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〝天国〟の門は閉じている。きっと地獄の門もまた、閉じている。それは最もな話で、肉体を有しているわたしと、逝ってしまった祖母が同じ土俵にいるわけはない。そんなこと当然だと思われるかもしれないが、わたしは本当に気付いていなかったし、この時代に生きる人にとっては、離れ行くことは新鮮な感覚だったのだ。〝天国〟の門が、閉じているとうこと。

 

 「水に倣おう」

この世で共通の合言葉のように、博士は繰り返した。

「水に倣おう。命というものは生まれてから死ぬまでが終わりではない。私たちは、次の段階に行くための移行期間にいる。私たちは、〝次〟の段階へと行くために〝今この時〟を経験している。すべては循環していて、H2Oが形態を変えるように、私達も形態を変えつつある。今この時、存在し、思考している瞬間も、経過のひとつなのだ。生まれ、死すことは、大きな流れのひとつに過ぎない。大袈裟に考える必要はない。私たちは何にだってなれる、そういう話だ。

海から話を始めてみるとしよう。海は広い。大きな大きな、それは大きな水溜まりだ。海水は日の光に照らされて水蒸気へと状態を変える。海にはいられなくなって、空中へと吸い上げられるように昇り、大気を漂うようになる。風にのって山の上空までやってくると途端に冷やされ、液体へと姿を変える。雨となって降り注ぐ。雨粒のひとつは、たとえばブナの森の葉っぱの上に落ちて跳ねる。地面のなかへと取り込まれ、伏流水となって潜り、長い時間を経て川へ出、やがて海へ戻っていく。

さて、人の成分のほとんどは水だと言っていい。人の大部分を占める水の性質は、人に性質に類似する点があるのかもしれない。物質同士の類似性を研究テーマにしていた当時の私はいろんなもの同士の共通点を探していた。考えとしてふっと湧いたのが、H2Oの水としての状態を今現在の我々とするならば、他の状態、つまり氷や水蒸気で存在することもあり得るのではないだろうかということだ。固体である氷の状態に類似するのは、私たちがどんな状態のときだろう。気体である水蒸気の状態に准えるとしたら?君たちはどう思う?随分昔になるけれど、私はこう考えた。水蒸気、つまり雲の様に浮かんでいる、イメージとして一番近いのは、肉体を離れて、魂だけになったとき、霊体や幽霊といった表現ができる状態ではないか。

そして私は、肉体のない状態で人を維持する方法を模索し始め、その術を開発した。残念なことに、私が命名した正式名称は忘れられて、〝天国〟という言葉で使われてしまっているが、次に行く場所という意味では適切だ。私も、君たちも、いつか肉体を離れるときが、死ぬときがやってくる。そしてまた再び、肉体を得て、戻るときもやってくる。君たちの人生は、赤ん坊として生まれ、成長を経て子どもから大人へと変化し、老人となって死ぬまでが終わりではない。さらに次があるし、どんどん形を変えていけるようになる」

博士は講堂にいる1000人以上の生徒や教員全員の脳内に人体の断面図を送り、頭部を拡大しながら解説を始めた。

「君たちの頭部には、小さな金属片が埋め込んである。この金属製アンテナは沢山の役割を持っている。過去の言葉を使えば、これは受信機であり、発信機であり、蓄音機でもある。毎朝の健康状態を病院に送って健康管理でき、君たちが今見ているような図を送れているのもこのアンテナがあるからだ。驚くかもしれないが、昔はテレパシーなどなかったんだ。言葉や気持ちを伝えるためには、口で言葉を発したり、手で形をつくって意思表示をしたり(博士はOKのサインをつくってみせた)、紙に言葉を書いたりするしか選択肢がなかった」

  博士は一口水を含んで、息を吐いた。

「私の研究、脳内アンテナの開発が、結果として生活を豊かにしたかもしれないことは、喜ばしく思っている。けれど、今日は私の発想の原点を改めて説明しようと思う」

 博士は、最前列に座っている男の子を指さして、強い口調で言った。

「君のすべてを記憶する」

男の子は、自分が博士と目が合ったことに興奮を隠せない様子で、目をきらきらさせている。

「金属に記憶された情報は、アンテナを介して体外、つまり〝天国〟へと伝達され、保管される。そして、次の段階が可能になるまで〝天国〟で待つことになる。生物学的な技術が未成熟な今、いつ肉体に戻ることができるのか、説明することはできない。何十年後かもしれないし、何百年後かもしれない。遠くの未来で水蒸気から雨になる瞬間を、待つことになる。来るべきその時には、君たちは途絶えることなく、変化を重ねて巡っていく。だから、安心して良い。私たちが消え去ることなんてないからね」

講義の締めくくりはこうだった。

「いいかい、だからって今この時を疎かにしていいってわけじゃない。身体は大事にしないといけないよ。今夜も歯磨きをするのを忘れないように」

この講演を聴いたすべての人が普段よりも念入りに歯磨きをしたに違いない。世界的権威、人類を救った英雄、様々な呼び名で賞賛された、この世で彼の名を知らないものはいないほどの偉人。そんな人が自分の学校で講演するなんて。わたしもまわりの皆と一緒に興奮して話に聞き入っていた。過去の記憶。

 

 「返して!!」

女の人の大声にびっくりして、わたしの意識は目の前の現実に引き戻された。ここは裁判所で、今は審議の最中で、この部屋は建物で一番広い審議場。沢山の人で入り乱れている。審議中、わたし達被害者家族は席の間隔を開けずにぎゅうぎゅう詰めにされていたけれど、判決が言い渡された瞬間に、列は崩れた。ある人は泣きだし、ある人は狂ったように叫び出し、張り詰めた審議場内に一斉に感情が溢れた。わたしのように放心している人も多くいた。こんな判決があるもんか、お前らのせいだ、次々に罵詈雑言が聞こえてくる。放心している人を踏み台にしながら、取っ組み合いの恰好になっている人もいた。何人かは血だらけになっていた。

「ヤエ、行きましょう」

母さんがそう言ったので、父さんと母さんとわたしは、血の落ちた審議場を後にした。

 

健康管理社会では、皆あらゆる保険をかけている。毛髪や歯を再生するために、遺伝子情報を保管したり、子どもを授かるために精子バンクに登録したり卵子を凍結したりする。誰もが行う、ごく当たり前なこととして。日々の健康データが病院に送られて病気がないか常に管理されるから、健康上の不安を感じることはない。病気になったり、事故に遭ったりしたときには、過去のカルテや日々のデータから最適な治療を受けることができる。わたしも、交通事故に遭ったときに保管していたデータから皮膚を再生してもらったことがある。寿命が尽きたり、病気や事故で肉体的な回復が難しい場合には、勿論死んでしまう。けれど、然して不安はない。死んだ先には〝天国〟があるからだ。〝天国〟というのは、言うなれば魂の貯蔵庫で、人ひとりひとりのパターンを保存しておくことができる。今の技術では、身体が再生するわけじゃない。そこまで望んでいるわけじゃない。でも、消えて無くなるわけじゃない、ひとつのパターンとしてこの世界と繋がっていられる、そういう安心感があるのだ。

人工の天国に、自分の大切な人の魂を住まわせて、いつかくる再会を待つ。博士がしたかったのはそういうことだ。博士が小さい頃は戦争と飢餓の時代だった。皆が失うことに辟易していた。博士自身も戦争で家族を失った。両親、兄弟、友人達。たったひとり、生き残った兄を失うまいと研究に命を燃やしたのだと、著書には書いてあった。

 

今年は災害の多い年だった。台風や地震以上に猛威を振るったのが、太陽嵐だ。〝天国〟を掌っていたのは、宇宙に張り巡らされた無数の衛星だったのだけれど、太陽から発せられた規格外の電磁波がよりにもよって〝天国〟を管理する衛星群を直撃してしまったのだという。結果、ほぼ全ての衛星の機能が停止を引き起こした。一部破壊を免れた衛星もあったけれど、ほとんどが管理できない距離へ移動してしまった。世論のなかには、〝天国〟が地上にいる自分たちを守ってくれたのだという声もあった。けれど、世論の大半は〝天国〟の消失に絶望し、政府と衛星の管理会社、関連する研究所の責任を問う怒りを纏ったものだった。

「身を切られる思いよ。もう一度あの人に会わせて」

嗚咽しながら、初老の女性は語った。事故以来、ニュースで流れる映像は〝天国〟に関するものばかりだ。電磁波災害によって、ライフラインも被害を受けた。テレパシーが繋がらないとか、病院からの管理情報が得られないとか。でも、それは一部の人だけの問題だ。〝天国〟に関しては、利用者の関係者全員、つまり世界のほぼ全ての人が影響を受けた。肉親や友人の人格や情報を失った被害者になり、遺族になった。天災だの人災だのとメディアがはやし立てて、様々な地域で管理会社や研究所を相手取った裁判が開かれた。損害倍書を求めて訴えを起こしても、想定外の現象を防ぐ手立てがなかったのだと、今のところ全て原告側の「敗訴」だった。

これもみんなわかっていたが、裁判に意味はなかった。皆それぞれに会いたい人に会えなくなった悲しみから逃れたいだけだ。

 

わたしにも、ついこの間〝天国〟に行った親族がいた。名をつぼみちゃんと言い、父方の祖母に当たる人だ。自分の祖母に当たる人のことは、おばあちゃんと呼ぶことが多いと思うけれど、つぼみちゃんはそれは美容に悪いからと、決しておばあちゃん呼びを許してくれなかった。四つ隣の町に住んでいたから、いつも会えるわけではないけれど、テレパシーでよくお喋りをした。おしゃべりなつぼみちゃんは、学校で流行っていることや、どんなことを教わっているのか、たまに好きな人の話とか、友達の誰よりも自分のことを話していたと思う。自分の知らない話になると、

「ヤエちゃんは流石ねえ」

と言いながら、なんだって楽しそうに聞いてくれる。生きていたときも、〝天国〟に行った後も変わらなかった。〝天国〟に保存されたパターンは、脳内で〝会話〟が可能で、テレパシーとなんら変わらない。わたしもつぼみちゃんが小さかった頃の話を聞くのが好きだった。事故当日、夕食終わりにつぼみちゃんに呼びかけてみても、なんの応答ももない。こんなこともあるのかしらと不思議に思っていたら、電磁波災害のニュースが飛び込んできた。何度呼びかけても、だめだった。

 

裁判所から帰宅すると、まだ日があるのに家のなかが薄暗く見える。二階へ上がっていき、自分の部屋へと入る。鍵はついていない。誰も入って来ないでと強く念じて扉を閉め、窓を開けて屋根の上へ出る。この場所で、ようやく呼吸できる。息を大きく吸って吐き、屋根の上に大の字に寝転がる。風か吹いていること、太陽の光が照っていること、自分に体温があることを確認することのできる場所だ。

カチャン

鍵の開く音と、窓の開く音がした。

ノゾミが窓辺に顔を出す。少しだけ間を置いて静かに言った。

「判決、聞いたよ」

「…うん。何も変わらなかった」

「うん」

それ以上会話もせずに、ノゾミは窓辺にもたれかかって、わたしは屋根の上で、それぞれぼうっと空を眺めた。

 

ノゾミは、わたしが8歳のときに隣に越してきた男の子だ。3つ年上で、大人びていて、ゆっくりと話す。なんでもかんでも覚えているつぼみちゃんと違って、わたしは昔の出来事を全部振り返れるわけではないけれど、このときのことは覚えている。普段は見かけない大きなトラックが近所に止まっているのを見かけたので、部屋の外の屋根に出て、こっそり様子を伺っていた。玄関から外に出てわざわざ見学するのは、大袈裟で〝スマート〟ではなかったから。さんかく屋根の棟から顔を出して、覗いているのを見つからないように、慎重を期して、屋根にへばりついていた。そのうちに、たまたまポケットのなかに入れていた飴が零れ、くるくると転がって落ちていった。〝わっ〟〝あっ〟〝ちょっ〟と、落っこちる飴から視線を戻す途中、私を見つめる人間と目が合った。飴に気を取られていて気付かなかったけれど、トラックの止まっている場所の反対側の庭へ出ている人がいたのだった。それがノゾミだった。この時のわたしは、屋根の先端に両手をかけて、うつ伏せになり、飴玉の落下を防ごうと全力で足を伸ばしている状態だった。目が合った後、ノゾミは変なものを見てしまったと思ったに違いない。うんともすんとも言わず、表情も変えずにじっとわたしを見ていた。わたしはその場ですっくと立ち上がって、棟に片足をかけて腕を組み、「わたし、ヤエ。この家に住んでるの。よろしく」と大きな声で挨拶した。

散々な初対面で、初めの内は気まずかったが、段々とわたしはノゾミに懐くようになった。その時、家のまわりに住んでいる同年代の友達といったら年下ばかりで、わたしは近所の頼れるお姉さんポジションについていた。ノゾミが来てくれたことで、わたしは自分よりも物知りなお兄さんを手に入れた。

引っ越しの次の記憶。当時、物事を素直に受け取れないわたしは、何かにつけて疑問符を浮かべていた。「なぜ」「どうして」「不思議だ」学校の宿題に真剣に取り掛かると、こういうのは避けられない。こういうとき、ノゾミは本当に頼りになった。なんだって答えてくれるのだ。わからないことがあるとノゾミに聞くようになってから暫く経って、関係を改めたいと思ったようだ。

「たとえば」

ノゾミは語り出した。

「1+1という数式の答えがわからないとしよう。ヤエは考えている。答えを導き出すために、まずやることはイコールを書き足すことだ。ノゾミは壁のディスプレイに1+1の数式を書き、次いで=を書き添えた。僕は答えが出ないとき、こう想像する。このイコールは、トンネルだって、ここを抜けると1+1が違う形に変わってるって。頭の中でイコールが大きなトンネルに変化して、その中を歩く想像をする。トンネルは大きくて、僕一人だけでなく、車が何台も通れる大きさで、先が真っ暗で見えないくらいに長い。実は、トンネルの中の壁に、トンネルを抜けた先にあるもののヒントが書かれている。だから、なんとかして壁の内側に書かれていることを見ようとするんだ。僕はこの時間が面白い。考えれば考える程、トンネルの暗闇に目が慣れて、見えてくるものがある。僕はそこが面白い。だから、トンネルの内側のヒントを探す時間をヤエから奪っているのが、実は心苦しい。ヤエにも、トンネルの中の時間を楽しんでほしい」

わたしはムッとしてこう返したと思う。

「そんなのは、勉強ができる人の勝手な言い分よ。トンネルを出た後に、パッと答えを見付けられた方が嬉しいに決まってる」

ノゾミなりの優しい言い方、説得の仕方だったのだろう。ちっとも伝わっていないことをきっと残念に思いながら、彼は困った顔で続けた。

「うん、でも、トンネルの先には必ず答えがあるわけじゃないと思う。今日は行けないけれど、明日は行けるかもしれない。昔は行けたのに、ずっと先には行けなくなっているかもしれない。決まって出られるわけじゃない。そこがいいんだ」 

厄介なわたしを退けようとして、遠回りに説得をしてみたのだろう。ヘンテコなことを言う人だなと思うと同時に、わたしはノゾミという人がとても面白かった。わたしにこんな風に言ってくれる人に、これまで出会ったことがなかった。トンネル論を語った彼は、真剣だったし、熱烈だった。

 

事故後、ノゾミはわたしの気まぐれにも付き合ってくれた。わたしはつぼみちゃんに手紙を出すことにした。

部屋のベットの下は、箱で埋もれている。クッキーの箱は、葉っぱの模様が書いてあって一番のお気に入りで、掌サイズの黒い箱は父さんが持っていたもの。これには鍵が入っている。ベッド下の奥の奥、埃に塗れたブリキの箱には、鍵がついている。中には、今までにもらった手紙が、全部入っている。友達が書いてくれたものだ。

授業の合間にこっそりおしゃべりするのでもなく、テレパシーを使ってやりとりするのでもなく、手紙を使うのは、わたしがまだ子どもだからだ。声は管理システムに筒抜けだし、テレパシーは未成年の場合には大人のチェックが入る。テレパシーで先生の悪口を言おうものなら、筒抜けで大問題になってしまう。だから、学校では紙の手紙が大活躍する。紙の上でなら、どんな秘密だって伝えられる。

早く大人になりたい。誰にも見られずに、テレパシーできるようになりたい。そんな風に思いながら、みんな手紙を折りたたむ。

突然つぼみちゃんがいなくなってしまって、最初はどうしようかと思った。いつだってわたしの味方のつぼみちゃん。このまま過ごしていたら、つぼみちゃんがどんな人だったのか、どんな話をしたのか、どんなところが大事だったのか、忘れてしまう。それが一番こわい。ぞっとするほどこわい。

面白いと思ったことや、初めて知ったこと、困ったこと、嬉しかったこと。今までテレパシーで話したり、〝天国〟に行ったあとに聞いてもらっていたのと同じように、書く。おしゃべりするのとは違って、書くとなると、なんだか難しい。つぼみちゃんを遠くに感じるし、話すのと書くのでは、言葉尻も違うし、何より時間がかかる。ペンを使って文字を書くなんて、手紙以外ではしないから、文字だって上手くは書けない。でも、書いている時間がとても安心するようになった。手紙の終わりだけはいつも決まっている。

〝会いたいです〟

手紙を折りたたんで、便箋に入れて、シールを貼って終わり。そして、届ける先がないから、これをノゾミに託す。彼が、どこに投函してくれているのかは知らない。海かもしれないし、山かもしれないし、燃やしているのかもしれない。どんな形であれ、自分で持っているよりも、届くかもしれないと思える。ノゾミには悪いけれど、もう暫くの間、続けさせてほしい。

 

事故の後、ノゾミはたまにわたしの家で夕食を食べるようになった。ノゾミの父さんは、夜仕事のことも多い。

夕飯を食べ終わって、気が向いたらノゾミはわたしの部屋に寄って宿題を手伝ってくれたりもする。

「もう、ぜんぜんだめ。こういうの向いていない」

宿題が全然進まない。

「まあがんばりなよ」

「もう、書き切ることに集中する。もう、内容どうこうじゃない。提出することが大切なんだわ」

「投げやりだな」

「黙って」

「うん、がんばれ」

わたしはムッとしながら、宿題を進めた。ノゾミは悠々と本を読んでいる。もっと協力してくれたって良いのに、と内心不満を感じながら頭のなかでタイプしていく。宿題の内容は「100年後の人類」がテーマの作文で、最低五千字とあった。わたしはうんざりしながら「人類は滅んでいる」と冗談半分にタイプし始めた。冒頭の世界滅亡の描写を進めながら、ハッと、これは冗談にはならないのではと気づいて、タイプしたものを全て消した。

「もう、わたしにできることなんてないんだわ。なんにも浮かんでこない。甘いもの食べたい」

机に突っ伏して弱音を吐いていると、

「たとえば」

「ん」

始まった。普段どちらかというと無口な彼が長文を話し出すのは、この〝たとえば〟がとっかかりだと、最近になって気付いた。

「たとえば、郵便だったらどうだろう。今僕は、ヤエ専属の郵便屋をやっている。ヤエの書いた手紙を受け取って、とある場所に届けている。あ、もちろん中身を見たりはしていないよ。でも、何が書いてあるんだろうって、思うこともある。あ、大丈夫、本当に読んだりしていないよ、誓う。誓うったら」

「まあ」

ノゾミが仕切り直す。

「100年後に何がどうなっているのかは知り様がないけれど、たとえば届けるのに100年かかる手紙だったらどうだろう。そんな大層な時間をかけて届けなきゃいけない手紙って、どんなのだろうって、今考えてたところ」

「うーん、きっとすごく大事なことよね」

「かもしれない」

「そこはやっぱり、ラブレターよ」

「いや、呪いの手紙というのもあるかもしれない。人の恨みは根が深いとも言うし」

「あ、わかっちゃった。…宣戦布告」

「もしかしたら、全然違って、おつかいのメモだったり?忘れられたメモ。牛乳買ってきて、とか」

 脱線しながらも、100年後の人類はそれなりにやっている、という終わりになった。

わたしがツボミちゃんに手紙を出すのは、完全に私のためだ。ノゾミは、そのことを知っていて協力してくれているのだろう。いつか、誰かのために手紙を出したい。いつか、ノゾミにお礼の手紙を書こう。

チャンスはきっと、想像しているよりも少ない。

わたしは、事故が起こるまで、すべての人が決まって〝天国〟にいくのだと思っていた。〝そういうもの〟だと思い込んでいたけれど、自分で他の選択肢を選べるのだとノゾミから教わった。

「自分の意思で同意書を提出すれば〝天国〟へ行かない選択肢もある」

ノゾミが証拠を出してきたのには驚いた。

ほら、と言って差し出された同意書には、なんとノゾミの署名がしてあった。わたしが目を丸くして同意書の署名欄を見つめていると、事もなさげに言う。

「僕は〝天国〟へは行かない。父さんにも話して了解をもらってる」

「ええ!」

驚いた。

「今回の事故だけが原因じゃないんだ。ずっと考えていたことだ。ヤエにも、ご両親にも、良くしてもらっているから言っておこうと思って。僕ら、不老不死になったわけじゃない。でも、次があるって思うと、なんていうか、油断というか、前だけを向いて生きてはいけない気がしてさ、行かないことにしたんだ、自分のために」

こう言いだしたとき、ノゾミの気が狂ったのかと思った。けれど、そんなことはなかった。ノゾミの話を聞いてみると、冷静な答えばかりが返ってきた。いつだって、彼は彼なりの回答を持っている。それってすごいことだ。実際、今回の事故があっても〝天国〟の利用率に大きな変化はないのだ。あんなことがあったからと言って、じゃあ〝天国〟に行きません、とはなっていない。あって当たり前だと思っていたものが、当たり前ではないのだと分かっただけで、選択肢は変わっていない。

 

最近考え直していることがある。

昔、講演会で博士は今のわたし達を水だと言っていたけれど、果たしてそうだろうか。もしかしたら、今の状態が水蒸気なのかもしれない。わたし達がひとつひとつの粒で、ふらふらと空気中を彷徨っている状態なのかもしれない。ということは、いつか水のようになるかもしれないのだ。いつかみんなと合流できて、海へ戻れるのなら、なんだかわるくはないと思う。もし博士がこう思いついていなかったら、教えてあげたいと思う。

〝天国〟に行くのか、行かないのか、ということも考えるようになった。今のわたしには、ノゾミのようにハッキリとは決められない。つぼみちゃんがいないのなら〝天国〟に行ってもしょうがないのかもしれない。でも、もしから、本当の本当に隠れているだけで、居るのかもしれないという思いを捨てられない。でも、どちらにしても、そこにはノゾミはいないのだ。わたしには、まだ答えが出せない。

 

夕飯前に部屋から屋根に上って、大の字になって寝転がる。夜なのに、むしろ晴れ晴れとしていて、星がたくさん見える。この星々とわたしとの間に、今は動かない〝天国〟があるはずだ。もしかしたら、つぼみちゃんがそこにいるかもしれない。例えノゾミが否定しても、わたしは考えずにはいられない。隣の家を見ると、ノゾミの部屋の電気が付いた。

「ヤエ。ごはんよー」

下から母さんの声がする。それから、美味しそうな匂いも。わたしは勢いよく起き上がって、屋根の上からノゾミに声をかけた。

文字数:9597

内容に関するアピール

女の子が、宛先のない手紙を送るようになる話です。

 

背伸びをして講座に参加し、書くことをより身近に感じられた一年でした。温かい言葉をかけて下さった同期の皆さま、有難うございました。

これからも背伸びを続けます。

文字数:102

課題提出者一覧