世界樹の上で蛇が打つ

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梗 概

世界樹の上で蛇が打つ

シンプルな○✗ゲームの場合のゲーム木、囲碁のようなゲームでは、ゲーム木は遥かに巨大になる。

生死を司る世界樹の根ざす惑星が崩壊に向かっていた。世界樹は命を記録し、葉が1つ付く時に1つの生命が誕生し、落葉の際にその生命は失われ、記録は根に移る。時の移ろいと共に、根の記録は再び新芽として現れ、同じ命が生まれると知られていた。世界樹は天に届き、星の核近くまで根を張り、生態系は栄えたが、植物病「ニーズホグ」に侵されていた。病魔は樹の枝を落とし大量死を発生させ、時に新芽を絶やし、生命の誕生を抑制した。葉から根まで縦横無尽に蠢く病魔は蛇に似ていた。

滅ぶ星を捨て、別の星へ世界樹を移植する計画が始動した。しかし、10の500乗もの葉を持つ世界樹全体を移すことは物理的に不可能であった。

後世に算法アルゴリズム理論を500年進めたと言われる天才数学者アーベルは一人、世界樹の解析を行っている。彼は「誰も自分を認めない」と世間を疎み、死別した恋人リーサを求めていた。リーサは彼の子を宿したが、ニーズホグの影響で出産は失敗し、母子共に死亡していた。彼は一見すると無規則に広がる根の中に法則を見出し、彼女の記録される根を見つけ出そうとしていた。ニーズホグの蠢きが彼の解析算法を妨害していた。

ある日、アーベルは樹の解析中に自らの算法と競合する別の算法を発見し、旧友であるリーと再会する。リーは植物学者のモエと共に世界樹の移植計画を率いていた。リー達は(1)病魔が含まれず、(2)良い生態系を生む、(3)できるだけ大きな部分木を見出すことを目的としていたが、病魔の蠢きと世界樹の広大さ故、途方に暮れていた。
 
一度はリーに協力しようとしたアーベルは、モエがリーの子を妊娠したと知り、リーと自分を比較して傷つき、沈黙する。

モエとリーは病魔の蠢きのパターンが、あるボードゲームをAIがプレイする際に先読みと手の決定に用いる木構造、ゲーム木の解析に似ていると気づく。世界樹に刺激を与え、病魔のパターンを盤面に見立てて、算法で手を打つと、病魔が反応し手を返した。部分木の抽出を成功させるためには、病魔を劣勢にし長考させる必要があった。リーは学生時代、そのゲームでアーベルに一度も勝てなかったのを思い出す。

アーベルはリーに煽られ、ゲームをプレイする。手強くなったと感じつつ、相手がリーでなくニースホグであると気づき、結局はリーに協力していると笑う。病魔は強く、何度も劣勢に追い込まるが、美しいゲーム解析の理論を新発見し、勝利する。その間、リーは世界樹の解析を成功させ、言った。

「よう天才、俺はライバルにすらなれなかった。見つけた部分木の根に、君の恋人もいるよ」
リーは密かにアーベルの目的を察していた。

居住可能な星へと部分木の移植が行われ、新しい世界樹が健やかに伸び始め、新たな生態系が生まれた。
後世、リーサの生まれ変わり、ゲーム好きの娘は、算法の書物の中に、かつて彼女を愛した男の作った美しい理論を見つけ出す。

文字数:1239

内容に関するアピール

人類を倒したアルファ碁が巨大な解空間(可能な手の空間)を効率的に探索する時も、日常で検索エンジンを叩いたりするときも、木構造と呼ばれる構造が活躍しています。機械学習における決定木も有名かもしれません。赤黒木、平衡二分木やスケープゴート木なんていうワクワクする名前のものもあります。アルゴリズムにおいて、木構造は普遍的です。
 神話の本を読んでいて、ユグドラシル(世界樹)の神話が面白いなと直感した後調べた所、北欧だけでなく、世界のあちこちに世界樹・宇宙樹のモチーフが普遍的に登場するのを知り、木=樹の普遍性で神話と計算機科学をつないでSFできないかと思いました。
 転生を信じる人々は、愛する者同士再び巡り会えるように、同じ木に入れることを願うでしょう。しかし、それが叶わなかった場合も、美しい普遍的な数学構造は時を越え、いつかまた見いだされます。生まれ変わりの後、かつて愛した者が発見したのと同じ数学構造を見ながら飲むコーヒーは、一体どのように薫るでしょう。

文字数:428

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その線が遊ぶと、意味もなくわかれてしまうふたつ

はじまりの時、そこには何もかもがなかった。
虚空だけ、何の基準点も持たない透明な空間だけが存在した。
ラインが現れる。いくつも、いくつも。あるラインはまるで数学の直線で、遥か彼方から遥か向こうの無限遠までずっと伸びていた。
空間を真っ二つに、こちらとあちらを永遠に分かつように、勢いよく、無敵を確信して突撃する槍兵のように。

――『何度でも鮮やかに、線により描かれる世界』第一章第一節 
                         トウワ・コクリョウ

1

 もう取り戻せないものも多いけれど、彼に謝りたい。謝るだけですべてが元通りになるわけはないのだけれど、たった一言でいい、彼の混血の緑の瞳に自分の姿を映して、こわばってしまう喉は、緑の気味悪い毛虫みたいな声しか出さないかもしれないけれど、想いを伝えたい。
 隣り合う二つの国、ヒニアとクランを分かつ線。大地の上に刻まれることのない幽霊、あるいは亡霊のような国境の線の近く街。ヒニアの外れで、傾きかけた陽がほこりっぽく土色に照らす人混みの慌ただしさの中、ナオキはぼんやりと彼のことを想った。彼の気配、彼の影がどこかの軒先や、路地の暗がり、香草烟草ハーブシガーの煙でぼんやりと曇る店の中にないかを何度も確かめながら、あてどなく、風に任せて飛び交う蜘蛛の巣のように歩き回っていた。
 喧騒。あの日とはまるで異なる、やかましさ。
 永く閉ざされた国境の向こうから、隊商の荷馬車が幾つもやってくる。許可を受けたものだけが、関係がこじれ、いがみ合い続ける二つの国の間を行き来することを許されている。彼らは歩み、二つの国をつなぐ、その軌跡がもし、ラインと繋がっているのなら。彼らの旅路を、誰でもなぞることができるというのに。
 右腕、手首から肩にかけて、くすぐったさ。
 モエがナオキに贈った組紐のブレスレットのささくれた所がほどけて、長い糸に分解していく。ラインへ戻ろうとしている。編まれたラインは、彼がこの街に来るまでに、たどってきた一本の道筋、誰かが語り継いできた旅路だった。
 左手でほどけて自由な世界へ跳ぼうと動きはじめたラインを抑えようとすると、ラインは編まれた順番と丁度逆の順番を守りながら丁寧に解けて左手に巻きなおり、編まれ直して元の組紐に戻った。
 どうやら落ち着いたらしい。ラインはどれも、悪く言うと気まぐれに人を振り回し、良く言えば天真爛漫で可愛らしい。彼ら、などと言って性別をほのめかすのは正しくないかもしれないが、彼らを掴んで引き寄せる、手繰ると、彼らが体現する軌跡をなぞることができる。ラインがはじまる点からおわる点まで、この世界とは異なるラインの世界を通って、移動できるのだ。
 歌い継がれ、語り継がれた風景と旅の軌跡、ライン、緑の草原を突っ切り、小川のせせらぎを横目に藪を漕いで山へ入り、険しい沢筋、岩場を引き上げられて峠の向こうの崖を鹿に乗って下り、時に曲がり、木立の中を迷って円を描いて、行っては帰っての螺旋、迷う道のり、旅が終わると、風景はラインのからだに記録され、からだはほとんど太さのない糸になって実体化する。
 糸のように見えているのは、ラインのからだのうち、この世で見えている部分に過ぎず、それより他はすべて視覚の及ばないところにある。さわることも、香りを聞くこともできないけれど、風の唱和する歌声のように確かに存在している。交差する平面のなす空間、概念の上の場所、彼らの多くはそこに住まう。旅の軌跡を表すものが、時おり人の世界にこうして現れる。人の世界で彼らを掴むことは、彼らの世界で彼らのからだをたぐることに対応する。空気のまさつも、空を満たし色を与えるひかりも、その速さも、速さを規定する時間線も、一切がなく、純化された抽象の空間。ラインの世界。
 ナオキは思い出す。
 ラインのことを教えてくれた、今は亡きソジンのことを。
 ナオキとモエと、ナオキの追いかける男、彼、テオは同級生だった。
 土煙の立つ喧しい雑踏を抜けると、背の高いブルーの壁に囲まれた学校が現れた。昼下がり、古びた後者の前に据えられたベンチで、ランチボックス片手に少年少女たちが談笑している。ナオキたちも三人でよく話した。よく遊んだ。ラインのことを知ってからは、ナオキとテオは国をまたいで旅をした。昼も夜も忘れて、ラインを見つけては捕まえて、あるいは彼らのご機嫌を取って、握りしめて手繰りよせて、彼らの世界を瞬時に飛んで、軌跡の指し示す終点へと移動した。
 思い出す。ソジンの手。長年の苦労が刻んだシワとシミ。その手が白い紙に描き出した平面と線。真っ白な空白を不格好な直線で二つに割って、右手側に、下手くそなヒニアとクランの地図、左手側に数学の授業で教師が黒板によたよたと書いた作図問題の解みたいに線を描いて、左側の幾つかの線から右側の地図に矢印を伸ばして、対応を示した。ラインの世界と、人の世界は結ばれているんだと、穏やかに話した。彼が若い頃、二つの国をまたいだ旅が、今もラインとして生きていると、ガラス瓶に封じられた白く長い紐、蛇みたいにうねるラインを指で示しながら笑った。
 テオ。今は一体。どこにいるのか。
 国境の街、ここはまさに、テオに似ていた。必ずこの街のどこかにいる。
テオが辿ったであろうラインが逃げ出してモエの家に戻ってきたのを、偶然捕まえて、彼の足取りを掴んだ。花の匂いを含む。ヒニアの国花のサクラよりも甘くて、熟したような、秘めた強さを爆ぜさせるような香り。国境線、勝手な線の向こうから、自由な風にのってやってくる匂い。馴染みのない匂いだけれど、知っているように感じられた。
 マーケットの西門の外れ、遥か西の国の民族の聞き慣れない七音階の音楽が鳴る食料品店のほど近く、人だかり。怒声。野太い男声に導かれるようにナオキは高い背の男たちを掻き分ける。
「おまえらの訛りはすぐ分かんだよ。早く国境越えて帰りやがれ。ここは俺たちの国だ。俺たちの優秀な祖先が勝ち取って、俺たちが収めた税で成り立ってる場所だ。おまえらが色んなモノにタダ乗りしてるのにうんざりしてんだよ。ここはお前の場所じゃねえ。早く帰りやがれ」
 ヒニアとクラン、両国の緊張した関係が何十年も続き、お互いに対する異化のまなざしがすっかり人々の間に根ざしてしまった挙げ句、どちらの国においても経済が低調に推移し続けるにつれて、公の場でのあからさまな差別的発言が目につくようになった。えぐるような攻撃性を持った言葉が飛び交うのはさることながら、当事者でなければ気にもならないところ、例えば普段の買い物だとか、就労だとか、そういったところでの差別は透明な液体のように暮らしに溶け込み始め、誰もがそれに慣れはじめてしまっていた。
 怒声を上げる男の頭が照り返しでひかる。スキンヘッド。あまりにも紋切り型の極端な差別主義者が顎を突き出して、斜め上から見下すように向かい合う男に汚物を見るような視線を向けている。ひかり輝く頭の向こうに、清潔感ただよう背の低い男たちが何人かと、薄化粧の平凡な中年女性が何人か立っている。彼ら、彼女らは事態の成り行きを静観する観客と言うよりは、スキンヘッドと同じような温度と色、同じ視線を向けているひそかな当事者であった。
「不快にさせたなら。謝ろう。それでいいか?」
 ゆっくりと落ち着き払った、芯の通った声の抑揚。聞き覚えがあって、ナオキは目を開いた。邪魔な野次馬たちを掻き分ける手に思わず力が入り、幾つもの舌打ちが聞こえた。
 スキンヘッドが掴んだ手を離し、挑発するように両目を開いて嘲る。
「謝罪なんかいくらもらっても何にもならねえよ。帰れ。出ていけよ」
 解放された男は何も返さず、スキンヘッドの脇を抜ける。差別の当事者の男たち、女たちをそっと掻き分けて進む。臆病な人だかりは自然と彼に道を開ける。彼の背中は堂々としていた。昼下がりの太陽のひかりが、彼の尊厳を高らかに讃えるためだけに差し込んでいた。
 ナオキは男を追う。彼のために開かれた人の海が閉じるのをこじ開ける。
 人混みから離れた男が、左手首の組紐に右手を伸ばしている。
 遠い。模様までは見えない。大きさはモエが編んだもの、ナオキが身につけているものとほとんど同じように見えた。
 組紐がほどけて、薄白いラインがひかりを跳ね返して輝く、輝きに包まれて、男のすがたが薄れる。男の目の前で螺旋を描くようにくるくると長いからだを露わにしたラインを、男が掴んで引き寄せる。男のすがたが更に薄れる。移動の始まりだった。ナオキは駆け出して、何年も追いかけていた彼、恐らくはテオの右肩を掴んだ。
 ラインに引っ張られる身体。
 ひかりを跳ね返すことを忘れ、薄れる。ラインの世界、彼らが住まう空間で、ラインが表す軌跡がたどられはじめる。人間の世界の方に残った感覚と意識、視覚に捉えられた世界の様子が目まぐるしく、早回しの影絵のように動いているのが知覚されていく。国境にほど近い街を出て、真っ直ぐに真東へ、蛇行する道路は無視されて、世界を真っ二つに貫くようにくそ真面目に東へ進む。このまま行けば、クランに入る。どこまで、いくのか。ナオキにはまだ分からなかった。
 唐突な停止、引く力が止まる。背丈の似た二人の男の足裏に戻る大地の感触。鉄条網と検問所が遠くに見える。国を隔てる線がほど近い。見張り塔の上で兵士が動くのが分かるくらいの距離、いつ攻撃を受けてもおかしくない距離。気配が張っていた。軽く弾くだけで、畏れの音をわななかせそうなくらいに。
 ナオキの瞳に、よく灼けた男のすがたが映る。白い麻のシャツに浮き出す分厚い胸板、浮き出た血管、太い腕。雄々しく成長した、追いかけ続けた友の逞しい姿。緩く差すひかりを受けて地に落ちる、甘い影。
「テオ。やっと会えた」
「ナオキ。久しぶりだ。でも、ついてくるな。これは俺の問題なんだ」
「あの日から、ずっと会いたかった」
「オレも。いや、オレは。どうだろうな。正直、会いたくなかった」
「謝りたい。そして、一緒に帰ろう。モエも会いたがってる」
「謝るなんて。求めてないよ。ソジン爺さんのことも聞いた。でも、お前のせいじゃない。それに、やらなきゃいけないことがあるんだ。もう、追いかけてくるな」
 国境に接近した不審な人影を見た警備兵が警報を発令する。攻撃の警告、両手を上げて地に伏せろという命令、従わなければ命を奪われるだろう。ナオキはどこかから、粘っこい視線を感じた。テオでもなく兵士でもなく、背中側に。
 強い語気の警告、処罰の対象の不審者を叩き伏せようとする一方的な圧力。捕まれば、しばらくの間、劣悪な牢屋で犬のように扱われるのが目に見えていた。
「お前も逃げろ、ナオキ。今回は助けてやるよ。幽霊に頼んでおいた」
「幽霊?なんだよそれ」
「ソジンも言ってたろ。忘れたのかよ」
 思い返そうとするが、迫りくる拘束の緊張感が明瞭な思考を妨げる。
「いつもみたいに、引っ張るだけだ。幽霊だから、目に見えないけどな」
 テオの姿が足元から薄れていく。ナオキは自分の左手首に巻き付いた組紐を見つめる。ここは彼の持つラインのはじまりの点でも、おわりの点でもない。だから、助けてもらうことはできない。背中側、視線の源に意識を向ける。なにかの気配。テオが言った、幽霊。いつもラインに従って移動する時と同じように、強く握った拳に力を込める。つむった瞼の裏、貼り付くひかりの感触が失せていく。ラインに引かれて、移動している。真西へ、来た道を戻る。西へ、西へ、ヒニアの西側へ、安全地帯へ。
 足裏に馴染み深い感触。故郷の街。
 ナオキとテオ、モエが生まれ育った静かな街。
 ナオキは息を吐いて、後悔した。
 結局、謝ることができなかった。

 

 

 ラインが直線を引いて真っ二つにした世界のこちら側。
 別のラインが猫の足のようになめらかに曲がって、自由に跳ね回った。跳び上がる度に、どこまでも空疎に広がっていた色のない平面に高さが生まれた。ラインがはじまりの点からおわりの点まで軌跡を描くと、眠いような、動くのが面倒な気分になって止まった。それから、始点と終点から新しいラインたちが生まれた。親のラインを真似て、同じようなところで跳ねて、休んで、曲がって。繰り返した。
 真上から見ると、まっさらだった平面に、いつの間にかやまなみが描かれていた。西に、東に、北に、南に。元気な男の子みたいにラインたちが駆け回るたびに、削られたての樹木みたいに軽やかなに香りながら世界があらわれた。

――『何度でも鮮やかに、線により描かれる世界』第二章第七節 
                         トウワ・コクリョウ

2

 四十年前に建てられた白い壁の集合公営住宅、未来に対する期待に輝いて居た頃のことはいつの間にか忘れてしまって、身寄りのない貧しい老人たちの終の棲家となっており、風雨による塗装の剥げは斜陽の色をしていた。
 ソジンもそんな老人のひとりだった。街の大半の人間から見れば、薄汚い老いぼれであった。テオが彼と出会ったのは全くの偶然だった。近場の公園の隅に不法に捨てられた書籍の束の中に、テオが幾つもの旅行記や冒険譚を見つけたのだ。十年前、ナオキもテオも、それからモエも高等学校に上がりたてだった。テオは通りかかる度に本を拾って帰ったから、それほど広くない彼の家の廊下にはみ出していった。
 夜勤明けのテオの父親が、一見すると薄汚いだけの本に躓いて頭を打ち、彼はすぐに片付けろと怒鳴られた。テオは早朝にナオキを呼び出して、お気に入りの本を何冊か部屋に置いてくれと頼んで、どうしても片付かない何冊かを元の場所に戻しに行った。春がまだ青白い冬色の下着を履いたまま、メロウイエローの半袖を着て寝起きの街を散歩している頃だった。
 新しく二束ほど本を捨てようとしていたソジンが警備員に捕まり、どういうつもりなのかと問い詰められているところに、本を捨てに戻ったテオがそれを見て「おじいちゃん待たせたね」と孫のふりをした。はじめは訝しんでいた警備員はふたりが三言ぐらい話すのを聞いて、納得したような顔をしながら、テオに対して幾つか小言を言って立ち去った。その時のナオキには、微妙な間を置いた警備員の納得の正体はよく分からなかった。
 ソジンは長い白髪を後ろで気だるそうに束ね、憂うような眠たそうな顔をしているから、実際よりは随分老いぼれに見えたけれど、夏になるとたまに履く短パンから、美しく張った太い筋肉を覗かせていた。傷だらけの骨ばった腕からも、山野や海の危険な局面を乗り越えた経験が獣のように匂い立ちそうだった。
 二つの国をまたいで幾つもの旅や冒険を重ねたという彼は、すでに閉ざされてしまった古い旅の道の話を何度もナオキとテオに話して聞かせた。いつの間にか、二人はソジンの家に放課後集まるのを趣味とするようになった。旅の話を聞いたり、岩壁の登攀技術について教えを請うたり、釣りや狩りの仕方、二つの国に旅人が語り継ぐ風景の話なんかをした。教室で二人と座席を近くしていたモエも興味を持ち始め、時間がある時は二人についていくようになった。
 ソジンが淹れる茶からはいつも不思議な香りがして、いちど鎮まった心がゆるみ、ほどけて、ふわりと浮き上がるような心地よさがした。テオはよく、注がれた湯に茶の色味が付く様子に釘付けになっていた。懐かしい香りがするとこぼすこともあった。三人がはじめてラインの話を聞いたのは、よく熟成された古い茶葉の芳醇な香りの漂う中のことだった。ナオキに茶葉の山地を聞かれたソジンは、いつもどおり少し誇らしげな目をして、クランの東の外れの高地だと答えた。
「いつも思うんだけど、クラン産だと、今は手に入れられないだろ」
「俺の若い頃は、ヒニアとクランの間の行き来は自由だったからな。その頃に持ってきたやつを熟成させて、大事に飲んでる。君らには俺の思い出を分けてるんだ。俺の旅の話と一緒に、この匂いも、誰かに話して、継いでくれりゃいい」
「自由だった時代は、全然想像できないよ。古い旅行記も軒並み絶版になってるからさ。歴史の授業じゃほとんど敵国みたいに扱われてる」
「この街は国境からは何千メートルも西にあるがな、こんなに離れたところにも、たくさんのクラン人が住んでいたんだ。実は俺も、クラン人の女と結婚するつもりでここに申し込んで住み始めたんだ。結局、色々あって、別れる羽目になったが。あの頃は、俺たちみたいな恋人たちが山程いたんだ」
「パパから聞いたことある。幾つかテロが起こった後、国境付近で戦いが起きて、たくさんのクラン人が元の場所へ返されたんだよね」
「悪い。オレ、ちょっと外で吸ってくるわ」
 モエが保守的な警察官の父親から聞かされた教科書どおりの平たい知識を披露すると、テオは始めたばかりの香草烟草ハーブシガーを吸いに外へ出た。深く複雑に、苛立ちと諦めが混じり合うような眉間の力、瞳の乾き。ナオキは、テオがシガーケースもライターも忘れているのに気がついて、モエとソジンに気づかれぬようにポケットにねじ込んだ。
「元の場所なんてのは、本当はないんだよ。ヒニア人もクラン人も、元は混ざり合いながら暮らしていたんだから。今だってこの国の北の方には、いくつかはクラン人の街があるはすだ」
「学校じゃそうは習わねえけど、僕はソジンを信じてる。クランに入るのは並大抵じゃ無理だけど、北の方ならもっと簡単にいけるかもな」
「でも、北は治安が悪くてロクでもないって、パパがよく言ってるよ」
「モエの父親は頭が固いからな。締め付ける側なんだからさ」
「パパを悪く言わないでよ」
「二人とも、落ち着きなさい。俺の世代や、もっと上の世代がクランやヒニアの北の方をうろついた旅路を、君たちはみんな、なぞることができるんだ。それどころか、大昔、おれたちの先祖が山を踏み、川を渡り、森を切り開いた道筋だって追うことができるんだ」
「旅行記とか伝説なら、ソジンが捨てようとしてたやつをもう何回も読んだよ。モエは家で読んでたら、父親に取り上げられそうになったんだっけ?」
「図書館から借りてきたって、誤魔化すのが大変だった」
 旅行記は少しずつ公の場から姿を消していた。偽りの利用者によって永遠に借り続けられ、けっして元の書架に戻らない悲しき本が幾つも存在していた。司書たち度々、国からクランについて記述された本を破棄するように命じられていた。彼らはせめてもの抵抗として、閉架書庫の一番奥、本と文字の海の底へ本を沈めて、破棄したように見せかけるなどしていた。
 部屋の奥、ひかりのない棚を漁ったソジンが二人の元へ戻ってきた。
 澄んだガラス瓶がふたりの間に置かれた。
「細いのが動いた?虫?」
「モエには、見えたか」
「動いてる。なにこれ。細長い。今、くるって回った。ひかりが当たらないと、全然見えないけど」
「僕には全然見えない」
「ほら、いま、瓶の蓋の底のあたりでくるくる曲がって、朝顔みたいになってる」
「だいぶ長く閉じ込めてるからな、機嫌が悪いかもしれんが」
 ソジンが蓋を開く。解き放たれた細長いそれは、受けたひかりを眩しく撒き散らしながら暴れて、壁から壁へ跳ね回ったり、ナオキの足先から腕に巻き付いて首元から抜け出したと思ったら、今度はモエの左袖から飛び込んで胸元で暴れ、長いスカートの下から這い出てきて、最後はテーブルの上、ソジンの前で精巧なバネみたいに立てに幾つも同じ大きさの円を巻いて動かなくなった。
ラインだ。旅の軌跡だ。お前たち、寒いといけないからこれを着なさい。ナオキ、テオを呼んできてくれ」
「ライン?なんだよ。それ」
「いいから、とにかくテオを呼んできてくれ」
 日当たりの悪い外廊下が、必死に息継ぎするように明るさを見せる暖かな外階段、その先の屋上で、遥か東の遠くを見つめながらテオが立っていた。ナオキの足音の方を向いて誤魔化すように小さく笑い、ナオキが手渡したシガーケースから烟草を一本抜き取って咥え、もう一本をナオキに手渡した。
「烟草、取りにくりゃ渡したのに」
「別に、我慢できなかったわけじゃねえからな」
「分かるよ。でも、モエも悪気はないからさ」
「分かってる。オレの回りに、悪意のあるやつなんていないよ」
「ソジンが呼んでる。あと、これを着ろってさ」
「なんだよこれ。こんなの着たら汗掻いちまう」
「おーい。早くしろ。こいつが機嫌を損ねちまうだろ。モエ、こっちに来なさい。もう屋上から出発しよう。四人も連れて行ってくれるか分からんが。まあ、途中で降ろされても、頑張れば帰ってこれるだろう。モエはともかく、お前ら二人なら」
「出発?」
「北に行くって。わたし、どうしよう。門限、あるし」
「いいか、モエは俺の左手を、ナオキはモエの左手を、テオはナオキを掴みなさい。はじめてだと酔うかもしれないな。途中で怖くなったやつは目を閉じたほうがいい。上着は着たな?行くぞ」
 ラインと呼ばれた一筋の糸は、ソジンの左腕の回りを何周も回ってまとわりついていた。皺だらけの右手がそれを掴む。ひかりが老体を透過しはじめ、色が失われ、動き回る糸を掴んだ右手から順に、霞むように消えていく。モエは唖然としながらもソジンの手を掴む。繋がったところから彼女の身体も像を失っていく。ナオキ、それからテオが続く。
 操り糸に引かれるように身体が動いていくのを誰もが感じていた。久しぶりの感触にソジンだけが笑い、若者たち三人は全員は戸惑い、状況をまるで飲み込めないまま、街を外れ、畑の合間の拾いあぜ道をひたすらに進み、丘を越え、川を越え、向こうの山から顔を覗かせた黒雲が降らせる静かな雨、ぬかるんだ柔らかい土に足を沈ませることもなく、北へ、太陽から離れて、雨露の中、歌う蛙の声を聞きながら、湿った生っぽい息を繰り返す藪草の道を抜けて、高度を上げる。
 急峻な峠道、向こうに赤土、山を越えれば、荒れ地の群れ、ヒニア北部。風があおる砂煙の匂い、視覚とともに、実感が引かれていく。
 単調な速度。
 人のための道は途切れ、波のない青い鏡に白い薄雲が幾重にも映り広がる。水の方から山側へ吹き抜ける風は冷たく乾いていたが、小魚をついばもうと片足を上げたまま狙いを定めていたピンクの鳥たちは気にもとめない。
 モエが両手ですくいあげた水を投げると、静かの中に幾つもの水音と小さな波、鳥たちはうざったそうに飛び立って、邪魔が入らないくらいのところに降り立ってまた狩りを始めた。四人を引いてきた輝く糸は、今は束ねられたソジンの長髪の根本をきつく締め付けている。
ラインに従えば、こうやってな、語り継がれた軌跡を追いかけられる。どうだ?あの向こうに、昔はクラン人の集落があったが、今はどうかな。見えない気もするが」
「僕ら、北部のどこかについたっていうのか?」
「俺が前に君らに話しただろう。北の方を周遊したって。今のはあの時通った道だよ。山道はあんなに荒れ果ててなかったがな。見える気色はまるで同じだ。北部地方の南端、この湖のほとりで力尽きて、倒れた。だから、今辿った旅路のラインは、ここまでだ」
「信じられねえ。だって、本当なら二日はかかる距離だろ」
「ラインに引かれる時は、俺たちはラインの世界を通ってる。絵に書かれた線の上を進んでることになる。あそこには時間もなにもないんだ。瞬間移動だな。ラインたちに取っては向こうが本当の世界で、俺たちの世界はその影絵みたいなもんだ。ラインたちは気が向くと、こうして俺たちの世界にやってきて、紐みたいになって、虫とか蛇みたいにうねうねしながら生きてるんだ」
 ソジンの左手首に何週にも巻き付いて腕を飾っていたラインがほどけ、弦を巻くように左肩、左胸、腹、それから腰を巻いて右足の方へ動いて、今度はナオキの足から膝まで登って、むずがゆさを払うかのように小さく震えた。ナオキがそれをつかもうと右手を伸ばすと、ラインはからだを翻してテオの方へ向かった。
「テオ。逃がすなよ。逃がすと俺たちは、帰れなくなる。逃したら、ラインの幽霊にお願いしないといけなくなる。だが俺には、幽霊は見ええねえから、見えるやつを探してこねえとな」
「なに?幽霊って?そんなのいるの?ナオキはビビリだから、逃げ出すかも」
モエが茶化すように笑った。
「逃がすなって、どうすりゃいいんだよ」
「そっと手を伸ばして、優しくしてやれ。女の子の相手をしている時みたいにな」
「なにそれ。この紐みたいのにも、男とか女とか、あるの?それだったら、テオだと逃げられちゃうかも。だっていつも、クラスの子達相手に怖い顔してるから」
 何の悪気もなく、モエが感じていたことを口に出すと、テオは酷く浮かない顔をして、口元を諦めたように緩ませた。素早く、空気を刈り続けるハチドリの翼の残像のように眩い跡を描き、ラインがいたずらっぽくうねりながら、細長く骨っぽいテオの指先に巻き付いてとまった。指で摘めるくらいの左右対称な可愛らしい輪を作って、スミレと戯れる可憐な白蝶のように結び目を作った。
 ソジンが歩み寄り、テオの肩を叩いて口をやたらと大きく開いて笑った。
「気に入られたんだな。テオ、そのラインはお前にやる。さあ、帰るか」

 

 

 世界の方が嬉しそうに笑うと、ラインたちも楽しくなって、また動き回った。うっかり者のラインがはじまりの点からぐるりと回ってまた同じ点に帰ってきてしまうと、閉じた軌跡、閉曲線は外から分離した一つの島になった。閉じられた島の中で別のラインが島づくりを真似して、始めの場所から終わりの場所までぐるりと回ると、湖ができた。
 世界の別の場所で、もっと大きな閉じた軌跡が描かれると、それは大陸になった。飽きたり疲れたりしたら休み、誰かに代わってもらいたくなったら別のラインに使命を託して。繰り返せば繰り返す度に世界の輪郭とかたちが明確になるのだった。
 ラインたちみんなが飽きて、大体が止まってしまった後、上から眺めると、わたしたちの住む世界がありありと浮かび上がる。
 それは、美しくあまりにも繊細な線画の世界地図だった。

――『何度でも鮮やかに、線により描かれる世界』第三章第一節 
                         トウワ・コクリョウ

3

 ラインのことをソジンから教えられてから、ナオキとテオは学校なんかに行かずに旅ばかりするようになった。座学よりも遥かに多くを、ふたりは旅から学んだ。旅先の話をふたりから聞く度に、モエはいつも目を輝かせて、他愛ない質問をした。何を食べたのかとか。天気はどうだったのかとか、どういう人に出会ったのかとか。父親を心配させないように気を使って、遠くまで旅することはなかったけれど、近くの山や川に行く時は一緒についていった。
 ソジンから受け継いだラインを起点に、ふたりは北部のあちこちを巡り歩いた。北部のクラン人の集落を幾つも巡り歩きながら、集落の祭りで歌われる歌に合わせて舞う幾つものラインに出会うことができた。雲の遥か上まで届き、季節を問わず雪に閉ざされた急峻な山々がひしめき合う北部地方の旅の軌跡はどれも短く、集落から集落をほそぼそとつなぎながら、氷の断崖に阻まれた美しいカルデラ湖の姿や、森林限界の間際で旅人を癒す強い硫黄泉に至る幾つものラインとして結ばれていた。
 歌い継がれた旅路の物語に合わせて揺れ踊るラインたちはどれも、暗闇のなか揺らぐ灯火の中で青白く幽玄に輝き、揺れ終わると銀糸で編まれた髪飾りやバンダナの刺繍に擬態して静かになった。
 モエは集落の話を聞くと、二人が手に入れたラインでいくつもアクセサリーを編むようになった。組紐のブレスレット、ピアス。ハンカチの刺繍。いくつかのラインは抵抗することなく編まれ、縫われたが、拒否したラインたちはモエの部屋を飛び回った。
 北部で出会った幾つものラインを掴み、引き、彼らに導かれるようにふたりは山々を旅した。断崖の上へ、氷の湖の上へ、つらら舞う青白い鍾乳洞の奥底へ。軌跡をなぞる途上、ラインに引かれながら移動する何人もの旅人に出会った。ボロ宿で食卓を囲みながら、旅人同士がラインを見せ合い、時には交換した。それが古からの習いだった。数は減ったけれど、ラインを使う旅人はそこかしこにいるのだった。
 一度、二人は身体を寄せ合って、遺言をささやきあったことがあった。ずっと一緒にいたい。そう言ったのをナオキは今でも思い出せる。
 ヒニア北部の民謡によく現れる氷壁に刻まれた洞穴からは、己の肉体を駆使して下ることは到底できそうになかった。ふたりを導いてきたラインは移動のしはじめから全く落ち着かず、ラインの世界の方で唐突にふたりを導くのを止めた。墜落した登山者によって穿たれて止まったままのハーケンのように。本当の目的地に至る前で止まって、ふたりを突然、ヒトの世界の方にもどしてしまってから、やんちゃなラインは、吹き付ける氷の風が戦慄き、畏れの歌声を上げるのを聞くと、高揚して飛び回り、洞穴の入り口から出て帰らなくなった。
 いきもこえも、血さえもこおりつくさむさ。
 いしきが遠のく。
 ゆびさきのいたみと共に、あたたかさのすべてがきえる。てもあしも。
 死ぬのか。しぬのだ。ふたりは思った。
 銅の板のように重くなった毛布に包まれた肉が、肉であることをやめようとした頃、モエの編んだ組紐のラインがひとつひとつ解けて、目を閉じて抱き合うふたりの周りを舞い、絡み合い、白い繭のように編まれはじめた。ふたりの身体の位置する氷壁の内部はどのラインの旅路のはじまりでもおわりでもない知らない場所だったから、ふたりを軌跡に沿って移動させ、どこか別の場所へ助け出すことはできないのだった。
 ナオキは固まった身体から浮遊した感覚に幸福が流れ込むのを感じた。
 テオは身体全部が見えないラインに載せられているように感じた。
「お前ら。聞こえるか?」
 ふたりは、気づくとソジンの家に居た。
 狭いシングルベッドで目を覚ましたナオキは、テオの寝息を聞いて安心した。頬の動きが悪い。取り戻されたあたたかさに凍りついた言葉が溶け落ちるようだ。壊死して腐り落ちることなく顔が顔としてまだそこにあることに感謝しながら、彼はソジンに事の顛末を話した。語り継がれる氷壁についても。
「お前ら、幽霊に助けられたんだ。ラインの幽霊だ。お前らがいたのは、ここだ。ここから本当に真北に真っ直ぐだ。旅人は、お前らみたいな移動をするのを、幽霊に助けられたって言うんだ」
 ソジンが長い定規を当てながら地図を示したのを、ナオキは今でも覚えている。ラインの幽霊。ラインの世界に行けば、見ることができるのか?
 死ぬ思いをした後も、ふたりは旅をやめなかった。むしろ、行動範囲はどんどん広がっていった。彼らが目をつけたのは、国境を越える旅路だった。ラインに導かれるまま、ラインの世界を辿っていけば、閉ざされた国境をも難なく越えることができた。ラインを掴んでいる間。身体の実体は薄れ、意識だけがこちら側の世界に残り、動いていくのだから。
 そして、事件は起こった。
 クラン北部の冬。氷の湖のほとりの小さな街で。
「なあテオ、最近寒いところばっかりじゃないかよ。この前見つけたやつ。今、モエが編んでくれてるけど、クランの南の島行きだったろ。次はあれにしよう。風邪引いちまうよ」
「気が向いたら。次の次くらいかな」
 テオは街で手に入れたクラン北部の地図を広げ、方角を確かめながら、湖畔の街を巡るルートをペンでマークした。ヒニア北部同様、クラン北部にも人を阻むような自然が広がっており、銀の鏡面のように穏やかに広がる広大な湖を水源として、幾つもの町が点在している。湖の西岸から西に進むと水はけの良い台地があり、その上にいびつな鉄条網と幾つもの監視塔が並び、人の移動を妨げている。
 地図上に記した目的地までの軌跡を指でなぞりながら、テオは浮かない顔をする。これまでに訪れた幾つもの街に印をつけて、地図上の虚空、湖の湖面をじっと見つめていた。次の目的地により北に進むと、湖の北岸までずっと原野が広がっているらしく、人の住む場所はほとんどない。
 ふたりは湖を越える旅路のラインを探して、この街の酒場やカフェで聞き込みをしていた。ナオキがうかつに口を開こうとすると、訛りで身元がばれるからと言って、テオが変わりに話した。ヒニアに居るときは、学校でも町中でも寡黙で通しているテオは、北部に居るときは人が変わったように饒舌だった。酒場の男たちも、道端で話す女たちも、テオが話しかけると自然に笑い、何を聞いても朗らかに答えた。
 同じ言葉でも、地域によって訛りがあるのは必然だ。
 訛りで出自が分かる。
 出自が分かると、奇異の目どころか、疑いの目を向けられることもある。
 対立の匂いの源、比べようとする心をくすぐる、簡単な差異。
 ふたりきりでいる時も、ナオキのくちびるは重たかった。凍りついたように。冷たい視線の気配に固められて、動けなくなったかのように。ああ、だからテオは、ヒニアにいる時は寡黙なのだ。荒涼とした氷の景色と、くちびるごと切り落とすような白い風が口を開く気を失せさせる以上に、誰かの視線、聞き耳、それらが乱反射する町、喉元で言葉を凍らせる。分断の温度のささやかで残酷な冷たさの肌感覚が、ナオキの表面から奥まで沁みた。初めて感じる感触だった。
 久々の晴れ間が見えた昼下がり、北に向けて強く暖かい風が抜ける。太陽は少しばかりからだを持ち上げて、昨日より力強いすがたで微笑んでいた。
「あの婆さんから、今日こそラインを受け取ってくる」
「あの古道具屋?刺繍入りの革細工か。あれは多分ラインだろうけど、ふっかけられてたじゃんか。金、使いすぎると苦しくなるよ」
「あの婆さん、ちょっとボケ入ってるから。うまいことやるよ。あれは多分、湖の北側に抜けられるやつだ」
 溶けかけた雪をナオキが蹴り上げると、きらめく水が膝上を濡らした。寒さには十分に慣れたが、雪に閉ざされた旅には若干うんざりし始めていた。
「テオ。そろそろ南の方に行こうぜ。僕はもう、景色に飽きてきたよ」
「ナオキはそう感じるだろうな。俺は、なんだか。ここに居続けたくてさ」
「何か、探してるんだろ。何かはわかんないけど」
「なんだよ。話したっけ?」
「忘れ物野郎で持ち物の管理とか宿の予約も適当なお前が、地図に細かくマークなんてつけてるんだから、何かあるんだろうなって」
「見つからないかもしれないけどな。手がかりもほとんどない」
「手がかり、あるなら、僕にも教えておいてくれればいいのに」
「悪かった。巻き込むのもなと思ったのと、これはオレの問題だし、ナオキには到底、分からないだろうと勝手に思っていた」
「巻き込まれたって気にしないよ。こんなに長い間、一緒にいるだろ」
 テオがひとつ、暖かい息を飲んだ。
「オレのルーツを探してる」
 ナオキは頷き、同じ様に息を飲む。
「母親かもしれないし、母親の育った街かもしれない。親父は何も教えてくれねえからな。聞いたら殴られたよ。お前に母親はいねえって。そんなわけあるかよって。家の周りの奴らに聞いて回ってたら、もっと殴られたよ。恥を晒すなって。何が恥なんだろうな?なあ、ナオキから見て、オレは恥ずかしいか?」
「そんなこと、思ったこともないよ」
「ナオキは、そうだろうな。信じてるよ。でも、お前の両親とか、お前の親戚とかは、どうだろうな?お前んちに前言った時、なんだかちょっと苦しかったよ。クランについて悪く書かれてる本が置かれてないかとか、気になっちゃってさ。なあ。この感覚は何なんだろうな?」
 強い語調、声を成す空気の波の振幅より遥かに大きく、雪の上に白く跳ねて回る陽光を真似るように強く響いた。あらわにしてしまった感情の手触りが恥ずかしかったのか、テオはナオキから目を背けて、ひとり前に歩き出した。
 嫌な空白が漂った。春になっても溶けない雪のような。続く言葉が現れないことのもどかしさが二人にまきついて、ゆっくりと首を締めるようだった。
「友達、だろ。だから探し物にも、とことん付き合うよ」
「悪い。取り乱した。俺はあの古道具屋に行ってから帰るから、先に宿に戻っててくれよ」
 テオと別れたナオキは帰り道、路地裏で少年たちが群れているのを目にした。群れは一見戯れていた。いや、戯れではなく、半ば一方的ないたずらが一人の少年に向けられていた。四方から投げつけられる雪玉。やられっぱなしの少年は構えつつ、雪に濡れた手で、顔への直撃を防ごうと努力するが、一歩も動けないでいた。「ナオ。守備ばっかしてないで、やり返してみろよ」「弱虫野郎」「こいつ、いつも無口で俺たちのこと睨んでんだよな」「おい、みんな、それくらいにしろよ。僕のパパ、言ってたぜ、ナオキ、ヒニアの血が入ってるから、突然切れて暴れだしたりするかもって。アイツら、頭に血が上りやすいんだってさ」、幼い少年の声が、幾つも路地に跳ね返って、ナオキの耳を痛める。
 他の少年たちよりもひと回り大きな身体をした少年がけしかけられて、ナオと呼ばれた少年に突進していった。少年たちの煽りの歓声、溶けかけの雪が作った大きな水たまりに押し倒された少年ナオの、小柄な身体がずぶ濡れになった。大柄な少年は間抜け面で、勝ち誇ったように両手を上げながら、跨った足に力をかけ直して、踏みつけられた少年ナオを動けないようにした。
 ひとりの少年が近くのアパートの外階段を駆け上がる。右手に握られていた、青白い氷塊が投げ出され、ゆるい放物線を描きながら地に伏せられた少年の頭をめがけて軌跡を描く。
 割って入ったナオキ。側頭部に衝撃、雪の上に落ちた氷が滑って、路地の端で跳ね返って止まった。
「止めろよ。大勢でよってたかってひとりをいじめるなんて」
「なんだよお前、突然。遊んでるだけだよ。なあ?」
「君、足をどけるんだ。君も下敷きになれば分かる。痛いぞ。これ」
 大柄な少年はナオキにそう言われると、他の少年たちに卑屈な目配せをしながら渋々足をどけた。少年ナオは解放されて、ずぶ濡れの身体のまま身をひるがえして、誰も居ない方に走っていった。ナオキは自分に名前の似ている少年に声を掛けたかったが、叶わなかった。その代わりに、少年ナオが逃げ際に投げた幾つかの雪玉の一つが頭に当たって、砕けた柔らかい雪が赤く染まって地面に落ちた。氷を食らった右の額がパックリと避けて、流れた血が頬を伝っていた。
「デブ、お前、勝手にあいつの言うこと聞いてんじゃねえよ。おい、行くぞ。ナオを捕まえんだ」
 走り去る少年たち。雪の上を跳ぶウサギのように軽やかだ。去り際に、リーダー格の少年がナオキの頭から足先までをまじまじと見つめていった。
 宿に戻り、ナオキはいけないと思いながら、ベッドの上に投げ出されっぱなしのテオのポーチをあさって、中に皺だらけのメモ書きがあるのを見つけた。枕元に忘れられていた香草烟草に火を点けると、春先に家の近くでも取れるヒニアの香草の香りが部屋を満たした。
 メモ書き。女性の身長、体格、それから話していた言葉についての断片。落書きみたいなクラン湖の輪郭、南岸と北岸を囲う線が、探索すべき範囲を指し示していた。
 夜、テオは一向に戻らない。安宿が連なる路地に、同じように集まる安い酒場の明かりは、雪の絨毯から溢れそうに張る暗がりを暖かく溶かそうと照らす。酔っ払いの足音が響く度、テオではないかと顔を上げた。手当は終えているものの、ナオキの右の額はヒリヒリと痛み、ガーゼにはまだ血が滲んでいた。
 重たい足音が迫るのが聞こえる。テオのものではない。
 足を上げる度に、闇を好む黒い糸が地から死神を呼び出すような音。
 北部訛りの野太い声、普段は穏やかな顔でゆっくりとしゃべる宿の主人の声が縄できつく締められたみたいに強張っている。ナオキは身構える。
 扉が開かれて、お決まり通りの黒いコートに身を包んだ男たちが入ってくる。取り囲まれたナオキは全く抵抗しなかったが、胸ぐらを掴まれて、右頬を下から抉るように殴られた。鼻に痛みが滲む。血を這う粘膜の感覚。
「クランで何をしていた?お前らの地図につけられたこの印は何だ?」
 灰色の壁のやたらと明るい部屋の硬い椅子に座らされて、もう何時間が経過しただろう?もしかすると、数日が経過しているかもしれない。入れ代わり立ち代わりの怒声にと脅迫が、ナオキから平常な感覚をほとんど奪い去っていた。鼻と口を拭うことすら許されず、殴られた時に流れ出た真っ赤な血が、酸化してどす黒く固まって顎先まで染めていた。
「僕らは、ただ旅に」
「国境をどうやって越えた?クソ野郎。答えろ。若いからと言って情けをかけてもらえると思うな。もう一度聞く、地図に書かれた印は何だ?」
 シワひとつない茶色の制服の男が手のひらで机を打ち、鉄板入りの軍靴でナオキの座らされた椅子の足を払った。受け身を取る余裕もなく、ついた尻の痛みを手で擦る暇もなく。首元を掴まれて壁際に叩きつけられる。噛んでしまった口の中から滲み出た血の匂いが鼻から目へと抜けた。制服の男が耳元で囁く。
「お前ら二人。身元からなにから、何もわからん。頑なだな。言葉遣いからして、お前はヒニアから来たか、混血かだろう。どちらにしろ、こちらの質問に答えるまではこのままだ。解放することはない」
 没収したナオキの持ち物の検分を一通り終えた別の男が部屋に入ってくる。モエが編んだ組紐のアクセサリーや、ふたりが各地で集めた物を机の上に並べていく。刺繍の入った革細工、スカーフにバンダナ。緊張感を察してか、ラインはみなじっとして、動かなかった。
「こいつら二人共、こういう物ばっかり集めてやがる。もうひとりは古道具屋で横柄な態度だったとか。多分な、こいつらが集めてるのは、ラインだ。古道具屋の婆さんがそう言ってた。北に抜けるラインが編み込まれた革細工を、安値で売ってくれと毎日しつこかったってな」
「なるほど。それなら国境を越えられるのも合点がいく。国境を越えるラインなんざ、見つける度に切り落としているから、もうほとんどないはずだが、よくやるよ。お前ら」
 そう言って、制服男は大ぶりのハサミで、並べられた物を順に裂いていった。ラインの編まれた品々に、心無い不規則な直線の裂け目が生まれていく。ラインを引き裂く線、切断、抵抗することなく、真っ二つに切られていく旅の軌跡の群れ、古くから受け継がれてきた旅路の跡が失われる。永遠に。幾つかのラインが自分からほどけ、刃を避けるように身体をよじらせて、部屋を抜け出して消えていった。十五分もしないうちに、ふたりが辿ってきた旅の跡は全て切り刻まれ、消えた。永遠に。
 ナオキは歯を食いしばって、声を出さずにただ、見つめていた。
「さて。お前、他に隠し持ってないよな。後でケツの穴まで調べさせてもらうぞ。身元と、あの地図の印について話してもらおうか。俺らも悪魔じゃない。はっきりすればそれで終わりだ。分かるだろ。俺たちも、仕事でやってるだけなんだよ。こんなこと」
「印は、何でもない。探しものが見つからなかった所に、バツを付けてるだけだ」
「何を探してる?」
「ルーツだ。僕じゃない。テオの。僕らは二人共、ヒニアから来た。話したろ、さあ、帰してくれ。他には何も隠してない。調べても、クソしか出てこないよ」
「お前らは。二人共ヒニアから来た。そう言ったな?」
「そうだ。嘘はついてない」
「なるほど。お前は、明後日辺りに母国へ送還される。運がいいな。お前らの国と我々の国は敵対しているとはいえ、無闇矢鱈に命を取ったりすることはないんだからな。戦争時ならわからんぞ、記録に残さないまま、街の外れで射殺されていたかもしれん。状況に、感謝しろよ」
 制服二人がふかす烟草が、いつもは心地よいのに、今は腐ったバナナみたいに気だるかった。
「あっさりカタがついたな。護送一名、教育キャンプ一名、手配を頼む」
「書類に書く、番号で呼ばれたくなければ、お前、名前を言え」
「ナオキ。コクリョウ・ナオキだ」
 翌々日、窓のない荷台でナオキは護送された。テオの姿はなかった。ヒニア国境付近までの二日ほどの旅路の途中、硬く冷たいパンが何度か支給されたが、ほとんど喉を通らなかった。テオについて、ナオキが何を聞いても答えなかった警備兵が、国境の施設で彼を解放する際に、吐き捨てるように言った。
「お前と違って、少しでもクランの血が入っていれば見込みがある。教育キャンプで、お前らの所で教えられてる歴史が全くの嘘だってことに気づいて、正しい方に戻っていくんだ」
 国境を越えると彼の身体はヒニア兵に引き渡された。ナオキは歩けなかった。放心しきって、涙を流す余裕すらなかった。
 テオと共に帰れないこと、テオが帰らないかもしれないこと、テオの忠告を忘れ、街中で言葉を発してしまったこと。何も考えず、テオの素性について兵士達に話してしまったこと。すべての光景の記憶が何度も繰り返し、彼の脳裏をかすめては消えて、その度に重たい後悔の色を塗りつけて止まなかった。
 帰宅後、警察や教師から厳しい言葉を投げつけられた。両親は何も言わず、彼を優しく迎えたが、暗にテオと付き合ったことを咎めるような言葉を幾つも投げかけた。彼は一人、自室で唇を噛み締めた。それから、ナオキとテオ、モエの三人にラインについて教えたのがソジンだということは街中の誰もが知るところとなった。それに加えて、モエの父親がソジンの素性を調べ、ソジンもテオと同じように、ヒニア人とクラン人の混血であることも分かった。ソジンも謂れなきそしりを受け始めた。混血野郎。クランのスパイ。税金泥棒。公営住宅の寄生虫。出ていけ、国へ帰れ。
 しばらく外に出ない生活を続けたナオキは、結局高校を留年することになった。気が晴れた日、青白い顔のままソジンの家を訪れると、ソジンはすでに引き払っていた。隣の住人に聞くと、心を病んで入院したと言われた。ナオキはせめて、テオの父親には謝ろうと家を訪ねたが、テオの父親もすでに街を去っていた。やがて、ソジンが死んで、暗い共同墓地に寂しく雑然と葬られたのを耳にした。
 ほとんど空っぽの感情のまま過ごすナオキを、モエは慰めた。
 預かったままだった幾つかのラインを編み込んで、新しいアクセサリーを作ってナオキに渡した。ナオキはそれを受け取ると、高校を出るまでしまっておいて、それから、狂ったように旅をはじめた。
 テオを見つけるために。

 

 

  
 ラインの幽霊は無限に存在する。それらは見えないだけで、世界に現れる線として我々の生活を規定している。地図上を東西へ貫く直線、南北へ貫く直線。ラインが成した世界に生み出された我々人間は、見えないラインに名前をつけた。見えないラインの存在に気づいた者は、それをラインの幽霊と呼んだ。目に見えるラインを掴み、従うことで旅をする旅人に比べると、目に見ることのできないラインの幽霊とやり取りできる者の数は少ない。見えないラインの幽霊はみな、普段はラインの世界に住んでいるから、人になど興味がないのだ。
 幽霊を見ることはできないが、時に人間はそれに名前をつけて、地図の上で見えるようにした。地図を見れば、名付けられ、仮初のすがたを与えられた幽霊たちを、今でもまだ目にすることができる。
 それは、ひとが愚かなのか、それとも彼らが戯れすぎなのか。

――『何度でも鮮やかに、線により描かれる世界』第五章第三節 
                         トウワ・コクリョウ

4

 テオと再会した次の日の夜、ナオキは夢を見た。真東に進み、国境の街へ、テオと再び相まみえた国境付近、それから更に真東へ、国境の向こう、クランの街へ。テオを探せど、見つからない。国境線でまた兵士に警告され、真西へ進み街へ戻る。うなされて起きると、モエの編んだ組紐細工がみんな解けてラインに戻り、抱き、愛撫するようにナオキの身体にぐるりとまとわりついていた。彼らを掴まなくとも、彼らによって身体が浮かされているように感じた。
 次の夜も同じように夢を見た。真東へ、国境の町へ、テオの姿は見当たらない。その次は真北へ、ずっと、草原を越え、山を越えると、雪に閉ざされた幾つもの山々に差し掛かる。氷壁、洞穴、二人で抱きしめ合い、死を覚悟したあの日が思い出される。数センチまで迫った死の肌触りの中、失いつつある温もりが奪う唇の色彩に見とれた刹那、線の世界に引き込まれた身体が真南へと移動する。起き上がるとまた、ライン達がナオキの身体にまとわりついていた。腰に、臀部に、太ももに、幾重にも、締め付けることなく、優しく、包み上げるように。
 再びの夜。半分くらいの覚醒と、入眠の間、意識が深くへ沈む断片の時間、手首に巻いた組紐が解け始める。夢に似た真東の光景が網膜をよぎり始める。幽霊だ。今はわかる。あの時と同じ視線を感じる。目には見えない。線の世界にだけ住んでいる。
 ナオキは地図を思い浮かべた。生まれ育た街、東に向かう直線、一定の度数刻みの幾つもの平行線、丸い星を刻む、数々の緯線、それに直行する、南北の経線たち。真北の氷壁から自分たちを救い出した、目に見えないライン。身体全体が意識のコントロール外になる前に、東西のラインをそっと掴む。掴むというより、眠りに落ちようとするナオキの元へ、それは確かに寄ってきた。
 視界が東に向かって流れる。旅路をたどるのと違い、空からただ広い大地が俯瞰される。線の世界を運ばれる身体からほとんどの感覚が失せる。ああ、生まれる前は、こんな風に感覚なんてなかったのだ。ただここにあって、目の前に流れていく世界だけが存在する、子宮の中、原初に似た感触だ。視界には夜の闇、まっさらな暗闇の視界が、徐々に国境線へ近づいていく。国境付近の街に灯る、ごく僅かな生活の光。まばらで、それでもごく小さく、呼気の音が響くようだった。
 国境、国の境、バリケード、見張りの兵士たちが待機する幾つもの塔、塔を照らす明かり。意味のない線。訛り以外言葉もほとんど違わず、人の姿もほとんど一緒だと言うのに。無意味な線によって引き裂かれている。存在し続ける裂け目は、いつ腐り落ちてもおかしくはないが、時間を重ねる度に存在の無意味を自己生産していた。
 彼の身体感覚はひたすらに東へ引きずられていた。真っ直ぐに。東西を貫くように。解けて薄れた身体は人の世界の方から、裏側のラインの世界で、線の上を走るかたちのない点として存在していた。旅する時、ラインを掴んだ際に触れていた感覚が、今はより、ありありと、子供が下手くそに書いた立方体みたいに、はっきりと輪郭を持って存在していた。
 ラインの世界を、走り抜けている。
 氷壁から抜け出した時、テオと再会した後、同じ感覚を味わった。
 ナオキを導き、動かす線は、緯線であった。世界を東西に切り裂く、無数の線の一つ。球体の世界を輪切りにする、真っ直ぐな線。現実に実体の存在しない、幽霊。
 彼が緯線ラインを掴むのではなく緯線が彼を動かしていた。
 彼は上空からの視界に、夜闇にきらめく一本のラインを見た。丁度見張り兵の塔の足元から南北方向に国境をなぞっている。曲がりくねり、時に大地を渡って山の向こうへ、川をまたいで南の地方へ。国の境目。この二つの国にとっては、本当は無意味な線のすがた。 
 月の光に輝く線が寝返りを打って、その軌跡をわずかに変えると、起き上がった兵士たちが、無表情に鉄条網を移動する。
 国境ラインに、兵士たちは動かされてる。
 東へ。クランへ入り、町へ入る。意識が人間の世界の方に引き戻され、ナオキの身体が少しずつ色を取り戻し、実体の像として編まれていく。
 ふたりでよく泊まったのに似た、古びた安宿。
 懐かしい匂いが月明かりの中祝福するように香る。部屋の中にテオのすがた。ベッドに腰掛けて笑っている。
 昔、旅していたときと変わらない。純粋な微笑み。
「ナオキ、お前も、幽霊を掴んだな」
「幽霊、僕にもやっとわかったよ。東西南北、旅し放題じゃないか」
「幽霊たちは他のラインよりももっと気まぐれだ。俺らの自由にさせちゃくれない。なあ。ナオキ、見ただろ。ラインの世界に飛ばされると、よく見えるよな。間の線、兵士たちが馬鹿みたいに動いてる」
「ヒニアとクランの間に、銀の線が見えた」
「国境線だよ。あれも幽霊だ。ラインの世界に住んでる。ラインの世界に行くと見える。俺たちの世界にいると見えない。幽霊だからな。あれが他のラインみたいに、紐とか蛇みたいな見た目をしてて、目に見えれば、もっと早く、手が打てたのにな」
 立ち上がり、窓辺に向かって歩き出したテオが手を伸ばし、ナオキを導いた。北にクラン湖の湖面、幾何学みたいに丸い月が空にひとつ、水面にひとつ、それぞれ揺れる。天地を逆さまにしてしまっても、同じ様に見えるのでないかと思えるくらい、瓜二つの実体と像。
 テオが両手を上げる。ナオキは意識せず、テオと同じ様に両手を広げた。
 ふたりの実像から色が失せ、解けるように実体が消えていく。真北へ、ラインに導かれて、あの日、最後に顔を合わせた、クラン湖畔の町の路地へ。「まだいくぞ。次は西に」
 テオが呟くように言うと、ふたりで死にかけた氷壁の洞穴へ、身体が像のように結ばれる。
「もういちど」
 テオが言うと、今度は二人の故郷へ。モエの家の前に丁度降り立って見上げる。夜中、寝静まった音。灯らない明かり。ナオキが歩みだそうとすると、テオが首を振った。
 気づくと、二人は元の窓辺にいた。
「今のは俺の意志じゃない。オレたちの思い出に反応して、幽霊たちが遊んでるんだ。気まぐれな幽霊に、動かされたんだよ。今のは。目に見えない幽霊のやつらが、俺たちを動かしているんだ。もしかしたら、俺たちは、ラインを掴んで旅をしていたんじゃなくて、ラインに旅をさせられてたのかもしれない」
「なんだよ。それ。そんなことないだろ。僕らふたり、あちこち自分たちで決めて、回ったろ」
「そうだな。言い過ぎた。あれは、オレたちの旅だったな」
 テオが窓枠に足をかける。柔らかな月光に包まれた顔立ちは、長い時間が刻んだ日焼けと深い皺で溢れていたけれど、あたたかさを失いながらも端正な氷の彫刻のように見えたあの氷壁の日のように、声を奪うほど美しかった。いつまでも抱いていたいと思わせるほどに。
「そろそろ、行かないといけない。オレの問題に、ケリをつけるために」
「探しもの、まだ見つかってないのか?」
「それはもう、とっくに見つけてる。これからやるのは、もっと先の話だ。オレみたいに悩んだり、傷ついたり、ナオキやモエみたいに、オレみたいな奴の傍にいるやつが傷つかなくていいようにする。見ただろ。国境線。銀のライン。あの幽霊に、どいてもらうんだよ。気まぐれに、あそこに横たわってるだけなんだから」
 テオの身体が足先から薄れはじめる。爪、指先、足首、彼の身体がもとより一つの糸人形であったかのように、一本の長い糸に解けていく。骨も、骨を支える筋繊維も、なめらかに膨らんだ内臓も、全て、細かな糸にほぐされていく。
「テオ。あの日。僕のせいだ。僕が喋らなければ。こんなことにならなかった」
「ナオキ。誤解するなよ。謝らなくていい。お前のせいじゃない。会いたくなかったのは、寂しくなるからだ。オレは幽霊たちに、触れすぎた。オレはこれから。ラインの世界で生きて、あの国境線をどかすんだ。戯れに国境なんか作ったやつと遊びに出て、こっちの世界、影絵の世界から国境を消すんだよ。旅路を描くライン生み出して、語り継いだのは旅人たちだっただろう?だから、逆に、旅人のオレがラインになるのだって、別に不思議なことじゃない」
 腹、肺。肋骨、首元、一本の糸が、ゆらゆらと舞って、月明かりの中、銀に輝いた。上から見下ろした時の、あの国境線と同じ艶を見せた。ナオキはテオに駆け寄り、残された彼の顔を抱いた。
 心の底から、離したくないと思った。共に過ごす時間がまだ足りないと、強く思った。
「なあ、オレ、母さんに会えたんだ。オレの名前、トウワにするか、テオにするか、迷ったらしい。お前と別れた後、クランの兵隊に探してもらったんだ。あの時ヒニアに戻されたら、一生会えなかった。だから、あの時あんな事になったのは、マイナスばっかりじゃなかったぜ。なあ、もう、一緒にはいれないな。だから、もし、お前に子供ができたら、どっちかの名前を使ってくれよ。オレが残せるのは、それくらいだ。じゃあな」
 ナオキは太陽が顔を出し、月の光が全く隠れてしまうまでずっと、窓際で一人佇んでいた。朝焼けとともに動き出す街の空気が吹き込んできて、彼の髪をサッと揺らした。ベッドに残されたテオの持ち物を手にとって、握りしめて、祈った。モエがテオに渡した組紐を左手首につけて、これからも旅をしようと思った。今度から、できればモエと一緒に。
 思い出そうと思った。移動の時、ラインの世界を通る度に。
 もしかすると三人の再会も、ラインの戯れに過ぎないかもしれないけれど。
 朝日と共に目覚めた両国の兵士たちは、鉄条網を片付けて、歩み寄り抱き合った。両国政府は、なぜ国の境があったのか、合理的な説明ができず、暫く混乱が続いたが、国境は開かれ、やがてふたつの国はひとつになった。
 自由に行き来する人の流れが、幾つもの軌跡をなした。語り継がれた軌跡は、時にラインとして現れて、旅人たちへ受け継がれた。

参考文献

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