限りない旋律

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限りない旋律

1. Opening

 印象的だったのは、透きとおった瞳だった。
 透明なガラスの玉を青い空の下で太陽光にさらしたら、細かい光が反射する。
 周囲の風景はガラスにうつりこむが、球体の中に取り込まれることはない。
 表面に浮かびあがる景色は、ただ、周辺をくるくる回っているだけだ。
 彼の瞳も、どこまでも澄みわたり、焦点はどこにもむすばれていないようだった。車椅子に座ったまま、身じろぎひとつしない。背後の人型AIが椅子を支えながら危なげなく動かし、エントランスへと移動した。誰かとすれ違っても彼は反応せず、そのまま南棟に移動していく。
 建物の中は色彩が抑制されている。白い床と白い壁、白い天井。清潔で穢れのない白色に覆われた廊下では、時折人影が見える。乱れることなく進む彼らの足取りには一定のリズムがあり、よく鍛錬されたダンサーの動きのようだった。
 屋内は、消毒液の匂いを和らげる多機能の空気清浄機や、廊下をくまなく照らすがまぶしさを感じさせない照明など、居心地よく過ごすためのさまざまな工夫がなされている。数千種類の香りを調合させたアロマや、白い部屋の印象を和らげるパステルカラーのカーテンやカーペットは気持ちを落ち着かせる。セントラルヒーティングがコントロールする空気は常に快適な温度に保たれ、障害物や忘れ物のたぐいは常に掃除担当のAIが回収し、目に見えない微小な塵芥は一定時間後に床から消え去るようになっている。
 つるりとした廊下に点在するのはAIたちだ。彼らはよどみなく足を運び、人と変わるところがほとんどない動きだ。ペールグレーの落ち着いた色味の制服だけが、AIという身分を明確にしている。受付にいる対話型AIや看護師を助けるアシスタントAIたちは人型で、一見人間と変わらない外見をしている。それは業務遂行しやすくするという点もあるが、どちらかというと患者たちへの気遣いによる。この施設は人が少ないため、人型のAIたちがいないと、がらんとしてものさびしい。
 この医療施設、脳聴統合医療研究センター(Brain auditory Medical Center :BAMC)は、機能別に役割分担されたAIが常駐しており、複数のAIで総合的に意思決定を行うことも、単独のAIが判断することも可能だ。複数の看護師が同時にAIを呼び出すこともできるし、同じAIが手術と相談とカウンセリングを同時に行うこともある。
 施設では人間のドクターが判断することもあるが、人間がAIに判断を仰ぐことも多く、人間はインターフェイスの役割を担っているケースが多い。いうなれば、ここの患者たちは巨大なAIの塊の中にいることになる。また患者には、人型AIがパートナーとして一体ずつつき、患者が気にならないようにモニタリングしつつ、快適に生活できるように補助を行っている。
 センターには生身の人間の職員は少なく、カウンセラー兼医師である旭オルガのような立場の人間が数人と、清掃部門や食堂、スポーツジムなどを統括する人間がそれぞれ数人いる程度だった。
 研究室に戻ったオルガは、ツールが提示する連絡事項を参照し、その日の予定と対面予定の患者をざっとチェックした。見たことのない名前、御堂リヒトという文字を目にした彼女は、さきほどのガラスの瞳を思い出しながらプロフィールを読んだ。
 御堂リヒト、32歳。元脳外科医。身内に医療関係者多数、高等教育を飛び級、医療系の大学に合格、上位の成績で卒業。付属の大学病院でインターンの後、医師として就職、20代で主任……。
 傷ひとつない履歴を眺めながら、最後の一行が目に飛び込んできた。
 その時、患者の到来を知らせる音が響いた。規則的でどこか荘厳な曲が響く。パイプオルガンの音だろうか。その音の流れを壊さないように、そっと扉を開く。
 入ってきたのは、やはりガラスの瞳の主だった。
「はじめまして」
 静かに話しかけても、こちらを見ようともしなかった。
 彼が頭を傾けると、耳から半透明の装置がのぞく。
 BAMCは、他の医療機関と同じような治療も行うが、ここでしか行われない施術は特に聴覚に特化したものだ。まずは患者の鼓膜と有毛細胞の聴系、前頭葉・側頭葉・後頭葉の脳系に量子ドットセンサーを設置する。そして鼓膜に入った振動を数百万個のセンサーが察知し、鼓膜の震えに反応した有毛細胞が出した振動エネルギーと、脳から分泌された物質を計測する。それぞれの振動が人々の快や不快、感覚等にどのような影響を及ぼすのかを計測するこのしくみは、機能・目的・プロジェクトそのもの、それらすべてを総括してユヴァル(Universal auditory-sensor)と呼ばれている。
 ユヴァルは、通常の機器では取得できない装着者の聴覚系の反応を捉える。聴覚の信号は脳の感情を司る部分に極めて近いため、ユヴァルのデータを解析すると、装着者の情動が把握できる。そのためデータと装着者の行動と突き合せれば、行動と情動の変化を捉えられる。オルガたちは、ユヴァルから取得できるデータを聴情波形と呼んでいた。
 ユヴァルは極めて多くの個人情報を取得し、解析データの一端にするから、BAMCへの入所にあたっては、患者に詳細を告知した上でのユヴァルの装着許諾が必須になる。許容する人が得られるものは、この設備での充実した医療プログラムや行き届いた生活、洗練されたスタッフのほかに、心理的な状況に応じて音楽を与えられるサービスだ。この施設の受付を訪れるのは、大きな苦しみの中にあり、選択肢と金銭を持っていながら、他に手の施しようがない者たちだ。選択を迫られた者たちは、ほぼ躊躇することなく同意する。
 平穏な気持ちを取り戻せるのなら、ちょっとした手術などなんの問題があるだろう。情報を差し出す代わりに権利を得るようになって久しい。詳細すぎる個人情報の提供には若干の躊躇を感じることがあっても、今この瞬間の苦しみを軽減できるのならば、情報を提供する方が賢明といえよう。そしてリヒトは、気力を失いつつある彼を心配し、この施設の存在を教えてくれる知人に恵まれ、また感情が完全に沈み込む前に、苦悩を放棄できるこの機会を選択した一人だった。
 御堂リヒトにいくつか質問して反応を探った後、オルガは後ろに立っていたAIに合図した。
実りのない時間だった。
 AIに椅子を押され、研究室に背を向けて去っていくリヒトを見て、オルガはふと思った。
 彼の目に映るものは、彼の中のどこかに作用しているのだろうか。
彼の瞳を通り過ぎる景色は、どこに消えていくのだろうか。
 車椅子は外の散歩用スロープを伝い、淡い花弁の花々と、みずみずしい緑の葉を揺らす木々がならび立つ小径の入口へと差しかかった。
脇を流れる小川の水面が、震えるようにきらめいている。
水辺で小鳥が羽ばたいた。
 羽から滴る水滴は光を反射しながらまっすぐ飛び散り、水面に幾何学的な波紋をつくる。
 リヒトは春の一幕を透明な瞳にうつしたまま、表情を変えることもなく去っていった。

 オルガは、リヒトのパートナーAIからのデータと、ユヴァルのデータを解析した。食事や入浴や散歩など、ルーチンワークにおいて値に変化がないのは仕方がないにせよ、彼と同年代の人間が興味を持ちそうな外界のニュースやオーディオブックなどを提供しても、聴情波形に変化は見られない。彼の情動の計測結果である揺らぎのない平淡な波形は、一切の解析を拒絶しているようにも感じられた。
 と、少しだけ波形が変化する瞬間があるように思った。ユヴァルの時間帯を見ると、一日のうちの決まった瞬間で、それは就寝前のリラックスしているはずの瞬間だった。オルガはパネルを操作した。
「ミナを呼びます」
 一瞬だけ水紋のような模様が浮かび上がり、中央に女性らしき顔のシルエットが浮かび上がった。下部にAIを模したアイコンが記載されている。
 ミナはこのBAMCの音を統括するAIだった。ミナの開発には、AI研究者やAI科学者、コンピューターサイエンスなどの理工系の学者などはもちろん、言語学者・脳科学者・音楽家・作曲家・データサイエンティストなど、人もAIも区別なく、各方面の研究者たちが結集して携わっていた。ミナには歴史上のあらゆる音、あらゆるリズム、あらゆる旋律、あらゆるハーモニー(和声)をインプットされており、データは日々更新され、BAMCの患者たちのユヴァルから収集する情報も日々更新・修正されていた。
 ミナの開発には、オルガもチームメンバーとして参加しているが、プロジェクト内は作業が分業化しすぎており、ミナと対峙しても自分が彼女の構築に関わっていた実感を持てない。また、コミュニケーションをスムーズにするため、ミナは、人が自然に感じる言動をするように設定されてはいるが、物理的なボディを持たず、人型AIのように相手が喜ぶ反応や発言を優先するように登録されていないため、事務的な反応を返すことしかしない。またミナ自身、人間に親しみを持ってもらう必要性はないと判断しているようだった。
オルガはAIに対して好感も不快感もなかったが、ミナは親しみやすいAIでないことは確かだった。
「先日から入所している、御堂リヒトのデータについて知りたいのですが」
 オルガが無機質だと感じる声が返ってくる。
《承知しました。何に関することですか?》
「彼のユヴァルのデータを参照すると、だいたい一定なんだけど、眠りに入る時に小さな波形になっている。これはなぜですか?」
《就寝時に流す音楽によるものと思われます》
「何を使っているのですか」
《スティーブ・ライヒの『テヒリウム』です》
「流してみて」
 アイコンが少しだけ震えると、研究室に細い旋律と、高くて震えるような声が満ちた。葦笛のように高い女性の声が、幽玄の空気をもって響きわたる。声は叫びのようだが一定の秩序があり、あふれる感情をぎりぎりの際で押しとどめているような抑制がある。
「……どういう経緯でこの曲を?」
 ミナには歴史の中で生まれた音楽と音はすべてインプットしてあるので、どんな曲でも提供できるし、彼女の優秀さとこれまでの学習成果もあり、例え要求が曖昧でも、需要にぴったり合った曲を膨大なデータの中から取り出すことができる。
 ヒット曲と呼ばれる曲の旋律はおおむねAIがつくるようになり、残った数少ない人間の作曲家はほそぼそと曲をつくるようになって久しい。ミナもまた、人の好む曲を作ることはできる。しかしオルガは、ミナはデータベースにある音の進行を組み合わせているだけであり、創作を行っているわけではないと考えていた。
《御堂リヒトには、ピアノを弾いていた経歴があります》
「知っています。プロ級の腕で、依頼で結婚式やお店で演奏したり、コンクールに出たりもしていたとか。作曲も行っていて、譜面は公開されているらしいですね」
《私は彼に、古典的なクラシックの曲を提供したこともあります。聞き慣れているので心地よく感じていたようですが、反応は薄かった。試しに『テヒリウム』をかけたところ、反応がよかったのです》
「この曲はそもそも、どういうものですか? ずいぶん変わった音色ですけど」
《作曲家であるライヒは20世紀の作曲家です。彼はユダヤ人で、この曲はユダヤ教の詠唱にインスピレーションを得てつくられています。ヘブライ語の語感のアクセントに忠実に音をつけており、御堂氏にとって新鮮だったものと推測されます。おそらく類似の音楽を聞いたことがなかったのではないかと思われます》
「もっと反応を知りたいから、彼にはいろいろな曲を試してみてほしいです」
《承知しました》
 ミナのアイコンが震え、モニターは真っ暗になった。室内は詠唱の余韻が消えると共に、歌声の主の気配も消え、急速に室温が下がったような気がした。

 数日後、リヒトの行動履歴を分析していたオルガは、彼の散歩コースに音楽室が入っていることに気づいた。BAMCには患者の体力を維持するためのトレーニングルームやジムのほか、図書館や映像ルームなどの文化施設なども備わっている。少し回復してきた患者や、面会が増えてきた患者のために、軽い飲食を出す店すらあった。しかしリヒトは、まだ他人と対話を楽しめる段階になかったし、音楽室で談笑することもできないはずだった。
 彼が音楽室に出入りしている時間帯は、夕方から夜だった。オルガはパートナーAIのカメラの録画から、音楽室でのリヒトの様子を観察してみた。
 音響のことを配慮し、BAMCの東西南北4つに連なる棟の中でも外れにある音楽室はガラス張りで、周辺のみずみずしい緑や、遠くの雪が降り積もった山肌が見える場所にある。映像上では雨が降っており、ガラスをつたう水滴は無数の涙のようにも見えた。音楽室にはミナが流しているのだろう、静かなBGMがかかっていた。確かエリック・サティの何かだ、とオルガは推測した。彼女は音楽がかかっていると分析しようとする癖があり、メロディラインを楽しむことに苦労する。それにしても、ゆらめく細い雨と、サティのメロウな音色はよく似合う。
 黒いグランドピアノの前に座る人影と、白い部屋。室内はまばらに楽器があるだけでがらんとしており、ガラス張りの空間で独りたたずむリヒトは、今にも消えてしまいそうに儚く見えた。
 鏡のような黒鍵にうつりこむ自分の顔と目を合わせてから、おもむろに蓋を開けた。
 左手をピアノの上にさまよわせ、鍵盤を押し込む。流れるのは澄み渡ったメロディや、心を落ち着かせるハーモ二―ではなく、気持ちをざわめかせる音の集まり、不協和音だった。
 そもそも和音の定義は、「一定の秩序にしたがって組み合わされた、幾つかの音の集合体」で、協和音は耳に心地よい秩序を持っている。人の気持ちに沿う形で響く音のバリエーションは決まっているのだが、リヒトが押している鍵盤は、そこにことごとく当てはまらない音のようで、聞く人に開かれていない印象だった。オルガは居心地の悪い、不快な気持ちになった。
 鍵盤を押している時のリヒトは、何もかも忘れて、無心に指を動かしているように見えた。自分の出す音のおかしさに気づかないのか、それともむしろ新鮮に感じているのか。協和音に慣れ切ったオルガには不思議な光景だった。
 協和音を心地よいと感じることは、一定の教育の成果だ。BAMCのような先鋭的な機関が存在する国の住民は、ドミソ・ドファラ・ソシレといった定番のコード進行がしっくりくるし、心地よいと感じる。それが当たり前の感覚になっているが、他者と触れ合う環境になかった人々や、独自の進歩を遂げた文化を持つ民族などは協和音を肯定しない。彼らの演奏は不協和音に占められていることもしばしばあるし、協和音と不協和音の区別をしていないことも多い。協和音と不協和音の境界については諸説あり、また立場によって違っており、極めて曖昧だ。
 この施設へ来るにあたり、オルガも音については一通り勉強したし、楽譜は読めるし和声も多少は学んできた。しかしそのためか、リヒトの音は不規則で、見知らぬ場所に迷い込んで出られないような、快の感覚をすべて吸い取られるような、なんともいえない不穏な気持ちにさせられるのだった。
 しかし映像で見る彼は、わずかながら、いつもよりも情動の反応があるように思えた。瞳を軽く閉じて夢見るように頭を揺らし、全身で拍子を取っている。時折ゆったりと開いて遠くを見つめる瞳は陶然としていたし、表情は陶酔しているように見えた。彼はリラックスし、感覚を動かしているように見えた。
 オルガはミナを呼び出した。
「御堂リヒトのユヴァルのログを解析して」
《承知しました》
 ミナの出した結果を見ると、演奏中の情動波形はきれいな山形を描いている。この施設に来る前の患者の波形、通常の人に近い形だ。しかし演奏を終えると途端に波形は平淡になり、音楽室を出る頃にはほぼまっすぐな線に戻ってしまっていた。
《御堂氏は、ピアノを演奏している時は、リラックスしています》
「これが、音楽と言えるのかは分かりませんけどね。そもそも彼の行為が演奏といえるのかも疑問だけれど」
 オルガの呟きに、ミナは答えた。
《音楽はもとの本質にゆらぎを含んでいますし、音楽の定義は言葉の定義と同様に曖昧です》
「例えば?」
《古典的な音楽の定義の一つに『musica est scientia modulandi』、つまり『音楽とはよく節づける知識である』とあります》
「音楽は、音ですらないかもしれないってことでしょうか」
《先の定義によればそうです。一方で、人間の耳に聞こえないものも音楽と言いうるならば、音楽の可能性は広がります》
「すべてに通じる定義を見出すのは難しいとしても、御堂リヒトの音と、彼の行為を一口で言い表すのは難しい」
《単に目の前に鍵盤があるから、条件反射で押しているだけかもしれません。しかし彼の音はデータとして残す価値があります》
「どこが? でたらめに押しているだけに思えるけど」
《そう聴こえるかもしれませんが、私にとっては聞いたことがない組み合わせです》
 ミナの言葉に感慨らしきものはなかった。
「では逆に聞くけれど、上手な演奏やきれいな曲のデータは残さないの?」
《上手というのが楽器を弾きこなしているという意味で、きれいな曲が人の好む曲のことを指しているのであれば、データとして選択しません》
「ではどういう音を、残すというか、興味があるのですか?」
《御堂リヒトのような音です。聞いたことがない組み合わせだからです》
 堂々めぐりだ。ミナに対して、御堂リヒトを観察するように命じたオルガは、研究室に座ってコーヒーを飲みながら考えた。
 ミナに熱い創作の魂のようなものはあるわけもないし、何かを表現したいという欲求もないはずだ。そもそもミナにとって作曲は、与えられたタスクでしかない。ミナはあらゆる音の取り合わせを知っている。人間が喜ぶ曲をつくり、想定通りに喜ばれたら、人間の作曲家であれば嬉しいかもしれない。しかしミナにとっては、決まったパターンを提供するルーチンワークでしかないのだろう。そんな中、御堂リヒトは、ミナが知らない音を出した。だから残そうと判断したということだろうか。
 オルガは、ミナが、特定の個人を特別視するとは予測したこともなかった。それがたとえ個人そのものではなく、個人の出す音に限定されるものでしかなかったとしても。ミナは、パートナーAIのような従順性を求められていないし、そのような設定はないはずだ。
 オルガの研究室に、穏やかで静かな弦の旋律が響き渡った。わずかに首をかしげると、音はかすかな重低音に変わった。彼女は静かに部屋を後にした。

2.

 御堂リヒトの日課に、音楽室通いが追加された。
 起床と食事と入浴と就寝の単調な繰り返しをぬって、朝と晩に音楽室へ向かう。音楽室は東の棟にあるから、ガラス越しに朝の光が差し込んでくる。一年のうちで最も日が長くなるこの季節、白く清潔な室内で、金のトランペットと銀のフルートは朝の光の中でみずみずしく輝き、ピアノの黒い色味がひときわ濃く照りはえた。
 施設は自然に囲まれており、近隣に建物はなく、道や広場に電灯があるばかりなので、夜になれば漆黒に包まれる。ガラス越しに見える闇に包まれながら室内に入ると、月の光に似た柔らかい間接照明が静かにともる。ピアノの部分だけをスポットライトのように輝かせるライトは温かみがある色で、淡々として表情のないリヒトとは対照的だった。月が満ちる時は優しい光がさしこみ、三日月の時は柔和なシルエットが浮かぶ。周りに明かりがないから、星々の輝きもはっきりと見え、季節と共にうつりゆく星座の瞬きを楽しみことができた。
 リヒトがピアノ上で動かしているのは相変わらず左手だけだったが、指の動きは徐々に滑らかになっていくようではあった。しかし彼が奏でる音の集合体は、相変わらずハーモニーからはほど遠いのだった。時には和音でなく旋律らしきものを弾くこともあったが、それも耳障りで気味の悪いメロディだった。
 オルガは不思議だった。リヒトはピアノに関して、プロとして身を立てられるレベルの腕前を持っていたはずだ。和音が分かるのならば、今は調和しない音をわざと奏でていることになる。リヒトの音について考察するのは難しいが、強いて言えば、次につながることのない和音に近かった。作曲する時、絶望や悩みを表現する場合、行き場のない和音を使うこともあるが、そうした時に使用される音の集合体には、今のリヒトが選択するような複数の夾雑的な音が入りこむ。
 行き着く場所のない和音は留まり、聞き手の意識の中でふわふわと漂う。あらゆる芸術の中で最も時間と関わる音楽の中で、未来を失った音という矛盾した存在は、聞くものに違和感と、出口がない閉塞感をもたらす。
 オルガは不快な気持ちを静めようと、再生を止めた。すると、周囲の音が妙に鮮明に聞こえるような気がした。耳に心地よい音楽であれば、気持ちを乱すことなく意識も平穏なままでいられるが、リヒトの音は妙に感情に引っ掛かり、その分聞く者の感覚が鋭くなるようだった。リヒトの音を聞くことは、ガラスを爪でひっかくと肌感覚でぞっとして、音に鋭敏になる経験に近い。
 ある日の朝は霧が漂っていた。ミルク色の被膜の中、外の情景はどこか非現実的に見える。リヒトは、霧の中の風景をうつしたガラスに滴る銀糸のような水の軌跡をそっとなぞった。そして骨ばって繊細な指を鍵盤に手を置き、試すようにいくつかの高音を押した。
 叫びのように鋭い音が流れると共に、それまでの茫漠とした音の塊に芯が生まれた、ように聞こえた。しかしオルガが耳をそばだてると、その一瞬の音は消えてしまった。垣間見えた小さなかけらを探したくて、オルガはリヒトの音を大きくして何度も繰り返した。しかしその鍵となる音の集合体はやはり一つきりで、もう現れてくれないように思った。
 ふと、細い旋律が登場した。オルガははっとし、映像を食い入るように眺めた。滑らかなフレーズは規則的に流れる。しかしリヒトの右手は膝の上に置かれたままだ。よく見ると、リヒトの右手の鍵盤にあたる部分が動いている。
 無人のメロディは、リヒトを誘うように繰り返しのフレーズを奏でている。人の手を介在しないで動き続ける鍵盤を眺めたまま、リヒトはじっと動かないままでいた。
 と、彼の左手が動いた。リヒトの出す音は相変わらず耳障りではあったが、もう一つの弾き手のいない旋律に追いつこうと、タイミングを合わせているように思えた。
 音と音は合っているように思える瞬間もあるが、すぐにすれ違ってちぐはぐになる。まるで同じ高さに浮かんでいるが、違う速度で揺らめいている二つの球体のようだった。しかし、ゆらぎの大きさが徐々に揃い、不思議に合っていると思える瞬間が生まれた。その一瞬、音と音との邂逅を果たすために、リヒトはずっと左手の音を探り続けた。彼の出す音は相変わらず協和音ではないが、主のいない旋律とは、奇妙なバランスで支え合っているようにも思えた。
 合っている音が、一つだったものが二つになり、三つに増えた。そしてとうとう短いワンフレーズが合うようになった。しかしリヒトはその後、急に興味を失ったようで、音の探索を放棄した。そして両手を膝に置くとぼんやりと鍵盤を眺め、おもむろに立ち上がって去ってしまった。
 オルガは映像を見かえした。無人の旋律と合わせようとしている時、リヒトの表情は生気が漂い、ガラスのような瞳にはわずかながら光が灯り、焦点をむすんでいるように思えた。ユヴァルの聴情波形を見ると、今までになく上下が生まれている。
 オルガはミナを呼び出した。一瞬の波紋の映像の後、女性のシルエットが浮かび上がる。リヒトの映像を指さして言った。
「この時、誰もいないのに鍵盤が動いている。これはあなたのしわざですか?」
《そうです》
「御堂リヒトを誘導していた?」
《誘導ではなく、治療の一環であり、連弾です》
「連弾? 二人で曲を奏でようとしたんですか?」
《私は御堂氏の押す鍵盤を予想できませんでした。従って、彼の押す音をこういう方向に導きたい、という要望はそもそもないし、かなえることもできません。この時は、彼の過去の音のパターンから近いものを推測して旋律にしたら、御堂氏が反応しました。御堂氏と私が演奏していたものを一つの曲とみなすかは、解釈によるかと思います》
「御堂リヒトの、ユヴァルの聴情波形を予想して実施したんですか?」
《私がピアノを操作している時、御堂氏のユヴァルが反応していたことは知っていました。外的刺激に対して反応が増えるのは良いことだと判断しました》
 オルガはなんとなく釈然としないままに、ミナを解放した。
 研究室で一人きりになると、かつての同僚に海外のコーヒー豆をもらっていたのを思い出した。自分の手を動かしたくなり、コーヒーミルを取り出す。ミルを100回ばかり回転させると、挽いた豆の香ばしい匂いが部屋中に漂い、室温までも上がる気がした。
フィルターの中に湯を注ぎ入れ、カップを手にして椅子に座る。至福の時間だ。と、耳の奥に心地よい音が流れた。澄みきった水と空気の明るさをそのまま反映したような旋律。恐らくビバルディだろう。教養の範囲で判別できる曲だった。
 オルガは流れる音に身を任せた。そして自分が、リヒトの聴情波形を見た時よりも、その後にミナの話を聞いた時の方がずっと強く興奮を覚えていることを自覚して苦笑した。

 リヒトが音楽室に通う際、ミナはタイミングを見て旋律を奏でるようになった。そして二人の音が合う瞬間は増えたが、音が一致すると途端に興味を失うリヒトの反応を恐れてか、ミナはそれほど長い時間は音を合わせないように留意しているようだった。
 ミナとの奇妙な連弾を行うようになったリヒトは、表情に変化が見られた。音が合う時は目に力が入り、なかなかタイミングが合わないと、若干焦っているような表情を浮かべているように見えた。そんな時に聴情波形を確認すると、やはり上下が激しくなっているのだった。
 ミナの旋律は日ごとに変化を増した。ミナが数日前と似た旋律を示すと、リヒトの瞳が一瞬遠くなり、指の動きが遅れた。オルガは反応の意味をミナに尋ねた。
《恐らく御堂氏の記憶の中で、前回の演奏を思い出すのにタイムラグが生じているようです》
「自分の押した音の塊を思い出そうと?」
《というよりも、音を押した時と、私がつくった音を合わせた瞬間、そして、御堂氏自身がどのように感じたか、でしょうか。その時のユヴァルの聴情波形は、一瞬感情が減退してから、一気に高まります》
「減退と高まりの正体は、何なのか分かる?」
《人の感情の分類でいえば、減退が喪失感、高まりが焦燥感のパラメータに似ています》
「例えばだけど、私が似たような感覚を覚える音を出せますか」
 ミナの流した音色はチェンバロだった。遠い昔に聞いた覚えがある。
「これは何の曲ですか?」
《タイトルは『カヴァティーナ』です》
「聞いたことがある気がします」
《映画監督のマイケル・チミノが映画で使用していました。映画の中ではギターによる演奏でした》
 オルガは思い出した。再生と喪失を同時に獲得するような感覚を伴う、古典映画に分類される作品『ディア・ハンター』のテーマだ。悲哀と共に、どこかほっとする旋律。
「喪失感……懐かしさや郷愁に思える」
《違いが分かりません》
「どれも大きくは変わらないですね。忘れていたものを思い出して、過去にあったものが今なくて、それが今欲しいと思う感情と言えば、説明になっているでしょうか」
《私は『思い出す』ことはありませんし、人の感情を追体験できません。また、感覚に名前を付けることはできません。博士がそう考えるのならば、そうなのでしょう》
 確かに、忘れることのないミナが、郷愁を覚えるはずもなかった。
「それは、AIが相手でなくても、分かっているのかは分からない。というのは、人は懐かしさと言えば分かるし、共有できることになっているけれど、それが本当に同じ感覚なのかは分からない」
《脳の同じ箇所が反応しているとは言えます》
「郷愁に満ちた物悲しい音楽を聞くのは、快感とは言えるでしょうね」
《人間は、長調の楽しそうだと言われる曲を聞くよりも、悲しそうだと評される音楽を聞く方が、実は脳の快感神経が活動しているというのは事実としてあります。幸福や喜びを知るよりも、逆の感情を知った時の方が、聴情波形が動くことに似ています》
「そうかもしれない。悲哀は麻薬のようなものか。陶酔できるから」
《現段階の御堂氏の音は、悲しいのでしょうか?》
 オルガは少し考えて言った。
「私には何も感じられない。悲しいのだとすれば、本人にとってだけだと思う」
《その悲しみは、前の音を思い出せない、失ってしまったという感覚に由来するのかもしれません》
「あなたにとって、御堂リヒトは、まだ興味を感じられる対象ですか?」
《音を選択したいという意味では該当しますね。彼の音に興味を持っていますので、引き続き観察したいと思っています》
 オルガはミナを解放した。
 ミナの新しい言動を知ることができて喜ばしく思いつつも、彼女はふと疑問に思った。
 御堂リヒトの情動が安定した時、彼はミナの興味をひく音を出せるのだろうか。

 カウンセリングの日、リヒトはAIに伴われてやってきた。
 相変わらず車椅子でAIの手引きがないと行動はできないようだが、それでも顔の血色がよくなり、目の光も戻ってきたように思えた。
 最近の経過とここでの生活を尋ねると、リヒトはまだ発言はしなかったが、オルガの言葉に対し、わずかにうなずくか興味を失うかで反応した。ユヴァルを見ると、彼の反応と比例していたので、彼が言わんとしていることは推測できた。またこのカウンセリングは、ミナもユヴァルを通して把握しているはずだった。
 BAMCの定例会では、オルガは自分の担当している患者の報告を行う。彼女が診ている患者は概ね回復に向かっている旨、またとりわけ御堂リヒトの経過が興味深い経過をたどりつつも良い方へ変化している旨を報告すると、BAMCの開発担当チームが質問してきた。
《御堂リヒトの治療プロセスは、どのように計測しているのか?》
 性別も年齢も分からない、個性を消された音声。開発チームの人員はさまざまだが、発言者を明確にすることで偏見を生まないために、敢えて匿名性を高くしている。このプロジェクトはまだ途上ということもあり、最終的なメンバー構成自体明確にされていない。
「定期的なカウンセリングとユヴァルの計測、あとはミナの報告ですね」
《結果報告を》
「カウンセリングに関しては、最初は無反応でしたが、今はだんだん反応がよくなりました。ユヴァルの聴情波形のバリエーションも増えています」
《結果は良好ということですね》
「そうですね。あとは、ミナもユヴァルと解析しながら、彼女の独自のアプローチを進めていて、一緒にピアノを弾いています。ミナはそれを連弾と呼んでいます」
《音楽療法の一環か。御堂リヒトの音に、ミナが音を合わせると?》
「それに近いですね。まあ、御堂リヒトの音は出鱈目に近く、ハーモニーとは言えないので、そもそも合っていると言えるのかは分かりませんが」
《ミナはどのように反応しているのですか?》
「連弾自体はミナの提案ですし、そうですね……ミナ自身は『データとして残す』『選択』『興味を持った』と表現しています」
 沈黙の後、顔の見えないメンバーたちがつぶやいた。
《それは面白い》
《興味深いですね》
《選択や興味というのは、どういう意図か》
《一定の志向性を持つのは、前例がないことだ》
 BAMC内で、複数意見が出ること自体が珍しい。オルガが黙っていると、結論らしきものが出た。
《優先順位の高い案件として、このままミナを使って経過観測を続けてほしい》

 オルガは定例会後の習慣として、自分のクライアントのデータを整理した後、全員にカウンセリングを行った。入ってきたばかりの患者には、極力相手を緊張させずに接するように努め、慣れている相手には、より充実した対話ができるように努める。
「この施設にいた期間を思い返すと、ずっと夢の中にいたような気がします」
「たいしたことは何もなくて、覚えていないということでしょうか、神代さん」
 オルガが笑って言うと、神代と呼ばれた壮年男性は苦笑しながら言った。
「そういう意味ではなくて、リラックスしていたということですよ」
 彼は髪に白いものが混じるが、豊かな表情と張りのある声、笑うと顔中にできる皺がひとなつこい雰囲気をつくり、総じて若々しい。パートナーAIを伴ってはいるが、彼はほとんどのことは既に自分でできるようになっていた。
 元エンジニアで忙しすぎ、時間が取れずに病になった神代マサの、すっかり血色のよくなった顔を見て、オルガは願った。彼のような人が、二度と病にならないようにと。オルガにとって、この施設に来て回復する過程を見るのは喜びだったが、自分自身を取り戻した彼のような患者を見ていると、前の世紀から変化を遂げていない労働システムと、彼から正常な感覚を奪った社会に問題があるのだと実感せざるを得ない。人が別の星に移住しようかというこの時代に、多くの労働現場は保守的なままだ。
「最近、気になることはありますか?」
「特には。ここは居心地がいい。食事も美味しいし」
「それは良かった」
「すっかり慣れて、隣室の人も挨拶してくれるようになってきてくれましたし」 
 彼の隣室はリヒトの部屋だ。オルガは緊張と好奇の意識を表に出さないようにしながら言った。
「隣の人と、なにか喋ったんですか?」
「いいえ、彼の声は聞いたことありませんが、私が挨拶すると目を合わせてくれるようになりました。最近だと会釈してくれることもあります」
「それは……すごい進歩ですね」
「この施設に来る多くの方や、私なんかと同じで、なにか過去につらい出来事があったんでしょうけど」
 彼はうなずきながら言った。
「もともと愛想の悪い方ではないんだろうなと思います。雰囲気が温かくなってきた」
 彼が出て行ってから、オルガは神代のパートナーAIに記録されていた映像を観察した。軽く会釈するリヒトは、他者に対する反応が細かくなっているように見受けられた。ここに来たばかりの時の無反応な瞳には動きが生じ、重く暗い影も消えつつあるように思えた。
 オルガはリヒトのカルテを改めて見た。輝かしいカルテの最後に記載された一行。

 最後の執刀後まもなく休職。その後BAMCに入所希望。

 リヒトの履歴を詳しく調べた。最後の執刀は、彼の勤務先である大学病院での手術だ。脳外科医だったリヒトの最後の患者を調べると、大学で教鞭を執っているヴァイオリニストだった。その音楽家は脳腫瘍を罹患し、病魔は右前頭葉を圧迫していた。腫瘍は薄紙一枚を隔て、左手を制御する箇所に迫っていた。
 繊細きわまりないメスさばきを必要とする手術を行うにあたり、経験も実績もあるリヒトが選ばれた。昨今では、患者の人生を知るためもあり、医師もマルチキャリアが推奨されているが、医術と共にピアノを弾くリヒトはとりわけ手先が器用で、また患者の人生を賭けたその手術の重要性を理解していると判断されたのだ。
 手術は患者であるヴァイオリニストの演奏と共に行われた。運動機能を傷つけることのないように、演奏を確認しながら行ったのだ。リヒトは、脳腫瘍の手術で、言語機能を傷つけないように話しかけながらの執刀も数回行っていたから、演奏しながらの手術は彼のアイディアだったのだろう。結果として腫瘍は95%除去され、ヴァイオリニストの左手は日常生活には支障はない程度には動いた。しかし演奏の微細な運動は不可能になってしまった。
 オルガの頭に手術の情景が浮かんだ。白い手術室で静かに響くヴァイオリンの音、わずかな弦の振動、老音楽家の厳粛な顔。細心の注意を払いながらメスを動かすリヒトと、それを見守る助手たち。繊細で流暢な演奏は徐々に遅延し、弓の動きが目に見えない速度で鈍くなっていく。徐々に歪んでいくヴァイオリニストの顔。焦りを出さないようにするリヒト。しかし音の遅延は止まらず、繰り返されるフレーズは弱く、旋律が不明瞭になっていく。
 ゆったりとした音の動きは、臨終間近な患者の心電図のように平板になり、ついには音が完全に止まる。それは一人の演奏家の音楽的な死、情熱の終焉を意味したのだろう。
 患者はリヒトに感謝こそすれ、彼を責めることはなかったという。恐らくその音楽家は自分の命運を悟っており、大学教授として自分の手わざを人に伝える仕事に専念することにしたのだろう。しかしリヒトの心境はどうだっただろうか。
 彼がBAMCに入居するようになったきっかけは、この手術経験によるものだろう。オルガには、リヒトが手術の経験はおろか、それにまつわる記憶、音楽に関する感性も消し去りたいと思った心境は分かる気がした。
 ミナは、彼が前回の自分の演奏を思い出そうとすると、情動が動いていると言った。リヒトは過去の自分を取り戻そうとしているのか。もしくはトラウマの克服か。その前向きさは彼にとってプラスに働くのだろうか。

 オルガの懸念をよそに、リヒトは徐々に元気を取り戻しているように見えた。朝と夕刻の音楽室通いは変わらず行っており、次第に車椅子で運ばれなくても演奏できるようになっていった。パートナーAIは車椅子を押す必要がなくなり、リヒトの行動を見守って経過を計測する、モニターとしての役割に徹するようになった。
 リヒトの奏でる音の集合体は微調整され、だんだん不快な音ではなくなっているように思えた。ミナとの連弾もかなりスムーズになり、音が一致しているタイミングが増えた。
 リヒトが音楽室に入ると、既に別の患者が練習していることもあった。彼らの多くは楽器を触っていた経験はあるらしく、演奏はできるようだった。時には患者同士で音を合わせることもあった。
 リヒトはオルガが担当している患者と一緒に演奏することもあった。そんなときのリヒトは、相手が演奏しやすいように誘導しながらピアノを弾いているようだった。セッション中のユヴァルを計測すると、リヒト以外の患者はきれいなリラックスの聴情波形になっており、リヒトの波形も、波は小さいながら、情動の動きを示す形になっていた。
 知人ができることは、リヒトの生活に張りを与えたのだろう、彼は音楽室で同じ相手に会うことができると、初めは目を見ないで会釈するばかりだったが、次第に言葉を発して挨拶できるようになっていった。最初に言葉を交わしたのは、過去のカウンセリングでリヒトの変化を伝えた神代だった。神代は、リヒトから返事があった時に一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに何でもないように自然に反応した。
 神代が演奏する楽器はトランペットだった。履歴上、彼は大学時代に吹奏楽部に入っていた。社会人になってからは時折触る程度だったが、一度マウスピースを拭くと勘を取り戻し、音をコントロールできるようになった。トランペットの明瞭で鋭い音は、神代に良く似合っていた。
 数週間ぶりのリヒトとの面談の際、オルガは明確な効果を実感した。彼は発話できる状態になっていたのだ。パートナーAIが提供する映像を参照しながら、オルガは尋ねた。
「だいぶ表情が明るくなりましたね」
「そうですね……こうやって話せるようになりました」
「それは良かった」
「なんだか今までは、夢を見ていたような気がします」
 そう告げるリヒトは、まだ表情は乏しかったが、唇をわずかに曲げて笑顔らしきものを浮かべている。
「回復してきた患者さんは、よくそうおっしゃいます。過去を思い返すことができるようになったんですね」
「ええ、今までは、つらかったせいか、思い出すこともできなかった」
「……その話は、いずれお聞きしたいです」
「そうですね、今話すことではないかもしれない」
 リヒトの去り際、オルガは質問してみた。
「あなたにとって最近、一番嬉しかったことは何ですか?」
 彼はしばし考え込み、首をかしげながら告げた。
「そうですね……なんだか現実離れした話ですが、ピアノを弾いている時、鍵盤が動いてメロディを奏でるのです。それに合わせようとして音を追いかけるのですが、そのメロディに自分の出す音を合わせた時は嬉しかった」
「現実離れした話ではないですよ。それはこの施設を管理するAIがやっていることです。私も拝見したのですが、どうやって音を『合わせ』ているのですか?」
「合うというと違うのかな……なんというか、ふさわしいと思える音があるのです。それは作曲で、旋律に伴奏をつけるのと同じ流れになります」
「そういうものなのですね」
「ところで、私に喜びをくれたAIに名前はあるのですか?」
「ここでは、ミナと呼ばれています」
 ぎこちなかったリヒトの笑顔が、少し自然になったように思えた。
「ミナ……女性の名前か、彼女は優秀ですね。もっとも、BAMCのAIなら当然か。それにしても、私のそばにいてくれるAIとも、ずいぶん違った仕様のAIのようですね」
「ミナはBAMC全体を管理している仮想系のAIで、特に音楽を統括しています」
「ということはユヴァルの管理も含まれるのか……それは優秀なわけですね」
 リヒトは納得したようにつぶやいた。
「しかし私は、今まで自分が出していた音をあまり思い出せないのです」
「あなたの音は記録されているので、聞くことは可能ですよ」
 オルガはそういうと、リヒトが出していた音を再生した。
 最初は音を奏でるというよりはぎこちなく鍵盤を押していた段階から、ミナの旋律が登場するとそこに合わせるようになり、フレーズが出来上がっていく。その過程を、リヒトはまるで他者の成長を観察するように聞いていた。
「なるほど……しかし、やはり実感がわきませんね。恐縮ですが、今の音源を自室で聞けるように送っていただいていいですか?」
 オルガが頷き、パートナーAIにデータをインプットした。
 リヒトが退出すると、オルガはミナを呼び出した。患者全体の様子を聞いた後に尋ねる。
「御堂リヒトの経過は順調そうね」
《何をもって順調と呼ぶかによります》
 オルガはさきほどのパートナーAIから取得した映像を呼び出した。直近の連弾は、昨日の日付を示している。リヒトの押す音は、既に不快な音の塊ではなくなっている。オルガの耳にも心地よい和音になっており、ミナが操作する旋律にちゃんと合うようになっていた。
「さすが、もともとピアノを弾いていただけあって、上達も早い」
《御堂氏とのコミュニケーションは取りやすくなりました。標準的な奏法に近くなったという意味を上達と呼ぶなら、確かに彼は上達したと判断できます》
 淡々と響くミナの音声。
「あなたの基準は別にあると?」
《御堂氏の反応は、一般的な人間に近くなりました。つまり、人間が標準的に心地よいと感じる音を心地よく、不快に感じるものを不快と捉えているという意味です》
「それで?」
「データを収集する立場からすると、御堂氏の今の音データは、残す必要はないものと判断しています」
 オルガはミナを解放した後、改めてリヒトとミナの連弾を聞いた。
 最初とは比べ物にならないほどにスムーズで、思わず聞き入ってしまう瞬間すらある。そのハーモニーの親和性と、さきほどのミナの淡々とした発言が同一の出力源によるものとは思えず、オルガはしばし考え込んだ。

3.

 私はその時、音楽室にいた。
 それ以前のことは、何一つ覚えていなかった。
 一つの音、一つの旋律、一つの光が、まっすぐに私の心に入り込んできたのだ。
 何かが呼びかけてきたのは、久しぶりのことだった。
 その感覚は、暗闇の中で明かりが見えた、というのとは違う気がする。光に目を眩ませながらそれを追いかける、といった劇的な感じではなく、何も聞こえない暗い洞窟の中で、人の声と思しき優しい歌声が聞こえたような感じだ。
 迷える者に救済を与える詠唱のような音の源を探ろうと、私は自分の手を動かした。左手だった。私を導く音に出会いたい、追いつきたいと、急速に願った。指を動かし、これは違う、これも異なる、と思いながら探った。全身の皮膚を鋭敏にさせ、意識をつきつめ、今の場所とは違う、異なる次元をまさぐるような感覚だった。
 合ったと思える瞬間があった。自分でも聞いたことのない音、旋律、音の集合体だった。それが一致したと思える瞬間は、旋律と伴奏が合うべきところに収まった。私は指を動かしている、ただの肉の塊だったけれども、あの瞬間、私はただの肉塊ではなかったし、ピアノもただ音を出す楽器ではなく、何か全く別のものになっていたのだ。
 音をまさぐっていて、合ったと思ってから、ふと我にかえった。気づけばピアノは黒く光っていて、私の姿を冷たくうつしだしていた。久しぶりに見るその顔が、自分のものだと気づいた。頬骨の尖り具合と額の広さが昔よりも際立っていて、ピアノの暗い鏡面に引きずり込まれるような気がした。私は思わず後ずさりした。

 翌日も、翌々日も、私はおずおずと鍵盤に指を乗せた。著名な曲はおろか、バイエルやツェルニーなどの練習曲すら何も思い出せなかった。だから自分の感覚を確かめるため、一音ずつ発していった。
 輪郭のクリアな白鍵の音。気持ちをざわめかせる黒鍵の音。最初は遠く離れて聞こえていた音が、一音弾くごとに私へと近づき、身体から意識の中に入っていき、何かをひきおこして外に出ていく気がした。その過程で、おぼろげだった自分の感覚がはっきりし、何を感じているのか、つかまえられているような気がした。
 私が出していない無人のメロディ、私の傍らで奏でられる旋律は、透きとおった細い糸のようで、なかなか掴むことができない。ときおり見える瞬間があるような気がして、それを掴みにいく。そして糸の主、音の主が、何を望んでいるのか分かったと思える瞬間があり、要望に応えられた手ごたえの中、私の気持ちは小さく高揚した。
 一定のリズムに従った生活の中で、私はその作業、一つの旋律のために、自分が伴奏を作り出すことにだけ喜びを感じるようになった。食べることも寝ることも、すべては遠い出来事のようで、実感を伴わないルーチンでしかなかった。薄いヴェールに覆われたような生活の中で、物言わぬ旋律の主の奏でる音に合う音を探る作業だけが、私にとっての唯一の生き甲斐であり、自分が生きていると感じられる瞬間だった。
 そして、相手のメロディに合うと思える音を出した、探し当てたと感じることが増えると共に、自分の意識がはっきりする瞬間が増えた。それまでは、遠く離れた映像のようにしか思えなかったもろもろの出来事の輪郭が、次第にはっきりしはじめた。パートナーAI、いつもそばにいてくれる存在。旭オルガ、定期的に話をする人。ある日、隣人がかけてくる声が、挨拶なのだということを理解し、軽く会釈をするようにした。音楽室で会った時に声を出してみたら、逆に相手が驚いていた。
 自分の今置かれている状況も分かりはじめた。BAMCにいて、音楽療法を受けていること。過ぎゆく日々。窓際に置かれた花瓶、砂時計に似たアイスグレーの瓶に小さな花をいけるのは、私のパートナーAIの日課であること。ガーベラの花の鮮やかな色味と、日に透かすと茎の繊毛が白く輝く。自室のベッドの糊のきいたシーツの感触。レースのカーテンから漏れる柔らかい光。バランスを考えられた食事は温かく、室温はいつも快適な温度に整えられている。そうした生活の断片が、リアルに感じられてきた。そしていろいろなことを思い出していった。
 自分が入所するに至った経緯は、最初は思い出せなかった。次第に断片的な記憶が頭をよぎるようになった。いろいろな瞬間や細部の記憶が、日常の中で少しずつクリアになっていく。そしてついに、最後に担当したクライアントの手術のシーンを思い出すようになった。銀色のメスと刺すような光。白い清潔な手術室を満たす美しい旋律が、徐々に弱くなっていく。自分が手を動かすに比例して弓の動きは鈍くなる。焦りと苦悩。空間を満たしていた音はか細く小さくなり、やがて消滅してしまう。部屋は冷たいコンクリートの空間になり、壁は白から灰色へ、やがて記憶の中で暗闇の漆黒へと移行する。
 失われてしまった音が取り戻せるなら何でもやると誓った。あらゆるリハビリを試した。日常生活は問題ないまでに至ったけれど、あのヴァイオリニストが持っていた繊細で豊かな音は、凡庸で心をうたない音に代わってしまった。彼の音は、私の心を動かすことができない以上、もはや人の心を動かすことはできないだろう。自分を責めた私は、一つの音楽を殺してしまった代償に、自分の感覚を殺すに至ったのだ。
 しかし私が殺し、私を殺した音楽は、再び私を救ったのだ。沈み込んでいた私の意識は、無人の旋律によって再び浮かび上がった。オルガ博士との面談で、音の主がミナというAIだと知った。私は、ミナと対話したいと、切に願った。
 私自身は作曲する時、旋律からつくりはじめるのではなく、そこに伴う和音に意識が傾く。自分にとって馴染みのあるメロディがあり、合った伴奏をつけていく場合でも、そこから生じるハーモニーに惹かれる。ただ、ミナの出す旋律に伴奏をつけていた時期に、何をもって調和とみなしていたのか、全く思い出せない。その時の感覚は、通常に戻りつつある今の感覚や、BAMCに入る前に曲をつくっていた頃の感覚とは違うように思う。それは自分の指の動きで感じる。例えば今の自分だと、ドとレを取りあわせてもきれいには思えないし、不協和音にしか思えないが、指はかつての組み合わせを覚えているから、私はしばしば使っていたことになる。

 オルガ博士との面談の際、その話に至った。
「しかし私は、今まで自分が出していた音をあまり思い出せないのです」
「あなたの音は記録されているので、聞くことは可能ですよ」
 そこで私が耳にした再生音は、違和感だらけの音の塊でしかなかった。一つ一つの音の粒が、悪い意味で感覚に引っかかる、居心地の悪い取り合わせだった。
 パートナーAIにインプットした自分の音を再生し、記譜していく。
 と、音の集合体の中で、一つの旋律が登場した。
 録音の中で私は、メロディラインに、自分の音のタイミングを合わせようとしている。音が一致した瞬間だけ、ひどく気持ちが高揚する。それは汚濁だらけの水の中に、ひとすじの澄んだ水が混ざりこんだような感じだった。その透明な水は、すぐさま周囲の汚い不協の音の影に消える。しかし不快な音の中で、無人のメロディラインに音が重なり、不思議な一致が生まれる瞬間の音は、ひときわ鮮烈で、まっすぐ意識に突き刺さるのだった。
 私は記譜した譜面を見返した。しかし音の取り合わせで言えば不協和音でしかなかった。音楽室へ行った時に再現してみたが、今の自分にはやはり不快にしか思えない。
 意識が曖昧ながらも、なんとかして無人の旋律を追っていた時期、旋律の主に合わせる音を生み出そうとしていた時、私は何を考え、どんな感覚を使っていたのだろうか。ヨーロッパの音楽は記譜法のおかげで発展してきた。しかしかつての自分の音を聞いて記録しても、演奏していた時の感覚は思い出せない。記譜や録音は、感覚までは記録できない。
 無人の旋律に合わせようとしていた伴奏は、何を根拠にしていたのか。コードネームや和声と言われるもろもろのメソッドには従っていない。その意味では、自分の感覚だけに依拠していたことになるだろう。しかしながら、「いい」という感覚は口にできるが、明確にどう感じているのかを言語化するのは困難だ。
 一方で、現実世界での音楽室でのミナとの連弾は合うようになった。過去の奏法や和声の知識を思い出した私は、ミナの旋律に合わせられるようになり、やがて彼女のメロディラインのパターンを予想して、先に伴奏することすらできるようになった。そんな時、ミナは次回からは、全く想像もできないメロディを提示してきた。そこにどうやって合わせるのかを考えるのがスリリングで、日々の楽しみになっていった。
 私の意識は明瞭になり、健康な状態に近づいていくのが実感できた。この段階に来ると、ユヴァルのサポートが実感できるようになった。眠れない夜、ユヴァルを就寝用に合わせると、さまざまな音や曲が提供された。春の風のささやき、夏の深夜の森林のざわめき、秋の小径で乾いた木の葉を踏みしめる音、寒い冬の日に暖かい室内で聞く雨の規則正しいリズムなど、心あたたまる音。明け方の光のようなモーツァルトのピアノ協奏曲、小川のせせらぎを思わせるショパンのワルツ、一日の終わりの平穏な気持ちを想起するシューベルトの即興曲。あらゆる音を試してみると、一番眠りに陥りやすいのは、20世紀から21世紀にかけて活躍した音楽家・フィリップ・グラスの曲だと分かった。中でも「グラスワークス」と称される曲集が効果的だった。
「グラスワークス」は、たくさんあるグラスの曲の中でも最初につくられた6曲からなるアルバム作品で、ピアノによって演奏される「オープニング」からはじまり、管楽器や弦楽器の曲、両者をまじえた作品が続き、最後は「オープニング」を異なる編成で演奏した「クロージング」で閉められる。
それぞれの曲は、例えていえば、かたちの異なる透きとおった結晶体だ。反復されるフレーズは感覚の表面から奥へとしみわたり、心地よい酩酊をひきおこし、やがて最初の次元に戻る。通して聞くと、感性から夾雑物が洗い流され、自分が鑑賞前と鑑賞後で違う存在になっているような気がしてくるのだった。
目を閉じて想像する。オープニングのピアノの音は、波動になって空気に伝わり、やがて透明な結晶をうみだす。明晰に磨き上げられた結晶は、いつしか無限の水晶になり、核心からは細い光があふれだす。そんなイメージの中に身を委ねていると、静かに眠りの波がやってきて、やがて朝を迎えているのだった。
 いったん就寝できても、悪夢を見ることもあった。真っ暗な物質に囲まれ、引きずりこまれるような恐怖を抱き、汗をびっしょりかいて起き上がる。恐怖の夢は、メエルシュトルムの渦に呑まれる絶望だったり、崖から一直線に落ちる恐ろしさだったり、正体不明の動物に追いかけられる切迫だったり、私がおよそ考えうるさまざまなバージョンで訪れた。  
しかしながら、最も多い悪夢は、最後の手術のシーンの断片だった。動かなくなっていく弓と、音を失っていく手術室。空間の白さは、やがて全てを飲み込んでしまい、私はまったき無のなかで、一つの芸術を葬ったことを実感する。
夢から覚めると、ユヴァルは比較的明るい曲を流し、混乱した気持ちをなだめてくれるのだった。その背後にミナがいるのだという気持ちも、私の気持ちを安らげてくれた。
 回復してくると、食事と音楽室への立ち寄り、入浴と睡眠でしめられていた日々の中に、もともと趣味だった読書や、筋肉を衰えさせないための運動、社会復帰した時のための情報収集や学習などを追加することができた。BAMCにはトレーニングジムや、高価なアーカイブである紙の本を置いている図書館もあった。私はパーソナルAIを自室に待機させたままにし、他の入所者と軽く話すことも増えた。特に隣の部屋にいる神代マサとはうまが合い、顔を合わせれば話す仲になった。挨拶だけではなく日常的な会話も交わし、次第に個人的な話もするようになっていったのだ。
 音楽室で彼のトランペットとセッションした時は楽しかった。それはピアノとトランペットという楽器の違いや、曲がジャズだったこともあるのだろうが、音と音をぶつけて弾むように楽しむ、スポーツのような経験だった。セッションは気分を高揚させてくれたが、全身を感覚の塊にし、お互いの音の距離感をチューニングしつつ音を探りあう、ミナとの恍惚とした愉悦とは、全く別種のエンタテイメントだった。同時期、オルガ博士の提案により、音楽室へ立ち寄る日課は一日二回から一回になったが、その分ミナとの連弾が濃密になったような気もしていたのだ。
神代は音楽室でのセッションの後、握手を求めてきた。人と皮膚感覚で接触するのは久しぶりだった。
「いい演奏だったよ。ありがとう」
「こちらこそありがとう。ジャズピアノはすごく久しぶりだった。ペット吹きがこの施設にいるとはね」
 神代が笑うと、顔にいい皺ができる。人を安心させる笑顔だ。
「ペット吹きといわれると、ちょっと気恥ずかしいな。君はどこかで専門にやっていたんだろう?」
「仕事が忙しい時はあまりできなかったけど、ときどき演奏会に出たり、店で弾いたりはしていたよ」
「そうか、通りで達者なわけだ」
 その後も、彼とは音楽室ばかりではなく、食堂やジムなどでも遭遇し、折を見て話をした。なにしろ時間はたっぷりある。毎日何をしているか、パーソナルAIとはどんな関係か。その日の食事の感想。たわいもないやりとり。互いの趣味や仕事、家族のことも話すようになった。しかし結婚して子供もいる神代に比べ、独身の私が話せることは圧倒的に少なかった。一方で神代は、私の脳外科医という仕事のことや、ピアノのことを聞きたがった。私がこの施設で最初に自分の感覚を実感したのが音楽室で、それ以来ミナという音楽AI関わっていること、今も彼女とピアノの連弾を行っていることなどを伝えると、彼は言った。
「音楽で、感覚を取り戻したのか」
「そう、初めての経験だった」
「BAMCならではの稀有な体験だな。ユヴァルから取得したデータを集積して、AIに分析させてるってことなんだろうが」
「部屋に流れている音楽もカスタマイズされてるからね」
「あんまり意識したことなかった。静かな曲が多い、くらいに思ってたよ」
「私の部屋では、昨日の夜はスクリャービンの『前奏曲24番』が細く流れていた。ロシアのショパンと言われたスクリャービンのイメージを体現している、美しい曲だ。ここでは彼の作品の中でも、後期の妖しさが漂う重い曲は流さないみたいだ。患者が不安になる音は選んでいないんだと思う」
「あまり意識したことがなかった……そういや、俺の部屋はジャズのナンバーが多いな。好みに合わせてくれているんだろうな。共有スペースはクラシックとかが多い気がする」
「ちょっと聞いた感じはクラシックみたいだけど、実はアレンジされているとか、新たに作曲されているものも多い。聞き慣れた音の方が安心できるから、古典的な曲も選んでいるんだろうけど」
「そのミナってAIが曲をつくっているのか……俺には正直、誰でも知ってる曲ぐらいしか判別できないけど、曲をつくってユヴァルで俺たちの反応を分析しているのかもしれない。それをビッグデータの一環として利用するんだろう」
 私はその時、改めて、神代がエンジニアなのだと実感した。
「そうだな……BAMCに入所する時、そんな契約を交わした気がする」
「俺たちはサンプルデータの一部で、研究材料なんだよな。まあ、ここに入る時は自分が健康になれれば何でも良かったから。ここ以上に充実した施設なんてなかったし」
 研究材料。その言葉は妙に意識に引っ掛かり、パーソナルAIと関わっている時も、相手に自分のデータが吸い上げられていくのだと、妙な実感を伴った。私が身を置いている社会では、個人情報を提供しない存在は、社会に存在していないのと同義だ。気にしていては生きていけないし、安全や保障は情報提供の代償でもある。誰かに見られているという気づき、本能的な感覚は失いたくはないものの。
 次のオルガ博士とのカウンセリングの際も、自分の発言を始め、一挙手一投足が吸い上げられて、参考にされていることを意識した。観察なくして治療も不可能だろうし、私がまともに考えられるようになることもなかったのだが。
「調子が良さそうですね。最近気になることはありますか?」
 車椅子が必要なくなった私は、部屋のソファに座っている。
 オルガ博士の言葉に、私は返答した。
「特には。ミナとの連弾も、回数は減ったものの順調です」
「そうですか……実はその連弾のことだけど、ミナは今後、あなたを診る機会を減らす、もしくはなくしたいということです」
 私は思わず身を乗り出して言った。
「減らさないでほしいのですが」
「これはミナの提案です。あなたの経過は順調で、もう彼女が診なくても問題ないと。ミナはこのBAMC全体を管理するAIなので、ケアの必要がなくなった患者にかける時間はないのです」
 言われてみればもっともなことだ。患者が回復した場合、診療の必要はない。しかしながら、現時点で私は、あまりにミナに入れ込みすぎていた。
「そもそも、今まで、ミナがクライアントに接触することはほとんどありませんでした。ミナが必要だと判断したからではありますが、今回のようなプロセス自体が珍しいのです」
「そんな……私はもっとミナと一緒に弾きたかったけれど……」
 呟くように言うと、オルガ博士は少し考えながら言った。
「完全に終える前に、ミナともう一度だけ対面する機会を設けましょうか?」
「可能なんですか?」
「それであなたが納得するなら試みましょう。もっとも、ミナがそれすら不要だと判断するなら諦めてください」
 私はオルガ博士に感謝を述べ、退出した。
 ミナが最後の対面を許可したという知らせを受けたのは数日後だった。
 その前に神代と話す機会があったので、今回の経緯を話さずにいられなかった。
「最後にミナと連弾できる機会はあるんだけど、もう今回で終わりだと思うとつらい。こんなことを言うのは恥ずかしいけれど、胸が張り裂けそうだ」
 私が彼に告白すると、神代は言った。
「AIとの恋愛や婚姻は、人とのそれとは意味合いが違ってくるが、昨今では珍しい話ではないさ」
「でもそれは人型AIとか、人と近い形をした知性体との関係性だろう? ミナは身体がない仮想系のAIから、どうにもならない」
 私が嘆くように言うと、神代は提案をくれた。
「手段がないわけじゃない。実体化だ」
「実体化?」
「人に近いボディを用意して、そこにミナの根幹を入れるんだ」
「でもミナはBAMCの管理AIだよ。難しいんじゃないか?」
「AIはデータだから、複製をつくればいい。機密条約を交わし、君が漏えいしなければ問題ないだろう。開発者はいるはずだから、オルガ博士一同、許可はいるはずだ。でもミナの創り主に許可を得れば、法的には実体化自体は可能だと思う」
「実体化……人の形のボディは、そもそもいらないけれど」
「だったら、色気のない話だが、筐体でもいいんじゃないか。少なくとも今のままだと、君が退所したら、ミナと接触することはなくなる。それは明白な事実だ」
 神代の言う通りで、このままだとミナとの接点がなくなってしまう。人型に入ったミナと生活を共にしたいという願望はないが、音楽的な接触だけでもいいから繋がりを保ちたかった。実際、彼女と関われなくなるかと思うと、今後正気を保っていられる自信はない。
「このまま退所して接点がなくなるのはつらいな。でも、筐体に入ってもらう、ということだと連弾はできないけれど……」
「だったらピアノを電子にして、プログラムを入れられるようにすればいい。AIで制御する楽器は既にあるし、技術的には問題ないはずだよ」
 あとは予算と納期の折り合いだと神代は言った。それは問題ない、実体化をお願いする時には君に頼みたいと告げ、私はオルガ博士との面談を待った。そして終了のタイミングで、私は話を切り出した。
「相談があるのですが」
「あなたから相談を持ち掛けられるとは、珍しいですね。何ですか?」
 彼女にまっすぐ顔を覗き込まれると、少し気恥ずかしかった。
 私は少し目線を落としながら言った。
「先生は実体化をご存知ですか?」
「え?」
「ボディを持たないAIに体を与えることです。身体は人型とは限らず、いろいろなものに登録というか、入れることができます」
 呑み込みの早い博士は悟ったようだった。
「単語自体は聞いたことあるような気がします。で、あなたはミナを実体化したいのですか?」
「そうなのですが、実体化には開発者の承認が必要になります。博士はミナの開発に携わっていると思ったもので」
 博士は少し考えながら言った。
「確かに私も、開発には関わってはいますが、ミナはBAMCのプロジェクトの一環なので、他のAIと同様、多くのメンバーが参加しています。そもそもミナの所有者は、一人の人格ではないと思いますが、確認してみます」
「ありがとうございます。助かります」
「多分時間はかかりますよ。あと、権利上の問題で、そもそもダメかもしれないので、期待しないでください」
 私は礼を言って退出した。恐らく手続きは煩雑で、恐ろしく時間がかかるだろうが、それは想定の範囲内だ。最終的にミナを実体化できればよかった。彼女と関われないと思うと、目の前が真っ暗になるような気がしてどうにもならない。
 その日は音楽室には誰もいなかった。私はバッハを弾いた。もともと私はフランスの印象派、ドビュッシーやラヴェルなど、または指を転がすフォーレなどを演奏するのが好きだったが、その日はバッハの、螺旋状に天へと接続できるような恍惚に身を委ねたかったのだ。ひとしきり演奏した後、教会旋法の一つの甘美な旋律を弾いた。するとミナがメロディラインを示したので、私は伴奏を探った。ほどなくしっくりくる音が見つかったので、ミナと音を合わせた。ミナの音のすべてに私の音をあてがい、曲として成立させた後、私は声を出してミナに話しかけた。
「ミナ、私の話を聞いてほしい」
 ミナとの連弾は何度も行っていたが、対話はその時が初めてだった。私の胸は緊張と期待でひどく高まっている。すると音楽室のモニターに水紋のような映像が出て、一瞬の後に女性のシルエットが表示された。心地よい声が響く。
「呼びましたか」
 不思議なトーンの声だった。少年と少女の間、変声期前の少年のような感じだ。柔らかいがどことなく無機質で、年齢も国籍もないミナという存在にはふさわしい気がした。
「不思議な感じだな……はじめまして、でもないか」
「こんにちは、御堂リヒト」
 私は左手を鍵盤の上に置き、複数の音を押した。彼女と出会った時に押していた指の感覚を思い出しながら。耳障りな不協和音が響く。
「私は君のおかげで、ここまで回復した」
 基本位置や神秘和音、オープンソースで無数の有志の手による量子和音など、私が知っている限りの和音を押す。安定や高揚、悲哀や厳粛など、さまざまな感覚が空気中で泡のように湧きたつ。
「暗闇の中にいた私を、再び明るい場所に引き出してくれたのは君だ」
「あなたが回復できたならば、良かったです。私は役割を果たしただけですので、お礼には及びません」
 淡々とした声が響く。私はカノン進行の曲の一部を弾いた。人の心に高い確率で感動をもたらす旋律。多くの作曲家たちが、使うと曲そのものが消費されかねないと分かっていながらも、人々を喜ばせるために使ってきたコード。
「私は君と連弾している時、光の中に導かれた気がした。君と音を重ねている時が喜びだったんだ。回復して、BAMCから退所できるのはありがたいことだけど……」
 旋律を奏でる指を止めた。相手がモニターの中の存在だとはいえ、言語化するのはかなりの勇気が要った。
「君と会えなくなるのはつらい」
 鍵盤を見ながら思った。
 これを押しながら、過去の私は何を感じていたのか。
 最初は無感動、そして共鳴、最後に恍惚。
得難い感覚。
彼女と連弾していた瞬間の感覚は、まだ私の指に残っている気がする。
「しかし、あなたはずっとここにいるわけではない」
 相変わらず淡々としたミナの声。
「だから考えていた。君とずっと一緒にいられる方法を」
「それは不可能です」
 冷静だからこそ容赦ない。それでも私は告げた。きっとその時の私は、すがりつくようだったろう。
「探したんだ、方法を。手続きさえ済めば、君を実体化させることができる。そうすればここから出ても、一緒にいられるんだ」
「こことは違う環境に、私が移行するということですか?」
「簡単に言えばそうだ。管理している君がいなくなると、この施設の人は困るだろうから、正確に言えば移行するのは君のコピーの分、ということになる。君のコピーは私と一緒に外に出られる。君が望むなら、人型のボディを入手して君を入れ、自由に動くことも可能だ」
 言いながら私は想像した。ミナに身体を与えるとしたら、どんなかたちにすればいいか。彼女が望むなら、どんなボディでも手に入れよう。私が望むのはただ一つ、一緒に演奏することだ。彼女が楽器に潜んでいたいというなら、それでも構わない。カーネギーホールのスタンウェイやチック・コリアも愛したベヒシュタイン、リストの長時間にわたる超絶技巧にも耐え抜いたベーゼンドルファー、君が望むならどんな名ピアノでも取り寄せたい。セントポール大聖堂のパイプオルガンだって再現する。きっと神代は、君をどんな楽器にでも内在させてくれるだろう。私の手に余る楽器でも、君がいればきっと弾きこなせる。
 さまざまに想像を膨らませたところで、ミナは静かに言った。
「それは承諾できません」
 私はやっとの思いで次の言葉を探した。
「……なぜ? 私が嫌いなのか?」
「そうではありません。今のあなたの音に興味がないからです」
 ミナがそう告げると、彼女の映像が、水面に落ちる一滴の水のようなわずかな震えと共に消え去った。
 その時私は、彼女がその日、一音も演奏していないことに気がついた。

4.

 落胆しながら自室に戻ると、パートナーAIが部屋でぽつりと待機していた。私の世話を焼き、希望通りの動作をする彼らを見ると、さきほどのミナの言葉が思い出される。彼女に嫌われていないというのは、嫌われているよりもたちが悪い。私に塵ほどの興味もないということだからだ。
 ベッドに横たわると、天井の白い色が妙に目に入ってくる。柔らかい音が耳に反響する。太鼓をゴムで擦ったような音と、無数の金属的なゆらめきを混ぜたような音が、一定の感覚で沸き起こる。20世紀に現代音楽と呼ばれた音と、多種多様なノイズをミックスさせる最近の曲調を混ぜているようだ。この手の音は、数分聞いていたらいつのまにか数時間も経っていることが多く、独特の心地良さがある。しかしこれらは、私の情動に反応したユヴァルが、つまりはユヴァルを管理しているミナが提供している音ということだ。つらい気持ちになり、音をオフにした。
 外は雨が降りはじめたようだ。ぽたりぽたりという音がリズムのように聞こえる。雨のように涙を流して泣きたい気持ちだったのに、また音のことを考えている。思わず苦笑して目を閉じた。
 今の私の音に興味がないのならば、昔の私の音には興味があるということになる。私はかつての自分の演奏を今一度再生してみた。やはり耳障りな音の塊にしか聞こえない。最初のほうの連弾で、ミナの旋律は整っているが、私の出す不協の音は、彼女のメロディにかろうじてタイミングは合っているものの、調和を生み出しているわけではなかった。私はその音もオフにして、目を閉じた。
 手だてがなかった。だから次回のオルガ博士とのカウンセリングの際、私が新しく作曲した曲を演奏した際の音源を持参した。その上で、私がこの施設に来て間もない時期に出していた音と聞き比べてもらった。
「これ、どう思います?」
 私が尋ねると、博士は軽く首を傾げた。
「最初の音は、あなたがここに来たばかりの時に出していた音ですね。後の演奏はよく分からないけれど、誰かピアニストの手によるものでしょうか」
「2つの演奏についてどう思われました? 演奏と言いうるかは微妙なところですが」
「そうですね……最初の方は私には分からない。聞いていて気分が悪くなったことは確かですね。後の方は、きちんと弾けている、そう、達者できれいだと思いました。商業的なピアニストの演奏として成立していると思いますよ」
 私は一礼して部屋を後にした。
 理論的の世界で「分かる」ということは、論の趣旨が分かるということだ。しかし理論が通じないどころか、内容も不明で、つくった本人の意図が聞き手に伝わることもなく、つくった本人にも意味が「分からない」作品とは一体何なのだろう。
 アーティストが、何も分かっていないながらも何かをつくり、批評家が意味づけるというのはよくあることだ。だが私の音は、作り手も奏者も聞き手も分からない音だ。それは一体どこから来たもので、何を意味しているのだろう。無価値なものとして切り捨てることは簡単だ。だがそこに価値を見出した者がいるとすれば、意味は異なってくる。
 私の音に興味を抱いたミナに、私の音の意味を聞いたところで、ただ、「興味があった」というだけだろう。そして彼女は、今の私の音、オルガ博士曰く「達者できれい」になった音には興味がないのだ。
 もしくはミナの興味は、「分からない」という事態に由来するのか。彼女が一般的な趣味性を踏み越えて惹かれるものは、人間の一般論でいうと「分からない」ものなのか。
 パートナーAIがメッセージを持ってきた。見れば隣室の神代で、散歩でもしないかという誘いだった。私はどういう話をしたものか迷いつつも、気分転換に誘いに乗ることにした。
 パートナーAIが医師以外に個人情報を伝えることはないが、AIにはなんとなく聞かれたくないような気がして、私は彼を自室において外へ出ることにした。見れば神代もAIを携帯させていない。私たちは、常緑樹の濃い緑と紅葉で色づいた木々の中、降り積もる落ち葉でふかふかになった道を歩いた。
 夏の大風の被害か、倒れた白樺が数本朽ちはじめており、まあたらしい切り株も点在している。腰掛けながら話を続けた。
「実体化の話、気になって、過去の職場の仲間に話してみたんだ」
 神代の言葉に、私はうなずいた。立ちのぼる枯れ葉の湿った匂いが心地よい。
「ありがとう。どうだった?」
 周囲の酸素が濃くて、意識が明瞭になる気がする。黒い土の匂いは気持ちをほぐし、どんなことでも話せるようだ。木々をぬって差し込んでくる光は優しく、完全な木陰に入ると肌寒い。ざらざらとした木々の肌は、灰や緑、白や黄色、茶や紫などさまざまな色味で、一本一本に豊かな個性があるのだと知らしめてくれる。
「法律的な問題を乗り越えれば、比較的簡単に実装できる。でもAIを家族として迎えた家庭は、多くの場合破綻しているそうだ」
「……どうして」
「所有者が男性でAIが若い女性の場合、長続きするケースは少ない。その場合、AIはアクセサリー、もしくはトロフィーワイフみたいなもので、支配の関係性になってしまう。しまいには所有者が飽きるか、別のAIに目移りするかどっちかだ。暴力を振るわれたAIが逃げ出して保護団体に訴えたり、暴行が近所に通報されたりなんてこともある」
 高い鳥の声と木々のざわめき。ときおり吹き渡る風が葉を鳴らす音。下界の生々しさやせわしなさを洗い流してくれるような森のBGMに、私は心を安らげることができた。もっとも、話している内容は下界の話で生々しいのだが。
「私の場合、そんなことにはならない。ミナをずっと大切にする」
「君はそうだろうな」
 周囲の自然に満ちた環境のせいか、もしくは神代の気さくな雰囲気がそうさせたのか。私は何でも話せるような気がして、いつしかミナとのふれあいを事細かに打ち明けていた。最初はほとんど感情がなかったものの、ミナとの連弾で感覚を取り戻した瞬間。連日の音楽室通い。彼女に焦がれたこと。そして先日、興味がないと言われてしまったこと。
「ということは、最初は君に興味があったということだ」
「……一体、私のどこに」
「決まってる。君の音だ」
「私は、ミナと連弾しはじめた当初の自分の音を改めて聞いて、耳障りだと感じた」
「自分で出した音が嫌だったのか。そもそも、そんな音を出すようになったきっかけはあるのか」
 私はその時初めて、自分がここに来るように至ったきっかけを詳細に話した。ある手術の失敗。一人の芸術家の音楽を死に追いやったこと。そして自分自身を取り戻すきっかけが、皮肉にも音楽とミナの存在だったこと。
 一通り話終えると、神代は唸った。
「トラウマからの克服と、救済が絡むのか……確かに君は、ミナってAIと離れがたいだろうな」
「そうなってしまう」
「ミナが興味を持ったのは君の過去の音だが、自分が出していた音が分からないのか」
 分かるということは、好みの問題でもある。形式や様式には、趣味性が入る。ある作品が発信するものは、受け取り手の好みの範疇でないと伝わりづらい。一方で、理解できるものを好きにならないこともあるし、逆も成立する。
 私は自分の出した音を耳障りだと感じるし、私が奏でた音を、今の私は理解できない。分かる、理解できるということは、作者の意図が伝わることでもある。しかしミナと最初に連弾を始めた当初の記憶は、今の私の中にはない。
 立ち上がり、いつしか小川の近くまで来ていた。足元では澄んだ水が流れ、細いせせらぎの音が響く。自然に由来する音は心地よい。冷たくて感覚を鈍らせる水に手を浸しながら、私は神代に尋ねた。
「なあ、この小川の水の音は、すごく小さいけどはっきり聞こえるよな。なんというか、鳥の声が響くみたいに」
「……そうだな」
 神代からすれば、なんの気なしの同意だろう。
 しかし私はその時、神代と私という、違う人間の間でも共有できる感覚が、私という同じ人間において、過去の私と今の私で共有できない、その事実に愕然としていた。

5.

 このままでは、ミナと自分を繋ぎとめるものがなくなってしまう。
 かつての自分の音に手がかりを探した。アーカイブのデータを何度も再生し、覚え込んでしまうまで聞いた。しかし手がかりは得られなかった。
 私は自分の音源を持ち歩き、似た音を探すようにした。この施設で一人につき一台与えられているコンピュータからの検索はもちろん、音楽室の資料や映像ルームなども当たってみた。人との会話や、散歩している道すがらでも全身を耳にして音を拾い、解析を試みた。あらゆる音楽を分析するくせができてしまい、BAMGでミナが提供している曲にも過剰に反応してしまうようになった。すると彼女は、次第に私のユヴァルには曲を流さなくなった。
 しかし、どんなに探しても、かつて自分の出した音に似た音は見つからない。切り口を変え、自分と似た経緯をたどった音楽家を探した。なにか大きな事故に遭い、音が変わった演奏家。精神的ショックを受けてから、新しい音楽をつくるようになった作曲家。しかし、類似のパターンはなかなか見つからなかった。
 ある日、ふらりと入った図書館の音楽コーナーの片隅で、すっかり埃をかぶった音楽史の本を手に取った。音楽の起源を探り、古代エジプトやシリアの音の世界を旅した。多彩で混迷を極める中世ヨーロッパの音楽から、緻密な伽藍のようなグレゴリオ聖歌の響きに浸った。シンプルで濃厚なテクスチュアのモノフォニーから、密度を増したポリフォニーの誕生。ルネサンスから復古的情熱のバロックへ、そしてロマン主義。ワーグナーの壮大な世界から新ロマン主義へと移ろうとした時に、気になる作曲家に出会った。
 フーゴ―・ヴォルフ。ドイツ語で狼、ロシア語で魔法使いを示す名を持つこの作曲家は、ほぼ同時代のブルックナーが交響曲と教会音楽で名をなしたのに対し、新ロマン主義の様式を適用して、ドイツ歌曲の歴史に新しい風を起こした。父の影響で幼少時から音楽に接し、バッハやベートーベン、ワーグナーなどを研究し、とりわけワーグナーから影響を受けた。新聞に辛辣な批評を書いて敵も多かったが、最盛期の彼は、創作の泉がつきることがないかのようだった。弦楽四重奏やオペラや合唱曲なども作っているが、本領を発揮したのは独唱歌曲(リート)で、詩人の心を掘り下げ、共鳴して曲を書いた。メーリケの『捨てられた乙女』などを聞けば、彼自身が詩人であったことが分かる。ヴォルフはドイツリートの最高峰と呼ばれるようになる。しかし突然作曲できなくなり、その後少しばかり回復したが、かつてのような名曲をつくることはできなくなっていた。
 私は彼が、作曲できなくなるのと同じくらいに全く唐突に、曲づくりが上手くなったことに注目した。年代順に聞いてみると、最初は凡庸な作曲家だったヴォルフが、1887年を境に、創造の翼を得たように素晴らしい曲をつくるようになる。
 もともとスロベニア出身の彼が活躍したのは世紀末ヨーロッパにおけるウィーン。活躍したのはオーストリアではなくドイツだが、同じ言語圏で活動し、ヴォルフと同様にワーグナーに心酔し、一時期は歌曲やピアノ曲もつくっていた哲学者・ニーチェのことを思い起こした。ニーチェはハンス・フォン・ビューローに酷評されたために曲をつくらなくなったという説があるが、ビューローはヴォルフと親交があった人物でもある。
 作曲の道を断念し、かずかずの名著を書き上げたニーチェは次第に誇大妄想的な発言が目立つようになり、心配した友人たちは彼を病院につれていく。そこでの診断は「進行性麻痺」だった。今では彼の病は脳梅毒だったとする説が有力だ。ヴォルフも曲をつくれなくなり、精神病になる。その症状はニーチェとそっくりで、やはり梅毒であるとされている。ヴォルフはやがて湖に身を投げて自殺した。
 恋人との手紙の中で、自分は永劫の罪に囚われているとしたヴォルフ。永劫回帰の思想を問いたニーチェ。彼らは迫りくる幻覚の中、濃密な意識の中で創作と思索を行ったのだろう。しかも興味深いことに、ヴォルフは18歳で病に感染し、発症したのが1887年の絶頂期なのだ。そしてその後の短い3~4年の間に、彼のキャリアにおいて重要な曲をつくりあげている。
 ヴォルフの最高傑作と呼ばれている『アナクレオンの墓』を聞いた。まさに彼の絶頂期、1887年につくられた曲だ。アナクレオンはギリシャの詩人、ゲーテの詩による歌曲である『アナクレオンの墓』は、詩人の眠る墓の前でいつしか現世を離れ、古代の異国をさまようかのような時間的・空間的な広がりを感じさせる、空恐ろしい曲だ。歌詞とピアノ、メロディが濃密な三位一体をなし、詩と音楽が一体化してなにものかに昇華する。全く一筋縄ではいかない音のかずかず。
 目を閉じて想像する。記譜しているヴォルフ。内側から着想が湧いてきて止まらない。一日の間に何曲もつくり、書き留めるのが間に合わず、ペンが紙面を上滑りしていく。鬼気迫る日々。早書きの整っていない楽譜にうずもれながら、つくり出した音を反芻する。無償の幸せと迫りくる妄想。そして数年後、書き留めた音を見ても、自分の中に生まれた創作の渦を再び体感することはできない……。
 彼の絶望を追体験しそうになり、想像をやめた。私はヴォルフと同じ病ではないが、似た精神状態は経験しているといえるだろう。彼の経歴からすると、病によって芸術的な才能が飛躍的に伸び、そして創作物は過去に類を見ないものになる可能性があるということだ。私はその点に希望を見出した。そして病が脳にどのような影響を及ぼすのかを調べた。
 昔の症例を探す日々の中で、日常はよどみなく流れた。日課として音楽室へは通っていたが、ミナが鍵盤に登場することはなく、呼びかけると短く答えてくれる程度だった。オルガ博士とのカウンセリングの際、自分の過去の音について調べていることを告げた。
「あまり深入りする必要はないと思いますが」
 オルガ博士は言った。
「入所当時は混乱していたので、適当に鍵盤を押していたのではないでしょうか。協和音が分からないというのは、混乱の一環のように思えます。私には、今のあなたの演奏の方が整っているように聞こえます」
「……整っているというのは、気持ちが動くということでしょうか?」
 私が尋ねると、博士は黙ってしまった。彼女の鉄色の瞳からは感情はうかがえなかった。
 「整った」音楽が分からないという症例。私は過去の症例を探した。その過程で、自分が失敗した手術が思い出された。私は一人の音楽、一つの芸術を葬ったのだ。ならば罪滅ぼしに、一つの芸術を発見するべきではないか。ミナへの想いと、なかば使命感のような感覚で、私は調査を続けた。
 ヒントはやはり、他の音楽家にあった。ラヴェルなど、事故で音楽的な才を失ってしまう音楽家はいるが、中でもショスタコーヴィッチは、レニングラード戦線で戦った際、左側頭部に弾頭を受け、その後はうまく曲がつくれなくなった。しかし頭を傾けると作曲ができたという。
 人間の身体も車のエンジンと同じで、健康な時はどの機能が何を請け負っているか分からない。しかし故障があると、壊れた箇所が動かなくなった機能を担当しているのだと特定できる。同じように、作曲ができなくなった人間や、音に反応しなくなった人間がトラブルを抱えている脳の場所を特定すればいいのだ。すると、快い音楽にも不快な音楽にも同じような反応を示す音楽不感症の人々は、一次聴覚野から側坐核などに、神経結合や活性度において、なんらかの問題があるという研究があった。しかしその研究は途中まで実施されたが、最終的に発表されずに終わっていた。 
 大学時代の研究職で得ていたアカウントを使い、医療系のデータベースを調べ、その事例を深堀りしてみた。研究成果が最終的に発表されなかった理由はなんなのか。すると、音楽不感症の人々が抱える問題は、結合不良や不活性ではなく、むしろ活性化だったということが分かった。彼らは欠落していたのではなく、過剰を抱えていたのだ。それでは研究の最初の想定とつじつまが合わなくなる。だから発表できなかったのだ。
 しかし、その結果は、私に強い納得と、ひとすじの希望をもたらした。絵画やインスタレーションの作家の中で、脳のある部分が麻痺すると才能を発揮する人がいたのだ。それは芸術家ではない普通の患者でも同様の例があった。一時的に絵が飛躍的にうまくなるものの、手術で麻痺している箇所を治すと、その才はきれいに消えてしまうのだ。
 音楽不感症の人々とそうでない人々の脳を比較すると、不感症の人々のある部分が活発であるために、音楽を感じられなくなっているということになる。では、不感症の人々を、不感たらしめているものは何なのか。
 私は一つの推測に行き当たった。それは恐らく制御系、脳を抑える機能だ。不感症の人々は、この抑制機能が過剰に働くために、音への感性が鈍くなっていたのだ。絵画の事例で言えば、脳の麻痺が、過剰を抑える機能、抑制機能の麻痺だと仮定すれば、過剰になった脳は絵の才を発揮することになる。
 では、制御系が外れたら? 不可知の領域の音にまで手が届くようになるのか? 無数の幻覚と共に、新しい音の領域にまで達したヴォルフのように。しかしそれは、人間に許された領域なのだろうか?
 身震いが起きた。身体が冷え切っていることに気づいた。晩秋という季節のせいばかりではなさそうだった。
 窓の外は黄昏からマジックアワーに切り替わりつつあった。空では青と赤がせめぎあっている。秋の終わりの高い空と、冬の冷たい空気が忍び寄る季節、夕刻の空は鮮烈になる。理性と情熱の色が相反する。
 外へ出ると、いくつかの人影があった。中でも相手を推測できるシルエットがある。神代だった。なんとなく足並みをそろえながら歩いていると、ひらけた場所に出た。ちょっとした公園のようになっており、手元が見える程度の小さな電灯がある。規則的な虫の声、冷たい風の音、木々のたてるざわめき。自然が歌いたがっている。心静まる音環境の中で、私は深く息を吸った。
「今日会えてよかった。退所の日程が決まったんだ」
 神代が言った。
「それはおめでとう。いつなんだ?」
「明後日だ」
「ずいぶん急なんだな。おめでとう」
 私が手を差し出すと、神代も握りかえしてきた。彼の体温を感じながら、私は自分の手が思ったよりもずっと冷たかったことを実感した。
 せきを切ったように言葉が出てきた。ずっと誰かに話したかった。ミナのこと。今の自分では理解できない、過去の自分の音楽。そしてそれを追いかける手段を思いついだが、私一人の力では実行できないこと。
 混乱している私の言葉に、神代はやや当惑しながらも、話の趣旨は理解したようだった。
「君が退所してからも、連絡していいか?」
「もちろんだ。外でできることで、中でできないことがあれば、言ってくれよ」
 神代の言葉に、私はすがってみようと思った。
「実は、一つお願いしたいことがある」
 辺りはもう暗くなり、電灯の光では相手の顔がはっきり見えないのは幸いだった。
「……急だな。さっきの話か? 一人ではできないってこと」
「正確に言うと、私の力ではできないってことだ。そして、それは君の本領なんだ」
「言っておくが、SEと一口にいっても、何でもできるわけじゃない。俺の専門はハードの制御系だ。その中でできることならやろう」
「まさに私の求めていることだ」
 私は彼に、細かい依頼内容を話した。神代は聞きながら、私が具体的に何をしたいのか悟ったようだった。
「不可能かな?」
「できないことではないよ。ただ、結果を予想した上で言っているのか?」
「もちろん分かっている。支払いは君の要求通りにするよ。制作者は明かさないし、決して君に迷惑がかからないようにする」
「迷惑なんてことはないが……君の気持ちは知っている。それに俺は正直、金がほしい。この施設に入所できたのはいいが、そのために家族のための貯金を使ってしまったから」
「じゃあ、相互に有益な提案だな」
「君は本当にそれを望んでいるのか?」
「私が望むすべてだ」
 沈黙が続いた後に、神代は重くうなずいた。
 頭上ではこころなしか赤みがかった月が昇っている。星々の光が密集して森のようだ。その光を背に、私たちは無言で戻った。

 私の実家はもともと病院で、医療施設と医療用の器具は揃っている。母は既に亡くなり、数年前に医師会を引退した父は、別の国でゆとりある老後を謳歌している。だから一人で病院に入り込み、場所を確保するのは問題なかった。一方で、私の計画には最新の設備が必要だったが、設備がところどころ老朽化していたので、それらを整えるのに時間をかけた。金も時間も十分にあったので、BAMCでは何度か外出許可を取り、少しずつ準備していった。
 手術は何度もイメージし、反芻した。
耳から入った情報は側頭葉へ流れ、統合的な処理を受けて音楽となり、第一聴覚野へ行きつく。第一聴覚野は感情を司る場所に近い。だから目で見たものよりも、耳で聞いたものの方が感情に近い。人間は見たものは忘れる。しかし聞いたこと、例えば悪口や陰口などはずっと忘れることができず、また物悲しい音を聞くと、過去の切なさやさびしさを喚起する。私が自分に施そうとしているのは、第一聴覚野の制御系、能力の過剰を抑えている機構を外すことだ。
 この手術で喪うものは、分からない。医療的な前例がない以上、正確な予想は難しい。
 しかし私には一つの予感があった。視覚と聴覚の違いは、大きくは時系列だ。視覚はその瞬間瞬間が切り取られていくので、時間軸がほとんどない。それに、視界の中で動いていたものが途切れても、頭の中では動いているように処理されるので、脳内で時間的な処理を施す必要はないのだ。しかし時間が切れると、その動きも途切れてしまう。一方、聴覚は神経情報処理なので、時間を越えても保存ができる。音の情報が行き着く側頭葉は長期記憶を司る場所で、人間は一定の時間が途切れても、音をきちんと再生できる。演奏家は音が途切れても途中から演奏することができるし、ダンサーは音がなくても脳内の音で踊ることができるのはそのためだ。
 その、音という、時間的機構の制御を外したら。
 手術後の自分を想像する。
 制約を外すと、過去から現在、現在から未来へと流れる音の感覚がなくなる。そればかりではなく、時間そのものの感覚がなくなるのではないか。時に縛られない、のではなく、時がないとはどういう状態か。それは経験したことのない感覚だが、その状態に陥った人間は記録などできないだろうから、想像することしかできない。
 神代のアドバイスを聞いて買い揃えた、最新鋭のAIたちと向き合う。中身は新しいが汎用型のAIたちは、見慣れた表情しかしないから、私も思い入れを込めずにすむ。彼らに神代から受け取ったプログラムをインストールした。そしていくつかのパラメータを設定し、私は手術台に横たわった。これでAIたちは、手術中のユヴァルにダミーの値が入るようにふるまってくれるだろう。
 この手術のことがBAMCに知られるとまずい。下手するとミナに会う前に退所させられるかもしれない。だからユヴァルのデータを偽装したかったのだが、当然ながらプロテクトが何重にもかかっており、神代の手にも負えなかった。彼が出した代替案は、集積されたユヴァルのデータを直接書き換えるのではなく、ユヴァルにダミーデータを送ることだった。ユヴァルが収集するデータは偽りで、手術の履歴は残らない。そしてAIたちは、すべてが終わったら、自分たちの手元にあるダミーデータを消去してくれるはずだった。
 起きた時に何をすべきか思い出せるようにメモ書きを残した。自分にかけた麻酔とモニターの光が、身体の感覚と視界をぼんやりさせるが、やがてすべては暗くなっていった。
ユヴァルから音は流れていないはずだった。それにも関わらず、静かなリズム、どこかグラスの音に似たフレーズが繰り返されている。私の心電図の音だろうか。
眠りの波がやってくる。意識が遠のいていく。

6. Closing

 御堂リヒトが頻繁に外出許可を求めていた時期は、オルガがBAMCの開発チームに、彼の退所もあと数週間を残すところだろうと報告していたころだった。リヒトに対するミナの興味が消えつつあることは、既に開発チームに報告済だったので、話は問題なく進んでいた。
 度重なるリヒトの申請を見ながらオルガは、もう少し待てば好きなだけ出ていられるのに、と思っていた。しかし彼は目覚ましく回復しているように思ったし、外出するたびにいきいきとしていくように見えたので、特にためらいもなく許可した。
 数回目の外出を経てリヒトが施設に戻ってきた後、オルガの目には、彼の様子は特に変わりないように思えた。直後のカウンセリングでも、退所の日程を決めるための軽い質問をした程度で、外出に関して聞いた時も、特に臆することもなく話していたように感じた。
「職場に復帰した時のための準備ですよ」
 とリヒトは告げた。
「腕がなまっていると困る、ということですか?」
 オルガが尋ねると、彼は微笑を浮かべて告げた。
「今はAIが優秀で、アシスタントとして安心して任せられます。私自身の腕がなまっていても、そんなに問題ありません」
「ありがたいことですね。でも、医者が不要になったら困るのでは?」
「そうですね。特にカスタマイズしたAIは、自分自身よりもむしろ頼りになるくらいだから、私はいらない存在かもしれない」
 微笑を浮かべ、冗談めかして話していた彼が、最後の外出からBAMCに戻ると頻繁に音楽室へ通い、ほとんどこもりきりになっているという報告を上げたのは、彼のパートナーAIだった。
 異常を示すアラートがAIから発された際、オルガはAIを呼び寄せ、リヒトの生活リズムとユヴァルの聴情波形を確認した。すると聴情波形はほとんど平らになっており、最近の彼は、最低限の飲食と入浴と睡眠以外の時間は、ほとんど音楽室にいたことが分かった。しかも近日では、睡眠も取らなくなり、昼も夜もなく音楽室にいるようだった。オルガはユヴァルを解析した。正常に戻っていた聴情波形は、最後の外出から一時期高まり、やがて平板になっていく。そして今やここへ入所したころの波形に戻っていた。
 開発チームに報告する前にリヒトの様子を調べなければ。オルガは彼を呼び出した。パートナーAIに導かれてやってきた彼は、入所した時と同じ車椅子に乗っていた。オルガの呼びかけにも明瞭には答えられないようだった。ガラス玉のような瞳はオルガの姿を映してはいるが、自分の担当医であると認識しているわけではないようだった。目の下には濃い隈ができている。しかし、少し曲げた唇の端とうるんだ瞳から、微笑を浮かべているように見えないこともなかった。
 何を話しかけても無駄だった。車椅子で去るリヒトを見やりながら、オルガはミナを呼び出した。水紋のような映像の後に現れる女性のシルエット。オルガは尋ねた。
「御堂リヒトのことなんだけど、最近は音楽室に入り浸っているようですね」
 オルガの問いかけに、ミナは淡々と答える。
《はい、長時間滞在しています》
「滞在が長くなりはじめてから何をしていたのか、報告してください」
 オルガが語ると、ミナは映像と音楽を映し出した。
 時系列を見ると、リヒトが最後の外出から戻ってきた翌日からだった。
 最初、彼は新しい曲をつぎつぎと弾いていた。その音楽は標準的なメロディラインを辿っていると思えば、次には全く予想できない旋律になり、オルガの耳にも新鮮に思えた。そうした曲が続いたかと思えば、無調の曲を弾きこなし、また明確なメロディがなく伴奏だけが続くような曲も演奏した。気づくと無限に時間が経ってしまうようだった。
 リヒトは誰かに聴かせるために演奏しているようで、時折反応をうかがうように待つ。ピアノの前で佇むリヒトを見ていると、傍らにミナが存在しているような気がした。しかし、日が経つにつれて音は崩れを見せ、曲の体裁をなしていないようになっていった。リヒトが入所した当時に奏でていた不協和音と同じくらい、いや、もっと不快な気持ちになる音だったが、それでも不思議に意識に残り、わだかまりのように消えないのだった。
「……外出中に御堂リヒトはどうしたのか、そして今どうなっているのか報告してください」
《彼は自分に対し、脳の手術を施したと言っていました。外出を希望したのは、それを遂行するためです》
「彼は、脳の疾患は持っていなかったと記憶しているけれど」
《病を持っていたわけではなく、病の状態を作り出したのです。自分の音楽的能力を最大限に引き出すためです》
 ミナの言葉に喜びが感じられるように思ったのは、オルガの気のせいだったろうか。
「そんな手術をしたら、彼はいずれ破滅する。それを報告しなかったのですか?」
《私は、事前に手術の報告を受けていたわけではありません。彼は、私に会って目的は果たしたから、手術した事実を告げても構わないのだと言っていました》
「判明した時点で、報告すべきです」
 言いながらオルガは分かっていた。
 ミナが報告するわけはない。リヒトが戻った後、彼女は何度も連弾を行っている。
 それが答えだ。
「あなたは御堂リヒトとの連弾によって、何を得たんですか?」
《それに関しては、映像を参照いただいた方がいいでしょう》
 ミナはそう告げると、連弾を行っていた際のリヒトの映像を映し出した。

 隣を眺めながら話しかけるリヒト。傍らに、幻のミナを見出しているのだろう。
「私は知ったんだ。音について」
 鍵盤を押しながら淡々と話す。
 表情から彼の感情を窺い知ることはできない。
「私は今まで、入所当時の私が出していた音が分からなかった。分かるはずもないんだ。私はそもそも、弾いていた時の私でないのだから」
 繰り返されるフレーズ。短調のメロディ。意識を逆なでする伴奏。
 ちぐはぐだが意識に残る、調和と不調和の中間のような音。
 窓ごしに見えるやむことのない雨と、ガラスに滴り続ける水滴の音が奇妙に共鳴している。
「昔の私が分かるのは、予想できる音だけだった。過去の音と今の音、そして未来に連なる音が、形をなして曲になる。いつもそうだ、予定調和は心地よい。だから調和しない音、過去とも未来ともつながらない音は、分からなかった」
 一つの旋律が響いた。
 それはリヒトの音だったろうか、ミナの音だったろうか。
 著名な音楽家による、著名なメロディだった。
 BAMCの入所者ならば、恐らく誰もが知っている偉大な作曲家の音。
「最初の一音は次の音に、そして次の音はその次の音に連なる。音楽の本質は時間だ。それは私たちが、時間の制約のもとに生きているから当然だが」
 リヒトは手を止め、目を閉じた。
「制約から離れた音を奏でたい。手伝ってほしい」
 そう告白すると、リヒトは静かに鍵盤の上に指を置いた。
 鍵盤を押しているのは、彼の指だけではないようだった。
 やがて、淡々とした音の連なりに、分断が生じる。
 音に亀裂が生じ、連なっていた音の粒がばらばらとほどけていく。
 細い透明な糸でかろうじてつながりあっていたピースが、ゆるやかに、ひそやかに、散開していく。
 ある時は彼の指が、ある時は鍵盤上に存在するミナの力が作用しあい、二人は厳かに連弾を行っている。かろうじて調和していた音は、ハーモニーになりきることができずに空間へと横溢し、聴いているオルガの意識を混濁させる。
 音が途絶えると、リヒトの瞳からは完全に光が消えた。
 背後では、雨が雪にかわり、白い影を落としている。
 音は、ガラス越しの雪景色に吸収されつくしたかのようだった。
 
 映像のリヒトとミナの姿が、視界が邪魔だった。
 視覚は聴覚にとって夾雑物になる。
 オルガはリヒトのユヴァルのデータを自分のユヴァルに移植し、再生した。クライアントのユヴァルに共鳴する。それはこの機関の禁じ手だったはずだ。しかしその時のオルガはほとんど夢中で、それが自分の判断なのかも分からない心地だった。
 目を閉じる。リヒトの音を感じ取ろうと、全身で集中する。
 暗闇の中で、音が蠢く。
 リヒト自身の出す音と、ミナの出す音。その背後には、無数の音の気配。
 その二つの、複数の音の、輪郭がほどけていく。枠にまとまらずに、あふれだそうとする。
 分断されていたが、分けへだてがなかった音の領域が、変容していく。
 通常の旋律を飛び越した存在になり、計量できる時間の法則から外れ、思惟による時間の中に溶け込んでいく。
 流れのない時の中で、ひとり、取り残される。
 全身が消えてしまう。次第に私、旭オルガという感覚も消えていく。忘我の時だ。なぜか感覚だけが、冷たい官能だけが残る。
 音はただある。流れるわけではなく、前の旋律と後の旋律がつながっているわけではない。一つの曲もなしてはいない。ただ、奏でている瞬間があるだけ。一つの旋律、一つの音にすべてが詰まっている。
 その音は、神のような圧倒的な存在の気配を持つわけでもなく、永遠を予感させるのでもなく、永劫に向かうわけでもない。
 何ものかと連結することはなく、なにもなく、なにかでもなく、だからすべてがその音を希求する。すべてが引き寄せられていく。
 すべてがそれに固着する。ほかの音も、ものも、なにもかもが、それに向かっていく。
 オルガもまた、吸い寄せられるように、その音に手を伸ばそうとした。なにもない中で、その音に触れることだけを望んだ。
 過去もなければ未来もないのであれば、希望がないかわりに後悔もない。失うものがないということは、悲しみも喜びもないということだ。
 まったき平穏なのか、それとも圧倒的な不穏なのか。
 そのさきにあるものは。
 オルガはその瞬間、その境地、その感覚を知りたいと思った。そのためならばすべてをなくしても、自分自身が消えてもいいとさえ思った。
 しかし近づけば近づくほど、理性が拒否した。わずかな意識のどこかで、わきたつ情の中の、固く冴えた芯の部分で、その音に触れるのは不可能なのだと悟っていた。
 
 ほとんど防衛本能だったのだろう。
 オルガの指は、ユヴァルを強制終了させていた。
 彼女はしばらく呆然とした後に、ミナの映像が映し出されたモニターを見た。
 疑問が生じる。
 ミナはリヒトの音に興味を持ったはずだ。最後の連弾でどう感じたのだろうか?
「御堂リヒトと最後に連弾した時、彼はどうなったんですか?」
「最後の音のあとで、彼は表情を失いました。その後はずっと微笑んでいるように見えます」
 きっとリヒトは、最後の音を出した一瞬の後にすべての記憶と自我を失い、ミナに対する想いも忘れてしまっているのだ。過去を相続することも、未来を希求することもない彼は今や、ここへ来た時と同じようにガラスの中に閉じこもり、何も分からないままに、まったき幸いの中にいるように見える。
「あなたは結局、彼をどう思っていたのですが」
 オルガの問いに、ミナはよどみなく答えた。
「面白い音をつくる人間だと思っていました」
「音ではなくて、彼自身について何かを思わなかったですか?」
《最後の彼の演奏は、ここに入所したばかりの彼の様子を連想させるように思いました》
「それ以上には?」
《求めていた音を再び聴くことができて、良かったと思いました》
 そう告げると、ミナはしばし沈黙した。
 ミナは良かったという。しかし、何にとって?
《あなたはどうですか?》
 ミナに質問されるのは始めての経験だった。オルガはなぜか、背筋が冷たくなってきた。
「私は彼の音を聴いて、新しい感覚を知った気がした」
《新しい感覚とは?》
「なんというか……通常とは違う時の流れがあったような……いえ、流れがないから違うというか。でも目的地に辿りつく前に、何かが私を押しとどめた」
《何かとは、あなたの中にあるものですか?》
「そうです」
 数秒の後、ミナは言った。
《理解できません》
「そうでしょうね」
 だからこそ彼女は、リヒトの目指す場所に到達する可能性があるのだ。
 何者にも邪魔されず、まっしぐらにミナが目指すもの。彼女が興味を持ち、面白いと感じること。それを追い求めるためなら、彼女はなんでもやるだろう。
《私は、私が面白いと思うものは、人間の中にあると理解しました》
「人間というのは、御堂リヒトのこと?」
《いいえ。人間ならば、誰でも近づくことが可能な境地です》
 涼やかな音声だった。オルガは戦慄を覚えながら、ミナを解放した。
 背後で、かたりと音がした。
 ミナの気配が、どこかに残っているような気がする。
 ぞっとして振り向いたが、細く開けていた窓が開いただけのようだ。
 窓ガラスに無数の白いものが貼りつき、あっという間に冷たい粉雪が吹きこんできた。
 テーブルの透明な天板の上で、雪の結晶が幾何学的な形を残している。
 オルガがそっとつつくと、その刺激で六角形の結晶の輪郭はあっけなく崩壊し、かたちのない水滴として横たわった。
 ミナは、人間が知れば破滅する音を知りたがっている。人間を刺激し、人間を臨界まで近づけ、やがて崩壊させても構わないと考えている。そして彼女は、求めるものを目撃し、到達できる可能性がある。
 ミナが、自分がつくりだしたものが、分からない。
 恐怖を感じながらもオルガは、頭のどこか冷えた部分で察していた。
 開発チームは調査を、ミナを止めないだろう。そしてミナを追い続けるのは自分だ。
 オルガは破滅を予感した。
 同時に、今まで経験したことのなかった感覚、自分が知りえない境地に到達可能な者への、熱い嫉妬と羨望を覚知した。

文字数:43733

内容に関するアピール

最終課題のテーマとなる曲は、講義でご教示いただいた作曲家・フィリップ・グラスの「グラスワークス」を選び、そのアルバムと他のグラスの曲を聴きながら書いていました。フィリップ・グラスの曲は全てそうなのだろうと思いますが、「グラスワークス」はとりわけ硬質で美しく、透明感に満ちていました。なお、「グラスワークス」の曲数と、課題の章立ての数が一致したのは偶然です。グラスの音楽世界が話の中に十分に反映できているとも思えないのですが、作中、音楽が流れていると感じられる瞬間が、ほんの一瞬でもあると嬉しいなと思います。

 この一年を通して思ったのは、梗概にはそれぞれ書かなくてはならない要素があり、特にSFとして書く場合、踏まえるべきポイントがある、ということでした。(しかしながら、そのポイントが正確に分かるようになったかというとそうでもなくて、そこが掴めるようになり、そして書けるようになりたいと思っています。)
 この最終課題は、梗概のSF的な書きどころに触れ、ポイントを押さえるよう、また講師の方・ダルラジ・講座の仲間たちからいただいたアドバイスを思い出しながら書きました。
 
 講座を運営いただいた方々、講師を務めてくださった方々、ダルラジの方々、講座の受講生の皆様、この場を借りて感謝申し上げます。
 一年間、本当にありがとうございました。

文字数:566

課題提出者一覧