梗 概
胎樹
七度目の体外受精が失敗したとき、私たち夫婦は疲弊しきっていた。結婚して一五年、私が妊娠できないと分かったときの義母の眼差しや夫の溜息を思い出すと激しい動機に襲われた。
大学で人類学を教える私は、恩師から気晴らしを兼ねたフィールドワークに誘われる。眉唾だが、山陰地方の山奥に現代まで外界と隔絶された村が存在しているのだという。恩師は私に、撮影日に半世紀以上の隔たりがある二枚の写真を見せた。二枚の写真には全く同じ姿の人間が映っていた。
「彼らは不老不死かもしれない」
大真面目に言った恩師を内心鼻で笑ったが、私は調査に同行することにした。世界と隔たれたその集落なら、私は私の人生をやり直せるかもしれないと思った。
道中、嵐により車が山道で立ち往生する。進学のために子供を堕ろした日も嵐だった。私が子供を孕めなくなったのはその罰だった。
やがて車が横転し、私たちは崖下へ落ちていく。私はひっくり返る天地のなかで、いないはずの赤ちゃんを必死で抱き寄せていた。
目を覚ました私は、死んでいた恩師を諦めて山のなかを夜通し進んだ。やがて虹の架かる空の下で、枝葉のない木が墓標のように並ぶ場所に出る。私は集まってきた人々に連行され、村の牢に入れられた。
ある夜、村民が揃って松明を手に出かけていった。儀式めいた様子に私は興奮し、彼らの後をつけた。その気になれば脱獄は難しくなかった。
向かった先は例の奇妙な木が生える場所だった。彼らは木の前に裸で立ち、引き裂いた手のひらから流れる血を木に注ぐ。彼らの体にはあらゆる性的な特徴がなく、特に性器が退化していた。別の木では巨大な蕾が月明りを受けて開き始める。花のなかから赤ん坊が生まれ、産声を上げた。
私は村民が帰るのを朝まで待った。まだ小さな蕾を強引に開くと、なかから羊水が溢れ、未成熟な胎児が現れた。彼らは不老不死ではなく、この木を使って子を為しているのだと私は推測した。
私は木に血を注ぐ。しかし脱獄に気づいた村民たちが私を取り押さえようと戻ってくる。私は抵抗の末、彼らのうち一人を殺してしまう。私は再び捕らえられたが、間もなくして村の一員として迎え入れられた。どうやら私が殺した成員の補充のようだった。到底理解できない価値観だが、そんなことは些事だった。
私は手に入れた子供を今度こそ守らなければいけなかった。
十月十日が経った。
やがて月明りが降り注ぎ、蕾がゆっくりと花開く。
待ち望み続けた産声が響く。
私は用済みの木に火を点けた。
†
私は幸せだ。
娘は今年で八歳になる。
「同じ顔だね」
私が小さい頃のアルバムを見ながら娘が言う。ただ似ているのではない。私たちの顔には全く同じ形をした生まれつきの痣があった。娘は私であり、私は娘だった。
当然だと、私は娘を抱きしめる。
私は娘を正しく導く。そうすることでようやく、私は私の人生をやり直すことができるのだから。
文字数:1199
内容に関するアピール
恥の多い生涯を送ってきたので、それなりに年を取った今、子を為し育てることを畏れ多く思います。
世の中のパパとママには果てのない偉大さを感じる一方で、その厚顔無恥を信じがたく思ったりもします。親という存在も子供という存在も、正直なところ異星人より遠く感じるし、悪魔よりも遥かに恐ろしいです。
ただの臆病かもしれません。
子供が欲しいとか、赤ちゃんかわいいとかいう感情の在り処を探していたら、こんな話に辿り着きました。
文字数:204
胎樹
長い髪を後ろで一つに束ねた医師が首を横に振って、私たちは小さく息を呑んだ。医師はかたちのいい唇を歪めながら口のなかで、残念ですが、と言った。最後まで言わないのはたぶん同情だった。私は目に力を込めていた。開いたラップトップの隣りには、二人の息子と映っている写真がナチュラルカラーの可愛らしい写真立てに入って飾られている。
「諦めずに頑張りましょう」
医師の声がやけに耳元で聞こえた気がした。唇は消えかけた月みたいに細く引き絞られていた。目はほんの少しだけ潤み、生気のない私たちを映していた。私にはあなたの苦しみがよく分かると言われている気分になった。二人の子供に挟まれて笑顔を溢すような人間に、私の気持ちが分かるはずがなかった。
「疲れたな」
ふと呟かれた声は私の気持ちそのものだった。けれどそれは隣りに座っている夫の呟きだった。
私は夫を見た。それは代弁者である夫を頼もしいと思う気持ちでもあり、疲れたと口に出した夫の心理を測ろうとする視線でもあった。
「もういいよ。限界だ」
そして夫は溜息を吐いた。私をわずかに見下ろしながら、はぁと深い溜息を吐いた。
「ごめんなさい」
口を突いて出た言葉は、夫に向けたものなのか、医師に向けたものなのか分からなかった。あるいはまだ見ぬ、そしてもう出会うことの叶わない赤ちゃんへと向けられたものなのかもしれなかった。
ごめんなさい。出来損ないの妻でごめんなさい。母親になれなくてごめんなさい。あなたを出迎えてあげることができなくてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
呟いた言葉はかたく鋭くかたちを変えて、いつまでも診察室のなかを跳ね回っている。壁にぶつかるたびに私へと跳ね返って、鞭のように私のからだを痛めつけていく。
ごめんなさい。
何度もからだに打ち据えられ、骨肉の芯にまで刻みつけられた言葉をもう一度絞り出す。けれど残り滓のような声は、もう一度吐きだされた夫の溜息で遮られた。私は息を殺してじっと固まった。吐いた息は見えなかった。けれど確かにそこにあって、濁った澱のように私たちのあいだに積もっていた。
やがて夫は小さく会釈をして診察室から出て行った。医師が呼び止めたが無駄だった。距離を置いて頭のなかを整理する時間が必要だったのだろう。だから私も彼を追いかけたりはしなかった。正しくは、立ち上がる気力さえなかった。
体外受精の失敗は、これで七度目だった。とっくの昔に心もからだも、私たちの関係も限界だった。
それから間もなく、私たち夫婦は子供をつくることも、家族でいることも諦めた。
1
夫と別れてから半年が経った。まがりなりにも一五年連れ添った私たちの関係が終わっていくのは、驚くほどにあっという間だった。
もう産まなくてはいけない子供のことに悩まなくてもいいのだと、夫の溜息や苛立ち、義母の冷たい眼差しや嫌味から解放されるのだと思うと深くて穏やかな安堵があった。
だけど結局はそれも束の間だった。独りで生きること。女としての欠陥を抱えていくこと。本当は、多くの人がそうであるように愛する我が子を腕に抱きたかったこと。それらは心にできた癌細胞のように、私を蝕んだ。逃れるためには落ちるしかなかった。より深く、より穏やかな水底を求めて、落ちていくしかなかった。
私は温くなったマリブコークをかき混ぜる。ちょうどよい酩酊だった。このままどこまで沈んでいけそうな気がして、深い溜息を吐く。
「あらやだ、すっごい溜息」
顔を上げると、カウンター越しにグラスを磨いているキャシーがいた。けつあごにいかにもかつらっぽいブロンドのロングヘア。目の周りは紫色のアイシャドウが塗ってあり、胸元の開いたドレスからは鍛えられた胸板が覗く。
「そんなに溜息ばっか吐いてちゃ、来る幸せだって逃げてくわよ」
「逃げるも何も、幸せには私なんて見えてないよ」
「やだやだ。そういえばさ、この前の記事、読んだわよ。もっと可愛く撮ってくれくちゃ。あれじゃ女装したモアイ像みたいじゃない」
「かなり実物に近いと思うけど」
「うっわ、ひっどいわ」
私は主にオカルトを扱うウェブマガジンでライターをしている。元は女性誌の記者だったけど、雑誌不況のあおりを受けて廃刊になるや今の編集部へと飛ばされた。かつて多様化する女の生き方を伝えていた私は、今はオカルトウェブマガジンで右から左に流れていくだけの与太話を書いている。キャシーが言うのは、つい先月に〈東京の魔窟〉という特集でこの店を取り上げたときのことだ。
「はい、どうぞ」
キャシーが私の前に燻製チーズを盛り付けた皿を置いた。
「いや、頼んでないけど」
「景気づけよ。サービスしてあげる。そんな辛気臭い顔でカウンター座られちゃ、私のやる気が出ないもの。それに好きだったでしょ?」
キャシーとは大学の同期だった。私が結婚して以来、疎遠になってしまっていたけれど、離婚して私が彼女の店に入り浸るようになると、学生のときと変わらない気安さで受け入れてくれた。私が今こうしてなんとか生きているのは、大げさではなくキャシーのおかげかもしれない。
「辛気臭いと言えばさ、こないだ面白い話聞いたのよ。聞きたい?」
「話したいの間違いでしょ。聞いてあげる」
「出世して前みたいな女性誌に戻りたいんでしょー? いいチャンスになるかも」
「まあ、そりゃそうなんだけど」
四〇手前にもなって一ライターでしかない私に、出世の可能性が残されているとは思えなかった。もともと子供ができたら会社を辞めるつもりだった私は、仕事にもその程度の情熱しか傾けていなかった。子供ができなかったことが、何もかもを狂わせていた。
キャシーは、じゃあ話してあげる、と得意気に言ってからチーズを口に放った。
「先週くらい、だったかな。初めましてのお客さんが来てね。けっこう酔ってたから心配で、気にかけてたの」
「好みの顔だった?」
「そうなのよ、キンプリの廉くんみたいな――ってそうじゃなくて、ちゃんと聞きなさいよ、もう。えーっと、それでね、そのお客さん、急に、俺は木から産まれたんだって、大声で話し始めたの」
「へぇー、かぐや姫じゃあるまいし」
「そうなのよ。あたしも同じこと言ったわ」
キャシーと同じ感性なのが少し虚しくなる。私は燻製チーズを前歯でかじる。
「そうしたらさ、彼は俺は月には帰れない、俺の村ではみんなそうなんだって泣き出しちゃって。さすがに他のお客さんもドン引きだったからね。慰めてあげたの。それで、泣き止んだあと、財布にしまってあった写真を見せてくれたのよ」
キャシーはそこで言葉を切った。私をじっと見ている。彼女はたぶんここで、写真? とか、一体何の? とかそういう反応を私に求めていた。だから私は要望通りに「写真?」と訊いて先を促す。
「家族写真。おばあちゃんとお母さんとその人と弟さんの四人が写ってる写真」
「普通の写真じゃない」
その写真に写るおばあちゃんもお母さんもちゃんと子供を産めたんだな、と私は思った。
「それが普通じゃないのよ、その写真。裏に昭和一九年って書いてあったの、ほらこれ。彼が忘れていったの」
キャシーは興奮気味に声を張って、カウンターの上に写真を置いた。四つに折り畳まれていた線が十字に入っている写真はセピア色に変色したモノクロで、アイドルみたいだったという青年は軍服を着こんでいた。たしかに裏側には〈昭和一九年二月 百塚村〉と掠れた文字で書いてある。
「本当にこの人だったの? 単におじいちゃん似ってだけじゃないの?」
「ううん、そっくりなんてもんじゃないわよ。ほら、鼻の左下にほくろあるでしょ。そこの席に座ってた彼にも、全くおんなじところにおんなじほくろがあったんだから」
ただの偶然と言いかけたけど、前のめりになったキャシーがそれを遮る。アイシャドウのラメと相まって楽しげに光る目は少年、もとい少女のそれだ。
「それでね、あたし、この百塚村っていうの調べてみたの。岡山県にある小さな村なんだけど、ほら、岡山って桃太郎の発祥でしょ? この百塚村は桃太郎のお墓を守るためにできた村とか、桃太郎が倒した百匹の鬼の墓と一緒に作られた村とか言われてるのよ。面白いと思わない?」
正直まったく面白いとは思わない。私はマリブコークを飲み干す。
「それで、あたしなりに予想を立ててみたの。百塚村の住民は、みんな不老不死なんじゃないかって。だから写真の人と彼、そっくりだったのよ。鬼の生き血を飲んだことで、永遠の命を得たのよ、たぶん」
「なんで墓と一緒にできた村の人たちが鬼の生き血を飲めるのよ」
「細かいことはいいじゃない。ね、あんた専門家でしょう? ちょっと調べてきてよ。気分転換の旅行にもなるじゃない?」
「専門家じゃないし、絶対いや。自分で行きなよ」
「だめよ。あたしはお店あるもの。この都会のオアシスを閉めるわけにはいかないの」
「魔窟の間違いでしょうが」
キャシーの噂好き、あるいは執念深い好奇心もここまでくると才能かもしれない。私なんかよりよっぽどライターに向いているのだろう。
私はもう一度溜息を吐いた。
†
ライトに照らされて浮かび上がるのは、夜の森を斜めに咲いている銀色の雨だった。
車の外で稲妻が轟く。距離が遠いのか、鬱蒼と茂る森が遮っているのか、目を焼くような光は届かない。気分が滅入るからとつけたカーラジオからは流行りらしいポップソングが流れていたけれど、それも激しい雨音が容赦なく塗り潰していく。
「何なのよ、もう」
私は百塚村を目指し、岡山県の鬼城山へと入っていた。あれだけ嫌がっておきながら出発したのは、不老不死なんて眉唾をしっかり否定してやろうと思ったからだ。あるいはキャシーの言う通り、気分転換の旅行をしたかったのかもしれない。けれど私は既にうんざりしていた。途中までは車で行けるというのでレンタカーを借りたけど、変わりやすい山の天気のせいか、前も見えないほどの嵐に見舞われていた。
風に手折れた枝が跳んできて、ボンネットの上を滑っていく。窓に張り付いた葉が滴る雨水に押し流されて消えていった。
窓の外に広がる黒はかさぶたを剥がすように私の頭から記憶を引き摺り出していく。天井や窓を叩き続ける絶え間のない雨音は、聞くことすら叶わなかった赤ちゃんの声のように響き渡り、私の罪を咎めている。
あの日もこんな嵐だった。
大学四年の夏、バイト先のトイレで使った妊娠検査薬の結果を見て、まず私の脳裏を過ぎったのはなかったことにしなければという強迫観念めいた焦りだった。
私は大手出版社への就職が決まっていた。だから子育てどころではない。それに相手の男は妻帯者で、まだ小さい子供がいた。別れてくれと縋るようなみっともない真似は私のプライドが許さなかったし、かといって学生をやりながら一人で子供を育てていくような覚悟ができるわけでもなかった。
つまり、私は端から産む気なんてなかった。
それなのに子供ができてしまった。
いや、まだ子供というほどのものでもないだろう。潜在的には人間かもしれないけれど、精子と卵子が偶然くっついただけの肉片に過ぎない。まだ命ではない。だから何も問題ない。私はトイレでパンツを上げながら、繰り返す深呼吸に合わせてそう言い聞かせた。
一二週経ってしまうと中絶は役所へ届け出なければいけないらしく、私は急ぐ必要があった。期末試験や卒論に追われているうちに、妊娠一〇週目を迎えていたからだ。
自宅からも大学からも離れた産婦人科を探して受診した。雨が激しく降っていた。スニーカーは浸水し、夏だというのに足の芯まで凍えたように冷たかった。堕ろしたいことを伝えると、母親と同年代くらいの医者は私の意志を静かに確認した。私は頷いた。それ以上は詮索もされなかった。手術は日帰りで、吸引法という方法で行われた。
麻酔でぼんやりとしているうちに手術は終わったから、痛みを感じることもほとんどなかった。どこも痛くはないのに、ベッドの上で休みながら麻酔が抜けていくにつれて息が苦しくなっていった。玉ねぎを切ったときに出る涙に違いないと、私は自分で自分を納得させた。それなのにけっきょく声を上げて大泣きしてしまった私は、医者に赤ちゃんを見せてほしいと頼み込んでいた。
見たところでどうにもならない。
それでも私は、自分が安易に摘んだ命をしっかりとこの目で確かめなければいられなかった。
医者は少し困った顔をして私の元から離れていった。都合がよすぎるお願いだったかもしれないと涙を拭っていると、医者は小さな袋を手に看護師と戻ってきた。
袋には赤い液体が入っていて、目を凝らすと親指の先くらいの小さな肉片があった。さらにじっと観察すると、頭があり手があった。正確にはやがて頭になり、手となる片鱗を感じさせる出来損ないの組織があった。
それが私の赤ちゃんだった。
私はそこでようやく気付いた。
自分のしたことは取り返しのつかないことだと。
病院を出ると、来たときに降っていた雨は激しくなっていた。叩きつけられる針のような雨は私への罰みたいだった。稲光が瞼を焼き、一拍遅れて雷鳴が轟く。嵐は収まる気配がなかった。ごうと風が吹いて、開いた傘が煽られた。私の手から裏返った傘が離れる。傘は濡れた勢いよく地面を引き摺られていく。
私は立ち尽くしていた。あっという間に濡れていくTシャツが、私の肌に重くまとわりついていた。
呼び起こされた記憶から私を現実へ引き戻したのは、数メートル先を照らすライトに浮かび上がった鹿だった。
「――っ!」
声を上げるよりもよりも早く、衝撃が車を突いていた。反射的にブレーキを踏み、ハンドルを切った。シートベルトが右肩に食い込んだ。車は濡れた路面を滑り、二度目の衝撃を受ける。ひしゃげたガードレールが視界にちらついたと同時に、車は前へと傾いた。重厚な鉄の箱には似合わない浮遊感が車を包んでいった。
ライトが引き裂いた暗闇には道ではなく虚無が広がっている。
私はひっくり返る天地のなかで、いないはずの赤ちゃんを必死で抱き寄せている。
雨の音で目を覚ました。
逆さまになっているせいで頭が割れそうに痛んだ。ダッシュボードを開けて懐中電灯を取り出した。辺りは完全に森のなかで、止む気配のない雨は私の存在を隠蔽しようとしているみたいだった。シートベルトを外し、割れた窓から車の外へと這い出た。着ていたシャツがガラスに引っかかって裂けた。痛みはまだ生きていることの証拠でもあった。肌の上に赤い線が浮き上がった。
泥を踏んで立ち上がる。全身が軋んだ。肋骨でも折れているのか、息を吸うたびに激痛が胸を貫いた。
私は落ちてきた崖を探して歩き出す。しかし見当たらなかった。私は斜面を登った。痛むからだには堪えた。濡れた洋服と地面の泥濘が私をどこかへ引き摺りこもうとしていた。足元には縋りつく赤ちゃんが見えた。三センチくらいの肉片が、まだかたちすら曖昧な手で私のジーンズに大量にしがみついていた。
「消えて、お願いだから消えて」
私は必死で足を動かした。謝れば許してもらえるようなことではないと知っていた。それでも罪の引力に足を止めてしまえば、私はもう動くことができなくなってしまうと思った。
「なんで私ばっかりこんな目に遭うのよ」
私は泥濘に足を取られて転び、肩を打ちつけた。手を離れて地面に落ちた懐中電灯が、茂みの奥の大きな岩山の前に佇む古びた祠を薄っすらと照らしていた。
幸い祠の戸に鍵らしきものはかかっていなかった。戸を開けてなかへと踏み込む。雨を凌げるならば何でもよかった。私はそのまま倒れ込んだ。柔らかなものに受け止められたような気がした。雨の音が遠退いていく安堵は、私の意識を微睡みのなかへと引き摺り込んでいった。
2
乾いた泥が罅割れて、頬から剥がれ落ちていった。まぶたとまつ毛にも泥がついていたのか、目を開けると突き刺さるように痛んだ。
かすんでいた焦点がゆっくりと結ばれていく。目の前の光景が露わになって、私の意識は強く叩かれたように覚醒させられた。
私が眠っていた場所は、四方を光る岩肌に覆われた不思議な空間だった。
地面は柔らかく、草や蔦に覆われている。地面の緑からは土の塊のような、私の胸の高さくらいの背の低い木が無数に突き出している。葉の一枚、枝の一本すらついていないそれは蟻塚のようにも見えた。けれどいくつかの木の頂点には両手でも抱えきれなそうな大きさの蕾が成っていた。蕾はぬらぬらとした表面をした薄いピンク色をしていた。
「まさに百の塚ってわけね」
私は冷静さを手繰るために呟き、奇妙な木へ近づいた。
木の肌には思いのほか弾力があり、心地のよい温度があった。その温もりに私は神々しさと懐かしさを感じた。その感覚がどこからくるものなのかは見当がつかなかった。私は以前、この場所に来たことがあるような、そんな気分にさえなった。泣きそうになって上を向いた。空を遮る岩肌があっという間に滲んでいった。
涙を拭い、私は指を蕾へと滑らせる。蕾は木の肌よりもさらに温かく、微かにだけどとくとくと脈打って震えていた。
刹那、入口のほうから音がした。私は反射的に、入口からは一番離れた木の陰に隠れた。
半纏をまとい、チューブ状のカエルの卵に似た飾りを頭にかぶっている老婆を先頭に、五人がなかへ入ってくる。全員が同じ飾りをかぶっていて、うち二人は顔に藍色の化粧を施し、曲刀を胸の前で抱えている。残りの二人は若い男女で、白い花の刺繍が施された薄赤の長着に身を包んでいる。
――百塚村の住民は、みんな不老不死なんじゃないかって。
私の脳裏に、キャシーの言葉が鮮明によみがえった。
薄赤の長着を着た男女がそれぞれ、あの奇妙な木の前に移動する。どちらも蕾がついていない木を選んでいるようだった。男女ははらりと長着を脱ぎ捨てた。長着の下は裸だった。けれど男には陰茎がなく、女には乳房がなかった。性別を象徴する生物的特徴が、二人には存在していなかった。
男と女は少し離れた場所で、同じように両手を組んで腕を上げる。二人の元へ、藍色の化粧をした二人がすり足で向かう。胸に抱いたままの曲刀には油が塗ってあるのか、鉱石の青白い光を淡く反射させていた。
何かが起こる気配があった。私は慎重に息を潜め、気配を殺した。
老婆が口を開く。それは教会で神父が読み上げる誓約を連想させた。結婚式なのだろうか。あるいは夫婦の初夜に関する儀式かもしれない。そう思った矢先だった。
背後に立っていた藍色の化粧をした二人が身をかがめて曲刀を構え、男女の背中に曲刀を突き入れた。男女の胸からは曲刀が突き出す。私は口を押さえ、思わず出そうになった声を呑み込んだ。歪曲した刀身は血に濡れていて、こうべを垂れるように下を向いた切っ先へと血が流れていく。血が流れていく先には例の木があった。木の頂点に二人の血がゆっくりと注がれていた。
男女は立っていることすら辛いのか、前のめりになりながら木についた両手でからだを支えている。あるいはそれは、流れ出る血を少しでも多く木に注ごうと必死になっているようにも見えたけれど、そんなことをする意味は私には分からなかった。
私が息を潜めているうちにも、二人の顔は見るからに青ざめていった。このままでは失血死してしまうだろう。人道的には飛び出していって、蛮行を止めるべきなのかもしれない。けれど私のからだは動かなかった。むしろ二人がどうなるのか、これから何が起こるのか、もっと見ていたいと強く思っていた。
しかしそれ以上は何も起こらず、二人がほとんど死んだも同然に動かなくなったころ、老婆が絶叫した。すると入口からなだれ込むように人がやってきて、二人の背中からゆっくりと曲刀を引き抜いて止血をしていく。男のほうの血がなかなか止まらず、鋭い怒号が飛び交っていた。やがて無事に止血されて担架に寝かされた二人は外へと運び出された。老婆たちも去っていった。
彼らが死に瀕しながら一体どんな儀式を行っていたのか、私の知識と経験からは見当すらつけることができなかった。
彼らの気配が完全に消えるのを待って、私は立ち上がった。男のほうの血にまみれている木を覗き込んでみる。今のところ血の匂いが立ち込めている以外、これといった変化はない。
木の根元に、儀式で使われていた曲刀が落ちていた。どうやら止血に手間取っているうちに忘れていったようだった。私は曲刀を拾い上げた。刀の重さの相場は知らないが、ずっしりと手のひらに重みを感じた。
私はふと、さっき触れたときに蕾が脈を打っていたことを思い出した。すぐ隣りの木には薄ピンク色の蕾がなっていた。私は花弁の隙間に曲刀を差し込み、ゆっくりと剥がしていった。
花弁は分厚く、剥がすにはかなりの力が必要だった。二枚剥がすと、隙間から液体が漏れ始めた。液体に色もなく、匂いもなかった。閉じられた花弁の奥で何かが動いていた。
思わず手を離した。重さでしなった蕾は裂け目から液体を吐き出す。一緒になって何かがずるりと流れ出る。
私は悲鳴を上げた。
吐き出されたそれは未成熟な胎児だった。
蕾から引き摺り出たへその緒に繋がったまま、宙ぶらりんになっている胎児は空中で痙攣していた。そして間もなく動かなくなった。
息ができなかった。目の前でたった今死んだ胎児の苦しみが、あるいはかつて殺したあの子の苦しみが私に乗り移っているようだった。私は懸命に息を吸った。しかし吐き気が込み上げて、せっかく吸いこんだ空気を残らず押し出していった。
胎児はへその緒にぶら下がったまま振り子のように揺れていた。人間らしい顔が既に出来上がっていた。耳があった。指もあった。胎児は私を見ていた。私は胎児に見られていた。
木から引き摺り出した未熟な命に、私は戦慄していた。けれど同時に理解もしていた。
きっとこの場所に導かれたのは運命だった。女として、あるいは母として、私がすべきことは明白だった。
私は曲刀を拾い直した。さすがに手が震えた。口元の吐しゃ物を拭い、まだ蕾のなっていない木の場所へ移動した。服を脱ぎ捨て、曲刀の切っ先を自分の胸へと向ける。
彼らは胸を貫かれたが、即死したわけではなく生きていた。つまり心臓とそれに直接つながる太い血管を避けて貫かれたはずだ。けれどどう貫けばそれらを避けて胸を貫くことができるのか、私には分からなかった。それにそもそもさっきの男女と違い、私のからだには明確に女という性があった。そのことがどれくらいの影響を与えるのかも定かではない。不確定要素ばかりなのに、私は確信を持っていた。あるいは強迫的で、同時に自棄でもあった。
ゆっくりと曲刀の先端を押し付けていく。ほんの一瞬、肌の弾力で押し返された切っ先は、すぐに私の皮膚を裂いた。まるで外に出るこのときを待っていたように、血が溢れた。痛みは感じなかった。私は腕に力を込めて、曲刀をさらに数センチ押し込んだ。
呼吸が浅くなっていく。溢れる血はどんどん勢いを増していく。流れた血は木に注がれていく。けれどまだ足りなかった。もうだいぶ曲刀を胸に突き入れた気持ちでいたのに、曲刀はまだ先端の一cmくらいしか入っていなかった。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
私は声を絞り出し、臆する自分を叱咤した。けれどそれ以上は腕が動かなかった。胸からは血が溢れ、全身からは汗が噴き出す。目からは涙が流れ出し、すぐに呼吸はままならなくなっていく。
目の前がぼんやりと霞んだ。頭の奥のほうがぼうっと熱を持った。夫の冷たい溜息が呼び起こされた。義母の侮蔑の眼差しがよみがえった。あの日殺した、肉片だった私の赤ちゃんが泣き叫んでいるような気がした。
「なんにしちゃるが!」
誰かが叫んでいた。足音がして地面が揺れた。肩を掴まれ、曲刀を奪われた。私は裸のまま地面に組み伏せられ、腕は後ろで縛られる。すぐ頭の上では、知らない誰かたちの狂乱が広がっている。けれどそれは全くと言っていいほど現実味がなくて、出来の悪い映画を観ているくらい遠い世界の出来事のようにしか思えなかった。
†
「へちげなこんは考えるんでねえよ」
木谷は言って、咥えた煙草にマッチで火を点けた。深く吸って煙を吐き、格子の隙間から私に煙草を差し出す。私はそれを受け取り、人差し指と中指に挟んで口へと運ぶ。息を吸い込むと火の勢いが増して、煙草は灰へと変わっていく。肺を満たす煙をゆっくりと吐き出す。
捕らえられてから二週間が経とうとしていた。
とはいえ、私は捕まっていることをさほど深刻には考えていない。むしろ派手に怪我をしていたぶん、しっかりと手当と治療を施してくれた村人たちには感謝している。外傷はまだ残っているが、打撲や捻挫のような怪我はかなり良くなっていた。
それに百塚村の居心地はそれほど悪くはなかった。
私が捕らえられているのは村の外れにある山小屋らしい。窓には開かないようになっていて、私がいる場所から入口のあいだには鉄格子が立ちふさがっている。部屋の四隅には黄ばんだ骨が寄せてあるが、それが人のものなのか、それともそれ以外の動物のものなのかは考えないようにしている。けれど食事は一日三回、決められた時間に運ばれてきたし、三日に一度はシャワーを浴びることも許されていた。何より監視役としてあてがわれた木谷という老人とは話が合うので、退屈しなかった。
「それで、私はいつまでここにいればいいんですかね?」
私は鉄格子越しの木谷へ煙草を返す。
「いつまでってそりゃ、ばあさんがおめえさんの処遇を決めるまでじゃが」木谷は呆れたように言って煙を吐いた。「いいが? おめえさんが忍び込んだ祠は、外え漏らしたらおえんもんじゃったが」
私が目撃した百塚村の儀式は、結婚式でも夫婦の初夜の儀でもなかった。あれは妊娠の儀とでも呼べるのだろう。百塚村で生まれた人々は、祠の奥にあったあの木を介して子を為す。
既存の哺乳類とは全く異なる――そもそもオスとメスのつがいすらも必要としない生殖の構造は、にわかには信じがたい。けれど目の前で見た儀式と花弁を剥がした蕾から流れ出た未成熟の胎児が常識を超えた真実を物語っている。
「にしてもよ、おめえさんはでえれえもんじゃが。俺はどうしてもきょうてえんでよ、逃げ出しちまった。おかげで、こがあなとけえでおめえさんの見張りっちゃ」
木谷曰く、この山小屋での監守というのはこの村で長らく続く閑職らしい。追いやられる理由は人により違うが、木谷は儀式から逃げ出したことで村八分になった。この二週間で何度も聞かされた話だった。
「それによ、よく儀式を一回見ただけで気づけたもんじゃが。やっぱり東京の人は頭の出来がちげえんじゃ。俺なんて初めて見せられたときゃ一体何が起こってるのか分からなかったっちゃ。ただただきょうてえんで、泣いちまったんじゃ」
木谷はそう言って、いつものように乾いた笑みを浮かべる。私はその表情の正体をよく知っていた。所属する社会から弾かれたときに込み上げる、どうしようもなさの笑みだった。きっと木谷と話が合ったのも、傷つけられた者同士、分かち合えるものがあったからなのだろう。
「それが普通ですよ。あんなの下手したら死んじゃいますし、私だって中途半端に怪我をしただけですから」
胸の中心にそっと触れる。まだ傷は塞がり切っていないので軟膏が塗られ、上からガーゼと包帯が当ててある。
正直、自分でもよくあんなことができたものだと感心するばかりだ。もしもう一度同じ状況だったとして、同じように自傷行為に走ることができるとは思えない。
けれどあの行動が今現在の私の命を引き延ばしていることも事実だった。
「今日も、おめえさんが血を流した木を見に行ってるもんがいる。結果が出りゃあ、ばあさんらの話し合いにも進展があるじゃが」
私の立場は複雑だった。
村の外からやってきて秘密を知ってしまった部外者。おまけに開く前の蕾の一つを引き裂いて胎児を殺してすらいる。冗談かもしれないが、木谷曰く、普通なら殺されても当然の咎らしい。けれど私は木に自分の血を流し込んでいた。それは百塚村の人々にとって、単なる個人的な子作り以上に、社会的かつ信仰的に重大な意味を持つことだった。具体的には、子が生まれるまでの期間、私は神聖さを帯びた守護されるべき存在となったことを意味していた。つまり村人たちは、今、死に値する罪を犯した私を死なせてはならないという困難に直面している。
この二週間、村では何度も会議が開かれ、村人たちはそのたびに私の処遇について話し合っていた。けれど一向に決断は下せず、まずは私の血が無事に着床したことを確かめるということで落ち着いたらしい。つまり着床していれば私は百塚村に出迎えられ、していなければただの罪人として始末される。
木谷曰く、着床の成否が分かるには二週間から一月がかかるらしく、早ければ今日にでも私の命運は決まる可能性があるとのことだった。命が懸かっていたけれど私は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
「なあ、本当にええんか。俺なら、おまえさんをこっそり逃がしてやることじゃってできるっちゃ」
木谷は短くなった煙草を壁で揉み消す。私は首を横に振った。
私には確信がある。それに、もしここでもダメならもはや生きていてもしょうがないとすら思っている。自分で自分の命を断てるほどの行動力や無鉄砲さがあるわけではないが、誰かが率先して殺してくれるというならそれを受け入れるくらいには世の中に対して諦めがついている。
だからもういい。罪を背負い、欠落を抱え、こぼれ落ちたまま生き続けるくらいなら、早々にこの惰性の人生に幕を閉じてしまったほうが幸せなはずだ。これは私に与えられた最後のチャンスだった。
「でもありがとうございます。そう言っていただけるだけで嬉しいです」
私がそう言うと、木谷は悲しそうに笑った。
まもなく山小屋の扉が開いた。儀式のときにいた老婆と二人の取り巻きが入ってきた。剣呑な雰囲気から、すべてが決まったのだと感じ取る。自然と背筋が伸びた。
村人たちには性別は存在しないが、村の外から不自然に思われないよう便宜的に性別を持っておく必要があるらしい。そんな事情もあって、村人みんなは長である彼女を「ばあさん」と呼んでいた。
木谷は自分が座っていた椅子を老婆に差し出す。老婆は掲げた手のひらを礼代わりにして椅子に腰を下ろす。飛び出しそうな目はまばたきをすることなく、真っ直ぐに私を映していた。
「あんた、名は」
老婆が問うた。私は答えた。老婆が目配せをすると、取り巻きの一人が格子の隙間から一枚の紙を差し入れてきた。そこには転居届と書いてあった。
「あんたは今日から百塚村の一員じゃが。異論は認めんっちゃね」
老婆の言葉を噛み砕くのには、多少の時間が必要だった。私は視界の隅にいた木谷を見た。木谷は二度頷いた。
「じゃあ……」
続く言葉は涙になって溢れていった。私は床に正座をし、地面に突っ伏して泣いた。人目も憚らずに、大声で泣き続けた。これから出会う赤ちゃんが決して道に迷うことがないように、私のもとへ正しく辿り着けるように。
†
百塚村で生きていく上で、守らなければいけない掟があった。
一つは、木や祠について他言しないこと。子を為す仕組みについてももちろん同様だ。
そして村を出て行かないこと。進学などの例外は存在するが、いずれにしても卒業後は必ず戻ってくることが義務付けられていた。
そのほかにも細かいルールはたくさんあったが、大きいものはこの二つで、どちらも村の秘密を守るために必要な掟だった。
村には大きな病院があり、それぞれ一クラスだけだったが小学校や中学、高校もあった。巧妙に村のなかかだけで生活が完結するようになっていた。どれもあの儀式によって出産のタイミングが完璧にコントロールされ、人口が制御できているからこそ成り立っていることだった。
私は会社を辞め、中学と高校で国語を教えながら、週末は農家の手伝いをする生活を送った。夜になれば何十、何百と赤ちゃんの名前の案を出し、それらすべてを姓名判断にかけて精査した。ちなみに木谷が生まれてくるのはきっと女の子だと教えてくれたから、名前のほとんどは女の子の名前だった。時折、ばあさんの許可をもらい、祠へ行って我が子の様子を確かめた。私の木になった蕾は順調に大きくなっていった。
私は初めて生きていた。これまでの人生では手に入れたことがないほどの充足感で満たされていた。奪われていた人生を少しずつ取り戻しつつあった。
そして私は十月十日を迎えた。
その日は一日、祠の前で待つのがならわしだった。薄赤ではなく萌黄色の長着を着て、祠の前でそのときを待った。ばあさんたちやあの日儀式をしていた男女も一緒だった。
私は落ち着かなかった。何度か木谷から貰った煙草を吸って、緊張を紛らわせた。
昼過ぎになって、わずかに開けた祠の戸の隙間から産声が聞こえた。まずばあさんが中に入った。戻ってきたばあさんは女を呼んだ。ばあさんと女は中へ入り、しばらくするとまた出てきた。女の腕には赤ちゃんが抱かれていた。
女は幸せそうな顔をしていた。私はマッチを擦り、煙草を吸った。煙草を挟む指はじっとりと汗ばんでいた。
「なあ、それ、少し分けてくれよ」
私と同じで落ち着かない様子の男に声を掛けられたのは女が村へ戻っていたあとのことだった。男は私がポケットに忍ばせていたスキットルを目ざとく見つけたらしかった。
「煙草ならあげるけど、これは嫌」
「煙草はやらないんだ」
「そう、残念」
男はもう話しかけてはこなかった。私たちは祠を見つめ、開花のときを待った。
次に産声が聞こえたのは、日が西の山に沈みかけたころだった。またばあさんが先に中へと入った。戻ってきたばあさんは私を呼んだ。私は立ち上がり、ばあさんの後ろに続いて祠の戸をくぐった。
赤ちゃんはすぐに見つかった。五列目の右から七番目。大きく開いた花弁は私の赤ちゃんを抱きかかえていて、その真ん中で女の子が元気に産声を上げていた。オカルトではない事実がそこにあった。
私はばあさんから鋏を受け取り、赤ちゃんと木を繋ぐへその緒を切った。鋏をしまった。それが、親が子に与える最初の愛情であり、人の社会へつながっていく第一歩でもあった。私は赤ちゃんを花弁のベッドから取り上げた。羊水に濡れた赤ちゃんは熱かった。命の温度だった。
それから私は十月十日をかけて選んだとびきりの名前を呼んだ。赤ちゃんは少しずつ泣き止んでいった。小さな胸が小さく上下を繰り返す。半開きの唇が蠢いている。
ばあさんが用意していた産湯で赤ちゃんを洗った。ぬるま湯にびっくりしたのか、小さな足をばたばたと動かした。すべてが愛おしかった。わたしは涙を堪え続けていた。
産むということは、自分のお腹を痛めることだと思っていた。けれどそれは違うのだと気づいた。遺伝子は理屈ではなかった。子宮でも、蕾でも、私がこの子を産んだという事実は揺るぎがなかった。
「ねえ、ばあさま。私、ずっとこの日を待っていたの」
私はゆっくり息を吐いてから、そう言った。立ち上がり、しまった鋏を取り出した。ばあさんは目を細めていた。私はばあさんの喉に鋏を突き立てた。ばあさんは目を見開いた。私は引き抜いた鋏で、ばあさんの目がこぼれ出てこないよう押し込んだ。ばあさんは仰向けに倒れた。
赤ちゃんが再び泣きだした。ばあさんは地面でびくびくと痙攣していた。けれどやがて動かなくなった。それは初めてここにやってきたとき、蕾から引き摺りだしたあの胎児と似ているような気がした。
百塚村の住民が不老不死ではないことはもうとっくにはっきりとしていた。彼らは木を介して生殖を行い、子を為している。産まれて死ぬ私たちと変わらない。時代の違う写真や現代に同じ顔の男がいた理由は、私の娘が今はっきりと教えてくれた。
私は赤ちゃんを柔らかい床の上に寝かせた。奥まで歩き、スキットルの中身を木に振りかける。中身は酒ではなく油だった。私は火を灯したマッチを油まみれの木に放り投げた。炎が立ち上がった。
村から出てはいけないと掟の話をされたとき、私はこうすることを決めた。産まれてくる子供の将来を考えれば、そんな不自由が許せるはずもなかった。
だって産みたいという願望は育てるという責任でもあった。私はこの子を正しく導いていく必要があった。この子が歩いていく道にどんな障害があってもいけなかった。それが母親としての私の使命だ。そしてその使命を果たすことで、私はこれまで失い続けてきたすべてを取り戻すことができるはずだった。もう一度、生き直すことができるはずだった。
私は順繰りに木に火を点けていった。マッチはすぐになくなったが、これ以上手を下さなくても祠の中身がすべて灰に変わるのも時間の問題だと思った。
私は泣き叫ぶ娘を抱きかかえて頭を撫でる。血に濡れた手だろうと構わなかった。戸から外に出ると男と目が合った。私は後ろを見やった。男は青ざめて駆け出した。控えていた村人たちもみんな祠のなかへと入っていった。
これでこの村はおしまいだ。雌雄のない村人たちは木に頼る以外の方法では子孫を残すことができない。
私は満足していた。この子を守り生きていくことの尊さを全身で感じていた。
今日という日、私は母になったのだ。
3
私は幸せだ。
娘は今年で八歳になる。
百塚村での一件は報道すらされなかったから、あのあとのことは知らない。けれど入念に引っ越しを繰り返し、名字も変えた。あの村の人間に私の消息を辿る術はない。もちろん術があったとして、村人の誰かがここまで追ってくるとも思えないけれど。
「同じ顔だね」
小さい頃の私のアルバムを見ながら娘が言った。
私たちはそっくりだ。けれどただ似ているのではない。私たちの顔には全く同じ形をした生まれつきの痣があった。娘は私であり、私は娘だった。
当然よと、私は娘を抱きしめる。くすぐったいよ。娘が天使の声で笑う。
「愛してる。ママはね、あなたのことが何よりも大切なの」
私は娘の絹ように滑らかな髪を指で梳く。娘は気持ちよさそうに目を細め、私の胸に頭を埋めた。
「わたしもママのこと好きよ」
「ママがずっーと、守ってあげるからね」
私は頭を撫でながら娘に囁く。レースのカーテン越しに、冬晴れの陽光が差し込んでいた。
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