梗 概
踊る森を背に
弥太郎は生まれながらにして黒い片羽の蝶のようなものが舞うのが見えていた。三歳のある夜、月を見上げる母の背に、弥太郎はその形をなぞって描いた。するとそれが喜ぶように踊った。翌朝母が死んだ。母の遺体から今度は白い何かが飛んでいくのが見えた。
母が死んでからは散々の日々。友達に除け者にされ、八歳の時に家に来た継母からもひどくいじめられた。寺子屋で勉学に励む弥太郎は俳句と出会い、のめり込む。
ある日弥太郎は「死」という漢字を習う。「歹(かばねへん/死の象徴)」と「ヒ(うずくまった人の形)」の会意文字だ。弥太郎は中空を見る。いまだ飛び続けている黒いそれが「歹」だった。
弥太郎は母の墓に向かう。あの日母の体から飛び立った白いものが墓にとまっていた。「ム」という字だった。ムは山へ飛んでいく。
十二歳になった弥太郎は継母のいじめに耐えきれず家出した。山へ向かう道中、身を横たえた子雀を通り過ぎる。悪い予感がする弥太郎。村の者が馬を引いて歩いてくる。〈雀の子、そこのけそこのけお馬が通る〉心で唱えたが子雀は馬に踏まれる。弥太郎は血まみれの子雀に走り寄り、恐る恐る歹となぞる。小雀が息を引き取り、小さな白いムが飛び立った。弥太郎は死を司どる自身の能力を悟り、罪の意識に苛まれる。
獣道を登る弥太郎。どっぷりと日は暮れ、木々の隙間に満天の星々。
なんて美しい。そしてなんて人生は苦しく、禍々しい。もう死んでもいい。そう思った時、生ぬるい風が吹き、空を雲が覆う。途端に黒く輝く無数の歹が現れ、踊り始める。「我ら死神を、生きて束ねる王となれ。拒むなら死あるのみ」と声が聞こえる。弥太郎は体に張りつこうとする歹を振り払い続ける。深夜、精魂尽き果てた弥太郎に歹が張りつき始める。「食わせろ、お前の命を食わせろ」と黒い歹。弥太郎が気を失いかけた時、小さな白いムが現れ、弥太郎に張りついた。それは声なき声で叫んでいる。するともうひとつ白いムが現れ、大きく広がり、弥太郎の体を包み込む。弥太郎は生気を取り戻す。しかしあたりに死臭が漂い始める。地から、歹を右肩に黒く光らせた腐った熊、鹿、狐どもが立ち現れ、弥太郎を取り囲む。
弥太郎は最期のあがきと熊に向かって歹の文字を切る。するとムが雲へのぼり、雲から針のように細い稲妻が熊に落ちた。熊は泥のように崩れさる。続けて腐敗獣たちの一体一体に向かって歹を切ると、次々と稲妻が落ちてくる。夜明け前、全ての腐敗獣が地に還った。〈稲妻を 浴せかけるや 死にぎらい〉こんな時に句が生まれた。
朝日を浴び、弥太郎は感得した。生者と死者を分つものはない。ただ一つの世に光と闇があるだけだ。弥太郎はまだ詠める、もっと詠みたいと思った。
〈死神に より残されて……〉そこまで浮かんだ句に頭を振った。この句は老いて完成させよう。
獣道を下る弥太郎に動物たちが飛び跳ねながらついてくる。鳥という鳥が歌っている。木々が風を鳴らす。森が踊っているようだ。弥太郎にもう黒い歹は見えなかった。
山を出た弥太郎は振り返らない。母がこちらを見ていたら、さよならを言わないといけないから。
文字数:1281
内容に関するアピール
生まれついて死神が見え、死を操る力を持つ幼少期の小林一茶(幼名・弥太郎)が山での恐ろしい出来事を通して死・死神に決着をつけ、俳聖として開眼するイニシエーション(通過儀礼)の物語です。黒い歹は死神。白いムは「仏」からニンベンを取り払ったもので、仏性・精霊を表しています。
その生涯で二万二千もの句を残した一茶に、死神の句がたった一つだけあることに注目しました。
「死神に より残されて 秋の暮」
晩年に詠んだこの句の想像力の源泉はすでに幼少期にあったと考えます。生きとし生けるもの、そして生と死を見つめる眼差しが一貫しているからです。
「稲妻を 浴せかけるや 死にぎらい」
この句はもはや死と格闘する一茶が稲妻を落としたとしか思えず、物語のハイライトにバトルシーンとして持ってきました。実作ではもうあと一つ二つ、エピソードに対応した句を用いたいと思っています。
文字数:377
いつか一茶になる日まで
赤い満月が縁側をほのかに明るく照らす夜、弥太郎は母くに膝の上で鈴虫の鳴き声に耳を澄ましていた。肌を撫でる風は涼しく、秋の訪れを告げている。
「あれなあに?」
「どれのこと?」
「りーんりーんっていうの」
「あれはすずむしよ」
「すずむし?」
弥太郎は初めて耳にするその四文字を興味深そうに鸚鵡返しした。
三歳になったばかりの弥太郎は、世の中のあらゆる物事が不思議でならない。目についたもの、耳で聞こえるものをもっと知りたいという興味が素朴に溢れ出していた。
「秋になったら鳴くの。今年は今夜が初めて。もう秋が来たのね」
弥太郎は母の言葉に目を輝かせた。
鈴虫の繊細で幻想的な鳴き声が耳にくすぐったい。弥太郎は目を閉じ、そのかわいい響きと耳でじゃれあった。目を開けると、すぐに新しい好奇心の種を見つけた。庭を囲む梅の木の上に奇妙な生き物が一匹ひらひらと舞っているのだ。黒い片羽の蝶のようなそれは月明かりに透き通るようでいて、どこか輝いているようにも見える。
弥太郎は「あれなあに」と指を差して母に尋ねた。
「どれ?」
くには弥太郎が指差す方を見た。しかしそこには梅の木のほかなにもない。
「あそこー!」
弥太郎は一番背の高い梅の木に指を伸ばす。
くには必死に訴えかけてくる弥太郎に微笑んだ。
「目がいいのねえ。おかあにはなにも見えないわ」
その言葉に頬を膨らませた弥太郎は、膝の上からおりて母の背にまわった。そして「これー!」と言って、母には見えず、自分には見えているそれの形を背になぞって描いた。そうすればきっとわかってくれると思った。だけど母は「くすぐったい」と笑うだけだった。
直後、くにの体がビクンと震えた。
「夜風に当たりすぎたかな」
くにはおどけて笑ったが、急に眩暈がして思わず床に手をついた。庭におろした足も震えている。弥太郎は自分の見えているものが母には見えていないことが不服でならず、「あれー!」と言ってもう一度それを指差した。するとその奇怪な生き物は月の前に躍り出て、弥太郎をあざわらうかのように鮮やかに舞った。
弥太郎は顔をこわばらせた。なにか悪い生き物なのではないかと感じたのだ。その黒い蝶のような生き物はひとしきり夜空を泳ぎまわり、どこかへ飛び去った。
「おかあ」
弥太郎が母の背にしがみつくと、小袖がじんわりと汗ばんでいた。
「背が熱い」
弥太郎は母の肩に手を乗せた。くには弥太郎の手を握り返し、
「今日も疲れたねえ。もう少ししたら横になりましょう」と答えた。
弥太郎はしばしの間、母のうなじのわきから月を見上げた。月と一緒に母の横顔を見ているだけで幸せが満ちてくる。明日も明後日も、この特等席で月を見上げたい。
「さあ、おばあちゃんの隣にお布団敷きましょう」
くにが弥太郎の手をポンポンと叩いた。
「おとうはまだ帰ってこないの?」
「檀家の集まりに行ったら、いつも帰りが遅いからねえ。お酒がすすむ日なのよ」
くにはそう言って居間を振り返った。病気がちで寝たきりの祖母かなが後ろの居間でうっすらと寝息を立てている。弥太郎はかなのわきを通り抜け、押し入れを開けてくにを待った。くには弥太郎に気取られないように痛みを堪えて立ち上がった。
翌朝、雀の鳴き声が聞こえてくるより早く弥太郎は目が覚めた。右を向くといびきをかく父弥五兵衛の呑気な顔が薄青い光に浮かんでいる。左を向くと母が背を向けて静かに眠り込んでいる。弥太郎はそこでまたなにかおかしな気分になった。母の肩に白い三角の生き物がとまっているのだ。昨夜見た黒い蝶のようなものとは違う生き物で、どこか寂しそうにも見える。弥太郎は白い三角の生き物に手を伸ばす。しかしそれは逃げるようにふわっと浮かび、天井近くまで飛んでいった。
弥太郎は胸騒ぎがして、母の肩を揺すってみた。だが母が目を覚ます様子はない。懲りずにもう一度揺すると、母はだらりとうつ伏せの状態になった。今度は背を叩いてみるが、母はピクリとも動かない。弥太郎は振り返り、弥五兵衛の肩を揺すった。
「おお、弥太郎。どうした。おしっこか?」
「おかあが、おかあが」
弥太郎はぐずるように顔をしかめた。
弥五兵衛は寝ぼけた顔で面倒くさそうに体を起こし、
「くに、弥太郎をおしっこに連れていってあげなさい」と言うが、くにが起きる気配はない。
「まいったな」弥太郎は体を起こし、弥太郎を跨いだ。うつ伏せになったくにを仰向けになおそうとするが、力が抜けた体は重い。ふうっと息を吐き、なんとか仰向けにしてみたが、くにはまだ眠っている。
「しょうがないやつだ」
「くにさんは疲れてるのよ。あなたが飲み呆けてる間も弥太郎と私の面倒を見てたのよ」
くにの向こうでとっくに目覚めていたかなに小言を言われた弥五兵衛は、
「そんなこと言っても今は弥太郎をほったらかしだ」
冗談のつもりで返してみたがかなが笑う様子はない。弥五兵衛はくにの顔を覗き込む。障子の薄明かりが白み始めた部屋の外で雀の鳴き交わす声が聞こえた。
「くに」
弥五兵衛はくにの頬を優しく叩いた。それでもまだくには目を覚さない。
そこでようやく弥五兵衛は表情を一変させた。
「くに…… くに!」
弥五兵衛はくにの小袖の胸元に手をいれ、鼓動を探った。
目を見開き、瞼を震わせる。
「そんな、嘘だろう」
弥太郎が泣きそうな顔で弥五兵衛を見上げる。
「医者を呼んでくる!」
弥五兵衛は一目散で部屋を出て行った。弥太郎は父の背を見送ると、潤んだ目で天井を見上げた。白い三角の生き物がじっととまっている。弥太郎はそれが自分を見つめているような気がした。
*
北信濃の宿場町、柏原村に弥太郎の家はあった。家長である小林弥五兵衛は代々受け継ぐ広い畑を持ち、農家のわりに裕福な暮らしをしていた。村から半日も歩かないほどの距離に善光寺があり、冬になると弥五兵衛は善光寺の商家の手伝いに出稼ぎ行くのが常だった。だが今年の冬はそんな予定を過ごすわけにはいかない。
今、野尻湖にほど近い寺の境内で、四、五人の村の者がくにの遺体を焼く薪を並べていた。本堂の阿弥陀如来像の前で棺桶に収められた母の顔をじっと見つめる弥太郎は、このあと母がどうなるのかをまだ知らないまま、正座した膝の上でかたく拳を握っていた。その隣で弥五兵衛がうなだれている。弥五兵衛におんぶして連れて来られたかなも住職に用意してもらった敷布団で横になっている。正月を迎える前に顔を合わせることになってしまった親戚一同が目を赤く泣き腫らしていた。
静まり返った本堂の引き戸が不意に開く音がして、皆が入り口を振り返る。
「準備ができました」
蓬髪の男が額の汗を拭って言った。
背中や袖口をつぎはぎした粗末な黒色の袈裟をまとった僧侶が念仏を唱え始めると、傍に控えていた弟子が薪に火をつけた。弥五兵衛や、くにの兄に脇から手を差し入れられて立っているかな、そして十数人の親戚が火の回り始めた棺桶を囲んでいる。すすり泣く者、嗚咽する者、歯を食いしばって火を見つめる者、様々な佇まいの中で、かなの後ろに隠れるように立つ弥太郎は、その小袖の裾を握りしめ、こぼれ落ちる涙を止めることができなかった。
炎の中で棺桶の木肌が次第に黒ずんでいく。薪のひとつが大きく爆ぜる音がする。棺桶と薪が同じ一つの大きな炎の柱となり、地から湧き立った。
弥太郎は呆然と炎に目を見開いた。悲しみも痛みもあるにはあるが、その荘厳で巨大な、怒り狂う炎は、まだ心のうちを上手に言葉にできない弥太郎を圧倒した。弥太郎はかなの後ろから歩み出て、炎の前に立った。火の粉が風に舞い、黒いカスが降ってくる。弥太郎は空に手を伸ばし、ゆらゆら揺れなながら落ちてくるそのひとつを握りしめた。
〈おかあ〉
掌を開くと、なにもなかった。
炎に頬がきつく火照る。腕も熱く、脛も熱い。炎とはこれほどまでに強烈なものなのだ。弥太郎は幼い心で感じ取った。炎は生きている。胴体があり、腕があり、いくつもの指先がある。そしてその頂はまるで唇だ。弥太郎は太い炎の頂を見ながら、母が自分にしてくれた口づけを思い出した。笑いかけ、顔を近づけ、唇を尖らせる母。もうすぐ触れてくる。
見上げた空に、昨日見た白い三角の生き物が浮かんでいた。それは目も顔もないにもかかわらず、自分を眺めおろしているような気がした。それだけでなぜか胸が高鳴った。しかしそのあと、弥太郎の胸に押し寄せたのは罪悪感だった。
〈おかあ、ごめん〉
弥太郎は空の白いそれに謝った。
幼い弥太郎にはまだ世の中の原理がわからない。生と死の理もわからなければ、自分には見えて母には見えなかった黒い片羽の蝶のような生き物のことも、自分が母の背に描いたものが一体どのような作用をもたらしたのかも、わからない。自分は悪いことをしたのかもしれない。だがそれを言葉にできるほど弥太郎は成熟していない。
弥太郎は途端に瓦解した。炎に背を向け、かなの痩せた腰に抱きついた。そしてまるで生まれたときのようにしゃくりあげ、かなの小袖を濡らした。隣に立つ弥五兵衛が弥太郎の頭をしごくように強く撫でた。
僧侶が念仏を唱え終わり、後ろに振り返って一礼したかと思うと周囲に悪臭が漂い始めた。炎を囲む者たちは一斉に顔を歪める。くにの体がたしかに燃え始めたのだ。顔を背ける者、手拭いで鼻を隠す者、えずく者、そんな中で弥太郎はかなの足に盛大に吐いた。
弥五兵衛に抱えられ、境内を囲む山茶花の木の根に横たえられると、弥太郎は潤んだ目で空を見た。黒い片羽の蝶のようなものが数匹、中空に漂っている。山茶花の向こうの墓地には白い三角の群れがいる。わけがわからない。
世界が知りたい。言葉がほしい。この世界を知るためにもっと言葉が必要だと、弥太郎の素朴な心根が叫んでいた。
*
それから冷夏があり厳冬があり、寝たきりの祖母の温かい言葉や父の逞しい働きぶりに支えられ、幼いながらも困難な年月をいくつか乗り越え、弥太郎は母を優しい記憶に変えていった。心を強くすることで闊達な少年期を迎えるのではなく、母に問いかけ、母と見た月の満ち欠けに諭され、母と聞いた鈴虫の声に耳を澄ます、柔らかい心を持つ少年となった。しかしそれは荊の道でもあった。友ができないのである。
「松太郎、あそぼう」
田んぼの畦道で蛇の抜け殻を観察している少年たちに声をかけても、「やーいやーい、母なし弥太郎」とはやしたてられ、逃げられる。神社で蟻の巣穴に木の枝を突っ込みかき混ぜている少年たちに近寄っても、「お前みたいな陰気なやつと誰が遊ぶか」とそっぽを向かれる。またあるときは、力いっぱい空に放り投げたバッタが慌てて羽を広げる姿に笑いころげる少年たちに近寄っても、「毛虫を食ったら友だちにしてやる」「そうだそうだ、俺たちはみんな食べたんだぞ」と嘲笑われた。
よく晴れた日の午後、弥太郎は風が稲を鳴らす音が聞きたくなった。目当ての田んぼに行く途中、水路に顔を近づけてアメンボをふうふう吹いている子がいた。弥太郎は一瞬凍りついた。彼の上空に、二年前に見た黒い片羽の蝶のようなものが飛んでいるのだ。その生き物は少年に近づきおりてきて、背の上を旋回する。そして少年の右肩に止まり、溶けるように張り付いた。
弥太郎はなんと声をかけていいかわからず、少年の脇を通り抜けるとき、その背に「気をつけてね」とつぶやいた。弥太郎がいたことも知らなかった少年はとぼけた顔で振り返り、「なんだ、弥太郎か」と退屈そうに言った。弥太郎は困惑してしまい、二の句が継げない。自分が今見たものを正直に話すことなどできない。もし下手なことを言ったら、悪い噂を広められるかもしれない。だからといって朗らかに挨拶するほどの度胸もない。弥太郎はいてもたってもいられず、小走りで逃げ去ってしまった。
二日後、少年が亡くなったことを父から聞いた。あの日の夜急に熱を出し、丸一日うなされ、混濁した意識のなかで意味をなさない妄言を呟き、泡を吹いて息を引き取ったという。
子どもが病気で死ぬことは決して珍しいことではない。弥太郎もそんなことは知っている。だがあまりにも時期が重なりすぎていた。自分にだけ見えるあの生き物がなにか悪さをしたのではないか。あれは人を殺す生き物なのではないか。あの日、自分は母の背にあれを象ったものを描き込んだ。そして母は死んだ。誰が描いても死ぬものなのか。それとも自分が描けば死ぬものなのか。わからない。そもそもこんな疑問を持つことが妄想なのかもしれない。弥太郎は終わりのない問いを繰り返した。
*
八歳になった弥太郎に新たな不幸が編み込まれていく。寝たきりの祖母かなが亡くなったのである。母が旅立ってからひときわかわいがってくれていた祖母の不在は、悲しさを連れてきただけでなく、家を空虚なだけの箱へと変えた。日が経てば経つほど、祖母が母の分まで家の空気を柔らかく、しなやかに保っていてくれていたことを痛感した。父が畑仕事に勤しむ間、甘えさせてくれる人がいない、慰めてくれる人がいない、そんな日常が弥太郎を一層内気に、無口に変えていった。塞ぎ込む弥太郎を見るに見かねた弥五兵衛は、ひとつの決意をした。新しい妻をもらおうというのである。決して弥太郎を励ますことだけが理由ではない。家から女手がなくなってしまったことが暮らしを営むうえでなにより大変だった。
弥五兵衛が野尻湖の対岸にある倉井村からさつという新しい妻をもらったのは二ヶ月後のことだった。弥太郎は初めて対面する新しい母に、ちらっと目を合わせたきり床にに目を落としていた。
「恥ずかしがり屋な子だから」
そう言って弥五兵衛はさつと弥太郎に一度ずつ笑いかけた。
「明日から私がごはんを作りますからね」
つんと尖った目尻を和らげてさつが言う。だが弥太郎はこくりと頷くだけで返事をしない。そんな弥太郎にさつは、一緒に暮らしていけばそのうち心を開いてくれるだろうと思い、つとめて優しく笑いかけた。
実際、一週間、一ヶ月と暮らしを共にしていくほどに、弥太郎の態度から頑なさが消えていった。遊びに出かけるときも「行ってきます」と言うし、帰ってきたときも「ただいま」と言う。いただきますもおやすみなさいも言うようなった。当たり前のことかもしれないが、さつはその一つひとつに頬を緩めた。弥太郎もそんな新しい母を見て、照れくさそうに目をぱちくりさせた。しかし弥太郎が心を開いていくのとは反対に、さつは態度を徐々に硬化させていくのであった。
開け放した戸口から差し込む光が土間の土をほんのり赤く染めている。寺子屋から帰ってきた弥太郎は、かまどの火にしゃがみ込むさつを見つけて「ただいま」とつぶやいた。機嫌を伺うような気弱な声だ。さつは弥太郎を一瞥しただけで、粟と稗の雑穀めしの煮立ち具合を確認するために「よいしょ」と重い腰をあげた。
「あんたはいいねえ、こんなにおかあが忙しいというのに、外でお勉強なんかして」
そう言って鍋の蓋を木の棒でコンコンと叩いた。
「あなたの弟がおかあのお腹にいるの。わかる? 勉強なんてしてないでお手伝いしてちょうだい」
お腹を膨らませたさつは鼻からため息を吐いた。
弥太郎は返事に困り、足元の土を見つめた。なぜさつが急に自分にきつく当たり始めたのかわからない。だけどそれはさつのお腹が大きくなり始めた頃と重なっていた。弥太郎はやるせなく砂をかぶった右足の爪を左足の踵で拭った。
「薪割りも、藁たたきも、庭掃きも、おつかいもあるんだからね。お兄ちゃんになるんだからしっかりして」
さつの最後の一言に弥太郎は耳をぴくっと動かした。
〈そんな言い方をして、僕を言いくるめようとしている。僕のことを嫌っているくせに〉
土間の入り口で立ち尽くす弥太郎にさつは、
「火加減を見てちょうだい。この棒で蓋の音を聞いて。ぐつぐつ言うから」と言って、調理台で野沢菜の漬物を切り始めた。
弥太郎は「はい」と小さく言って、かまどにしゃがみ込み、火を覗き込んだ。
〈そういえば…… ばあちゃんのときも黒い蝶みたいなやつが飛んでいた。あいつが張りついて、ばあちゃんは死んだ。そして白い三角がばあちゃんから飛んでいった〉
かまどの中でゆらめく炎を見ながら、弥太郎は木の棒を強く握りしめた。
〈なにがどうなっているのかわからない。だけど知らないといけない。僕はもっともっと勉強しないといけないんだ〉
*
弥太郎が寺子屋に通い始めたのは、友だちができない息子に毎日を楽しく生きてほしいと願う弥五兵衛の親心からだった。事実、その企みは見事にはまった。弥太郎は勉強が楽しくて仕方なく、文字の読み書きもそろばんも、信濃の歴史や風土も、次から次へと吸収していった。寺子屋の主人中村六左衛門は、自身が教える一つひとつに目を輝かせる弥太郎に感動を覚えるほどだった。ある日六左衛門は、弥太郎が書き損じた和紙の隙間に目を止めた。『親の声 知っている すずめの子 親の声 聞いて飛んでいく すずめの子』と細い字で書かれている。
「これはなに?」
「このまえ家の前で見たんだ。雀の鳴き声がしてね、小さい雀が飛んでいった。よくわからないけど寂しくなった。でも嬉しいんだよ? だって雀はおかあさんのところに行ったんだから」
六左衛門は深く頷き弥太郎の頭を撫でると、
「今日は外に出かけよう」と言って弥太郎を外に連れ出した。
野尻湖畔の山を少しのぼったところにある広場の、大きな岩に二人は腰掛けた。
「ここでしばらく景色を眺めていよう」
そう言った六左衛門に、弥太郎は不思議そうな顔をした。
「弥太郎はあんまりしゃべるのが得意じゃないね?」
「うん」
「俳句は知ってるかい?」
弥太郎は首を横に振る。
「俳句とは五七五でこの世界を詠む遊びだ。この世界と君を繋ぐ魔法の遊びなんだよ。世界を吸って、君を吐く。その吐いた息に書いてある言葉が俳句なんだ。五七五の約束を守ること、そしてときにはその約束をほんのちょっと破ってみること。それだけでいい」
六左衛門は弥太郎に微笑みかけ、再び言葉を続けた。
「ここに座っているだけでいろんな気持ちが浮かんでくるはずだ。それはこの景色がくれる君への贈り物だよ」
弥太郎は少し困った顔をした。わかりそうでわからない。だけどなにかが噛み合いかけているような気もする。空はめまいがするほど青く、湖は太陽の粉を散らしたように煌めいている。饅頭を伸ばしたよう雲がゆっくりと風に流されていく。弥太郎は今までうまく言葉にできなかった胸の中の霧状のものが揉みほぐされていくのを感じた。
翌日、さつの白い目を後にして寺子屋にやってきた弥太郎は、和紙を前にして筆を持つ手が大きく震えていた。茫然と目を見開き、頬や口を動かすことさえできなかった。
それは六左衛門が新しく「死」という漢字を教えている最中に起きた。
「この死という字はね、死ぬことそのものを意味する歹と、うずくまった人の体を意味するヒの会意文字なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、弥太郎の頭でなにかが弾けた。あの夜、空を飛んでいた黒い片羽の蝶のような生き物が、歹の字そのものだったのだ。
弥太郎は正気に戻り始めた頭で少しずつ考えを整理していく。
死の漢字の成り立ちと同じように、空を飛ぶ歹が人に張りついたらその人は死ぬ。そんな恐ろしいことがあるのだろうか…… もしあるのだとしても、あの日歹は母に張りついたわけではない。自分が描き込んだのだ。としたら…… もしかしたら歹が見える自分には、歹と同じように死をもたらす力があるのかもしれない。そう思うやいなや弥太郎は立ち上がり、床几の習字道具をそのままに、脱兎のごとく寺子屋を出て行った。
村の西に聳える黒姫山が今まさにここから始まろうとする、足の甲ほどに傾斜し始める森の中に母くにの墓があった。ここまで全力で走り通した弥太郎は地面に膝と手をつき、肩で息をして墓石を見上げた。
どうしても会いたかった。これまで抱えてきたなんとなく後ろめたい気持ちを消し去るためではなく、あの日なにをしてしまったのかを理解した自分で謝りたかった。
そのとき木々の間から見覚えのあるものがひらひらと飛んできた。
白い三角の生き物だ。
弥太郎は母の墓石にとまるそれを見て、瞼が震えた。
白い三角は、ムという文字だった。
昨日までだったらその意味はわからなかった。だけど今ならわかる。死が、歹とヒの組み合わさる漢字であるように、人とムが組み合わさるもの、それは仏だ。
〈おかあは精霊になったのか〉
弥太郎は仏様になった母の体から抜けたものがムであることを確信した。
近づきたい。そう思って涙を拭いて立ち上がると、草鞋の鼻緒が切れた。その瞬間、直感が背筋を走った。
『草鞋の ままで御意得る お墓かな』
弥太郎に、初めての俳句が生まれた。
〈おかあはいつでも見守ってくれている。謝らなくてもいいと言ってくれている〉
自分が詠んだ句に教えてもらうように弥太郎は頷いた。
〈もう罪悪感に苛まれて生きるのはやめよう〉
弥太郎は歯を食いしばり、白いムを見つめた。
〈おかあがいつも淹れてくれていた一服の茶のような、そんな俳句を詠んでいこう〉
弥太郎はそう心に決めた。そしていつの日か『小林一茶』と名乗ることを、母の白いムに誓った。
母の白いムは喜ぶように一度身をくねらせてから浮かび上がり、弥太郎を何度も振り返りながら森の奥へと飛んでいく。弥太郎はそれが消えてしまうまで、後ろ姿をじっと見つめていた。
*
稗、黍、蕎麦、粟など様々な作物が豊作に終わり、一家は冬を待つだけとなった。そこで弥五兵衛は例年より早く、雪が降る前に善光寺に出稼ぎに行くことを決めた。それなりに余裕のある暮らしをしているとはいえ、さつの初めての子となる仙六も半年前に生まれ、これからもっと金がいる。
「さつ、弥太郎と仙六を頼むよ。なにかあればすぐに帰ってくるから。そして弥太郎、お前もおかあの言うことをよく聞いて、仙六の面倒も見るんだよ」
弥五兵衛はそう言って赤飯を口に入れた。一家で迎える今年最後の晩めしである。祝いの膳でもないのに大麦の団子汁に加えて赤飯まで作ったのは、さつの心ばかりの餞であった。
「安心して行ってらっしゃいな」
さつは弥五兵衛に微笑みかける。一方、弥太郎は箸を動かす手がとまっている。
弥五兵衛はさつと弥太郎がギクシャクしているのは知っていたが、それでも仙六という存在が二人の関係を取りもち、改善してくれると信じていた。
「そら、汁が冷えてしまうぞ。食べないと大きくなれないぞ。お兄ちゃんなんだからな」
「はい。おとうも元気で帰ってきてください」
弥太郎は当たり障りのない言葉を返し、汁を啜った。
父が出かけて二、三日が経った朝、弥太郎は早々にさつの当たりが厳しくなったことを痛感した。
「顔を洗ったら庭を掃いてちょうだい」
弥太郎はおはようございますという前に、はいと返事した。
玄関で草鞋を履いたら足の裏がひんやりした。仕事を始めると、箒が土を擦る音が思いのほか気持ちいい。秋の枯葉がそよ風に巻かれ、カラカラと音を立てて箒から逃げていく。弥太郎はそんな一つひとつに心を動かされながらも、俳句がうまく詠めないことに悩んでいた。
〈世界を吸って、君を吐く〉
思い出すのはそんな六左衛門の言葉だった。
庭掃きが終われば藁叩きが待っていて、藁叩きが終われば泣きじゃくる仙六の蚤取りが待っていた。午後も食材の買い出しや仙六のお守りを言いつけられて寺子屋に行く時間もない。さつはといえば、朝昼晩と二人分の食事を作り、仙六に乳をやり、せっせと糸紡ぎの内職をしていた。言い返せば、それ以外全ての家事を弥太郎に押し付けていた。仙六が眠ったと思い、縁側で空を飛ぶ鳶を眺めていても、仙六が泣き始めると、「なんでちゃんとあやしてあげないの」と怒られる。あるときには「おむつを替えてあげて」「おむつを洗ってきて」とこき使われ、またあるときには「ほらあ、またこんなところに蚤がいる。かわいそうに。弥太郎は愛のない子だねえ」となじられる。庭で薪割りをしていても、仙六が泣くと「弥太郎!」と土間から怒鳴り声がする。そんな日々が二週間も続いた頃、さつが怒りを爆発させた。
「あんたはそうやって、難しい顔でご飯を食べて。しかもほとんど残すじゃない。そんなに私の作るご飯が嫌い? そんなに死んだお母さんが好きなら一緒にお墓で暮らせばいいじゃない」
弥太郎は蕎麦団子汁をお膳に置き、「すみません」と言って目を伏せた。
「陰気な子だわ」
さつが言うと、傍で仙六が盛大に泣き始めた。
「ほうら、おかあが抱いてあげましょうね」
さつは弥太郎を睨みつけて、これみよがしに仙六を胸に寄せた。
もともと少食の弥太郎だが、ここ最近飯が喉を通らないのはそれが理由ではなく、胃の痛みを堪えていたからだった。だけど弥太郎は言い訳をしてもしょうがない、陰気と言われればその通りだと思った。
なにも言い返してこない弥太郎に、さつはさらに言葉を続ける。
「小林家を継ぐのがあんただなんて、この子が不憫でしょうがない。弥五兵衛さんが亡くなったらこの家は長男のあんたのもんになるんだもんねえ。いいねえ、気楽で。そうしたら私もこの子も追い出されるのかねえ。あんたはずっとそうやって心のうちで私を憎んでばっかりで仲良くしようともしない。この家も畑も、長男というだけでいつかあんたのもの。私も仙六もあんたに従って生きなければならない。そんな不条理がまかり通るなんていやな世の中だわ」
さつは一息で言い終えると、「ようし、ようし」と仙六に笑いかけて弥太郎に背を向けた。
弥太郎は目を震わせた。しかし涙は出てこない。これまでの胸苦しさが破壊され、空虚な胸に瓦礫が散らばっていた。
自分は望まれない子なのだ。父が早々に善光寺に行ったのも、そんな母の味方だからだ。この家の家族とは、父と母と仙六の三人なのだ。そこに自分がお邪魔をしているだけだ。弥太郎はそう悟った。
〈もはやこの家にいる理由がない〉
弥太郎はお膳を土間の洗い場にさげ、ひとりで縁側に座り、鋭く尖る月を見上げた。
翌朝も弥太郎は庭を掃き、仙六の子守りをし、昼に握り飯を半分だけ食べ、すぐに薪割りをした。そして土間の端に薪を並べ終えると、
「伝七さんのところに味噌をもらいにいってきます」
そう言って家を出た。
*
家出をするのは初めてだった。どこに行けばいいのかわからない。だがもう二度と帰るつもりはない。そもそも自分には生きている価値などあるのだろうか。田んぼの畦道を歩きながら、そんなことさえ考えた。柏原は野尻湖の向こうの山から日がのぼり、黒姫山に日が沈む。今、目の前に東へ行くか西へ行くか、道が別れている。
あれから何度か母の墓に行ったが、一度も母は現れてくれなかった。理由はわからないが、それも母の意志なのだと受け止めていた。しかし家出を決意した心に、もう一度母と眠りたいという思いがあった。
弥太郎は西へと伸びる道を選んだ。
しばらく歩いていると、道に小さな雀が横たわっているのが見えた。近寄って首を伸ばすと、子雀の腹が小さく震えている。なにか病気にかかったか、それとも悪い虫でも食べたのか、そんなことを思ってみてもどうすることもできない。弥太郎は子雀に向かって目を閉じ、手を合わせた。立ち上がり歩いていくと、前から馬を連れた村の大人とすれ違った。二、三歩歩いたところで、ふといやな予感がして振り返った。
「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」
あろうことか心が俳句となって口から出た。
〈あ、できた〉
思わず生まれた俳句に驚いた。と同時に体が固まった。
子雀の周りをどこから飛んできたのか、黒い歹が旋回しているのだ。弥太郎は歹を睨みつけた。久しぶりに湧いてくる怒りだった。とその瞬間、馬の後ろ足が子雀を踏んだ。横を歩く男はそれに気づく様子はなく、呑気な足取りで遠ざかっていく。
弥太郎は子雀に駆けていった。覗き込むと小さな腹が破け、中のものが飛び散っている。土を小さく赤黒く染めた真ん中で、子雀がかすかに痙攣している。しかし悲しみに心を裂く暇もないほど、黒い歹が蝿のように子雀の周りを飛び回っている。弥太郎は何度も手で払いのけるが、歹はむしろ喜ぶように踊り狂う。
弥太郎は歯噛みし、お前にくれてやるくらいならいっそ…… と人差し指をおそるおそる伸ばす。それはどんなことがあっても自分に禁じていたことだった。
〈おそらくこの子はこれで……〉
血まみれの子雀にそっと「歹」と書き込む。するとどこにそんな力が残っていたのか、子雀の体がびくんと跳ねた。そしてその直後、子雀はぴくりともしなくなった。弥太郎は目にふつふつと怒りをたぎらせ、空飛ぶ歹を凝視した。だが歹は弥太郎を嘲笑うように宙返りし、山の方へと飛んでいってしまった。
母の墓にたどり着いた弥太郎は、その閑散とした墓地のどこにも母らしき白いムがいないことを見てとり、森へと進んでいった。この先にはもう人の道はない。自分はどこに行こうとしているのか。だけどあの日白いムは山に消えていった。そしてさっき黒い歹も山へと飛んでいった。弥太郎はふくよかな土の絨毯を踏みしめ、まっすぐ伸びる杉や檜が立ち並ぶ緩やかな斜面を上がっていった。足元には赤い実をつけたもの、紫がかった葉を方々へ広げたもの、鯉のぼりに添える矢車のような葉をしたものなど、一度も見たことのない植物がそこらじゅうに生い茂っている。土の湿り気がそれらの苦い匂いや渋い匂い、甲高い匂いなどを立ち上らせ、ときには冷たい風が木々の清涼感のある匂いを舞い立てた。弥太郎は、木々も草花もみんな自分の匂いを立てることで話をしているのだと思った。斜面を見上げると、直立する木々の間を光の帯がいくつも伸びていて、弥太郎はこの光を体に当てたら気持ちよさそうだとも感じた。初めて一人で登る山は、自分をおおいに歓迎し、好奇心を刺激してくれている。そんなふうに弥太郎はしばらくの間、家出の暗い心持ちを忘れていた。
しかしみるみるうちに辺りが赤く染め上げられていくのに弥太郎は焦った。木々の上の方で葉々が火花を散らすように輝いている。その一方、足元の草花が闇の色を深めていく。山の向こうに日が沈む以上、村で迎えるよりもずっと早く夕暮れが訪れるのは当然であった。
木々に縁取られた空に星がまたたき始め、山はどっぷりと暗闇に沈んだ。深く、強く、奥行きもわからない闇である。途端にあたりが冷え始め、弥太郎の首筋を鳥肌が幾度も這い上がった。弥太郎は木々に手を当てながら、がむしゃらに斜面を進む。聞こえてくるのは自分の息遣いだけだ。足元が見えている時とは異なり、一歩を踏み出すのにも勇気がいる。弥太郎は闇の中で石や窪みに足を取られないように気をつけながら歩いていった。
どれほど歩いたかわからない。精魂尽き果てた弥太郎は木の根にしゃがみ込み、首を絞め殺されそうな寒さに小袖の襟を寄せた。
〈ああ、あれが最後だったのだ。木々や草花の匂いを嗅いだのが人生の最後の思い出だ〉
弥太郎は夜空に煌々と輝く月を見上げ、
〈おかあとは出会えなかった。でももういい。このまま凍えて死のう〉
そう目を閉じかけたとき、突如生ぬるい風が吹いた。
風は辺りの木々をさざめかせ、いつまでもやむ気配がない。空の高いところでも風は吹いているようで、厚い雲が流れてきて星々を隠した。
そのとき闇の中に小さいなにかが灯った。
それは一つ、二つ、三つとまたたき、そのうち百、千と増殖していった。
弥太郎は目を見張った。輝いているのは歹なのだ。
手のひらほどの無数のそれらの中に一つ、烏ほどの大きさのものがいることに弥太郎は気づいた。その大きな歹は弥太郎の前にゆっくりと進み出てくる。
「おお、幼き罪人よ。お前をどれほど待ち侘びたことか」
まるで火葬の時に僧侶が念仏を唱えるような唸り声だ。
「なにものだ」
弥太郎は震える声で言い返す。
「我らは死神。我はその長。灰色の世界に仕えるものだ」
「死神…… そういうことだったのか」
「二度、見届けさせてもらった。一度目は母。二度目は子雀」
大きな歹がそう言うと、周囲の小さな歹どもが弥太郎への距離を縮めた。
「なんともうまそうな命だ」
「な、なにを言う」
「飢えた子らの餌となれ」
言うが早いか、小さく黒光りする歹たちが一斉に弥太郎に襲いかかった。
弥太郎は手を振り、足を蹴上げ、暴れ回る。だが歹どもの押し寄せる圧力に負け、地面に額をつけ、頭を抱えてうずくまった。体中に無数の歹がヒルのように張りつき、その上から幾重にも積み重なってくる。弥太郎は凍りつくような寒さに襲われた。
〈ああ、寒い、寒い、寒い。そうか、死ぬということはこのように寒いものなのか〉
弥太郎の遠のく意識の中に、火花が散った。
『死にこぢれ 死にこぢれつつ 夜寒かな』
なんと俳句が閃いた。
よりによってこんなときに、と弥太郎はうすく苦笑いして唇を舐めた。
その唇に雑草の花びらが触れた。
『いざさらば 死に稽古せん 花の陰』
また一句できた。
だが体から急速に力が抜けていく。弥太郎はなんとか抵抗しようと頬を叩いた。
そこにキツツキが木をつつく音が重なった。
『きつつきの 死ねとて叩く 柱かな』
また一句生まれてしまった。だが今度は弥太郎を奮い立たせた。
〈これほどまでに句ができるのに、死ぬのは惜しい〉
弥太郎は土の匂いを嗅ぎながら考えた。
〈そうだ、この歹どもに、歹を書き込めばいいのではないか〉
弥太郎は指を伸ばし、目の前で光る歹に、歹となぞる。するとそれは一瞬で消滅した。死には死を。これだと思った。弥太郎は手当たり次第辺りにいる歹に歹の文字を書き込み始めた。十、二十、三十と必死に指を動かす。だが弥太郎を取り囲む歹の数は一向に減らない。
〈焼け石に水だ〉
弥太郎は仰向けになり、腕をだらりと地面に伸ばした。そして深い眠りに落ちかけたとき、遠くから近づいてくる雀の鳴き声が聞こえた。目を開けると、胸に白く発光する小さいムがとまっている。
〈おお、あのときの子雀か〉
弥太郎は胸にあたたかさを感じた。
〈死に際に立ち会ってくれるのか〉
じゃれつくようなその温もりに話しかけ、何度か撫でてやった。
〈なんと、手が動く〉
弥太郎は生気を取り戻していることに驚いた。
だが小さいムは、土に水が染み込むように弥太郎の胸に溶けていく。
〈待て、いなくなるな〉
そんな弥太郎の心の声を掻き消すように、小さいムは最後に一度、甲高い鳴き声をあげて溶けきった。深く息ができるほどに回復した弥太郎の胸に、光の染みが残っていた。
直後、見覚えのある白いムが煌々とその身を輝かせて飛んできた。
〈おかあ〉
それはまごうことなき母のムであった。
白く輝く母のムは風呂敷のように大きく広がり、まるで塵芥を払うかのように無数の歹を払いのけ、弥太郎を包み込んだ。
歹の長が様子を伺うように弥太郎を見ている。眉間などないのに、眉間に皺を寄せているみたいだ。だが、
「死ね」
鍋が煮えるような声で言うと、地面が小刻みに揺れ、枯れ葉がカサカサ音を立て始めた。途端に鼻を突く匂いが辺りを覆い、あちこちの土がぼこぼこと盛り上がる。腐乱した熊が地面から次々と這い出てくる。小さな歹どもが束になりそれらの右肩に張り付くと、腐乱した熊の大群は目を黒々と光らせた。そしてのっそのっそと弥太郎を囲み始める。
「食わせろ。おまえの命を食わせろ」
数百頭もの熊が唾液を口から滴らせ弥太郎に近づいていく。弥太郎は後退りしたが、後ろからもにじりよってくる。歹を書き込むことができたらいいのだが、弥太郎は熊に触れることなど恐ろしくてできない。
〈文字を切りなさい〉
突如、体を覆う光から母の声がした。
「文字を切る?」
弥太郎は訳もわからず、鸚鵡返しした。
〈そうです、早く〉
「はい」
弥太郎は素直に母に従い、正面の熊に向かって歹の文字を切った。
すると弥太郎の体からすっと母が離れた。眼前で再びムの姿になった母は何度も体をねじり、槍のような形になって空へと一直線に飛び立った。
それは一瞬であった。
夜空を覆い尽くす雲が二、三度光ったかと思うと、針のように細い雷が落ちてきて熊の脳天を突き抜けた。弥太郎はその閃光にたじろいだ。
撃たれた熊は前のめりに倒れ込み、溶け崩れるように土へと還っていく。
弥太郎はもう一頭、目の前の熊に向かって歹を切る。するとまた雲から針のような雷が落ちてきて熊の脳天を撃ち抜く。しかし熊はまだ無尽蔵にいる。呆気に取られている暇などない。弥太郎は肚を決め、次々と歹を切る。その度ごとに雷が落ち、熊は土に還った。
『稲妻を 浴びせかけるや 死にぎらい』
一心不乱に歹を切り続ける弥太郎に句が生まれた。
絶体絶命だというのなんて呑気なのだろう。自分のことながら弥太郎は笑ってしまった。そこから弥太郎は乗ってきた。歹を切る手の動きも調子よく、右の熊、後ろの熊、左の熊に切ってから、右を向いて二頭。軽やかな身のこなしで熊を打ち倒していく。
どれほどの刻が経ったのか、肩で息をしながら弥太郎は歹を切るべき熊がいなくなったのを見てとった。
歹の長が漆黒の木の天辺でこちらを見下ろしている。
「なんと愚かな罪人よ。母を殺せ、弟を殺せ。父さえ憎いだろう。もっと殺せば、お前はもっとうまくなる。またこの森で会おうぞ」
そう言い残して、霧が散るように消えていった。
弥太郎は咄嗟にしゃがみ込み、なにも見えない足元を手探りし、見つけた石を木の天辺に向けて力いっぱい放り投げた。
しばらくして近くの地面に石が落ちる音がした。
その静かな闇に弥太郎は母を、白いムの光を探した。しかしどこにもいない。もうこの森のどこにも光はなく、あるのは夜空の星明かりだけだった。見上げた弥太郎の頬に涙が伝い落ちた。体中がまだあたたかいのは母の残光のせいだろうか。こんなにも寒いのに土の上でよく眠れるような気がした。
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照り上げてくる朝日に瞼をくすぐられ、弥太郎は目を覚ました。そのまっさらな目に飛び込んできたのは、煌めきわたる光の野尻湖だった。そして辺りを見渡したら、昨晩どこをどう彷徨っていたのかブナ林であった。朝日に磨かれた冷たい空気が鼻の奥をつんと突いてくる。この山にももうすぐ雪が降るだろう。
『死神に より残されて 秋の暮』
まるで息をするように句が生まれた。
弥太郎は光の湖を見ながら感じ取っていた。この世に生者と死者を分つものはない。ただひとつの世に、光と闇があるだけだ。そして生きとし生けるものにもなんら差異はない。
弥太郎は家に帰ろうと思った。自分から胸を開いてみよう。それだけで仲直りできるところもあるかもしれない。しかしまた嫌気がさせば、どこにでも家出をすればいい。
弥太郎は歩き始める。風が透明な鯉のぼりのように泳いでいる。キツツキが二、三羽、おかしな拍子で木をつつき、小鳥が枝から枝へとはしゃぎまわっている。低木の葉陰から飛び出してきた狐の親子が跳ねるようにしてついてくる。緑色の蝶が弥太郎の鼻先で踊っている。まるで森が宴をしているようだ。木々に手を触れ山を降りる弥太郎は、死ぬまでにいくつ俳句ができるだろうか、そんなふうに思うと歩みが軽くなった。
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