12匹のやさしい熊たちが回した棒

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梗 概

12匹のやさしい熊たちが回した棒

女が目を覚ました世界は暗闇と混沌が広がっていた。女は棒を掴んで暗闇を切り裂き天と地を作った。その世界に女は自分の姿に似せた泥人形を作った。泥が乾いて毛の多い方を熊、少ない方を人と名付けた。女は一体ずつ泥をこねるのに疲れ棒を十字に結び、その棒を回し型から泥人形を作った。次に熊と人にその棒を回す役を任せ、彼らに泥で他の生物を作らせた。しかし生物はすぐ死んでしまうので女は♂♀と赤い糸を作って自ら子孫を増やさせた。
女は働き者の少年を見初める。女は自分の足と少年の足を赤い糸で結ぶ。女が人の世界へ行くと棒は止まり、女と少年以外の世界は全て止まった。

女と少年は互いに初めてのsexをしてから、体を離すこと無く交わり続けた。女は少年にずっと最後のsexまで二人ですることで赤い糸は解けなくなると少年に伝えた。
少年は女が持つ能力を畏怖し、女を献身的に愛し仕えた。田畑を耕す少年を見て女は熊を呼び出し働かせ、少年を休ませた。少年は働かなくなる。遠くから女が熊と仲良く働く様子をそっと覗き見る。
次第に少年は男に成長し、男は我が儘な振る舞いをする。女にも時に暴力を振るう。男は二人だけの世界に飽きたと話す。女は熊たちに棒を回させ、二人が住む村だけを動かした。男は村の女を犯し、暴力で村人を支配するようになる。数十年経つと男は自分ひとりが老い、女がいつまでも若いことに怒る。
女は村人たちの体を入れ替えられる装置を熊たちに作らせた。熊たちが棒を回す上で、村人達の体は入れ替わった。男は若い人の男や女に、また若い鹿や熊にも入れ替わった。そして体が入れ替わる度に必ず女を抱いた。女は男の体が何に変わっても受け入れた。

男は新しい体になっても老いが再現されてしまうことを知り失望する。男は不死である女と体の交換を要求する。男は女の体を手に入れる。女はもと男だった熊の体に入れ替わった。男は喜び女の体で村中の男達と交わるが、やはり女の能力を手にできず、死期が近いことを悟る。老いを遅らせようと村人に赤子の生け贄を求める。
生け贄を出さない村人に怒り、男(表は女)が村人に刀を振りおとそうとすると熊が止める。「僕たちが生け贄になるよ」と口々に言う熊たちを男は切る。男は女の仲間がいなくなったと喜ぶが男の最後に切った熊は女だった。女(表は♀熊)は死ななかった。
女(熊)は男と約束した「最後のsex」をしようとするが、男(女)にペニスがない。男(女)は女(熊)に初めて謝り息絶えた。女(熊)は初めて男(女)を殴り、自分の体の上で泣いた。
女(熊)はこの村から立ち去った。

村の全ての生き物は溶けて泥になった。最後まで棒を回していた少年も泥になり、棒の回転が止まる。熊が棒の十字結びを解く。世界は閉じられていき、暗闇に覆われた。熊は眠りを覚えて横たわる。
また熊が暗闇の世界で目を覚ますと傍には棒があった。

文字数:1200

内容に関するアピール

子供の時にテレビで見たえっちな大人ドラマで「女は一つの愛に裏切られたというだけで世界に復讐する権利があるのよ」という黒いストッキング高いヒールを履いて細長い煙草赤い唇の端で銜えた女性の台詞がよく分からないかったけど気に入り、未だによくわからないけど何度も反芻する言葉になっているので、これがわたしにとっての神話です。
それと世には最初のSEXに拘る物語は数多あるし、実際にそういう子供らも多い。そうですよね。そんなものですよね。ですが、ここに最後のSEXに拘る人の話も作ってみよう。そうだそうだそうしよう。そうしよう。という内なる声を聞いてわたしの日記の空白のページに。尽きてしまった砂時計に。餓えた子供の鳶色のまつ毛に作り出されたのが、たぶんこんな梗概です。
実作を書く際に参考にする気なお話たち
アウリスのイピゲネイア、バッコスの信女、アドリアーネの赤い糸、盘古开天、女娲造人、今野あきひろ版:受戒

 

文字数:400

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12匹のやさしい熊たちが回した棒

暗闇があった。その暗闇は完璧に純粋な空っぽの世界だった。
この暗闇は何なのか。と私はずっと考えていた。この暗闇が私なのだろうか。私は暗闇とは別のモノかもしれない。そう思った瞬間に、私は生まれた。
この純粋な世界には上も下も奥もない。私以外のモノはいないのか。と思った瞬間、背中は暗闇ではない何かモノに触れた。これは私ではない。このモノを私は棒と名づけた。棒は暗闇の純粋さとは違う硬さと形があった。棒に顔をつけると、そこから微かな匂いがした。棒の上に乗り腹を擦った。棒に背をつけて何度も背中を擦った。棒を抱くように手と足を擦りつけ、棒に乗りかかってゴロゴロと転がっては気持ちよく、また棒を抱いて一緒に寝ては覚めてを繰返した。この暗闇にずっと私と棒だけがいた。
私は棒から体を離して立ち上がった。私は屈んで棒を掴み、また頭を棒に何度も擦りつける。それから両手で棒を掴み頭上に持ち上げた。私は両足を開いて棒の重さを体で感じた。それから、そのまま両手で思い切り棒を遠くへ放り投げると、闇は裂けた。そこから光りが溢れ、闇を消し去った。

そうやって天と地が生まれた。

私は地にゴロゴロと転がる棒を拾いに走り出した。私の足は柔らかい地面を踏んだ。肌は陽の熱さと風の涼しさを受けた。足が地面を蹴る音が聞こえた。棒が転がったところまで天と地ができ、その外はやはり闇が広がっていた。わたしは棒の片端を持ち、片方を地面につけたまま走った。しばらく走ると最初に棒が落ちた場所に戻った。こうやって、そこそこな大きさに天と地が広がった。その外側には空っぽな闇が広がっていた。

私は地に穴を掘って棒を立てて埋めた。そうすると棒に寄せた体を揺らすだけで楽に体を擦れるからだ。そうやって、地に植わった木に体を擦っているうちに木は伸びていき、その周りに木が増え、森が出来た。この木たちはエンジュという名前になった。

私はエンジュに背中を擦り続けた。森の全てのエンジュに体を擦り続けていると、この世界でも自分のような体を持つモノが欲しくなった。私は泥をこねて自分の体に似せた泥人形を丁寧に作った。泥の人形は乾くとササクレが多い方をクマと名付け、ササクレが殆ど出来なかった方をヒトと名づけた。

私は森の中へクマを平地にヒトを置いた。それからも、ひたすらクマとヒトを作り続けることに夢中になった。私は時々泥人形を持ってクマとクマをヒトとヒトを時にクマとヒトをくっつけて遊んだ。二体の泥人形をくっつけると、なぜか興奮した。泥人形はあまり強くぶつけると壊れてしまうのだが、そっとくっつけると二体が少し大きな一体になった。

私はいつも最初に棒と名付けたエンジュの横で体を丸めて寝ていた。ある春の朝、長い眠りから起きると私の隣に木の枝が十字の形に組まれていた。それを手に持ち、十字の棒をゆっくりと回すと、太陽が動き陽が沈み月が昇り星々が煌めいた。風が吹き雨が降り続き巨大な海が出来た。私が作った泥人形のヒトとクマも私の周りを動き出した。この十字の棒を回すことで時間が生まれた。

私は動き回る泥人形を作るのに夢中になったが、ひとつひとつ泥をねるのに疲れ、泥人形の型を作った。それから二本の棒を、十字に結びつけ、泥を入れて型から泥人形を押し出す装置を作った。この十字の棒を回すと泥人形を大量に創ることができた。まもなく私がいる場所はクマとヒトで溢れたので、森からエンジュを何本も抜いて闇に放り投げると、闇の中に天と地がいくつも出来上がった。闇の向こうにある天と地にも十字の棒やクマやヒトを放り投げた。それぞれの世界で森が広がると、同じようにクマとヒトたちに十字の棒を回させ、沢山の泥人形を作らせた。クマには型を作らせてクマとヒト以外の泥の形を自由に作らせた。まもなくどの世界も生物で溢れ、空を飛び、海を泳ぐ生き物が天と地を覆った。しかし生き物たちの命はみな短く、棒をゴロゴロといくら回しても生き物たちは生まれたそばから、みなコロコロと死んでいった。

私の周りには4匹のクマだけが残っていた。このクマが死ぬ度に、急いで泥人形を補充をしていた。四匹のクマで十字の棒を回していたので、一匹でも死んでしまうと三匹で四方に伸びる棒を回さなければいけなくなる。三匹のクマが苦労して棒を回すのを見るのは辛かった。そこで新しく泥でクマを補充する時、少しだけ体が異なる♂と♀を作り、この♂と♀のクマたちがくっつくと自分たちで新しいクマを作れるようにした。

「おめでとう」わたしは、二匹のクマの前に立って、肩を叩きながら言った。「あなたたち、お幸せにね」
「わたしたちは、とても幸せです」二匹のクマは、私を真っ直ぐ見ながらもはにかみながら言った。「ありがとう」

そして二匹の♂と♀のクマは棒を回す休憩時間の度に、ドンドンと交尾をして子供をコロコロ作った。他の世界にいるヒトにこの♂と♀の型を作らせると、世界中の全ての生き物の♂と♀はドンドンと自分たちの子孫を作っていった。

私はこうやって世界と生き物たちが自動的に動き続けるのを見ると、腹の底から声を出して笑った。私の笑い声は全ての世界に伝わり、暗闇の中にこだました。最後には私の笑い声はエンジュの森の中に吸い込まれていった。

世界をよく見るとヒトの♂と♀だけは、交尾をする相手を見つけられないでいた。そこで私はヒトの♂と♀のひと組の足に、エンジュの葉にいた虫から紡いだ赤い糸を結んだ。するとそのヒトの♂と♀は赤い糸が結ばれた相手を見つけだすと、すぐに互いの手を繋ぎあった。

「おめでとう」わたしは、二人のヒトの前に立って、肩を叩きながら言った。「あなたたち、お幸せにね」
「わたしたちは、とても幸せです」二人のヒトは、私を真っ直ぐ見ながらもはにかみながら言った。「ありがとう」

そして二人の♂と♀のヒトは、すぐにドンドン交尾をして子供をコロコロ作った。私は一人で全世界のヒトの♂と♀に赤い糸を結んだ。

まもなくヒトは私が想像しなかったことをするようになった。ひとつは、ヒトは全ての生き物たちを食べようとしていること。もうひとつはヒトにとって交尾は、子孫を作るためのものではなくなっていったこと。そして殆どのヒトは自分の赤い糸で結ばれていても、自分たちで糸の結び目を勝手に解いてしまうのだ。

しかし私はそんな勝手な動きをしてしまうヒトを見るのが好きだった。次第にヒトはあらゆる生き物を傷つけはじめるが、まもなくヒト同士でも殺し合いを始め、赤い糸をよりこんがらからせて、交尾に夢中になっていた。ヒトは山を崩し海を埋め空を飛ぶようにもなったが、やはり交尾に夢中のままだった。そしてそんなヒトの交尾を見ることに私は夢中になっていた。

私は傍にいる12匹のクマたちを集めて、彼らの前に立ち、こう宣言した。

「ちょっと私とヒトの足を赤い糸で結びつけてみようと思うの」

今、棒は四匹のクマが組になって3交代で回している。黒色のクマが二匹、白色のクマが二匹、灰色のクマが二匹、茶色のクマが二匹、黒と白の斑のクマが二匹、そしてよく見るとクマのキグルミを来たヒトが混ざっていた。

「別の世界のヒトの男と赤い糸が結ぶって言うことは、別の世界に行くっていうこと?」と、黒いクマが訊ねた。

「そうね。ちょっとだけ余所の世界へ行ってくる」

「行かないで」と白いクマが胸の前で両手を握って言った。すると12匹のクマたちはみな口々に声に、「行かないで、ママ」と声に出して、私の周りを取り囲んだ。

私は一匹ずつクマたちを抱きしめて、自分の足を赤い糸で結んだ。

「じゃあ行ってくるよ」

「お幸せに」とクマのキグルミを着たヒトたちだけが言った。

「ありがとう。幸せになる」

そして私は暗闇に飛び出した。

クマたちは、小さくなる私を見つめているだけで、もう棒を回そうとはしなかった。

私が見つけて赤い糸を結んだ♂はこういう少年だった。

1.|ロン

ロンの父はどこかの国との戦争から戻ってきた日、宿屋の階下の酒屋で自分よりも体格の良い女給と出会った。その晩、殆ど言葉を使わずに女を口説いて妊娠させた。その明け方に行った三回目の交尾で出来た子供がロンだ。父親は女給が起きるよりも早く宿を出ていったため、女給は男と免費タダで交尾をしたうえに男の宿代まで払うことになったのが悔しくて、飲み干した白酒のお猪口ちょこ二つを床に叩きつけて割った。女は自宅でロンをひっそりと生んだ。給仕の仕事の後にしていた交尾の仕事に支障があったので、ロンを竹籠に入れて児童養護施設玄関の階段に置き去りにした。それからロンの人生に父も母も登場することはなかった。

ロンは施設では仲間だけでなく職員にすら揶揄からかわれて過ごした。ロンは反応が遅く、周りから見ると真っ当な会話が成り立たなかった。ロンは誰に教わったのか、得意げに「ハローハロー」と言うだけだった。また喜怒哀楽を全く持っていないようにも見えた。それでもロンは味覚だけは優れていたので、彼が無表情で科学者の実験のように作る料理だけは評判がよかった。ロンは15歳で施設から出ると料理屋で仕事を見つけたが、どの料理屋でも料理人仲間や主人と上手くいかずに辞めさせられ、牛と豚小屋の世話をしていた。周りの年下の子供たちからは、昼は糞の世話をしているところを揶揄からかわれ、石や棒を投げられた。ロンは薄ら笑いをして言った「ハローハロー」。夜になるとロンが作る牛が咀嚼したスープを飲みに大人や子供達が集まるが、生まれたばかりの牝の小豚が女房なのか、その♀と交尾をしているのかと揶揄からかわれた。ロンは、彼らから何を言われても言い返せなかったが、彼らから女房なのかと言われた牝の小豚が美味しそうに麦を食べたり糞をしたりする姿を見ているうちに、彼女に次第に情を持つようになっていった。ロンは小豚にビンビンという名前を付けた。よく小豚の世話をしていると、「お似合いの夫婦だ、交尾をしているのか」と揶揄われた。実際に夜になるとロンは小豚と同じ藁の上で眠り、ビンビンの揺れるお腹の上に頭を乗せて眠った。

ビンビンが生まれて半年経つと、近所の子供達は大人が小豚を屠殺する前に自分たちで食べてしまおうと、夜中にビンビンとロンが寝入っているところに押し入った。何が起きているのか判らないロンと違い、ビンビンは自分で命の危機を感じて、子供達から必死にブヒブヒ鳴きながら逃げ回った。隣の牛小屋の奥に隠れて出てこなくなると、子供達は追いかけられなくなった。子供達はロンを牛小屋の前に立たせて、ビンビンを呼ばせた。ロンがビンビンを「ハローハロー」と呼ぶ声が続くと、ビンビンは辺りを伺いながら牛小屋の表に出てきた。それからゆっくりとロンが差し出す手のひらを舐めると、子供達に勢いよく押さえつけられた。ギイギイと泣き叫ぶビンビンの頭を一人の少年が斧で砕いた。斧が頭の骨を砕く音が響く度に、ビンビンの血がロンの顔にかかった。少年達ははしゃぎながら小豚を担いで去って行った。少年達がいなくなって暫くしてから、ロンは自分の顔を拭った掌の血を月の光で見てようやく声を出して泣いた。それは、生まれた時すら泣かなかったロンが生まれて初めて泣いた瞬間だった。

ロンが泣きながら歩いていると、川辺で少年達がビンビンの体を捌いていた。ロンは泣きながら少年達のところへ走り寄り、少年の一人が持っていた出刃包丁を奪った。怖がる少年達に構わずロンは自分から器用にビンビンの体を捌いた。少年達が用意していた鍋に肉と野菜を入れ、別の少年が用意していた調味料から醤油と、八角、丁香グローブ肉桂カシア、花椒、小茴香ウイキョウの適量を掴んで鍋に撒き、少年達と一緒に食べた。

この火鍋は少年達にとって今まで食べたことが無い格別な味だったので、驚きの笑顔で食べた。皆が笑顔でロンを讃えていると、ロンも生まれて初めて笑いだし、少年達と一緒にビンビンの肉を食べた。そして一緒に笑った。

ロンの豚鍋の評判が広まり、豚小屋の家主もロンに店で料理を作らせると、すぐに近隣の村からも押し寄せるような繁盛店になった。そこで職人を大勢入れて店を大きくすると、また次第に客が少なくなっていった。新しく入れた職人達がロンの作り方を盗んで、別の店がいくつも出来てしまったからだ。安くて綺麗な食器と気が利いた給仕が大勢いる他の店に客が取られてしまうと、豚小屋の家主はロンに鍋料理の店は辞めようと告げようとしたその日、ロンが自分のために焼いた核桃酥クッキーを口に入れると、すぐにこれを店に出すことに決めた。家主の思惑通り、その核桃酥クッキーの評判が瞬く間に近隣の村まで広まり、また店は繁盛した。豚小屋の家主は、もうレシピを盗まれないようにと職人を一人も雇わず、ロン一人だけに核桃酥クッキー作りをさせたので、ロンは一日中休み無くクッキーを焼き続けた。

ある夜、調理場で自分が育てている豚肉を捌き、ラードを作るためにその脂身を大鍋で茹でながらアクを掬っていると、大きなが揺れが起きた。大鍋は釜戸から落ち、周りの食器も全て音を立てて床に落ちて割れた。ロンは割れた皿やこぼれたラードを片付けているうちに、ここ一週間殆ど寝ていないことに気づいた。そこで、店の白酒を茶碗に注いで一杯だけ飲むと、すぐ裏手にある寝床にしている豚小屋の藁の上で眠った。この地面が大きく揺れた時にロンが、もし外に出れば世界の異変に気づいたかもしれない。

この大地がドン揺れたのは、それは私がロンと足首を赤い糸で結んだ瞬間だったからだ。そして12匹のクマたちは私がいなくなった世界で棒を回せなくなり、私とロン以外の全ての生き物たちの動きはピタッと止まってしまったのだ。

2.|冰冰《ビンビン》

私がヒトの♂と交尾をするために、世界中の♂からロンという男を選んだのは、彼が焼くクッキーを食べたかったからだ。五香草を食べさせ愛情を込めて添い寝までして育てた豚を、自分で泣きながら斧を振って屠殺した豚のラードで作った核桃酥クッキーを食べれば、体が痺れるに決まっている。私はどうしても、あのクッキーが食べたかったのだ。そしてそれを作っている男と交尾をしてみたいと思ったのだ。

私はロンの家へ行く前に現代中国映画を全て見て、その中で田舎のモツ店を賄う女主人公の容姿を自分の容姿に合わせた。これが間違いだったと分かるのは、それから一ヶ月後になる。ロンと豚小屋横の食堂で交尾をして暮らすなら同じ境遇の女優を選べばいいという発想が、ヒト文明の複雑さを見誤っていた。この「我不是潘金蓮私ははんきんれんではない」の潘金蓮はんきんれんとは誰もが知っている夫を殺した悪女だったし、ただの食堂の女主人だと思った女優はハリウッド映画に出演し毎月欧米のファッション雑誌の表紙を飾る大女優だった。

だから、汚くて食器が散らかった食堂に立っていた私をロンが初めて目にした時、彼はこう叫んだ。

「わっ。ビンビン。ハロー、ハロー、ビンビン」

女優の名前はロンが飼っていた豚の名前と同じ、范冰冰ファンビンビンといった。ヒトの世界に於いてかくも名前というのは重要であった。私は豚では無いし、ロンによって殺されたビンビンは私では無いが、この瞬間に於いてロンの中では「和集合の公理」が成立していた。そして彼は大声をあげて泣き出した。泣いている最中に大きな呼び鈴の音が聞え、彼は泣きながら音が鳴っている厨房へ向かった。扉を開ける音がすると間もなく、柔らかい香りが匂った。その匂いの後を追うと、ロンがオーブンから核桃酥クッキーを出していた。この匂いは私の鼻をくすぐって体の真ん中まで届いた。さっきまで泣いていたロンは真剣な顔をして、小皿に盛ったクッキーを私に差し出した。上にアーモンドを乗せたクッキーは分厚く、柔らかかった。

「冷やすとサクサクだけど。これ、焼きたても美味しいよ」

私ははじめて、食べ物を口に入れた。この男が作った焼きたてのクッキー。ふた口で口の中にひとつの全てを頬張る。何度も顎を動かして、歯と舌を動かすと、クッキーはすぐに溶けた。二つ、三つ、四つのクッキーを続けて頬張ると、ロンがお茶を差し出した。この男が淹れた初めての水分である茶を飲んだ。口の中に着いたクッキーと一緒に苦みのある水分が体の中に入った。またすぐに、両手で口の中へクッキー三枚を放り込んだ。唇からクッキーの滓が飛び出すのを見て、ロンは笑った。そして自分でも私と同じように三枚のクッキーを口に放り込んで滓を飛び出させた。

「ハローハロー」とロンは言った。

3.赤い糸

私はポケットに出来るだけクッキーを詰め込んでから、ロンの手を引っ張って店の外に出た。私達は笑いながら霧が濃い朝のアスファルトを走った。道路には車も人も動物も動く物は何も無い。横断歩道に誰かの白いスニーカーが転がっていた。私は靴を蹴飛ばし、靴の止まったところまで二人で走るとロンが靴を蹴ると同時に自分の靴も脱げて飛んで行った。それを見て私も自分の靴を二足とも脱いで思い切り放り投げた。ゴム靴は濡れたアスファルトの上をよく滑った。私達は道路の真ん中をずっと靴を蹴り続けて走った。私は裸足で靴を蹴りながら、自分が生き物になっていくのがわかった。

濃い霧が立籠めている朝だが、夜のようにネオンは灯ったままだった。三階建てのビルの屋上では電飾が灯る回転木馬が回っていた。台球俱乐部ビリヤード屋と描かれた音を立てているネオン管の下に、男と女が数人集まっていた。肩を組む男二人組の一人はビールビンを手に持ち、もう一人は膝を折って大きく口を開けて笑っているが、笑い声は聞えなかった。その横で腕を組んで店に入ろうとしている男女は、扉に手を触れたままで店に入ることはできない。彼らは夜中の、この時間に切り取られたままだった。

驚き戸惑いながら、止まったままの人達を凝視しているロンの手を取って店内に入った。薄暗い店内ではビリヤード台の6台が全て埋まっていて、ある者はキューを持ち、ある者は台に身を乗り出し、止まったままのボールを注視していた。大きなスピーカーからは古い英語のポップスが流れていた。ある者らは壁際でビールビンを持って、ある者はそこにあったはずの巻草を挟んだ指の形をしたまま、虚ろな目でボールか恋人か天井を見つめていた。

ビリヤード台の先にある階段を上った中二階にはビリヤード場を囲むようにして桌子が置かれ、数人が火鍋を囲っていた。私が空いている席に座ると、ロンは隣のもつ鍋と白酒を持ってきて二人の間に置いた。私は白酒を飲みながら、この状況を説明しようとした。唾を飲み、白酒を3杯口に流し込んで、誠実に正直に。そもそも私がこの世界を作ったところから、クマがたくさんの生き物を創造し、棒を回して時間を動かしていて、私とロンは赤い糸で結ばれている。という話をロンは真剣に聞き、あっけなくも完全に納得したようだった。また涙を流しながら「ハローハロー」と頷いた。

そして、「この店の豚肉は、みんなぼくが捌いてるんだ」と言った。

動きが静止している人達に囲まれて、白酒を三杯飲み干すと私の顔も体も熱く火照りだした。

「なんで、下にいるあいつらは、棒を持ってるんだ」

「棒で玉を突いて穴へ入れる。そういうゲームなんだ」

「何のために?」

「それは。このゲームに勝つためだよ」

本当は、私は知っていた。人は勝ち負けに執着する生き物であることを。それがヒトを奇妙な生き物にしてしまっていることを。

「きみは勝ちたくないの」

「ぼくは、そんなことは思わない、ハローハロー」

こういう彼にしても、同じヒトはヒトなのだ。ロンもいつかは自分でもわかるだろう。勝つことに囚われているヒトであることに。

「みんな、ぼくのことをロンって言うよ」

ロンは恥ずかしそうに、しかし名前を呼ぶように要求するように私に言った。

私には見えた。ロンの頭の中で大量の光子が爆発している。彼の網膜に映る私の顔が視覚野へ光りを伝えている。「このヒトの顔を見ると気分がいい」と。私はポケットからビスケットを出して、強く押し込むようにして口に入れて食べる。口内で感じる、冷えて硬くなったビスケットの砕ける感触が気持ちよい。私はポケットに入れたビスケットを全て桌子の上に出して、両手を使って口の中に入れた。そしてこのビスケットを作っているロンを見る。私はどうにかして、早く交尾をしたかった。私には見える。私と彼の足には赤い糸が結ばれている。赤い糸がこの家の何かに反応をしているのを感じる。

桌子から一階のビリヤード台を見る。私たちは何故この店に入ったのか。入り口に動きの止まった人がいたからなのか。もう一度二階から一階をのぞき込む。そこにはクマたちがいた。12匹のクマたちが棒を回すのを止め、みな肩を落とし手足を広げて座り込んでいた。その中のクマのキグルミを着て体育座りをしていたヒトが上を見上げて私と目が合った。彼がゆっくりと立ち上がると、他のクマたちもゾロゾロと立ち上がった。そしてクマたちは目を八の字に垂らし、何かを懇願するような顔で私を見つめた。

私は椅子に座り直して白酒を飲み込み、口の中のビスケットと一緒に飲み込んだ。私はどうにかして、早く交尾をしたかった。ロンの手を取って階段を降りる。一階のビリヤード台の上では大きな木の天井扇風機がゆっくりと回っていた。ビリヤード台の周りは入ってきた時と全く同じ姿勢で男と女がビリヤード台を囲んでいた。私はどうにかして、早く交尾をしたかった。

「ここでするのはどうだろう」と私は言った。

わたしはキスをした。

ロンは私の顔を見たまま、動きが止まった。

わたしは、もう一度ロンにキスをした。

「ここでやろう。うん。ハローハロー」

私はビリヤード台に体を乗り出してキューを構えている男を横から押した。止まっているヒトは押すと簡単に倒れた。どこかの骨が折れたかもしれないが、男が倒れたまま真剣にキュウを天井へ向けていた。台の上の球は全てポットに入れた。そして脱ぎ捨てるように上着も下着も体から取り外した。私は目の前のぼうっとして立つ男に対して、ヒトが大切にする愛とかいう感情を持っているわけではない。ただヒトとちょっと交尾をしてみたいだけなのだ。

ロンの服を脱がすと、パンツを脱ぐ時に抵抗する素振りをしたが、ビリヤード台の上に乗せることに成功した。ロンにしても、突然現われた、この世界を創ったという女と交尾をすることがどういうことなのかを少しも理解しようとしていなかった。もとより毎日決められたことをすることだけを習慣にしていた男が、目の前で想定外な出来事が発生すると、反応ができなくなるのだ。まあそれはいい。ビリヤード台の上で完全に裸になって足を開いた私の上になったところで、ロンはさっき食べたばかりのもつ鍋を吐いた。もしかしたら、それ以外の物も入っていたかもしれないと思うほど、たくさんの吐瀉物を私の体に撒いた。そこで勝手に一息をつけたのか、勃起した陰茎を必死に私の女陰に挿入しようとしたが、上手くできなかった。無数のヒトの交尾を見ていた私も、自分の体をどう動かすのか見当がつかなかったが、ロンの陰茎を掴んで、自分の女陰へ押し当て何とか挿入することが出来た。そこから、ロンは獣になった。そして、あっというまに果てた。死んだのかと思った。生きていた。息を一気に吐き出す音がした。店の音楽はさっきまで、「世界はこんなに素晴らしい」とダミ声の男が歌っていたが、今は甘い女の声で、「みんなは知らないのね この世がもう終わりだってことを」と嘆いていた。ロンは全力で走った時のような息をしながら、私を抱きしめた。ロンの体は柔らかく熱かった。汗が二人の体の間を濡らしていた。またロンは獣になって体を激しく動かした。私も次第にロンの動きに合わせていった。自分が生き物になっていくのがわかった。天井では大きな木の扇風機が回っていたが、ビリヤード台の上には少しも風は来なかった。ビリヤード台の周りには12匹のクマたちがいた。クマたちは歌った。「知らないのね/世界が終わりだってことを/あなたの愛を失ったときに/終わってしまったの」 私の目からは水が流れ落ちた。

4.槐/エンジュ

私達はビリヤード場で、ずっと裸のまま交尾をして食べて排出して眠ってまた交尾をした。ヒトとは入れたり出したりすることに憑かれる生き物なのだ。この店の冷蔵庫にあった野菜と肉をあらかた鍋にして食べ終わると、ようやくロンの家である、豚小屋へ戻ることにした。店からはビリヤードのキュー一本を持って帰ることにした。

「世界の始まりには、一本の棒があったんだ」

「そうだ。ハローハロー」

いつもロンは私の言葉を本当に理解しているのかどうかわからなかった。ただ、そうそっけなく答えると、服を取って着始めた。

「誰も見てないから、服着なくていいんじゃない」

という私のキスを含めた提案に、ロンは薄い笑顔で納得して頷いた。また私達は、道路がネオンを反射させている朝靄の中を、服を抱えて靴を蹴飛ばし笑いながら裸で走った。約一里500M 離れたロンが住む豚小屋まで。

ロンは本当に豚小屋の藁の上で寝ていた。藁の上に寝たままで止まっている一匹の小豚を少しだけ動かして横になった。私もロンの横に体を横たえた。そして一回だけ交尾をしてから眠った。藁が体にあたってチクチクした。

私達の主な生活は交尾をすることだった。ただヒトの体は食べなければいけないので、ロンは私のためにクッキーを焼いてくれた。小屋に戻ってからもクッキーを食べて交尾をして豚と一緒に寝てまたクッキーを食べた。

私達は毎日昼食用の弁当を持って、ビリヤード店にも森にも団地にも出かけて、ブルーシートを広げて、自然の中や止まったヒトの近くで交尾をし、弁当を食べてお茶を飲んでビスケットを食べた。

ロンはクッキーと食事を作るために、肉を捌き、植物は止まらずに育っているので、田畑を管理した。豚小屋の家主が豚小屋の周りに稲とスイカ畑とトマト畑とたくさんの香草を育てていたので、それもロンが面倒をみた。家主から、クッキーと食事の作り方は誰にも見られてはいけないと言われたことを頑なに守るので、私に料理を手伝わせなかった。

秋になり肌寒さを感じると、私とロンは外に出るときはようやく服を着始めた。東に一里行くとビリヤード店があり、南は森と湖が広がり、西に半里行くと五階建ての団地街が広がり、北側には田畑があって、その向こうには高い山並みが見えた。その先は何もない。暗闇の空っぽの世界だった。

ロンが一人で畑仕事をしているとき、クックーの生地を捏ねているとき、私はロンの働く姿を盗み見て、ビリヤード場から持ってきたキューを何度も撫でた。時々私は一人で森へ出かけて、槐の木を見つけると、幹に顔をすり寄せて匂いを嗅ぎ、膝を何度も上下させて背中を擦った。

ロンは自分では忙しく働くのに、頑なに料理も畑仕事も手伝わせないので、私は提案をした。

「私じゃなくて、私の知合いのクマに手伝わすならどうかな」

「ああ、クマならいい、ハローハロー」とロンは言った。

私はビリヤード店に行って、白酒を飲んで12匹のクマたちを召喚して連れてきた。

ロンの前に12匹のクマたちを並ばせた。彼らはヒトの言葉がわからないので、私がロンに一匹ずつ紹介をした。ロンは聞き分けの良さそうな彼らをたいへん気に入り、クマたちもなんとなく彼のことを気に入ったようだった。

ロンが丁寧にクマ達に仕事を教えた結果、彼が一人でやる仕事は次第に少なくなり、クマたちが苦手なクッキー作りだけを担当するようになった。クマたちも12人に仕事を分担させると余裕ができて、ローテーションから手が空いたクマを連れて、私はビリヤード場へ通った。ビリヤード場にいた止まったヒトを端に積んで、ロンと初めて交尾をした台を使って、クマたちとルール本を読みながらエイトボールをプレイした。このビリヤード店はとても落ち着く。槐の木を使って作ったキューとビリヤード台があり、天井には槐の木の扇風機が回っていた。白いクマといつものように、エイトボールをしていた時、窓からこちらを除いているロンを見つけた。それからも、黒いクマと一緒に秋スイカの収穫をしている時や、茶色いクマと灰色のクマと便利店コンビニでペプシコーラを漁っている時にも、ロンは何も言わずにそっと見ていた。

クマが来てから私とロンは毎日何度も交尾をした。ロンは恋人旅館ラブホテルに入って他人の交尾の最中を覗いたり、鍵がかかっていない団地の部屋に入って他人の生活を見たりすることが好きだったが、私は他のヒトとヒトが交尾中の止まっている姿を見るのは好きではなかった。ただ、恋人旅館ラブホテルに置いてある甘いコーヒーが好きで、ロンと一緒にビスケットを食べる時に飲もうと、袋詰めをポケット一杯持って帰った。

その日も鍵の空いている三人家族の部屋に入った。私は家族の暮らしの匂いを感じるのが好きで部屋の小物や写真や寝ている子供を眺めていた。ロンは下半身だけ裸で交尾最中の若い夫婦を見入って興奮をしていた。私は「もうここはいいから」と、軽くロンの腕を引っ張ると急な力が入ったため、ロンは交尾中の夫婦の体を押すようにして倒れてしまった。赤い顔をして怒ったロンは私の髪の毛を両手で掴み、思い切り突き飛ばすと、私は勢いよく窓にぶつかり、頭から窓ガラスを割ってベランダに倒れた。大きな音をたててガラスは割れ、私の上半身にガラスが降り注いだ。頭と落ちたガラスが顔を切り、顔の数カ所から血が流れた。

ロンは一瞬だけぽかんとしたが、急にスイッチが入ったような動きで私を抱き上げ、泣きながら「ごめんよ、ビンビン、ごめんなさい」と言った。

そう泣きながら謝るロンが可愛く、私はロンにキスをした。そして興奮した私達は割れたガラスの部屋で、床に落ちた夫婦が乗っていたベッドに乗って激しい交尾をした。ロンは命を吐き出し、命を削るようにして私と交わった。私の顔から流れる血はシーツとお互いの体を赤く染めた。交尾の終わる頃には私の顔から流れていた血も止まっていた。いつも交尾の後は荒い息をたてるロンの胸に顔を寄せ、彼の匂いと心臓の音を聞いた。ロンは私の髪の毛を撫でながら、また涙声になって言った。

「ビンビンごめん。どうしてあんなに強く突き飛ばしてしまったのか、ぼくもわからない。本当にごめん。もう絶対、ビンビンに」

泣く生き物はヒトだけだが、ヒトが泣きながら話をするのは、ヒト特有の感情が上乗せになる言葉だから、私はヒトが泣くのは好きだ。それがたとえ、事実ではなかったとしても。

泣きながら、ロンが言った。「もうあんなことはしない」

「私が先に押したから」

「ビンビンにはクマたちがいるけど、ぼくには誰も友だちがいない」

確かにそうだ。私とクマたちが一緒のところをロンが覗き見ていて孤独を感じているのだろう。

「また、村の人達が動き出せば良いのに」とロンは私の肩を抱いてため息をついた。

「そうだね」

私は結局、ロンの言う通りに動いてしまうのだ。本当にこの世界を創ったのは私なのだろうか。

私は12匹のクマたちを集め、ビリヤード屋に槐の木で、この村だけでも動かせる回転棒を作る指示を出した。一つの回転棒があれば、一つの村だけは動かすことができるだろう。

クマたちは森から槐を切って運び、ビリヤード場から台を取って、天井と床に穴を開けた。中央に槐の樹を置くと、槐の樹は最初からそこにあるように収まった。中央部分に穴を上げ二本の槐で作った棒を差し込むと、回転棒が出来上がった。わたしは、まず黒色クマ、灰色クマ、茶色クマ、灰色クマから一匹ずつを先発隊として、棒を回す担当にさせた。先発から漏れたクマたちは不満気だったが、私はドングリを配りながら「全クマのローテーションで、この棒を回し続けて村を動かそう」と円陣の中央で熱く語った。クマたちはドングリをモグモグさせながら、大きく頷いた。4匹のクマは、最初は苦しみながら力を入れると、槐の樹が動き出した。あとは、比較的楽な動きで棒を回せた。残りの8匹のクマたちは、手拍子を入れながら「♪どうして太陽は輝き続けるの?どうして波は岸辺に打ち寄せるの?みんな知らないのね この世がもう終わりだってことを」と。二人ずつの歌割りをして唱い始めた。

私がビリヤード屋から濃い霧の道を、豚小屋目指して歩いていると、霧の中から自転車と二人乗りのバイクにすれ違った、どちらも運転する男は大袈裟に私を見つめ、すれ違っても何度か私の方を振り返ってみていた。豚小屋に着くと、ロンが豚小屋の主人と少なくない村人たちの前に立っていた。私が彼らの前に来ると、村人達からは「おお」という歓声が沸き起こった。

ロンがみんなに私を妻のビンビンだと紹介した。

そこでまたため息と歓声の混じった声が沸き起こった。そこかしこで、本物の范冰冰ファンビンビンだとか、どこでこんなヒトを見つけたのかとか、悪い方のビンビンだよと囁いていた。今までは無視か蔑視していたロンに対して、男も女も羨望の眼差しを送っていた。

私とロンは生き物たちが動く村を手を繋いで歩いた。恋人旅館ラブホテルは満室だったので、待合室で待っていようとすると、私とロンの姿を見に集まってくるので止めた。受付からは記念に日本式のスティックコーヒー詰め合わせを貰った。映画館で哪吒を見ようとして、コーヒーとポップコーンを買う列に並ぶと、やはり「ビンビン、ビンビンだ」という声が沸き起こり、私達を華為のカメラを向けられた。ロンは気にする素振りをせずに、堂々と誇らしげな顔で列に並んでいた。映画を見終わった後、遠回りをして森の中を通る道を歩いた。森では鳥や蝶たちが槐の樹の周りを飛んでいる姿が見えた。私は何度も槐の樹に触れながら、ようやく夕方に、屋上で回転木馬が回るビリヤード屋に着いた。

光るネオンの下では流氓ごろつきどもがたむろしている。煙草を銜えるかビール瓶を持つかその両方をしていた男と女達も、私達が入り口に立つと、動きが止まった。ビリヤード場に入ると、大音量でこの国の踊場で一番人気の曲「Go west」 を流していた。「♪西へ行こう そこは平和な土地 西へ行こう そこは自由な雰囲気」店内は蛍光色のネオン管が点滅し、甘い香りがする煙が溢れていた。天井の巨大な扇風機が6台あるビリヤード台の周りにいる男と女たちの熱気をかき混ぜていた。ロンの周りに多くの人が集まり、親しげに彼の体を叩くと、ロンも嬉しそうに周りのヒトらと抱き合っていた。いつの間にかロンを人混みで見失うと、私は店の奥に向かった。いくつかの扉をくぐって奥の部屋の床を開けるとそこは地下室の階段になっていた。

ひんやりした地下に足を入れると、クマたちの強い匂が染みた槐の樹で出来た螺旋階段になっていた。扉を閉め、微かな灯りを目指して階段を降りていると、クマたちの歌声が聞えてきた「♪どうして鳥たちは歌い続けるの?どうして星たちは天上で輝いているの?」

棒をギーコギーコと回す音が聞えた。暖色の蛍光灯下で4匹のクマが頭を下げ、棒に重心をかけてゆっくりと回っていた。

「みんなごくろうさん」

わたしは、そう声をかけ、クマたち一匹ずつにドングリを渡し、懐かしい野生の臭いが強い毛だらけの体を抱きしめた。クマのキグルミを被ったヒトの首に垂れ下がった目覚まし時計から鐘の音が響いた。慣れた様子で四匹が立ち上がり、棒を回しているクマと一匹ずつ交代をしていった。回し終わったクマたちは、荒い呼吸で背中を上下させながら、私に笑顔を作って言った。

「ぼくたちで、ここは大丈夫ですよ」

わたしはそう言う黒白斑のクマ、ヌイグルミのクマ、茶色のクマ、白色のクマを抱きしめて、彼らの口に直接ドングリを入れた。クマたちは獣の匂いがしたが、私の体はもうすっかりヒトの体と匂いになってしまった。もう他に私に出来ることはあるのだろうか。私は何のためにここに来たのだろうかと考え、足下の赤い糸をたぐってみるが、手応えが無く、赤い糸の先は私の手の中に収まってしまった。

豚小屋に戻ると家主が店を締めるところだった。ロンはまだ帰っていないと言われる。いつもの豚小屋で寝ようとすると、家主から、「ビンビンさん。頼むから、そんなところで寝ないでくれ」と懇願された。「おれの二階の住居として使っていた場所を空けるから、お願いだからそこで寝てくれ。ねっ」と頼まれ、彼は自分で宿を見つけるからと、どこかへ出て行った。私は豚小屋に向かって中に入ろうとするが、小豚が興奮して歩き回り、彼にとっての闖入者を歓迎しなかった。それでも、かまわずに藁の上に体を横たえた。小豚も次第に歩き回るのに疲れたのか、私の横で体を横たえた。

その晩、ロンは帰ってこなかった。次の日も、次の日も、次の日も帰ってこなかった。

私は豚小屋の家主が経営する食堂で料理の手伝いを始めた。私が給仕をする姿を見るためだけに大勢の人が押し寄せて店は繁盛した。ただ家主は、どんなに店が忙しくても私をあまり働かせたがらなかった。そして、ロンが帰らないまま一ヶ月が経つと、家主から、ロンは今他の女と暮らしているという話を聞かされた。それから一ヶ月が経つと、ロンは血液の病気で具合が悪く、もう病気は治らないかも知れないという話を聞かされた。

私は何も考えることもなく、ただ昼は食堂で働き、夜は豚小屋で寝た。時々やさしいクマたちが順番でわたしの様子を見に来てくれた。

「ぼくたちが、ここにいる理由は無いよ」と、やさしいクマ達は言った。

わたしには、よくわからなかった。ここにいなければ、どこに行けばいいのかわからなかった。

それから一年が経つと、家主から結婚を申込まれた。ロンは体の具合が相当悪いしここには戻らないから、ここでおれと一緒に店をやろうと誘われた。彼はこの食堂以外に、ビリヤード店と映画館を持っていたし、太っているけど、年齢はまだ35歳だし今から子供を産んで精華大学に入学させて米国へ留学をさせて、ここら一帯の村をIT化させようと、夢を一気に語ると、ゆっくりと私にキスをした。私は暫く考えたいと伝えて、豚小屋で膝を抱えて豚と一緒に眠った。

夜中に、どなり声がして私と豚は目を覚ました。

「ビンビン、ビンビン」とロンが怒鳴って、豚小屋まで入ってきた。

「なんでまだ、こんなところで寝てるんだよ。ここのおやじと結婚するんだって?」

私は何も答えなかった。すると、ロンは私の頬を叩いた。

「誰と寝てもいいよ。ぼくは構わない。ビンビンが来てから全ておかしくなったんだよ」ロンはシャツを脱いで上半身を見せた。小さな電球でも肌に黒い斑点が出来ているのがわかった。

「病気になった。村にたった一人の医者のワンさんが言うには大きな病気に行けばいいって言う。このままだとどんどん悪くなるって言う」

ロンはわたしの頬をまた叩いた。

「でもさ、この村から出られないじゃないか」

ロンがわたしを足蹴りにしようとするので、私は手で顔を覆った。ロンは蹴ってこなかった。

「なんでこの村から出ようとすると、何も無いんだよ。この村から出られない。道路はどこまで真っ直ぐ走っても戻ってくる。歩いて山を越えようとしても、同じ道に戻ってくる。南の湖に入って泳いで向こう岸に渡って、林の中に入ったら、そこから先は何も無かったよ。空っぽだった。ビンビンは、この村に、ぼくに、何をしたんだ?お前なんかと会わなければよかった」

私は何も言えなかった。

「もしも、ビンビンがこの世界を創ったっていうなら、こんな病気くらい治してくれよ。ぼくを重慶の病院へ連れてってくれよ」

「やだよ」

「何でだよ」

「だって、ロンは、もうここにいないじゃない。いろんなヒトと交尾するから。それで病気になったんじゃない」

ロンは何かを言おうとしたが、言葉をみつけられないようだった。脱いだシャツを放り投げ、私の体に馬乗りになった。私はこのまま交尾が始まるのだと思って胸が高まった。

「ビンビン、何とかしてくれよ、頼むよ。」

そう言うと、ロンは私の体から離れた。帰り際に放った紙袋を開けてみると、中に核桃酥クッキー が入っていた。クッキーは美味しかった。そして、帰り際に私はロンの足に赤い糸を結び直した。赤い糸を引っ張ると、確かに糸は繋がったままだった。

5.12匹のやさしいクマたち

私は結局、ロンの頼みを断れないのだ。私が小豚の隣で一晩かけて考えたやり方はこういうことだ。

まずその日の朝、私と暫く一緒に寝食を共にした小豚は、鼻歌を口ずさみながら斧を持ってやってきた家主に屠殺された。そして内臓から湯気を出している小豚を捌いている家主へ結婚の承諾を伝えた。ビリヤード屋の経営を任せて欲しいという私の希望もあっけなく叶えられた。それからすぐビリヤード屋へ走り、店の工事を12匹のクマ達に説明した。真っ先に屋上の回転木馬は跡形も無く片付けられた。翌日、食堂で結婚式をあげた。招待客の中にはロンがいて、異様に痩せた恋人と寄りかかり合うようにして腕を組み、二人で私のことを睨んでいた。彼女も同じ病気だったのかもしれない。その夜、夫と寝室の柔らかいベッドマットの上で交尾をした。その最中、赤い糸がまだロンと繋がっていることを何度も確認した。台球俱乐部ビリヤード屋の看板を降ろし、代わりに新しい「愛情交換屋」という看板を付けた。屋上にあった回転木馬は二階に設置した。クマたちと森へ行き、私の願いを叶えられる一番力のある槐の樹を探しだした。その槐の樹は「心配ない」と確かな低い声で私達に言った。クマ達はその樹を切り、皆で担いで店まで運んだ。三階にこの槐の樹で作った回転棒で、下の回転木馬を回す仕組みを作った。毎晩夫と交尾をしながら赤い糸が離れていないことを確認した。毎朝食堂の入り口にはビスケットの袋が置かれていた。毎朝一人で袋を取りに行くと、そのまま外で一人で立ったまま、貪るようにして食べた。「愛情交換屋」では、森の槐の樹の力で4頭の回転木馬に乗った生き物の魂はそれぞれ後ろの木馬に乗った生き物の魂と入れ替わる仕組みを作った。つまり、ロンの体を私の体と替えてやればいいのだ。これでロンの願いを叶えられるはずだ。とこの時は思った。

いきなりロンと私の交換をする前に、クマ達が自分たちで実験をすると提案をした。私はそれを認め、まず、黒色クマ、灰色クマ、茶色クマ、灰色クマから一匹ずつを先発として、木馬の上に座らせた。次に同じ色のクマたちを上階で棒を回す担当にした。暗闇の中、三階で棒が周り、二階で木馬が周り、地下ではいつものように四匹のクマが村の時を回していた。半時間がたち、三階のベルが鳴り、三階のクマ達は棒を回すのを止めた。二階の灯りが灯った。クマ達はそれぞれが、「おれがおまえか。おまえがおれか」と顔を見合わせて言い合う。三階から降りてきた仲間達も、魂の入れ替わった仲間を認知し合い、面白がっている。すると、自然に今度はおれが木馬に乗って交換をしたいというクマ達のために二階と三階のクマの役割が入れ替わり、半時間後にはおよそ同じ光景が繰り広げられた。それか半時間後には地階のクマ達の、黒白斑のクマとクマのキグルミのヒトが二階の回転木馬に上がり、最初に回転木馬に乗った黒色クマ、灰色クマ、茶色クマ、灰色クマが地階で村の時を回す担当になった。そして半時間後には黒白斑のクマとクマのキグルミのヒトが魂の交換が成功したことに驚き喜んでいると、三階のクマ達と入り乱れ、争うように次に木馬に乗る役を決めていた。そうやって一晩中クマ達は互いの魂の取り替えをした。結果的にどのクマがどのクマになったのかクマ達から聞いたが忘れてしまった。要するに魂を入れ替える実験は成功したのだ。

翌日、ロンは彼女に付き添われて「愛情交換屋」へやって来た。不満そうにもただ具合が相当悪いようにも見える表情のロンに私は説明をした。

「この木馬に30分乗れば、ロンは私になって、私がロンになる。だからロンは病気が治る」

「ロンがあんたの女の体になるの?」とロンの恋人は異議があるような語気で私に訊ねた。

「そう。死ぬよりいいんじゃない」

彼女は、何かが何かに追いつかないようだった。

「それでいいよ」とロンは言った。「たのむよ」

私とロンは木馬の反対側同士で座った。灯りが消え、暗闇になると、クマ達の匂いを強く感じる。獣くさい懐かしい匂い。そしていつのまにか眠ってしまった私はクマ達に起こされた。私は自分の手を見た。無精髭の生えた頬をさわり、そして対面にいる私を見た。私達は木馬から降りて向き合った。ロンであるはずの私も私の体を触っていた。私は私の体に近寄った。お互いに見つめ合った。ロンの恋人がやってきて、私の顔の方に向かって、「ロン?」と訊くと、彼は「ああ」とだけ言った。ロンは、ロンの顔である私に向かって手で合図を送って、彼女の肩を抱くと何も言わずに出て行った。それが何の合図だったのかは分からなかったが、ただ私達の交換は成功したようにみえた。ただようやく、これでよかったのか分からなくなり、このあと何をすればいいのかと考える。本当に私は、この世界を創ったのだろうか。

食堂に戻っても、夫である男にどう説明をしても、私が妻であることを納得させられなかったので、また彼を「愛情交換屋」へ連れてきた。「そんなことが本当に出来るのならやってみろ」と言うので、木馬を回すと、夫は黒い色のクマになった。黒い色のクマだったはずの夫は、自分の顔をさわり、毛の生えていない腕をさすった。夫だった黒い色のクマも、同じように自分の毛だらけの顔や腕をさすった。暫く肩を落して呆然として床にしゃがみこんだ。

クマだった夫は自分の姿であった黒い色のクマに向かって言った。「どうだ。本当だったろう。すぐ元にもどしてやるよ」

「いや、もう少し、このままでいさせてくれ」と、元夫の黒い色のクマは言った。「また、代わって欲しくなったら、その時にたのんでいいかな」

「もちろん」新しい夫と私は言った。

そうして、夫だった黒色のクマは愛情交換屋に残ることになり、クマだった夫と私は食堂で生活をすることになった。この夫も手先が器用で物覚えが早く、すぐに食堂や家畜の仕事を覚えた。何事もなかったように私達は食堂の仕事を続け、夜は同じ寝室で寝た。黒いクマのときは♀であった夫は私に対して性的好奇心を持たなかった。私は何度も裸になって、痩せ細り体中に出来た黒ずんだ発疹を眺めた。痛みを感じることはなかった。ロンの体をそっと撫でた。まだ足首には赤い糸が結ばれていた。

私とロンが交換をして一週間が過ぎた頃、また恋人に連れられて、私の姿をしたロンがやって来た。恋人の姿も、前に見たときより歴然と酷い体調に見えた。

「この人、あんたに返すよ」と彼女は、私の体のロンを私に押しつけ、またふらふらと去って行った。

ロンの体の私は、この体以上に痩せ衰え、力の無い私を抱きしめた。首の発疹からは酷い腐った肉のような匂いがした。私は夫と一緒にロンをベッドまで運んだ。

「寒い」とロンは言った。「なんだ、おまえは元気なのか」

ロンは体を震わせながら、ポケットに手を入れて、ビスケットを二枚取り出して、笑顔を作った。歯茎も黒く腫れていた。

私はビスケットを受け取って、すぐに口に入れた。何ヶ月も前に作ったものらしく、湿気ていたが、いつものロンのクッキーの味がした。ロンのポケットに手を入れると、粉々に砕けたビスケットのくずがあった。私はそれを指で懸命に集めて、口に入れ、指についたかすを一欠片も残らないように舐めた。私の目から水がこぼれおちた。

「骨が寒いんだ」

私が毛布を持ってこようとして動くと、ロンは強い力で私の腕を握った。

「ここにいて」ロンは言った。「お願いだから、ぼくのとなりにいて」

わたしは横になっているロンの背中に回り込んだ。わたしは服を脱いで裸になって、ロンの背中に私の腹をつけた。ロンの首筋に自分の顔をつけた。ロンは小刻みに震えていた。私がどれだけ強く抱きしめても彼の震えは止まらなかった。私はロンの濡れた髪の毛に指をからませた。

「ロン、いたいの?ごめんね。ロン」

ロンの体から酷い匂いの汗が染みていた。わたしはロンの服を脱がせて、わたしの体であった汚れた体をみつめた。夫がバスタオルを持ってきてくれたので、ロンの震える体をタオルで包み込んだ。ロンは私の手の甲に汗で濡れた手を重ねた。次第にロンが力いっぱいに私の手の甲を押しつけると、指の間に自分の指を入れてまた強く握った。

シーツに顔をつけたロンの顔も震えていた。

「ごめんよ」とロンは言って、大便と小便の混ざったものを少しだけ流した。

「だいじょうぶだよ、ロン」

ロンの呼吸が次第に小さくなっていく。

「ロン、恐いの?」

「ハローハロー」とロンは言った。

わたしは、後ろから自分の体をしたロンの命がもうすぐ終わるのがわかった。

「ロン、ごめんね」

夫が急に大声で言った。「愛情交換屋へ運ぼう」

「運んでどうするの?」

「ぼくたちが、ロンの身代わりになるよ」そう、夫が叫ぶと、ロンの体を肩に担いで豚小屋の三輪車に運んだ。

霧の深い道を夫はロンを乗せた三輪車を掴んで、全力で走った。何度か滑りそうになったので、靴を脱いで裸足になって濡れて外灯を反射する道路を走った。私は、二人の後ろを裸足になって追いかけた。

愛情交換屋につくと、クマ達はみんな入り口で待っていた。三輪車に乗ったままのロンをそのまま持ち上げて三階に運ぶと、木馬の背に乗せた。その対面にはすでにクマのヌイグルミを被ったヒトが乗っていた。電気が消えると、4階にいたクマ達が棒を回転させた。クマの獣の匂いと、ロンの病の匂いが回っていた。

長い半時間が経ち、ベルが鳴った。私の体は木馬の背に乗ったまま動かなかった。クマ達によって、そっとロンは木馬から外された。私は自分の足の赤い糸の先を見ると、それはクマのヌイグルミを被ったヒトの足に繋がっていた。ただ、そのクマのヌイグルミを被ったヒトも、体の具合が酷く悪いようだった。他のクマ達によって、木馬から床に降ろされた。

「ハローハロー」とロンはなんとか言葉にした。

わたしはロンである、クマのヌイグルミを被ったヒトを抱きしめた。ようやく気づいたが、このヒトには綺麗に手入れをされている口ひげが生えていた。

キグルミのロンの体を後ろからきつく抱きしめた。ハアハアという息づかいだけが聞こえた。ロンの首筋は人工的なゴムの香りもする。ヌイグルミは強く押すと、中身の隙間が感じられる。背中の毛を割ると、チャックも見えた。ヌイグルミを被ったロンの額は汗なのか涙なのかぐっしょりと濡れていた。キグルミを脱がそうとすると、白い色のクマがそれを止めた。

「今すぐ、ぼくが代わりになるよ。きっとクマの体ならば丈夫だから」と言って、対面の木馬に座り込んだ。他のクマ達が、クマのヌイグルミを被ったロンを木馬に乗せると、すぐ電気が消えて、木馬はゆっくりと回り出した。

長い半時間が経ち、ベルが鳴った。30分前とおよそ同じ結果になっていた。クマのヌイグルミを被ったロンは木馬の背に乗ったまま動かなかった。そして、白い色のクマが言った。

「ハローハロー」と片手を上げて、絞り出すような声で言った。

屈強な白い色のクマの体に乗り移っても、ロンの魂は同じように消え入りそうだった。

私の目の前で同じ場面が何度も繰返されて、時間が経ち、クマ達の命も減っていった。

今は村の時間を回す黒い色のクマが一匹。四階で取り替えの棒を回す茶色のクマが一匹になって、ロンの魂が乗り移って具合の悪い、灰色のクマが残された。

このまま繰返しても、クマもロンも死んでしまうだけだ。もう一度私の魂のロンの体とロンの魂の灰色のクマが交換をすれば、私はどの体に入っても死滅しないとすれば。この命の消えそうな灰色のクマは生き残れるだろう。そしてロンの魂がロンの体に戻れば、たとえ命が残り僅かな時間でも、私はロンをロンの体として抱きしめることができるはずだ。私は対面の木馬によじ登って、四階の茶色のクマに棒を回すように合図をした。

長い半時間が経ち、ベルが鳴った。私は思っていたように、灰色のクマとしてぼろぼろの体として命があった。ロンの体を見ると、木馬の背に体をつけたままだった。四つ足を引きずりながら、ロンに近寄って背中に耳を当てるが何も音はしなかった。私はロンの腕を持ち上げて「ハローハロー」と言った。ロンのポケットを全て裏返して、ポケットに残っているビスケットの滓をきれいに何度もペロペロと舐めた。地階にいる黒色のクマと四階にいる茶色のクマを呼んで、ここで亡くなったやさしいクマたちをきちんと並べた。

そして、残った黒色のクマと茶色のクマを抱きしめて、「おつかれさま、ありがとう」と言った。

二匹のクマは、去って行く私に「グッバイ」と手を振りながら言った。

私は彼らを振り返らずに、ロンの体を担いで店を出た。三輪車にロンの体を乗せ、濃い霧のアスファルトをペタペタと歩いた。またこの村で動く物は無くなった。私は三輪車を押しながら中央線の上を歩いた。道に止まったヒトの姿は泥人形になっていた。道を歩く度に見かけるヒトや小動物はゆっくりと泥がくずれていた。気づくと三輪車の中のロンも泥になっていて、その姿がゆっくりとくずれていった。私の足に結ばれた赤い糸が解けるのが分かった。

三輪車を持ったまま湖に入ると、ロンの体は水に溶けていった。私は湖を泳ぎ切って、槐の林の中に入った。槐の枝を一本折って、林の中を抜けると、そこは暗闇だった。私は空っぽな暗闇の世界に入っていった。

世界はゆっくりと閉じられて、暗闇に覆われた。暗闇の中で一匹の灰色のクマは眠りを覚えて、横たわった。

一匹の熊が暗闇の中で目を覚ます。横には一本の棒があった。

文字数:22095

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