わが東京ドームは永久に不滅です

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わが東京ドームは永久に不滅です

◇プレーボール
 
「ヒャッハー、暴れるぜ~!」
 マイクロバスが下品なエンジン音を上げ、とある場所に辿り着いた。彼らの眼前に見えるのは、荒廃した世界に似つかわない鮮やかな緑のつたに覆われた、一つの球場。本来そこに掲げられているはずの真の球場名は、蔦により覗うことはできない。だがドーム天井に覆われていないことから、この球場がことだけは明白であった。そのような大型建造物は、この世界には一つしか存在しない――「甲子園」。
 マイクロバスの扉が開くと、待ち兼ねていた無法者たちが勢いよく飛び出てきた。いずれも漆黒のユニフォームにキャップ帽を身にまとっている――野球選手だ。だがどこを見てもチーム名など書かれておらず、背中に白い背番号が記されているのみである。数字の上にあるはずの個人名は、存在しない。彼らは無名の「草野球球団」にすぎない。しかし何者かの手がかかっていることは、確実であった。
「キャプテン、お願いしやす!」
「おうおう!」
 キャプテンと呼ばれた選手――球体に近い腹部だが胴体に繋がる四肢は丸太のように太く、守備と走力を犠牲にしたパワーヒッターであることは一目瞭然である。現にこの男は並み居る草野球球団相手にホームランを連発し、その地域の「自治権」を強奪していたのだ。
 キャプテンは副キャプテンからメガホンを受け取った。野球観戦およびプレーがこの世界では、メガホンは国民の必需品となっている。拡声器といった機具は、下層国民の手に入るものではない。
「甲子園とかいう東京ドームに引きこもっている小童こわっぱどもに告ぐ! さっさと俺たちと野球勝負をしろ!」
 並の人間を遙かに上回る声量が、甲子園周辺を振動させる。はやし立てる草野球チームの面々。
 沈黙は、数秒で破られる。人によっては「アー」や「ウー」と表現されるサイレンが甲子園の内側から鳴り響く――「開戦」の準備である。
「何やあんたら、うちのチームの強さを知らんからそんなことを言えるんやろ!」
 ほっそりとした体型でショートヘアの少女――菜摘なつみの声が、スピーカーから大音量で放たれた。
 
「ブワーハッハ! えっ、坊ちゃんよ、野球ってもんは九人でプレーするもんだぜ!」
 失笑する草野球チーム。それも無理はない。元来野球とは一チームにつき、ピッチャーにキャッチャー、内野四人、外野三人の計九人でプレーするスポーツである。しかし甲子園を守るチームは――ピッチャーとキャッチャーの、二人のみ。仮に相手チームのバッターがバットにボールを当てた場合、ピッチャーが打球を捕球できなければまず間違いなくランニングホームランで一点を失ってしまう。同様に攻撃回の場合、どちらかが出塁するも続くバッターがランナーを帰せないと、次のバッターは塁上にいるためゲームが成り立たなくなってしまう。
 二人だけのチーム――それは野球としては絶対にありえない存在なのである。
 だがピッチャーマウンドに立つ小柄で長髪のピッチャー、晴虎はるとらは至って冷静である。このような相手チームの反応は日常茶飯事でしかないからである。
 晴虎は、笑い返した。
「笑ってられんのも、今のうちやで」
 それに釣られてより一層笑いを強める草野球チーム。特にバッターボックスに立っているキャプテンは、タイムを要求して試合の流れを止めてまで腹を抱える始末。
「は、腹が痛え、何なんだよこいつ、さすが関西ってのはお笑いが盛んな地域なだけはあるぜ! それによ――」
 キャプテンは外野を指さした。
「誰も守っていないからっていって、ぜ! お前らの頭ん中、お花畑なんじゃねーのか、あ、お花なんて一本も生えてねぇか、ガッハッハ!」
 困窮する甲子園では、誰もいない外野で農作物を栽培していた。どれだけ笑われようとも、こうしなければ甲子園の「住人」は食べてはいけないのである。
 一頻ひとしきり笑い終えた後、キャプテンは瞬時に冷静さを取り戻した。そして閑散とした甲子園を見つめ、バットの先端を晴虎に向ける。
「噂ではさぞかし凶悪なピッチャーって聞いていたが、大したことはねぇ……この手で、ぶっ潰す!」
 予告ホームランだろうか。だがそれにしてはバットの角度が浅すぎる。このいかにも4番バッターを務めそうな大柄のキャプテンが1番バッターを務める理由――それは、真っ先にライナーでピッチャーを文字通り「潰す」ことが目的である。現にこの草野球チームはに従い、幾多の有力な草野球チームのピッチャーを潰してきたのだ。
 晴虎は毒牙の標的にされている。だがそれにしては、晴虎の顔に何も焦りも覗えない。
「どうした、びびりすぎて逆に何も感じないってか?」
 挑発するキャプテン。
「…………」
「あ? 命乞いでも何でもいいから喋ったらどうだ?」
 だが晴虎はその声を無視し、両腕を大きく振りかぶる。
「――答えは俺の全力投球に聞けや!」
 晴虎の全身が、うねる。目にも止まらぬ左腕の振りが、白球を弾丸に変える。時速は約「20キロ東京ドーム長」――で換算すると、時速約2400キロメートル。
 見たことのない剛速球に、キャプテンはバットを振ることすらできなかった。
 草野球チームのベンチから、笑い声が消えた。
「な、何だいったいこれは……」
 汗がキャプテンの全身を伝う。
「おうおう、バッターびびってんのか?」
「くっ……」
 キャプテンは二の句を継げることができない。続く速球も時速20キロ東京ドーム長を超えた。キャプテンが闇雲に振ったバットは空を切り、その勢いでキャプテンは無様に尻餅をついた。
 もはや甲子園に辿り着いたときの自信はどうしたのか。かつてこの草野球チームは、そのユニフォームの色から知る人ぞ知る「死神球団」として恐れられていたはずだった。それがまだ死の影すら見えない、生に満ちあふれた若造に為す術もなく敗北を喫しようとは、誰一人として思ってもみなかったはずだ。
 だがキャプテンにもキャプテンとしての誇りがある。腰に手を当てながら立ち上がり、晴虎を睨みつける。
「野郎、ぶっ殺す……!」
「ははぁん、ぶっ殺すって物騒やな。俺らスポーツをしてるんやで、ス・ポ・ー・ツ!」
 三度晴虎は両腕を振りかぶる。だがグラブの内側に隠れて見えないが、先ほどまでとは違うボールの握り方をしている。
 無論キャプテン、球種の違いなど見極められるはずもなかった。
 キャプテンの振ったバットの「下」に、ボールは急速に落下した。ボールはホームベースに突き刺さり激しい回転により摩擦熱が発生、ホームベース上に火柱が立ち上った。
 急降下する変化球、「フォークボール」。
「これが俺の、『絶対三振』や!」
 続く二人もあっけなく三振に仕留められた。
 
「1番、指名打者、明虎あきとら、背番号2」
 ウグイス嬢を務める菜摘の一言に、草野球チームからどよめきが起きた。
「二人しかいないのに指名打者だと……」
「二人しかいないにも関わらずピッチャーは攻撃に参加しないってことか……?」
「バカな、二人ではなくて『一人』で決着を付けようってのか……!」
 右バッターボックスに立った、大柄でスポーツ刈り――もっともこの時代にスポーツはのだが――のキャッチャー明虎は、盤石ばんじゃくの構えである。
「本来二人だと野球はできないからね。悪いけど特別ルールでいかせてもらうよ」
「特別ルールって――二人しかいねぇんだぞ、損するだけじゃねぇか!」
 明虎は恐怖に震えるピッチャーを見据えながら、先ほどのキャプテンと同様にバットの先端を前方に向けた――いや、先端はピッチャーではなくその向こう、バックスクリーンを指し示している。
「僕が三振とかするわけないでしょ」
 予告ホームラン。にわかにざわめき出す草野球チーム。
(ここは一球様子を見るぞ)
 草野球チームのキャッチャーがサインでピッチャーに作戦を告げる。一回表の晴虎の「絶対三振」に正気を奪われたピッチャーは、まずは一球外して自らの呼吸を整えることにした。ピッチャーはキャッチャーの合図に頷く。
 数秒の静寂。そして、明虎の立っていない左バッターボックスの方面にボールを投げ込んだ。
 だが僅かにボールが外角のストライクゾーンに入ってしまった。明虎がそれを見逃すはずがなかった。
 ピッチャーには何が起こったのか分からなかった。閃光が、空間を切り裂いた。ピッチャーが気付いたときには明虎は既にベースを一周し、ホームベースに足を付けたところだった。
、『絶対本塁打』」
 うなだれるピッチャー。だが非情なウグイス嬢の声が、再度甲子園に響き渡る。
「1番、指名打者、明虎、背番号2」
 恐怖は連なる。同一打者による、10ホームラン。規程により10点差を付けられた時点で草野球チームの敗北なのだが、試合が決した時点でピッチャーの頭髪は雪のように真っ白になり、その後の人生で二度とボールを握ることはなかったという。
 
 晴虎と明虎は、甲子園を守り抜いた。そしてそれは「普段の」光景にすぎないのであった。
 
 
 
◇1回
 
「わが巨人軍は永久に不滅です」
 1974年10月14日、巨人軍長嶋茂雄の引退。この日、巨人軍は文字通り「永久不滅」の存在と化した。人々は後楽園球場の中心に立つミスター・ジャイアンツの姿に魅了されており、一つの「光」が遙か上空に具現化したことには誰も気付かなかった。
 
 1988年3月17日、東京ドーム竣工式。後楽園球場に替わる巨人軍の新たな本拠地、東京ドームに光が灯った。それは希望の光という比喩表現ではなく、邪悪な意思を秘めた悪魔の瞳、そのものであった。
 東京ドームで開かれた祝賀パーティにて、突如として常勝軍団の巨人軍の選手たちが暴走を始めた。脱ぎ捨てたスーツの下にはユニフォームを着込んでおり、その場で無差別千本ノックを開始しグラブを持たない出席者たちをノックアウトしたのだ。
 選手たちはそのまま東京ドームを脱出し、国会議事堂を占拠。そして「巨人軍監督」が、東京ドームの中心で高らかに訴えた。
「今日ここに、『東京ドーム帝国』の独立を宣言する!」
 不法占拠した国会議事堂を取り囲む自衛隊。膠着こうちゃく状態が続くなか、ついに自衛隊の射撃許可が発令された。
 ――だが巨人軍は銃弾に倒れるような集団ではなかった。狙撃部隊の銃弾は選手の確かな選球眼により全弾回避された。戦車隊の国会議事堂突入に際しても、巨人軍は放たれた大砲をバットで打ち返すことにより戦車を破壊した。
 軍隊が、野球に太刀打ちできない。国会議員は解放されるも日本は名実ともに東京ドーム帝国の宣戦布告を受け、「皇帝」を名乗る巨人軍新監督による新たな支配体制が下されようとしていた。
 ――万物は、野球のみで決定される。
 これが俗に呼ばれる「万物野球理論」である。野球の強き者が万物を支配し、万物を決定する。政治とはすなわち「野球」であり、その中心にいるのが「永久不滅の巨人軍」だと。
 当然世界からの反発もあったが、帝国は各国の通告を無視。各国からの経済制裁をもね除け、帝国は独自の政策を採択し続けた。
 その一つが、度量衡の統一である。帝国創立の地である東京ドームを万物の尺度「東京ドーム原器」とし、メートルやキログラムといった従来の単位を廃止した。グラウンドの外野センターまでの距離122メートルを「1東京ドーム長」、建築面積46755平方メートルを「1東京ドーム面」、体積124万立方メートルを「1東京ドーム体」とし、東京ドームの建設に使用された鋼材18500トンを「1東京ドーム重」と定めた。
 無論このままでは数値が大きすぎるため、「帝国民」の各家庭に1000分の1サイズの「ミリ東京ドーム原器」を配布し、実質的にはこれが新たなる万物の尺度として国内で強制されることになった。
 
 巨人軍の支配体制は急速に日本を覆い尽くそうとしていた。東京ドーム帝国発足後、巨人軍は毎年ペナントレースを制し「日本一」を達成する。とうの昔にかつての長嶋茂雄らが達成した「V9」を上回る「V10」を達成し、巨人軍は広く度量衡を周知させるため、日本中の各球場を「東京ドームレプリカ」へと作り替えた。
 それに反発したのは、アメリカであった。1999年7月4日、アメリカ独立記念日と同じ日を「日本独立記念日」にしようと、アメリカ国内のアメリカンリーグとナショナルリーグの全野球チームを巨人軍と戦わせる「ワールドシリーズ」を開催し、巨人軍を粉砕することを決意する。これが俗に言う「野球世界大戦」の勃発である。
 だが「世界大戦」と称する割には、内容は「巨人軍の巨人軍による巨人軍のための野球」にすぎなかった
「悪夢だった」
 当時のヤンキースのキャプテンは語る。
「奴らは不可思議なボールを投げたり打ったりするんだ。オレたちにはどうすることもできなかった。あんなのを見せられちまったらもうオレが野球をする意味もない」
 それは「魔球まきゅう」と「秘打ひだ」と呼ばれる、世界のことわりを無視したまるで漫画の世界の代物しろものであった。
 巨人軍のバッターが秘打を放つ。だがその割には肩透かしなピッチャーフライにすぎなかった。
「けっ、噂の割には大したことはないなジャップは」
 ふわりと、まるでタンポポの綿毛のように風に流され落下するボール。
 だがその秘打の真の意味に気付いた者は、ヤンキースにはキャプテンしか存在しなかった。
「早まるな、そのフライを取るんじゃない!」
「へっ?」
 キャプテンの忠告は遅かった。ピッチャーのグラブに吸い寄せられるボール。
「何だ脅かしやがって、普通のフライじゃねぇか……何、うわっ!」
 ボールの回転が、止まらない。それどころか徐々に速度を上げていく。ピッチャーのグラブの中でホップを続けるボールの縫い目が、一つ、また一つと破れていく。
「おい、いったいどうなってやがるんだ――あ、あぁ~!」
 ボールが弾けた。そして中の芯が飛び出し、猛烈な勢いでピッチャーの顎を砕いた。ピッチャーが、力なく倒れる。
 この秘打は打球を「爆発」させることにより、フライを取ろうとした野手を「直接攻撃」するものであったのだ。
 秘打で選手の多くを失う一方で、魔球にも翻弄されることとなる。
 巨人軍のピッチャーが投げた魔球――いや、本当に投げたのかどうかも疑わしい。球が「視認できない」のである。それにも関わらず、キャッチャーは球を「捕球」する。審判は「ストライク」とコールする。
 審判に詰め寄るヤンキースのナインたち。審判は巨人軍の手にかかった者ではない、アメリカ人だ。むしろヤンキースに有利とも言えるかもしれない。
 だが審判は首を横に振る。
「確かに私にも球は見えない。だがキャッチャーが捕球した瞬間に球が具現化するんだ。それもストライクコースに――」
 それ以上問い詰めても無駄だった。この魔球は「投げたボールをバットに干渉できないダークマターに変換する」魔球であるのだから。ヤンキースのバットは、絶えなく虚空を通過し続ける。
 試合は666対0で、巨人軍が圧倒した。このたった一試合によりヤンキースの選手の過半が再起不能となり、続く他球団も巨人軍にあっけなく敗北した。そしてヤンキーススタジアムを含むアメリカの野球場が、東京ドームレプリカに改築された。
 
 窮地に追い込まれたアメリカは完全に野球を無視して、東京ドームを爆撃で破壊しようと決意する。
 だがしかし、アメリカ軍の目論見は甘かった。巨人軍以外無人となった東京、水道橋にある東京ドームに降り注ぐ無数のミサイル。巨人軍の外野陣は東京ドームの天井の真上に陣取り、ミサイルという「フライ」を次々に「捕球」し、まるでタッチアップを阻止するかのように爆撃機を超えてアメリカへと投げ返したのだ。
「まるでレーザービームだった」
 太平洋を超えホワイトハウスへと迫ってきたミサイルに関して、大統領は後にそう語っている。職員は全員避難して無事だったものの、無数のミサイルの直撃を受けたホワイトハウスは木っ端微塵となり、アメリカの政治機能は完全に崩壊した。この日――1999年7月31日、野球世界大戦勃発から一ヶ月も経たずしてアメリカは巨人軍に全面降伏した。
 
 だが野球世界大戦は終結しない。巨人軍の進軍は数十年をかけて、野球を行う国はおろか野球を行わない国にも広がっていった。エジプトのピラミッドが、カンボジアのアンコール・ワットが、ペルーのマチュピチュ遺跡が,スペインのサグラダ・ファミリアが、南極の昭和基地が、次々と東京ドームレプリカに改築されていく。
 そして長年に渡る侵攻の果てに、東京ドーム帝国の「領土」は10ギガ東京ドーム面(4億6755万平方キロメートル)――地球の陸地のおよそ九割を占めるまでに至った。
 当然海外に「出兵」する際には日本、もとい東京ドーム原器には巨人軍の選手は存在しないはずである。だが巨人軍には一軍や二軍の他に、数多くの下部組織が存在していた。その下部組織ですら、日本や海外に残された僅かな他球団は攻めあぐねていた。
 この強大な巨人軍を束ねている皇帝とはいったい何者なのだろうか。東京ドーム竣工直前まで監督を務めていた者ではないことだけは確かである。その監督は「東京ドーム革命」翌日に、最寄りの水道橋駅のトイレで無事保護されたのだから。
 
 
 
◇2回
 
 甲子園は、狙われている。
 野球世界大戦にて、国内の全て――いや、「ほぼ全て」の球場が東京ドームレプリカに姿を変えていた。その数少ない例外がここ甲子園であり、関西に住む人々の多くがこの甲子園に身を寄せていた。
 無論巨人軍が甲子園を見逃すはずがない。だが甲子園には現在。プロ野球チームである巨人軍が直接甲子園を「攻撃」することは表向きにははばかられることである。そのため巨人軍は草野球チームと「裏取引」を行い、甲子園のチームに勝利しそこの自治権を与えることにより、間接的に甲子園という障害を排除しようとしていた。
 だが甲子園に存在する「甲子園の魔物」――二人の絶対的バッテリーの力は強大であった。
 晴虎の、必ず三振に仕留める魔球「絶対三振」。
 明虎の、必ずホームランを放つ秘打「絶対本塁打」。
 どの草野球チームも、この二人を攻略することができない。二人がこの「絶対能力」に覚醒して一度は支配された甲子園を奪取してから数年、甲子園は日本に残された数少ない「独立国家」と化していた。
 
 ところで何故絶対能力を身に付けたのか、二人にも分からなかった。いや、にこの能力が発現したのは確かだが、何故突然そのときに秘めたる能力に開眼したのか、皆目見当が付かないのである。
 そのため周囲から絶対能力について質問されても、
「まぁそんなんはどうでもえぇことやろ」
 と、周囲をからかうことで煙に巻くことしかできなかった。
 だがそれでも食い下がるのが、いつも二人を気に配る菜摘であった。
「何で本当のことを言ってくれへんの?」
 とはいっても、分からないものは分からないのである。
「ごめん、俺らにもよう分からん」
「ふーん――」
 菜摘は二人の言うことをあまり信じてはくれないようだった。
 それでも二人にとって菜摘の存在は特別であり、ウグイス嬢を務める菜摘のコールを聞くたびに体に力が湧いてくるのを感じていた。
 ただし、
「けどそれ、気のせいやろ」
「何言うてんねん! 明虎も感じるやろ、何かこう、グワッっていうか――」
「グワッ、じゃ何にも分からん」
 というボケツッコミを二人で繰り広げるだけだったが。
 
「本当にさぁ、何で晴虎と明虎って双子やのにいっこうに似てへんの?」
「せやかて、俺ら双子っていっても二卵性やで。兄弟としては似てるけど、そっくりそのまんまってわけやないし――どっちかってというと、の菜摘のほうが俺と似てんで」
 菜摘がジトッとした目つきで、晴虎を無言で見つめてくる。そのプレッシャーに耐えきれなくなった晴虎は、食べていた甲子園カレーの食器を手にしながら思わず視線を反らす。
 だが周囲は人もまばらである。ここ甲子園は巨人軍の支配に対抗する「解放軍」とでも呼ぶ人間しか生活していない。「老若男女」という四字熟語が存在するが、甲子園にいるのは圧倒的に「老」と「女」が多く、「若」と「男」の大半は巨人軍の支配下に囚われ、関西弁ではなく東京ドーム帝国共通語である「標準語」を強要された不自由な生活を送っている。
 食堂にいる人間の少なからずはカレーを食べている。とはいっても甲子園の外には荒れ果てた砂の大地が広がっており、百年以上も続く甲子園名物のカレーの具材も「独立」してから数年たった今では、もう入手が困難になっている。甲子園の外野で収穫できる野菜も年々少なくなってきており、スプーンですくえるカレーの具材はほんの小さい細切れのような野菜ばかりである。
 晴虎は視線を元に戻した。依然として菜摘は何を考えているのか分からない。
「なぁ、どないしたん」
「……別に」
「何か言うてくれへんと分からんやろ」
「分からんでもえぇし」
「うーん……」
 と何も会話が弾まないところに、先にカレーを食べ終えた明虎が通りかかる。
「お、どうした、喧嘩か?」
 そんな明虎の腰を、菜摘がバシッと叩いた。
「そんなんやない!」
 だが絶対本塁打を放つ絶対的主砲である明虎の肉体が、その程度で揺らぐわけがない。
「ごめんって、ほら謝るからさ、菜摘の親父さんにも菜摘をよろしくって頼まれたことやし」
「平然と嘘つかんといて。お父さんが死んだとき、うちも明虎も晴虎も物心ついてへんかったやん」
「だからそれは実質的にそうっていうことであって――」
「もうえぇ!」
 菜摘は立ち上がり、晴虎の右腕を握った。
「明虎なんて無視無視! ちょっと二人でどっかに行ってきまーす!」
「ちょ、菜摘、いきなりそんな急に――」
 晴虎の顔が甲子園カレーの福神漬けのように紅潮していることに、鈍感な菜摘は気付かなかった。そして残された二人の食器を片付けることになる明虎であった。
「菜摘のやつ、晴虎と二人きりのときに僕が割り込もうとするといつも不機嫌になるよな――」
 幸運にもその一言が菜摘の耳に入ることはなかった。
 
「涼しいな」
「まぁ六甲おろしが吹いてるからな」
「ちゃうよ、浜風はまかぜやで。知らんかったん?」
「……い、今のは菜摘を試しただけや。そりゃな、試合中っていうかシーズン中に吹く風は浜風って相場が決まってるからな」
「ふーん……」
 意地悪そうな目で晴虎を見上げる、菜摘。
 甲子園は瀬戸内海に隣接している関係上、夏の間は陸と海の温度差からライトからレフトにかけて強風が吹きやすく、これを「浜風」と呼ぶことが多い。一方の「六甲おろし」とは甲子園の後方にそびえ立つ六甲山から吹き下ろす風であるが、こちらが吹くのは秋から春にかけてであり野球のシーズンとは重ならない。
「あとな、昔はその名の通り『六甲おろし』っていう歌をな、甲子園に来た人たちが歌っとったんやって」
「へぇ、シーズン中に吹くことのない六甲おろしを歌に歌うのも何か変な話やな。で、菜摘はその六甲おろしっちゅうのを歌えんの?」
 菜摘は首を横に振った。
「歌えへん。もうどんな歌詞やったのか、どんなメロディやったのか、記録がどこにも残ってへんから――」
「巨人軍の『皇帝様』が歌を歌うことを禁止してもうたからな。『野球以外の娯楽はいらん』言うて」
 外野スタンドに、ぽつりと座る二人。他にも幾人かスタンドに座る者もいるがそれぞれが思い思いの場所に座っていて、お互いに何を話し何を考えているのかは分からない。
「じゃあさ次の問題。外野スタンドって昔は何て呼ばれてたか知ってる?」
「ちょっと待ってや、えーと……南アルプススタンド……とか?」
「ブー。でもちょっと惜しいやん。本当は『ヒマラヤスタンド』って呼ばれてたねんて」
「へー、菜摘は物知りやな」
「そりゃな、だてにウグイス嬢やってへんし」
「まだまだ『ヒヨッコ』やけどな、ウグイスだけに」
「それ全然おもんないで」
「うっ……」
 がっくりと肩を落とす晴虎。
「今のは渾身こんしんのボケやと思ったんやけどなぁ」
「ウケへんかったら何も意味ないで」
「手厳しいな、菜摘は」
 二人は空を見上げた。夕暮れが、世界を静寂と漆黒に包み込もうとしていた。もっとも甲子園にナイター設備が灯ることは滅多にない――切迫した電力事情から、大量の電力を消費するナイター設備など使う余裕がないのである。
「それはそうとな、さっきのクイズに関係してんのやけど……」
 菜摘が会話を再開する。
「時折な、見つかんねん。甲子園のことが書かれた古い本が」
「どっから見つかるん? もう俺らのオトンやオカンの世代で甲子園は隅から隅まで全部探索したんとちゃうん?」
「そうやねん、そのはずやねん。なのにな、たまーに見つかんねん」
 そう言って菜摘はボロボロになった本を取り出した。多くの野球選手の写真が記載されているが、晴虎の目に止まったのはそこが「甲子園」を舞台にしていることだった。
「これ高校生やんな。甲子園でいったい何をしてるん? あっそうか、昔は兵庫県の野球大会が甲子園で開かれとったんか」
「ちゃうよ、これ兵庫県の大会やない――全国大会」
「え、全国大会? んやなくて?」
「そう、この本によると昔はここ甲子園で高校生の野球日本一を競ってたんやって」
「日本一か……を決定するんやなかったねんな……」
「もう昔の歴史なんて、全部巨人軍がからね……あっ」
 そう呟くと、菜摘は今度は晴虎の手を無意識のうちに掴んだ。
「忘れてた!」
 とはいっても心穏やかでないのは晴虎である。今日一日だけで二回も「女の子」に体を触られ、平気でいられるわけがないのである。またしても真っ赤になった顔が夕暮れに包まれて菜摘に見られないことを、晴虎はかつて「通天閣」という塔に奉られていた「ビリケン様」に感謝した。
 二人はグラウンドに降り立った。
「もうグラウンドは整備済みなんやけど……」
「今回だけ、許してな!」
 菜摘は晴虎を引き連れて内野まで走り寄った。すると突然菜摘が屈み始め、両手で甲子園の土をかき集めだした。
「何しとんの?」
「見りゃ分かるやん、土を集めてんの」
 そう言うと菜摘は胸ポケットから小さな袋を取り出し、そこにかき集めた土をドサッと詰め込んだ。溢れ出る土を無視し、小袋の口を紐で縛る。
「はい、お守り」
「ん、ありがとう……でも何で?」
 ナイター設備が点灯しないなか、もはや菜摘の表情は晴虎には読み取りづらくなっていた。もっとも菜摘にとってはそれが幸いしている面もあるだろう。今度は菜摘の顔が――。
「えっと、さっきの野球の全国大会を甲子園でやってたって話の続きやけどさ、負けたチームがね、甲子園の土をかき集めて持って帰るっていう習慣があったみたいなんよ」
 菜摘が晴虎から顔を背ける。
「それはね、また次も甲子園に帰ってこれますようにっていう、おまじないみたいなもんで――」
「でもさ、『負けたチームが』って、縁起悪くない?」
 そう言った瞬間、晴虎はしまったと思った。薄暗い中でも、菜摘の顔が歪んでいくのがはっきりと分かった。
「アホ!」
 耳元で思い切り叫ばれた。耳鳴りが続くなか、菜摘は晴虎の顔を見ずにそそくさと一塁ベンチに向かって走り出した。
「晴虎も明虎と一緒や! うちの気持ちなんて全然分かってくれへんやん! ドジ! 頭冷やせ、アホ、アホ、アホ!」
 一塁ベンチ裏に下がった菜摘を、晴虎は呆然と見つめるしかなかった。
「ビンタとかせぇへんのは、えぇことなんやけどなぁ……」
 そういうどうでもいいことだけを慰めに、晴虎もまた菜摘と同じく一塁ベンチ裏へと足を進めるのであった。
 
 
 
◇3回
 
 「V100」。それは皇帝率いる巨人軍が何としても達成しなければならない目標である。
 そもそも長嶋茂雄の「永久不滅の巨人軍」宣言は、完全なものではなかった。引退の前年に巨人軍は「V9」を達成していたが、それが途切れた時点で永久不滅の力は失われつつあったのである。
 長嶋茂雄の引退セレモニーに導かれた「光」は考えた。V9を超える巨人軍の輝き――それはV10という生温なまぬるいものではなく、10倍のV100。
「三種の神器」――光の中に、三つの概念が渦巻く。それは八咫鏡やたのかがみでも天叢雲剣あめのむらくものつるぎでも八尺瓊勾玉やさかにのまがたまでもなく、V9時代に人々を支えた、新たなる三つの神器。
 光――「皇帝」は、「黄金のV9時代」の力を欲した。そのため皇帝は新たなる時代を創世しようとした。世界は東京ドームから始まり、そしてV100を達成したその瞬間に三種の神器が真の力を発現し、自らを「永久不滅の皇帝」へと昇華させるであろうと。
 皇帝はそのうちの二つを手中にしていた。残すは一つ――だがそれは、姿
 皇帝は三種の神器の最後の一つの正体を掴めずにいた。皇帝もとい巨人軍は毎年日本一、いや「世界一」になるたび優勝パレードと称して世界を巡行した。北は北極点、南は南極点まで、巨人軍が巡行しない地はなかった。
 だが、判然としないのである。皇帝には最後の神器がいったい何であるか、一切の見当が付かなかった。かつてそれは「人間」であった。だが新たなる神器がまたしても人間であるかどうかは分からない――「不死鳥」のごとく人間の手には余る存在であるかもしれなかった。
 V99。百年近くの長い年月をかけて世界一になり続けた皇帝。長嶋茂雄に導かれた光は巨人軍と世界を支配し続けていたが、あと1年――V100を達成するまでに、最後の神器の正体を知ることができる保証はどこにもなかった。
 V99のパレード中にも関わらずいらだちを隠せない皇帝は、15年前の「オールスター戦」を思い出していた。
 
 オールスター戦。かつては各球団の中から選抜された優秀な選手たちにより競われる華の祭典であったが、巨人軍による世界支配が実現しつつある今、それはただのパフォーマンスにすぎなくなっていた。
 そもそも巨人軍が所属するリーグの参加選手は、全員巨人軍の選手である。対するリーグも、大半が巨人軍の息の手がかかった球団の選手で構成されている有様であった。
 だが巨人軍がV84を達成したこの年は違っていた。相手リーグは異なる球団の選手が協力して巨人軍に立ち向かうという「合従策がっしょうさく」を採用していたのである。
 目指すは「巨人軍監督の負傷退場」。それを実現するための策は、二つあった。
 一つ目の策は、攻撃時に皇帝にファウルを命中させること。
 それは確かに難しい要求であった。だがファーストを務める1番バッターは、ファウルで相手ピッチャーを錯乱するファウル打ちの名選手である。それに加え巨人軍のピッチャーが投げる剛速球の魔球を打ち返すことができさえすれば、ほぼそのままの速度でベンチにいる皇帝の頭部にファウル「ライナー」を命中させることができるはずだ。
 だが皇帝にファウルライナーを命中させられる機会は一度しかない――一度目を外せば巨人軍ベンチは警戒するだろう、そうすれば再び皇帝を狙うことなど不可能である。
 一撃必殺――1番バッターに託された義務はあまりにも重かった。巨人軍ピッチャーが投げる魔球を捉えたファウルは一直線に皇帝の顔面に迫った――だが、皇帝はボールを
「…………」
 皇帝は掴んだボールを手に、無言だった。そしてそのままボールをリンゴのように。皇帝は手を痛がる素振りすら見せない。皇帝に、一切のダメージはない。
 一つ目の策は、失敗だった。その後凡打に倒れたバッターは、うなだれた表情をしながら三塁ベンチに戻っていった。
 だがもう一つの策がある。チームは二つ目の策に賭けることとなる。
 チームは守備に就いた。ここでピッチャー富由彦ふゆひこは、あえて先頭打者をフォアボールで出塁させ、一塁に牽制球を投げられる状態にした。
 そう、牽制球と見せかけてそのまま一塁ベンチで指揮を採っている皇帝に直接「故意死球ビーンボール」を命中させるという手段――これが第二の策である。
 これもまた、機会は一度きりであった。富由彦は先ほどファウルライナーを失敗してしまったファーストと連携を取り合って、わざと一塁から大きく外し一塁ベンチにいる皇帝を目指して剛速球を投げた。
 ――だが、ファーストはほくそ笑んだ。、相手リーグの選手全員が合従策を採用しているわけではなかった。ファーストは富由彦を。ファーストは敵チームながら、巨人軍と協力して他球団を圧倒する「連衡策れんこうさく」を採用していたのである。初回のファウルライナーを失敗したのも――皇帝が素手でキャッチできる程度の打球に調整していたからである。
 大きく逸れた牽制球を、ファーストはダイビングキャッチした。そして二塁に向かう一塁走者を二塁でアウトにすべく送球する――という名目で、ファーストは。ピッチャーの経歴のあるファーストの送球は、富由彦の頭に直撃した。
 一塁ランナーが本塁に帰った後も、富由彦はマウンドにうずくまって動かなかった。富由彦の口から、鼻から、耳から、穴という穴から血が流れ出していた。富由彦は意識不明のままピッチャーを降板し、結局オールスター戦は334対0で巨人軍の所属するリーグが勝利することとなった。
 
 それ以降も年に一度オールスター戦が開かれる。V84を達成したときのように皇帝の「暗殺故意死球」を企む者は跡を絶たなかったが、いずれも皇帝の命を奪うどころか、皇帝に傷一つ負わせることすらできなかった。
 皇帝から滲み出る、不可思議な力。巨人軍が自在に操る魔球と秘打も、皇帝の力が源になっていると言われている。その力により皇帝は「不死身」であると密かにささやかれていた。
 だが皇帝には、長年気にかかることがあった。
 ――甲子園という球場にいる晴虎と明虎という兄弟が魔球と秘打の力を操っている、と。
 皇帝は熟慮した。甲子園は独立国家であるため外部から情報を入手することは困難であるが、それでも皇帝はこの二人が17歳――であるという情報を仕入れることに成功していた。
「そろそろ戦略を変えねばならぬようだな……」
 皇帝はグラスの赤ワインを飲み干し、そしてグラスを車の外に捨てた。即座に後続の車が、道路に落ちたグラスを粉々に砕いた――まるでこれからの晴虎と明虎の運命を示しているかのように。
「さて、あの日このちんを狙ったやから使ときが来たようだな――」
 皇帝の隣に、護衛を兼ねた「ある人物」が座っていた。
 
 
 
◇4回
 
 ドラフト会議。この時代には既に、男として世に生を受けた者が「巨人軍に忠誠を誓う」イベントに成り下がっていた。
 巨人軍は当然晴虎と明虎を指名することに決めていた。巨人軍以外の他球団が二人を一位・二位指名することは不可能であった。なぜなら巨人軍のにより、他球団が晴虎と明虎の存在を知ることは困難を極めていたからである。
 巨人軍は恐れていた。野球史上最強の魔球と秘打を扱える二選手が共に他球団に入団することで、巨人軍のV100が阻止されてしまうことを。そのため皇帝は以前に甲子園を襲撃させた草野球チームの選手たちの「記憶を抹消する」など、晴虎と明虎の情報が他に漏れないよう徹底していたのだ。
 ドラフト会議は、巨人軍が単独で晴虎を一位指名、明虎を二位指名した。これにて巨人軍は兄弟の単独交渉権を獲得、皇帝は大軍を引き連れて甲子園へと歩を進めることとなった。
 
 甲子園にサイレンが鳴り響く。敵襲の気配を感じた晴虎と明虎はユニフォームに着替え、アップを開始する。
 だが園内に流れる菜摘からの報告を聞く限り、普段とは状況が違う様子であった。
「遙か彼方まで、巨人軍が――!」
 巨人軍の侵攻か。晴虎は身構えた。
「こうなりゃ一気に巨人軍を潰すえぇ機会やな!」
「そう楽観視はできないぞ」
 冷静な明虎。
「これまで僕たちが相手にしてきた球団は草野球球団が主だ。たまにプロ球団と対決することもあったけど、巨人軍の二軍どころか三軍四軍といった下部組織とすら対決したことがないんだ。僕たちの絶対能力が通用するかどうかは――」
「何びびってんだよ。明虎らしくない――いや、冷静なのは明虎らしいな。ただな、絶対的な力っていうのはたとえ相手が誰であろうと『絶対的』なんや」
「晴虎は晴虎で、冷静ではなくて楽観的だな」
「うるせぇ!」
 二人は笑い合った。巨人軍という絶対的な常勝軍団を目の前にしても、自らの絶対的な能力に微塵も疑いを持っていなかった。
 
 甲子園の眼前に辿り着いた巨人軍のは、約55000人。東京ドームの最大集客人数とほぼ同数であった。実際に野球をプレーする選手だけで約9000人、その他は各地から野球選手をかき集めるスカウトといった巨人軍関係者が多数連なっていた。
 地平線が、見えない。一人一人は小さな人間だが、55000人もいればまさしく「万里の長城」としか形容できないような異様な空気を周囲に漂わせている。
 だが巨人軍は甲子園に侵攻しようとはしない。一時間が経ち、二時間が経ち、
「おらぁ、勝負するならさっさとチームを連れて甲子園に入ってこんかい!」
 とうとう溜まりかねた晴虎が自ら甲子園の外に飛び出してきた。晴虎から巨人軍までは1東京ドーム長ほどの距離があり、その手前にはかつての甲子園の賑わいを物語る「旧時代の遺跡」の数々が崩れきれずにそのまま放置されている。
「フフフ、ハハハ……」
 皇帝本人が、不気味な笑みを浮かべた。
「何がおかしい!」
 慌てて晴虎の後を追いかけた明虎が叫ぶ。
「いやいや、朕はお主らと勝負するためにこの辺境の地に来たわけではない」
「辺境の地やって? 何よそれ、失礼やん!」
 そして明虎を追いかけてきた菜摘が、頬をぷっくりと膨らませる。
「世界から隔絶されていると聞いたが、その情報は本当のようだな。ドラフト会議が数日前に行われたことも知らずに……」
「そうなのか、菜摘?」
 晴虎が菜摘に確認を求めた。
「確かに最近甲子園周辺の電波の状況が悪くて、外部の情報を受信できなかったことが多かったけど……」
 菜摘がうつむく。巨人軍から「独立」している以上、情報収集は自治の要である。それが一切できていないことを、菜摘は恥じているようであった。
「もう茶番はよいのか?」
「茶番とは失礼な……。分かった分かった、さっさとお前らの要件を言いやがれ!」
「皇帝陛下に向かって『お前ら』とは何と無礼な!」
 晴虎の一言に激高した巨人軍の一団が、ボールとバットを構える。トスバッティングの姿勢であり、自ら放り投げたボールを打つことで晴虎を始末しようとした。
下賤げせんの輩の一言など放っておけ」
「はっ、陛下!」
 皇帝の一言により、巨人軍はトスバッティングの構えを解除した。
「して、朕がこのような場所に来た理由とは――」
 皇帝はたった一人で晴虎たちの下に向かって歩き出した。
「皇帝陛下、お一人では危のうございますが――」
「その心配は無用だ」
 その一言で、世界は静寂に包まれた。皇帝が着ている巨人軍のユニフォームから滲み出る黒いオーラが、砂埃を巻き上げている。帽子は深く被られ、その表情を覗うことはできない――いや、元から。威圧感と表現すべきか、顔を見ずとも周囲の環境の変化を観察するだけで、何者も皇帝には敵わないという無言の圧力を与えるのであった。
 その圧力に屈しそうになったのは、晴虎も明虎も同じであった。皇帝が形成した風が自らの下に吹き付けてくるにも関わらず、二人はそれを避けることができなかった。風に巻き込まれた小石が、二人の体を僅かに傷付ける。血が滲む。だが二人は痛みを感じず、血をぬぐうこともしない。
 皇帝が、二人の目の前にやって来た。
「ドラフト会議の結果、わが巨人軍は晴虎と明虎の二人をそれぞれ一位と二位に指名した。単独交渉権というものだ」
 皇帝は晴虎の前に右手を差し出した。
「貴公らには巨人軍に入団していただきたい。このような瀬戸内海に面した手狭な地で人生を終えるつもりはないだろう? わが永久不滅の巨人軍のV100に、是非とも貢献していただきたい」
 晴虎は皇帝の手に自らの手を――重ね合わせようとはしなかった。晴虎は皇帝の手を激しく振り払った。
「やなこった」
 晴虎は肩をすくめ、
「その巨人軍とやらのV100を阻止するのが俺らの務めなんでね。プロに入るかどうかは別としても、仮に入るんだったら巨人軍をぶっ潰せる他の球団に入るわ」
 晴虎は明虎と目を見合わせた。
「その通りだ。議論の余地はないな」
 二人は菜摘にも目を合わせた。何やら嬉しそうな顔で、頻りに顔を縦に動かし頷き続けている。
「と、いうことですな。おもんないボケもえぇ加減にせぇよ、ってわけ」
 三人は皇帝に対して背を向け、
「それだけ言いに来たんやったら、早よ帰ってな。これから試合するっちゅうんなら別やけど」
 晴虎はそう言い残して、その場を後にしようとした。
「ほう、巨人軍に入団したら、というのではいけないかな?」
 「父親」という単語に、二人は反応した。
「親父が?」
 二人の口からその単語が出てくるのは、ほぼ同時のことだった。
「15年前、巨人軍がV84を達成した年に行方不明になった、親父が……?」
「そのとき何が起こったのか、お主らにも想像できよう」
「…………」
 二人は押し黙った。そして父親の性格を必死に思い浮かべようとする。
「……まさか」
「そう、お主らの父親はいささかな者だったのでな――」
「野蛮とは何や野蛮とは!」
 晴虎が突然皇帝に殴りかかろうとした。だが晴虎の左ストレートを、皇帝はまるで何事もなかったかのように平然と受け止める。
「利き手で殴りかかるとは、ピッチャー失格だな」
「く……畜生!」
「それ以上はやめろ、晴虎!」
 明虎がなおも暴れる晴虎を引き離す。
「父親のことが気になるか。ならば本日の単独交渉権は保留にするとしよう。まだまだ時間はたっぷりあるのでな」
 皇帝は背後を振り返り、
「引き上げるぞ」
 そう言い残し、55000人の巨人軍は地平線の彼方に引き返していった。後に残ったのは三人と、寂寥感せきりょうかんだけであった。
「くそ!」
 晴虎は地面を叩きつけた。
「おい、皇帝に言われただろ、利き手を傷付けようとするなって――」
「やかましいわ!」
 晴虎の目はギラギラと、今は灯ることのない甲子園のナイター設備のように激しい光を湛えていた。
 
 
 
◇5回
 
「でも伯父さんのこと本当に気にならないん?」
「気になるよ、でも――」
 明虎が珍しく弱気を見せる。
「正直ここを離れられないんだよ、どうあろうと……」
「晴虎と明虎が他球団に入ったら、甲子園を守る人がいなくなっちゃう……」
「もう野球ができるやつは、俺と明虎以外は巨人軍にかっさらわれてしまったしな」
 何故甲子園を晴虎と明虎の二人きりで守っているのか。その理由は圧倒的な人材不足である。晴虎と明虎の父が行方不明になって以来、甲子園を守れそうな人間はみな巨人軍の支配下に置かれてしまった。野球の才能があるならまだ選手として生活できているだろうが、そこまでの才能がない者が今頃巨人軍で何をしているのか――。
「奴隷みたいな扱いを受けてるんやろか」
「縁起でもないこと言うなや……」
 重い言葉である。だが「奴隷」といってもいったい何を要求されるのか、世界から孤立された甲子園ではもう何もかもが分からない状況であった――既に甲子園以外の野球場が東京ドームレプリカに改築されていることすら、三人は知る由もない。
「じゃあさ、うちが伯父さんのことを探るってのは――」
「それは無しだ」
 明虎がきっぱりと菜摘を制止する。
「そんな危険を菜摘に押しつけられるわけないだろ」
「でもうちやって晴虎と明虎に危険を押しつけてるし……」
「それとこれとは話が別だ。甲子園を守れるのは僕たちしかいないんだから」
「そう言ってるけどな、甲子園のみんなは……」
 不意に菜摘が涙ぐむ。
「おいおいどうしたんや、急に泣き出して――」
「晴虎、黙っとれ」
 明虎は今度は晴虎を制止する。晴虎は大人しく従い、黙り込む。
 数分の後、落ち着いた菜摘が重い口を開いた。
「……晴虎と明虎の絶対能力に頼り切ってるんや。だってな、絶対に三振に仕留めたり、絶対にホームランを打ったりすんねんで。そんなん、嫌な言い方をすれば『ズルい』やん。自分らの出る幕ないやん。だから甲子園を守ろうとする人がな、晴虎と明虎以外誰も出てけぇへんようになったねん」
 それは晴虎と明虎の二人もうっすらと感じていることであった。あまりにも自分たちの能力が突出しすぎており、続く者が誰も現れてくれない。野球は本来九人必要なスポーツであるが、絶対的なピッチャーとキャッチャーさえいれば、もう他には誰も必要ない――。
 今度は二人が押し黙る番となった。何か言い出さないといけない、そう感じれば感じるほどいっこうに言葉が出なくなってしまう。ようやく言葉を思い付いたとしてもその言葉は喉に引っかかり、その先に出てくることは決してなかった。
 手詰まりである。結局のところ「巨人軍に入団することはない」という既定事実だけがあって、晴虎と明虎の父親をどうするかについて答えが出ることはなかった。
 
 次の日、である。
『単独交渉権は継続中である。菜摘を返して欲しければ今すぐ甲子園のグラウンドに出ろ』
 という置き手紙が晴虎と明虎の寝室に届いていた。
「どういうことや……」
 二人は菜摘の部屋をノックした。
「菜摘、菜摘!」
 だが部屋の鍵はかかっておらず、殺風景な部屋の中に残されていたのはこれまた一通の手紙であった。
『考えた末に、東京ドームに行って伯父さんのことを交渉しようと思います――』
「あのアホ……!」
 晴虎は頭を抱えたが、事態はそれどころではなかった。
「いくら何でも巨人軍の動きが早すぎる……」
 明虎は状況をそう判断した。
「もしかしてあの日に巨人軍が来る前から、僕たちの行動は巨人軍に筒抜けだったのでは……?」
 そう言った側から菜摘の部屋の天井の片隅に不自然な窪みがあることに、明虎は気付いた。明虎は高身長を活かして指を突っ込んでみた。何か、引っかかりがあった。
「こ、これは――」
 監視カメラ。
「まずいぞ晴虎、僕たちの部屋も確かめないと!」
 二人は慌てて自室に戻り、部屋の中を引っかき回してみた。すると案の定、不自然な位置に設置された監視カメラが複数発見された。
「俺らの行動は巨人軍にバレバレやったってことか……」
「スパイが甲子園にいた、ってことでもあるな」
「くそっ、誰や、俺らを騙しおったスパイは!」
 暴れようとする晴虎を必死に止めようとする明虎。
「やめろ晴虎、今はそんなことをしても無駄だ。それよりもまず、菜摘を……」
「…………」
 落ち着きを取り戻した晴虎。
「……そうやな、まずは外に待ってるっていう巨人軍をコテンパンに叩きのめさんとあかんしな」
「その通り。じゃあ早速ユニフォームに着替えないと」
 二人は大急ぎでユニフォームに袖を通す。
 
 今度はを埋め尽くす、47000の大軍――甲子園の収容人数とほぼ同等である。マウンド上に立つ皇帝は、右腕で菜摘をがっしりと掴んでいる。
「離せや、このエロジジイ!」
 暴れる菜摘。だが皇帝はびくともしない。菜摘程度の貧弱な小娘が暴れたところで、皇帝には何も影響を与えない。
「朕は皇帝なり」
「皇帝皇帝って、自分で言ってて恥ずかしないんか!」
「フフ……」
「さっさと菜摘を離せや!」
 一塁ベンチから飛び出た晴虎が大声を張り上げる。
「それはできぬ相談だな、この美しいさえずりを持つウグイス嬢を解放するなどとは――」
「うわ、きっしょ……」
 率直な反応を示す菜摘を皇帝は無視して、
「さてわが巨人軍に下れば、この小娘を解放してやってもよいのだが」
「ダメ、巨人軍なんかに入っちゃ絶対ダメやから!」
 菜摘の叫び声に、スタンドを埋め尽くす巨人軍関係者からブーイングの声が響いた。スタンドから投げ入れられる大量のゴミ――それらの多くが、的確に晴虎と明虎を狙い撃ちする。
 晴虎は明虎と目を合わせた。
「……巨人軍に下ることはできへんな。でも菜摘は返してほしいっちゅう『ワガママ』は聞いてもらいたいな」
 晴虎は皇帝を指さした。
「よし、皇帝がバッターかピッチャーか知らんけど、この俺か明虎とどっちかと勝負しろや! 俺らが勝ったら菜摘を返してもらう、俺らが負けたら巨人軍に下る以外のことやったら何でも聞いてやるわ!」
 立場を考えぬ自分勝手な要求に、再びスタンドから大ブーイングが発生した。今度はゴミだけではなく、ボールが晴虎と明虎に襲いかかってきた。
「甘い!」
 だがそれに易々と当たる二人ではなかった。明虎は襲い来るボールを全て打ち返し、ホームランに仕留めた。静まりかえる甲子園。
 その静寂を破ったのは、皇帝自身であった。
「……よかろう、巨人軍には入団しない、というワガママは聞いてやろう」
「何や、思ったより正直もんやな、あんた」
 だが晴虎の軽口も、それまでだった。
「この朕と勝負する前に、晴虎と明虎、お主ら二人が勝負せよ」
「!」
 この発言の真意に気付いたのは、菜摘と明虎だった。
「あっ……ダメ、ダメだよ、二人で投げ合ったら、そんな……」
 菜摘は二人に向かって叫んだ。
「お願いだからそれだけはやめて、、二人とも死んじゃうから!」
「何言ってんだ、菜摘は――」
 何も考えていない晴虎に対し、明虎が怒りを向ける。
「何も分かってないのか、晴虎!」
「だから何が――」
「いいか、僕の能力は絶対にホームランを打つ『絶対本塁打』、一方で晴虎の能力は絶対に三振に仕留める『絶対三振』。この能力を持つ二人が勝負したら、いったいどうなるか分かってるのか!」
「そりゃ……えっと……えっ? もしかして――」
「そうだ、『矛盾』だ。それこそ言葉の由来通り、どうやっても矛盾が発生する!」
「矛盾が発生したらいったいどうなるんや?」
「それは僕にも分からない。ただ、取り返しのつかないことが起こるかも――」
「話はそこまでだ」
 皇帝が話を切り上げさせた。
「勝負すれば勝敗に関わらず菜摘という小娘を解放してやろう。勝負しない場合は、菜摘は朕の下でウグイス嬢として仕えることになる」
「くっ……」
 二人には、最悪の選択肢しか残されていなかった。
「勝負……するしか、ないのか――」
 晴虎は力なくマウンドに向かった。皇帝はマウンドから三塁ベンチに下がり、晴虎のピッチングを受け止めるキャッチャーを派遣した。もっとも晴虎のピッチングを受け止める必要性など、
 バッターボックスに立つ、明虎。既にユニフォームが、汗でずぶ濡れになっている。
 逡巡しゅんじゅんする晴虎――だが晴虎にできることは、両腕を大きく振りかぶってボールを放り投げることだけだった。
 三塁ベンチに連れて来られた菜摘が、悲痛な叫びを上げる。
「もうやめて、お願い! うちのことなんて、もうどうでもえぇから!」
「そんなわけには……いかんやろ!」
「ダメー!」
 晴虎の投球フォームを、もう誰も止めることはできなかった。
 晴虎の左腕、左手、そして指から離れる、白球。時速30キロ東京ドーム長(3600キロメートル)を超える爆速の剛速球が、マウンドとホームベースの間にある甲子園の土を巻き上げる。
 明虎も冷静だった。明虎の握るバットが、ホームベース上の空間を切り裂く。
 白球とバットが、いま一つになろうとする。
 だがその瞬間、「矛盾」が発生した。
 勝負の結果を待たずして、二人は
 
 
 
◇6回
 
 因果律の果て、それは「無」を凝縮した暗黒の空間であった。無を漂う晴虎には、そこが因果律の果てであるということは分からなかった。ただ明虎にボールを投げたときに世界が弾けて――。
「明虎、明虎――」
 何も返答がない。いやむしろ、自分自身が発した言葉すら聞き取れなかった。
 孤独。漂っているとはいうものの、晴虎の頭のある方向が上で、脚のある方向が下という漠然とした情報しか得られなかった。前へ進んでいるのか後ろへ進んでいるのか、それとも回転しているのかしていないのか。重力を感じられない空間では、晴虎はただ「その場に留まっている」という認識しか持ち得なかった。
 しかし、晴虎は熱を感じた。晴虎の後ろポケットにしまっている「何か」が、暖かい。
 晴虎はそれを取り出した――菜摘からもらった「お守り」。表面を親指と人差し指で擦ると、袋ごしにも甲子園の柔らかな土の感触を感じられた。
 そして、お守りから光がき出ていた。
「この光、どこかへ通じているのか……?」
 晴虎は「泳いだ」。晴虎はまるで宇宙遊泳だなと一人ほくそ笑んだ。実際の宇宙飛行士も、宇宙空間ではこのように孤独を感じていたのだろうか――もっとも巨人軍が世界を支配した今となっては野球以外の全ての分野が後退し、人類が宇宙に進出することなどありえない状況となっているのだが。
 光は晴虎を導く。虚空をかく晴虎の両腕。そして、瞳が別の存在を捉えた。
 ――部屋。いや、施設といったほうがいいのだろうか。遠目からではいったい何の施設なのか分からなかったが、近付くにつれそれが何かを保管している博物館のたぐいであることが分かってきた。
 そして晴虎は降り立つ。重力が、一気に晴虎の肉体にのしかかる。
 数分後に重力に慣れた晴虎は、周囲を見渡した――バットが、ボールが、グラブが、ユニフォームが、展示されている。
「野球の、博物館……?」
 晴虎はとあるユニフォームの展示物に近付いてみる。白地に黒の縦縞の――。
「……『タイガース』? いったい何やこの球団、……?」
 晴虎は他の一角に場所を移動した。そこに掲げられているのは、優勝旗である。
「1985……『東京ドーム紀元』の前の、『旧暦』のことか……?」
 晴虎は呆然となった。1985年とは東京ドーム紀元が定められる前に用いられていた「西暦」という暦法に違いない。優勝旗の脇に飾られている写真。「巨人軍」の栄光が始まるはずだった1985年の覇者、「タイガース」――。
「その通りだ」
 晴虎の背後に、一人の男性が立ち構えていた。身長は約17ミリ東京ドーム長(2メートル)という巨漢であり、体重は8マイクロ東京ドーム重(150キログラム)はあるだろうか。肉体はまるで百年近くも鍛え続けたような、筋肉の権化と化している。二つに分かれた髭を湛え、細い目で晴虎をじっと見下ろしている。
「あなたはいったい――」
「私の名は『徐福じょふく』という」
「徐福……名前からして、関西出身やなさそうですね」
「その通りだ。私は君たちが『中国』と呼ぶ地からやって来た」
「中国……まさか『広島』の選手か何かですか?」
「……『中国地方』という意味ではない」
 微妙な空気が流れる。
「……とにかく、私は海を渡った中国大陸から『ここ』にやって来たのだ」
「そもそもここはどこなんですか? タイガース……っていう球団の博物館なのは分かるんですけど」
「歴史の浸食がそこまで進んでいるとは……」
 晴虎には徐福の言うことが理解できなかった。
「歴史の浸食って……あっ、確かに本来旧暦1985年は巨人軍がV1を達成した年のはずやのに、何でかここではタイガースが優勝したことになってますよね。もしかしてそういうこと――」
「事実はむしろ逆だ。西1985のが史実だ」
 晴虎は言葉を失った。
「そしてここは――『甲子園』だ。甲子園の中にある博物館、『甲子園歴史館』だ」
 晴虎は唾を飲み込んだ。
「いやいや、これまで甲子園を隅から隅まで探してみましたけど、そんな場所ありませんでしたよ。こんな真面目な話の最中にボケを持ち込まんといてほしいというか――」
「……君は根っからの関西人のようだな。巨人軍の横暴に染まっていないというか……」
 徐福は別の方角に向かって歩き出す。
「ついてきたまえ。君に失われた史実、を見せてあげよう」
 徐福は1985年の優勝旗の隣にある、「2003年」の優勝旗を晴虎に見せた。
「2003年……? もうこの頃には既に東京ドーム紀元が始まっていて――」
「そんな『紀元』は存在してはならないのだ」
 徐福は語る。
「そう、『本来の因果律』では毎年巨人以外のチームが優勝し日本一になる可能性があるのだ。だが因果律を操れる存在がこの次元に存在している」
「もしかして、巨人軍の魔球や秘打の力は皇帝の能力によるもので――」
「その通りだ、皇帝の能力によるもの――いや、本当の名を言おう。奴の名は『始皇帝』。いわゆる旧暦である西暦よりも前、今から2300年ほど昔の紀元前3世紀の中国大陸を統一した『しん』という国家の皇帝だ!」
「そんな! 2300年も人間が生きることができるはずが……」
「その通りだ。だから私が始皇帝の命に応じて『不老不死の霊薬』を探しに、2300年前にこの日本という国に辿り着いたのだ」
「つまり始皇帝……と徐福さんは、その不老不死の霊薬を飲んで――」
「いや、そういうわけではない。私は蓬萊ほうらい方丈ほうじょう瀛洲えいしゅうと呼ばれる『三神山さんしんさん』にある不老不死の霊薬を探しに来たのだが、ついに見付け出すことができなかった」
「ですが徐福さんは今も生きてるやないですか!」
「あくまでこの体は、別の場所で飲んだ『不老の霊薬』によるものであり、不死は三神山そのものの力によるものだ。私は三神山を離れて不死を保つことはできない」
 徐福は肉体を誇示した。
「不老となった肉体は鍛えれば鍛えるほど、無限にその筋肉を増大させていく。そして不老の霊薬を飲んだと同時に、『因果律』が乱れ始めた。私は『不確定存在』という絶対能力を身に付けてしまったのだ。日本各地に私の伝承が伝わっているのは、私が絶対能力により日本の複数の因果律に存在したことの証である」
「絶対能力……まさか!」
「そうだ、君たち晴虎と明虎の絶対能力は、『因果律を操る能力』なのだ」
「何で俺の名前を?」
「君たちは私の――子孫だからだ」
「徐福さんが、俺のひいひいひい……ひい爺ちゃん?」
「……まぁそういうことになるな。とはいえ不老の肉体をもってしても死の運命には抗えなかった。実は三神山は私が2300年前に来たときは海に沈んでいたのだ。私は死を悟ったとき、その海に自らを投じた。そして果てしない時の中で、三神山が陸地に浮上するのを待っていた――僅かでも三神山から発せられるであろう、不死の力を求めて。
 そして望み通り三神山の力で再び目覚めたとき、私は驚いた。三神山とは一塁と三塁の『二つのアルプススタンド』と、外野の『ヒマラヤスタンド』という三つの山を湛えた『甲子園』のことだということに!
 君たちには私の血の他に、甲子園の力も秘められているのだ――」
「山……甲子園の山は、六甲山だけやなかったんか……。それに、甲子園の力――」
 その後も徐福は晴虎に世界のあるべき姿を教え続けた。これまで知ることのなかった世界――。それは晴虎がこれまで決して知ることのなかった「真実」であった。
「せやけど徐福さん、でも何で俺と明虎に急にこの絶対能力が目覚めるようになったんですか?」
「それはだな――しまった!」
 真実を知るときは、急速に終わりを迎えることになる。
 突然世界が、乱れ始めた。甲子園歴史博物館が歪み、消えようとしていく。
「私は不老不死の霊薬を、あの暴虐な始皇帝に渡すのを恐れた。そのため私は不老不死の霊薬の秘密を隠したままこの甲子園の地で果てた。
 だが始皇帝もまた霊薬を飲んでいた。『不死の霊薬』を。史実では始皇帝は不老不死の霊薬を追い求める途中で死んだとされるが、実際は肉体が朽ち果てただけだ。その怨念が『永久不滅の巨人軍』と呼応したのがまずかった!」
 歪みは、振動を生み出す。もう晴虎はその場に立っていられなくなっていた。
「始皇帝が、因果律の果てにいる私と君の存在に気付いたようだ。もうここは長くは持たない。
 ――さぁ晴虎よ、君はのだ!」
「飛ぶって、いったいどこに――」
 徐福は晴虎が握り続けていたお守りに、そっと触れた。
「甲子園の土は甲子園に戻ってくるためにある。そして君はその力を利用して『特異点』と接触しなければならない。特異点と呼ばれる存在は、いかに因果律が変わろうと甲子園をあるべき因果律に戻すことができる。
 ……行け、特異点の存在する、の甲子園へ――!」
 徐福の指が離れた瞬間、晴虎は
 
 
 
◇7回
 
 あるべき因果律。あるべき歴史。あるべき結末――。
 時は、西暦1985年4月17日。東京ドーム着工の、約一月前。
 すなわち東京ドームを中心とした始皇帝の力は、まだこの段階では効力を発揮していないはずであった。
 ――本来ならば。
「何だあれは?」
 晴虎は自らが見たものが信じられなかった。
 舞台は甲子園、タイガース対巨人軍。7回裏タイガースの攻撃、マウンドに立つ巨人軍のピッチャーは――。
「人間や……ない……?」
 晴虎が目撃したものは、「野球ロボット」であった。全身が銀色の金属で構成されており、8番から始まる打線を前に背中に取り付けられたノズルから蒸気を噴射していた。
「メインシステム、モード『MAKIHARA』ヲ起動シマス」
 MAKIHARAと名乗るモードに変化した野球ロボットは、機械の右腕から剛速球――旧単位でいう時速4800キロメートルの超高速シュートを放り投げた。8番バッターのバットはボールにかすることなく、あっけなく凡退した。
 ――いや、。本来ならばこの8番バッターは
 この日のあるべき歴史は、晴虎の心に刻まれている――それはこの時代に生を受けていなかった者にも、「猛虎」であり続ける限り宿命付けられている記憶。
 晴虎は眼下に繰り広げられる「歪められた甲子園」を後にし、特異点を探しに再び因果律の果てに飛び立った。
 
 ――因果律の果ては、寂しい。因果律の果ては、切ない。
 因果律の果ては、何もない。
 どれほど「オレ」はこの地に留まっていたのだろう。
 一振りが、男たちを猛虎に変える。
 オレはそのために「この地」にやって来たはずだ。
 決して因果律の果てに「封印」されるためにやって来たわけではない。
 ――それはこのオレが「ガイジン」だからか?
 ガイジンはこの地では生きてはいけないというのか?
 オレには未来が見えていた。
 優勝、三冠王、日本一、MVP――。
 その記憶が、薄れていく。
 輝けるはずの活躍が、水の泡となって消えていく。
 だがオレは消えていない。
 他の猛虎たちは消え去っていったのに、何故だ?
 オレは、オレは……。
 オレの「名前」は――。
 
 そのとき、光が特異点に接触した――。
 
 歪みは完全ではなかった。甲子園では9番の代打こそ凡退したが、続く1番打者は四球を選び一塁に出塁し、2番バッターは歴史の歪みを修正したかのようにセンター前ヒットを打った。
 だが、続く3番バッターが存在しない。史実ではなのだ。存在しないということは、ありえない。
 ざわつく場内。黄色いタイガースファンに覆い尽くされた甲子園が、静寂に包まれる。
 ――その静寂を打ち破ったのは、一人のタイガースファンの少女の叫びだった。
 少女は、「一人の選手の名前」を連呼した。
 その声に応えるかのように、隣に立っていた父親が娘に続いた。
 かけ声が、甲子園を包み始めていた。地響きが、甲子園を激しく揺らす。中継映像が、激しく揺らぐ。
 その声は、遙か因果律の果てまで貫いていた。
 
 ――本来彼の名前は「バス」といった。
 だが「好調なときに『バス爆発』とか新聞に書かれたら縁起悪いやん。うちの会社、バスも運行してるんやから」という球団社長の一声により、彼の名は改名された。
 その瞬間、奇跡が起こった。後に「神様」と「仏様」と並び称されるこの男は「VERSE」、すなわち「宇宙」と化したのである。
 
「3番、ファースト、、背番号44」
「間に合った!」
 晴虎は肩で息をしている。だがその表情は、どこか満足げだった。
 史上最強の助っ人、「バース」の到来である。
 バースは始皇帝の力により因果律の果てに封印されていた。だが巨人軍を圧倒しタイガースを日本一に導く原動力となった彼は「因果律の特異点」であり、その存在を完全に抹消されることはなかったのだ。
 甲子園のボルテージは最高潮に達した。一方で野球ロボットは「史実の再現」に困惑している様子であった。
「コンナハズデハ、コンナ――」
 野球ロボットの放った不用意なシュートを、バースが捉えた。放物線を描いた白球を、センターが見送る――バックスクリーン
「やった!」
 晴虎が因果律の外から甲子園を見守るなか、悠々とベースを一周するバース。
 だが野球ロボットはまだ、完全に沈黙したわけではなかった。
「フ、バカメ。ココデVERSEガ登場シヨウトモ、続クKAKEFUトOKADAが存在シナケレバ意味ガナイ」
 確かに続く4番バッターである「掛布」と、5番バッターである「岡田」の姿がどこにも見当たらない。彼らはバースとは違い、因果律から完全に追放されてしまったのだ。
「ソレニ、見ルガイイ!」
 現在の得点は、4対9――史実では4対のはずである。
「タトエココカラ二人ガほーむらんヲばっくすくりーんニ叩キ込モウガ、ワガ巨人軍ニ追イツクコトナドデキナイノダ!」
 
 このままでは史実である「バックスクリーン3連発」が実現できない。晴虎は因果律の外で、為す術もなくうなだれた。
「タイガースが、負けてしまう……巨人軍のV1が、V100が達成されてしまうやないか――!」
 絶望に打ちひしがれる晴虎。だが、その晴虎の肩を叩く者があった。
「ヘイ、晴虎、その甲子園の土を『オレ』にも分けてくれないか?」
 振り向いた晴虎は、驚きを隠そうにもそれができなかった。
 
 掛布と岡田の存在が抹消された世界では、タイガースの4番と5番打者が空白となっていた。再び甲子園はざわめきに包まれる。違和感――そのような単純な言葉が、ファンの間に漂う空気を正確に描写している。
 バースの叩き込んだホームラン。だがこのまま4番打者が出場しなければこの試合は「没収試合」となってしまう。そしてそのまま勢いに乗った巨人軍が、優勝をもぎ取ってしまう――。
「ドウシタ! ソレデ終ワリカ!」
 はやし立てる野球ロボット。だがタイガースの監督はいるはずのない掛布と岡田を探し、右往左往するばかり。
 ついに審判がマイクを持ち、甲子園を埋め尽くす観客に没収試合の宣言を行おうとした、そのとき――。
「4番、セカンド、、背番号45」
「何ィ!」
 野球ロボットが驚愕するのも無理はない。目の前に登場したバースは、「1988年以降もタイガースで活躍し続けるからやって来たバース」なのだから。
「ソンナ、ソンナ、アリアナイ! 何故VERSEガ二人モ……!」
 野球ロボットの動揺が、バースのホームランを誘った――バックスクリーン
「5番、サード、バース、背番号46」
 5番に登場したのは、「大リーグで活躍し続けるからやって来たバース」。バースは野球ロボットの甘い球を、苦もなく叩き込んだ――バックスクリーン
「ダ、ダガばっくすくりーんハ3連発マデト――」
「6番、ショート、バース、背番号47」
「ナ……何故ダ、何故VERSEガソンナニ存在スルノダ!」
 バースの球はバックスクリーンに突き刺さる――バックスクリーン
 バースは決して一人、「ユニバース」ではなかった――「マルチバース」として、複数の因果律にそれぞれが存在するのだった。
 それこそが、特異点の真実――。
「7番、レフト、バース、背番号48」
「8番、センター、バース、背番号49」
「9番、ライト、バース、背番号50」
「1番、ピッチャー、バース、背番号51」
「2番、キャッチャー、バース、背番号52」
 ――バックスクリーン
 野球ロボットの機械の体は、文字通り黒煙を上げ「炎上」していた。ボールを投げ続けていた右腕は肩から外れ、マウンドの下に転がり落ちていた。
「……オノレ、VERSEメ……」
 野球ロボットの右目が、弾けた。
「ダガマダ試合ハ終ワッテハイナイ……史実デたいがーすハ最終回ニぴんちヲ迎エル……ソコガ……新タナル……因果律ノ……分岐点――」
 小さな爆発音が聞こえると同時に、野球ロボットの体が崩れ落ちた。
 そして甲子園に降り立ったマルチバースがそれと同時に、元いた因果律へと帰還していった――その間際、彼らは晴虎にウィンクし、親指を真上に立てていった。
 
 だが、戦いはまだ終わってはいない。
 突然、時空が加速した。7回裏の「バックスクリーン9連発」は早くも過去となり、9回表の巨人軍の攻撃を迎えていた。
 ――12対11。タイガースの投手陣は、巨人軍の秘打に捕まっていたのである。
 そして晴虎は気付く。自らが縦縞のユニフォームを身にまとい、マウンドに立っていることを。
 そして目の前のバッターが――暗黒の巨人軍のユニフォームに身にまとった、「明虎」であることを。
 
 
 
◇8回
 
「久しぶりだな、晴虎」
「久しぶりって、二人で勝負してからまだ一日も経ってへんはず――」
 そこで晴虎は息を飲み込んだ。二人は因果律の果てに追放されたのだ。時間の進みが異なるという可能性を捨て去ることはできない。
 現に明虎の顔は晴虎に対する、いや「タイガース」に対する憎悪に満ち溢れている。
「もしかして明虎、巨人軍にされて――」
「勘違いするな、これは僕自身の意思によるものだ」
「洗脳された奴は皆そんなことを言うんや。目ぇ覚ませや、明虎!」
「勘違いしているのは晴虎のほうじゃないか? よくもまぁそんなを平然と着れるもんだ」
「存在しないんは――」
 晴虎は顔を右側に向け、
「あっちのほうや」
 グラブを三塁ベンチに突き刺した。巨人軍の選手たちが晴虎のオーバーなアピールを見て苦笑している。
「巨人軍はこの試合に勝つことはできへんかった。そんでバックスクリーンへのホームラン連発の勢いに乗ったタイガースが、ペナントを制した」
「そんな歴史は知らんな」
 明虎がバットでホームベースを軽く小突く。そしてバットをバックスクリーンに向かって突き出した。
「バックスクリーンにボールを飛ばせるのは、何もマルチバースだけではない」
 そして、構える。
「この僕もだ!」
 浜風が、甲子園に上る旗をはためかせている。タイガースの旗、そして日本国旗――いずれも晴虎が、そして明虎も目にしたことがないものであった。
 そして甲子園には、いつしか晴虎とその球を受けるキャッチャー、迎え撃つ明虎、判定を審判する主審しか存在しなくなっていた。他の内野手や外野手はおろか、観客までも消え去っていた。
 因果律が、元に戻らない。
 晴虎は焦りを覚えていた。つい先ほど体験した「矛盾」が生じて、またしても二人が因果律から消失してしまう可能性があることに。
 だが明虎は動じていない。
「何を焦ってるんだ、晴虎。早くボールを投げろよ」
 その一言に、晴虎は答えた。
「……双子の兄弟やからって、俺が手加減すると思うなよ!」
 時速3600キロメートルを超える内角攻め。しかし明虎は微動だにしない。球が一個分だけ外にはみ出し、判定はボールとなった。
「ストライク以外は振る価値もない」
「まさか、あの速さのボールの判定を見極められるとは……」
「当たり前だろ? だてに何年晴虎のキャッチャーを務めたと思ってるんだよ」
 明虎が、晴虎をにらみ返す。
「晴虎の球を知っている僕が、圧倒的に有利だ」
「くそ、何を!」
 今度は外角低めへの速球。それを、明虎は捉えた。
「!」
 打球は大きくライト側に伸びる。あわやホームランかと思われたが、僅かに打球が右側に逸れファウルになった。
 晴虎は動揺を抑えることで精一杯だった。――絶対能力が、
「そうだ、僕たち二人の絶対能力とは『因果律を最善に導く力』。だが旧暦1985年という時代に僕たち二人が戦い合っているということ自体が、んだよ」
 明虎が素振りを挟んだ。猛烈なスイングが引き起こした風は遙かスタンドにまで届き、浜風を大きく乱した。
「因果律がどうのこうのではないんだよ。二人とも絶対能力はここでは使えない。一対一の実力勝負っていうわけだ」
 明虎のその一言に対し、晴虎が不気味に笑い出した。
「何がおかしい?」
 グラブで口元を隠す晴虎。
「何もおかしくなんてないさ。確かに明虎は洗脳されてる――せやけど、根本のところでは
「だから僕は洗脳されてなんて――」
「そう! 明虎は本当は戦いたかったんや。絶対三振と絶対本塁打、これまで俺ら双子が戦わんかったんは始皇帝が言った通り、矛盾が怖かったからや。現に矛盾が発生した結果、俺らは因果律の果てに追放されてしもうたんや。
 せやけどな――」
 そう言うと晴虎は両腕を振りかぶり、左手から弾丸のようなストレートを放った。真ん中低めのストライクに、明虎は手を出せなかった。
「本当は戦いたかったんやろ? それが明虎の本心なんやろ?」
「……うるさい、黙れ!」
「いーや、黙らんから。実を言うとな、俺やっていつの日か明虎と一対一の真剣勝負がしたかったんや」
 風が、甲子園の土にさざ波を立てている。風の放つ冷気が二人を覆う。
 それにも関わらず、汗が止まらない。それは不安から来る汗ではなく、「期待」から来る汗であった。
御託ごたくはいい。ツーストライクだ。どうせ外さずに次の一球で決着を付けようとするんだろ?」
 これまで決して晴虎に見せたことのない、明虎の凍てつくような視線。
 それに対抗する、晴虎の焼きつくような視線。
 二筋の視線が、交差する。
「いくぜ、俺の魂の一球を、受けてみぃや!」
「タイガースという存在してはならないものを消し去るため、僕が因果律を断ち切る!」
 時速、6000キロメートル。常人には視認できない速度のボールは、ホームベースに辿り着く刹那に周囲の気流を見出し、
 えぐられたホールベースは作用反作用の法則に従い、フォークボールと同等の勢いをもって遙か天空へと跳ね上がった。
 ホームベースの欠片が、浜風に流されレフト方面に消えていく。
 そして同じく舞い上げられた砂埃が晴れた跡には――明虎が空振りの姿勢のまま、その場に固まっていた。
「三振、バッターアウト、ゲームセット!」
 世界は「タイガース勝利」という、あるべき因果律へと戻っていった。
 
「――ん、僕は……」
「起きたんか、明虎」
 目覚めた明虎の目に映ったのは、晴虎のはにかんだ笑顔であった。
「僕はいったい……」
「覚えてへんの? 俺と勝負したこと」
「いや、でもそうしたら矛盾が生じて僕たちは――」
「何や覚えてへんのか、えらいもったいないなぁ!」
 晴虎はわざとらしく頭を抱えてみせた。もっとも明虎には晴虎のそれが何を意味しているのか、まるで分かっていなかった。
「ところでここはどこなんだ?」
「因果律の果てっていう所」
「因果律……そうか。僕たちの絶対能力も、本来は因果律を操る能力だったな」
 立ち上がろうとする明虎。だが因果律の果てには上下という概念がない。二本の脚で立つべき「床」というものも存在せず、体勢を崩した明虎は晴虎にもたれかかる形となった。
「何だよ、抱きつくとかまるで小学生みたいやん」
「……確かにそうだな」
 しばらくその姿勢のまま、明虎は思いを馳せていた。
「……親父にも、昔はこうして抱きついていた記憶があるな」
「そう、だからこれから親父を探しにいかなあかんねん」
「でもどうやってここから脱出するんだ?」
「それはな――」
 晴虎は、菜摘からもらったお守りを取り出した。
「この中に入ってる甲子園の土がな、俺らを甲子園に導いてくれんねん」
 だが晴虎の説明をよそに、明虎はじっとお守りを見つめている。
「この小袋……菜摘のだな」
「何で分かったん……あっ、しまった――」
「はぁ……」
 明虎は嘘を吐けない晴虎に呆れつつも、
「あれ、だとしたら何で僕は菜摘からお守りをもらってないんだ……?」
 という根本的な疑問にぶち当たってしまった。
(そうか、明虎は甲子園の土を持ってなかったから、俺とは別の因果律に導かれてしもうたんか……)
「晴虎、どうした?」
「……いいや、何でもない。それに、そろそろここから戻らんとあかんみたいやな」
 お守りから、光が発せられている。光は因果律の果ての「さらに果て」を指し、二人を導こうとしている。
「よし、そろそろ『俺ら』の甲子園に帰ろう。菜摘も、そして親父も助け出さんとあかんしな!」
「おう!」
 二人は光の指し示す先を目指す。
 
 
 
◇9回
 
「これは……何なんや……?」
 晴虎と明虎が目にしたのは、「東京ドームレプリカに改築された甲子園」だった。二人が元の時代――いや「改変された元の時代」に戻ってこられたのも、改築現場に僅かに残った甲子園の土が風に運ばれてきたためにすぎない。
「どうして……タイガースが日本一になって、巨人軍のV100の野望は阻止されたのでは……?」
 明虎が呟いた瞬間、目の前の東京ドームレプリカから巨人軍の軍団が姿を現した。だが選手たちの姿は全員同じ。金髪に碧眼へきがん、そして特徴的な顎髭あごひげ――。
「バ、やと……!」
 マルチバース――いや、巨人軍の暗黒のユニフォームに身を包んだ「ダークバース」の軍団が行進していた。そしてダークバースの一人が、二人を発見した。
「侵入者を発見した。直ちに『オレたち』が迎撃する」
 ダークバースたちはバットを構え、トスバッティングで二人に襲いかかった。二年連続で三冠王を達成したバースの放つホームラン性の打球が、次々に飛来する。
「しゃらくせえ!」
 ボールを打ち返す明虎。打ち返されたボールは絶対本塁打の力によりダークバースの一団に到達、多くのダークバースたちが吹き飛ばされた。
 だがダークバースたちは続々と東京ドームレプリカから出現する。
「どんだけの数のバースさんがおるんや……?」
「おそらく『全ての』マルチバースのバースがいるのでは――」
「その通りだ」
 不意に二人に声をかける人物。
「その声は……徐福さん!」
「知ってるのか、晴虎?」
「知ってるも何も、この人は因果律の果てで俺を助けてくれた命の恩人なんや」
「今はそんな悠長なことを言っている場合ではない!」
 徐福は二人の手を掴んだ。
「いったん、この場から逃げるぞ」
「逃げるってどこに――」
「もう変わってしまったあの場所に、だ」
 三人は瞬時に消えた。その直後に三人がいた場所にダークバースたちのホームランが着弾し、巨大なクレーターを形成した。
 
「いったいどうなってるんや、ここは甲子園歴史館やないんか?」
 甲子園歴史館に導かれたはずの三人。だが晴虎と明虎が見たものは、1985年の優勝旗だった。
「どうして……俺が巨人軍の優勝を阻止したはずやのに――」
「バースの存在が鍵となっている」
「でもバースがいなければタイガースの優勝は為し得なかったはずでは?」
「確かにバースは因果律の特異点だ。だが因果律の数式上、特異点は『無限』を意味する。そのバースがマルチバースとして複数登場したことにより、文字通り無限の力が生まれたのだ。
 始皇帝は、その力を利用した。本来ならばタイガースの特異点として働くべきはずのバースの力を、永久不滅の巨人軍のために働く力として各地の東京ドームレプリカに駐屯するようのだ。秦の時代に築いた『兵馬俑へいばよう』を、始皇帝はこの時代に再現しようとしているに違いない!」
 そのとき、地鳴りが因果律に響いた。
「しまった、巨人軍の『V100』が達成されてしまったようだ」
「なんやって! 俺らが戻ったんは巨人軍がV99を達成した年やなかったんか!」
「因果律を改竄かいざんする始皇帝の絶対能力『焚書坑儒ふんしょこうじゅ』が、マルチバースの力により強化されたのだ。もうこの世の常識も物理法則も、始皇帝にとっては何も関係がない……! 
 だが――」
 徐福は二人の肩に手を触れた。
「私の絶対能力『不確定存在』により、君たちを東京ドーム原器に導くことができる。私がいま生きているのは甲子園の力のおかげだ。甲子園の土が完全に消え去ろうとするなか、残念ながら私はこれ以上君たちについていくことができない」
 晴虎と明虎の視界から、徐福が消え去ろうとしている。
「徐福さん!」
「心配するな、私は不老の肉体を持っている。いつかまたどこかで会うことになるだろう――」
 徐福の姿が完全に消えた。いや、二人の姿が完全に消えたのだ。
 
 東京ドーム原器に辿り着いた二人が見たものは、激しく振動する東京ドーム原器――世界が暗闇に包まれるなか、ただ一点だけ東京ドーム原器がまぶしく輝いている。
「割れる、天井が割れる……ドームや、なくなる――」
 ひび割れる天井。そして、東京ドーム原器の中心から光の柱が天空に向かって伸びていった。光の柱は「月」をぎ払い、一瞬で消滅させた。
 柱が消え、月も消えた今、世界から光が消えた。
 ――否、天井が開いた「元」東京ドーム原器の内側に、さらなる光が宿っていた。
 ――始皇帝の、「魂」。
「今宵、東京ドームは『孵化ふか』し、新たなる地上の『楽園』へと姿を変えた」
 始皇帝の言葉が、直接二人の耳に届く。
「新たなる、『巨人・大鵬たいほう・卵焼き』――。巨人はその名の通り『巨人軍』、卵焼きはBIG EGGたる『東京ドーム』を表す。
 そして大鵬とは――感謝するぞ。まさか大鵬の鍵を握っていたのは、お主らの『血』であったとはな」
「いったい何を言いたいんや?」
「菜摘という小娘……彼女は、お主らよりも良い働きをしてくれた」
「ご観戦中のマルチバースの皆様にお知らせいたします。ただいまより――」
 突如、破壊された東京ドームの内側から菜摘の「ウグイス嬢」としてのコールが聞こえてきた。 
「菜摘! この皇帝野郎、菜摘が大鵬とやらと何の関係があるんや!」
「お主らは徐福の血を受け継いでいる。当然いとこである菜摘とやらも、徐福の血を受け継いでいるはずだ」
「……まさか、俺らと同じ――」
「そうだ。そして菜摘は徐福の血を最も色濃く受け継ぎ、突然変異とでもいうべき絶対能力を身に付けていた。菜摘の声を聞いたものは、自らの因果律に関する能力を『覚醒させる』ことができる――絶対能力、『因果覚醒』!
 この小娘こそが――三種の神器の一つ、全ての因果律に響き渡る美しき声を持つうぐいす、『大鵬』であるのだ!」
 晴虎と明虎は愕然とした。自らの絶対能力である絶対三振と絶対本塁打が、実はということに――。
「菜摘のウグイス嬢のコールで覚醒した朕のマルチバース軍団は、これまでにもなくペナントレースを善戦してな。晴虎が旧暦1985年で見せた甲子園バックスクリーン9連発など生温い。こちらは東京ドームバックスクリーン99だ」
「そんなことはどうでもいい! 菜摘を返せ!」
「三種の神器の力を分からぬ愚か者め――お主らを葬る!」
 始皇帝の威圧が、巨大な風の柱を形成した。
「朕は思い違いをしていた。永久不滅の巨人軍が保有する東京ドームを度量衡の基準とし、巨人軍のV100を達成することで、朕の絶対的な命と、絶対的な繁栄が手に入ると。
 だが永久不滅の巨人軍を宣言した長嶋は、この宣言を『後楽園球場』で行っていたのだ。長嶋は東京ドームを知らぬ――朕の作り上げた、『もう一つの因果律』ではな!」
 その瞬間、波動が広がった。世界が、さらなる変革を告げる。
 時代が。東京ドーム完成を遙かに遡り、長嶋茂雄の引退を遙かに遡り、巨人軍V9達成を遙かに遡り、巨人軍V9の礎となるV1を遙かに遡り――。
 
 ――1959年6月25日、巨人軍対タイガース戦、長嶋茂雄が「天覧ホーマー」を放つ――。
 
「V100を達成した今、朕に足りないのはこの『天覧試合』だ! タイガースという球団の亡霊たる晴虎・明虎兄弟を、始皇帝たる朕自らが天覧ホーマーで天に召させてやろう!」
 晴虎と明虎の眼前にある、東京ドーム「だったもの」の入口が開いた。
「そしてタイガースの亡霊が存在しなくなった暁には! 三種の神器が生み出した現代の『阿房宮あぼうきゅう』たるこの楽園――『最後楽園球場さいこうらくえんきゅうじょう』を中心として、を超える『メークエターニティ永久不滅』を朕が実現させるのだ!」
 烈風が、星空を覆い隠し大気を乱す。
「……さぁ、『第二次野球世界大戦』の開戦だ!」
 始皇帝の高笑いが響くなか、二人の周囲を取り巻く世界が
 
 
 
◇延長10回
 
 そこは、白黒の世界だった。どことなく風景にも、歪みや欠損が生じている。
「『白黒テレビ』の世界――」
 明虎が呟く。
「テレビに色がなかった時代から野球は続いてたんやな」
「それどころか、テレビがない時代から野球はプレーされ続けていたからな」
 明虎は持っていたバットを始皇帝に向ける――だが今の始皇帝に肉体は存在しておらず、魂だけの存在となっていた。
「お体のほうはいったいどうしたんだ?」
 明虎の皮肉を、始皇帝は冷静に返す。
「徐福から聞いておろう。朕は不死の霊薬を飲んだが、不老の霊薬を飲むことはあたわなかった。自らの両脚で立つためには、他の巨人軍選手の肉体を借りる必要があったのだ。
 朕には顔はなく、体もない。だがそれでよい――朕に必要なのは『不老』の肉体のみ! 朕の本当の姿など、とうに昔に忘れてしまってな!」
 始皇帝の魂が、最後楽園球場の遙か上空に到達する。
「だがお主らの相手は、目の前にいるだ」
 晴虎と明虎はピッチャーマウンドに目を向けた。そこに存在したのは、1985年に存在した野球ロボット――ではない。似てはいるが、
「『野球サイボーグ』とでもいうべき存在であるな。旧暦1985年にマルチバースに敗れ去った野球ロボットを元に、百年かけて改善を繰り返した朕の最高傑作よ!」
 野球サイボーグはギブスに全身を包まれ、身動きが取れない状態にあった。
「さぁ、ついに長年身に付けていたギブスを外すときが来た!」
 刹那、ギブスが弾け飛んだ。砕け散ったギブスの欠片が遙か後方に吹き飛び、スタンドに突き刺さる。スタンドを埋め尽くしていたダークバースたちが、四散する。
 野球サイボーグの首から下は筋肉隆々の肉体をしていた。だが帽子の下は、醜いガスマスクのようなもので覆われている。野球サイボーグの正体がいったい誰なのか、誰にも分からない。
 全ての準備が、整った。
「メインシステム、モード『SAWAMURA』を起動します」
「『沢村』やって!」
「巨人軍の伝説のピッチャー……その力を受け継いでいるというのか!」
 明虎の額に汗が滲み出た。
「始皇帝本人が下に降りてこないということは、あのピッチャーの相手はこの僕だということだな」
 明虎がバッターボックスに立った。
(ホームランで決めたい、が……)
 明虎は薄々感じ取っていた。ということに。
(絶対本塁打の力は……封印されている!)
 明虎の思考を読み取ったかのように、始皇帝が高らかにえた。
「明虎よ、お主がいま考えているであろうことが『絶対』だ。因果律は収束に近付いている。全ては朕が目指す、永久不滅の巨人軍の未来へと一直線に進んでいくのだからな!」
「……そんなの分かるかよ」
 明虎は数回、素振りをした。
 そして、静かに戦いが始まった。
「僕が立つときには菜摘にウグイス嬢のコールをさせないなんてせこい真似をするねぇ、始皇帝ってやつは」
 野球サイボーグが、高らかに左脚を振り上げた。そして繰り出す時速60キロ東京ドーム長(7200キロメートル)のストレート。見送った判定はストライク。だが捕球した「サイボーグキャッチャー」がたった一球で破壊され、すぐさま別のサイボーグキャッチャーが補充された。
「選手は使い捨てってわけか」
「使い捨てだと? そうだ、選手は朕に仕えるためだけの存在! 不要になれば即座に切り捨てられるのがこの世のならいではないか!」
「……へっ、気持ち悪いな」
 明虎はヘルメットのつばに手を当てながら、
「僕はね、あんたのそういうところが嫌いなんだよ」
「ふん、朕に刃向かうとどうなるか――思い知るがいい!」
 続く野球サイボーグの投球が――明虎を襲う。
 故意死球である。頭部に直撃した速球はヘルメットを粉砕し、吹き飛んだ明虎はキャッチャーと主審を巻き込んでバックネットに激突した。
「明虎!」
 晴虎が明虎に駆け寄る。サイボーグキャッチャーと同じくサイボーグである主審も完全に破壊され、一方の明虎は微動だにしない。
「よくも、よくも――!」
 目に涙を溜めた晴虎は明虎に激突したボールを手にし、始皇帝の魂に向かって投げようとした。
「ま、待て――」
 覚束ない手付きで、明虎が晴虎を制止した。
「まだ終わっちゃいない、ぜ……。何せ僕は絶対本塁打の能力を持つバッター……ホームランを打たないと、いけないんだよ……」
「でも今のはデッドボールで――」
「そんなもの、バッターが申告しさえすれば、ただの……ボールだ」
 明虎はバットを杖代わりにし、再びバッターボックスに立った。
 そしてよろめく手で、予告ホームランを宣言した。
「……吹き飛ばす!」
「ふん、SAWAMURAの真髄を舐めるな!」
 高く上がった左脚と逆方向に低く下がる右腕。そして振り子のようにしなる右腕が繰り出したのは、打者の手前で急速に落ちるドロップボールであった。
 為す術もなく空振りに倒れ尻餅を付く明虎、三度破壊されるキャッチャーサイボーグ。
「その程度か、明虎! 絶対本塁打を失った貴様を待ち受けているのは『三振』あるのみだ!」
 野球サイボーグの挑発に、力なくふらふらと立ち上がった明虎が答える。
「僕は……ホームランしか能のない人間なんでね……!」
 構える明虎。構える野球サイボーグ。次のボールは決して外すことはない、再びドロップボールで来ることは確実――明虎には、そのような直感が働いていた。
「次で……仕留める!」
小癪こしゃくな! わが魔球で地に伏すがよいわ!」
 予想通り、野球サイボーグがドロップボールを投球した。時速60キロ東京ドーム長。
「同じ手は、二度と食らわねぇんだよ!」
 手前で大きく落ちるドロップボールを、明虎はすくい上げた。
 ボールは野球サイボーグを強襲し――捉えた。
「バ、バカな、そんなことが――」
 打球がバックスクリーンに吸い込まれていく。打球はどこまでも伸びていき――。
 轟音とともに、野球サイボーグがスコアボードに突き刺さった。全身から血を流す野球サイボーグ。そして頭から落下し、外野フィールドへの衝突の衝撃でマスクが割れた。
 
 最初に気付いたのは、晴虎だった。
「まさか、あの顔は……――?」
 ベースを一周した明虎が、晴虎の様子に気付いた。二人は急いでセンター側に倒れた野球サイボーグの下に駆け寄る。
 それは紛れもなく二人の父親――富由喜ふゆきの姿であった。
「親父、しっかりしろ!」
 富由喜の目には涙が浮かんでいた。
「私は、私は……」
「親父、無理するな、もう喋るな!」
 明虎の言葉に、富由喜は首を振った。
「いや、私にはお前たちに話さなければならないことが……ある」
 富由喜の口から吹き出す血。富由喜を支える二人の手が、赤く染まった。
「私は……弟のを……オールスター戦で殺してしまった……」
 富由彦は菜摘の父親である。幼い頃に試合中の事故で亡くなったと聞かされてはいたが、実際は――。
「私は怖かったんだ。合従策で始皇帝に刃向かう――そんなことが……できるはずなんてなかったんだ。だから私は……連衡策をもって始皇帝に取り入ろうと――」
 血を伴う咳が続く。
「もういい、もういいよ、親父――」
「だが私は自責の念に駆られた。自ら殺してしまった弟のかたきというのもおかしな話だが……私は巨人軍のV84の祝勝パレードで始皇帝に故意死球を――」
 富由喜の息が、続かない。
「ふっ……それが失敗してこの有様だよ……囚われた私は……改造手術を受けて……」
「野球サイボーグの正体が親父だと僕が気付いていれば、こんなことには――」
「どうせ……この一試合で私の体はボロボロになって朽ち果てるはずだったんだ……そう、悔いることなんて、何一つない……」
「でも、でも――」
「泣くな、明虎、それに晴虎……」
 富由喜は震える手で、二人の涙を拭いた。だが涙の代わりに、富由喜の血がべったりとこびりついてしまった。
「すまない、だが、始皇帝を、止められるのは、お前たち……だけ――」
 富由喜が、力尽きた。
「親父~!」
 晴虎と明虎の慟哭どうこくが、最後楽園球場にこだまする。
 晴虎は、宙に浮かぶ始皇帝に向かって吠え立てた。
「始皇帝! 次は……この俺が勝負してやる! 貴様を――絶対に三振に打ち取ってみせる!」
 
 
 
◇延長11回
 
「よかろう。だがその前に、肉体を調達せねばならんな――」
 光の中心から、人影が浮かび上がってきた。
 それは、だった。
「じょ、徐福さん!」
「朕を裏切りつつも不老の肉体を手に入れるとは大義たいぎであったぞ、徐福」
 光が、徐福に吸い込まれていく。
「不老の肉体に、不死の魂が入り込む。これこそ、永久不滅の肉体なり!」
 発散した光が、最後楽園球場に「色」を取り戻した。
 ――ただでさえ巨大だった徐福の肉体が、不死の魂を経てさらに膨張を続けていく。
「始皇帝とは『始まり』の皇帝を意味する。なれども2300年の時を経て、朕は永久となった! もはや始まりという言葉など不要!」
 始皇帝の肉体が、左バッターボックスに降り立つ。衝撃で、東京が揺れる。
「二世皇帝は死んだ、三世皇帝より後は存在すらしなかった。だが今宵、全てを終結させる永久不滅の『万世皇帝ばんせいこうてい』が、ここに降臨する!」
 はち切れんばかりの筋肉が、巨人軍のユニフォームを引き裂いた。その下から、金色こんじきの肉体美が輝き出す。
「朕の肉体が、朕の因果律が、貴様らを因果律から『永久追放』する!」
 万世皇帝は「赤バット」を握りしめた。V9時代の巨人軍監督であり打撃の神様「川上哲治てつはる」が握っていたバットが、赤い妖気をみなぎらせている。
「ご来場の皆様にお願いいたします。試合中はファウル『オーラ』の行方には、充分ご注意ください」
 大鵬たる、菜摘の声。その瞬間、万世皇帝からオーラが発せられた。オーラは最後楽園球場全域を包み込み、ナイター照明の代わりとなった。
 その目を覆わんばかりの光の側で倒れる明虎に、晴虎は駆け寄った。
「立てるか?」
「……あぁ」
 明虎はゆっくりと立ち上がり、
「晴虎の球を受けないと、いけないからな――」
 明虎は優しい笑みを浮かべた。それは、全てを悟った瞳。
「大丈夫。俺は勝つ」
「だろうな」
 二人は堅く手を握り合った。
「貴様ら何をしている? 早くも勝者気取りか?」
 そして菜摘が、万世皇帝の存在を告げる。
「1番、指名打者、万世皇帝」
「うおぉ!」
 万世皇帝の咆哮ほうこうが、最後楽園球場の因果律を歪める。
「――背番号、『無限』」
 万世皇帝の背中に、∞のマークが浮かび上がる。
「これが大鵬の力を浴びた朕が新たに発現した、全ての絶対能力を我が物とする能力『絶対因果』! 収束しつつある因果律で、唯一朕のみが絶対能力を扱うことができる! ∞の力を得た朕に、貴様らが勝つ見込みなど万に一つもない!」
「うっ!」
 明虎がうずく。明虎から出てきた「何か」が、万世皇帝の肉体に吸収されていく。
「まさか、明虎の絶対本塁打の力を――!」
「朕は! 長嶋が達成した天覧ホーマーを、自ら決めるのだ!」
 もはや万世皇帝は、人間と呼べる存在ではなかった――「鬼神」。∞の力を得た万世皇帝は鬼であり、神であった。
 明虎の体が、微かに震えた。
 だが一方の晴虎は、不気味なほど落ち着いていた。
「何が大鵬だよ、菜摘は菜摘だ。それに――」
 晴虎が振りかぶった。
「菜摘は、俺らの『仲間』だ!」
 晴虎の投球が、明虎のキャッチャーミットに吸い込まれる――。
 だが、万世皇帝の赤バットは見事に捉えていた。
 弾丸というには、あまりにも速すぎた。晴虎は反射的にライナーをグラブに収めるも、その衝撃で肉体が遙か後方――センターフェンスへと吹き飛ばされた。
 ランニングホームランか――だが晴虎は打球を捕らえたままフェンスに激突し、
「――何や、今のは」
 全てが、元に戻っていた。何事も、
 晴虎の左手には、ボールが握られている。
「……絶対三振も絶対本塁打も、その能力は単純――『三振に仕留めるか本塁打を打つまで因果律を改変し続ける』、たったそれだけや」
 晴虎はバッターボックスの万世皇帝をにらみつけた。
「ランニングホームランを打てんかった、というより天覧ホーマーを打てんかったからんやろ」
「それは貴様らがこれまでに行ってきたことだろう?」
 巨大な体躯たいくをした万世皇帝が返す。
「ならば朕もホームランを打つまで、因果律を改変し続けるのみ!
 そして察している通り、貴様の絶対三振の能力も奪い去った。貴様は三振に仕留めることなく、朕にホームランを打たれるまで永久に投球し続けなければならないのだ!」
「打てるもんなら……さっさと打ってみろや!」
 続く打球も――ピッチャーライナーだった。晴虎の左腕を砕いた打球は高く上がり、それを捕球したところでまたしても晴虎は果てた。
 そして、何事もなかったかのように――いや、因果律が元に戻る。
「どういうつもりや」
 万世皇帝が笑い返す。
「ふん、貴様らには辛酸を舐められたものでな、つい『永劫の地獄』とやらを貴様に味わわせてやろうと思ってな」
「せやけど因果律が元に戻ったときには、俺の体は完全に回復してんねんで」
「だが、記憶に『死』が染みつくことになる」
 今度のライナーは、晴虎の頭部に激突した。晴虎は本能で打球を捕球するが、口から血を流しそのまま崩れ落ちる。
 死が、繰り返される。
「フハハハ、どうした、早くこの地獄を終わらせたくはないのか? 早くこの朕に天覧ホーマーを打たれるがよい!」
 の死を繰り返した晴虎が、ゾンビのようにマウンドに立ち尽くす。
「……どうした、諦めたのか? 貧弱な輩め、さっさと召されるがよい!」
 まるで鮮血を浴びたかのような赤バットを構える万世皇帝。
 だが、晴虎は笑っていた。
「何がおかしい」
「いや、おかしいっていうか――」
 晴虎の投球をまたしても打ち返す万世皇帝。だがライナーは――そのまま晴虎のグラブに吸い込まれていった。晴虎は万世皇帝をアウトに仕留めた。
 静寂、無言――あらゆる「静」を表す言葉が、二人を包み込んでいる。
「――こんだけ投げてあげてんのに一本もホームランを打てないって、ダメやろあんた」
「……不愉快な!」
 万世皇帝の放つライナーが、晴虎の頭部を強襲する。だが晴虎は持ち前の反射神経で頭部への激突寸前に、打球をグラブに収めることに成功した。
「絶対能力の力に頼るから、こんなことになるんやで」
「……うぬ、貴様、貴様ぁ!」
 万世皇帝の肉体に、乱れが生じた。それと同時に、世界に「揺らぎ」が生じた。
 叫び声が、聞こえてくる。
「こら、晴虎~!」
 ――菜摘の、声。放送席にいるはずの菜摘が、
「さっさとこのヘッポコ皇帝を打ち取れや~、フレッフレッ、晴虎!」
 唖然とする万世皇帝。
「何故……大鵬の力が、薄れている……?」
「だからさ、大鵬って『相撲取り』なんだよ。巨人・大鵬・卵焼きっていうのは、あくまで巨人軍がV9を達成したときの子供たちの人気者――お前のV99とかV100には一切関係ないんだよ。
 それに菜摘は――俺らの『ファン』だ」
 万世皇帝の背中の∞のマークが、消えかけている。
 続く晴虎の投球を――万世皇帝はレフト側ファウルポールぎりぎりのファウルに仕留められる。
「へぇ、飛ばせるやん、あんた」
「ぐ――」
 さらに次の投球は、今度はライト側ファウルポールの右側に吸い込まれて消えていった。
「これでツーアウト。あとストライク一つやな」
「……何を言っている、スコアボードを見ろ!」
 スコアボードに二つ点灯するはずのストライクカウントは――ゼロのままだった。
「朕の絶対本塁打の力は、因果律を――」
「晴虎~!」
 菜摘が、叫ぶ。
「晴虎、晴虎……」
 菜摘が、涙声になっている。
「うちな、晴虎のことが……晴虎のことが――勝ってな、あんな変なやつに負けんと、勝って――それで、うちの所に、帰ってきてや! 絶対やで、約束してや!」
 思いも寄らぬ菜摘の叫びに晴虎は赤面したが――それは新たな「熱」が生じたことの現れでもあった。
「バカな……貴様にだと……!」
「まさか!」
 晴虎の球を受け止めていた明虎が叫ぶ。
「その手があったのか……!」
 晴虎は、万世皇帝を迎え撃つ。
「やっぱ菜摘は凄いな。因果覚醒っていう能力で、俺をこんなに強くしてくれるんやから――」
 晴虎は振りかぶった。
「貴様、絶対本塁打と絶対三振の力がぶつかれば、あのときと同じように因果律から消失して――」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ!」
 晴虎の絶対三振が万世皇帝の絶対本塁打と呼応し、二人は因果律から消失した。
 
 
 
◇延長12回
 
 ――因果律の果て。二人は
「全ての因果律の端っこ、全ての因果律が『完全に収束した』世界――さぁ、もうこれ以上因果律の力、絶対能力ってやらは働かんよな、皇帝さんよぉ!」
 暗黒の空間に、ただ二人だけが存在している。
「ていうかさ……野球って、『楽しい』んだよ。こんな絶対能力なんて変なもん使う必要なんてないねん。
 ――ミスター・ジャイアンツの長嶋茂雄さんはな、まずファンが『野球を楽しむ』ことを第一に考えてたんや。せやから栄光のV9を達成できたんや。その時点であんたは長嶋さんに勝たれへん。野球を『楽しんでへん』奴の掴んだV100なんて、栄光でもなんでもない。そんなんただの『幻』や」
 一球目、真ん中高め、ストレート。空振り。
 因果律の裂け目から見えるスコアボードに――ストライクカウント「1」が点灯した。
「貴様、絶対能力を『無効化』するために矛盾を引き起こしたのか……!」
「無効化? っていうか『真剣勝負』やで、これは」
 キャッチャーである明虎の存在しない、因果律の果て。だが最後楽園球場にいるはずの明虎から、
「よし、明虎、行くぞ!」
「あぁ!」
 聞こえるはずのない声を受け、晴虎は再度両腕を振り上げた。
「スポーツって、えぇよな。俺は野球しか知らんけど、本当の因果律では相撲以外にもサッカーとかアメフトとか、いっぱいスポーツをやってたんやろ? もったいないやん。野球しか知らん世の中なんて。
 それに徐福さんから教えたもろたで、東京ドームは娯楽の殿堂やって。野球といったスポーツだけやない。誰かが歌ったり、ショーとかを開いたりして、みんなを楽しませるのが東京ドームの姿なんや」
 二球、内角低め、フォークボール。空振り。
「おのれ、おのれぇ!」
 万世皇帝が、「不安」に怯えている。「恐怖」を隠せないでいる。
 裂け目から見える、ストライクカウント「2」。やがてあるべき因果律の最後楽園球場から、「声援」が聞こえてくる――。
「あと一球、あと一球!」
「晴虎、皇帝をやっつけてまえ!」
 そして聞こえる、黄色い声援。
「うちな、晴虎のこと、! せやから、せやから……そんな奴に早よ勝って、返事を聞かせてな~!」
 告白。だがもう晴虎の顔は紅潮したりなんてしない。菜摘の心はとうの昔に分かっていた。
 とはいえいつまでも菜摘から授かった絶対能力に頼るわけにはいかない――だからこそ晴虎は二つの絶対能力を矛盾により相殺させ、「なかったこと」にしたのである。
 そしてその力は――今後も頼ることはないだろう。――。
 明虎から託された最後の一球が、左手から放たれる、その直前――。
「聞こえるやろ、ファンの声援が。野球を楽しむ、大勢の人々の声が。
 ――だからな、あんたみたいな皇帝がおらんでも、『東京ドームは永久に不滅』なんや!」
 ボールは、「マッハ25」で放たれた。
「小僧が……ほざくなぁ……!」
 万世皇帝の上半身が回転する。赤バットが、マッハ25を捉えた。
「これでホームランは決まり――何ぃ!」
 赤バットが、これ以上前方に出ない。ボールを芯で捉えたにもかかわらず、それを前方へと運べない。
「何故だ、朕が、朕がここで屈するのか!」
 赤バットごと万世皇帝は因果律の果てから弾き飛ばされた。因果律に生じた裂け目から元の因果律に戻ってきた万世皇帝は、そのまま最後楽園球場のバックネットに衝突した。その衝撃で、万世皇帝の魂が徐福の肉体から放出される。
「おのれ、朕の魂が肉体から離れる……ありえぬ、そんなことなど、あってはならぬぞ――!」
 万世皇帝の魂が引きちぎられるとともに、断末魔もまた引きちぎられる。
 魂はやがて「第一宇宙速度」に到達した。万世皇帝の魂は最後楽園球場を超え、雲を超え、空を超え、そして――。
 ――月なき地球の、新たな衛星となった。
 
 マッハ25の衝撃は、球場全体を大きく揺るがした。
「晴虎、最後楽園球場が崩れる!」 
「菜摘!」
 スタンドにいた菜摘に駆け寄る明虎。そして因果律の裂け目から戻ってきた、晴虎。
「もうここは危ない! 早く逃げるぞ」
「でもいったいどうやって逃げれば――」
 晴虎はお守りを手に取った。だが袋の口を結ぶ紐はちぎれており、甲子園の土は一粒も残されていなかった。
「うちら、もう甲子園に戻れへんの――?」
「そんなん言うな、探すんや、甲子園に戻る方法を!」
 三人は徐福の存在に思い当たった。万世皇帝の魂は地球から離脱し、後には徐福の肉体が残されているはずだった。
 三人はバックネットに突き刺さった徐福の下に駆け寄る。
 だが、徐福の息は絶え絶えだった。その原因を作ったのは、晴虎の最後の一球。
「謝ることはない……」
 徐福が、晴虎に先んじて呟いた。
「どうせ私は、皇帝という邪悪と、運命を共にする身――」
 徐福の口から、血が止めどなく溢れ出る。
「邪悪が消えるとき、私も消える……だが、残された『猛虎』の意志は……決して、消えはしない――」
 徐福の体が、バックネットから剥がれ落ちた。力なくグラウンドに激突する、徐福。
「徐福さん、徐福さん!」
 涙を流しながら徐福に近寄ろうとする晴虎を、明虎は制止した。
「もう……助からない」
 無言。だが球場の崩落音は、徐々にその音量を増しつつあった。
「これからいったいどうすれば――」
 
「オレたちに任せな」
 三人は声のした方向を向いた。ダークバースたち――いや、ユニフォームは暗黒から、白地に黒の縦縞へと変わっている。
 本来のマルチバースが、スタンドを埋め尽くしていた。
「バースさん――」
 突如、マルチバースが一斉に輝き始めた。万世皇帝が放っていたオーラより明るく、暖かい――。
 ――暗黒の力から脱したマルチバースは、「セイントバース」として三人を導く。
「オレは不本意な形でタイガースを去ることになってしまった」
 史実の世界でタイガースを日本一に導いた、「オリジナルバース」の声が聞こえてくる。
「だがあの伝説のバックスクリーン3連発――いや、晴虎が経験したのはバックスクリーン9連発だったな。とにかくあれはとてもエキサイティングな体験だったよ」
 オリジナルバースの笑い声が聞こえる。
「エキサイティングと言えばな、タイガースが勝つとファンは決まってこの歌を歌うんだ。
 ――『六甲おろし』っていう歌をな」
 その瞬間、最後楽園球場に六甲おろしの歌のメロディが響き渡ってきた。三人のいる世界では失われたはずのメロディ。それなのに、
「六甲おろしに――」
 マルチバースが、歌う。三人が、歌う。
 最後楽園球場に、甲子園の力が舞い降りてくる。
 オリジナルバースが、語りかける。
「オレたちは元いた因果律に帰らないといけない。でもそれは晴虎たちもそうなんだろう? この六甲おろしの歌の力があれば、晴虎たちも元の因果律に帰ることができるはずさ」
 オリジナルバースの姿が、セイントバースの姿が、徐々に薄らいでいく。
「……じゃあな。タイガースは、オレにとって最高の球団だった――」
「バースさん!」
 三人が、消えゆくマルチバースに向かって頭を下げる。
「ほんまに――ほんまにありがとうございました!」
 立派な口髭を湛えたバースの口元が、僅かに上がった。
 そして、完全に消えていった。
 
 消えていくのは、マルチバースだけではなかった。
 三人の体も、徐々にその色を失い始めていた。
「…………」
「どうした、菜摘?」
 菜摘は、泣いている。
「……うちらのいる因果律って、んやろ?」
「……確かにそうかもしれない」
「それはどういうことや、明虎!」
 明虎が晴虎を見据え、冷静に真実を告げる。
「これは最後楽園球場の崩壊だけではなくて、『僕たちがいる因果律の崩壊』を表しているのかもしれない」
「何やって!」
 菜摘が晴虎の手をぎゅっと握った。そして同時に、明虎の手も。
「だから、もうこれでお別れかもしれんくて――」
「そんなことない!」
 晴虎が叫んだ。
「また正しい因果律で、俺らは出会うはずや! その因果律ではきっと今も高校野球の全国大会が続いてて、俺と晴虎がバッテリーを組んで甲子園を湧かしてるんや、きっと!」
「じゃあうちは?」
「菜摘は……」
 明虎が微笑んだ。
「マネージャーをやる、っていう性格じゃなさそうだしな。でもウグイス嬢をやってるくらいだから……さっきの六甲おろしみたいに、何かんじゃないの?」
「やったら晴虎と明虎と接点がないやん! アホ! 明虎のボケ!」
「おいおい、ここに来てまで喧嘩すんなよ……」
 菜摘の目から、涙のしずくがこぼれ落ちる。
「……正しい因果律に戻っても、また会おうね。絶対やで、絶対!」
「……あぁ!」
「それに――」
 菜摘が今度は、を抱きしめた。
「もしかしたら聞こえてへんかったと思うからもう一度言うけどな、うちな、実は晴虎のことが――」
 赤面する晴虎を見て、指を指して冷やかす明虎。晴虎は一度咳払いをして、呼吸を整える。そして――。
「……もうさっき聞いた。でな、俺の答えは――」
 そのとき、マルチバースが消えてもなお球場に響き続けてきた六甲おろしの歌が、ついに途切れた。
 六甲おろしの歌は、球児たちを甲子園へといざなう。
 その甲子園の存在する因果律は――。
 
 
 
◇ゲームセット
 
 1988年3月17日に竣工した東京ドームは、野球以外にも様々な娯楽を人々に提供し続けた。スポーツでは、アメリカンフットボール、ボクシングなど。スポーツ以外では、コンサートやモーターショーなど。
 当然巨人軍も変わらず活躍をし続ける。21世紀に入りファイターズが本拠地を東京ドームから移転したが、それでも日本野球界の盟主たる巨人軍は東京ドームを本拠地に活躍し続けた。
 巨人軍は常勝軍団――そう呼ばれていたのは遙か昔、「V9」の時代である。9年連続日本一達成などというのは「空前絶後」の記録であり、それから21世紀が終わりに近付いた今も9年連続日本一を達成した球団は存在しなかった。
 
 そして、甲子園。過去数度の中断期間があったものの、未だに高校球児たちは甲子園で白球を追いかけることを夢見て、そしてそこから幾人かがプロへと羽ばたいていくのである。
 さて2084年。またしても「空前絶後」としか言いようのない記録が達成された。
 ――甲子園春夏。ピッチャー晴虎・キャッチャー明虎の双子の黄金バッテリーは、甲子園を訪れる者を3年間魅了し続けた。
 
 注目のドラフト会議。当然二人とも指名したいのはどの球団も山々だろうが、あいにく晴虎と明虎の両方を一度に獲得することは制度上不可能に近かった。
「これでしばらくお別れやな」
 晴虎は自宅でくつろぐ明虎に握手を求めた。
「まぁ他のピッチャーの球を受けるってのも、久しくやってなかったしな」
 明虎は晴虎の手を強く握り返した。
「あー、二人で握手するなんて珍しいやん! ってかそんなことしたことないやん! 何があったん?」
 騒がしい声――菜摘の声である。
「いや、プロはさすがに一緒になることはないから、しばしのお別れっていうか――」
「でももしタイガースに入団したら、普通に実家通いやで。引っ越しする必要なんてないし――ね、伯父さん!」
「まぁそういうことになるわな」
 5年前にタイガースを引退した富由喜が、呑気にニュースをチェックしている。
「ほお、富由彦がタイガース監督就任か。めでたいな」
「そりゃそうやけど――うちにとっては晴虎と明虎がプロに入ることのほうが嬉しいし!」
 そう言うと菜摘は晴虎を抱きしめた――が。
「痛い痛い痛い、『アイドル歌手』のくせして何でそんなに力が強いねん、俺死んでまうって!」
「何や、失礼な! 最近のアイドル歌手ってストーカー対策として護身術くらい身に付けてるんやから!」
「それ、護身術ちゃうって……」
 さらに攻撃を続ける菜摘。苦笑しながらそれを見守る明虎。
「おーい明虎、助けてくれぇ――」
 晴虎の助けを求める声が、室内に虚しくこだました。
 
 そして運命のドラフト会議が始まった。高校生の二人に球団選択権は存在しない。それは球団間の均衡を守るために前世紀から続く、ドラフト会議の鉄則であった。
 二人はその様子を、モニタの前で見守っている。
「晴虎と明虎はどこの球団に行きたいん?」
「そんなん決まってるやろ。でも片方だけでもいけたら御の字やけどな」
「まぁ僕は正直どこでもいいけど……」
「嘘こけ、明虎は何でか関西弁を喋らんけど、心は完全に関西人やんけ!」
「まぁまぁ」
「おっ、そろそろ始まるぞ!」
 モニタにドラフトの様子が映し出される。全球団の半分が晴虎を一位指名し、もう半分が明虎を一位指名した。
 固唾を飲んで見守る、晴虎と明虎。だがモニタの外側から彼らにできることは、何一つない。
 モニタの中で、晴虎の単独交渉権を引き当てた一人の監督がガッツポーズをした。
 その監督が率いる球団の名は――。

文字数:47426

内容に関するアピール

◇参考文献
 
○東京ドーム
秋場良宣『株式会社東京ドーム「興奮と感動」のクリエイター』世界文化社,1991年.
保坂誠『わが国、初めての屋根付き球場 TOKYO DOME』ベースボール・マガジン社,1990年.
東京ドーム | 東京ドームシティ.<https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/>
 
○読売巨人軍
北原遼三郎『沢村栄治とその時代』東京書籍,1992年.
長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞出版社,2009年.
矢島裕紀彦『石橋を叩いて豹変せよ~川上哲治V9巨人軍は生きている』NHK出版,2015年.
メディアファクトリー/澤田企画『21世紀への伝説史 長嶋茂雄』メディアファクトリー,2000-2001年.(DVD)
 
○阪神甲子園球場
玉置通夫『甲子園球場物語』(文春新書 392)文藝春秋,2004年.
関西テレビ放送『一度でいいから見てみたい! 日本一有名なスポーツスタジアム!阪神甲子園球場の全て』ポニーキャニオン,2011年.(DVD)
阪神コンテンツリンク/朝日放送『THE HANSHIN KOSHIEN STADIUM ~大正・昭和・平成 悠久の時を経て~』ビクターエンタテインメント,2007年.(DVD)
『熱戦続く夏の甲子園 名物「浜風」とは?』ウェザーニュース,2019年8月18日.<https://weathernews.jp/s/topics/201908/150315/>
『「六甲おろし」って何? 神大付属中生徒が調査』神戸新聞,2017年3月31日.<https://www.kobe-np.co.jp/news/backnumber/201703/0011333561.shtml>
阪神甲子園球場.<https://www.hanshin.co.jp/koshien/>
 
○阪神タイガース
中川右介『阪神タイガース 1965-1978』KADOKAWA,2016年.
村山実『炎のエース ザトペック投法の栄光』ベースボール・マガジン社,1993年.
ランディ・バース『バースの日記。』集英社,1991年.
鷲田康『1985 猛虎がひとつになった年』文藝春秋,2015年.
『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝 Vol.8,13,14』講談社,2009-2010年.
 
○始皇帝
貝塚茂樹責任編集『中国文明の歴史2 春秋戦国』(中公文庫 S-16-2 1143),中央公論新社,2000年.
司馬遷『史記1 本紀』(ちくま学芸文庫 シ2-1)小竹文夫・小竹武夫訳,筑摩書房,1995年.
逵志保『徐福伝説考 「徐福渡来説」の謎を追う』一季出版,1991年.
鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』(講談社学術文庫 1656)講談社,2004年.
吉川忠夫『秦の始皇帝』(講談社学術文庫 1532)講談社,2002年.
NHK『Nスペ アジア巨大遺跡 第3集「地下に眠る皇帝の野望~中国 始皇帝陵と兵馬俑~」』NHK,2015年.(TV)
 
○因果律
都筑卓司『新装版 不確定性原理 運命への挑戦』講談社,2002年.
村山斉『宇宙は本当にひとつなのか 最新宇宙論入門』講談社,2011年.
和田純夫『量子力学が語る世界像 重なり合う複数の過去と未来』講談社,1994年.
『Newton パラレル宇宙論』ニュートンプレス,2015年.
 
○超人野球
梶原一騎原作/川崎のぼる作画『巨人の星(全19巻)』講談社,1968-1971年.
梶原一騎原作/川崎のぼる作画『新巨人の星(全11巻)』講談社,1976-1979年.
遠崎史朗原作/中島徳博作画『アストロ球団(全5巻)』太田出版,1999年.
 
 
 
◇アピール
 
 「マルチバース」って言いたいだけやろ!

文字数:1506

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