諍い、東京、バベルの掘削

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梗 概

諍い、東京、バベルの掘削

かつて天まで到達せんとする塔を建てたひとびとは神の怒りにふれ、人間の言葉はばらばらになった。それならばどこまでも深い穴を掘ることで、言語は再び統一されるのではないか。そうした仮説のもと、学術機関と不動産開発業者が結託し、きわめて深い穴を掘って異言語間のコミュニケーションの変化を観察する実証実験がひそかに行われている。

穴は、各地の大都市のなかに潜んでいる。超高層ビルの地下に、同じビルを逆さまに突き刺したような構造物をもうひとつ開発してホテルやオフィスとして収益化し、それによって得られた資金でさらにその地下に隠された実験目的の穴を掘削している。

英国人の主人公は、英国留学から日本へ帰国したばかりの恋人・アミを追いかけて東京・六本木を訪れた。アミは六本木の高層ビルの地下のホテルのB5401室に滞在しているという。アミとの関係は悪化しており、それを修復したい主人公は急ぎその部屋へと向かう。

B5401室の扉をあけると、そこは豪奢なスイートルームだった。主人公は一瞬ばかり心を躍らせるが、そこにアミの姿はない。そこはホテルの一室に見せかけた地下施設への入り口で、書斎には研究資料があり、主人公は初めてこの掘削と実験の試みを知る。アミからの伝言メモが置かれており、自分の家族がこのビルの開発の関係者であるという説明と、書斎の床にある穴をさらに下って地下の所定の横穴へ来てほしいという指示が書かれている。

主人公は地下へともぐってゆく。六角形の縦穴の周囲を階段が螺旋状に取り巻いており、穴の中心には上り専用のエレベーターがある。穴の壁は書棚で、多様な言語圏の一般書籍がまばらに収められている。ときおり横穴があり、ものによってはその中に人の気配もある。

非常に長い時間をかけて、主人公は所定の横穴に到達する。そこにはアミの姿があり、その口から漏れる、日本語になにかの織り交ぜられたような言葉を、主人公はわずかながらも確かに理解することができる。しかし、統一的な言語を身につけつつある代わりに、自身の持つ言葉の抽象的な運用能力や思考力そのものまでもが薄れはじめていることを察し、主人公は恐怖をおぼえる。アミはもっと深いところまで共にゆこうと誘いかけるが、主人公はそれを振り切り、エレベーターに飛び乗って書斎へ、さらにはその先の地表へと一気に駆け上がる。

地上1階の喫茶店にやっと腰を落ち着けて飲みものを注文するとき、店員に注文を聞き返されたので、主人公は自分の言語能力が永久に損なわれてしまったのだろうかと恐れる。しかしそれは単に店員がその発音を聞き取れなかったというだけで、自身の英語は元に戻っていることを確認し、主人公は安堵する。

小説はこの安堵の場面から始まり、上記の物語は回想形式で記述される。主人公はアミを地下に残してきたことを悲しみはするものの、もう一度そこに迎えにいこうと考えることはない。

文字数:1193

内容に関するアピール

現代的なバベルの物語をつくりたいと思って、神話とは逆さまの設定を考えました。自動翻訳の技術がこんなにも人気を博す現代は、ある意味でバベル以前の言葉がひそかに欲望されているともいえるのではないでしょうか。究極的な統一言語なんて、結局のところ求めても仕方がないものだとしても。

自分の経験を振り返っても他言語のために苦労したことが多い一方、母語の外へと向かう冒険にたびたび魅惑されてもきたので、切実で一筋縄ではいかないアクチュアルな問題として物語の細部を構成してゆきたいと思っています。

文字数:240

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地底のしらべ

 それでも——それでも私は繰り返し誓わねばならないのです。遅からずそのときは訪れます。私たちはついにあなたのもとへ到達することになるでしょう。長すぎた前史における過ちはきよめられ、邪悪な塔のもたらした災厄は終焉へと至るでしょう。あらゆるかりそめの記号はすがすがしい無へと還りゆき、私たちの過去につみあげた言葉はその軽薄な意味をあまねく漂白されることになるでしょう。
 これは予言ではなく約束です。先達の努力なしにここに立つことはとてもかなわなかったのだとしても、私はこの信仰にかかわるさまざまな分野に大きく貢献してきた自負があります。あなたの絶対性を疑うわけではありませんが、私たちの信仰はあなたではなく私たちによってこそ達成されるのだということもまた事実です。あなたの恩寵が、あなたが不在のままの世界に降り注ぐことはありえません。ひとたび完膚なきまでに破壊されてしまったのだから、私たちがそこに再び至るまであなたは存在しないも同然で——このような言葉遣いをお許しください。あなたのために信じるのではなく、私は私のために信じ、あなたを再び築きあげるための研究をつづけたいと思うのです。
 私はあなたを必要としています——あなた以外のなにがしかが、このどうしようもないかなしみを癒すことができるようには思えません。思えば初めてあなたのことを知ったときにも、私は深くうちのめされていました。だから私は信じるのです。私たちの地道な達成が、いずれは深い安寧へと通じるのだと。この世界にみちるあらゆる不条理や愚かさから、必ずやわれわれを遠ざけてくれるだろうと。
 地下聖堂クリプトにしつらえられたあらゆる計器は、いまやあなたにきわめて近似した性質をもつ音響がそこに生成されつつあることを報せています。この崇高な実験のために、いったいどれほどの知性が注ぎ込まれてきたことでしょう。完璧に連なっていたものをむごくも引き裂くのはきわめてたやすいことだったに違いありません。けれどもこのようにしてそれをふたたび繋ぎ合わせ、あるべきかたちへと再構築するのはかくも困難をきわめるのです。
 けれどもあとほんの一息で、私たちは完成されたあなたのもとへと至るでしょう。かならずやそれを成し遂げるのだと、いくら誓っても言い足りません。際限のないかなしみが私を蝕みつづけています。

 打ち手などひとつも残されていなかったと納得するのは簡単です。可能だったかもしれない世界について考えるのは、仮定の歴史を考えるのと同じくらい無為なことでもあります。けれども私には、どこかで私自身が判断を誤ったようにも思われてならないのです。
 私的なかなしみのことを措いたとしても、この共同体におけるひとつの使命ミッションにおいて失敗してしまったのは明らかなことでした。それは神学的な罪にあたるものではありませんが、それでも私は心から申し訳ないと思っています。あのひとの代理の話者を探すため、私たちはまたしても少なくはない労力を割かなくてはなりません。この分断の時代に、他なる言葉を話すひとを探し求めるのはかなりの困難が伴うのです。もしも代理の話者を見つけることが叶わなければまた長い時間をかけてしらべを解析し、より広範な領域を吟味したうえで、代替になりうる言語の解を導き出さなくてはなりません。
 室長や分析官たちが肩を落とす様子が目に浮かびます。私はこれまで間違えることがほとんどなかったので——もちろん、限定された意味での間違いをおかしたことがないという意味ですが——今回の使命ミッションもそつなくこなすに違いないと思われていたかもしれないけれども、状況はある意味では困難でしたし、私にも不得手なことはあります。
 難解なものごとのひとつひとつを精緻に、慎重に、矛盾のないようあつかうことにかけては、並々ならぬ成果をあげてきました。しらべの再構成のために必要とされる声を割り出すための波形処理、臨床データと私たちの信仰との整合性を担保するための統一理論、混合された祈祷の声について質的に分析するための遡行的な進化言語学、記号の意味論、地下聖堂クリプトを掘り進めるために必要な構造計算——そういった多岐にわたる領域において、着実な実績を残してきたのは確かなのですが。
 私は狼狽しています。かなしみのあまり涙をこぼすことすらもできずに、ただ両眼の縁がめらめらと熱を帯びています。それでも顔をあげて進まなくてはなりません。自分の行動を冷静に省みれば、精神的に絆されていたことがよくわかります。信仰の達成のためにはときには情を捨て、悪魔のような心持ちで取り組まなくてはならないこともあるのです。私は失敗に学ぶつもりでいます。つぎこそはもっと巧みに、そして冷酷に立ち回ることができるでしょう。そうなれば私たちはあなたのもとへと近づき、この世にありうべからざる壁は消失し、そしてそれだけでなく——ともすれば私の、きわめて個人的な痛みも癒やされることになるはずだと思うのです。
 言語こそがつねに最大の問題であることは、歴史のあらゆる場面に、世界中にちらばる私的な悲劇に、それに多くの哲学者たちが記述した認識と言語の関係性によって証明されてきました。現にあなたの破壊される前には、これほど愚かしい争いが繰り返されることなど滅多になかったのです。この状況に苦しめられるほどにいっそうあなたの偉大さに感じ入ります。このからだに染み付いた非力な言語のことを、私は心底嫌悪しています。それでもまだ棄てるわけにはいきません。この厭わしい言語から解放され、神聖なる合一へと至るためには、逆説的なようではありますが、世界中の不完全な言語を抜かりなく駆使する必要があるのですから。

 分析室は比較的浅いところにあるので、爆撃のある日にはその振動がときおり部屋をふるわせます。地表に隠したアンテナが微弱な電波を拾い、いくつかの土地の言葉がそれぞれの戦況について都合よく述べ立てているのを途切れがちの音声で教えてくれます。このラジオの声を聞くたびに、地表から失われた慈しむべきものを思い出し、私はいてもたってもいられなくなるのでした。
 部屋の中でいつものように、うす紙にさまざまな土地の言葉の波形をうつしとってはいくらかの知見に照らしつつ、音響の解析を進めていたときのことです。地下聖堂クリプトへ新たに迎え入れるべき最適の言語とは、まさしくあの西の島国の一方言であることに私ははっきりと気がつきました。この厄介な関数による探索は、限定された範囲内における最適解の組み合わせだけ吐き出して終わることが多いのですが——その解の多様性は、比喩的にいえばあらゆる翻訳の営みに内在する自由さと不自由さとに由来します——不思議なことに、このときは奇跡的とも言いたくなるような明快さでひとつの安定解が導かれたのです。
 その波形のサンプルを音盤へと転写して細い針をそっと落とすと、あまりに懐かしい語の響きの数々がそこから溢れ出し、私は瞬く間にその甘やかな感覚のなかに引き込まれました。それはほかでもない、私が過去に学んだ唯一の外国語の音声だったのです。
 こんなうす闇のなかに長く身を潜ませて暮らしてきたので、自らの過去に開かれた日々があったということがうまく信じられません。私はかつていくらかの奨学金を得て巨大な蒸気船で海原を越え、西の最果ての帝国へとたどりつき、都からは少し離れた煤けた工業都市の、あの風変わりにねじれた音の奔流に身をさらしつつ過ごしていました。かくも儚い宥和の時代。私は若く、希望にみちて、あの絢爛たる王国と私の故郷が刃を交える日がくるなど思いもしませんでした。
 それはあまりにも鮮烈な日々でした。工場は昼夜を問わずもくもくと煤煙を吐き出し、どこもかしこも鈍色にかすみ、運河には泥漿の混じった水がどろどろと流れていたのにもかかわらず、あのころの記憶は私のうちでいまも苦しいほどのあざやかさで保たれています。当時はまだあなたのことをなにも知らず、あなたの復活をひそかに願う世界的な結社についても無知でした。あなたのことだけではない、私には学び足りないことが数え切れないほどありました。未知なる言葉を惜しみなくからだに浴びせ、学校中をかけまわって受けられるかぎりの授業を受け、ぎこちないなりに向こうの衣装に身をつつんでパーティーに出かけ、心ない侮辱にさらされることもあれば、あるいは信じ難いほどあたたかく歓迎されることも——胸を刺すようなよろこびと悔しさに交互に打たれながら、無我夢中で暮らしていました。

 あの言語をすこしばかり見知っているからといって、私が実験のための声を供するわけにはいきません。学生時代のたった一年を向こうで過ごしただけなので、私のこの喉も舌もくちびるも、あの言語の独特の響きにけっして馴染んではいないのです。
 あのひとに協力を依頼するべきだと私はすぐに直感しました。抜き差しならぬ事情のためにもう何年も顔を合わせてはおらず、文通も途絶えて久しいけれど、あのひとが実はこの近辺にいるのだということに勘付きはじめたばかりだったのです。ラジオの国際ニュースから流れる中継の声から察するに、あのひとは戦地を取材するための独立した記者として、多くの危険を冒しつつこちらを訪れているらしいのでした。あのひとに接触を図り、声の提供をもとめることは、とりうる中では妥当な案であるように思えたのです。
 私はそれまで理論的な専門性が必要とされる領域ばかりに携わってきたので、外部交渉の経験はなかったけれど——けれども、この土地においてはいまや敵と見做される領域のひとを求めているのですから、だれかれかまわず接触するわけにはいかないのも確かでした。私たち自身はこの土地の統治者とはなんら関係ないことを行なっているつもりでも、かれらからすればなにかを疑うべき余所者だと思われるに違いありません。通信手段が極端に制限されている現在、赤の他人よりはいくらか顔を見知った者が出向くほうがよいのです。
 声をもとめることは信仰への誘いとは異なります。もちろん本人が望むのならばかまいませんが、もとより私たちはむやみやたらと信仰者を増やしたいとは考えないので、理由もなく宗教的な説得に時間を割くことはありません——私たちが人間的な言語の閾値を踏み越えてその向こうへ至ることができたなら、世界中のままならぬ言語はおのずと淘汰されゆくはずなのですから。私たちが外部のひとびとに依頼するのは、この地下空間を訪れ、その言語で話す声のサンプルを録らせてほしいというだけのことです。それでも多くのデータを取得するために数ヶ月の期間を要するので、いかにも気軽に引き受けられるというほどのものではないのですが。
 収録された声はさらに分析室でこまかに検討され、何枚かの音盤にまとめあげられたあと、地下聖堂クリプトにいくつも据えられた蓄音機によって読み込まれ、そしてこれまでに集められたさまざまな言語の諸音源と混合されます。そこでは多くの被祈祷者リスナーと音響技師、それに言語学の臨床家がそれぞれの使命にあたり、私たちの分析室にフィードバックするための実験結果をこつこつと収集しています。
 私たちはきわめて長い時間をかけて土地の掘削をひそかに継続し、この地下空間をかたちづくってきました。だからといって、そこに目を瞠るような燦然たる地底都市があるわけではありません。私たちは合理的かつ質実ですし、権威的な統治を好みません。篤い信仰がはなやかに装飾された寺院のかたちをとって現れる必要がないのは言うまでもないことでしょう。ここでは、私たちがあなたもとへ達するために求められる最小限の設備だけが——被祈祷者リスナーや腕利きの掘削工たちがやすらかに居住するための小さな個室、各種研究室、それに遠くから来た巡礼者や外部からの訪問客を迎えるための宿泊施設といった質素な空間が、地下聖堂クリプトの入り口へと向かって地上からまっすぐつづく縦穴のまわりを植物の根のようにとりまいています。
 私があのひとを迎えにゆくことは、室長やその他の上長によってすみやかに承認されました。暗いながらもそれなりに安全なこの住処をしばらくのあいだ離れることになるのです。みずからの身の危険を案じはしましたが、それでもなお再会のことを思うと心踊りました。大部分を忘れてしまったあの言語の記憶をたどり、顔を合わせたときに最初になんといえば良いものかうきうきと考えたりもしたものです——実際に再会したときにはそれどころではなく、ただ名前を呼びかけることしかできなかったのですが。

 あのひとに初めて出会ったときのことをいまでもはっきりとおぼえています。まだあちらに着いて間もないころ、学内の食事会を終え、それにつづいて催される懇親会に参加するため舞踏室ボールルームへと向かおうとしていたときのことです。おなじテーブルで食事をとっていたひとたちはするりと馬車に乗り込み、気付かぬうちに先へと姿を消してしまいました。歩いて移動するひとたちのまばらな流れを追って、からだを締め付ける衣装と靴とに閉口しつつ広大なシティ・キャンパスをよこぎろうとしていたとき、なにかの拍子にその隊列ともはぐれてしまったのです。うすぐらいなか、慣れない街で私はまたたくまに方向感覚をうしないました。通りすがりの何人かに道をきいてはみたものの、なんとなく肩をすくめられるどころか、君の話しかたがひどすぎてなにをいっているのかわからないと面と向かって言われることすらもあり、私は少なからず気落ちしました。専門的な授業にもついていくことができているくらいですから、道を訊くくらいの会話がほんとうにつたわらないはずはなかったのです。いま思えば、東の果てからやってきた慣れない顔立ちの学生が上等の衣服で着飾っているさまは、その地の住人から見ればうとましいものに見えるのも無理のないことだったのかもしれません。けれども私の記憶がさだかであれば、肩をすくめたひとたちのなかに、食事会の参加者も含まれていたような気がしています。
 途方に暮れたまま歩いていると、唐突にうしろから名前をよばれたので私は驚いて振り返りました。するとそこにはほっそりとした紙巻き煙草をくわえ、ジャーナルを何冊かかかえた人物がたのしげな様子で立っていました。そのときはまだ、私のほうでは顔も名前もそれと知らなかったのですが——聞けば、私の履修していた演習クラスにこっそり紛れ込んでいた下級生なのだといいます。
 狼狽しているのを悟られぬよう簡潔に事情を説明すると、道案内をするかわりに、自分を招待枠で舞踏室ボールルームに連れてはいってほしいとあのひとはいうのでした。演習クラスといい、あの懇親会といい、そしていまではまさか遠いこの土地にまで、とかくどこか歓迎されざる場所に忍び込むことにかけてはどうやら一流の腕の持ち主であるようです。近くの学生寮へするりと入り込み、あとから思えばそこはあのひとの住む寮ではなかったはずなのに、それでもあっというまに髪をととのえ、礼装のように見えないわけではないよそおいに様変わりして、なかば呆れている私の手をとって先へと歩きはじめました。
 目的地は思ったほど遠いわけではありませんでした。街路を少しばかりゆき、いくつかの講義棟のなかを抜け、私たちはまもなくその広間へとつづく階段までたどり着きました。宴はすでに始まっており、階下のひとびとは私たちには目もくれず、談笑したりゆるやかに踊ったりしています。そこであのひとは——下る最中に唐突に足をとめ、私の手の甲にひとつのかろやかな接吻を落としたのです。

 このように子どもじみた思い出が、信仰においてはまったく意味をなさないことは承知しています。そもそも私たちの信仰は、よるべない感情を解決するのに原理的にもまったく有効ではないのです。言語の臨界の向こうで博愛のうちにのみこまれゆく瑣末な情緒に対して、信仰の枠組みそのものが良くも悪くも失効しているのですから。あなたへと達することができなければすべてが徒労に終わります。けれども私はいまだあなたのもとへ到達してはおらず——だから少なくともまだ現在は、ひとつひとつの取るに足らない物語を解決していかなければ先へと進むことができません。
 あの最初の晩のなんと愉しかったことか。私たちは甘い酒やくだものを口にふくみ、両手をつないでくるくると踊り、婚約者同士のように腕をくみあわせたまま参加者との会話に加わりました。あのひとは軍役から戻ったばかりの上級生の風をよそおって、さまざまな教官や学生のもとに進んで駆け寄っていっては巧みな話術でひとびとを笑わせるので、私はその抜け目のなさに舌を巻きながら、それでも皆といっしょに思わず笑い声をあげずにはいられないのでした。
 あのひとのおかげでとても幸福でした。それに意外なことに、勉学にいっそう身が入るようにもなったのです。ひとつにはあのひとと過ごしている間に、新しい言語の扱いかたが少なからず洗練されたからでしょう。それによって前よりもずっと授業に集中しやすくなり、本を読むのも論文を書くのも速くなりました。けれども決定的に変わったのは、あの土地で目に触れるもの、耳に入るもののすべてを臆せずからだのうちに取り込めるようになったことです。それまでの自分はつねに警戒していたのでしょう。なじみのない異国の地で、いつだれに悪意を向けられ、あるいは騙されるかわからないまま歩むとき、ひらかれた心持ちでいるのはとても難しいものです。もちろん、あのひとが現れたからといってそういった環境がたちまち変貌するわけではありません。けれどもなにかの際には理不尽を訴えることのできる相手のあることで——なぜあのひとをそのように信頼し切ることができたのかわからないけれど——私はいくぶん自由になれました。それでも、思いだしたくもない卑劣な悪意にさらされたことは一度や二度ではなかったのですが。
 あのひとは両親の移り住んだ先で生まれ育ったために、自らの親族とおなじ言語を話すことができないのだといいます。言語の分断の現実を、あのひともまた少なからず憂慮していたのでしょう——もっとも、あとになって知ることですが、この点に関してあのひとは決して悲観的ではありませんでした。いうまでもなく、私たちはもちろん悲観的です。だからこそあらゆる言語の差異を無きものにして、果てしないあなたのもとへ辿り着くべきだと固く信じているのです。

 留学を終えたあとはこちらの学校で論文を書き上げて学位をとり、教師かなにかになるのだろうと思っていました。私は少なくとも成績については優秀で、よろこんで推薦書の作成を引き受けてくれる教官にも恵まれており、修了時までの奨学金給付が約束されていたのでとりたてて生活に心配する必要はないはずだったのです。けれども帰国するなり、休学して軍部の通信課に一定期間つとめるよう学校を通じて唐突な命令がくだされました。さもないと奨学金給付の約束は取り消しとし、場合によっては過去の給付分の返済を求めることにもなるのだと。あきらかに違法ですが、思えばこのころから法の支配はもろくなり、この土地の政治は静かに傾きつつあったのだと思います。
 とはいえそのときにはまだ宥和的な外交政策は実をむすぶかのように見えており、軍部の仕事がかならずしも悪しきものだけではないと自分を納得させる余地がありました。それに最初に提示された職務期間はそれほど長いものではなかったのです。傍受した通信の暗号解析のために必要とされる計算をもくもくと執り行うのが主な職務内容で、自分がそういった作業に関してかなりの適性があるのもよくわかっていました。あのころには計算機が未発達で、気の遠くなるような解析作業を何人ものひとの手によって行い、一定期間ごとに変更される鍵配列をその都度弾きださねばなりませんでした。いま私が地下の分析室でおこなっているのは暗号解析ではありませんが——組み合わせの限定された全数探索よりも複雑で、なにより多分な曖昧性をはらんでいる点で暗号解析とは根本的に異なるものです——いまでは計算を、少なくともいくらかの機械に頼ることができるのでありがたいことだと思っています。
 はじめのうちは、それほど大変というほどの仕事でもありませんでした。朝から夕方まで、求められた計算をきっちりこなして提出すれば、場合によるものの何日か経てばおのずと鍵の文字列へとゆきあたることになります。一度誤ってしまえば多くの作業をやり直さなければならないので気が抜けないのは確かですが、答えを見つけたときの感覚は格別でした——当時はそれをパズルのようなものだと思っていたのです。同期の計算助手にくらべて格段に速く処理をすることができ、さらに効率的な探索順序について参謀に提案できるようにもなりました。それなりの額面の報酬もあったし、暮らし向きもさほど悪くはなかったのです。
 けれども情勢は見る間に危うさを増してゆきました。私たちが行うのは鍵の解析のみなので、傍受された情報をすべて目にすることができるわけではなかったのですが、それでも断片的な情報から関係の悪化は容易に察することができました。あるときあちらで使われている暗号機が改良されて暗号化の方法が複雑さを増し、これまでの解析方法では鍵を特定することができなくなりました。大尉から直接の打診があり、今度は暗号解析方法の調査に参加してみないかと誘われ、言われるがままにそちらに加わることになりました。ひとつ隣の部屋に移っただけなのに、そこは静かな狂気に満ちていました——煙草のけむりがもくもくと満ち、目を血走らせた何人かの数学者が昼夜をとわず鉛筆を噛みながら、盗まれた平文や暗号機の部品を手掛かりに、無味乾燥に見える文字列をひたすら解析しつづけていたのです。
 そのときのことをつまびらかに語るのはやめましょう。私はそれなりに作業に貢献しました。けれども、とりわけ戦いの始まった後では暗号戦のほうも泥沼化してゆきました。暗号機が改良されるたびに大変な圧力をうけながら、また果てしない労力をかけて次の解析をはじめなくてはならなかったのです。
 あるとき、自分の復号した文章にしるされていた戦闘機が、私たちの軍によって見事に撃ち落とされたことを知りました。そのときにはもう私は疲弊し切って、鉛筆一本持てぬような心持ちになっていたのをよく覚えています。

 私はさして年端もゆかぬうちに退役しました。振り返ってみれば益のない空白の期間だったようにも思われますが、皮肉なことに、あのときにに身につけた解析の方法論はいまでも役に立っています。私たちの地下の分析室で計算機を使うことになったときにも、それを導入したのはやはり弾道計算をおこなっていた軍の技師だった人物でした。技術そのものに悪が付随するのではなく、技術の用い方が問題となるのだということはいまさら言うべきことでもないでしょう。ですから私たちは、憎むべき軍事組織からなにがしかの学びを得ることをためらうつもりもないのです。
 帰国してからしばらくはあのひととの文通を続けていましたが、仕事が機密度を増すにつれて外部との連絡を禁じられるようになり、仮にそうでなかったとしても、きっとあの忙しさにあっては帰宅してから手紙を書くような気力ははなから残されてはいなかったでしょう。きっと彼の地でも、こちらに手紙を出すためには幾重もの検閲を通過させなければならなかったはずです。そして結局、あのひとがどこでなにをしているのかわからなくなってしまいました。
 学校をつうじて命じられた仕事をまっとうできなかったのですから、もうそこに戻ることが叶わないのはあきらかでしたが、それでも私が頼ることのできるさきは学内にしかありませんでした。官舎から退出してしばらくのあいだ、かつて論文指導をうけていた教官の家に居候させてもらうことになりました。そこであなたのことを始めて知ったのです——その教官もまたあなたを信じる者のひとりでした。地下空間に居住しているわけではないけれども、その専門性を生かして調査室の研究に助言をあたえていたりもしていたのだといい、現に私自身も後になって解析方法の監査を依頼することにもなりました。何年か前に亡くなってしまったので、いまではもうそのゆたかな学知に頼ることはできないのですが。
 はじめ、教官がなにを話しているのか私にはわかりませんでした。そのうち、私たちに分断をもたらした諸言語の来し方と、その理想的な行く末について述べられているのだということを理解しました。かつて存在していた万象の声が人間の建てたひとつの高い塔のために破壊されたこと、そしてそのかけらを、しかも長い年月をかけてすっかりかたちの変わってしまったそれらひとつひとつのピースをあつめてその声をふたたび合一させるには、暗号の復号とは似て非なる解析方法によって各地に散らばった声の波形を分析し、適切な組み合わせで地下深くに響かせなくてはならないのだということ。そのようにして合成されゆく声においては、言語において比較的付随的とされるものから順番に、機能は少しずつ削ぎ落とされて——回帰性や階層性がまずうしなわれ、それからゆっくりと象徴性さえも振り落とされ、さらにはただなにかの音に類似することすらもやめて、そうして普遍化しつくされた臨界の声は、意味を指し示すのではなく声自体がそのまま意味をなし、しかもその意味のうちに潜在的に伝達されるうるすべての可能な情報があらかじめふくまれている。そこでは真と偽は二者択一に問われるべき質ではなく、そこに編み込まれ振動する同じ情報の裏表をなす質として立ち現れるのだといいます——つまり嘘をつくことも騙すこともできないし、裏切りと忠誠も、侮蔑も称賛もあらかじめともに包摂されているのです。言語進化学を応用したこのような質的予測が、暗号解析のヒントになる暗号機の部品と同様に、声の復元へむけた分析を方向づけています。
 教官の一連の話がひとつの質実な信仰にかかわっているのだと気づいたとき、私はもうその声にかかわる諸分析の話にすっかり夢中になっていました。まばゆい理想のためだけに生きずともよいのだと教官にやんわりと釘を刺されはしたものの、私にはもはやすべてをかけてあなたを信じること以外に進むべき道はないように思われました。退役してからずっと、燃え盛る機体ごと海へと落ちてゆく操縦士のまぼろしがまなうらに焼きついて離れないのです。いまでも心は変わっていません。あなたのもとへたどりつくために、なにもかもを投げ打つ用意ができています。
 そうして私はここまでやってきました。繰り返しますが、いまでも心は変わっていません。なにもかもを投げ打つつもりです——けれども結局のところそれがなにを意味することなのか、ほんとうにわかっているものか自信がありません。文字通りになにもかもを犠牲にして良いのだとすればそれはもしかして、あの悪しき軍人たちのやっていることと同じだということになるのでしょうか。

 ——あのひとをこの地下空間へと迎えるために必要な準備は着々と進められ、分析結果の出てからたった数日後には万事が整っていました。地政を扱う分析室に調査を依頼したところ、戦いの前線の向こう側、かつてホテルとして機能していた建物に、あのひとがほかの独立した記者たちとともに身をひそめていることが明らかになりました。私が地下での暮らしを始めたときにはまだこの土地は戦場になってはいなかったけれども、あるときからこの街も頻繁な空撃を受けるようになり、そしていまでは一部の土地が占領されるまでになっています。大きな戦いのひとつの前線が、この街をまっすぐに横切っているのです。
 もし仮に、各国の兵士たちの居並ぶ占領地の境界を超えてゆかねばならないのだとすれば、それは私にはとても手に負えぬ困難な旅になったことでしょう。けれども私たちの有する掘削技術は並々ならぬものです。最も腕の立つ掘削工たちが、あなたの滞在するホテルへとつづく仮設の横穴をすみやかにひらいてくれました。
 私は最低限の護身具と工具だけを身につけて、その長い横穴を這い進みました。地下での生活ももうだいぶ長いのですが、これほど狭苦しく真っ暗な場所を潜り抜けるのは初めてで、もしなにかを間違えば往くことも戻ることもできなくなるのではないかと怯えながらゆきました。しばらくは狭くて平坦なトンネルがずっとつづき、腕も膝ももうこれ以上は動かせないと思われるほど遠くまできたところでやっと穴は上方へとひらいて、私は安堵して体勢を変え、壁面に打ち込まれたほそい足場に手足をかけて少しずつ上へとのぼってゆきました。
 最後のほんのわずかの部分だけ、自分で土をくだき地表に穴をひらかせねばなりませんでした。私は腰につけていたたがねを頭の上の土に押し当て、そこに槌を叩きつけました。
 ひんやりとした土の欠片が顔や首のまわりにばらばらと落ち、そこから湿った夜気が流れ込んできました。きっと昼間にはたっぷりの陽光を浴びているのであろう青草の匂いと——そしてあのひとのよく吸っていた細巻き煙草の匂いが入り混じっています。最後の数段をのぼりきり、髪や服についた土くれを払いながら背伸びをして、それから私はちいさな橙色のほむらの揺れているのをみとめました。

 背後からにじりより、小さく声をかけました。あのひとはホテルの裏庭の樹に吊り下げられたぼろぼろのぶらんこをしずかに漕ぎながら、いつもの煙草をふかしていました。私の声に反応してその両足が地面を擦り、あのひとはこちらを振り向きながら立ち上がって——私たちは歓びの声をあげたくなるのを堪え、沈黙のうちに長い抱擁を交わしました。あなたのことも研究のことも使命ミッションのことも、そのひとときだけはすべて忘れて、懐かしさによく似た得も言われぬ感覚にひたすら鋭くつらぬかれていました——こうやってやっとまた出会えたのだから、もうほかにはなにもいらないように思われたのです。
 そうはいっても占領地のただなかにいるのだから、だれかに見聞きされ怪しまれるようなことは極力避けなくてはなりませんでした。私たちはホテルの暗い客室のなかに引き上げて、なるべく手短に——そうはいってもなかなか約めて話すことはむずかしかったのですが——それぞれの身の上について説明しあいました。あのひとは空爆された一帯を取材したときに負ったやけどの跡や、これまでに書き送った争いのむごさをあばく記事の数々、あるいはやっとのことで調達した小型カメラで撮影したひとびとの笑っている写真をいくらか見せてくれました。この時代にあって従軍記者とは異なるやりかたで報道に携わるのは、並大抵のことではないはずです。いまでは少しだけこの土地の言葉を話すことができるのだと言って、あのひとはいくつかの簡単な文章をすらすらと暗唱してみせたりもしました——たしかになめらかではありましたがきっとまるごと覚えているだけで、ほかの文章をつくりだすことはできないようではあったのですが。
 私はかつて教官がそうしたように、いま私が地下でおこなっている声の分析についてあのひとに説明しようとしました。けれどもあのひとはいまではかつての専門を離れているし、私のほうもひさしぶりに話すこの言語で抽象的な内容をうまくあらわすことができていたのかよくわかりません。それともただ単に、言語に対する期待のようなものが私とあのひととのあいだでまったく噛み合っていなかったのでしょうか。あのひとは、超越的な声に対して——つまりあなたに対して懐疑的でした。その実現性について疑問をもっているというよりも、その必要性をつかみあぐねているといった様子に見えました。たしかに、記者として確かな言葉をつづり、世界中に争いの現実について知らせる仕事に対して誇りをもっているのですから——あなたの手を借りずとも、あのひとはあのひと自身の言葉とその越境性について自信があるのかもしれません。このとき、もっとゆっくり時間をとって話しておけばよかったと痛切に思います。あのひとが私にもっと多くの言葉をくれたならば、私のこわばった悲観主義も少しはほどけていたのかもしれません。けれども私たちはとても急いでいましたし、安全な地下にたどりついてから細かなことを洗いざらい検討すればよいものと考えていました。
 とにかく私は持てる限りの言葉を尽くして、地下聖堂クリプトまで来てその声を提供してほしいのだということをあのひとに伝えました。ただしあなたのことを無理に信仰する必要はないにしても、声の提供が結果的になにをもたらしうるのかあらかじめ理解しておいてほしい——たしかにその時がおとずれるまでは私たちの振る舞いは儀礼的なものに見えるかもしれないけれど、ひとたびそのときが来たならば、そのしらべはおそらくは強力な実効性を持って信仰とは無関係に私たちの言語をあまねく塗り替えていくものだから。もしもそのような復活に賛同しないのならば来るべきではないと私はきっぱりと言いました——そのような言い様が決して背信的ではないと言い切れるものか、じつのところいささか自信がもてないのですが。

 驚くべきことに、初めて出会ったときと同様、あのひとはまた取引を持ちかけてきたのです。差し出されたのは意外な条件でした——とにもかくにも一度は地下聖堂クリプトに出向くので、その代わりに占領地の外側をともに歩いて、来たのとは別の経路で地下まで連れて行ってほしいのだと。いまホテルのそばへと通じている穴のほかにももちろん出入り口はあるでしょう、とあのひとは念押ししました。もちろんその通りです。あの横穴は今回の任務のために仮設されたものに過ぎず、常用の経路はほかにもいくらか整備されています。あのひとが抽斗から取り出した地図を眺めながら、私はいくつかの点を指差してその入り口の場所を教えました。
 ちいさな蝋燭の灯りがゆらぎながら、ベッドに腰掛けたあのひとの横顔をうすく照らし出していたのをおぼえています。日に焼けて荒れた肌にきざまれた笑い皺に影が浮かび上がって、ありし日々から確かに長い時が経っていることをよく示していました。それでも、まだ見ぬところへ向かおうとする抗い難い欲望があのひとの内にまだ強く息づいているのを知って、私は笑っていいものか悲しんでいいものかわからなくなりました——どうしてわざわざ敵地を通ってゆきたいとまで思うのでしょう。たしかに、この土地の人間らしい顔立ちをした私が付き添っていれば、そして通訳によって多少なりとも会話を助けることができるならば、独りでゆくよりはある程度安全をたもつことができるのかもしれません。けれども兵士たちは凡庸で、それゆえに残忍です。仮にあのひとのような顔立ちの人物を見つければ、すぐさま躊躇なく牙を剥くでしょう。身を隠しつつゆくつもりなのかもしれませんが、もとより双方の兵士たちが夜もすがら見張りをつづけているあの境界線をどのようにして越えるつもりでいるのでしょう。
 方法はいくらかある、とあのひとは言いました。このような機会にそなえて、あるいはこのような機会がなくてもいずればその壁の向こうへ飛び出してゆくつもりで、とりわけ境界付近の地政については日頃からよく調べているのだというのです。私はいくらかの正当な反論を試みましたがあのひとはなびかず、結局ほんとうに遠回りをしてゆくことになりました。結果的に、あのひとの自信はたしかに知識に裏付けられたものであるということはわかったのではあるのですが——このときもっと強く反論しておくべきだったのだと思います。あるいは交渉を決裂させてもよかったのかもしれません。けれども私は気が急いていて、すばらしく幸福で、同時にどうしてかとても切なくて、状況をうまく天秤にかけることができませんでした。そうでなくとも、ひとたびあのひとがどこかへ知らない場所へ迷い込むことを決意すれば、その気を変えさせることは不可能に近いのだということを経験的にはっきりと知っていました。
 あのひとは私の手をとりました。ホテルを抜け出し、あたたかく手を曳かれるまま静かな夜を歩いていると、まるで最初の晩にもどったかのような錯覚に陥りました——もちろん私たちは賑々しい舞踏室ボールルームではなく、暗くおごそかな地下聖堂クリプトへ向かおうとしているのだけれど。曲がりなりにも華やかだった礼服に身をつつむのではなく、髪も服もみじめなくらいほこりにまみれているけれど。私たちはもう若くはなく、希望にあふれてもおらず、あのときよりずっと大きなかなしみをかかえ、ありったけの知識を吸い込もうとする欲望もおおかた失せてしまっているけれど。
 夜をうつくしいと思ったのはあまりに長いこと地中にいたせいか、それとも身の危険をおそれ気を昂らせていたせいなのか。灯りの極度にしぼられた街並みは暗く、薄雲のかかった半月が路上にわずかな光を投げかけ、頭上にはいくつかの明るい星だけがぽつぽつと頼りなく光っていました。あるいはその暗さのために、荒れ果てた街の姿をはっきりとは見ずに済んだのでしょう。あのときが永遠に続けばよかったのに。ひんやりとした風が音もなく頬を撫ぜてゆきました。あたりは静まりかえっていました。すでに終わってしまったあとの世界に、ふたりきりで一足先に迷い込んでしまったような気すらしました。私たちは息をひそめ、一言の言葉も交わさず歩きつづけました。

 ふと顔をあげると、灯りのない橙色の電波塔が月明かりの中にうっすらと立ちはだかっているのに気付き、私はようやくおどろいてあのひとを見やりました。地上の地理には疎いけれども、あの塔がまだ占領されていない側の土地にそびえているものだということくらいはさすがに知っていたからです。ほらね、とあのひとは微笑んでいたのかもしれませんが、暗がりのなかでその表情はよく見えませんでした。私の気づかないようなやり方で、いつのまにか境界を越えていたのです。私にはただのっぺりとしてなんの情報もあたえぬように見えた暗い景色も、 あのひとにおいては内なる知識と結びつきはっきりと立ち上がっていたのでしょう。
 この塔のほど近くに建つがらんとしたあばら家のようなアパートの床下に、地下聖堂クリプトへと向かう最も主要な出入り口が隠されています。それは私が来るときに抜けてきた狭苦しい横穴とは違い、まっすぐと下に向かって伸びる大きな穴で、その周囲には螺旋の階段がしつらえられぐるぐると地下へと向かうことができるようになっています。言うまでもなく、地下聖堂クリプトはその最下部に大きくひらかれた空洞です。
 私はそのアパートがどこにあるのかなんとか見当をつけ、今度はこちらからあのひとの腕を引こうとしたのですが、そのとき——暗闇を割って白くするどい光の線がひらめき、私とあのひとほうへまっすぐと差し向けられました。
 そのまばゆさに目の慣れたときには、もう私たちの頸許にはつめたい銃器が押し付けられていました。
 それからなにが起きたのか、その瞬間のひとつひとつをいまでもつぶさに思い返すことができます。そのときのことがいまも繰り返し頭を過ぎります。なんども蘇り、そしてただ混乱するのです。向こう見ずのあのひとがただ愚かだったとでもいうのでしょうか。
 私もあのひとも、最後まで冷静でした。私はゆっくりとした低い声で、このひとは文民だから、殺すのは国際法に反していると、かれらに向かって明瞭に訴えました。けれどもそれが一向につたわる気配のないのは見るまでもなく明らかでした。
 あのひとのさいごにささやいた言葉が頭を離れません。わざわざこの土地の言語で、ぎこちなく口にされたその甘美な一言が。なんと答えたものか私が言い淀んでいる間に、あのひとはすべての言葉をうしなってしまいました。痛々しく地にたおれ、横顔におそれしらずのほほえみだけうっすらと浮かべたままで。

 ともに歩むつもりだった階段を、いま私はひとりきりで下降しています——去来するさまざまな記憶におぼれつつ、ふるえる足でゆっくりと段を踏み締め、いまやっと地下聖堂クリプトの付近までたどりつきました。泣くこともあたわぬほどかなしいのです。激しい感情にとらわれつづけていることをどうかお許しください。私的な喪失をかなしんでいるばかりでは、その先へ進むことができないのはわかっています。私たちの信仰には弔いの儀式すらもないのです。ひとたびあなたのもとへと達すれば死者の声ともひとしく出会いなおすことができるのですから、私はどうにかしてそこまでゆかなくてはなりません。私たちにおいては達成されぬ愛情も、あちらではより伸びやかなかたちでその声のうちに包摂されているのだと信じて。
 静かなしらべが下方から漏れ聞こえてきます。まだあなたは完成されていないにもかかわらず、そのしらべの併せ持つ複雑さと明快さに圧倒されます。いつもは波形にうつしとられたその声を分析しているばかりでしたが、ひさしぶりにその声を直接耳にして、その質の特殊さに改めて心を打たれました。ざわめきとしか言いようのない万象の混合されたしらべが私のうちにそそぎこまれ、少なくとも部分的にはその音響を意味そのものとしてたしかに受け止めることができるのです——そのような特殊な経験を、私を支配しているこの言語によって説明するのは非常に難しいのですが。抒情的な音楽を耳にしたときの感覚に似ているというのも正しくありません。
 ぐるぐると私を導いてきた長い階段がついにひとつの踊り場に達し、そして私は地下聖堂クリプトへと足を踏み入れました。はるばるこの深さまでやってきたのは、じつにこの信仰に出会ったとき以来のことです。
 時間が早すぎるためか、そこに被祈祷者リスナーらの姿はありませんでした。講義室のようにそっけなく装飾を欠いた空間で、隙間なく据え置かれた蓄音器ばかりがにぶい光をおびて無数に花開いています。
 私は祈るためにここにきたのではありません。私はあなたに救済を求めませんし、あなたにみずからの声を届けるために祈ろうとすることもありません。あなたは私たちがすべての知恵を傾けて、この手で再構築を試みる聖なるしらべそのものですから。私たちこそがあなたを可能なものにするために必要とされているのですから。ただもう一度その決意をかためるために、ほかでもない私自身にそれを誓願するために、私は未完のあなたにふれたいと思ったのです。
 かなしみがほむらのように私を舐めています。私は痛切にあなたを必要としています。
 私は決してあきらめません。あなたへと達することができれば、刺すようなこのかなしみも根こそぎ消し去ることができるでしょう。いかなる手段をもってしてもその臨界へとたどりつくつもりでいます。うしなわれたすべての声があなたのうちに流れ込み、私の声も、そしてもうここにはいないすべてのひとびとの声がそこ反響するでしょう。この不透明な言葉にみちた空間から私たちは解放され、あらゆる情報の高らかにひびきわたる豊かな淵の底で、もはや決して愚かしくはない歴史を新たに紡ぎはじめることができるでしょう。
 死者も生者もひとしく恩寵につつまれる言祝ぎの時代を、私は約束します。そのためにすべての知性を賭けることを誓います。それがもし破られるというのであれば——私はもうこれ以上永らえたいとすら思えないのです。

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