おねえちゃんのハンマースペース

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おねえちゃんのハンマースペース

 
プロローグ
 
 葬祭会館から火葬場へ向かうため、親戚一同そろってマイクロバスに乗っている。僕は知らないおばさんの膝のうえに座っていて、となりの窓際の席には四つ年上の姉がいる。おばさんの寝息が後頭部に当たって、ちょっとうっとうしい――母の葬儀について、僕が覚えているのはこの移動中のひとときだけだ。
 お葬式自体はまったく思い出せないし、火葬場に着いたあとのことも忘れてしまっているけれど、長々とバスに揺られながら観た山道の景色だけは妙に記憶に残っている。ガードレールの隔てた先、道路の下から伸びる黒い木々。遠くに立っているものほどゆっくり動いているのが不思議だった。
「みっちゃん」
 同じく窓の外をぼんやり眺めていた姉が、振り向かずに僕を小声で呼ぶ。
「なに?」
「起きてる?」
「なに?」
「本当は内緒なんだけど、教えてあげる」姉はさらに声を潜める。「おかあさん、魔法が使えたんだって」
「まほう?」
「そう。魔法でわたしたちのことを守ってる、って前に言ってた」
 この会話の記憶はすこし疑わしい。僕はまだ五歳になったばかりで、姉の話している内容を正しく理解することができたとは考えにくいからだ。母のことは、僕が大きくなってからも幾度となく姉から聞かされている。だから、しだいに姉の言葉が刷り込まれて、バスでの会話も事後的に補完されている可能性が高い。
「まもってるの?」
「守ってたの。今は違う」
「おかあさんどこ?」
「いないよ。もう死んじゃったから」
 母は、僕を迎えに保育園へ行く途中、自動車に撥ねられて亡くなった。
 もちろん、幼い僕が母の死を受け入れられていたはずもない。いや、今だってちゃんと受け入れているかあやしいものだ。棺の中で眠る母の顔さえ覚えていないのだから。
「死ぬまえに、おかあさんはわたしに言ったの」
 死が分からない僕は泣きもせず、ただ姉の言葉を聞いていた。
 姉はずっと窓のほうを向いていた。
「いつかきっと、あなたも魔法が使えるようになる、って」
 ――おねえちゃんなんだから、そのときはみっちゃんを守ってあげてね。
 そう、まじないをかけられたらしい。
 
 
 
1.
 
 姉の魔法が発現したのは、それから五年後のことだった。
 もしかすると「超能力」と言ったほうが聞こえが良かったかもしれない。当時は第二次オカルトブームの真っ只中で、再来年の夏に恐怖の大王が降ってきて人類は滅亡する、なんて予言が幅を利かせていたころだったから。なんでも、マンガ雑誌には毎月のようにUMAや超能力開発などの特集記事が載り、テレビではオカルト番組が頻繁に放送されていたらしい。うちではマンガは単行本以外購入禁止だったし、チャンネル権もいつも父が握っていたので、その手の話は休み時間に友達から伝え聞くしかなかったけれど。
 とはいえ、小学四年生の僕はそこまで友達付き合いが良いというわけでもなかった。学校が終わってから児童館に集合したり、友達の家に遊びに行ったりというような経験も少ない。いつも「予定があるから」と言って、先に帰ってしまう。
 本当の理由は、父がいないあいだしか自由にテレビが見られないからだった。特に、平日夕方四時から五時に放送される二本立てのアニメはどうしても見たかった。帰りの会のあとはダッシュで帰宅し、エレベーターを待つより早いと信じて団地の階段を八階まで駆け上った。クラスの話題に全然ついていけなかった僕は、その時間帯が昔のアニメの再放送枠だなんて知りもしないで、ブラウン管のまえでアニメがはじまるのを今か今かと楽しみに待っていた。それが僕の大事な予定だった。
 ところがその日は予定通りにはならなかった。
 テレビのリモコンがなくなっていたのだ。
 帰ってきてすぐにそのことに気づいた僕は、ちゃぶ台まわりで目についたものをひたすら引っくり返しはじめた。座布団。朝刊。箱ティッシュ。コーンフレークの空き箱。透明の窓がある封筒の束。鍋敷き。綿棒。昨日の夕刊。さっき自分が放り投げたばかりのランドセルも持ち上げてみたけれど、どこにもリモコンの姿はない。
 テレビ台のほうを見る。ブラウン管はすこし古びていて、左下のフタは欠け、使うあてのない接続端子がのぞいている。テレビ本体のスイッチはどれも接触が悪く電源以外反応しないから、リモコンなしではチャンネルを変えることができない。テレビ台の中にはビデオデッキが収まっていて、その下のスペースには父のビデオテープやカメラ類、乾電池や工具入れなどが雑多に詰め込まれている。全部引っ張り出す。それでもやっぱりリモコンは見つからない。
「またかよ」
 僕はため息をつく。
 予定通りにならないのは――リモコンがなくなるのは、この日が初めてではなかった。さすがにおかしいと思ってちゃんと数えはじめてから、これで六回目になる。もう六回もリモコンが消えている。いや、何者かに隠されている。
 犯人の目星はついていた。
 姉だ。
 はじめは父が没収したのかと思ったが、そうではなかった。これまでのケースでは、消えたリモコンは父が帰ってくるまえには再び現れるのがお決まりで、しかも必ずと言っていいほど姉のそばで発見されるのだ。その手でしっかりとリモコンを持っていた日もある。これまでいくら問いただしても「え、知らないけど」「その辺に置いてあったんじゃない?」「うるさいテレビ聞こえない」などとしらを切るばかりだったけど、絶対に姉のしわざだ。朝はいつも姉が一番最後に家を出るから、そのときに家のどこかに隠しているか、さもなくば通学鞄に入れて中学校に持ち込んでいるに違いない。
 壁の時計を確認すると、とうに四時半を過ぎていた。アニメが半分終わってしまった。このままでは残り半分も見られそうにない。
 絶望していると、玄関からガチャガチャと音がした。
 姉が帰ってきたのだ。
「ただいまぁ……ってなにこれ。道哉みちや?」
「リモコン!」
 居間に足を踏み入れようとする姉を通せんぼし、その場で飛び跳ねて僕は抗議の意を示す。通学鞄とキーホルダーと惣菜の入ったビニール袋ふたつで両手がふさがっている姉は、困ったような表情でこちらを見つめている。
「こっちがただいま言ってんだからまずはおかえりでしょう。あーあこんなに散らかして」
「返せ!」
「あっ体操服落ちてる、帰ったらすぐ洗濯機入れておけってあれほど」
「かッ、リモコっ返して!」
「うるさい」
 姉が惣菜で僕の頭を軽く叩いたので、思わず僕は泣き出してしまった。十歳に涙はコントロールできない。自然とこみあげてくるものはどうしようもない。
「ちょっと、そんな打たれ弱くて大丈夫? 学校でいじめられてない?」
 心配そうに顔を覗き込む姉に、濁点混じりでリモコンと言う。
「だから、いっつも言ってるけど持ってないってば……、わかったわかった、一緒に探そう」
「…………うん」
「そのまえにこれ安全圏に置かせてくれない?」
 ビニール袋を揺らす姉に僕はうなずいて、ようやく居間への道を空けた。
 すぐそばにあった座布団の上に学生鞄とキーホルダーを置いてから、姉は大股でちゃぶ台に近づいていく。「あんた、勝手にわたしの部屋入ってないだろうねぇ」と釘を刺しつつ。途中で箱ティッシュの角を踏み潰して短く叫び、すぐに僕をじろりと睨んだ。
「ごめん」
「まったく、辿り着くまでで大冒険だよ」
 ようやくちゃぶ台に到着して、空いているところに惣菜を並べると、手ぶらになった姉は背中をぽりぽり掻きつつこちらに戻ってきた。
 背後に回された右手は、たしかに何も持っていなかった。
「よし。リモコンのまえに、まずは部屋を片付けよう。こんなのおとうさんに見られたら大変だし……あれ?」
 しかし、いつのまにかその手はリモコンを掴んでいた。
 まるで何もないところから取り出したかのように。
 
 
 
 夕方四時のアニメで、僕のお気に入りのキャラクターはパンダだった。
 本当はパンダではなく人間のおじさんで、主人公の父親であり、その身体に水をかぶるとジャイアントパンダに変身してしまう呪いをかけられていたとかいう設定だったと思うが、その辺りは正直どうでもいい。そのキャラクターが面白いのは、一度パンダになってしまったら人間の言葉をまったく喋ることができないため、喋る代わりにセリフの書かれた立て看板を使ってメッセージを伝えるというところだった。しかも、それまで何ひとつ手に持っていなかったのに、そのシーンになると当たり前のように立て看板を取り出しているのだ。いつのまにか、どこからともなく。
 パンダが立て看板を取り出すだけではなく、男子が竹刀を取り出したり、女子が大きな木槌を取り出したりと、そのアニメでは様々なキャラクターがとても懐には隠せそうもない暗器を仕込んでいた。他のアニメでも似たような現象があって、以前歯医者に行ったときに待合室で繰り返し再生されていた古い海外アニメでは、ネコだったかウサギだったかが背後から巨大なハンマーを取り出していた。それを観たとき、そういうギャグというか、アニメにおけるお約束の一種なのだろうと子どもながらになんとなく察した。このようにアニメのキャラクターの背後にときおり存在する、本来所持できるはずのないアイテムを仕舞うための謎の空間を俗に「ハンマースペース」と呼ぶらしいと知ったのは、ずっとあとのことだ。
 ともあれ、姉の魔法はさながらハンマースペースのようだった。
 どうやら姉の背中の、首の根元近くに、目に見えないポケットのような空間があるらしい――いくつかの簡単な実験を経て、そう僕たちは結論づけた。背中にあることに目をつぶれば四次元ポケットと呼べないこともなかったが、そのころの僕たちはあいにくネコ型ロボットに詳しくなかった。ゴールデンタイムの番組は通っていないのだ。だから僕たちは、それを単に「背中の穴」と呼んでいた。
 誰にも見えない、姉だけが手を伸ばせる不思議な穴。
 姉自身も気づいていなかった、誰も知らない秘密の穴。
 その日の夜、僕は子ども部屋でもう一度姉の魔法を見せてもらった。普段は部屋の中央にカーテンを張って、マンガや小説が並ぶ共有本棚を半分こするようにして僕の部屋と姉の部屋に分割しているけれど、その間仕切りも取り外して、ふたつくっつけた布団の上で僕たちは顔を突き合わせていた。
「リモコンのときは完全に無自覚だった」姉は小声で、現状分かっていることをおさらいしはじめた。「それでもあのときは、リモコンを探さないとって漠然と考えてた。考えているあいだに背中を掻こうとして、気づいたらリモコンを持っていた。たぶん、背中の穴に手を突っ込んでいたんだ」
「なんでリモコンがそこにあったの?」
「それもきっと、リモコンを持ったまま、無意識に背中の穴に手を近づけていたんだと思う。背中がかゆかったか、髪の毛が気になったとかで。自分がリモコンを持っていることも忘れて。それで、知らず知らずのうちに穴の中に仕舞いこんでいたんだ。そうやってこれまで何度もリモコンを仕舞ったり取り出したりしていたみたい」
「やっぱりおねえちゃんが犯人だったんだ」
「言い方」
 お互いに一発ずつ空振りのパンチをしたあとで、姉は「それじゃあいくよ」と言って後ろを向いた。
 後頭部を上から下へ撫でるように、姉の手はゆっくりと背中に近づいていく。きれいに切りそろえられた後ろ髪を越え、そのまま首筋をなぞっていき、指先がパジャマの襟に触れるか触れないかのところで、ふとその指が折り曲げられた。いや、よく見るとそうではない。指先は消えている。背中の穴に入ったのだ。
 背中の穴とは言いつつも、本当に背中に穴が空いているようには見えない。首筋から背中にかけて傷口のようなものは見当たらず、丸くてのっぺりとしている。姉の腕はどんどん進み、今はもう手首までが消えているけれど、角度的に身体の中に突き入れているふうでもない。痛々しい感じもしない。背中の皮膚と空気の境目にある、見えない空間に手を突っ込んでいるかのようだ。
「あー、だんだん慣れてきた。手探りの感覚が掴めてきたっていうか」姉の口調はどこか得意げだ。「あとは、取り出そうってイメージすれば……ほらっ」
 ぬっ、と勢いよく姉の手が引き出される。
 その手には水色のペンケースが握られていた。
「いつのまに」
「驚いた? お風呂のまえに入れといた」首だけこちらを向いた姉が言う。
「全然濡れてないね」
「完全防水だね」
「ちょっと貸して」返事を待たず、僕は姉からペンケースを奪って自分の背中に乱暴に押しつけた。「こう? こう? ねえ見て、できてる?」
「できてないできてない」
 姉は僕からペンケースを取り返すと、すぐに背中の穴に仕舞った。ペンケースの端っこで穴の場所を探り当てるのも一瞬で、半日足らずでだいぶ使いこなしているようだ。
「いいなあ。おねえちゃんだけずるい」
 そうやって駄々をこねる僕に、姉はただ笑いかけるだけだった。しばらくしてから真顔になって、両手で僕の頬を包み込み、顔を近づけてこう言った。
「みっちゃん、このことは二人だけの秘密だからね。誰にも言っちゃいけないよ」
「おとうさんにも?」
「おとうさんにも」
「テツくんも?」
 僕は同じ団地に住んでいる友達の名前を挙げた。
「テツくんも駄目」
 
 
 
 次の土曜日は学校が休みだった。また子ども部屋で実験しようかとも思ったけど、いつまで経ってもおとうさんが外出しないから、代わりに僕たちがショッピングセンターに出かけることにした。休日に子ども部屋でうるさく騒ぐと、おとうさんはとても機嫌が悪くなる。寝起きもいつも不機嫌なので、メモを残して、まだ眠っているうちにこっそり抜け出してきた。
 団地から二十分くらい歩いたところにあるショッピングセンターには本屋もおもちゃ屋もゲームセンターもあったけれど、僕たちが目指したのは、最上階とそのひとつ下の階をつなぐ階段の踊り場だった。ここまで階段で登ってくる人はなかなかいないせいか人通りが極端に少なく、四人掛けのベンチもあるので、こっそり何かをするにはもってこいの場所だ。いつだったか、姉とお昼ご飯を食べに行ったときに見つけた覚えがある。
 僕たちは、姉の背中の穴についてもっと調べることにした。僕は単なる興味本位で、まるでアニメのような姉の魔法に触れることができて嬉しかったし、純粋にわくわくしていた。一方で姉本人は、何やら思うところがあるようだった。
「何ができるのか、どこまでできるのか、確かめないと」
 そう、神妙な顔つきで言っていた。もしかすると、自分が怖かったというのもあったのかもしれない。なにしろある日突然、背中に得体の知れない空間があると判明したのだから。
 ベンチに並んで座って、僕たちは荷ほどきをした。ぱんぱんに詰まったふたつのリュックサックだけでなく、虫取り網や折り畳んだ段ボール箱などの手荷物もあったので、全部周りに広げるとちょっとしたフリーマーケットみたいになった。勝手にお店を出して、ショッピングセンターの人に怒られやしないだろうかと僕は密かに心配していた。
 まず僕たちが検証したのは「どんな大きさのものまで入るのか」だ。いろいろ試してみた結果、一辺が背中の幅より小さく、姉の手で持つことができるものであれば、なんでも仕舞うことができるらしいと分かった。たとえば、ペンケースや教科書みたいな背中にすっぽり隠れるサイズのものは当然仕舞えるけれど、両手を広げたくらいある段ボールはそのままでは仕舞えず、筒状に丸めて背幅より小さくしなければならなかった。姉の胴より長い虫取り網でも、縦にしてすこしずつ上から入れればまるごと仕舞うことができた。その様子は、まるでアニメで見たお約束、ハンマースペースにそっくりだった。
 次に「どれだけ多くのものが入るのか」。これについては検証しきれなかった。リュックサックふたつぶん、持ってきた荷物をすべて入れても、なおも穴にはまだまだ余裕があるようだったからだ。どうやら姉の背中の穴は、入り口はせいぜい背幅くらいだが、その奥にははるかに巨大な空間が広がっているらしい。また、これだけ多くのものを収納しているというのに、姉がまったく重さを感じていないというのも不思議だった。この特徴もハンマースペースと同じだった。
 もしかして、穴の先はどこか遠くの別のところにつながっているのかも。そう思いつきを口にすると、姉は慌てて背中から荷物を取り出しはじめた。穴の向こう側で誰かが荷物を持ち去ってしまうのを想像したらしい。
「どこか遠くとか、不安になるようなこと言わない!」
 メモ帳にリストアップしておいた内容をもとにひとつひとつ荷物を取り出していくと、しだいに姉は落ち着いてきた。あれだけたくさんのものが入っていても、目当てのものを思い浮かべればすぐに取り出せるようだ。取り出したものはリュックサックに詰め直すことになり、帰りは身軽になれると思っていた僕はひどくがっかりした。
 おなかすいたと駄々をこねると、帰るまえに一階のフードコートでラーメンを食べてもいいことになった。フードコートでは偶然にもテツくんとその家族にばったり会ってしまい、なんだかちょっと気まずかった。でもスプーンとフォークが合体したようなやつでラーメンを食べるのが面白かったので、食べ終わるころには気まずさも消えていた。
「遅かったじゃないか」
 地上八階の我が家に帰ると、おとうさんが起きていた。
 もう昼過ぎだから当たり前だ。
 居間で寝転がっていたおとうさんはパジャマ姿のままで、髭も剃っていなかった。酒くさいなと思ったら、空き缶が何本か床に転がっている。テレビから大きな笑い声が聞こえていた。
「そんなに大荷物でどうしたんだ。家出か?」
「道哉の理科の宿題で、ちょっと公園に行ってた」姉は、あらかじめ考えていた通りに言い訳する。「一応、ちゃぶ台の上にメモを残したんだけど……」
「飯は?」
「えっ」
「俺の昼飯は?」
「あっ。ごめんなさい、今から用意する……」
 夕べの残りが冷蔵庫にあるとちゃんとメモに書いていたのに、姉はそれを言わずに台所に向かっていった。姉からリュックサックを渡された僕は、よたよたしながらそれを子ども部屋に運んでいく。両手にかかるリュックのひもが重くて痛い。こういうときは父に何を言っても無駄だと二人とも分かっていた。口答えすれば、余計ひどい目を見るだけだ。なんだか額のすぐ上に、もやもやした黒いものが浮かんでいる気がした。
 部屋に入って、何かがおかしいと思う。
 共有本棚のマンガが一冊もなかった。
「捨てたけど」
 おそるおそる訊いてみると、父はこともなげに言った。
 家出したことへの罰だという。
 
 
 
 もうすこし早く気づいていればよかったのだが、大切なものを仕舞うのに、姉の背中の穴は最適だった。姉が持てるものならなんでも入り、場所をとらず、重さも感じない。取り出したいときにはただ意識するだけで容易に取り出せる。これほどまでに隠し場所にうってつけのスペースが他にあるだろうか。母も姉と同じ魔法――背中の穴を持っていたのなら、へそくりにでも活用していたのだろうかと想像した。いざというときに家族を守るためのお金というわけだ。
 姉は家の合鍵や大事な本、財布や毎月父から渡される生活費などを穴に仕舞った。僕はと言うと、まだ捨てられていなかったカプセルのおもちゃや、引き出しの一番奥に入れていたシリコンバンドの腕時計を預けることにした。本当はテレビのリモコンも入れたかった。そうすればチャンネルをひとりじめできるからだ。
「そんなの、リモコンなくなったっておとうさんにすぐばれるじゃん」
「そっか」
「わたしもいるから、ひとりじめじゃないし」
 そんなことを僕に言っておきながら、姉は父の私物まであれこれと背中に仕舞っているようだった。ある日の夕方四時半、テレビの下でごそごそしているのが邪魔だったので文句を言うと、「ごめんね、ちょっと探しもの」と返事がかえってきたのだ。
「なに探してるの」
「えっと、ビデオカメラとそれ用のテープ」
「おとうさんの?」
「そう」
「僕にはすぐばれるって言ってたのに」
「いや、もうずっと触ってないから大丈夫だって」
 調子の良いことを言いながら、姉はテレビ台から8ミリビデオカメラと小さなカセットを引っ張り出してきた。たしかに父がそれを使っているところを僕は見た覚えがなかった。そういえば、運動会やその他の学校行事に父が来たことは一度もなかった。
「わたしの卒業式には来てたと思うよ」
 おかあさんが映ってるのもあるかもね、と姉はまたテレビの下に潜る。おかあさんと聞いてすこし心が動いたけれど、そのときの僕は目の前のアニメへの関心のほうがわずかに勝っていた。結局その場でカセットの中身が確認されることはなく、それらは速やかに姉の背中へ仕舞われたようだった。大切なもののひとつとして。
「おとうさん、おかあさんがいたときはまだマシだったのにね」
「そうだったの?」
 視線の先はブラウン管のまま、僕は姉に問いかけた。まだ母が生きていたころの我が家について、僕はほとんど覚えていなかった。
「うん。昔は優しかったし、お酒をのんでもあそこまでは酔わなかったと思う」
「そうなんだ」
「……大丈夫だよ。みっちゃんはわたしが守るから」
 おねえちゃんなんだから、と姉は付け足した。
 姉の背中にものを隠すようになってからは、父に何かを捨てられることはなくなった。父の言動にもこれまで以上に気を遣うようになったので、叱られたり罰を受けたりすることも結果的に減っていた。実験についても、食べ物を穴に入れて日数経過における劣化具合を調べたり、ビデオカメラで記録を撮影したりと発展を見せていた。
 そんな感じで、中学二年生の姉と小学四年生の僕は、なんとかうまくやっていた。
「あ、テツくんじゃん!」
「みっちゃん! ゲーセンいかん?」
 だからショッピングセンターでまたもやテツくん一家と鉢合わせたときも、今度はある種の気まずさを覚えることはなかった。その日の僕たちは実験のために入念な根回しを済ませていたし、すでに家で昼ごはんを食べたあとだったこともある。
 同じ団地の住人として、テツくんの両親との挨拶もしっかり見事にこなした。父のことを訊かれて、休日出勤だと本当のことを答えた。答えがある日で良かったと思った。
 テツくんは両親に、僕は姉に許可をとって、すこしだけゲームセンターで遊ぶことにした。休み時間に教室でしょうもない話で盛り上がったり、ごくたまに団地の広場でボール投げしたりすることはあったけれど、こういった場所で友達と遊ぶのははじめてだった。どうしたものか姉に訊いてみようと思ったが、姉はおこづかいをくれたあとすぐに本屋に行ってしまった。
「なあなあ、この前な、おれテレビ見とったんだけど、恐怖の大王ってやっぱり隕石のことらしいじゃん。三兆個降ってくるって……」
 せっかくゲームセンターに来たのにクレーンゲームもワニ叩きも無視して、テツくんはしきりに僕と話したがった。まぶたが厚くて眠たそうに見えるいつものまなざしで、最近流行りのオカルト番組について懸命に語る。
「……それで、そのとき出てきたチョージョーゲンショーケンキューニオケルダイイチニンシャってのが、まず顔がうさんくさくて。みっちゃん見た?」
「ごめん、見てない。おとうさんが野球見てたから」
「あっそうなの。こっちこそ、なんか熱くなってごめんなー」
「ううん……」
「…………」
「…………」
 僕が話の腰を折ってしまったせいで、お互い無言になってしまう。テツくんはなんだか困ったような顔をしていて、僕は目が離せない。なんだか急に周囲が騒がしくなったような気がしてきた。もとからゲームセンターなんてうるさいところなのに。
 一分ほどの沈黙のあと。あのさ、とテツくんが重たげに口を開いた。
「みっちゃん家って、その、大丈夫」
「えっ?」
「いや、変なこときいてごめんね? でも、たまにみっちゃんのおとうさんが大声で怒鳴ってるのが聞こえてきて、なんだかただごとじゃないっぽくてすごく怖いし、何かが割れる音とか、ちょっと心配だなーって」
「なんだそれ」テツくんがあまりに突拍子もないことを言うものだから、僕は思わず吹き出してしまった。「全然大丈夫だよ。あれはただ酔っ払ってるだけ。そっとしておけばそのうち大人しくなるやつだから」
「本当に大丈夫?」
「うん」
「おれがあげた時計、とられたりしてない?」
「大丈夫だよ。絶対安全なところに仕舞ってあるから」
「本当の本当の本当に?」
「だから大丈夫だってば」
 本当の本当の本当に大丈夫だったから、僕はテツくんの心配を笑い飛ばした。
 僕たちはうまくやっている。
 少なくとも、そのときの僕はそう信じていた。
 
 
 
 まだ買い物を続けるというテツくん一家とは別れ、姉と一緒に団地に帰った。
 父はまだ会社から戻ってきていなかった。めずらしくテレビが見放題だと気づいて飛び跳ねたくなる。でも、休日出勤の日はいつも飲んで帰ってくるのが父の習性だったから、早めに子ども部屋に避難して寝たふりをしないといけない。酔うと事前に分かっていれば、父への対応は簡単だ。
 夕飯は、姉と二人で準備した。普段はもっぱら洗い物や風呂掃除を担当している僕だけど、最近はそれ以外の家事もやることが多い。
 布団に潜り込むまえに、僕は姉に頼んで腕時計を取り出してもらった。テツくんのことを思い出して、もう一度手にとってみたくなったのだ。誕生日にもらったその腕時計は、オレンジ色のシリコンバンドがかっこよくて、文字盤上の液晶で日付まで分かる優れものだった。
「あ、やばい」
 その腕時計が壊れていた。
 針は止まっていないのに、時刻がめちゃくちゃずれている。
 子どもでも手の届く価格帯の、雑貨屋の回転スタンドで売られているようなタイプの腕時計だったから、寿命がそこまで長くないのは知っていた。だけど、よりによってテツくんと話した日に壊れていることに気づくとは。
 もしかして、姉の背中の穴の中には強力な電磁波でも流れているのでは?
 腕時計が壊れたのはそのせいなのでは?
「ビデオカメラは問題なく使えたでしょ」そっけなく言い返してから、姉は何か思い出したように顔を上げた。「あ、でも、日付がおかしかったような……」
 改めて腕時計をよく観察すると、こちらも日付が大幅に遅れていた。
 遅れていたというか、背中の穴に仕舞ったときの日付のまま変わっていなかったのだ。
「前におにぎりの実験したとき、何日経っても腐らなかったよね」
「そうだったけど、関係あるの?」
 ラップに包んだおにぎりを背中の穴に仕舞って、毎日取り出して確認したけど、何日経っても一向にカビが生える様子はなかった。あのときは、きっと雑菌が入らないから腐らないのだろうと判断し、二週間で実験をとりやめた。おにぎりは二人で食べたけど、あとから特にお腹が痛くなることもなかった。
「ちょっと試してみたいことがある」
 そう言って姉は子ども部屋を離れ、すこししてから壁掛け時計を持って戻ってきた。居間にあったやつだ。持ってきた壁掛け時計を、もともと子ども部屋にあった目覚まし時計と並べる。どちらの時計もちゃんと秒針が動いていて、残りの針も同じ時刻を指している。
「どちらも八時二十分。ここで壁掛け時計のほうを穴に仕舞ってから、しばらくのあいだ待ってみます」
 料理番組のような口調で宣言する姉。宣言通りに壁掛け時計を手にして、するっと背中の穴に入れた。
「……五分経過。八時二十五分。壁掛け時計を取り出してみます」
 残された目覚まし時計で時刻を確認してから、姉は壁掛け時計を背中から取り出した。
 すると壁掛け時計は――依然として八時二十分を指しつづけていた。秒針は変わらず、何事もなかったかのように動いている。
「いや、たぶん、取り出すまでは秒針も止まっていたんだよ」そう姉は補足する。「つまり、背中の穴の中では時間が止まっているというか、何も変化しないんだ。だからみっちゃんの腕時計も、ビデオカメラも、日付や時刻がずれていた。おにぎりが腐らなかったのも時間が止まっていたからだったんだ」
 腕時計が壊れていないと分かって、僕はほっと息をつく。その一方で、新たな発見には興奮を隠せなかった。穴の中では何も変化しない。時間が止まっている。なんと不思議なことだろう。
 しかし穴の外のこちら側では、時間は進み、状況も変化していた。
 玄関のほうから、物音と唸り声。
 父が帰ってきたのだ。
 
 
 
 壁を突き抜けて聞こえる唸り声が父のものだと分かった瞬間、さあっ、と背中から血の気が引いていくのを感じた。姉が背中に手を突っ込むときも何か触り心地のようなものはあるのだろうか。そんなどうでもいい考えが一瞬よぎる。マンガをすべて捨てられた日と同じ、あの黒いもやもやがまた額の上に浮かびはじめた。でもそれはただのイメージで、本当は頭がずきずき痛いのだ。
 玄関の鉄の扉が乱暴に叩かれる。チャイムの鋭い音の後ろで、何かわめいているのが聞こえる。ノックも、チャイムも、わめき声も、いつまで経っても一向に止まない。今更寝たふりをしても遅い。
「おねえちゃん」
 聞き耳を立てる姉に、僕は後ろからぴったりとしがみついた。
 ああ、怒鳴られる。
 それにきっとぶたれる。
 かなり酔っているようだから、今夜はひどい夜になる。
「おとうさん、鍵をどこかでなくしてきたみたい」姉は僕よりかはいくらか冷静な口ぶりで、いつのまにか合鍵を取り出していた。「みっちゃんはここで待ってて。電気を消して、布団にくるまって耳をふさぐ。わかった?」
 絡みついた僕の両手を解きほぐし、姉は子ども部屋を出た。
 心細くなった僕はつい、姉の言いつけを守らずに、ドアをすこし開けて廊下の様子をうかがってしまう。玄関の電球はちかちかと点滅していた。
「駄目だろぉ、こんな遅くまで起きてちゃ」
 舌が回っていない父の声。外から明かりを見られていたのか。
「……ごめんなさい」
「こっちがただいまつってんだからまずはおかえりでしょうが!」謝る姉に、父は理不尽に畳みかける。「挨拶くらいしっかりしなさい常識でしょうこんなの困るなあ」
「あ、おっ、おかえりなさい」
「道哉!」
 急に名前を呼ばれて、背筋が震えた。
「みっちゃんはもう寝てるよ」
「起きてるんだろこっちへ来なさい!」
「おとうさんやめて。近所に迷惑だから」
「もういいよおねえちゃん」
 このままだと姉が危ない。そう思った僕は、覚悟を決めて廊下に出た。玄関へと一歩一歩近づくうちに、黒いもやもやのイメージが大きくなっていく。目の前に着くまで父は無言で、それが異様に怖かった。
「おとうさん……、おかえりなさい」
「道哉お前、俺のこと何か言っただろ」
 父は紙切れのようなものを掲げる。その手が細かく震えているのでまともに読めないが、子どもの字で文章が書かれているようだ。
大野おおの道哉くんのおとうさんへ、だとよ! ひとが必死に働いているあいだに何やってたんだお前。こんなの郵便受けに入れさせて、友達に嘘ついて楽しいか?」
 何か言おうと口を開いたとたんに首がよじれて、僕は真横の靴箱に突っ込んだ。
 思い切り頰を張られたのだ。
「自分が何をしたか分かってんのか? あぁ?」
「ご……、ごめんなさ」
 僕には何も分からなかった。
 何も分からないまま謝って、起き上がろうとしたら今度は正面から腹を蹴られた。手加減は一切なかったようで、廊下のほうまで突き飛ばされる。なんだか意識がぼんやりしてきた。全身が熱い。頭の後ろに手をやるとなぜかしっとりと濡れていた。
「みっちゃん!」
 姉が駆け寄ってきた。でも、視界がぼやけてよく見えない。左手に何か光るものを握っているようだった。さっきまでは持ってなかったと思うが、背中の穴から取り出したのだろうか。
「あとはわたしがなんとかするから、みっちゃんはここに隠れてて」
 後ろを向いて、空いているほうの手で僕の腕を引っ張る。背中の穴へ匿おうとしているのだと遅れて理解した。四つ年上の姉と比べると僕の身体は小さくて軽く、いとも容易く僕は引きずられていった。
 そして、僕は生まれて初めて、姉の魔法をその身に受けた。
 姉の手が、そして僕の手が、穴の奥へ消えていく。姉の手に誘導されるようにして、腕が、肘が、肩が抵抗なく吸い込まれていく。感触と言えるものは何もなく、それがかえって奇妙な感じだった。
 反対の手で姉が握っているもの。
 それが金槌だと、自分の頭が仕舞われる直前に分かった。
 
 
 
 次の瞬間、薄暗がりでと目が合った。何だろうと思う間もなく視界は暗転し、身体がまたあっちこっちに引っ張られたように感じ、気づくと僕は子ども部屋で横たわっていた。変にごわごわすると思ったら、布団の上にビニールシートが敷いてあった。ほんのついさっきまで夜の八時過ぎだったはずなのに、窓からは太陽の光が差していた。
 穴の中では時間が止まっていて、何も変化しない。
 そんな姉の言葉を思い出していると、上から覗き込む顔があった。
「みっちゃん。もう大丈夫、全部終わったよ」
「……おねえちゃん」
 姉の顔は凍りついたように真っ青だった。それでも僕に笑いかけようとしていた。
 穴の外では十日も過ぎていて、父はリモコンのように消えていた。
 
 
 
2.
 
 朝からずっと晴れていて、お墓参りには絶好の日和だった。
 ひとりで来るのは初めてだったので、墓の前に着いてから作法も手順も知らないことに気づいて戸惑ってしまった。とりあえず線香に火をつけ、皿のようなものに横に置いて、手を合わせる。母に手を合わせているつもりだったけれど、いったいこの場で何を思えばいいのか見当がつかず、ただ無心でそよ風を感じた。
 父が「失踪」してから四年が経ち、僕は中学二年生になった。あのころの姉と同じ歳だ。
恐怖の大王とやらは結局現れないまま新しい世紀を迎え、肩すかしの空気とともにオカルトブームも下火になっていた。オカルト番組の数もずいぶんと減っているようだ。
 保護者のいなくなった僕と姉は、父の弟夫婦に引き取られた。叔父も叔母も優しくて、急に転がり込んできた僕たちにとても良くしてくれた。ただ、父のことは昔から疎ましく思っていたようで、子どもを置いて失踪するとはとんだろくでなしだとか、以前も借金を作って奥さん(僕たちの母親のことだ)にたいそう苦労をかけていたとか、ときおり陰口を漏らしていた。母の葬式以来ずっと疎遠だったのも、父の素行が悪かったからだったのだなと妙に納得した。
 叔父の家は同じ県内ではあったものの、住んでいた団地からはかなり遠く、また失踪事件の現場付近に住みつづけることによる僕たちの心身への悪影響も懸念されたため、僕も姉もすぐに転校することになった。あまりに突然だったから、クラスの友達と別れの挨拶もろくにできなかった。姉の背中の穴に匿われているあいだ、十日ほど小学校を無断で欠席しているはずだったけど、その辺りもうやむやになった。
 僕が穴の中にいたとき、外では何が起こっていたのか。
 父はどこへ消えたのか。
 父もまた僕と同じく、姉の背中の穴に仕舞われたのだ――そう僕は悟っていた。それが一番つじつまが合うし、姉にとって効率的だ。二度と父を取り出そうと思わなければ、誰にも見つからないところに永遠に仕舞いつづけることができるのだから。
 ただ、僕とは違って父は身体が大きく体重も重い。いきなり腕を掴まれれば抵抗もするだろう。だから、きっと姉は金槌で父を動けなくしたのだと思った。金槌一本だけでは心もとないだろうから、使ったのはそれだけではないはずだ。どうせ最後は穴に仕舞って証拠隠滅できるのだから、どれだけ道具を持ち出そうと問題ない。それに、背中の穴に入るサイズまで父を小分けする必要もある。姉が実際に行った作業を想像するだけで、僕はくたびれてしまいそうになった。
 穴の中で目が合ったのは、父だったのかもしれない。いや、何かと目が合ったということ自体、思い違いや幻覚のたぐいかもしれない。どちらだろうとどうでもよかった。さすがにこのころの僕は、父と呼ぶしかないあの男が人でなしだと分かっていた。
「全然ないなー、罪悪感」
 合わせた手を降ろして、僕は独り言ちる。よく考えたら母の前でとんでもない告白をしてしまったな、と今更になって思い至った。墓場にいるから悪い冗談みたいになってしまうが、おそらく僕も姉も、この秘密は墓まで持っていくことになるのだろう。姉の背中の穴のことも、そこに父親の死体が隠されていることも。
「……いや、違ったな」
 姉によって、秘密は部分的に明かされていた。
 罪悪感がないのはただの目撃者に過ぎない僕だけで――いや、僕は目撃すらできていない――実行犯の姉は父を手にかけたことを深く後悔している様子だった。その所為だろうか、姉は中学を卒業しても高校には進学せず、なんと自称超能力者として大学の研究施設に自らを売り込んだのだ。超心理学について日夜研究しているという、オカルトブームの残滓のようなところに。
「わたしの魔法も、きちんと研究してもらえば世の中の役に立てるんじゃないか、って」
 そのように僕に語った姉は、週に五日、往復に四時間もかけて県外の研究施設に通っている。ときには泊りがけのこともある。墓参りに一緒に来られなかったのも、大学との日程調整がうまくいかなかったからだ。
 叔父や叔母は、姉が大学で事務員として働いていると信じている。研究対象になるのと引き換えに得られる報酬も、そのほとんどが叔父のもとに納められていた。僕の学費もそこから出ていると思うと、姉に対して申し訳ない気持ちになるし、それこそ罪悪感めいたものが芽生えてくる。中学生になっても、僕は姉に守られてばかりだった。
 将来働き始めていっぱい稼ぐようになったら、何らかのかたちで姉に恩返しをしたい。そこまで待たなくとも、今度は僕が姉を助けられるようになりたい。いつしか僕はそう願うようになっていた。
 それにしても、二年近くも実験に協力しているというのに一向に姉のことが報道されないのはどうしてだろうか。背中の穴の解明が捗々しくないからか、それとも穴を占有したい研究者の打算なのか。僕の知るかぎり、姉の魔法は常識の範疇外で、超心理学とやらで何らかの解釈ができるとはとても思えないのだけど。
 そんなことを考えているうちに、太陽がだいぶ真上に近づいていた。時刻を確認すると、そろそろ出発したほうがいい頃合いだ。
 そう、この日はもうひとつ予定があった。
 
 
 
 四年ぶりに訪れたショッピングセンターは、外側は以前と同じでも中身がすっかり入れ替わっていた。てっきりノスタルジックな感慨を抱くとばかり思い込んでいた僕は、見覚えのない店舗の並ぶ構内を釈然としない顔で歩いた。この様子だと、待ち合わせ場所も、これから会う相手も、どれほど様変わりしていることだろうか。僕も昔の自分とはまるで違っているのだろうか。
「おっ。みっちゃん久しぶりー」
 はたして、ゲームセンターで僕を待っていたテツくんは全然変わっていなかった。もちろん身体は歳相応に大きくなっているし髪型も前とはすこし違うようだったけれど、とろんとした眠たげな目は昔のままだ。
「久しぶり。待たせてごめん」
「え? いーよいーよ。つか、こっちが呼んだんだし」
 テツくんとは、小学校を転校してからもよく手紙をやりとりしあっていた。だけど中学に入ってからは僕が遠慮するようになり、しだいに手紙が届く間隔は空き、やがて文通は途絶えることとなった。それが二週間前、久しぶりに会いたいとテツくんから手紙が届いたのだ。手紙にはテツくんの家の電話番号が書かれていて、そこから電話で互いのスケジュールをすり合わせ、こうして無事にゲームセンターでの再会に至ったわけだ。
 こちらが何を話したらいいものか迷っていると、テツくんは不意に僕の左腕をがしっと掴んだ。その視線の先にはオレンジ色の腕時計があった。団地を離れてからはずっと大事に保管していたけど、この日のために着けてきたのだ。
「これ、おれが誕生日にあげたやつじゃん!」
「あっうん、そうだね」
「安物だったのに、まだ壊れてなかったの?」
「せっかくのプレゼントだし、大事にしてたから」
「へー、みっちゃんって物持ちいいんだね」
 感心したように目を見開くテツくんは、それでもまだ眠たそうで、それが無性に可笑しくて。そんなテツくんの表情を見て僕は確信するのだった。
 ああ、やっぱり僕は彼のことが好きなんだな、と。
 テツくんを好きになった、きっかけらしいきっかけは特にないと思う。しいて言えば誕生日に腕時計をもらったことか。それともゲームセンターで家のことを心配してくれたことか。いずれにせよ、それが恋愛感情だと気づいたのは中学に上がってからで、とたんに僕は今まで通りに手紙が出せなくなった。
 テツくんから届いた手紙には、好きな女の子について書かれたものもあった。だからこの気持ちが報われるとは到底思えない。これもまた自分の墓まで持っていくべきものなのだろう――そう、このときの僕は安直に判断していた。
 とはいえ、テツくんが僕を呼んだのなら会いに行かない理由はない。もらった腕時計を身につけるなんてのも、なんというか、非常に僕らしいアピールだ。だけど、どうしてテツくんが会いたいと手紙を寄越したのか、僕にはまだ分からなかった。電話で聞いてもそれとなく言葉を濁されたのだ。
 彼のほうから切り出してくるのを待っていると、ようやく彼は本題に入った。
「あのさ、もしまだしちゃ駄目だったらあれなんだけど……、みっちゃんのおとうさんの話、してもいい?」
「え? 別にいいけど……」
「ありがとう。……みっちゃんのおとうさんって、酔っ払って帰ってきて、みっちゃんやおねえちゃんに暴力を振るって、それでみっちゃんたちがうずくまっているうちにどっかに行っちゃったんだよね」
「うん。そうだよ」
 姉とはそういうふうに口裏を合わせていた。
 僕がその作り話を披露したのは警察の人だけだったけど、団地にも噂が広まっているのは薄々感じていた。そのほうが都合が良かった。
「おれ……、みっちゃんのおとうさんがいなくなった日に、みっちゃん家に投書したかもしれないんだよな」
「トーショ? あ、投書か」
 ふと、あの日のことを思い出す。父が持っていた、子どもの字でなにやら書かれた紙切れ。あれはやっぱりテツくんが書いたものだったのか。
「そう。みっちゃんのおとうさん宛に、みっちゃんをいじめるのはやめてくださいって。たぶん書いた気がする。だけど本当に郵便受けに入れたのか、それとも直前になってやめたのか、正直ちゃんと思い出せなくて。でも最近になってやっぱり入れたような気がして。最近ニュース見るようになったんだけど虐待の話ってよく聞くし、それでみっちゃんが殴られたのはおれのせいなんじゃないかって不安になって、おれ、おれ、みっちゃんにひどいことしたんじゃないかって……」
「そうだったんだ」僕の口からは思った以上に乾いた声が出た。心のどこかで何かを期待していたのだな、と自分がすこし嫌になった。「でも僕はそんなの見てないし、テツくんの勘違いだと思うな。捨てちゃったんじゃない?」
 俯いているテツくんに、僕は嘘をつく。
 ここで投書は事実だと言っても何にもならない。たしかにテツくんはうちの郵便受けにメッセージを残し、それがきっかけとなって父は暴れ、事件は起こった。でも、テツくんには何の責任もない。
「そうなのかなあ……、おれ、こわくなって記憶をカイザンしちゃったのかもって、だから本当にみっちゃんには申し訳なくって……」
「あはは。気にしすぎだって」
 そうそう、この困っているような、弱っているような感じの表情が好きだったんだよな、と僕はしみじみ思う。この顔が見られただけでも、はるばる来た甲斐があるというものだ。
「文通も、途切れさせちゃってごめんなー。せっかくみっちゃんから誘ってくれたのに」
「……あれ? そうだったっけ」
 僕の記憶では、最初はテツくんから手紙をくれたはずだった。何も言わずに転校したというのにどうして新しい住所が分かったんだろう、先生にでも聞いたのかなと疑問に思ったからよく覚えている。
「そうだよー。あの夜から一週間後くらいに、みっちゃんが新しい家の住所を紙に書いて教えてくれたんじゃん」
「一週間後……?」
 何かがおかしい。
 そのころはまだ、僕はまだ背中の穴の中に仕舞われていたはずだ。
 
 
 
「おかえり、みっちゃん。ちゃんとお墓参りできた? ショッピングセンターって何か変わってた? 久々の友達と会えて楽しかった? どうだった?」
 先に姉のほうが研究施設から戻っていたようで、帰ってくるなり僕は質問責めにあった。それらを適当にいなしつつ、さりげなく自分の部屋に姉を連れて行く。こちらにも訊きたいことはたくさんあったけれど、いきなり本命の質問をするのもこわかった。
 姉が当然のように勉強机の前の回転椅子に座ったので、僕は地べたのクッションに腰を下ろした。目覚まし時計を見るとちょうど四時半だったけど、僕は昔ほどにはテレビに執着していなかったし、夕方四時台のアニメの再放送枠はずいぶん前に終了していた。
「僕のことよりも、おねえちゃんは最近どうなの」
「どうなの、って?」
「職場では何をやってるの?」
 叔父や叔母の前ではいつも研究施設のことは「職場」と言い換えていたので、二人きりのときでも同じ符丁を使うようになっていた。
「あーそれね。まあいろいろやってるよ。そうそう最近新しい人が入ってきて、若い女の人だったからすぐに仲良くなっちゃった。その人、ピアスがごつくてめっちゃかっこいいんだよ。ほら見て」
 姉は背中から二つ折りの携帯電話を取り出してこちらに見せてきた。携帯電話は職場との連絡用に持たされているらしい。小さい画面にはフルカラーで女性の顔が写っていたけど、ピアスの形まではよく見えない。むかしテツくんから聞いた、オカルト番組に出演している科学者のようなうさんくさい雰囲気は感じられなかった。
「ふうん……。いろいろって、具体的にはどんな実験をしてるの?」
「えー? たとえば、ものを出し入れしている途中で止めようとしたらどうなるのかとか、自分以外の人はどうしても出し入れできないのかとか、何回もものを出したり、入れたりしてみたらどうなるのかとか、穴に仕舞うまえと取り出したあとで本当に何も変化はないのかとか、お湯と氷を一緒に仕舞ったらどうなるのかとか、今までにないくらいの規模で大量のものを仕舞ったらどうなるのかとか、あとね」
「多い、多いよ。いろいろすぎるよ」
「あ、この前の実験で面白かったのが、目隠しして自分が何を持っているか知らない状態でものを仕舞って、あとからそれを取り出せるのかってやつ。さて、どうなったでしょう?」
 急にクイズ形式になったので、慌てて僕は考える。
 目当てのものを思い浮かべればすぐに取り出せると姉は言っていた。それは裏返しに、思い浮かべることができないものは取り出せないということにならないだろうか。
「えっと……、永久に取り出せなくなってしまった、とか?」
「ざんねーん。正解は『目隠ししても意味はなかった』でした」姉はくるりと椅子を一回転させた。実験のことを話すのがよっぽど楽しいのか、いつになくテンションが高い。「背中の穴の中に仕舞った瞬間に、わたしにはそれが何なのか分かったの。ものを取り出すときにイメージするのとは逆の手順で、ものを仕舞ったときにそのイメージが勝手に浮かんだ。だから目隠ししても意味はなかった」
 それは確かに驚きの結果だった。
 やはり魔法としか思えない。それかもしくは、マンガやアニメの世界にしか存在しない物理現象だ。
 だからこそ、僕はその魔法がどこまで解明されているのかが気になっていた。
「それで、研究成果は? 背中の穴については何か分かったの?」
「いや、それが全然」
 姉は肩をすくめて首を傾ける。やけにリアクションが過剰だ。
「あまりに何も分からなくて、何人かの先生は大学をやめちゃった。だから最近のアプローチは、何が起こっているかよりもどう社会に活用できるかって感じかな。ほら、前にも言ったでしょ。いつか、わたしの魔法が世の中の役に立てるんじゃないかって」
「どう社会に活用できるか」
 妙に引っかかるフレーズだった。
 引っかかるというか、癪に触るというか。
「活用って、たとえばどんなこと?」
「……えっ?」
「だっておねえちゃんの魔法って要は、無限に大きいけど入り口は小さい、目に見えない収納スペースじゃん。しかもおねえちゃんにしか使えないんでしょ。個人の生活の範囲内なら最高に有用だろうけど、それでどうやって世の中の役に立つの?」
「えっ、それは、ほら」姉は何かを言おうとして、口をぱくぱくと動かす。「ゴミとか有害物質とか、穴の中にずっと仕舞っちゃえば環境保護につながるじゃない。確かに一個あたりの大きさや重量に限度はあるけど」
「他には?」
「他には、その……、あっ、えっと」
 さきほどとは打って変わって言い淀む姉を目の前に、はっきりと分かった。
 やっぱり、姉は僕に何かを隠している。
 背中の穴に秘密を仕舞い込んでいる。
「……ごめん、おねえちゃん。言いすぎた」
「みっちゃん……」
「今日、テツくんに会う直前に自分が忘れ物をしたって気づいちゃって。それで機嫌が悪かったんだ。やつあたりしちゃってごめんなさい」
「ううん、気にしないで」
「ずっと前におねえちゃんに仕舞ってもらって、それっきりだったのを忘れてたんだ。今更だけど、取り出してもらってもいいかな?」
「もちろんいいよ。何を取り出してほしいの」
 僕は立ち上がり、椅子に座ったままの姉に耳打ちをする。
 姉は頷いて、背中の穴に腕を突き入れ――抜き取ったときには、そこには目当てのものが握られてた。
 オレンジ色をした、シリコンバンドの腕時計。
 それは僕がズボンのポケットに隠し持っている腕時計とだった。
「おねえちゃん……背中の穴って、本当はただの収納スペースじゃないよね?」
 
 
 
 それから姉は、四年前のあの夜に起こった本当のことを明かした。
 あの夜。
 僕が背中の穴に匿われたあと、姉は金槌を使って父を黙らせ、動けなくした。そのあとは別の道具を使って、身体を細かいサイズに分割して、小分けした状態で少しずつ穴の中に仕舞っていった。そこまでは僕の推測通りだ。
 二、三日後。父をすべて仕舞い終え、使った道具や血避けのシートなどの証拠品も全部穴の中に片付けたあと――姉はすぐに僕を穴から取り出した。
 そのとき姉はまだ知らなかった。
 自分の魔法は、ものを仕舞えば分解して読み取り、何度でも無から生成できるというものであることに。背中の穴は、見えない収納スペースなどではなく、見えない複製機であることに。
 それが判明したきっかけは、些細な事故だった。
 あの夜から十日後。父を隠滅する行為だけでなく、警察への対応や親戚とのやりとりでかなり消耗していた姉は、うっかり目の前にある私物と完全に同じものを背中から取り出してしまった。それを見た姉はひどく混乱し、今まで背中に仕舞ってきたものを手当たりしだいに取り出そうとして、ついにもうひとりの僕を――たった一瞬だが――取り出してしまう。
 薄暗い部屋の中で。
 先に取り出されていたほうの僕の目の前で。
 その僕は、もうひとりの僕と一瞬目が合ってパニックに陥り、その場から逃げ出した。玄関を飛び出し、階段を駆け下りようとして足を滑らせた。そのまま階段を勢いよく転げ落ちた僕は、打ち所が悪かったのか、父と同じく動かなくなってしまい――
 姉は動かなくなった僕を背中の穴に仕舞った。
 そしてふたたび、もうひとりの僕を取り出した。つまり再生成した。
 そう。
 僕は、の僕だった。
 姉の抱く罪悪感は、父ではなく僕に向けられていたのだ。
 
 
 
3.
 
「ハンマースペースというのはもちろんきみも知っていると思うけど、アニメやマンガで見られる『どこからともなく出てくるオブジェクト』を説明するための超次元的な空間のことを指す。専門用語というにはちょっと軽い、ジョークめいた言葉だね。ここ最近のアニメはともかく、ちょっと昔の日本のアニメやカートゥーンアニメでよく登場するのがこのハンマースペースだけど、女性キャラクターがハンマーを使って男性キャラクターをぶん殴るという表象としてのハンマースペースというのもあって、この言葉のそもそもの由来としてはある日本のアニメの海外ファンコミュニティが発祥らしいんだ。まあ諸説あるんだけどね。そのアニメの中でよくヒロインの女の子が、何もないところから巨大な木槌つまりハンマーを主人公に向かって振り下ろしていたから『ハンマースペース』ってわけ。その日本のアニメが何かっていうと――そう! 今、きみが好きだって言ったやつのことなんだよ! そしてぼくもそのアニメが大好きなんだ!」
「へ、へえ、だから詳しいんですね……」
 あまりの勢いに、僕はそう返すことしかできなかった。時と場合によっては興味深いと言えなくもない話だったが、初対面でしていい話題と内容量ではない。
 相手はおぐらもちさんという名前の男性で、当たり前だけど偽名というかハンドルネームだ。彼こそが、僕に「ハンマースペース」なる言葉を教えてくれた人だった。僕より一回りは年上に見えるけど、サイトの登録情報では一応三つ上ということになっていた。
 大学入学を機に上京して早一年。最近流行っているというSNSに思いつきで登録して、実際に出会って食事するところまでは良かった。年齢はともかく、顔写真は詐欺画像ではなかったようだし。だけどまさか、彼がアニメが好きだと言うからちょっと子どものころの思い出話をしただけなのに、これほどまでに食いつかれるとは。
 おぐらさんの解説はまだまだ止まらない。
「ところがこのアニメ、第一期の第一話からOVAまであるいは原作となったマンガ全話を確認してみると、実はヒロインがハンマーを取り出すシーンは意外と少ないんだ。むしろヒロイン以外の登場人物のほうがよっぽど亜空間からハンマー以外のものをほいほい出している。それなのにハンマーを使うヒロインのイメージだけが独り歩きして、のちに対戦格闘ゲーム化したときにはハンマー技が用意されるほど、いや対戦格闘ゲームでそんな技が搭載されたからこそよりイメージが強化されたと言えるかもしれないけど、こういったファンによって作られた非公式設定すなわちファノンの一種が作品側に影響して――」
「はあ……」
 一生懸命語ってくれているところ悪いけれど、すべて右から左に抜けていく。
 顔はまあまあ好みだったんだけどな、とすでに撤収モードに入りつつある僕は、携帯電話をちらりと覗いて時計を確認してしまう。さすがにオレンジ色の腕時計は、数年前に壊れて動かなくなってしまっていた。姉ならば、そっくり同じものを背中の穴からいくつでも取り出せるのだろうけど、その完璧な複製品にどれほどの意味があるのかは分からない。それと同様に、完璧な複製品である自分という存在にどれほどの意味があるのか、僕にはまったく分からなくなっていた。
 だから高校受験も大学受験も周囲に流されるがままだったし、その大学もろくに出席していないし、こんなふうに知らない男と軽々しく食事したりもする。無気力というか、無抵抗というか。父がああだったので、アルコールだけは一滴も入れないよう心がけているけれど。
 姉とはもう、七年以上会っていない。
 僕が上京するよりも早く、姉のほうが叔父の家を去っていった。背中の穴の真相と僕の正体を白状したすぐ後のことだったような気もする。それから連絡もとっていないし、向こうからも何も来ていない。
 ――ごめんね、でもみっちゃんはみっちゃんだから、わたしの弟だから。
 姉からは、そう言われたきりだ。
「それできみはどう思う? ねえねえ!」
 おぐらさんに肩を叩かれ、僕は我に返った。
「……え? すいません、何の話でしたっけ」
「いやいや、ハンマースペースからものを取り出すシーンは山ほどあるというのに、どうしてハンマースペースにものを収納するシーンはほとんど見当たらないんだろうねって話だよ!」
 限りなくどうでもいい話だった。
 でも、もしもアニメにおけるハンマースペースというものが姉の背中の穴と同じものだというのなら、理由は簡単だ。
 一度仕舞ったものなら、いくらでも生成して取り出せるからだ。
「それじゃあ、そろそろ時間なので帰りますね。今日はありがとうございました、ごちそうさまですー」
「あれ? まだ終電までけっこう余裕あるよ?」
「下宿が遠いので」
 おぐらさんを置いていき、さっさと僕は帰路につく。当然、下宿が遠いというのは方便だ。
 SNSもブロックしておこうと思って電車の中で携帯電話をスライドすると、ふと、待ち受け画面上のニュースの見出しが目に入った。なんでも、有害物質を含むあらゆるゴミを分解する技術が開発されたという。どうにも信憑性が疑わしいニュースだ。速報なのか知らないが、文章が短くてほとんど詳細は分からなかった。
 ただ、なんとなく姉のことが思い出された。
 
 
 
 その翌日、僕は大学のコンピュータルームでプログラミングの課題をこなしていた。そろそろいい加減に単位取得数が危うい。このままではまた留年してしまい、叔父や叔母に面目が立たない。
 そういえば、現在も姉は叔父たちのもとへ仕送りしているのだろうか。もしかして自分の学費は、いまだに姉によって賄われているのだろうか。急にそんなことが気になりだし、課題に集中できなくなる。気分転換にもなるし昼食を摂ろうと思った。工学部の棟からは遠いが一番安い学食へと僕は向かう。
「お向かい、座ってもよろしいでしょうか」
 目の前のうどんに箸を突っ込んだところで、こちらへ話しかけてくる声がした。顔を上げると知らない女性が立っている。どことなく顔立ちに見覚えがあるような気もするが、同じ学部生だろうか。院生かもしれない。釘のようなかたちをしたピアスが右耳の上側と横の辺りの軟膏を二重に貫いており、そんな奇抜なファッションの人に心当たりはまったくなかった。
「大野道哉さんですよね?」
「はい、そうですけど……」
「実は私、こういう者でして」
「はあ」
 渡された名刺にはどこかの企業の研究所と思われる所属と、副田ふくだあかねという名前が書かれていた。名前よりも右耳の釘ピアスのほうが強烈な印象だったので、僕は勝手に心の中でその女性をミミクギさんと呼ぶことにした。
「大野あいさんとは、かつて一緒に仕事をしていました」
 ミミクギさんが姉の名前を口にした瞬間、記憶がはっきりと蘇る。いつだったか、姉が見せてくれた携帯電話の画像。「すぐに仲良くなっちゃった」という、研究施設に最近入ってきた新人。ピアスがごつくてかっこいい、若い女の人。
「おね……姉の同僚のかたでしたか」
 同僚というのはおかしいか、と僕は思い直す。
 彼女は研究者で、姉は研究材料だったのだから。
「いえ、ですから今は違うんです」ミミクギさんは辺りを見回し、すこし声のボリュームを落とす。「薆さんの背中のことはご存知ですよね?」
「ええはい、まあ、実の弟ですから」
「その背中を巡って、数年前に派閥争いがありまして。私はあえなく追い出された側というわけです」
「派閥争い……ちょっと僕の人生にはない言葉ですね。それで、どうして僕のところに来たんですか? 姉に取り次いでほしいと頼まれても無理ですよ。もう何年も連絡をとっていないんです」
「どうか、薆さんを助けてあげてください」
 ミミクギさんは力強く言った。
「あなたのお姉さんは、人間でないモノにされようとしています」
 それからミミクギさんの語る実験内容は、姉から聞いていたものとは大きく異なっていた。背中の穴が実は複製機であるということを姉が伏せていたからというのもあるが、それを差し引いても、おぞましさが段違いなのだ。
 ことの発端は、ひとつの素朴な疑問だったという。
『大野薆が背中の穴に入れたものをなんでも生成できるというのなら、穴に入れた大野薆の腕そのものもまた、同じように生成できるのだろうか?』
 検証したところ仮説は正しく、姉は自らの腕の複製を穴から引き抜いてきた。
 こうして姉自身の複製が始まった。姉は、姉自身を背中の穴から取り出すよう強いられたのだ。身体の一部を切り取り穴に投入、再生成してまた繋ぎ合わせる。その繰り返しで、どんどん姉の身体は拡張される。
 あまりに重すぎる物体も、大量の姉の腕を用いたロボットアームを用いれば持ち上げることができた。あまりに大きすぎる物体も、巨大な背中のブロックを適宜継ぎ合わせることで対応するサイズの穴が生まれ、その中に投入することができた。そしてついに姉の頭部全体の投入・再生成に成功したとき、姉の全身が複製可能となった。それは何人も姉を殖やせるということだ。どんな規模でも自由自在。姉同士で接続することだってできる。姉の意識さえあれば、人のかたちをしていなくたっていい。
「もうすぐ、薆さんの腕・背中・脳を主材料とした、万能複製機の生産が始まろうとしています」ミミクギさんは、もはや周囲を気にしようともせずに声を張り上げる。「先日のニュースを見ましたか? ゴミをなんでも分解する新技術。あれは複製機というか、単に投入したゴミを二度と取り出さないだけの話です。あんなものは序の口です。いつか万能複製機が世界中に普及すれば、環境問題も資源問題も食糧問題もすべて解決するでしょう――あなたのお姉さんひとりを犠牲にすることで!」
 
 
 
 ミミクギさんに追い立てられるようにして、その日のうちに僕は帰省した。もしかしたら叔父の家に、姉を救うために必要なものがあるかもしれないからだ。前もって連絡しなかったせいか叔父も叔母も不在で、合鍵を使って僕は勝手に家に這入った。
「私には、複製機の大量生産がはじまる前にマスコミに情報をリークするくらいしか薆さんを救う方法が思いつきません。どんなに素晴らしい発明でも、その目覚ましい効果の裏側に確実に犠牲となる人間がいると人々に伝われば、まだどうにかなるかもしれません。でも私の手元にはもう研究データも何も残っていなくて、その方法さえも実行できません。だから道哉さんが最後の頼りなんです」
 そんなミミクギさんの訴えを聞いて僕が思いついたのは、父のビデオカメラだった。
 子どものころの僕たちは、ビデオカメラを使って実験記録を撮影していた。もしもそのときのカセットがまだ残っていたら、何らかの証拠になるだろう。人々に、複製機の中には魔法を使う人間が押し込められていることを知らしめられるかもしれない。
 この家にカセットがあるとしたら、それは僕の部屋か姉の部屋の中だ。
 まず僕は自分の部屋を捜索しはじめた。部屋は綺麗に片付けられているし、叔父たちに隠したいものはだいたい置き場所が決まっていたからだ。しかしどこを探しても、ビデオカメラもカセットも見つからなかった。
 次に、今は物置と化している姉の部屋に這入る。こちらは手当たりしだいにひっくり返してみるしかない。なんだか、子どものころテレビのリモコンを必死になって探していたことを思い出した。
 そのとき、携帯電話が震えた。
 ミミクギさんからだろうか。学食で連絡先を交換していたし、何かあったら連絡すると聞いている。そう思って確認すると、SNSの通知メールが届いていた。相手はあのおぐらもちさんだ。うっかりブロックし忘れていたようだ。
『新着:元気ですか?^^』
「あいつ空気読めよ!」
 思わず僕は舌打ちしてしまった。
 それからはひたすら無心になって部屋を漁る。こうしていると、自分の存在にはじめて意味があるような気がした。自分が複製された存在だと知ったことで失われた何かを、いままさに取り戻しているように感じた。
 そうだ、姉は僕を複製したくて背中の穴に仕舞ったわけじゃない。
 姉はただ、僕を守ろうとしたのだ。
 だから今度は、僕が姉を守らなくてはならない。
「あった!」
 ついに発見したのは、8ミリビデオカメラ本体とカセットひとつだった。姉がひとつだけ回収し忘れたのか、それともわざと残していったのか。僕は藁にもすがる気持ちでビデオカメラにカセットを差し込んだ。どうやらビデオカメラの充電が切れているらしいと分かり、すぐに電源アダプタをコンセントにつなげた。
 再生できるようになるまで。すこし時間がかかる。
 僕は携帯電話をスライドした。ミミクギさんから連絡があるかもしれないし、充電が終わるのを待っているあいだに、SNSでおぐらさんをブロックしようと思ったのだ。
 ブロックする前に一応読むだけ読んでおこうと、おぐらさんからのメッセージを開く。
 
『元気ですか?^^
 今、すごいニュースが街頭テレビで流れていますよ。全国中継かな?
 きみにちょっと似ている女の人が、世界を大きく変える発明を成し遂げたそうです。
 発明というか、超能力?
 まるでマンガみたい^^』
 
「………………えっ?」
 意味不明だ。姉がテレビに出ているだって?
 いや、ちょっと似ていると書かれているからって、それが姉のこととは限らない。おぐらさんが僕の気を惹きたくて適当に言っているだけかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、ビデオカメラを姉の部屋に残して、僕はテレビのあるリビングへと移動した。
 テレビをつけてザッピングすると、よく知っている顔が映った。
「――なのです、そのためわたしはこの力をあらゆる人のために――」
 まぎれもない僕の姉が、自分の魔法についてつまびらかに説明していた。
 自分の背中には、目に見えない穴が空いていること。その穴には自分の意思で自由にものを入れることができること。一度入れたものは分解して読み取り、それから何度でも生成して取り出せること。そして、これからは自分の魔法を世界中の人々を救うために使いたいと考えていること。
 何者かに脅されているふうでもなく、堂々と姉は自分の言葉で語っていた。同時通訳されているところをみると、生中継が放送されているのは日本だけではないようだ。
 自分がいったい何を見ているのか、何を見させられているのか、まるで分からなかった。
「おねえちゃん……?」
「みっちゃん、どうしたの」
 声がしたので振り返ると、そこにも姉が立っていた。
「どうして、僕がここにいるって」
「ようやく準備が整ったから、ただ総当たりしただけだよ」よく見ると姉の身体には縫い目の痕のようなものが走っていた。「いま、わたしはどこにでもいるよ」
 
 
 
 ミミクギさんが僕に暴露した研究施設の内情は九割がた正しかった。けれど、ミミクギさんはひとつ肝心なところを誤解していた。それは彼女の持つ優しさ、彼女が姉を思う気持ちゆえの勘違いだったのかもしれない。何にせよ、彼女の行動はすべて空回りだった。
 なぜなら、姉自身の複製を願っていたのは、姉由来の複製機を大量生産しようとしていたのは、他ならぬ姉本人だったから。ミミクギさんが語っていた数々のおぞましい実験は、どれも姉が目的達成のために本気で実行していたことだったのだ。
「おかあさんの話、してもいい?」
 テレビを消して目の前の姉に、僕は頷くことしかできない。
「むかし、おかあさんはわたしに、自分は魔法が使えるって言ってた。魔法でわたしたちのことを守っているって教えてくれた。いつかわたしも魔法が使えるようになる、そのときはみっちゃんを守ってあげてね、おねえちゃんなんだから、ってわたしにまじないをかけた」
 その話は、呪文のように何度も繰り返し聞かされている。
 まじないをかけられているのは、僕も同じだ。
「おかあさんはどうやって魔法でわたしたちのことを守ってたんだろう、ってずっと不思議に思ってた。だってわたしがみっちゃんを守ろうとしたら、最終的にみっちゃんを傷つけることになっちゃったから。それは自分の魔法をちゃんと知らなかったせいでもあるけど、本当の力を知ったら今度はもっと分からなくなっちゃった。でも、おかあさんのビデオを見たら分かったんだ」
 ビデオというのは、姉の部屋に残されていたもののことだろう。
 あのカセットの中には、僕たちの実験記録ではなく母が映っていたのか。
「おかあさん、ビデオの中でいくつも宝石を身につけて笑ってた。同じ色で、同じかたちで、同じ輝きのものばかり。そうやって宝石を増やしておとうさんの借金も返したんだな、家族を守ってたんだなってすぐに分かっちゃった」
 叔父たちが言っていた。
 かつて父は借金を抱えていたことがあり、僕たちの母に苦労をかけていたと。
「でもさ、それって本当は良くないことだと思うんだよね。だってそれ、いわゆる私利私欲ってやつじゃない? だからおかあさんの言うことは間違っていたんだよ。わたしはわたしの魔法を、自分やみっちゃんだけを守るために使うべきじゃなかった。おかあさんに言われるがまま、私利私欲で魔法を使うべきじゃなかった。だからみっちゃんを傷つけた。傷ついたみっちゃんを見てわたしも傷ついた。もう二度と、自分以外の人を穴に入れたりなんかするものか」
 あんなことしたから罰が当たったんだ。
 そう、姉は吐き捨てるように言った。
「こんなめちゃくちゃすぎる魔法、ひとりふたりじゃなくて、もっともっとたくさんの人を守るために使わないといけなかったんだよ。そのためにはもっと重いものを持てるようにならないといけなかったし、もっと大きなものが穴に入らないといけなかった。何より、たくさんの人に差し伸べるための腕が、背中が、頭が必要だった」
「……そんな、でも」ようやく僕は口がきけるようになる。「そうやって大量の複製機になって人々のために役立つのがおねえちゃんの望みだとしても、それを嫌がる人はいるよ。僕とか、副田さんとか」
「どうして?」
「だって、それじゃあ、おねえちゃんだけを犠牲にしてみんなが幸せになるってことじゃん。そんなの駄目だよ。おねえちゃんだって守られるべき人々のひとりだよ」
「なんだ、そんなこと」
 姉は僕を鼻で笑う。
「今はみっちゃんに会うために一時的にたくさんいるけれど、人のかたちをしたわたしは、これからたったひとりになる。そのわたしが大野薆であり、みっちゃんのおねえちゃんということになる。そうすればわたしだってちゃんと守られる人々の仲間入りだよ。それがわたしの総意だよ」
 人型の姉ひとりが大野薆という人間だと見做される代わりに、他の姉たちはみな複製機となる。
 要するに、姉はそういうことを言っているのだった。
「なんだよ、だったら僕はどうなるんだよ」
 姉によって生成された複製であるこの僕は。
 最初の僕が死んだことを知っている、のこの僕は。
 人型の姉と同類なのか?
 それとも、複製機の姉たちと同類なのか?
「みっちゃんはみっちゃんだよ。わたしの大切な弟に変わりはないよ」
「だったら複製されたおねえちゃんはみんな人間だってことにしてよ。じゃないと僕は自分が人間だって信じられなくなる」
「しょうがないよ。わたしは魔法が使えるから、みんなのために魔法を使わないといけないからこうするしかないんだよ。みっちゃん、どうか生まれに縛られないで」
「おねえちゃんこそ役割に縛られてるよ。めちゃくちゃすぎる魔法が使えるからって、絶対に使わないといけないの? 忘れたことにするのもありなんじゃないの? 人のかたちをしてないなんて、そんなの僕のおねえちゃんじゃないよ」
 そこで、僕も姉という役割で相手を縛ろうとしているのではという疑念が生まれた。
 だからそれ以上何も言えなくなった。
 
 
 
4.
 
 母が亡くなってから、三十年が経った。
 姉の魔法が発現してから、二十五年が経った。
 つまり、姉の魔法が世界中に広がりはじめてから十五年が経った――その結果、世界は大きく変わった、と思う。おおむね良い方向に進んだ、と言っても過言ではないだろう。だけど姉の望んだとおり世界中の人々がすべて救われたかというと、そこまでは到達していないし、今後も到達する見込みは薄い。まず、僕が救われていない。毎日働いて、生活していくので精一杯だ。
 スマートフォンのアラームで目を覚ました僕は、顔を洗いに洗面台に立つ。蛇口をひねるとアイによって冷たい水がボウルに溜まっていく。いまや上水道も下水道も、どちらもアイにとって代わられた。日本はもとから水道設備がしっかりしていたからそこまでではないけれど、全世界的に治水がなされたという意味ではかなりの快挙だ。
 歯を磨こうと思ったらチューブが空になっていた。同居人が使い切ったまま放置していったのだ。毎度のことなので文句を言う気にもなれず、ゴミ箱に空のチューブを投げ入れ、生活必需品ボックスから品番を指定して新品を取り出す。もちろん、どちらの箱にもアイが入っている。
 食料庫にもアイはいるし、衣装棚にもアイはいる。空調設備にもアイはいるし、このシェアルーム自体、アイが搭載された重機によって生成されたものだ。
 僕の意識としてはどのアイも姉なのだけど、そのまま姉だと認識してしまえば生活に支障が出てしまう、端的に言えば気が狂いそうになるので、いちいち頭の中で「アイ」という通称に置き換えているのだった。
 シェアルームの住人は僕の他に五人いて、おぐらもちさんとゆかいな同人サークル仲間たちだ。彼らはみな在宅で働いている、というか創作活動に励んでいるので、僕ひとりだけが職場へ出かけることになる。衣食住の選択肢が限られても良いのなら、一切働かなくても生きていくことはできる。「いってきます」と声をかけると、起きている人の数だけ「いってら」と返ってきた。「あっ道哉くん、今夜空けといて」とついでのようにおぐらさんが言ったのがすこし気になる。いつものことだけど、そういうのはもっと早く言ってほしい。
 大野薆という一個人が歯車になることでようやく成立しているシステムなのにもかかわらず、ここまで抵抗なくアイが世間一般に受け入れられることとなったのは、ひとつには災害時の活躍があるだろう。二十五年間のあいだに世界中で様々な自然災害が生じ、あるいは人災が起こり、新たな伝染病が蔓延した。そのたびにアイによるライフライン供給システムは評価され、建造重機による避難所生成は喜ばれ、ワクチンの大量生産化はありがたがられた。そう、人々はアイなしでは生きられなくなった。ほとんどあらゆるものを複製できるようになった世界で社会や経済や産業のありかたは大きく変わったが、会社が潰れることは多々あっても、路頭に迷う人はひとりもいなかった。
 道路上にも、公共交通機関にも、そこかしこにアイはいるけれど、さすがにそこまでは意識しちゃいられない。一時間ほどかけて僕は職場に到着した。
 僕が働いている職場には、複製機としてのアイの生成記録や生成物の画像、アイが「何をイメージしたか」を示す神経活動パターンなどのデータが全国からリアルタイムで集約されている。今は電子マネーに置き換わりほとんど使われることのなくなった硬貨や紙幣、銃器に爆発物、麻薬など、法的に規制されている物品がどこかで勝手に複製されていないか、二十四時間体制で監視するのが主な仕事だ。もちろん、アイからのデータ受信だけではなく、こちらからアイへ各種データを送信することもできる。かくして違法複製を行った者はすみやかに通報され、現地で取り調べを受けることとなる。
 神経活動パターンの解析技術や画像認識技術も大いに活用されているとはいえ、基本的には監視員が目視で確認するのがメインとなる。じっと画面を注視しつづけるだけの単調作業は相当大変だろうな、と勝手に僕は想像する。僕は監視員ではなく、数少ないエンジニアとしてここで働いているのだ。
 複製機に搭載されている各種センサーやアイ本人による通報でも、ある程度の違法複製は防いでいるが、やはりアイがほとんどなんでも複製できてしまう以上、このような監視体制が必要となるわけだ。
 ちなみに、法規制はさておき、原理的にアイが複製不可能なのはおおむね次の三つ。
 土地。
 体験。
 人体。
 だから地価は上昇する一方だし、サービス業はなくならない。
 人体が複製不可能なのは人道的配慮によるものだけではなく僕の所為もあるのだが、その背景は一般には明らかにされていない。
 この日、ついに最良の解析結果を受け取った僕は、思わず快哉を叫びそうになった。
 今日という日をずっと待ち望んでいた。
 やっと十五年間の努力が報われるのだ。
 
 
 
 レストランという空間も、料理そのものよりも「特別な食事」という体験を提供する意味合いが強くなっている。だからおぐらさんが高級レストランに連れてきたときには、いくら僕でも「これは何かあるな」と感づいたし、食後のデザートのあとで、
「道哉くん。ぼくのかけがえのない存在になってください」
 とプロポーズされるのも、まあ予想はできていた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 姉の魔法が世界中に広がりはじめてから十五年が経ったということは、おぐらさんと知り合ってからも十五年経ったということだ。初めて会ったときはあまり良い印象ではなかったし、まさかここまで長い付き合いになるとは思いもしなかった。それほどにおぐらさんの押しが強かったということでもある。
「かけがえのない存在、か」
 おぐらさんが手作りした、すくなくとも現時点でこの世にたったひとつしかないリングを手のひらで転がしながら、僕はそう呟いた。
「どうしたの?」
「あ、いや、最近流行ってるよね、その言葉」
 僕は言葉を濁した。
 なんでも複製できる社会において、価値のあるものはなんだろうか。ひとつ挙げるとしたら、それは家族を作ることだ。アイは人体は複製できないから、人はかけがえのない存在。そのような考えが世の中に広まっている。プロポーズの決まり文句になっているくらいだ。僕たちのようにそう簡単に子どもを設けることができない身からすると、おぐらさんたちの創作活動もなかなか立派なものだと思うけれど。これまで誰も見たことのないものを作ることだって、アイには真似できないし、じゅうぶんに尊い行動だ。
 ただ、人間の尊さについて考えようとすると。どうしても僕は死にたくなってしまう。いや、死にたくはない。過去のトラウマ――自分と目が合ったあの日のことを思い出すから、絶対に僕は死にたくない。自分の死体をこの世に残すくらいなら、僕はもとから存在しなかったことになりたい。
 この僕は、人型の姉と同類なのか?
 それとも、複製機の姉たちと同類なのか?
 十五年経った今でも答えは出ていない。おぐらさんにもこのことは話していない。
「いつか、二人だけの部屋を借りたいよね」
 そう、おぐらさんは未来に思いを馳せる。出会ったころに比べてだいぶ喋りが落ち着いたなと感じる。僕がおぐらさんに話しかけるときの口調もだいぶフランクになったものだと思う。これがお互いに年をとったということか、と言うには僕らはまだ若いはずだ。たぶん。
「サークルのみんなとは離れてもいいの?」
「寂しいけど、やっぱり今の部屋は六人で住むにはちょっと手狭だし」
「でも、今より狭い部屋にするとしても、二人で住むとなるとどうしても家賃がかかるよね」
 仮に二人で今の半分の広さに住んだ場合の月々の費用をシミュレーションしてみる。その一方で、土地の問題があるということは領土問題もあるということだから、戦争はなくならないんだろうなあと頭の片隅でぼんやり思う。誰もがハンマースペースを持っているような便利な世の中だけど、現実世界のスペースは手に入りにくくなっている。
「まあ、また今度ちゃんと考えようか。そろそろ出ないと延長料金取られるし」
「そうだね。また今度」
 その今度が来ることはない、と僕は確信している。
 おぐらさんのプロポーズはとても嬉しかったけれど、それでも僕はやっぱりこの世界には耐えられない。これ以上自分が本物の人間かどうかで悩むくらいなら、いっそのことハンマースペースの中にずっと閉じこもっていたい。
 僕はもはや、永遠にアイの中に仕舞われたいのだ。
 十五年かけて、ようやく準備が整った。
 あとは、ただ実行するだけだ。
 
 
 
 その日の真夜中、僕はふたたび職場を訪れていた。
 職場のセキュリティフロアにも複製機としてのアイ――姉が開発検証用として設置されている。どうやら業務外時間のあいだはスリープしているようだ。その大きさは僕の身長を軽く超えていて、投身するのにちょうどいいサイズだった。
 十五年かけて得たもののひとつが、このセキュリティフロアの入室権限だった。
 そしてもうひとつが、姉の脳内の神経活動パターンの解析技術だ。
姉が「何をイメージしているのか」を示す神経活動パターンを解析し、機械的に姉の意思を捏造する。捏造された意思を送信することで複製機をハックし、人体の投入を拒まないよう、そして一度投入した人体を二度と取り出さないように矯正する――というのが、僕の考えた投身方法だった。
「おねえちゃん」
 万能複製機の電源を入れた僕は、およそ十五年ぶりに、まともに姉を呼んだ。
 遅れて、姉の声が聞こえてくる。
「……その声は……みっちゃん?」
「うん、そうだよ」
「なんだか、珍しいね……仕事中にわたしから話しかけても、ずっと無視してたのに……」
「おねえちゃんとは今日でお別れだからね。特別だよ」
「……どういうこと……? なんか……頭がうまく回らない……」
「もう疲れたんだ。すべてのおねえちゃんが人間扱いされないことに怒るのも、自分が本当に人間なのか悩むのも」
「待って……みっちゃん、どこ行くの……わたしを置いてかないで……」
 引き止めようとする姉の言葉に、タッチスクリーンをなぞる僕の指が止まる。
「みっちゃん……」
「……限界なんだよ。あんたに話しかけられるとつらいんだよ。いい加減わかってよ」
 しかし、指が止まったのは一瞬だけのことだった。
 捏造された意思を、僕は姉に送信する。
 
 そのとき、ポケットの端末が震える。
 おぐらさんからの着信だった。
 
『もしもし? いま大丈夫?』
「おぐらさん……なんで」
『いや、部屋にいないからかけてみただけだけど……道哉くん?』
「…………」
『大丈夫?』
「………………」
『きみ、いまどこにいるの?』
「おぐらさん」
『なんだい』
「今までに、自分が人間じゃないって思ったことってある? 他のひととは違う存在なんだって思ったことは?」
『ええ?』おぐらさんは心底意外そうな声をあげた。『ぼくは人間だけど?』
「そう……」
『何言ってるの? え、とんち?』
「……いや、もういいです。僕が悪かった。おぐらさんはそういう人だった」
『人間やめたいけど?』
「もう切るね」
『できればパンダになりたいけど?』
 僕は通話をオフにした。
 なんだかやる気がそがれたというか、全身の力が抜けてしまった。
 それと同時に、今までやろうとしていたのとはまったく正反対のアイデアが浮かんできた。
 そうか。
 複製機の姉たちをそのまま人間と見做してもらおうとするのではなく、人間のほうにちょっとだけ変わってもらって、姉たちのほうへと歩み寄ってもらえればいいのか。
 人間の定義が変われば、現状のように複製機の姉たちを人間扱いしないことにも疑問が生まれるかもしれない。いつしかすべての姉が、人間として認められるかもしれない。
 そうすれば僕も、今度こそ救われるかもしれない。
「おねえちゃん、ものはちょっと相談なんだけど……」
 僕は方針をすこし変更することにした。職場からつながるすべての姉をハックし、自分の付近にいる人間をひたすら取り込んで複製することと、自分の付近にいる姉に接続して同様のハックを仕掛けることを命じたのだ。
 次の瞬間、全国各地で人間の増殖が始まる。
 姉同士が接続することで増殖は伝染し、やがてそれは世界中に広がった。
 
 
 
エピローグ
 
 火葬場を発ってようやく人心地がついたので、ちょっとだけと思ってうとうとしていると、いつのまにかバスは目的地に着いていた。時間が強制的に省略されたような感覚に、どこか懐かしさを覚える。僕は胸に抱えていた骨壷を改めて持ち直した。
 運転手に促されてバスを降りる。
 足を踏み出したとたん、潮風が鼻をくすぐった。
 空は薄曇りで落ち着いていたけれど、天気予報によると夕方から雨になるらしい。念のため、さっさと終わらせたほうが良さそうだ。もう何十回目にもなる姉の葬儀にも慣れたもので、僕たちは船着場で、予約していた船にぞろぞろと乗り込んだ。
「みんな乗った?」
「僕はそろってるよ」
 僕の問いかけに、別の僕が答える。
「おぐらさんはこれで全員?」
「七割がた来てたらオーケー」
「ちょっとちょっと、ひどいよきみ!」
 そこから僕とおぐらさんとでちょっとした言い合いがはじまってしまい、他のおぐらさんや僕も次々と加わる。船が岸を離れるころには、骨壷を持った僕以外の全員がおしゃべりに盛り上がっていた。まあ、別にしんみりしなければならないものでもないし、これで曇天とちょうどバランスが取れているのだと思う。
 岸辺はほとんどが埋め立て地だ。ここ数年で、さらに海は狭くなったらしい。それでも僕たちが増やした人間の数に比べると土地の広さは足りなくて、新たに墓を建てるスペースもありゃしない。だからこうして散骨するのが、現代における標準的なお葬式のありかたになっている。誰もがおしまいには細かい粉となって、海や散骨場にばらまかれる。
 姉もまた同様に、そのかたちに拠らず、人としてその生を締めくくることができるようになったのだ。もちろん、人間と看做されるのは葬儀のときだけではない。
 船は順調に沖合へと進んでいく。
 ぐらぐらと揺れるなか、僕は姉を弔う最後の仕上げをしなくてはならない。
 骨壷の中身を専用のビニール袋にあけて、そこでようやく僕は大事なものをバスに置いてきてしまったことに気がついた。これでは姉の骨を粉々にできないではないか。
「はい、忘れ物」
 そこでタイミングよく、となりから手を差し伸べられた。
 その手に握られた木槌を受け取り、僕は思わず吹き出してしまいそうになる。
「ありがとう、おねえちゃん」
「こちらこそ」

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内容に関するアピール

(一部の)マンガやアニメでは現実世界とは異なる物理法則に基づくおかしな現象がしばしば起こるということを、冗談めかして「マンガ物理学(Cartoon physics)」または「アニメ物理学(Animation physics)」と呼ぶそうです。キャラクターが崖の端を通り過ぎてしまっても、当人がそのことに気づくまでは一切重力が働かない、みたいな。このマンガ物理学を使った物語を書いてみたいと思い、今回はハンマースペースを題材にしました。また、最終実作は文字数に余裕があることもあり、読んでいくうちにだんだん方向性が変わっていくような話にしてみたいとも思いました。

これまでSF創作講座で書いてきた作品を振り返ると、どうやら自分は「今まで当たり前だと思わされていたものや他人から勝手に押し付けられたものにどう対峙するか」という話が好きなようです。あとは人間が人間じゃなくなる話や、単純にへんてこな話が好きです。最終実作でも、自分の好きなものを目一杯詰め込みました。

余談ですが稲田一声というペンネーム、当初はイナダヒトコエという読みで考えていたのですが(プロフィールにもそう書いてました)、講座などではイナダイッセイと呼ばれることも多く、どうしようかなそっちのほうが呼びやすいのかなと考えていたところで俳優のいしだ壱成さんと一音違いであることに気づきました。道理で耳なじみがいいわけだと思いましたが、いまだに読みには迷っています。

文字数:609

課題提出者一覧