梗 概
努力の結晶
結晶が足りないというのは、努力が足りないというのと同義である。
「田崎さんのは随分小さいね」
人事考課の面談で、上司の井上が困った顔をした。田崎の結晶は、指輪にできる程度の小さいものだった。努力の結晶は体内で作られ、年に一度の健康診断の際に取り出してもらう。人事評価はほとんど結晶の大きさで決まる。評価シートでは田崎は五段階中二という評価だった。田崎の企画に対する評価によって辛うじて最低評価ではないだけで、努力の評価はほぼゼロだろう。評価は薄々分かっていたので落ち込みはしないが、内心不服だった。
結晶は努力の大きさを測るだけなので、結果に必ずしも直結するわけではない。成果は申し分ないのに業務をそつなくこなしすぎて評価が低くなるのは、特殊な会社であっても、どうかと思っている。正直自分とこの会社が合っている思わないので、転職しようかと考えているぐらいだった。
井上の前に置いてあるのは、体を壊しそうなぐらい巨大だ。偽物にすら見える。これだけ大きくするためには並々ならぬ努力が必要だが、今年中途採用で入ってきた井上の仕事量は凄まじい。残業も多くしていたし、他の人からの仕事も積極的に手伝っているらしく、井上がいないオフィスを見たことがない。一方、成果からいえばそこまで抜きん出たものではなかった。通常業務については努力が空回りしていても、大きい結晶を作り出せるのだから、田崎よりも評価は高いだろう。面談は大した収穫もなく、慰めなのか結晶がコーポレートカラーで真面目だねと言われて終わった。
一応写真撮らせて、と井上が田崎にカメラを向ける。努力の結晶を販売している会社なので、従業員の結晶はもれなく商品として売り出される。私が作りました、と写真付きで売り出すと購入率が上がるので、任意ではあるもののほとんど全員が撮影していた。結晶の売値はボーナスにも関わってくるので、写真撮影を張り切る人も多い。ただ、田崎は写真を断った。どうせバラ売りでは売れないし、売れたとしてもなんの足しにもならない。売り物にならないのなら、結晶を返して欲しかった。ただ、井上は首を縦に振らなかった。
去年の人事考課で、宝石を努力だと偽って持って来た人がいて、今年は精密検査をするらしい。井上は前職では鑑定士だったことを明かす。田崎は全身から汗が吹き出てくるのを感じた。実は田崎の努力はあまりにも少なすぎて結晶になる前に排出されてしまった。健康診断では結晶が見当たらなかったのだが、それだと恥ずかしいので自分に見合った小さい宝石を探して提出した。井上もおそらく気がついているのだと思う。
「努力を金で買おうなんて、最低だよね」
井上はそう吐き捨てて去っていった。これからどうなるのだろうという不安に押し潰されながら、田崎はミーティングルームで立ち尽くしていた。
文字数:1165
内容に関するアピール
努力という定性的なものを結晶として出すことで定量化したのに、結局売り物になって他者から値踏みされたり、自己評価を元に偽物を提出することが横行していたりで、絶対的な基準にはなり得ない、というようなお話を書きました。努力の結晶は誰でもできますが、人の結晶を集めるのが好きなマニアがいるので、ビジネスとしても成り立っているということにして書いていきたいと思います。前にテレビで、尿管結石があまりにも痛くて、取り出したものを持って帰って大事にしているという芸能人がいたのを思い出して書きました。
文字数:243
努力の結晶
「田崎くんのは随分……」
井上さんは目を細めた。なんとかして言葉を探しているのだろう。席は近いけど違う部署の先輩で、ほとんど話したことがない。その先の言葉を見極めるように、田崎はじっと井上さんの手元を見た。ペン先を出したまま付箋を叩いているせいで、付箋にミミズのような線がどんどん描かれている。
無理しなくてもいいのにと思う反面、慎重になるのもうなずける。最近は結晶の出来について言いすぎるとパワハラに当たるので、努力の結晶の評価については言葉を選ぶようにと上から言われているのだろう。田崎としては今更配慮されたところで、と思わなくはなかった。
指輪にちょこんと載せられる程度の小さな努力の結晶は、どこかに転がってなくしてしまわないようにティッシュの上に載せられている。田崎が事前に提出したもので、すでに人事部によって計量され、評価に組み込まれている。
秋口だというのに、ミーティングルームは体の芯から冷えそうになるぐらいに冷房が効いていた。田崎はジャケットを着ているぐらいなのに、井上さんの額にはじんわりと汗が滲んでいる。井上さんは田崎の努力の結晶を時間をかけて眺めた後、綺麗だけど小さいねと申し訳なさそうに言った。見れば分かる。田崎は唇の端に力を入れた。
「宝石みたいで綺麗だけどね。ここまで小さいと、今までなかなか大変だったでしょう」
田崎は変に井上さんの言葉に反応しないよう、さらに唇を噛み締めた。緊張していると思われたのか、井上さんは力を抜くようにと肩を回す仕草をして、事前に用意されている評価シートを渡してくれた。五段階中の二。田崎が進めていたプロジェクトが軌道に乗ったぶんだけが評価されている。
「そうですね。まぁ取り出す時は簡単だから楽ですよ。それにいつもこのぐらいの評価です。社会人向いてないなって思います」
宝石は健康診断の時に、取り出してもらうことが多い。田崎を担当した医者はびっくりしていた。田崎のようなケースは本当にレアだと、近くにいた看護師たちも集まってきたぐらいだった。
想像していた反応と違ったのか、井上さんはいろんな感情が折り混ざっているような、なんとも言えない顔をしている。田崎は井上さんが言葉を消化してくれるのを待った。社会人に向いてないのは事実なので、失言とは思わない。やることはやっているのに低い評価をするなら、多少の自虐も許して欲しい。人事考課の面談といっても、評価は事前に提出しておいた結晶と自分自身の業績で決まるので、面談では覆されない。それを利用しただけだ。
「企画部の人たちから話聞いたんだけどね、田崎くんすごいできるんだって? みんなもったいないって言ってたよ」
この言葉も耳にタコができるぐらい聞いた。世の中、努力を気持ちの問題だと思っている人があまりにも多すぎる。田崎はため息にならないように、なるべく細く息を吐いた。
自分の努力の結晶がとても小さいからなんとかしろというのは、幼い頃から言われ続けてきた。別にサボっている訳ではない。宿題だってちゃんとやっているし、テストの点数だってトップに入るぐらいにはいい成績を残していた。それなのにほとんど褒められることはなく、大概注意された。
「田崎くんは要領がいいんだから。頑張ればもっと上にいけると思うよ。頑張れないって、大人になってからすごく苦労するんだからね」
学校の先生はそう言った次に、平均点にも満たない生徒を平気で褒めた。岩のような結晶を持つ生徒には特別甘い。結晶は常に誇らしげに机の上に置いてあって、その机を通るときは石を撫でていった。
今回は平均点に届かなかったかもしれないけど、きちんと努力をしたんだね。そういうコツコツとした日々の取り組みがいつか実を結ぶものだから、落ち込まないでこれからも結晶をどんどん大きくし続けてね。
そう言う先生たちは決まって満面の笑みを浮かべた。それを真に受けてくすぐったそうにしている生徒を見ると、田崎はいつも舌打ちしたくなった。やる気を失わせないためにそう言っているのは頭では理解できる。努力の結晶が大きい生徒ほど可愛くて構いたくなるのかもしれない。けれど、田崎は別にまぐれで点数や成績が良かった訳ではない。最低限の努力で最大限のパフォーマンスをしていただけだ。それなのに出来の悪い生徒ばかりを褒めて見向きもしない大人に対して、ふつふつと湧き上がってくるものがあった。そうやって褒められ育ってきた同級生たちは今、大企業のエリートサラリーマンとして活躍していることだろう。
田崎には努力をするという感覚はほとんどない。けれど怒りとか、嫉妬で結晶が作れるのだったら、確実に巨大なものが作れると思う。
学校はテストだけでなんとか切り抜けた。『関心・意欲・態度』はほとんどの教科で悪く、他の項目で成績を保っていた。入試は点数だけ取れればいい。田崎が一番輝いていたのは、高校や大学入試の対策をするようになり、皆が努力の結晶が大体同じくらいの大きさで成長するようになる中三や高三の時期かもしれない。皆、田崎の小さいままの努力の結晶には目もくれなかった。
一番大変だったのは就活の時だ。学生時代頑張ったことは何か? という問いと共に、直近一年以内で最大の結晶の提出を求められる。就活で落ち続けるので多少の努力をしたけど、その結晶はカウントされない。就活期間で作られた努力の結晶——実際はかなりしっかり鑑定しないとどの時の努力の結晶かは分からないものの——は含めないとするところが多かった。田崎のように小さな結晶だと、一次面接でほとんど落ちた。
だから田崎がこの会社に入れたのは、ほとんど奇跡のようなものだ。珍しく努力の結晶を全く問われなかったので、面接ではなんとか誤魔化せた。すでに何社も落とされていたから、採用通知が来た時は心から安心した。ただ蓋を開けてみれば、田崎が就活した年だけ結晶を加味せずに人を雇ってみようという試みがあったというだけで、他社と変わらず努力の結晶が評価対象になる。
努力の結晶は、人としての最低限のスキルとして扱われるので、転職をしたところで解決するものでもない。
ミーティングルームはガラス張りで、外の様子が丸見えだった。井上さんが何も言わないのをいいことに、人が通っていくのを目で追っていく。田崎は、自分が縮こまって評価を受け入れてしまうと、本当に悪いことをしているように見えるのが嫌だった。とはいえ、井上さんを不快にさせるつもりはない。
「一応アドバイスのための面談だから、ごめんね。我慢してね」
大きく首を横に振っても、井上さんはさらに縮こまるだけで、付箋をしきりにたたいている。エアコンの風で髪が時々揺れているのに、井上さんの頬は赤かった。気まずい空気を繕うため、田崎は机の上に置いてあるもう一つの結晶を指差した。
「井上さんの結晶は、すごい大きいですね」
ありがとう、と気恥ずかしそうに笑って、井上さんは結晶を田崎の手に載せた。ずっしりと重く、腹の中にあったら痛そうだなと思うほど大きい。乳白色で丸みを帯びているのが井上さんらしいと思う。人の結晶なのに、すごく手に馴染んだ。
「今年はね。ちょっと人が足りなかったりとかして、終わりの数ヶ月は特に頑張ったから大きいのが出来てたみたい」
そういえば、きちんと経費申請をしたのに、立て替えていたお金が戻ってきたのが数ヶ月後だったということがしばらく続いた。総務部は人の入れ替わりが激しかったし、人員削減もされたから、かなり苦労していたらしい。
実際井上さんは努力家だ。井上さんがいないオフィスを見たことがない。朝も早いし残業も遅くまでして、家でもできる仕事は持ち帰って土日に済ませている。たとえ井上さんは伝達ミスが多いのだとしても、その熱意には圧倒されるものがある。田崎よりもずっと評価は高いはずだ。ただミスを被って自分の首を締めているだけだとして、偉いなと手放しで褒めるのには抵抗がある。無駄な努力で大きくした結晶にどうしても意味を見出せなかった。
「健康診断の時、痛くなかったですか?」
笑顔は浮かべているものの、まだ月曜日とは思えないほど井上さんの顔から疲労が滲みでている。
「うーん、前職の時と比べるとそこまでって感じかな。前の会社は本当に絵に描いたようなブラック企業だったし。努力の結晶の鑑定士してたんだけど、もう自分のが一番すごいんじゃないかって思ったもん」
田崎は、艶やかな結晶を撫でた。医者の不養生のようなものだろうか。体に巨大な結晶を抱えながら、小さな結晶たちをちまちまと鑑定士ていく井上さんを想像すると少し頬が緩んだ。
「結晶が自動的に大きくなってくのね。だから三ヶ月ごとぐらいに病院行くべきところ、病院のやってる時間に抜けれなくて倒れたことあったなぁ。あの時の巨大な結晶は、もうなんか記念にしないとやってらんないと思って、うちの玄関に飾ってあるよ。魔除けにしてるんだ」
井上さんは写真を見せてくれた。思っていた以上にすごい。内臓を切り裂けそうなぐらい尖った結晶のクラスターは、見ているだけで胃が痛くなりそうだった。写真からでも伝わってくるような禍々しいオーラを感じる。
「これは……守ってくれそうですね」
田崎がそう言うと、井上さんが目を輝かせた。
「そうなのよ。うちって今度努力の結晶の企画やるでしょ? ブラック企業の社員さんたちから買い取った結晶のオークション。こういうメガトン級のやっばいやつが、沢山やってくると思うよ」
田崎たちの会社では、貴金属やブランド品の買取をしている。その一環として努力の結晶の買取も行っており、買い取ったものはオークション形式で愛好家たちへ売られていた。
自分の体内から取り出した結晶は、普通の人なら会社で廃棄してもらうか家に持って帰って捨てる。努力さえし続ければ体の中で勝手に作られるものなので、よっぽどのことがない限りは保存することもない。ただ、ものによっては一部の愛好家たちに人気があり、魔除け以外にも美術品として扱う人もいる。この会社に入ってから、痛んでいるブランドバッグやパーツの欠けた貴金属よりも努力の結晶の方がよっぽど高く売れることを知った。誰でも作れるからこそ努力の結晶というのは、想像がしやすく感動を呼ぶ。それこそブラック企業の社員が生み出す結晶のように、大きく鋭いものは時に百万単位で売れるので会社としても嬉しい。
「井上さんも鑑定されるんですよね」
「規模が大きいから駆り出される予定。腕が鈍ってないといいけどね」
井上さんの努力の結晶が大きいのは、無駄が多いからだけではない。他の人の仕事を引き取って仕事自体をどんどん増やしているのも、結晶が大きい要因になっている。
ふと田崎は企画について気になっていたことを思い出した。企画をしているチームは誰も気にしていないらしく、誰に言ってみても流されてしまうこと。井上さんだからこそ、言ってもいいんじゃないか? 田崎は一瞬躊躇ったものの、試しに尋ねてみることにした。
「うちの会社の買取の折込チラシなんですけど、あれのデザインというか、レイアウトをもう少し変えたほうがいいんじゃないですかね? チラシがとっつきやすくなれば、お客さんも気軽に査定にきてくれるんじゃないかと思うんです。それに今度の企画は努力の結晶なのに、小さくしか載せていないですよね? やはりおかしいんじゃないでしょうか?」
新聞の折り込みチラシは、黒の背景に安っぽい宝石や金歯、ブランドバックの写真が並べられており、一番端に努力の結晶が載せられている。『高価買取します!』と赤字で太く書かれているチラシを見て来るお客さんは果たしているのだろうかと疑わしい。とにかくゴテゴテしていてチープなチラシはなんとかした方がいいと常々思っていた。自分の会社ながら、絶対に買取に出そうとは思わない。
井上さんは急に険しい顔になり、頬がかっと赤くなった。話す相手を間違えた。努力型の人間は、最短距離のようなものに抵抗がある。努力そのものに意味があって、その方向がどこを向いていようと気にしない。田崎はそっと井上さんの結晶を机に戻した。ダメならダメと早く言って欲しかった。
しばらく考えこんだ後、その変更は必要かな? と井上さんが微笑んだ。
「チラシはあくまで、私たちの会社を広く知ってもらうために配ってるだけじゃない。実際の買取りに関する努力って、営業部の取り分になるでしょ? 他の部署の人がわざわざ変更を加える必要はない気がするけど」
「それはそうかもしれませんが、営業としてもデザインがきちんとしたチラシの方が配りやすいですし、相乗効果があると思います」
今度は即答だった。
「ごめんね。とにかくこちらからあまり強く言えないの」
でもメモには残しておくね。大事な意見だからね。井上さんは一枚付箋を剥がして、綺麗なところに懸念事項と書いた。付箋はこの後破り捨てられてしまうのかもしれない。わざわざ後から打ち込むのかもしれない。井上さんは達筆で、蛍光緑の紙の上で言葉がとても強い意志を持っているように見える。ここで説得してなんとかチラシを変えてもらう努力をしてもよかったけど、どうせ田崎が説得しても意味はない。そうですか、と言うだけに抑えて、事を荒立てないようにした。井上さんの額には大粒の汗が浮かんでいた。
「話それちゃったけど、面談しようか」
井上さんは手首をちらりと見て、バツが悪そうに壁にかかっている時計を見た。同期の佐藤から聞いていた仕草で、田崎は奥歯を噛み締めて思わず笑いそうになるのを堪える。腕時計をしているのは見たことないけど絶対に手首を見て時間を確認しようとすると、佐藤が前に真似していたのにそっくりだった。
面談の内容は毎年大きく変わらない。どうしたら努力の結晶が大きくなると思う? と問われて、田崎は考えるふりをした。新卒で入ってから聞かれ続けているから、今更答えに困るものでもない。相手によってどう答えるのかが適切かを見極めるのが大変だった。井上さんのように親身になってくれるタイプの場合、中途半端に隙を見せるとかえって煩わしいことになるのは経験として知っている。
「個人的にはやり方以前の問題だと思っています。努力が足りていないと昔からずっと言われ続けて来ているので、どちらかというと自分の性格のせいですかね」
薄く笑う。アドバイスをもらったところで取り入れられるものはない。はっきりと放っておいて欲しいと伝えて、早めに切り上げた方がいい。面談をする程度で何かとてもいい解決策が見つかるのであれば、田崎はとっくに人並みの大きさの結晶を提出している。すでに必要な結晶の提出は終えているし、評価ももらった。それより企画に向けて仕事に戻った方が建設的だと思う。今日の作業スケジュールはそこまでキツくないけど、できれば前倒して終わらせたい仕事がいくつかある。田崎はちらりと自分の結晶を見た。
「井上さんには申し訳ないですけど、大人になってから今更努力しようとしても、そんなに変わることはないようなきがします」
去年はここで場が凍りついて面談が終わったので簡単だったけど、井上さんの努力に対する熱意は想像以上だった。
「そんなことないよ。努力は必ず報われるよ」
励ましているようで、田崎を真っ向から否定しにかかっている。報われるのが結晶の大きさだけだとして、人並みの努力の結晶には付加価値などつかない。
「性格だって思い込んでるから、改善されないんじゃないかな? それこそもったいないよ。結晶さえ大きかったら評価180度変わるよ? もちろん結晶の大きさが理由で解雇ってことは絶対に起こらないけど、努力って誰でもできるじゃない。だから評価軸としてずっと使われているのね。一緒に働いてる佐藤くんとかにもよく言うんだけど、大きさ違うだけで本当に自分の中でのモチベーションとか変わってくるから」
捲し立ててくる井上さんから後ずさりして、距離を置きたい。腕にざぁっと鳥肌が立っていくのが分かった。聞いていたけど、やっぱり考え方が根本的に違う。
努力の結晶が加味されなかった影響か、田崎の同期たちは結晶が小さい。卒なくこなしすぎて、努力の結晶が小さいままの人も多い。今年は成績に関わらず同期全員が、努力の結晶を大きくするようにと人事考課で指摘されている。そういう指導方針に変更されるなんて、ハラスメントのまっしぐらなのによくやるよと、面談が終わるたびに話していた。
「仕事をしている中で努力してるって意識するタイミングを、定期的に作るといいよ。ほら、努力って認識しないと、身体が結晶を作らないじゃない。器用な人に多いみたいだから、田崎くんも当てはまるかもしれないね。実は努力してるのに、見逃されてるところもあったりするかも!」
「別にやっていない訳ではないんですが」
「じゃあ足りないんだよ」
急に冷ややかな声で突き放され、田崎は反射的に笑った。子どもの頃から、もっと頑張れというと勝手に微笑んでしまう。井上さんの目は全く笑っていない。そこに怒りの起爆スイッチがあったのに、気にせず踏み抜いてしまった。
「結果さえ出してればいいって思って舐めてるのかもしれないけど、少なくとも改善しないと。さっきチラシについて言ってくれたけど、田崎くんはやる気あるでしょ? 結晶自体もすごく綺麗じゃない。それがうまく伝わってないって悔しくないの?」
田崎は結晶が綺麗と言われて面食らった。去年と大体同じぐらいのサイズ感なので、何か指摘されたら田崎としては現状維持はできていると言い訳するつもりだった。大きさだけではなく結晶自体も観察されるとちょっとまずい。田崎は機械的にならないように気をつけながら、すみません、と頭を下げた。
「仕事はきちんとこなしてるので、別に困るようなことはしていないつもりでした。評価の付け方についても理解しているつもりですので、自分が納得していればいいものかと」
井上さんが大きなため息を吐く。エアコンがパキッと音を立てた。怒りを通り越して情けないと思っているのかもしれない。あるいは、井上さんのことだからまた何か仕事が増えるようなことを考えている可能性もゼロではない。それより、自分の結晶が気になる。次何を言われるのかと身構えていると、井上さんの顔に苦笑いが広がった。
「あなた達の代は、本当にそういう子が多いよねぇ。最近は誰でもそんな感じなの?」
絶対に屈しないように同期たちと面談前に考えておいてよかった。自分のような人間が社内にいるということも、田崎が強気でいられる理由の一つかもしれない。
「佐藤くんにもさぁ、ずっと言い聞かせてるけど、全然やる気出さないもん」
「佐藤はまた別です。あいつは自分よりひどいかもしれないですね」
いつもヘラヘラとしている佐藤は、努力の結晶も小さいが、仕事もできない。そういう人間はきちんと努力した方がいいと、もっと強く言っても構わないと思う。
余談だけど、と井上さんはポケットからピンク色の錠剤を出した。カプサイシンが入っている発汗作用のある薬で、ダイエットによく使われる。
「汗をたくさん掻くと身体が努力してるって勘違いして、結晶が大きくなるよ。結晶が小さいと上がめちゃくちゃキレるから、前職の時に飲み始めたんだけど、結構変わるよ」
汗を掻けば結晶が大きくなるというのは、まことしやかに囁かれる民間療法かと思っていた。井上さんが今でも使っているのであれば、あの大きな結晶は、薬を飲んで成長したものだ。あそこまで大きくならなくても、人並みの努力の結晶が体内から出てきたら面談でとやかく言われることもなくなる。井上さんが暑いねぇと言って額を拭った。この部屋の温度設定は薬のせいだろう。
井上さんは付箋に何か書き込むと、一枚剥がして机に貼り付けた。
「今度の企画は社内からも出すけど、田崎くんの同期は誰か出るんだっけ?」
「海道ですかね。この間、写真撮影に行ってきました」
海道は、同期の中では珍しく努力の結晶が大きい。自ら根っからの体育会系と豪語していて、趣味は筋トレ。握り拳ぐらいの真紅の結晶は透明度も高く、遠くから見ると巨大なルビーにも見える。今年のオークションで結晶が売れたらプロポーズをすると言って、余計に気合を入れてトレーニングしたらしい。マニアに受けそうな結晶だから、いい値段で売れる気がする。
オークションに出品する従業員の結晶は、面談後にそのまま出品準備が始まる。結晶はより詳しい検査をされて、スタート価格を付ける作業に入る。今年は総務部はもちろん、他の部署でもいろいろと難航したプロジェクトがあるので、良いクオリティの結晶が集まっていると聞いた。うちの会社が行うオークションでは努力の結晶の隣に顔写真が置かれる。フォトスタジオで写真を撮るのも出品者の仕事だ。『私が作りました!』とわざわざ顔を見せる下世話な感じがするが、誰がどう努力したのかという作り手側の思いが知れるのが好評だった。
「海道くんの売れるといいね」
「写真にかなりこだわってたので、なんとか売れて欲しいですね」
写真館で何枚も白い歯を見せながらポーズを取り続ける海道にはうんざりした。何度もアングルを変えて撮り続けた写真は、正直どれも大差ない。
それでね、と井上さんが付箋に大きく丸を描いた。
「田崎くんの結晶も出してみない?」
え? と思わず声が漏れる。空調を強にしたら吹き飛びそうなぐらいに小さい結晶を出しても出品対象になるなんて聞いてない。だから去年と同じサイズにしたのに。
田崎の努力の結晶は、努力ではできていない。ただオレンジ色の小さい宝石を持ってきただけだ。健康診断では努力の結晶は小さすぎて出てこなかった。
「自分のは、出品しても売れないと思いますけど」
医者はおそらく普段の排出の際に出て行ってしまったのだろうと言っていた。周囲の人間を全員呼んできたくせに、気の毒そうにこちらを伺う顔は今もありありと思い出せる。流石に提出するものが全くないと困るので、苦肉の策として宝石を出した。
「小さいけど綺麗だし、指輪とかにできるんじゃない? ほら、オレンジってうちのコーポレートカラーだし、説明書き次第では売れる気がするよ」
完全に忘れていた。田崎は心の中で頭を抱えた。
「いや、そういうことではなく……」
明らかに動揺している田崎を励ますように、井上さんの声は明るかった。
「私、田崎くんには努力した結果どうなるっていう成功体験が必要な気がするんだよね。こんな風にたくさん話したことなかったけど、今日話して確信した。もっと努力を大きくしようってモチベーションが必要だよ」
全身から冷や汗が吹き出てくる。田崎が出品を拒めば拒むほど、謙遜だと思われてしまう負のサイクルに嵌ってしまった。何度か口を開いても、唾を飲み込むことしかできない。田崎は時間をかけて言葉を絞り出した。
「とりあえず、持って帰っていいですか?」
「あ、ダメなの。もう少し預からせて。今年から出品者だけじゃなくて従業員全員の結晶を精密検査することになったから」
喉が不自然なぐらい大きく鳴った。ティッシュに載っている小さい宝石は、今や田崎をクビにできる力を持っている。
「なんか、宝石買って努力の結晶って提出した人がいたらしくて、一応ちゃんと見るみたい。努力を金で買おうなんて、最低だよね。バカだよね」
井上さんは手袋をして、宝石をケースに入れた。もうすでにバレているんだったら、ここで土下座した方がいいんだろうか。頭をかすめた考えを振り切って、田崎は白を切ることにした。
「婚約指輪に使おうと思ってるんです」
「え? 恋人いるの?」
普段ならムッとしていただろうけど、田崎の頭はそれどころではなかった。います、と断言する。声の調整がとっさにできなくて思ったよりも大きい声だったらしい。オフィスにいる何人かが振り返った。
「実はずっと付き合っている人がいるんです。幼なじみなんですけど、努力が小さいからって昔から馬鹿にされてた自分を時に庇い時に励ましてくれた人で、紆余曲折あり付き合い始めて、相手のご両親にはかなり反対されつつもなんとか説得しました。それで、ようやく婚約しようとしているところです」
今まで見てきた恋愛ものの漫画、小説、ドラマの断片を組み合わせたあらすじのようで、自分の話ながら鼻で笑いたくなる。上手いこと嘘を吐く努力でもしておけば、今年一年かなり大きな結晶が手に入ったかもしれない。
田崎はただ、井上さんの掌の上でふんぞりかえっていただけだった。努力は無駄と大口叩いていた手前恥ずかしい。いっそ堂々と何も出さなければよかったのに、評価がこれ以上低くなるのが怖くてできなかった。田崎は耳や首元までじわじわと赤くなっていくのを感じた。
井上さんは憐むような目を向けてきたけど、何も言わなかった。宝石を持ってミーティングルームを退出する井上さんを、田崎は茫然としながら見送った。
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