中をさらに青く染めてゆくようだった。私の足も、部屋の壁も、萌ちゃんの白いブラウスも、白くて細い指先も、全部がとろとろと青色に溶け合うこの部屋でひとつになってゆく。私はこの時間がずっと続けばいいのに、と泣きたくなるほど強く願った。
「でも、ほんと、急にどうしたの?」
私はわざと茶化すように言った。
「んー、菜緒にはさ、いろいろお世話になったから」
私が「お世話?」と笑うと、萌ちゃんは「うん」と目元をほころばせた。
「私さ、人を好きになるとか、それを応援してもらうとか、なんとなく自分には無縁のことだと思ってたんだけど、菜緒のおかげでなんか頑張れた気がする」
萌ちゃんはペディキュアを塗る手を止めて、私をまっすぐに見た。萌ちゃんの目は相変わらず静かな湖のように澄んでいる。
「だから、友達になってくれてありがとう」
そう言って、萌ちゃんはにっこりと笑った。私は胸がいっぱいで何も言えなかった。黙ったままの私を見て、萌ちゃんは「最初は強引すぎてちょっと引いたけどね」とからかうように言った。
左足の爪を塗り終えた萌ちゃんが、右足の爪を塗り始めると同時に、俯いたまま、
「それでね」
と言った。もじもじと言いよどむ萌ちゃんの表情に、胸がざわざわした。
「明日、湊先輩に告白しようと思う」
萌ちゃんは呟くように小さな声で言った。私は一気に胸が圧し潰されたように息が苦しくなった。何か言わなきゃって思うのに、息を吸うことすらままならない。手足が一気に冷たくなって、ぼろぼろと世界が崩れ落ちていくような感覚。目の前が真っ暗になって、咄嗟に足を引いた。私の爪に塗られるはずだった青色が、ぼとりと布団カバーの上に落ちて、萌ちゃんは「あっ」と小さく悲鳴を上げた。萌ちゃんは、私には一瞥もくれず、ティッシュで布団カバーを拭いながら、「もーいきなりどうしたの?」と唇を尖らせて不満げな声を漏らす。萌ちゃんは私の気持ちなんてこれっぽちも分かってない。私が押し黙っていると、ようやく異変を察知したのか、萌ちゃんは私をまっすぐ見つめた。
「どうしたの?」
今度の萌ちゃんの声は、緊迫した響きがあった。
「萌ちゃんは……わかんないんだよ」
私は震える声を必死に押し出した。
「え……?」
萌ちゃんの目が私を見つめて不安げに揺れた。私は、唇を噛んで、今にも溢れ出そうな言葉を必死に飲み込む。俯いて耐える私に向かって、萌ちゃんが近づいてきた。「だめ!」と心の中で叫ぶ。声にならない声が涙となって身体から零れ出す。今、萌ちゃんに触れられたら、私は……
私の必死の願いも虚しく、萌ちゃんは私をやさしく抱きしめて「ごめんね」と言った。萌ちゃんの華奢な肩や体温に触れて、私の理性は音を立てて崩れてゆく。私はもうすっかり感情を押さえられなくなって、萌ちゃんを力いっぱい突き飛ばした。
バランスを崩した萌ちゃんは、ベッドから落ちて、背中を思い切り床に打ち付けた。けれど、萌ちゃんは痛がるそぶりもなく、ただ茫然とわたしの目を見つめていた。
「ほら! 萌ちゃんは人の痛みがわかんないから、人の気持ちもわかんないんだよ!」
私はとうとう、必死に我慢していたはず言葉を叫んでしまう。萌ちゃんの顔からさっと表情が消えたのがわかった。私は、いま、萌ちゃんに一番言ってはいけないことを言ってしまった。頭の片隅ではちゃんとわかっているのに、今すぐやめなきゃって思っているのに、私の意識は簡単に、ぐらぐらと煮えたぎる濁流のような感情に流されてしまう。
「だって、いきなり明日告白ってなに? 萌ちゃんが、湊先輩とちゃんと話すようになってまだ一カ月も経ってないじゃん。それなのに、なんでも知ってますみたいな顔して、好きですなんて言われて、湊先輩が喜ぶと思ってんの?」
私が捲し立てると、萌ちゃんの燃えるような目からぼろぼろと涙が溢れ出した。私は、初めて見る萌ちゃんの涙に動揺して、ふいに我にかえった。咄嗟に駆け寄って、萌ちゃんの涙を拭いながら、ぐるぐるとまとまらない思考の中から必死に言葉をかき集める。
「それに、湊先輩だってまだ萌ちゃんのこと何にも分かってないよ。萌ちゃんだって、それでもし両思いだったとしても嬉しいの?……だけど、私は萌ちゃんのことちゃんとわかってるんだよ。だから」
部屋に、ぱんっという乾いた音が響いて、左の頬が急に熱を帯びた。
「だから、なに? 人の気持ちわかってないのは菜緒のほうだよ」
萌ちゃんの怒気を孕んだ声に、私はようやく、萌ちゃんにぶたれたことを理解した。萌ちゃんは、立ち上がって私の勉強机の方へ向かうと、ペン立てからカッターを取り出した。そして、私の目の前で、手のひらの蟲に刃を深々と突き立てると、そのまま自分の手のひらごと一直線に切り裂いた。萌ちゃんの手のひらから、ぼたぼたと血が零れて床に落ちてゆく。私は、茫然と萌ちゃんを見上げた。
「私、痛みがないの。感覚がないの。知ってたんでしょ? なのに、なんで私と〈共鳴〉なんてバカみたいなこと言い出したの? 私への嫌がらせ? 友達っていうのも嘘?」
萌ちゃんは手のひらから血を溢れさせながら、大声で捲し立てた。私は、ただ、俯いて「違う、違う」と頭を振ることしかできない。夕闇に呑まれてゆく部屋はしんと静まり返って、ぽたぽたと床に落ちる萌ちゃんの血の音だけがやけに大きく聞こえた。
窓の外で、やけに間延びした夕焼け小焼けのチャイムが鳴り始めた。その音に、私たちは急に現実に引き戻された。萌ちゃんは「菜緒のこと、信じてたのに」と絞り出すように言って、部屋から出て行った。
萌ちゃんが出て行ってから、堰を切ったように涙が溢れ出した。私は思い切り大声で子どものように泣いた。ジンジンと熱を持つ頬の感覚が、遠い記憶を呼び起こす。あのときも、薔薇の植え込みに頭から突っ込んで、擦り傷だらけになった頬が燃えるように熱かった。自分が傷つくのも厭わず私を助けてくれた小さな萌ちゃんのやさしい手の感触は今でも覚えている。
私は、ただ、あの日からずっと、萌ちゃんの友達になりたかった。小学校の頃に叶えられなかったその夢を中学で叶えたくて、必死に受験勉強して萌ちゃんと同じ中学校に合格した。部活だって、萌ちゃんを追いかけてバトミントン部に入った。萌ちゃんが湊先輩のことを好きなのは、見ていればすぐにわかったし、萌ちゃんの感覚のことも、もし、私にかつて萌ちゃんに助けてもらった経験がなくても、毎日萌ちゃんのことを注意深く観察していれば、痛みを持っていないのはわかっただろう、という傲慢な気持ちがあった。私はただ、萌ちゃんのことを一方的に見続けていただけなのに。
けれど、萌ちゃんと友達になれたときは本当に夢のようで、心の底から、ただ、萌ちゃんのそばにいられればいいと思った。一緒にいて、萌ちゃんが笑ってくれれば十分だった。なのに、いつの間にか、私の中で萌ちゃんに対する「好き」という気持ちや仄暗い独占欲が、抑えきれないほど大きく育ってしまっていた。私には、湊先輩に嫉妬する資格がないことくらい初めからわかっていたのに。私は、私のエゴのために萌ちゃんを傷つけた。涙と一緒にただひたすらに後悔の念がぼたぼたとこぼれ落ちてゆく。
私は、萌ちゃんがそうしたように、カッターの刃を蟲に深く突き立てた。そして、ゆっくりゆっくりと、少しでも痛みが長引くように手のひらを切り裂いてゆく。蟲の透明な身体が私の血と混ざりあって、みるみる赤く染まっていった。〈共鳴〉能力のない偽物の蟲は、誰とも痛みを分かち合うことなく、私の手のひらの上で死んだ。
蟲の〈共鳴〉能力には個体差があって、私が用意したのは全く〈共鳴〉できない蟲だった。萌ちゃんが痛みを持たないことを知っていたし、私は萌ちゃんと痛みを共有したかったんじゃなくて、ただ、私の痛みに手を伸ばしてほしかっただけだったから。
手のひらから蟲を引きはがし終わると、私は窓を開けた。いつの間にか外はすっかり日が落ちている。窓から流れ込む藍色の空気は、ねっとりとした濃い雨の匂いがした。切り裂いた手のひらが燃えるように熱い。私には、ただその感覚だけが確かに感じられた。
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