ヒカリゴケと人魚
――私は人魚だったの。
そう告げて、あの子はぼくの前からいなくなった。その時から、ぼくの心には人魚が住み続けていた。
青い海と緑の地球を後にして、九か月。眼下に広がるのは、赤さびた大地。周回軌道上で、ざっくりと切り込まれたようなマリネリス峡谷や、太陽系一の火山オリンポス山を眺めながら、ぼくは宇宙船の窓にかじりついていた。
二年間の当番病理医として、火星のコロニーに赴任が決まった。地球上の僻地には行きたがらない病理医が多いのに、火星赴任は希望者が多い。極地への行き来が不自由だったころに、南極越冬隊に憧れるようなものだろう。二年に一人の当番病理医は原始的なくじ引きシステムで決められ、公開選考会でぼくは火星行きを引き当てた。
とんとん拍子に実績を上げ、いずれは病理学教室の教授にという話が出てきた矢先だった。キャリアにプラスにならない、と渋る上司や、火星人は田舎者ばかり、という同僚の言葉を受け流し、着々と準備を進めた。ぼくの活躍の場は、地球じゃ小さすぎるんです。この機会に、向こうの技術も底上げしてきますよ、とか冗談のように言って。心が躍った。
火星に人類が入植して、はや五十年。数千人規模のコロニーができていた。それでも、移住や観光旅行を希望する人は多く、対する輸送のインフラには限りがあり、火星行きは困難を極めている。当番病理医として行けるなら、それが一番の近道だった。ぼくは自分の強運に酔った。
地球の生命は、火星が起源。火星は、生命の母なる大地。――子どものころから、ぼくはそう信じていた。生命の痕跡を最初は無人の探査機が、のちには人間が直接探したが、まだ確たる証拠は見つかっていない。滞在中に、ぼくが見つけたい。密かな野望だった。
それから、もう一つ――。
砂嵐警報が解除されたばかりの、ジョビス・マーズポートに降り立った。九か月ぶりの重力は、地球の三分の一。とはいえ、かなり身体にこたえた。低重力用に、と餞別にもらった錘入りの靴を履いてみたら、一歩も足が進まず閉口した。長旅を共に過ごした観光客は、数人単位で連れ立ってさっそうと前を行く。お仕事、がんばってくださいね~、と重力にてこずるぼくを置いて。
ぼくが向かうのは、タルシス三山の一つであるアスクレウス山の西、溶岩台地に建設された火星最大の居住地であるアスクレウスコロニー。始発駅の宇宙港ジョビス・マーズポートを、時速800キロを超えるスピードのオリンポス・エクスプレスは、ほぼ30分で結ぶ。
二両しかないリニア新幹線にまばらな乗客。それでも、車内前方からはにぎやかな笑い声が聞こえた。ぼくはぽつんと後方に座って、車窓を流れる風景を眺めていた。
右手奥にはるか遠く、鉄道名の由来にもなった最高峰、オリンポス山が土煙に霞んで見える。1,000キロメートル以上離れているとはいえ、標高21,000メートルの山容は、長いすそ野を伴って圧倒的に広がる。その手前には遮るものが何もなく、ひたすらに茫漠とした赤い大地が続いていた。
やがて、リニアは赤い大地に穿たれたトンネルに入った。車内の照明だけがまばゆく、リニアはスピードを落とさず暗闇を突き進む。まるでジェットコースターだ。坂道を滑り落ちる感覚。身体が宙に浮くのでは、と思った瞬間、ゆっくりと制動がかかり、光の中に飛び出した。
アスクレウスコロニー駅。
火星を象徴するように滑らかに磨きこまれた真っ赤な壁は、照明が反射してまぶしいほど。薄暗ささえ感じる火星の空より、晴れ上がった地球の空の明るさを連想させる。足を踏み出すたびに、靴音が小気味よく響く。白みがかった石の階段を下りて、大きなガラスのドアが音もなく開くと、ぼくは息をのんで立ち止まった。
目の前に、コロニーの街並みが広がっていた。
天然の溶岩洞を利用したコロニーは、マーズカナルと呼ばれている。そそり立つ左右の断崖に圧倒されながら、そして、溶岩洞の切れ目である天窓にほんの少しだけのぞく火星のピンク色の空を振り仰ぎながら、歩いた。
マーズカナルの深さは約百メートル。長さ10キロメートル、幅は広いところで500メートルの洞底を利用して、両側の崖に住宅やオフィスを配置し、その中心をハイウェイとリニアが貫く。並行する歩道には、街路樹が瑞々しい葉を広げる。光合成の能力を極限まで高めるようにデザインされた、多様な樹木。足元には一面の芝。地球の中緯度の都市を思わせる植生に、圧倒された。何度となく動画では見ていたが、実物はそれ以上だ。
地球からダウンロードして持ってきた地図を頼りに、目的地を探す。GPS用の人工衛星は、火星にはない。溶岩洞に沿って作られた街並みは、南北に細長く伸びている。地図の読み方なんて、知らなくても問題はない。そう高をくくっていた過去の自分を呪った。町はずれまでやってきたのに、ぼくの目指す病院にたどり着かない。
せめて、迎えぐらいよこせばいいのに。ぼくは貴重な病理医なんだぞ。ぶつぶつ言いながら、なんとなく背中に気配を感じて振り返ったぼくは、息を弾ませながら走ってきた女性と目が合った。
「そっちじゃないんです」
膝に手をつき、肩で息をしながら、彼女は言った。
「全然、気づいてもらえなくって」
「あの……」
「今度赴任されてきた、グラッドストーン先生ですよね」
ちょっと戸惑ったように小首をかしげた。いや、戸惑ったのはぼくのほうだ。
「そう、ですが。きみは?」
「アリシアに言われて迎えに来ました。地球の人で、間違えずに病院にたどりついた人はいないからって。駅の前で見かけたんですけど、反対方向にずんずん歩いて行かれてしまって。声をかけても気づいていないみたいでしたし」
そこまで一息に話すと、はっとした表情をした。
「わたしはコロニー統括本部で来火された方のお手伝いをしている、ニナ・ローラックといいます。アリシアは、――病院で先生のお世話をすることになっている医師ですけど、彼女は叔母です」
と言った。少しだけ小さな声で。
潤んだ涼しげな黒い瞳。ふんわりと揺れる茶色がかった長い黒髪。少し紅潮したふっくらとした頬に、桜色のくちびる。乾燥した赤い砂漠をひたすら歩いて、やっと探し求めたオアシスのような。
ぼくの火星人のイメージは、この時、音を立てて崩れていった。
勤務先の病院は、国際火星研究所附属病院という看板を掲げ、近未来的な構造、――地球ではだれも作らないような構造をしていた。地震のない低重力の火星では、前衛的な建築家がこぞって斬新なデザインの建物を作っていた。崖に沿って立ち上がり、上に行くにしたがって広く張り出した白い建築物は、百合の花を想起させる。
数千人規模となったコロニーでは、入植者を中心に、各産業が自給自足を目指した研究を続けていた。医療機関も対人数では充実している。だが、病理検査は後回しになっていた。病理診断AIがあればほとんど事足りたし、難しい症例はテレパソロジーと呼ばれる遠隔病理診断システムで地球の専門医が診た。手術で採った組織を標本にして、病変部の画像を取得できる技師さえ数名いれば、まあ何とかなった。それでも、きわどい症例での術中迅速病理診断には対応できない。地球との通信には、往復で最大四十分を超えるタイムラグがある。その間、患者のおなかを開いて待つわけにはいかない。というわけで、常駐の病理医は必要だ。
IMRIHの豪奢な外見に不釣り合いなほど、病理検査室は殺風景で古めかしかった。申し訳程度の器具しかない検査室で、前任者が病理診断をくだせたことに感心を通り越して、呆れた。テレパソロジーが聞いてあきれる。スライドビュアは病理診断AI用の一台だけ。テレパソロジーには、その代わりに顕微鏡につけたカメラで撮影し、そのデータを地球に送っていた。専用の機器は、どこにもない。病理検査博物館だ。技術の底上げをしてきます、と豪語したぼくの言葉を、誰も覚えていないことを祈った。底上げをしようにも、ほとんど手作業の検査室で、いったい何をしろというのだ。着任早々文句を言うつもりはなかったが、早急な検査用機器の充実を院長に伝えた。
「そうがっかりしなさんなって。グラッドストーン先生」
戸口で立ち止まったまま考え込んでいたぼくの背後から、野太い声が言った。がっしりとした体格のいい男が、首を回したぼくの視界をふさいだ。見上げると浅黒い顔に愛嬌のある丸い目が笑っていた。
「やりたくても仕事はたいしてこんですよ」
ぼくのわきを抜けて部屋に足を踏み入れながら、小さくウィンクをした。
「ゴードン・グレイ。ここじゃ、ちょっとした長老みたいなもんでさ」
たくましい手が差し出された。その手を握りながら、低重力の火星でこの体格をどうやって維持しているのか、不思議に思った。
「ウィリアム・グラッドストーンです。どうぞ、ウィルと……」
「先生もやりますか? ロッククライミング」
マイペースなゴードンと、二人三脚の日々が始まった。
「先生。ちったぁ休んだほうがいいですぜ」
ぼくの顔を見るなり、ゴードンが表情を曇らせた。
「そんなにひどい顔をしている?」
腕組みをして、上から見下ろす大きな顔が神妙にうんうんと上下する。着任早々、コロニーの生活に慣れていないせいか、思うように仕事がはかどらない。終わらない仕事を遅くまでかかって片付ける。そういう日が一週間も続いていた。休みもなしだったからなぁと、その日は早々に帰宅した。夕暮れのコロニーの照明は真っ赤な夕焼けで、地球の光景と変わらない。ずいぶん遠くに離れてしまった家族や友人を思い出させる。少し気弱になっているのかもしれない。
十分睡眠はとれたはずなのに、翌朝は微熱とだるさで起き上がれなかった。軽い咳もある。まいった。一日休暇をもらうために病院に連絡を入れた。
食欲もなく、何も口にせず天井を見上げていれば、いつの間にかまた寝入っていた。目が覚めた時には、喉が焼け付くようで、声が出ない。これはまずい。常備薬の一つも置いておけばよかった。地球では全く病気には無縁だったから、油断した。ベッドのふちに腰を掛けてうかつな自分を呪った。このままでは、明日も出勤できるかどうかわからない。
ドアフォンが鳴った。壁に手をついてふらつく足を支えながら、何とか玄関のドアを開けた。誰だ、こんな時に……。と心の中で悪態をつきながら。
「やっぱり」
アリシアが立っていた。来火以来、なにかと世話を焼いてくれる頼りになる救急専門医だ。アリシアの後ろには、ニナがいた。少しよろめいたのは、気のせいか。
「思った通りね」
思った通り?
「火星に来て、ちょうど二週間でしょ。そのあたりに、みんな風邪をひくの。微熱に咳、だるさ。明日になったら、もう少し熱が上がるわね」
足元の定まらないぼくは、二人に両脇を支えられて、ベッドに戻った。こんなことなら、もう少し荷物も片付けておくんだった。部屋のあちらこちらに、引っ越してきたときの荷物がそのままになっている。
手際よく診察をして、薬を準備するアリシアの肩越しに、ぼくはキッチンで食事の用意をするニナを見ていた。一週間分もあるのでは、という量の食材を、ほとんど空だった棚や冷蔵庫に詰め込んでいる。
「火星に来たら、みんなかかるから。大丈夫よ」
ベッドに横たわらせたぼくに布団を掛けながら、アリシアは何ともない様子で語る。安心した。このまま一人だったら、さぞかし心細かっただろう。
「これは、感染症なんですね?」
赴任前には聞いていなかった。
「そうかもしれない。実は、まだ調査中。おそらく、この溶岩洞の環境が原因で引き起こされるんじゃないかと思うんだけど。アレルギーの線も捨てきれない。火星ではリソースが限られているので、地球にいろいろ送って調査してもらいたいんだけど、向こうもわけのわからないものは持ち込みたくないって」
それはそうだ。外来の植物があっという間に在来種を駆逐するように、もしも火星特有の病原体なら、その影響は予想できない。持ち込みを禁止するのは当然だ。
「通称、火星風邪」
アリシアが深いため息をついた。
「WHOがやっと重い腰を上げて、調査隊を送ってくれることになっているんだけど、いつになるかわかったもんじゃないわ。重症者も出ないし、優先順位は低いのよ」
ニナがトレイにスープを乗せて立っていた。
「とりあえず、持ってきたものは片付けました。明日の朝食は冷蔵庫に入っているので、温めてくださいね。マーズフィーバーには栄養と休養が一番。一週間は出勤禁止です」
アリシアに目配せをして、ニナの黒い瞳が穏やかに笑っていた。
サイドテーブルに置かれたスープからは、湯気が立ち上がっている。保存食しか置いていないこの部屋で、暖かい料理が食べられるとは思ってもみなかった。その香りと味は、心に優しく染み渡った。
体調は乱高下を繰り返したが、きっかり一週間で復活した。検査室をのぞいたぼくの顔を見て、ゴードンがにやりと笑った。
「先生も、やっと火星人の仲間入りですな」
――火星人か。少しくすぐったい気持ちがして、照れ笑いをした。
「マーズフィーバーって、いつからあるの?」
「そうですなぁ、かれこれ十年ぐらいだろうて」
「十年なら、それほど昔じゃないね。よくない場所を突っついちゃったとか?」
目だけ動かして斜め上を見つめながら、ゴードンは考える仕草をした。
「そんなところですな」
「火星由来の病原体かな……」
思わず漏れた小さな独り言に、ゴードンは即座に反応した。
「そりゃあ、おもしろいですな。まだ誰も火星の生命を見つけとらんし。もし見つかったら、ノーベル賞ものですわ。だけど、先生。ここの人たちは、原因なんてどうでもいいって思ってますな。ちょうどよく休暇が取れるって。重症にもならんで、一週間きっかりで回復するなら、別に原因がなんでも構いませんわね」
大きな肩を揺らして立ち去るゴードンの背中を見ながら、火星人はおおらかでいいや、とぼくもにやりと笑った。
病気明けの一日は一週間分の仕事が待ち構えていたが、不思議なぐらい気力が充実していた。窓の外がうす暗くなるころ、もうたいがいにしましょうや、というゴードンの掛け声で、帰り支度を済ませた。
――ヴァイオリン?
かすかに曲が聞こえる。気のせいか、と歩き出したが、たしかに聞こえる。誰が弾いているのだろう。弾むメロディに呼ばれるように、ぼくはその場所を探した。窓から顔を出した。どうも上の階から聞こえてくるようだ。非常階段を上れば、その調べはますます大きくなり、そして、光る街路樹に彩られたマーズカナルを見下ろす屋上に、そのヴァイオリニストはいた。ぼくはおもわず息をのんだ。
ヴァイオリニストの動きに合わせて、まばゆい光が宙を舞う。よく見れば、楽器自体が金色に縁どられていて、弦と弓がこすれあうと金の粒がこぼれ落ちる。音楽に合わせて動く影絵を見ているような、不思議な感覚だった。
曲が変わった。
その瞬間、ぼくの胸の中で何かが疼いた。忘れることができなかった、子どもの頃の思い出。一瞬にして、目の前の景色が変わった。
ぼくは草原に座っている。なだらかな丘の上に一本の大木が立っていて、その木陰に車いすに乗った女の子がいた。その子はヴァイオリンを手にして、楽しそうに弾いている。同じ曲を何度も何度も。飽きもせず。ぼくは身じろぎ一つせずに、彼女を見つめていた。
どうやってその場所に行ったのか、そこで初めてあった女の子なのか、今では全然思い出せない。そのシーンだけが、鮮やかにまぶたの裏に焼き付いている。あるいは、後付けで作られた光景なのかもしれない。ただ、現実だったという確信はあった。
そのとき、ぼくは彼女に聞いた。歩けないの? と。
彼女は答えた。歩けないの。と。
でもね。
ヴァイオリンを大切に抱えて、彼女は微笑んだ。
歩けなくても、できることはたくさんあるの。身体が不自由でも、あきらめることはないのよ、と。
ぼくたちは草原の大樹の下で、いつも一緒に過ごした。名前は、たぶん聞かなかった。会えなくなるとは、思っていなかったから。なのに。
いつの間にか、彼女は来なくなった。
火星にね、行ってみたいの。とその子は言っていた。だから、火星に行ったんだ。ぼくは、大きくなったら会いに行こう、と心に誓った。
美しいヴァイオリンの調べが流れる。ほとんど覚えていないその子の顔が、光る木立の中で微笑んだような気がした。
少しひんやりした夜の空気に、余韻が漂う。
ぼくはゆっくりと目を上げた。いつのまにか曲は終わっていた。
ヴァイオリンを手に、その人はゆっくりと近づいてくる。黙って聞き入ってしまって、失礼だったか……。姿勢を正した。
「グラッドストーン先生?」
思いがけず名前を呼ばれた。歩み寄るその人の顔がうっすらと見えた。
「ニナ?」
その時、ぼくはニナのことをほとんど知らなかった。
火星の夜は美しい。昼間には青々とした街並みが、夜は一転、きらびやかな光のグラデーションとなる。歩道沿いの街路樹は照度が高く、街灯が不要なほど。縦に緑色の蛍光灯を刺したような形はサボテン。足元の芝も控えめな蛍光色に染まる。個性豊かに発光する植物であたりはにぎやかだ。まるでクリスマスシーズンのような、いや、地球ではこれほどの電飾はどこを探してもない。火星の夜は、驚くほどに豪華だった。
その中を、ぼくはニナと一緒に歩いた。
「本職は植栽家で、コロニーの植栽の管理をしています」
はにかむように答えた。何種類もの街路樹を見分けたり、花壇に咲いている花の名を教えてくれたり、植物について楽しそうに語る彼女に、うっかり趣味なんですか? と聞いたぼくに、笑って。
「ヴァイオリンが光っていたのは、どうして?」
「ヴァイオリンや弓に入り込んだ発光植物の胞子が漏れ出てくるの。基本的には、発光バクテリアの遺伝子をいろいろな植物に導入しているのですが、効率的なのが、火星ヒカリゴケ」
ニナは溶岩洞の天井を指さした。スカイライトに沿って、火星ヒカリゴケは静かにゆるゆると波打つように光っている。
「地球のヒカリゴケは光を反射するだけなのですけど、発光たんぱく質を改良して、全く光がなくても発光するようにしています」
「ヴァイオリンには、その胞子が?」
「はい。スカイライトの周囲だけではなく、照明の代わりにマーズカナルのいたるところで使われているので、胞子がいつの間にか入り込んでしまうんです。いつも持ち歩いていますから。……ほら」
軽く左右に首を振れば、ニナの黒髪から光の粉が舞った。
それは今まで見たどの光景よりも幻想的で、舞い散る光の中でほほ笑むニナから、目が離せなかった。
「先生。ネクロプシー(死後針組織検査)ですと」
すがすがしい朝の照明の中、ゴードンが眉をひそめてつぶやいた。
「Ai(死亡時画像診断)だけじゃ、だめだったの?」
「全員、肺が真っ白なんだと。今のところ、五名さま全部」
さあて、始めますかな。独り言のようにつぶやくと、ゴードンはすたすたと病理準備室に消えた。
オリンポス・エクスプレスで事件が起こった。翌月に打ち上げが予定されている宇宙船の整備のため、ジョビス・マーズポートに向かったリニア新幹線は、折り返しアスクレウスコロニー駅に無人で引き返す予定だった。ところが、乗客すべてがそのまま戻ってきた。しかも、意識不明の状態で。
乗客は十八名。入植初期に何度か起こった岩盤崩落や建設現場での事故でも、これほどの死傷者は出たことがない。コロニー中の注目が一気に集まった。事故原因も不明なことが、一層様々な憶測を呼んだ。
コロニー内の医療機関は、乗客を手分けして受け入れた。ここ、IMRIHの受け入れは、八名。そのうち、五名がすでに死亡し、残りの三名も危険な状態が続いている。
入植以来、明白なものを除いて死亡者にはAiを実施し、死因を確認していた。不明な死亡原因の特定は、行政から圧力がかかる。万が一にも、感染症や毒ガスが発生していれば、コロニー全体の問題だ。
Aiに加えて、通常、細菌検査、血液検査に感染症パネルを使った感染症検査がオーダーされる。大部分の死因はこれらの検査で特定され、ネクロプシーや解剖が行われるのは、極々稀だ。
今回の死亡者は、Aiで全員に肺炎の兆候が見られた。だが、血液検査は正常範囲。感染症もパネルに含まれる病原体については、すべてマイナス。細菌培養の結果はまだだが、おそらく死因につながる何かは期待できない。
死傷者の中で、オリンポス・エクスプレスに乗り込む前に体調不良を訴えたものは、皆無。濃厚接触者についても、念のため、感染症検査が実施されたが、陽性者は出なかった。リニア走行中に何らかの原因で減圧が起こり、急性減圧症となったか。あるいは、寄生虫か、毒物か……。受け入れた救命救急科の医師と、警察から呼ばれた監察医は、頭を抱えてしまっていた。
これが、ネクロプシーが必須と判断された経緯である。
ゴードンがいそいそと検体を処理している姿をガラス越しにながめて、ぼくは大きなため息をついた。火星に到着してまだ日が浅いのに、こんな事件に対応しなければならないなんて、運が悪い。時代に取り残された前世代的な香りのするこの病理室で、果たして原因究明がなるのか。
キャリアにプラスにならないよ、といった上司の言葉が、ふと脳裏をよぎった。
おずおずと病理標本をよこすゴードンに、いつもの陽気さがない。まずい兆候だ。火星一の病理作製技術と自らの腕を評する彼は、納得のいかない仕事を嫌う。必ず事前に鏡検し、切片の厚さや染色具合を確認する。精度高く作成されている標本は、作り直されることはまずない。だが、今日は違った。厚い筋肉のついた背中を丸め、ミクロトームを抱えるようにして薄切し、大きな手で小さな染色かごをゆする姿を、ぼくは何度も見ていた。
顕微鏡をのぞくまでもなく、その理由がわかった。スライドグラスに張り付けられた小さな組織がショッキングピンクに染まっている。案の定、拡大してみれば、肺の組織や細胞は、原形をとどめないほど挫滅していた。それも、五例すべての検体で。念のためだけど、と前置きしてゴードンを振り向いた。
「検体採取後、すぐに固定されたんだよね?」
「それはもちろん。検体採取はカルザス先生で、もたもたするとしかられっちまうから」
カルザス先生にゴードンの組み合わせで、診断に不自由する標本ができるとは思えない。ということは、この挫滅が死因と関係があるのか。だけど、組織の変性が強くて、病理診断AIでの解析は無理だ。
一番考えたいのは減圧症だ。なにかが原因で空気が漏れ、血液が沸騰するほど減圧すれば、周囲の組織は少なからず影響を受けるはず。だが、リニア新幹線の車内気圧モニターは、その可能性を否定している。なによりも、減圧症の組織標本を、ぼくは目にしたことがなかった。顕微鏡に額を預けて、時間だけが無為に流れた。
「先生。またネクロプシーの依頼ですと」
夕暮れの照明に移り行く窓を背景に、顔を出したゴードンが淡々と告げた。
「すぐに検体をもらいに行ってくれる?」
「アイアイサー」
ぼくの返事を待たずに、ゴードンは部屋を飛び出していった。今手にしている標本は、冷蔵保存されていたとはいえ、死後二日経った検体だ。経時的な変化も考えられる。その点、死亡したばかりなら、生検とほとんど変わらない。こんどこそ、原因究明の手掛かりが得られる。亡くなった患者には申し訳ないが、ぼくは少しほっとした。
同じ条件で標本を作りたいというゴードンを残して、ぼくは自宅に向かった。
夜遅くなって見上げるコロニーの空は、天頂部分の溶岩洞の切れ目に沿って、火星ヒカリゴケが発光している。火星の弱い太陽の光は、溶岩洞の中までは届かない。少しでも照度を稼ごうと、初期の入植者が考案した生物発光をする植物。ここの多くの植物が遺伝子操作をされたと聞いた。
火星に降り立って以来、毎日ぼくを癒してくれたこの光景に、この日初めて心惹かれることなく、家路を急いだ。
ゴードンが夜通しかかって作成した病理標本も、最初の検体と同じく、挫滅がひどかった。亡くなってほどなく採取した検体でも変わらぬ状況に、ぼくはどう解釈していいのか、悩んだ。念のため、肺以外の組織標本も作成してもらったが、特に目立った変化はない。呼吸器にだけ、激しいダメージ。いったい、何が起きているのか……。
コロニー屈指の研究者を集めて、事故調査委員会が組織された。医学界からは、細菌学の権威が参加していた。感染症を疑ってのことだ。その傘下に遺伝子検査と病理検査のチームが置かれた。
細菌検査も遺伝子検査も、解析はAIを利用した診断プログラムが行う。解析するデータの取得は自動で行われ、オペレーターのミスは極力減らされる仕組みになっていた。ただ、問題は、遺伝子検査に使う感染症パネルも細菌検査の迅速同定キットも地球製で、病原体が火星で変異していれば、検出できない可能性がある。古い教科書をライブラリの奥底から引っ張り出し、地球であれば全自動でできるプライマーの設計を、マニュアルで開始した。出来上がった製品を導入するだけの現場は、開発経験が乏しい。人材も決して豊富ではなく、検討には時間がかかった。
ネクロプシーで原因究明に至らなかったぼくは、細菌・遺伝子検査のメンバーからの朗報を期待していた。だが、病理検査以外でも、全くと言っていいほど、異常値は出なかった。原因究明の鍵は、呼吸器にある。それだけは明らかだった。
地球へ向かう宇宙船の打ち上げ予定日が近づく。この時期を逃すと地球と火星の位置関係が変わり、飛行時間が延長する。火星から積み込む食料品や水はコロニーでは貴重品で、必要以上の積み込みは避けたい。打ち上げ関係者は準備の手順を周到に練り、通常二回に分けて行われる作業を、一度で済ます計画に変更した。問題は、前回と同じような事故の可能性が排除されないこと。原因が明らかでない限り、安全だとは断言できない。
検討に継ぐ検討の結果、オリンポス・エクスプレスに乗り込む際も宇宙服の着用が定められた。前回、車内の気圧計に減圧の兆候は記録されていなかったが、万が一の可能性は排除できなかった。
徹底的に持ち込む荷物やリニアの点検をする。毒物や爆発物があるかどうか。生物学兵器の可能性に備えて、滅菌も徹底された。一番のリスクは乗客だ。念には念を入れて身体中のチェックが行われ、感染症対策に出発の二週間前から、完全隔離が実施された。
対策は完璧だ、と打ち上げ関係者は信じていた。これ以上の対策は、取りようがない。
事故対策委員会は、それでも懐疑的だった。誰も明確に原因を説明できていない。原因が確実にわかるまで、打ち上げは延期すべきだ、という意見は、しかし、経済界の強い反対で受け入れられなかった。
祈るような気持ちで迎えたその日。
――また、事故が起きた。
オリンポス・エクスプレスは、運行が禁止された。誰も、火星の地表に出ることはできなくなった。
後で聞いたことだが、火星から地球に向かった宇宙船内でも、重度の呼吸器疾患が発症していた。ぼくと入れ違いで宇宙船に乗った前任者も発症し、SpO2が上がらないと何度も報告があったという。
宇宙船内の簡易検査では、病原体は見つからない。だが、火星滞在が長いものほど重篤化している。原因不明の、火星に特有の感染症の可能性も検討された。そして、地球は冷酷な決断を下す。
マーズアラートの発令だった。
事故原因がはっきりするまで、地球側が一方的に火星との行き来を禁止した。地球から持ってきた荷物の片づけが終わらない部屋で、ぼくはそれを知った。
マーズアラートの発令は、コロニーの生活に暗い影を落とした。生活必需品と食糧の約七割を地球からの補給に頼るコロニーは、自給自足には程遠い。残りは徹底したリサイクルとネコの額のような菜園を駆使することで賄っている。備蓄は約二年分。地球からの輸送時間を考慮すると、一年で解決を導かねばならない。
でも、まだこの時には実感がわかなかった。地球の施政者のパフォーマンス、一過性の対策だとコロニーの住民は信じていた。地球が火星を見捨てるはずはない。事故原因も時間がたてば解決できる。今まで、どんな困難でも乗り切ってきたじゃないか、すぐに元の生活に戻れる、と。
ぼくも、そう思いたかった。
事故調査委員会の会合は定期的に開催された。委員会に召集されるメンバーは、通常業務のほかにその倍にも及ぶ作業が待っている。休日返上で、毎日夜遅くまで病院に残った。
帰りが夜中になると、時折作業中のニナに出会った。発光植物の管理には、やはり日中より夜が適しているらしい。発光植物が織りなす光のページェントは、厳密に計算して設計されている。溶岩洞に沿って細長く作られた、長期間暮らすには閉塞感しかないコロニーの中を、いかに美しく快適な環境にできるか、それがニナたち植栽家の腕の見せ所。配置された木々や草花が、デザイン通りの色や光度を達成できているか。必要なところは明るく、不要なところは極力暗く、見る人の気持ちを優しく、穏やかに。植栽家はコロニーの運営に、大きな役割を負っていた。このような不安な状況では、なおのこと。
夜勤のない日には、病院の屋上でヴァイオリンを弾いていた。ヴァイオリンの調べが聞こえてくると、仕事を中断して聞きに行った。そのまま、屋上でぼくたちはよく天蓋を見上げながら、話をした。
スカイライトに沿って群生する火星ヒカリゴケは、ときおり、赤く光る。収穫を控えた小麦畑を思わせる一面のヒカリゴケの群集に、一瞬、赤い閃光が走る。それは、流星のようにはかなくもあり、稲妻のように暴力的でもあった。
「あの、赤く光る仕組みは?」
聞いてしまえば、無機質な答えにがっかりするかもしれないと思いながら、好奇心には勝てなかった。
「飛び込んできた宇宙線に反応して、赤く光るんです。スカイライトにはかなりの厚さのアクリルガラスが張ってあるので、入ってくる宇宙線の数は少なくはなっているのですけど、それでも、だいぶ侵入してきますね。宇宙線を可視化できるからいいっていう人もいますけど、わたしはヒカリゴケの悲鳴のようで、いやなんです」
話している間にも、一筋、音もなく赤い閃光が走った。高エネルギーの宇宙線で、ヒカリゴケが焼かれているようにも見える。
毎日の暮らしの中で、特に危険性を感じたことはなかったが、ここは火星だ。宇宙線から逃れるために溶岩洞に設営されたコロニー。それでも少なからず差し込む放射線を防ぐため、開口しているスカイライト部分には大量のアクリルガラスが使われている。
放射線遮蔽のためには鉛をすぐ思いつくが、同じだけの重量があれば、鉛でも水でも効果は同じ。低重力の火星では、放射線を遮る十分な質量の透明なアクリルガラスを天蓋に設置することが可能だ。だが、そのすぐ上は、薄い大気しかない、宇宙線が大量に降り注ぐ地表で、人類はいまだに長期間暮らすことはできない。
赤い閃光を見ながら、改めて危険と隣り合わせの人類の宇宙進出を実感する。
「もしウィルに興味があれば、発光植物園をご案内しますけど」
物思いに浸ってしまったぼくの耳に、ニナの声が極めて控えめに聞こえた。
「発光植物園?」
「って、私たちは呼んでいるんです。ほんとはただの溶岩洞なんですけど」
ニナがくすくすと笑った。
「火星に来たばっかりの人を案内するのに、ぴったりな場所があるんです」
ぼくたちは次の日曜日に、と約束をして別れた。ぼくの火星は、病院と自宅の往復がすべてだった。それ以外の火星を知る、初めての約束。遠足前の子どものように、心が躍った。
だがそれは、土曜日に起こった事故で無期限延期となった。
「ウィル! すぐに来て!」
ネクロプシーの報告書作成に没頭していたぼくは、アリシアの尋常ではない呼び出しに、取るものもとりあえず、小走りで救急外来に向かった。病理医のぼくが呼ばれることに何の意味があるのだろうと思いながら。
処置室に入って、その理由がすぐ分かった。
「ゴードン!」
ベッドに横たわった彼を医師や看護師が取り囲み、せわしなく処置をしている。酸素マスクをつけた頭部。ガウンをかけられたその身体の向こうに、つま先がどす黒くのぞいていた。ベッドサイドモニターがまぶしく光る。その画面を見ながら、どうしてゴードンが……、と繰り返した。
救急では全く役に立たないぼくは、黙って外で処置が終わるのを待った。ゴードンの浅黒く大きな手や足には、無数の擦過傷があった。酸素マスクをつけられていて、表情は見えなかった。脳裏に焼き付いたピクリとも動かないその姿が、不安に拍車をかけた。
時間の進みが遅い。少し外の空気を吸ってきたほうがいいかもしれない。立ち上がったぼくの目の前で、処置室のドアが開いた。
「何が起こったんですか!?」
知らない若い看護師で、ぼくの怒鳴るような問いかけにひるんだように後ずさった。
「崖から落ちたのよ」
その後ろから、アリシアがゆっくりと出てきた。マスクを外した顔には化粧っ気がなく、アリシアにとっても突然の呼び出しだったことがうかがえた。
「まさか、ロッククライミングで?」
アリシアがうなずく。
額に手を当てながら椅子に腰を下ろしたアリシアの隣に、ぼくも崩れるように座り込んだ。言葉が出ない。あの陽気で気のいいゴードンに、火星に来てから助けられっぱなしだった。ひどく胸が痛んだ。
火星暮らしの長いゴードンに、家族はいない。ぼくは病院に泊まり込んで、時折病室をのぞいた。話ができるぐらいに回復すると、ゴードンはぼくとアリシアに平謝りだった。
「いやぁ、すんませんなぁ。上を登っていた相棒が手を滑らしたみたいで、いきなり降ってきやがって」
その相棒は、もっと重症だ。低重力の火星とはいえ、かなりの重量の装備をもって登っていたから、その衝撃は大きい。
「今までこんな事故はなかったじゃないの。あなたたちはベテランだし、よく知っている岩場だったし、いったいどういうこと?」
アリシアの矢継ぎ早の追及にも、ゴードンは頭をかくばかり。
「そう言われましても、わしもさっぱりでさあ」
幸いなことに骨折はなく、体内の大きな出血も見られない。あちらこちらの擦過傷や打撲傷は痛そうだが、思いのほか軽症でほっとした。心配と言えば、事故の後の発熱だ。微熱が数日続いた。原因は不明だが、いつの間にか平熱に戻っていた。
無理をしないで休むように、といったぼくの言葉を無視して、ゴードンは仕事に復帰した。先生が自分で標本を作る? 冗談言っちゃあいけませんな。誤診の元ですぜ。と、病室から検査室に直行したゴードンは笑った。
一緒に事故にあったゴードンの友人は、肺炎の症状がみられた。肺のレントゲン写真は真っ白で、かなり重篤だ。だが、崖を登る前に、それらしい自覚症状はなかったという。オリンポス・エクスプレスの事故に、今回のこと。共通するのは、画像診断での肺炎の兆候。いやな予感がする。
まだ意識がないと聞いたが、いてもたってもいられず、病室をのぞいた。
「ウィル!?」
窓際に座っていた先客が、驚いたような声を上げて立ち上がった。
「ニナ?」
殺風景で静かな個室に、見事な切り花が生けられた。それを目にした瞬間、胸が疼いた。失礼、と言って部屋を出ようと踵を返した。
「ウィル」
ニナの声が追ってきた。
「職場の先輩なんです」
え?
振り返ったぼくは、冷静を装っていたが、果たしてそれは成功したのだろうか。見上げるニナの黒い瞳に、一瞬まごついた。
「発光植物のデザイナーで、植栽家の第一人者で、足元にも及ばない先輩なのに、後進の指導にも熱心で、本当に尊敬しています」
マーズカナルの美しい街並みを見下ろす病院の屋上で、ぼくたちは天蓋を見上げていた。
照明はまだ日中用で、ヒカリゴケは発光していない。時間帯によって、――つまり、人工の照明に対して、ということだが、光応答を利用して発光調整するための遺伝子も仕込まれているらしい。そう言われてみれば、未明に発光している植物はない。ぼくの体験した朝は、たしかにそうだった。まるで朝日が昇るように、朝焼けの照明がコロニー全体を包む美しい朝だ。
「先輩は、ヤマシタさんは、ヒカリゴケの移植と調査をするためにクライミングを始めて。ゴードンさんは地球では名の知られた登山家でしたから、よく一緒に登っていたんです。だから、あんな事故が起こるなんて信じられなくて……」
ニナが目を伏せた。
ニナの言葉を聞きながら、ぼくの中では、出所の知れない不安がますます強まっていく。――あの肺炎像は、なんだろう。無自覚で発症して、症状が現れたときには、ほとんど手遅れみたいな。ゴードンのレントゲンでは肺炎の像は見られなかった。ただ、そのあとの微熱が気になる。もしも、……例えば新種のウィルスかなにかで、ゴードンも感染していたら……。フォローアップが必要だ。アリシアにも協力してもらわないと。
「ウィル。大丈夫? 眉間にしわが寄ってますよ」
ニナがのぞきこんでいた。
「ごめん、ごめん。なんでもない」
これ以上心配させたくない。ぼくは何気ない風を装って、ニナを励ましながら職場に戻った。次の日曜日には、発光植物園に行く約束を再度かわして。
崖に口を開けた溶岩洞のあちらこちらに、火星ヒカリゴケが生えている。狭い空間に密集するヒカリゴケの光量は、立ち入ったぼくたちの影を消し去るほど、強烈だった。四方八方から発する光に、ぼくは目を細めずにはいられない。隣を見れば、ニナがやっぱり目を細めて、にっこり笑っていた。
「これは、天然の溶岩洞?」
「はい。いつの間にか、火星ヒカリゴケが自生するようになって、今では、ここがショールームみたいなものです」
近寄ってみれば、高さ二、三ミリの苔がびっしりと生えている。
「地球では、ヒカリゴケを育てるのはかなり難しいのですけど、火星には邪魔になる細菌もカビもいないので。早い者勝ちで、生息域を広げています」
「大きな樹木も、発光する原理はヒカリゴケと同じ?」
狭い溶岩洞を出て、目の前の木立を目にして訪ねた。
「最初は、ヒカリゴケを幹にまとわせてみたりしたらしいのですけど、うまくいかなくて。最終的には、遺伝子操作をしたと聞きました。なので、色も光り方も、少しずつ違います」
コロニーの照明は次第に照度を落として、木々の葉が、やがて幹が、控えめな光を発する。ぼくたちはゆっくりと町はずれに向かって歩いていた。
「ここからは、星は見えないんだね」
スカイライトは暗い。周囲のヒカリゴケはまだ発光していないが、アクリルガラスを張っているというスカイライトを通しては、星は見えないだろう。
「見えますよ」
意外な返答に驚いた。
「地球は、見えます。青く輝いて」
力強く言い切ったその言葉に、ぼくは胸が締め付けられるようだった。
火星との往来を禁止した地球。今となっては帰りたいと思っても、帰れない場所……。
「帰りたいですか?」
ぼくの心を読んだかのように、ニナが聞いた。
「火星に、こなければよかったって思っていますか?」
ぼくを見つめる澄んだ黒い瞳。言葉に詰まった。その力強い美しい目の輝きに、飲まれていた。何も言葉が出ず、ぼくもニナを見つめ返した。
「わたしは、帰りたくない」
ぼくの視線を受け流すように、ニナはうつむき加減で、それでもきっぱりと答えた。
地球との往来が元通りになれば、ぼくは地球に戻る。たとえ、それが二年後ではないとしても。ぼくの所属先や上司は、期限を切ったからこそ、火星行きを認めた。やりかけの仕事が、仲間が待っている。――ぼくは、帰らなければならない。
あいまいなまま会話を打ち切って、ぼくたちは別れた。
ニナは「帰りたくない」と言った。行きたくない、ではなくて。ということは、ニナも地球から移住してきたということ。
火星には、様々な事情を抱えて移住してきた人が多い。自分から言い出さない限り、その理由を聞くことは、タブーだった。聞いてはいけない、と思うと、ますます「帰りたくない」わけが気になる。その夜は、夜の帳を曙色の空が押し上げるまで、一睡もできずに見守った。
オリンポス・エクスプレスの事故原因調査は難航を極めた。
地球でも、救援物資の輸送方法を検討していた。だが、事故の原因が解明されるまでは人は送れない。せめて、無人機で火星に物資を投下できないか、という検討がされていると報道されていた。
コロニーの中では、補給物資さえ来れば、という楽観論と、火星の地表に落とされるだけなら来ないも同然、といった悲観論が、それぞれ声高に叫ばれていた。それでも、大部分の住民は、不安ながらも、いつも通りの生活を続けているように見えた。
事故調査委員会は、閉塞感に包まれていた。調査の進捗がほとんどなく、何も公表することがない。なかなか原因解明まで進まない。それをそのまま伝えれば、いらぬ混乱を引き起こしかねないと、情報操作が始められていた。
最初の事故では、重症だった患者もすべて亡くなった。つづく事故でも十名が犠牲になっている。一連の犠牲者は二十八名に上り、火星での最大の事故となった。
二回目の事故の死亡者に対しては、すべて病理解剖が行われた。宇宙服を着ていても発生を防げなかった事故に、基礎疾患の影響なども含めて、ありとあらゆるものを精査すべき、とお達しが下った。一例につき二時間の解剖。全身の組織標本を作製し、くまなく調べ、他の検査結果も検討して病理診断の最終報告書をまとめる。それだけに集中しても一か月を要する作業だ。
コロニー統括本部から事故調査委員会に圧力がかかる。通常業務そっちのけで、死亡例の調査に没頭する毎日。ぼくもゴードンも、無口になっていった。そんな中、一つだけ、特徴的な所見が見つかった。組織のほんの一部を採取するネクロプシーではなく、解剖で取り出した肺全体をくまなく精査した結果だった。
全例で呼吸器がひどく障害されていた。病理組織では小さな空胞が無数に観察され、その周囲の細胞は挫滅している。小さな水蒸気爆発のような跡。それが肺全体で起こっている。あっという間に酸素を取り込めなくなっただろう。これが死因ではないか。ただ、どうして引き起こされたのかは、皆目見当がつかない。
気づけば、外食に制限がかけられるようになっていた。消耗品も購入制限がつく。マーズアラート下のコロニーに、次第に不穏な空気が漂う。地球から見捨てられたのではないかと、周囲でも心細い声が聞こえ始めた。
最初の事故から、すでに二か月近くがたっていた。
仕事を終えて自宅に向かう夜の街に、天頂からヒカリゴケの光が優しく降る。ほとんど寝静まったこの時間、街路樹の照度は抑えられ、足元をほんのりと照らす程度になっていた。凝り固まった肩と首を回し、スカイライトを見上げると、黄金の海に赤い光が走る。
流星のようだ。
どうせなら、真っ暗な空に金色の線を描いてくれたらよかったのに。地球から見上げる夜空のように……。
「おかえりなさい」
突然の声に、飛び上がるほど驚いた。こんな時間に誰かがいるとは思わなかったから。でも、声だけで、わかった。
「……仕事なの?」
夜も作業のあるニナに、今夜も仕事かと確認したつもりだった。それなのに、振り向けば返ってきたのはあいまいな笑みだけだった。
「しばらく会わなかったから、どうしているのかと思って」
発光植物園を見せてもらった日から、すでに二週間が過ぎていた。剖検報告書を急がされていて、ほとんど帰りは真夜中になっていた。週末もほとんど病院に詰めていた。
いや、それだけではない。ぼくはニナに会えば過去を探ってしまいそうで、こわかった。だからなんとなく避けていたのだ。どんな理由でここにきて、なぜ地球に帰りたくないのか。一度口を開けば、聞いてしまうのではないかと。それがぼくの足をニナから遠ざけていた。
突っ立ったままのぼくに、ニナはあきれたように肩をすくめ、隣をすり抜けるように歩いた。
「ウィルに、見せたいものがあるの」
歩くと時間がかかるから、とニナは、公園のわきに止めた車に案内した。ほとんど車で移動することのないぼくは、車窓を流れるきらびやかな街の光景に目を奪われた。気がつけば、あたりはほとんど建物がない町はずれだ。目の前の断崖には大きな扉がついている。
ニナに連れられて、その扉をくぐると、そこはマーズカナルから分岐している細い溶岩洞だった。コロニーとして利用されているマーズカナルは、深さが百メートルもある巨大な溶岩洞で、あちらこちらに細かい溶岩洞が迷路のように分岐する。その一部は、コロニーの換気システムとして使用されている。ぼくたちが入っていったのは、そのシステムを一手に管理している集中換気システム用の溶岩洞だった。コロニー内の空気すべてがこのシステムを通過してろ過され、酸素濃度などを調整、各家庭や施設に送られていく。いわば、コロニーの肺のような施設だ。
ニナは何も言わず、慣れた足取りで施設の中を進む。ぼくも黙ってついていった。24時間体制で監視・運用されているシステムは、まるで不夜城だ。メンテナンス用の入り口から換気システムの集合する溶岩洞に入った。
「これは……」
目を疑った。発光植物園には見劣りするが、火星ヒカリゴケが溶岩洞の見える限り奥まで一面に繁殖し、ほのかに発光している。
「ここはコロニーを回ってきた空気がすべて集まるところです」
「肺動脈、といったところかな」
「変な解釈ですね」
やっとニナが笑った。
「ヤマシタさんが、あ、この間入院していた先輩ですけど、ヒカリゴケが予想以上に増えてしまって、大丈夫だろうか、と少し心配していました。ここは、メンテナンスをしている友人が気付いたのですけど、ここ数か月で、目に見えて増えてきたって」
適当な温度と湿度が与えられ、競合する生物もいないとなると、この状況も理解できる。
「ヤマシタさんは、どうして心配だと?」
「マーズフィーバーにかかる人が増えていて。みんな一度はかかるんですけど、二度、三度とかかっていて。中にはかなり重症で肺炎になってしまう人もいるんです。特に多いのが、私たち植栽家とこの集中換気システムの人たち」
火星ヒカリゴケに暴露される機会の多い人たち?
ぼくの中で、何かがつながったような気がした。言葉にはならなかったが、たしかに何かをつかんだ。
「ヤマシタさんは、火星ヒカリゴケとマーズフィーバーの関係を疑っているんだね?」
こくりとニナがうなずいた。
「きみは、ニナは大丈夫なの? 体調が悪いとか……」
言い終わらないうちに、ぼくの目の前で崩れるようにニナが倒れた。とっさに腕を伸ばし、間一髪、抱きとめた。なんて熱い! 具合が悪いのに、ぼくにこれを伝えるために? 自分のことで精いっぱいで、気づくのが遅れた。ごめん。ぐったりとして意識のないニナを抱えながら、ぼくは後悔でいっぱいだった。
真夜中にもかかわらず、アリシアに連絡を入れると、まだ病院にいた。ニナを診察したアリシアを待って、ぼくは推論を語った。
「マーズフィーバーの原因は、火星ヒカリゴケの胞子じゃないでしょうか。地球で言えば、コクシジオイデス症のような。ほとんどは無症状で、症状が出ても軽い風邪のようで、自然に治癒する。……なにか、裏付けがあるといいのですが」
アリシアは首を横に振った。
「何度もそれを疑って検査をしたけど、胞子はたしかに呼吸器にも存在する。ただ、その数はマーズフィーバーや肺炎の患者でも、健常人と変わらないの。空気中に存在するほかの常在真菌とも。さらに言えば、患者に免疫不全はない」
「でも、今回は明らかにヒカリゴケと接する職業の人たちの間で、症状が出ている。ゴードンと一緒に滑落事故にあったヤマシタさんだって、重度の肺炎だったんです」
アリシアは深く考え込むようにうなずいた。
「私たちは、何か、大切なものを見落としているかもしれないわね。もう一度、白紙の状態から検討してみよう」
大量の事故調査の作業に、マーズフィーバーの原因調査が加わった。
そのころ、地球からの定期便が火星軌道上に待機していた。マーズアラートの発令で、火星への着陸を予定していた乗客はそのまま引き返すことになった。せめて積んできた貨物だけは降ろせないか、と可能な限りの方法を検討していた。
最終的に、自動操縦の無人機がジョビス・マーズポートに向けて降下することになった。その様子は、マーズポートのカメラから中継され、コロニーの住民がかたずをのんで見守る中、無事に着陸した。湧き上がる歓喜の声を聞きながら、コロニー統括本部はその回収という難しい問題を突きつけられていた。
誰がどうやってその貨物を回収するか。
オリンポス・エクスプレスは使えない。動かすことは可能だが、貨物の回収を自動でできるシステムはなかった。荷下ろしは地球から流れてきた肉体労働者の仕事で、それを奪うことのないように配慮された結果、自動荷下ろしシステムの導入は見送られている。
事故調査委員会にも問い合わせが殺到した。運送業者や検疫関係者、自分あての荷物が入っている個人に至るまで、それぞれがいかにその荷物が重要で、コロニー住民のためになるかを主張した。一方、万が一事故が再発した時の責任を回避したい事故調査委員は、意見を各界の専門家に求めた。
そんな騒ぎにぼくは無関係で、時間を惜しんで病理報告書を作成していた。病理診断AIからやっと吐き出されるようになった剖検標本の結果を確認し、報告書に落とし込むだけの仕事。それが、思ったよりも時間がかかる。診断プログラムに使われているだけのような、気が載らない仕事なのに。
けがから復活したゴードンは、時間を見つけては、検査室の隅のほうでウェイトトレーニングにいそしんでいる。後から聞けば、30メートル以上落下したらしい。にもかかわらず、再挑戦を誓っている。なにが彼の気持ちをそこまでかきたてるのか、理解不能だが、まあ、前向きなのはいいことだ。翻って、低重力で筋力が落ち続ける自分の腕や足を見る。地球に帰ることができても、この状態では生活に支障が出ることは必須だ。どうにかせねばなるまい。
仕事の合間にそんなことを考えていると、検査室のドアが前触れもなく開いて、院長が顔を出した。わざわざ訪ねてもらわなくても、呼んでくれれば伺ったものを。そう思う間もなく、院長の後ろから、数名の男がずかずかと入ってきた。
なにやら雲行きが怪しい。ぼくは顕微鏡の前から立ち上がった。ゴードンも部屋の隅で直立不動の姿勢をとっている。
「グラッドストーン先生。忙しいところ、すまないね。ちょっとご意見を伺いたいと……」
「マーズ・ロジスティクス協会のハシモトです。こちらは、ペトロフとワン」
院長の言葉を遮るように、ハシモトという男が自己紹介をした。ともに紹介された二人が、ハシモトの隣で厳しい顔をしている。高圧的な三人ににらまれて、これはまずいことになった、と思った。院長はすでに部屋から立ち去ろうとしているところだった。
「察しはついていると思うが、我々がここに来たのは言うまでもない、マーズポートに届けられた貨物の引き取りについてです」
ペトロフが一歩前に歩み出て、言った。その隣に、同じように一歩踏み出してワンが続ける。
「どうしても引き取りに行かなければならない荷物なんだよ。コロニーの生活には必要なものなんだ。だから先生、一言、行っても大丈夫だ、と言ってもらえませんかね」
「どの先生に聞いても、最終診断は病理だからってね、その、先生が大丈夫といってくださるなら、私たちも助かるんですが……」
ハシモトがもみ手をしながら続けた。それは違うんじゃないかな。ぼくは大きなため息をついた。三人がむっとした表情をする。
「ダメです」
あの組織標本を見てOKを出す病理医がいるものなら、顔が見たい。どうにかなりませんか、と泣きつく三人を押し返すように外に出した。ぼくのところまで来るなんて、どれほど反対されているかは、手に取るようにわかる。でも、断じてOKは出せない。宇宙服を着て出かけた人たちでさえ亡くなった。なにが原因かもわかっていない。事故再発の可能性があるのに、行かせるわけにはいかない。
それなのに、またしても死亡者が出た。
運行していないはずのオリンポス・エクスプレスは、八名の乗客を乗せていた。運送会社の社員のほかに、検疫や入管の職員も含まれていた。予想通り、全員がリニアの中で息絶えていた。
回収された遺体は、前回、前々回に比べて、さらに激しく損傷していた。解剖台に乗せられた遺体に、見覚えのある顔があった。あの時、どうしてもっと強く引き止めなかったのか。ぼくは自責の念に駆られた。そして、胸を開けてみて、そのありさまにさらに衝撃を受けた。肺が、形をとどめていない。まるで破裂したかのような、ただの肉片になっていた。
いったい、何が起こったらこうなるんだ……。
その場で立ちすくんだまま、手が動かない。隣で介助をしているゴードンが、ちらりとぼくを見て、何事もなかったかのように解剖を進める。やっとのことで動いたメスは、切れ味が悪く、いつもより時間がかかった。
八名の解剖は一日では終わらず、重い足を引きずりながら、病院を後にした。発光する街路樹がぼくを静かに見送る。いったい何が原因なんだ。何度も何度も同じ言葉が頭の中を駆け巡る。考えても、考えなくても、何も変わらないのに。溶岩洞の底で、ぼくは喘いでいた。まるで、暗い海の底に沈んでいるみたいに。
火星は、もうたくさんだ。地球に帰りたい! そう、言葉に出してみれば、少しは楽になるのかもしれない。だが、何も変わらない。自分で道を切り開くしか、方法はない。その重圧に、押しつぶされそうだった。
振り仰ぐぼくの視線に、暗いスカイライトを取り巻く火星ヒカリゴケの黄色が目に入った。見つめていれば、それは穏やかに波打つ。幻想的な光景だ。ぼくはゆっくりと息を吐いた。息を吸えば、酸素は胸の奥まで届く。気持ちが落ち着くのが感じられた。まだ、大丈夫。
そう言い聞かせた瞬間、ヒカリゴケの金色を赤い閃光が引き裂いた。それはまるで、刃のようで、ざっくりと大きな傷口を残した。息が、止まった。
赤い刃が、人間の努力をあざ笑っているように見えた。どれだけ抵抗しても、無駄。大自然の、宇宙の大きさに比べたら、人間なんてちっぽけなもの。なにをしても、勝てないのだ、と。
――悔しい。苦しい。
どのぐらいそのままでいたのだろうか。気がつけば、公園の片隅でうずくまっていた。
顔を上げた。無性に、ニナに会いたくなった。
照度を落とした街路樹に背中を押されて、ぼくはまた病院に向かって足を進めた。まだ退院できていないニナが、屋上でヴァイオリンを弾いている気がした。
予想通り、ニナは屋上にいた。奏でられるヴァイオリンの音は、静かで優しい。ぼくは屋上の入り口に立って、黙って聴いていた。
まだ全快に程遠いニナは、椅子に座ってヴァイオリンを弾いている。屋上に敷き詰められた芝生が、淡く緑色の光を発して、まるで草原のようだった。
緑の草原をそよ風が撫でる。ぼくは遠くから見ている。車いすに座ってヴァイオリンを弾く女の子を。
一瞬、ぼくはどこにいるのか、わからなくなった。ヴァイオリンを弾くニナが、あの女の子と重なった。車いすに座って、ヴァイオリンを弾いていた、あの子と。
混乱しているのは、わかっていた。それでも、この幻のような幸福感を、今は全身で感じていたい。何も考えずに。……ぼくはゆっくりと目を閉じた。身体中から力が抜けて、まるで宇宙を漂っているようだった。
どのぐらいたったか。ヴァイオリンの音がやんだ。
目を開けてみれば、ニナは空を――黄金色が波打つ天蓋を、見あげていた。ぼくはゆっくりと歩み寄る。踏まれた芝から、草原が薫る。
――昔、私は人魚だったの。
あの子は足が不自由な理由を、そうぼくに教えてくれた。ぼくはそれを信じていた。会えなくなっても、ぼくの人魚は心の中に住み続けていた。
火星の、コロニーの病院の屋上にいるのに、ぼくはニナをその女の子に重ねてしまう。抗いようもなく、幻影に翻弄されてしまう。
――こんな気持ちのまま、ニナに何を話すっていうんだ。
足が止まった。うつむいたまま、大きく息を吸って、踵を返した。
「ウィル」
ニナの声が、ぼくを呼んだ。でも、振り返ることができない。ぼくは、どうしたらいいのか、わからない……。
草を踏むかすかな足音。かすかな、草原の香り。――ぼくの腕にかかる、細い指。
ニナが、隣でぼくを見上げていた。
「……ごめん。邪魔したら悪いかと思って」
口をついて出たのは、心がこもらない、表面上の言葉。それが精いっぱい。ニナの目が、心配そうにのぞき込む。
「ウィルのほうが、病人みたい」
――ああ、そうかもしれない。今日は、精神的に参っている。
ニナに手を引かれて、ベンチに座った。背中を丸め、膝に肘をつき、ぼくは頭を抱えた。ぼんやりとした幻想の中から、やがてゆっくりとぼくは戻ってきた。火星の、この屋上に。その間、ニナは隣で何を思っていたのだろう。
ちらりと横顔を盗み見たつもりが、黒い瞳と目が合った。
「大丈夫ですか?」
「もう大丈夫。ごめん。最近……」
「いろいろ大変ですよね。アリシアからも聞いています。――また、事故が起こったのでしょう?」
ぼくは深呼吸をした。事故は、ぼくにとってきっかけに過ぎない。
「ウィルは、地球から来たばっかりだから、しょうがないです。ここに住んでいたら、いろいろとありますから」
下を向いたまま、ニナの心地よい澄んだ声を聞いた。ぼくの心の奥底までしみとおって、ざわついた気持ちをなだめてくれる、そんな声を。ニナに会えて、よかった。心の底から、思った。
「あんな事故が何度も起こって、地表に出られないと思うと、まるでここが海の底のように感じられて、息が詰まるんだ」
素直に、今の気持ちを言葉にした。ニナがちらりとぼくを見て、そして、天蓋を見上げた。
「わたしも、です。あの天蓋なしでは住めない。限られたこの空間でしか生きられない。でも、いつの日か地上に暮らす日を夢見ている。火星での人間は、まるで」
その言葉を、ぼくは遠く、幻のように聞いた。
「――人魚みたいだなって」
ぼくは事故原因の調査に没頭した。
状況証拠は整っている。あとは、原因となるヒカリゴケの胞子を体内から確実に拾い上げればいい。遺伝子検査室を巻き込んで、再度、事故の犠牲者や肺炎患者から細菌や真菌のすべての遺伝子を洗い出した。問題は、アリシアの言ったとおり、ヒカリゴケの遺伝子も含まれるが、突出した量ではないこと。だが、ほかにも肺炎の原因となるような病原体は、特定できなかった。
コロニーの環境関連部署に依頼して、火星ヒカリゴケの遺伝子解析も実施した。遺伝子操作をする前の地球のヒカリゴケと、火星ヒカリゴケの遺伝子情報を比較してみたが、発光に関連する遺伝子のみが異なるだけで、特異な変化は見られない。
ネクロプシーからも、解剖標本からも胞子の関与は示されない。
八方ふさがりだ。時間だけが流れていく。このままでは、溶岩洞の中で、火星の人類は全滅だ。何の手掛かりも見つからなかった大量の病理標本を前に、焦りが募った。いてもたってもいられず、プレパラートを一枚取り上げて、顕微鏡のステージに載せた。いまさらみても、何も変わらないかもしれない。でも、何もしないでいるよりは。少しでもあがき続けたい。
AIを利用した病理診断技術は、ひとの目で確認できない微細な変化、例えば、遺伝子の変異による形態変化まで鑑別できるようになった。開発初期には、病理医に対して診断の経緯をフィードバックする機能を備えていたが、ディープラーニングにより猛スピードで進化するAI診断にひとの目はついていけず、いまでは、診断結果だけがレポートされている。
黙々と鏡検を続けても、病理診断プログラムから出力された報告書通りの組織像。やはり、AIには勝てないのか。歯ぎしりしながら、接眼レンズをのぞき続けた。
病理標本の染色方法も、AI診断用により適したものに改良されている。ひとの目には若干コントラストがきつすぎて、長時間精査するには厳しい。目を駆使しすぎて、頭痛がした。それでも、ここであきらめたくはない。
せめて、染色だけでも、以前の――病理医自身が鏡検して診断していた頃の、色合いに戻せないだろうか。検査室に目をやると、ねばるぼくにあきれたような顔をしたゴードンと目が合った。
「念のために聞きたいんだけど、病理診断AI用じゃなくて、鏡検用にHE染色、できる?」
ゴードンは、待ってましたとばかりににやりと笑った。
「ここをどこだと思っていなさるんですかね。地球にもない骨董品を集めた病理博物館ですぜ。そして、超一流の技師がいるときた。……もちろん、できますよ」
ゴードンは恐ろしいスピードと品質で、昔ながらのHE染色標本を何百枚と作製してくれた。ぼくは、出来上がった標本を、次から次へと鏡検する。まるで流れ作業のようにスムーズだった。
微細な細胞構造まではっきりと見える完璧な標本だったが、それでも新たな所見は得られなかった。真夜中近くになり、疲労困憊のぼくたちは、ふたりでまずいコーヒー代替飲料をすすっていた。いよいよ嗜好品の流通がなくなり、代わりに合成品が出回っていた。こっちも、そろそろ行き詰まりか。
「特殊染色に、チャレンジしてみますかな」
ゴードンが独り言のようにつぶやいた。
病理診断AIは、特殊染色には頼らない。一枚の標本から、ひとの目では見分けがつかないほど微細な変化を識別しているから。病理医が自分で診断を下すためには、長い歴史で有用性が証明されてきた特殊染色が必須だ。だが、地球でさえ、特殊染色はすたれていた。ぼくは学生時代に病理組織アトラスでしか見たことがない。免疫組織染色や蛍光染色はまだかろうじて使われていたが。
「試薬、手に入るの?」
そんな特殊染色用の試薬が、よりによって、火星にあるとは思えない。すがるようにゴードンを見上げた。そんなぼくに、ちょっと肩をすくめて見せると、にやりと笑った。
「作るんですよ。自分で」
いやぁ、なつかしいですな。シッフ試薬を調整する時にゃ、手が真っ赤になって洗っても取れなかったものですがね。そう言いながら、頼もしい姿が準備室に消えた。
胞子検出用に、とゴードンが揃えてくれたのは、PAS染色とグロコット染色の標本だった。試薬を一から作り、いくつものタイマーを駆使して次から次へと染色するその姿は神がかっているようで、それでいて、嬉々としていて。見ているこちらが楽しくなるような働きぶりだった。そして、出来上がったものは、お手本の様な病理標本だった。
時代に逆行するぼくたちは、意図せずAIに反旗を翻した。
そして、見つけた。HE染色では肺胞上皮細胞と判別がつかなかった胞子を。PAS染色で赤く、グロコット染色では黒く染まる小さな多数の胞子を、肺胞上皮に、マクロファージの中に。
「こりゃあ、AI診断の隙を突かれましたな」
ゴードンが陽気な声をあげた。病理診断AIに見つからないように、密かに忍び込んだ多数の胞子。やっと、捕まえた!
時を同じくして、遺伝子検査でも解析の見直しが行われていた。ゴードンの快挙に対抗心を燃やした古参の技師、リョーヴァ・イヴァシキンが、シークエンシングデータと解析プログラムから出力される結果を一から見直していた。そして、ゴードンとぼくに得意げに報告をした。
「解析プログラムは思った通り、ポンコツでしたよ。あっという間に結果を出しやがる、と思って見れば、それもその通り。イントロンをすっぱり切り捨ててたんだから。妙なアルゴリズムを発達させやがって。いくら臨床用だからって、端折りすぎだろ」
効率を上げるため、アミノ酸に翻訳されないイントロン部分を自動的にスキップして解析していた、ということか。
「やりますなぁ、リョーヴァ爺さん」
「あんたに言われたくないね。ゴードン」
二人のベテランは豪快に笑い、お互いの苦労をねぎらった。
そのとなりで、ぼくはリョーヴァの解析結果を知りたくてうずうずしていた。直感していた。その捨てられたイントロンの部分にこそ、火星ヒカリゴケの重要な特徴が隠されている。
変異解析のプログラムをすべてのシークエンシングデータに対応するよう修正し、遺伝子操作したオリジナルのヒカリゴケの配列にマッピングしてもらった。案の定、一致しない箇所が見つかった。そこが、火星で生育する間に変異した配列だ。
地球にデータを送り、分析を依頼した。また、植物の遺伝子編集に詳しい研究者に、変化してした部分を除外するような遺伝子を持ったベクターの研究を依頼した。
地球から、解析結果はすぐ届いた。コンピュータを用いた分析で、ヒカリゴケのイントロン部分に地球上の既知の生物にはない配列が確認された。この塩基配列が発現すると、人体内で免疫系をすり抜ける可能性が指摘された。人の身体に取り込まれたヒカリゴケは、ステルス性を発揮して検査の目をすり抜ける。どうしてその配列が火星ヒカリゴケの胞子に含まれていたのかは、不明だが。
着実に前進する原因究明に、事故調査委員の表情は明るい。だが、問題はこれからだ。火星に医薬品を製造する設備は皆無。すべて地球からの輸送に頼ってきていた。たとえ地球で治療薬が開発されたとしても、確認できるのはヒトに対する安全性だけ。有効性は、火星で実際に投与してみないことにはわからない。火星まで医薬品が届けられたとしても、どうやってコロニーに受け入れるか。現状では、誰一人として火星の地表まで受け取りに行くことはできない。
治療法は、ここで確立しなければならない。果たして、可能なのか。貯えが底をつくまでの、あと一年半で。ぼくは、病院の屋上でひとり天蓋を見つめた。火星ヒカリゴケの黄金色の波に、また一筋、赤い閃光が走った。ヒカリゴケを切り裂く、赤い刃……。ぼくは目が離せなかった。
アリシアから呼び出しがあった。呼吸器内科のカルザス先生も一緒だ。
「ヒカリゴケに暴露しやすい植栽家と換気システム関係の人たちに肺炎の症状がないかどうか、検査をしたんですけどね」
カルザス先生が、おもむろに切り出した。眼鏡の奥の目がきらりと光った。かなりの割合で、肺炎の初期症状が見つかったのかと、ぼくはつばを飲み込んだ。
「全く何もない。どれも正常なきれいな肺だった」
「画像診断に、抜けがあるということはないでしょうか」
AIを用いた病理診断と遺伝子解析でそれぞれ痛い思いをしていたから、慎重に訪ねた。
「ないわよ。読影したのはカルザス先生だから」
「す、すみません」
冷汗が出た。カルザス先生を盗み見したが、表情に変化はない。日頃から能面のようなその顔は、凪いだ海のように穏やかだった。
「だけどね、そのあと、ほとんどの人が発熱している」
「発熱? 何もない、正常な人たちなのに、ほとんどが発熱?」
動揺を隠しきれず、アリシアの言葉をそのまま繰り返した。カルザス先生が、そっと腕組みをした。
「放射線科と呼吸器内科のデータを突き合わせてみたの。レントゲンを撮った患者のすべてをフォローしきれてはいないけど。不思議なんだけど、ほとんどの患者がレントゲン撮影の後に発熱をしている。高熱か微熱かは人によるけど」
「それは、例えば、レントゲンのせい、とか、考えているのでしょうか」
恐る恐る尋ねた。カルザス先生もアリシアも、眉間にしわを寄せたまま、無言だ。ちょっと安易な発言だった。でも、確認する手段は、ある。
「ぼくも、レントゲン撮ってみてくれますか」
アリシアとカルザス先生がそろって顔を上げた。心なしか、にやりとしている。しまった。既定の路線に載せられた。
ぼくはあっという間に放射線科に連れていかれ、レントゲンを撮られた。火星に来て健康診断もしている時間がなかったから、まあ、ちょうどいい機会だ、と自分を納得させながらレントゲン台の前から離れたぼくは、胸に手を当てた。かすかに、かゆみのような感覚が通り抜けたような気がした。
レントゲン撮影の前に検温し、撮影後は三十分おきに体温を測った。撮影前は36.1℃の平熱。撮影後も変わらなかった体温は、夜中の十二時には、36.5℃になっていた。いやな予感がした。そのまま起きて、検温を続けた。午前一時に36.6℃、その三十分後には37.2度にまで上がった。最終的に37.5℃止まりだったが、もともと平熱の低いぼくには立派な発熱だ。
微熱は翌日も続き、けだるい身体を引きずって病院に向かった。救命救急科のオフィスでアリシアに報告すれば、ほらね、とも言いたげな表情でぼくを見た。
「その原因を探るために、バイオプシーをお願いしようと思っているの」
はっと顔を上げると、アリシアのまっすぐな瞳がぼくを見ていた。
「ぼくに、ですか?」
ちょっと待てよ、と少し腰が引けた。医療従事者なら、身体を張って証明して見せよ、と言われているようだった。生唾を飲み込んだ。バイオプシーはまだ未体験だった。でもここで後には引けまい……。
「ウィルにそこまでお願いはしないから、安心して。コロニー全体の命運がかかっているって、すでに協力の申し出が複数きている」
いつの間にかカルザス先生が後ろに立っていた。バイオプシーの検体をできるだけ良い条件で標本にして、確認するように、とカルザス先生の目が言っている。
「バイオプシーは、いつしますか?」
「明日。午後一番に」
「わかりました。病理診断は任せてください」
カルザス先生がゆっくりとうなずいた。アリシアもほっとしたように少しほほ笑んでいた。部屋に戻ってゴードンに伝えると、腕がなりますなぁと満面の笑みをたたえた。
出来立てのほやほやですよ、とゴードンが標本を持ってきたのは、翌日、窓の外が真っ赤な夕暮れに染まる頃だった。その時まで、ぼくの中で小さな仮説が生まれていた。果たして、その仮説が当たりか外れか、プレパラートを顕微鏡のステージに載せる手が震えた。
接眼レンズを、のぞいた。
細気管支に静脈、薄い壁で区切られた肺胞がきれいに染まっていた。対物レンズをまわして強拡大にすると、肺胞腔を取り囲む肺胞上皮細胞と毛細血管。そして。
「あった!」
思わず小さくガッツポーズをした。肺胞のところどころに、小さく挫滅したような跡があった。数はそれほど多くないから、呼吸機能に影響はないだろう。ただ、炎症反応で発熱はするかもしれない。ぼくはゴードンを呼んだ。
「念のため、PAS染色とグロコット染色も」
「できてますよぉ」
ゴードンの楽しげな声が答えた。
やがて、ぱたぱたとアリシアが部屋に入ってきた。その後ろから、ゆっくりとカルザス先生も現れた。ぼくの表情は、おそらく自信満々だった。アリシアがちょっと驚いた顔をした。
「肺胞に、小さい挫滅がいくつか見えます。これが、発熱を引き起こした直接の原因だと思います」
「全員に?」
ぼくはゆっくりとうなずいた。
「ここからは、仮説です。小さい挫滅は、おそらくレントゲンが原因です」
カルザス先生が静かに片眉を上げた。まさか、とアリシアがつぶやいた。それでも、ぼくは確信を込めて言った。
「レントゲンが、放射線が胞子を焼いたんです。火星ヒカリゴケは、放射線に反応して、発火する」
二人は信じられないという表情をして、顔を見合わせた。
ぼくも、その可能性を思いついた時にはありえないと思った。だけど、天蓋のヒカリゴケが宇宙線を浴びて赤く発光する様子を何度も見て、確信に変わった。
ヤマシタさんがゴードンとロッククライミングをした時。下にいたゴードンでも30メートルは落下したといった。洞底からは、最低でも50メートルはあったはず。その上を登っていたヤマシタさんは、運悪く宇宙線に直撃された。レントゲンとは比べ物にならない高エネルギーの宇宙線で、肺の胞子が一度に発火しヤマシタさんはそのショックで気を失い、落下。肺は重度の障害を負った。
マーズポートに向かったリニアでも、同じことが起こった。地表面で、遮るものが何もない30分。往復で一時間。その間に、絶え間なく宇宙船は降り注ぐ。溶岩洞のヒカリゴケが急速に増えていったから、後になればなるほど、肺の障害は重い。三回目の事故では、ほぼ即死だっただろう。
これが、ぼくの推論だ。
黙って聞いていたカルザス先生が、小さくうなった。目だけでアリシアを見ると、眉間にしわを寄せたまま、うなずいた。
この推論を確認するために、ヒカリゴケを採取し、放射線を当ててみた。黄色く光るヒカリゴケが、一瞬赤く変色し、熱を帯びた。そのままにしておくと、静かに茶色く変色していく。ヒカリゴケの組織は、発した熱で破壊されていた。
これが一連の事故の原因だと、確認された。
それだけではない。レントゲンを浴びた人たちは、一瞬発熱をするが、その後は何の症状も出ない。勇気あるボランティアが、二度、三度の照射に協力してくれた。レントゲンを撮るたびに発熱がある。だが、二回目は微熱になり、三度目の照射では、ほとんど平熱と変わらなかった。
バイオプシーで確認すれば、肺の中の胞子の数は回を追うごとに少なくなっていた。肺に入った胞子に低エネルギーの放射線を当てると除去可能だ。治療法に結び付く可能性がある。しかし、ここで新たな問題が発覚した。少数ではあるが、肺以外の臓器に胞子が入り込んでいる人が一定数存在する。肺だけに限局しているか、ほかの組織に入り込んでいるかは、ヒカリゴケの暴露量とは関係がない。効率的に、胞子だけをピンポイントで除去したい。
その解決法は、簡単に見つかった。
放射性医薬品を利用すればいい。胞子だけに発現するタンパク質を認識する分子に、放射線標識をつければ、放射線で狙い撃ちにできる。胞子除去に使えるのではないか、という案だった。
放射性医薬品合成設備は、コロニー内に一か所だけある。富裕層向けの高齢者施設だ。院長に交渉を依頼した。現状、それしか治療法がないと告げると、二つ返事での了解だった。検査用に備蓄してある原材料を治療用に回すことも、快諾された。解決に、一歩近づいた。
地球に帰れる。
ほとんどの住民がうわさで事実を知り、遅きに失した感はあるが、オリンポス・エクスプレスの事故について、事故調査委員会から公式見解が表明された。
火星ヒカリゴケの胞子が原因の呼吸器障害。
コロニーの夜を美しく彩っていたヒカリゴケは、除去対象になった。今ではもう、夜に天蓋を見上げる人も、外出する人さえいない。ぼくはその状況を、切なく感じていた。
ぼくたちが治療法の開発に向けて必死になっていた時、火星コロニー自治検討会が設立された。原因となった火星ヒカリゴケの除去が決まり、地球ではコロニーを閉鎖する可能性を検討していた。心血を注いで作り上げたコロニーの環境に誇りを持ち、これからの発展を心から願うメンバーがリストに名を連ねる。地球主導の開発ではない、コロニーの住民による自治が声高に叫ばれた。
この時のぼくはまだ、地球と自治検討会の対立がそこまで深いとは考えていなかった。火星ヒカリゴケの除去を、コロニーの廃棄に重ねて住民の不安をあおる自治検討委員会のやり方を、多少やりすぎだと感じてはいたが。ただ、ニナはこの状況をどう考えているのかが、気になった。
病院にこもって対策を講じている間、ぼくはニナに会うことはなかった。ニナの口から人魚の言葉が出たあの夜以来、ぼくは自分の気持ちを持て余していた。また、植栽家として誇りを持ち、発光植物を大切にしていたニナには、火星ヒカリゴケの除去は受け入れがたいことだとわかっている。だからこそ、ぼくは躊躇していた。ニナの誇りと幸せを奪うきっかけになったのは、ぼくだ。ニナがヒントをくれたにせよ。
胸が痛んだ。このまま、もう会わずにいたほうがいい。そう思いながら、でも、どこかにニナの姿を探している自分がいた。一貫性のない態度に嫌気がさし、ぼくはのめり込むように仕事をした。
一度根を張ったヒカリゴケの除去は困難を極めていた。手入れがされないまま、黄金色の波打つ天蓋は、次第に荒れていく。一様だった光量がまだらになり、色の濃淡も出てきた。夜半には照度が落ちていたのに、明け方まで最大光量で光り続ける場所もある。天蓋は嵐のようなありさまで、稲妻のように赤い閃光が走る。
仕事に疲れた目を向ければ、心がますますすさんだ。早く治療法が確立して、ヒカリゴケとの共存が可能になればいい。それしか、解決策はないように思えた。治療法の模索は続いている。
コロニーの備蓄状況と、治療法の開発は、限られた時間の奪い合いだった。マーズカナルの美しい姿を維持するために心を砕いていた植栽家は、すべて食糧生産に回されることが決定したとニュースで知った。
長かった一日の終わり。済んでいない大量のTo Doリストを残し、病院のオフィスで味気ない保存食を摂る。栄養はきちんと摂れるような配合だが、それだけのもの。心は殺伐としている。外の空気を吸いたくなって、久しぶりに外に出た。
発光植物がきらびやかな街を演出する。火星で当たり前の光景は、まもなく失われていくのだろう。遺伝子編集をされた樹木や草花は、日々の細やかな世話なしではその美しさを維持できない。
大きなケヤキは年中葉をつけている。サボテンは水分を大量に含んでまるまるとし、針葉樹は槍のような雄姿を空に向かって伸ばしている。ミニチュアの植物園のようなマーズカナルの植生は、やがてもとは不毛の地だったということを、痛感させるような無残な姿をさらすかもしれない。
誰も手をかけなければ、植物の発光だけで明るいこの場所も、闇に包まれてしまう。
ぼくはゆっくりと街路樹の間を歩いた。この光景を忘れないように。ぼくを温かく迎えてくれた火星の光の景色を、胸に刻んだ。
気分は少し落ち着いていた。深呼吸をして、病院に戻る。もう少しだけ、仕事を片付けてしまいたい。
照明が落とされた廊下から、検査室が明るく見えた。
ドアを開けて、ふと立ち止まる。清冽なミントの香り。この部屋に全く不釣り合いな、地球を離れてから一度も嗅ぐことのなかったなつかしい香り。ぼくは部屋中を見回した。誰の姿も見えず、その代わり、奥の、ぼくのオフィスのドアが開いていた。
誰かが、来ている?
無意識に足の動きが早まった。大教室ほどある広さの検査室を大股で横切って、ぼくは自室をのぞいた。
部屋の奥には、パソコンと顕微鏡が載ったぼくの机。その手前に、人工ラタンの丸テーブル。おそろいの椅子。時々作業台になるその丸テーブルに、シンプルなテーブルクロスがかけられ、二人分のカップとスコーンが並べてあった。スペアミントの葉が浮いた琥珀色の紅茶の入ったティポットを、慣れた手つきでカップに注ぐ。地球から物資が届かなくなって、嗜好品は特に入手が難しくなっている。火星で見たことはないぐらい貴重な、ミントをどうして……。
立ちすくむぼくにゆっくりと視線を移して、黒い瞳がかすかに微笑んだ。
――ニナ。
「しばらく会っていなかったので、ちょっと立ち寄ってみました。お仕事でご活躍なのは、コロニー中に知られていますから」
ご活躍?
ニナの声はいつもと変わらないのに、ほんの少し棘がある。何も連絡をせず、時間がたってしまったことへのいら立ちか。立ったままのぼくに椅子を進めて、お茶をよこすニナを注視した。その棘がどこから生じているのか、確かめようと。
「火星ヒカリゴケが事故の原因だって、解明したでしょう? あれ以来、私たち植栽家への風当たりが強くなって。……精魂込めて、大切に育て上げた火星の環境を見ても、誰も喜ばなくなりました。もう誰も天蓋を見上げない。私たちは悲しいんです。荒れ放題のヒカリゴケ。時間間隔が狂って、いつまでも明るく輝く街路樹。かつてビロードのようだった緑の絨毯は、今はささくれ立って見る影もない。……私たちの火星は、だんだんと死んでいく」
ニナの黒い瞳が、怒りで震えている。目を合わせたままでいるのがつらくて、ぼくの視線は宙をさまよった。手にしたティーカップには、一枚、鮮やかな緑色の葉が浮かべてあった。
「植物サンプルとして、保存されているんです。きちんと発芽するかどうか定期的に確認して、芽が出たらそのまま育てて」
ぼくの視線に気づいたのか、ニナは浮かんだミントを指さし、抑揚のない声が言った。
「今の植栽家の仕事です。種子を一通りそろえていますから、今はどんな植物でも食料になるものなら育てる。火星に人類が定着できれば、次は食糧生産に舵を切っていく予定だったので、いつかはこうなるはずだったのですけど」
問われなくても、ニナは淡々と説明を続ける。その声色は極冠に吹きすさぶ風のようで、ぼくの心を凍らせた。
「火星の植生は、バランスを保つのが、とても難しい。一つの種が暴走を始めてしまったら、生態系全体が手を付けられないほど影響を受けてしまう。もともとは、何も生物がいなかった無菌の土地ですから」
ニナの表情が曇った。
「でも、わたしたち植栽家は新しい種を導入するとき、発芽はするか、きちんと育つか、環境に適応できるか、一つ一つ念入りに確認し、大切に見守るのです。そうして作り上げた火星の植生は、やっと自ら生存域を広げることができるようになった」
ニナはぼくをにらんだ。
「やっと自立の一歩を踏み出した火星の植物を、地球から来たあなたたちは、自分たちのルールで勝手に壊している」
「そんなことはない。ヒカリゴケは、放っておけばもっと生息域を拡大する。人との共存をめざすなら、害をなすものには対処しないといけない」
「それはあなたが地球に住んでいるからです。火星の生物がやっと見つけた解を、地球の人間にどうこう言われる筋合いはない」
ニナの口調は激しかった。
火星ヒカリゴケの増殖が人間を脅かすものと断定されてから、ニナたち植栽家の心中はいかほどのものだったか。精魂込めて美しく育て上げた植物が、放置されて目も当てられない状態になっていく。その仕事に誇りをもっていた彼女たちは、いきなり食物生産に移らされた。その時の彼女たちの気持ちに、寄り添っていなかった自分を責めた。
火星にコロニーができて以来、美しい光景に心砕いていた植栽家の仕事は、否定されたも同然だ。地球に帰らないと決めて、その仕事に一生を捧げるつもりだったニナ。ぼくは、地球に帰るために、事故の原因を追究した。うっすらと涙を浮かべて、ニナは唇を引き結んだまま、手元を凝視している。
「……この事態が収拾したら、また、元に戻せる日が来るよ」
二人の間を支配した沈黙を何とかしようと口をついた言葉は、ありきたりだった。いや、むしろ言わないほうがよかった。ニナの片方の眉が、ピクリと上がった。
「戻らない。……入植初期から、生態系には細心の注意を払って、考えられるすべてのリスクに対応して、やっと出来上がったところだった。……どれだけの思いで維持してきたか、地球の人にはわからないんです!」
「だけど、人に影響を与えるようになったら、……人に対してのリスクになったら、本末転倒だろう?」
しどろもどろに反論した。この話は、やめないといけない。じゃないと、どちらにとっても傷になる。そう思って口にした言葉は、包み隠すことのないぼくの本心だった。
「火星にヒトが住むなんて、まだ無理だったんだ。人類には、早かった。ひとは、自分の能力を過信しすぎている」
一息で言い切った。ニナが目を大きく見開いてぼくを見ていた。
「火星に、……お客様のようにいらっしゃった『先生』には、そう見えますね」
言い捨てて、ニナは席を立った。ぼくは見送らなかった。ニナの足音が廊下に出て、小さく聞こえなくなるまで、目の前のニナの座っていた椅子を、じっと見ていた。
その夜は、一睡もせずにオフィスで過ごした。
ニナのその言動の理由を、ぼくは翌日知った。アリシアが困った顔で手渡してくれた火星コロニー自治検討会の広報誌に、中心人物としてニナの名前があった。
永遠にも思えた半年が過ぎた。
低重力の火星で、職場にこもりっぱなしのぼくは、筋肉が落ちてみすぼらしくなっていた。夜、窓ガラスに映る人物は、三十代とは思えない。もうすぐ六十を迎えるゴードンのほうが、よっぽど若く見えた。これでは地球に戻っても、動けないかもしれないな、と漠然と思った。
放射性医薬品の開発は大詰めとなっていた。被爆線量は最低レベルの2ミリシーベルトに設定され、臨床研究で有効性の評価が続いている。事件後、立ち入りが禁じられていたオリンポス・エクスプレスに治療済みのボランティアが乗り込み、地表まで往復した。最初はほんの数十メートルから、最後はマーズポートまで、問題なく行けることが確認された。
当面の課題は、原材料となる酸素の同位体18Oだ。地球でも空気中の酸素に0.2%しか存在しない。火星では、絶望的なほど不足していた。また、放射性医薬品合成設備も足りない。被爆を防ぐために鉛が入って重量のある合成設備は、コロニー内の材料では作成不能だった。コロニーの住民は、治療が終わり次第、地球へ帰還する。そのためには、地球からの原材料を待つ必要があった。
地球から救援物資を満載した宇宙船が火星に向かっている。荷物を下し、帰りは地球への帰還者を乗せていく。コロニーの希望者には、帰還のための手続きが始められた。ぼくの火星での任期も一年を切っていた。
窓の外を見れば、十分な栄養と水分を与えられない木々は、立ち枯れていた。発光植物の数も減ったマーズカナルは、人工の照明にたよって、味気ない風景になった。
テーマパークのアトラクションを見ているようだ。何百年も前のアメリカの開拓時代を思わせるような乾いた土地。両側にそびえる裸の岩山。断崖のところどころに薄緑色の光が付着している。掃き寄せられたように道路わきに転がる、エアープランツが物悲しい。今にもガンマンが出てきそうな風景を、ぼくはじっと見ていた。
ぼんやりと、ニナのことを思った。火星のコロニーは廃棄せざるを得なくなっていた。火星ヒカリゴケの除去が難航したばかりではなく、別の発見があった。
地球からの救援物資とともに、火星ヒカリゴケの調査に生物学者が団体で訪れた。
火星の生物は地球には持ち帰れない。コロニーは巨大な生物研究室の様相を呈していた。ヒカリゴケのみならず、発光植物を中心に生態が詳細に調査されている。数か月のうちに見る影もなくなったマーズカナルの街路樹や花壇。それでも、かろうじて残る生態系の道案内として、再度植栽家に光が当たった。
地球から到着する宇宙船が増えるたび、コロニーの人口は減る。人通りがほとんどなくなった洞底を、植栽家に率いられて歩く研究者が目立つようになった。病院も患者が激減し、ぼくは時間を持て余していた。ゴードンは相変わらずウェイトトレーニングに余念がない。せめて散歩でもしておかなきゃ、地球に戻っても歩けませんぜ。そう言われて、しぶしぶ外に出た。火星の低重力に慣れきってしまった足。いつしか足元が心許なくなった。
幽霊のように枝葉を垂らす街路樹に沿って、ぼくは一心に歩いた。町はずれに向かっていくと、前方から数人のグループが歩いてくる。物珍しそうにあたりを眺める集団は、おそらく地球からの調査だ。歩道いっぱいに広がる彼らに、ほくは道を譲った。
集団の最後をガイドが歩く。気のせいか、肩を落としているように見えた。じっとその背中を見つめた。ニナは、どうしているのだろう。あの日から、一度も会っていない。
ぼくの足は、ニナが案内してくれた発光植物園に自然に向いた。閉鎖されている可能性がふと頭をよぎったが、足は止まらない。
殺伐とした風情の公園を回り込み、小さな溶岩洞の入り口に立った。以前は入り口にまでヒカリゴケの光が届いていたが、嘘のように暗い。最優先の除去対象だった。当然だ。少し寂しく感じながら、ゆっくりと洞窟の入り口をくぐった。
壁伝いにそろりそろりと進む。照明がない溶岩洞の中は、真っ暗だ。だが、進んでいくうちに岩の隙間にかすかな光を見つけた。かつては発光植物園と呼ばれた奥行き10メートルほどのドーム状の空間に足を踏み込んでみれば、小さな光の点が足元から天井まで、無数に存在した。完璧な除去は難しい。残っていたヒカリゴケが育っている。
危機感とともに、一方ではなつかしさを感じながら、その場に立ち尽くしていた。やがて、目が慣れてくると、奥まった場所にうずくまる人影に気付いて、心臓が跳ね上がった。こんなところに、いったい誰が……。
その人影は、おもむろに立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。ぼくは、無意識に後ずさる。が、狭い溶岩洞の中で、すぐに背中に壁を感じた。黒い影が詰め寄る。息が止まりそうだ。
ふと、空気が緩んだ。
「ウィル……」
人影がぼくの名前を呼ぶ。それは。
「ニナ!?」
しばらく会わないうちにやせて、衰弱しているようにも見えた。地球からの救援物資に入っていた各種の栄養タブレットは、すべての住民にいきわたっていて、それを摂取していれば健康状態は保たれるはず。それなのに、驚くほど細くなっている。
「きちんと栄養管理はしているの?」
ぼくの言葉に返事はない。公園の小さなベンチに座って、ニナは打ち捨てられた花壇を見ていた。ゆっくりと身体を起こすと、そのまま天蓋を仰ぐ。照明が、静かに夕焼けに変わっていった。
「あのね。調べてほしいものがあるの」
ニナはぼくの目の前に、ガラス容器に入った岩石を掲げた。
「火星ヒカリゴケを育てる前に採取した岩石。なにか調査が必要になった時のために、無菌脱酸素掘削で入植初期に採取されている。地球の生物には汚染されていないはず」
「だから、あの溶岩洞に?」
「あそこは、もう閉鎖されることが決まって。その前に取り出さないとって、来てみたの。まあ、それだけじゃないけど。――ヒカリゴケがどうなったかも気になって」
ニナのまなざしは遠いところを見ている。ニナが担ぎ出されたコロニー自治検討会は、あっという間に解散した、と聞いた。コロニーの存続を願っていたはずなのに、地球帰還が現実的になった途端、多くのメンバーが手のひらを返したように我先にと治療と帰還の予約を入れた。火星の環境づくりを一手に引き受けていた植栽家として、コロニーの存続を願ったニナは、はしごを外されたようなものだ。やつれたのは、そのせい。ぼくはひざの上で手を握りしめた。
「この岩石の中に、火星固有の生命の痕跡があるかどうか、ウィルに調べてほしい」
ぼくは驚きのあまり、声が出なかった。ぼくが火星に来たかった理由。それは、こどものころからのぼくの夢。誰にも言わず、心に秘めていた……。
「火星に来てくれた、せめてものお礼。――見つけて。火星の生命を」
ぼくを見る黒い瞳が、優しく微笑んでいた。
岩石から生命の痕跡を探すのは難しい。ぼくは手当たり次第に情報を集め、古い文献にシリカ鉱物からDNAを抽出する方法を見つけた。火星の土壌にもシリカ鉱物が含まれている。それならば、地球と同様に核酸を検出できると踏んだ。
リョーヴァが手助けを申し出てくれた。ニナの手渡してくれた岩石は、コロニー全体の様々な場所から採掘されていた。一つ一つ慎重に、様々な条件で抽出をする。その抽出液を核酸自動抽出増幅装置にかける。結果が出るまでの十数分が、とてつもなく長く感じられた。一度に複数のサンプルを処理できるが、百を超える採掘場所と、細かくふった抽出条件で、解析は延々と続いた。核酸陰性の結果が山積みになり、はじめは好奇心いっぱいだったリョーヴァがつまらなさそうに前線を退き、ぼく一人が夜中まで装置を動かしていた。
やはり、火星に特有の生命はいないのか。ぼくは惰性で装置を動かし続けていた。
真っ赤な朝焼けが窓の向こうに広がり、残りのサンプルがあと三回分になった。あきらめムードがぼくを支配し、コーヒーをいれて戻った時、結果を示すモニターが、初めて違う表示だったことに気付いた。
ぼくの手からカップが滑り落ち、一面に深いコーヒーの香りが漂った。モニターに思わず歩み寄るぼくの足が、液体で滑る。手をついて身体を支え、その結果を凝視した。
やった!
核酸が見つかった。火星の岩石から。誰もいない検査室でひとり飛び上がり、大声で叫んだ。やった! 見つかった! 火星の生命が!!
たたき起こされたリョーヴァが着替えもそこそこに駆け込んできた。核酸の同定を始める。どんな生物なのか。地球の生物と似ているのか、それとも、古くからSFに描かれているような火星人なのか。ぼくの胸は高鳴った。
ニナに。ニナに連絡しなければ。
ぼくの発見を皮切りに、火星の溶岩洞の奥や地下深くから、ぞくぞくと核酸の痕跡が発見された。解析が進むうちに、中には、意図して作られたとしか考えられないようなものまでも見つかった。生物は、太陽系外からやってきたのかもしれない。様々な憶測が火星のみならず、地球でも飛び交った。
地球外生命発見に湧く世界に長居はできなかった。見つかった核酸が火星ヒカリゴケに挿入されていることに、リョーヴァが気付いた。三つの遺伝子配列――遺伝子編集直後の火星ヒカリゴケ、増殖が著しくなった時期の火星ヒカリゴケ、岩石から見つかった核酸――を比較して、リョーヴァが小さくつぶやいた。
「この核酸は、感染するのかもしれない」
「感染?」
「言葉が悪ければ、寄生、だな。自力では何もできないが、地球の生命に寄生することで、生息域を広げる」
その言葉を合図に、コロニー内にあるすべての植物、生息するすべての動物、そして住民が、一気に解析対象となった。地球帰還まで、あと半年を切っていた。地球から調査に来た生物学者も、彼らが持ち込んだ機器も総動員された。すでに地球に向かっている人たちは、到着しても地球の軌道上で待機が命じられた。
結果はどうであれ、今回の事件は、地球の生命が太陽系内の他の惑星にさえ進出することは難しい、と告げていた。人類が月に足跡をしるしてから百余年。科学の力を信じて、自分たちの力を信じて宇宙に進出してきた人類は、また地球に押し戻される。大自然の、宇宙の過酷さを、人類は苦々しくかみしめた。
一日千秋の想いで待ちわびた解析結果。案の定、数種類の植物に火星由来の核酸が見つかった。それ以外の動物も人間も、今のところは汚染されていない。その結果に安どする暇もなく、火星からすべての人類の撤収が決まった。
医療従事者は万が一に備えて、最後の帰還となった。なかでも、IMRIHは最後に回された。火星進出の最先端を担った研究所は、コロニーの閉鎖まで責任を持つ、ということらしい。
日常業務が減り、残務処理に取り掛かる。最低限必要なもの以外は、帯同が禁じられた。火星に赴任して、ちょうど二年。図らずしも予定通りの帰還。ぼくは患者もほとんどいない病院のオフィスで、しずかに時間をつぶした。毎日の長時間のぞいた顕微鏡も、このまま置いていくことになっている。隣の部屋では、ゴードンが標本作成用の器具をきれいに洗浄し、棚にしまっていた。長年連れ添った相棒のような器具に別れをつけるゴードンの背中は、心なしかしおれているように見えた。
帰還に向けて残る日々は少ない。それなのに、手付かずのまま、引きずってしまっていることがあった。――ニナのことだ。
アリシアは、ニナがかたくなに帰還を拒んでいる、と言っていた。予想はできた。いざとなれば、引っ張ってでも連れて帰ろうと心には決めていた。だけど、それが本当にいいことなのか、ぼくにはわかりかねた。もちろん、火星に残していくという選択肢はない。だが、地球に帰るなら、せめて納得して帰ってほしかった。
残りの住民が少なくなっても、コロニーの照明は朝昼晩と移ろう。オフィスや住宅に明かりがない夕方は、夕焼け色の照明にもの悲しさが漂う。ぼくは病院から自宅への道を、ゆっくりと歩いていた。時間はあったのに、言い訳をしてニナに会いに行かなかった自分に後悔しながら。
今ではすっかり荒野のようになって静かな街中に、ほんの一瞬、ヴァイオリンの音が聞こえた。ぼくは顔を上げた。耳を澄ましたが、あたりはしんとしている。空耳か。まわりを見回した。
かつては青々とした芝生が自慢だった大きな公園に、ニナが一人たたずんでいた。ヴァイオリンを手にして。予期せぬ出会いに、ぼくの心臓は高鳴った。今を逃しては、もう話をする機会はない。枯れ草だらけの歩道を、足音を殺して歩いた。それでも一歩を踏み出すたびに、かさかさと音がする。ニナが気付いて、こちらを向いた。すぐに顔を背けて、反対方向に向かって歩き出す。
「ニナ」
ぼくの声は聞こえているはずなのに、振り向こうともしない。ぼくは駆けだした。このまま、ニナを行かせてしまっては、ぼくは後悔する。
ぼくの目の前で、ニナは振り返った。黒い瞳が、ぼくを射抜くように光る。
「一緒に、地球に帰ろう」
ぼくはニナの手をとった。だが、その手は振り払われ、ニナはまた一人で歩き出す。手にしたヴァイオリンは、一本の弦が切れていた。ヴァイオリンの音がふつりとやんだのは、そのせいだ。急いで追いかけて、並ぶように歩いた。
言いたいことは山のようにあるのに、どう言葉にしていいかわからない。ただ隣で歩き続けることしか、できなかった。夕焼けの色が、ニナの頬を朱く染めている。怒ったように前を向くニナが、ふと足を止めた。ほとんど枯れてしまった植栽の中に、小さく光るものがあった。地面から芽を出したばかりの小さな植物だった。
「まだ、生れてくるのね」
ニナの細い腕がのび、指先が光る子葉に触れた。放置されて荒れ放題の土地に、まだ芽吹く植物があるとは。まるで、このコロニーの未来を暗示しているように見えた。
「帰ろう。一緒に。地球へ」
ぼくは臆することなく、もう一度言葉にした。
「いや。地球には帰らない」
ニナは立ち上がって背を向け、かたくなに拒んだ。立ち上がったニナの肩越しに、暗くなりかけた天蓋が見えた。かつて、黄金のベールをまとっていた天蓋は、まばらにヒカリゴケが生えているばかりで、それは、星空のようでもあった。外部の光が漏れてくるスカイライトは。
「天の川みたいだ」
ぼくの言葉に、かすかに上を向く気配がした。
見上げれば、天の川にいくつもの星。両側の崖も闇に沈んで、夜空を眺めているようだった。忘れていた、満天の星空。ぼくは帰りたい。地球に帰って、またこうやって星空を眺めたい。……ニナと一緒に。
「見捨てたくないの」
背中を向けたまま、ニナがつぶやいた。
「こんなになっても芽吹く命がある。見捨てられても光り輝く星がある。わたしは、最後まで見守りたい。――ここに、残る」
「きみが地球に帰っても、ここの風景は変わらない。きみが大切に育てた命は、自分たちで生きられる強さを手にした」
ニナの隣に並んで、静かに、力を込めて言った。大切に手入れをした発光植物たちを置いて、地球には帰れないというニナの気持ちはわかる。でも、それだけではないような気がしていた。沈黙が再びあたりを包んだ。ニナが沈黙を破って口を開いた時、小さかったぼくが失った大切なものを、ぼくは再び握りしめていた。
「わたしね、人魚だったの」
――ああ、やっぱり。
「生まれたとき。先天性の奇形なの。――シレノメリアっていうんだけど、両足がくっついていて、人魚のように見えるから、人魚症候群」
ニナが、ぽつりぽつりと語る。ぼくの目の前に、あの子がいた。青々とした草原に、車いすに乗って。
「手術をしたんだけど、上手に歩けるようにはならなくて。でも、アリシアが火星なら重力が小さいから普通に過ごせるって、ここに連れてきてくれた」
気がつかなかった。そんな障害を抱えているなんて、全くわからないほど、ニナは生き生きと過ごしていた。
「だから、帰りたくない。地球に帰れば、わたしは重力に負けてしまう」
となりで、肩がかすかにふるえている。でもぼくは決めていた。
「ぼくの人魚は、言っていた。――歩けなくても、できることはたくさんある。身体が不自由でも、あきらめることはないって。そして、見渡す限りの草原で、車いすに乗ったまま、ヴァイオリンを弾いてくれた」
ニナの潤んだ黒い瞳が、驚いたようにぼくを見つめた。ゆっくりとぼくはうなずく。
「その人魚を探しに、ぼくはここに来たんだ」
「まさか……」
「人魚姫のお話は、ハッピーエンドだ」
宇宙船の窓から、赤さびた大地が見える。ざっくりと切り込まれたようなマリネリス峡谷。太陽系一の火山オリンポス山。こうして眺めた二年前を、つい昨日のように思い出す。
二年間お世話になった病院と自宅を、後ろ髪を引かれる思いであとにした。あの陽気なゴードンが、病理検査室を出るときには男泣きに泣いていた。翌日からも普通通りに仕事ができるような、ドアを開ければ誰かが出てきそうな、なにもかも変わらない場所は、最後の宇宙船の発射で無人になった。誰もいないコロニーは、機材が壊れるまで、人工の照明が一日を作るだろう。そして、残してきた植物たちは、きっと力強く生きていくだろう。
ぼくは祈るように思った。
となりには、ニナが静かに座っている。
火星は、ぼくたち人類の挑戦をはねのけた。大自然の前に、人類がまだまだ無力だということを、全力で突き付けてきた。ぼくたちは、火星に負けた。
でも、とぼくは思う。ぼくたちは、人類は、何度でもチャレンジするのだ。一度や二度の挫折では、あきらめない。今誇るべきは、火星に一時でも住むことができた事実だ。これからも、チャレンジは続く。
いつしか、ぼくたちの子孫がまたこの地に戻ることを信じて、今は地球へ帰ろう。
遠ざかる赤い大地に向かって、ぼくは心の中でつぶやいた。
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内容に関するアピール
原子力発電所を抱えた県に育った私は、いかにそれが安全であるかを刷り込まれていました。例えば、地震の時には竹藪――ではなくて、原子力発電所へ。揺れない。一番安全だから、と。だから、東日本大震災で福島第一原発の事故が起こった時、一番に感じたのは、人間の科学技術は自然に勝てなかった、という悔しさでした。
震災について人が語るとき、私の感覚は少しずれていて、なかなか口に出しづらかったことを覚えています。その時の感情を最終実作にこめてみましたが、いくらかは伝わったでしょうか。
最後になりましたが、大森先生、講師の先生方、受講生&聴講生の皆様、大変有意義な時間をありがとうございました。おかげさまで、自己最高の4万字越えの作品を書けたことに、今は一番達成感です(笑)。
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