蒼子

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蒼子

×月、世界中で猛威を振るった感染症が収束した。東京は瞬く間にかつての活気を取り戻していく。遅すぎた春を謳歌する動物みたいに輝く人々の中。明日、蒼子(そうこ)は人を殺す。

蒼子と出会ったのは三月だった。この時期、世界には感染症が蔓延し、収束を目前に爆発的な感染を広げ、また収束へと向かう波のような動きを繰り返していた。発令されっぱなしの非常事態宣言と、外出自粛の要請に、平日の昼過ぎの豪徳寺駅前は閑散としていた。
 友人の三澤から、面白いやつを見つけたと連絡が来たのは、昨日の夜更けだった。雑音の多い電話口で三澤はそいつのことを話しながら楽しそうに笑った。感染症のせいで、海外への渡航が再制限されて三ヶ月以上が経つ。香港のデモの写真を撮影する計画が白紙になり、暇を持て余していると三澤に話したのはつい最近だった。わたしの「会うだけ会うよ」と気のない返事に、三澤からは「よろしく」と軽い声が返ってきた。
 待ち合わせ場所は、豪徳寺駅前の喫茶店だった。ここのブレンドコーヒーは酸味が強いのが売りらしい。色あせたカーテンの隙間から漏れる春光に埃がきらきら輝いていた。
 待ち合わせの時間から三十分が過ぎても三澤からは、電話もメッセージもない。二杯目のコーヒーを飲み終えて帰ろうと腰を上げたとき、三澤が派手にドアベルを鳴らしながら入ってきた。一緒に入ってきたのは背が低く、薄ぼんやりとした印象の女だった。正面に座った彼女の、全体的に伸びたままの髪の毛から覗く瞳だけがやけに黒く強かった。
「こいつが昨日話した蒼子な。住むとこないから、お前んち泊めてやってよ」
 わたしの返事を聞く前にぺこりと頭を下げる蒼子に、わたしは曖昧に頷いた。三澤は陽気に笑って、メニューも見ずにブレンドコーヒーとメロンソーダを注文した。
「住む家が欲しいやつと被写体が欲しいやつ、お互いウィンウィンじゃん」
 わたしは写真を撮るときに、被写体と精神的に距離を詰めることを大切にしていた。そのために同じ場所に住み、同じ物を食べる。金銭のやり取りを最低限に留めた関係性を築くには、それが一番手っ取り早い。
 写真を撮る価値があるのか、じっくりと蒼子を観察する。薄いブルーのニットは襟ぐりが伸びて、インナーの肩口が覗いていた。くすんだ喫茶店の中で、メロンソーダのアイスをストローでつつきながらうつむいた彼女のつむじの白とテーブルに置かれたマスクの白さがやけにきれいだった。わたしは蒼子を撮ってもいいと思った。
 ただ、彼女はどう見てもすすんで写真を撮られたがるタイプには思えない。もし、少しでも撮られるのを嫌がるそぶりを見せたら、それを理由に追い出せばいい。小さなボディバック一つしか持ってない彼女なら、簡単に追い出せるだろう。

駅前で三澤と別れて若林まで移動した。環状七号線沿いを歩き若林交差点を右に折れ、住宅街の細い路地を歩いて家に向かった。暖かい日射しがアスファルトの上に降り注いでいる。緑の生け垣が続く細い側道を、小学生ぐらいの子供が走り抜けていった。誰もが家の中に閉じこもって過ごしているとは思えないほど、のどかな昼下がりだ。
 小さな神社の前で不意に蒼子が足を止めた。どうしたと声をかける間もなく、コンクリートの祠に手を合わせて、熱心に何かを呟き始めた。わたしはポケットに入れていたコンパクトカメラを取り出し、二、三歩距離を取ってシャッターを切った。蒼子は祈りに夢中で撮られたことにたぶん気づいていない。
 そこから道なりに数分歩いて、三叉路を左に折れると、住宅街の中に小さな団地が現れる。その南A棟一階角部屋がわたしの部屋だった。塗装が剥げて妙な模様が浮いたドアの鍵穴に鍵を差し込んだときに、後ろにいる蒼子が息を吸う音が聞こえた。
「宿代は払えない。その代わりに好きなだけ撮っていいから、写真」
 低いようで高い、不安定な声だった。振り向くと蒼子はうつむいていた。白いつむじに向かってシャッターを切った。蒼子が顔を上げたせいで、つむじが黒い目に変わる。その目に向けてもう一度シャッターを切る。蒼子は目元を前髪で隠して、二回強く頭を振った。その勢いで、差し込んだままの鍵を回してドアを乱暴に開け放った。狭い上がり口にスニーカーを脱ぎ捨てると、ずかずかと中に入っていった。わかりやすい腹のくくり方に笑ってしまった。
 共同生活をするなら、ずうずうしいぐらいが丁度いい。感情を表に出さないやつ、遠慮ばかりするやつは距離を詰めるのに時間がかかる。そう言われたのは過去の自分だ。跳ね飛ばされた真っ白なスニーカーの中敷きには、擦れて薄くなった文字で蒼子とでかでかと書かれていた。変わったやつだと思った。

玄関の扉を閉めると、部屋の中は自分がどこに立っているのかもわからないくらい真っ暗になる。電気のスイッチを押す。
 電気に照らされた、狭い2Kの台所と部屋の間に蒼子は立っていた。寝室に使っている四畳半以外は、明かり取りの窓も、ベランダの掃き出し窓も黒いビニールカーテンとテープで目張りして、どこからも光が入らないようにしてある。
「暗室に使ってるから」
 わたしはフィルムの現像から写真の焼き付けまで、すべてをこの部屋でやっている。今日だって家を出る直前まで、印画紙へ写真を焼き付けていた。フィルムは引き延ばし機にセットしたままだし、床に置かれた数枚のでかいバットには現像液や定着液が張ってあって、強い刺激臭を放っていた。
 今どき、フィルムを使って写真を撮るやつは少ない。デジタルに比べて手間がかかりすぎる。フィルム代、現像代、印画紙代、薬品代と撮影からプリントの行程にはデジタルとは比べものにならないくらいの金と時間がついて回る。撮ったものをすぐには確認できない上に、データ化するのにも機材が必用だ。
 ただ、メリットもある。フィルムカメラはデジタルカメラより圧倒的に作りが単純なぶん故障が少ない。たとえ故障しても、材料さえ揃えれば自分で直すことができた。デジタルカメラほど雨にも、埃にも弱くない。インフラが整っていない、環境が悪い地域での撮影では、デジカメよりも役立つことがよくあった。
 何より、光がフィルムに塗られた銀と化学反応を起こして時間と像を焼き付ける、それが現像液の中で印画紙に浮き出す瞬間がとてつもなく好きだった。ただのロマンに浸っているだけなのかもしれないけれどそれでもいいとわたしは思っている。
 蒼子は突っ立ったまま、梁からカーテンレールに渡した紐にぶら下がっている写真を見ていた。砂埃に煙る街の景色の前に、黒く太い線が横切っているやつだ。家を出る前に全紙サイズにでかく引き延ばしたそれは、まだ水分を含んでつやつやと光っていた。
 小さなボディバッグを抱えたまま、座り込もうとする蒼子に飯に行こうと声をかけて、玄関に向かった。火鍋を食うつもりだった。おごるつもりなどさらさらなかったけれど、数千円ぐらいは持ってるだろうと池袋へ向かった。

池袋駅東口から裏路地に入ると、一気に人影が減って所々に突っ立っている黒服を着た客引きの所在なさげな姿が目についた。
 火鍋屋は中華系のスーパーや本屋が入った雑居ビルにあった。わたしはこのビルを蒼子とうろつきたかった。ちょっとした非日常は被写体との距離を縮めるのにちょうどいいし、そんなときの行動はそいつの本質に近い。スーパーのある二階までは階段を使う。踊り場に設置された特大のディスプレイが歓迎という文字を点滅させながら、中国の時事ニュースを映していた。二階は漁村のような磯臭さと、甘い香辛料の混じった独特の匂いがする。スーパーの一角にある食堂の店員の女がだるそうにこっちに目をやって、すぐに手元のスマホに目をもどした。
 瓶詰めや香辛料とか、あまりなじみのない中国野菜が崩れるほど積み上げられた棚を抜けて、コンビニでアイスクリームが入っているのと同じような形のケースにぎゅうぎゅうに詰まった冷凍食品を覗いた。水餃子がすごく安い。五十個で八百九十円。店内を見て回っていると、小さな男の子が水槽の中の藻のついた牡蠣や鯉をじっと見つめていた。そこから動かない少年の白いマスク姿は、このスーパーにしっくりとなじんでいた。わたしは酒のつまみになりそうな真空パックされた鴨の首と、さっき見つけた激安の冷凍餃子掴んでレジに向かって、電子マネーで支払いをした。スーパーの入り口の壁に突っ立った蒼子は、じっとレジで会計をしていく人たちを見ていた。

がたつくエレベーターに乗り込むとき、すでに乗っていた人に蒼子は小さく会釈をした。会釈なんて、このビルでは自分が日本人だと名乗っているとの同じだ。
 五階で降りる。火鍋屋の入り口には、店の名前を中国語で模ったネオン管が赤く光っていた。薄汚れたビルの壁とミスマッチな、でかいガラスの扉を押し開けて店内入った。入り口のすぐ右側には、ライトアップされた陳列棚があって、串に刺さったむき出しの食材たちが無造作に乗った皿が並んでいた。その奥にあるレジに立っている人に、「二人」と告げると奥の四人掛けの席へ通された。
 店内には若者たちと異国の言葉と笑い声が溢れている。蒼子は興味深げに、店の中を見回している。すぐ近くにあるトイレにはHARD ROCKと描いたピンクとブルーのネオン管が光っていて、壁にはブルドックをつれたグラマラスな女のイラストがでっかく描かれていて、火鍋屋のコンセプトを迷走させていた。
 食べ放題で二千八百円。飲み物もタレも、食材もセルフなのに、アルコール類と裸の女性の人形に生肉を巻き付けたやつとか、水晶みたいな玉に入った肉とか、おいしさを置いて映えだけを優先させたメニューは店員に注文するシステムだった。酒を頼んだわたしと違って、蒼子はソフトドリンクを飲むと言った。そうだ、こいつは金がない。
「食材取りにいこう」
 蒼子は小さく頷くと、わたしのあとについて席を立ったけれど、ドリンクバーでオレンジジュースをコップになみなみ注ぐと席へ戻っていった。
 十種類以上あるタレはすべて中国語で名前が書かれていて、味はいまいちわからない。前に来たときに旨かったものを思い出して、うつわに注いだ。その後に、刻んだザーサイとごまダレらしきものを混ぜた、味は美味いが見た目が最低なタレを作って、テーブルから動く気のない蒼子の前に置いた。
「え?キモ」
 そう言った蒼子を無視して、わたしは食材を取りに入り口に向かった。でかい皿を取ると陳列棚に並んだ、なんの肉かよくわからない串刺しの肉たちを眺めた。赤い香辛料がまぶされた肉が巻き付いた串、ヨーグルトみたいなものに漬け込まれた肉串を数本。冬瓜と白菜、貝、エビをなんとなく手当たり次第に皿に拾った。
 席に戻ると、すでに赤と白のスープが入った鍋が置かれていた。適当にぶち込んだ具材をつつきながら、わたしはビールを思いっきり煽った。
 ステイホームに心底飽き飽きしていた気持ちや一人で過ごす日々に感じてたストレスがビールの炭酸に溶けていく。蒼子は火鍋の辛さに顔をしかめながら、黙々と食い続けていた。立て続けに煽った酒で、わたしはしたたかに酔っていた。誰かと酒を飲みながら対面で話せることにテンションが上がっていたんだと思う。会ったばかりの蒼子にどう思われるかを考えもせず思いついたことを話した。
「さっきスーパーの買い物客は、みんなマスクを付けてた。たぶん中国人だ。日本人はマスクもせずにでかけるやつが未だにいるじゃん。自分たちのその行為が何を招くのかをわかってないんだよ。危機意識と当事者意識が欠如してんの。日本は平和ボケし続けてる。変わっちゃった現状に順応できない人であふれてるし。それだけじゃない、世界で起こっている現実を何も知らない。知ろうとしない。日本が嫌いな訳じゃない。だた、日本にいると考えることが馬鹿らしくなるよ」
 止めどなく口から溢れてくる言葉は本音と建前が混じり合っていた。わたしは、渋谷や新宿にたむろするやつらと同じように、何も考えずに楽しく生きたいと思ってしまう、そんな自分が嫌いだった。
「どこもか変わらない」
 何の肉か、どこの部位かよくわからない肉を頬張りながら蒼子が言った。
「するか、しないか。爆弾なんてそこら辺にあるもので簡単に作れる。テロなんて誰でも起こせる。日本で起きないないなんて、なんで言い切れる?」
 蒼子の黒い目がわたしをまっすぐに見ていた。
「部屋の写真、シリアの内戦を撮ったやつだろ。あんたの写真、みたことあるよ。爆撃の中にどんどん近づいて、爆死するんじゃないかってやつ。隣にいた兵士は死んだんだっけ。血がこびりついたレンズのまま撮ってたんだろ」
 砂埃の中で、爆撃でばらばらになった青年兵。「一緒に食うか」そう声をかけて隣に座り込んできた彼の右手には親指と小指しかなかった。その手で敵に銃弾を撃ち込むために、彼の銃は鉄片と布で引き金を改造されていた。彼は死ぬまで戦闘を続けるつもりだった。
 まるごと火鍋に浸かった海老の皮を剥く。指先が唐辛子のせいで燃えるように熱い。蒼子の声がわたしの上に降り注ぐ。
「あんたは平和ぼけした日本が嫌なんじゃないよ。当事者として、出来事の中にいたい。それなのに、日本はいつも、どんなことにも対岸の火事だ。それがもどかしいんだ。
 それにさ、写真を撮ってる瞬間って外でしょ。あんたはいつも出来事の外にいる。だから、被写体に近づいていく。あんたはその中に入りたいんだ」
 そうだ。部外者だった。いつも、わたしは被写体たちの気持ちも、生い立ちも、人生も我慢も何も芯からは理解することなんてできなかった。
 寂しかった。写真のフィルムに焼き付くものと、そこで起こっていることがあまりにもかけ離れていた。埋められない溝は深くて、広くて、いつも絶望した。そんな自分の苦しみを言い当てられた気がした。
「これから撮れよ、写真。そうすればあんたは、中に入れる。絶対に、そうなる」
 わたしは返事も出来ず、何杯目かのビールを一気に煽った。喉を冷たい液体が流れ落ちていった。

午前九時、間延びした声で外出自粛を呼びかける地域放送が流れる。スピーカーの付いた鉄塔に近い南棟の住人は、否応なしに放送でたたき起こされる。目を開けると四畳半のカーテンの隙間からは、黄色味を帯びた日の光が差し込んでいた。居間からもごそごそと物音が聞こえた。
「蒼子、開けるよ」
 一応一声かけてふすまを開けた。暗がりの中で、タブレットの光が蒼子の顔を照らしている。キッチンから食パンの袋を持って蒼子の側に座った。タブレットの画面には数字と記号が嵐のように渦巻いていた。じっと見ていても、何の意味も捉えられない。
「朝飯食ったらもっかい寝る」
 なんとなく、蒼子に宣言してから四畳半に引きっぱなしの布団に潜り込んだ。ドアが開く音がして「いってきます」と小さな声が聞こえた。蒼子は毎日どこかに出かける。写真を撮るために同行したい気持ちが眠気に負ける。明日こそと思ったまま、眠りに落ちた。

夕方に戻ってきた蒼子と一緒に街に出かけた。晩飯は外で温かいものを食いたい。わたしと蒼子の意見は一致していた。
 近所にある定食屋に入って、名物のめざし定食を注文した。ここのめざしはデカくて身がぱつぱつで、めちゃくちゃ食いごたえがある。なにより、付け合わせのポテトサラダが最高に美味い。ごろごろしたじゃがいもとベーコン、マヨネーズの割合が神がかっていた。
 外出自粛がはじまって、客のわたしでもわかるくらいこの店の客足は落ち込んでいた。つぶれてほしくなくて週に何度か食いに来ていた。おばちゃんは「ありがとねえ」と気さくに話しかけてくれる。蒼子はいつも目を合わさず、小さく会釈を返した。
 大盛りにしてもらったポテトサラダを頬張りながら蒼子は、部屋がほしいと言った。「もうすぐ大きく世界が動く。新しい世界を作るための準備がしたい」と。
 妄言だと思った。やばめの誇大妄想、それをマジな顔をして言っているのがよけいにやばい。
「なにそれ。世界ってどこ?そんな話全く聞いたことないけど」
「情報はいつも一握りの人にしか流れてこない」
「・・・・・・お前がその一握りだってわけ?」
「違う。でも、その情報を手に入れる方法はある」
「へえ。で、世界が動くときに、蒼子は何をすんの?」
「何でもする。あんたは知らない。だから平気な顔をして今を生きてられる。知らないのは悪なんかじゃない。でも、知っているのに何もせずに平然と生きているのは悪だ」
 黒い目がわたしを睨み付ける。
 わたしには抽象的で曖昧な言葉にしか聞こえなかった。「なんで理解されないことをそんなにまっすぐな目で言ってんの」とか、「もし、ずっとずっと何にも起こんなくてもお前、その目をし続けんの」とか思いついた言葉をぐっと呑み込む。こんな痛い話をマジな目でわたしにしてきた蒼子がかわいそうだと思った。
「考えとくよ」
 わたしの気のない返事に蒼子は頷いた。

蒼子がうちにきて二週間が過ぎた。
 朝から都内の新規感染者数が百人を切ったというニュースが流れていた。これでまた気を緩めるやつら出てきて、じりじりと感染者が増える。何回これを繰り返えすつもりなんだとウンザリする。ただ、こんな報道が流れる度に、いい加減にしろよと思う気持ちと、もうちょっとで収まるのかもしれないという希望的観測が入り交じった気持ちになるわたしも、間違いなくこの感染症をこんなにも長引かせている原因の一人だ。そんなことを考えながら台所から蒼子に話しかけた。
「もうウソでもやばい発表し続けとけよ。毎日百人死んでますとか。そう思わん?」
「思わない」
 こいつは相手に合わせて「そうだね」とか「わかるよ」とか言い合って安心する共感性に乏しい。いつものことだったけれど、ムッとして投げつけた食パンの袋は、蒼子に当たらずに畳の上を滑っていった。

コンビニの帰り道、近所にある酒屋の店先に激安セールの幟がはためいていた。ぼろい店構えの割にきれいな店内の店だった。閉店するのかもしれない。
 おはぎがうまい和菓子屋や日焼けして薄汚れたサイクルショップ、SFばっか置いてある古本屋とか、この地区に古くからあった店が少しずつ姿を消していた。
 この状況に適応できるものとそうでないものの差が、街を作り替えつつあるのを肌で感じる。それが寂しいと思うのは、わたしが弱いせいなんだろうか。
 翌日、蒼子を連れてその酒屋に来た。わたしが「閉店するのかもしれない」と言うと、店の前の錆びついた自販機でバヤリースの缶ジュースを飲んでいた蒼子はゆっくりと缶を地面に置いた。
「消費者の消費の方法が変わった。それに合わせて、販売形態を変えていかないやつは淘汰される」
「今までそれをやってこなかった人にそれを求めるのは酷じゃない?」
「がむしゃらにでもそれに取り組まないといけない時期になっているのに気づかないなら、それはその人たちの責任だ。現状を新しいものが生まれるチャンスだって動いているやつがこの世界中にいる。それ以上に、すべてが収まれば以前と同じ生活がもどってくると思ってるやつが多すぎる。何も変わらない世界を望むやつが多すぎる」
 たしかに世界中で形骸化してきたものが淘汰されて壊れる音がしている。水面下では、確実に新しい仕組みが勃興している。旧体制が壊れるという意味では、新しい世界はすでにはじまっているのかもしれない。よく三澤も言っていたっけ「これからは個の時代になる」って。それが具体的にどんなことか全然想像がつかないけれど。
「とにかく、買うしかなくない」
 定価の半額以下の値札を指さす。
「いらない」
 蒼子は小さく首を振った。それはそうだ。蒼子は酒を飲まない。火鍋屋でソフトドリンクを飲んでいたのは、金がないせいじゃなかった。酒を飲んで思考が鈍くなるのが嫌らしい。けど、それが楽しくて飲むんだろうがって思う。こいつがどうやって息抜きをして、何に楽しみを見いだしているのか、一緒に暮らしているのに全く想像できない。
 蒼子はわたしがしこたま酒を買い込んだビニール袋を半分持った。荷物を半分持つし、食事の前には手を合わせる。きっと蒼子はきちんとした家庭で育ったんだと思う。そんなやつがなんでこうなったんだろうと不思議だった。
 蒼子は外出禁止の街の中をふらふらと歩き回ることに、罪悪感なんて微塵もないように見えた。人は人の目を気にして、お互いに牽制しあって生きてる。わたしは出かけることや飲食店で飲み食いすることいつも少しの後ろめたさを感じていた。だから、「店のため」とか「散歩のついで」とかいつも理由をつけていた。
 蒼子は、良くも悪くも街の中で浮かび上がって見えた。

家に返ると居間の畳に酒とつまみを並べだしたわたしに、蒼子は心底嫌そうなため息をついた。
「一人で飲みたくない気分なの。付き合って飲まなくていいから、隣貸して」
「知らん」
 蒼子はスマホから一切目を離さずに、うっとうしそうな声を出した。それをオッケーのサインとみなす。景気づけに、チューハイをジュース代わりに飲み干し、かなり安く手に入ったウィスキーと炭酸水で濃いめのハイボールを作る。金も時間も気にせず誰かの部屋で飲む酒は学生の頃を思い出す。美味いとか美味くないとかじゃなく、頭の中がもたつく酩酊状態が気持ちよかった。近所の野良猫たちの名前を教え終わったときに、蒼子の定位置になっている座椅子の側に置かれた眼鏡が見えた。蒼子が眼鏡をかけているところは見たことがなかった。
「蒼子、目悪いん?」
「ブルーライトカット」
「へえ。わたしさ、視力両目とも2.0。視力検査の下まで見えるんよ。すごくない」
「うん」
「たださ、見えすぎるってつらかったりするわけ。時々、もっと目が悪かったらなって思うよ」
「なんで?」
「見る気がなきゃ何も見えないくらい目が悪かったら、全部、見ないふりして生きていけたのにって思う」
 視力の問題じゃないだろってツッコミは返ってこなかった。
「自分で選別すればいい。見えたものすべて見る必用なんてない。みんな無意識にそれを選別して生きてる」
 蒼子はわたしがどんなに酔っ払っていても、わたしが話すことに律儀に相づちを打って自分の考えを言う。その態度に蒼子も一人が寂しいのかもしれないと思えた。
 わたしはよく蒼子にこれまで自分が撮ってきた写真の話をした。蒼子と話すのは気が楽だった。彼女はいつも自分が思ったことを言う。だから自分も建前を捨てて話せた。
 シリアの話をしたとき、どこから爆撃の情報を仕入れたのかと聞かれた。たまたまそこに居合わせただけだと言ったわたしに、違うと蒼子は首を振った。
 だけど、爆撃の現場にわたしがいたのは紛れもない偶然だった。シリアに行ったことすら、知り合いのカメラマンに誘われた、それだけだった。

チャイムの音で目が覚めた。連続で鳴るチャイムとドアを叩く音に、目がうまく開かないまま、荷物を受け取った。宅急便のおじさんは無表情だった。
 この部屋には週数回のペースで荷物が届く。蒼子はヘッドフォンをしていた。段ボールをゆっくりと蒼子の座る座椅子の背後に置いた。
「爆弾でも作んの?」
 聞こえてないだろうと思って言ったのに、蒼子はこっちを向いて「そうだよ」と真顔で言った。部屋の中には、薬品や電気部品とか本気で爆弾を作ろうと思えば、たぶん相当すごいやつができるぐらいの材料が揃っていた。
「大丈夫だよ。住所バレないように色々経由して買ってるから」
 わたしの沈黙をどう捉えたのかわからないけれど、その声には安心させようする響きがあった。
「へえ」
 わたしの乾いた笑いが部屋の中に残った。

数日後、わたしは三澤に呼び出されて、宇田川の雑居ビルの地下にあるバーにいた。聞き慣れない名前の酒をバーテンに頼む三澤は、前に会ったときより少し痩せていた。
「どうよ、蒼子」
「面白いよ。訳わかんなくて」
「撮ってんの? 写真」
「一応、撮ってはいる」
「うまくいってんじゃん。良かったわ」
 三澤は安心したように笑った。杏仁豆腐みたいな甘い匂いのする酒を一口飲むと、三澤は少しだけ声を落として話し始めた。
「あいつ、少し痛いとこあるからさ。住むとこないくせに、誰紹介してもうまくいかんくてさ。すぐに世界がどうとか言いだすじゃん。
 やばそうなこと言うようだったら、流したらいいから。あんま色々真に受けんなよ。でも、面白いやつだろ。見た目もなんか雰囲気あるし。もし一緒にいるのキツくなったら、いつでも言えよ。次の家の目星はつけてるからさ」
「・・・・・・うん」
 三澤からみた蒼子はだたの痛いやつなんだ。
 わたしの中で少しずつ育っていた、「新しい世界を作る」と言った蒼子を信じたいと思う気持ちが急速にしぼんでいく。
 いつもそうだ。わたしは、いつだって誰かの言葉に揺れる。
 シリアの爆撃の後、日本に帰国したわたしは外国に行くのをやめた。病室で「あんたは写真で世界を変えるなんて大それたことができる人間じゃない」と母は涙を流しながら何度も繰り返した。
 香港のデモの撮影は恩師からの頼みで仕方なく受けた仕事だった。だから海外渡航が制限されたとき、心の底ではほっとしていた。自分にも他人にも行かない言い訳をしなくて済むから。
 メニューをめくりながら、強そうな名前の酒ばかりを頼んで一気に飲み干すわたしに向かって、三澤は「お前やべえわ。最高」とバカでかい声で言いながら、楽しそうに笑った。

気づくと公園のベンチに寝転がっていた。財布もスマホもある。三澤からは「気をつけて帰れよ」とメッセージが来ていた。起き上がると迫り上がるような強い嘔吐感に、ベンチに座ったまま吐いた。足下に水っぽい吐瀉物が広がっていく。鼻の奥の焼けるような痛みと漏れる熱く荒い息にあの日を思い出す。
 シリアで爆撃を受けた日、わたしは拠点に食料を運ぶために青年兵と一緒に配給所に向かっていた。襲撃に遭いにくいように、わたしたちは隣り合った路地を使った。路地と路地は、大人の肩ぐらいの高さの塀で分けられていて、わたしたちは塀越しに談笑しながら歩いていた。彼は配給所に近い廃ビルで恋人と会うつもりだから、途中からは一人で配給所まで行ってほしいと言った。激化する戦闘の合間、少しの逢瀬を求める気持ちはよくわかった。わたしがすぐにオーケーと応えると、彼はうれしそうに歯を見せて笑った。
 一瞬だった。わたしたちの、数十メートル先にあった廃ビルが爆撃を受けた。爆風に体が枯れ葉みたいに吹っ飛ばされた。崩れた塀が降ってくる。右肩が燃えるように熱い。舞い上がった砂塵で何も見えない。わたしは、立ち上がって青年兵の名前を叫んだ。右手から血が滴る。何かを考える前に、首にかけていたカメラを構えていた。惨状を撮りたかった訳じゃない。シャッターを切っていないと、頭がおかしくなりそうだった。耳の奥でデカい鐘がずっと鳴っていた。
 怖かった。自分じゃどうにもならないことが降ってきた。知っていたはずだったのに。すぐ近くの拠点が爆撃を受けて、話しをしたことがあったやつが死んだこともあった。だけど、それでも、わたしにとってこの紛争も爆撃も、対岸の火事だった。
 青年兵は死んだ。爆風を正面から浴びて。
 血だらけのカメラには、あの地獄は写っていたか。わたしにはわからない。ただ、今でも思い出したように、あの日のフィルムを印画紙に焼き付ける。何度焼き付けても、あの瞬間は決して色あせてくれない。クソみたいに脳裏にこびりついた、音のない世界の残像を印画紙の上になすりつけたくてもがく。写真を見た誰も当事者になんてなれないと知っているのに。それでも写真を撮ることをやめられなかった。
 こんな世界を変えると言った蒼子の声が不意に頭の中に蘇って、胸がきつく痛んだ。
 涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃな顔を歪ませて、わたしは吐き続けた。

明け方、部屋に帰ると四畳半と居間を繋いだふすまの間から光が漏れていた。ふすまを開ける。ヘッドフォンをして膝を抱えた蒼子が顔を伏せていた。スマホの明かりに薄い肩と首筋が青白く光っている。眠っていないことはわかった。指先が定期的に画面をタップしていた。
 小さな虫の羽音のような耳障りな音だけが部屋の中に響いている。わたしはその肩が小さく震えるのを見つめていた。
 わたしは知らない。彼女を突き動かすものが何なのか。蒼子がどんな音楽を聴いて、何に涙を流すのかすらも。だけど、信じたいと思った、いつだって苦しいほど真正面からわたしの言葉に向き合う蒼子を。
 この状況が収まったら、もう一度シリアに行って紛争の終わったあの国を旅しよう。そして、新しく生まれたばかりの街の風を受けて笑う蒼子を撮りたい。
 何もかもが上手くいくような幸福感と、全てが壊れてしまう未来を選んだ悲壮感が交互に襲ってきて、叫び差しそうになった。布団にくるまって、目をつむると一瞬で眠りに落ちた。自分が四畳半のPCの前に座って夢中でキーボードに何かを打ち込んでいる夢を見た。

翌朝わたしは、蒼子に食パンの袋を差し出したついでにぶっきらぼうに言った。
「そこの四畳半を好きに使っていいよ。ただし、わたしも使う。入ったらダメとか写真撮るのダメとかもなしな」
「わかった」
 わたしの寝室兼機材置き場は蒼子の部屋になった。
 蒼子はどこからか拾ってきた段ボールを持って四畳半に入っていった。
「ねえ、マジで塞ぐの?この家で唯一光入る窓よ、そこ」
「光いらん」
「夏、絶対に後悔するなよ」
 窓と壁紙に段ボールをベタベタ張り付ける蒼子の手を掴んで、ガムテープを奪い取った。
 薬品がしみこんで変色している壁紙や薬液でさびたシンクのことを考えると敷金はたぶん戻ってこない。けどそれ以上の金を払うことになるのはごめんだった。こいつは絶対に一銭も払わないだろうし。最小限のダメージで済むように考えながら、段ボールで窓を塞いだ。

翌日には、蒼子宛てにばかでかい荷物がいくつも届いた。二人がかりで汗だくになって部屋に引き込むと、蒼子はすぐにその中に入っていたPCと数組のディスプレイを畳の上に組み上げた。真っ暗な部屋で画面の明かりだけが煌々と光っている。わけのわからない記号の羅列をすごいスピードで打ち込みはじめたのを見て、ハッキングとか、トラッキングとか、そんなことをして情報を手に入れるんだろうとなんとくはわかった。
 わたしは部屋の隅においやられた機材の山から、未使用のフィルムとあるだけのSDカードを拾い出して、手持ちのカメラをすべて臨戦態勢に整えていく。
 何も知らない。彼女が何をしたいのか、何になろうとしているのか。わたしはただ、蒼子を撮るための準備をはじめた。

「アフリカの夕日みたことある?」
 蒼子の声に顔を上げると、ディスプレイの一枚にストリーミングされたサバンナの動画が流れていた。
「異様にでかくて、赤いやつ」蒼子は映像を見つめたまま、手元ではよくわからない粉末をキッチンペーパーの上で、少しずつ器用に混ぜ合わせている。
「アフリカとかチリとか、植民地だった国の国旗には赤い色が入ってる。独立のために流された血の赤」
 蒼子の話に曖昧に相づちを打ちながら、わたしは学生時代に旅行したサバンナの夕日を思い出していた。
 地平線を含めた手当たり次第を赤く染め上げる、とてつもなく大きな太陽。草原の果てから迫る炎のような圧倒的な質量で、何もかもを血みたいな赤で塗りつぶしていく。夕日の中で、ジープの側に立って一緒に夕日を見つめていたアフリカンの歌声。
 血を流してまで手に入れたわたしたちの国はこんなにも素晴らしいだろう
 うるおぼえの現地の言葉の意味が、のどを震わせるように絞り出され、リズミカルに踊る音の奥から響いてくる。
 この日、尊敬していた写真家が死んだ。中東紛争に巻き込まれてあっけなく。SNSから流れてきたニュースにわたしは唖然としていた。彼が最期に撮ったものが何だったのかはわからない。粉々になったカメラもSDカードはきっと、今もあの国の砂埃のなかにある。
「今も紛争を続けている人たちも、いつかその血の赤を国旗に描くのかな。そんなにも血を流してまで、自分の国を手に入れたいんかな」
 そんなことをあの日、わたしはずっと考えていた。
「きっとわかってないよ。ずっと続いてきたことを踏襲しているだけだ。そう思う。けど、当事者はきっと違うって言う。そうやって続いている戦争や紛争が世界中で起きてる。その先に何が待ってるかなんて、もうわからなくても、父や祖父や曾祖父たちが命をかけてきたものを、自分たちがやめちゃいけないと思ってるんだ」
 わたしが人生の中で感じてきた疑問に、蒼子がすべての答えを持っている気持ちになる。
「いつか本物の太陽が見たい」
 呟いた蒼子の横顔は、ディスプレイの中の夕日に赤く照らされていた。カメラのシャッターを切った。被写体として本気で蒼子を撮ったのは、このときがはじめてだった。

夕食を食いにわたしたちはてんやに入った。ガラガラの店内の一番奥、窓に面したボックス席。外が見えるようにソファじゃなく椅子に腰を下ろした。蒼子はわたしの隣の椅子に座った。
 夕方なのに人も車もまばらな交差点を眺めながら、自分たちは犬みたいだと蒼子は言った。誰が何をしてくれて、何をしてくれなかったかをいつまでも覚えている。執念深い犬みたいに。少なくとも、自分や仲間たちはそうだと。
 なんとなく思う。蒼子が言う仲間たちは、絆や思想とか強い仲間意識で結ばれている訳じゃない。たぶん、何かを変えたいと願うやつらが寄せ集まって、それぞれがバラバラの思いを抱えて、動いている。
 だけど、蒼子が仲間、その言葉を使う度に、学生の頃、騒がしい校庭を一人で教室から眺めているみたいな空しい気持ちになった。それをごまかすように、どんぶりいっぱいの白飯の上に乗っかった海老の天ぷらにかじりつく。蒼子は熱々の味噌汁をうまそうにすすった。温かい飯はいい。簡単に人を幸せにしてくれる。蒼子との生活に居心地のよさを感じはじめている自分がいた。

わたしたちは毎日のように脈略もなく街中を歩き回った。蒼子について色んな場所に行くようになって知った。渋谷の貸し会議室や表参道の鍼灸院、銀座のカレー屋、マンションの一室は、わたしが思っていたよりも雑多な使われ方をしている。
 日曜日の昼過ぎ、わたしたちは大塚にいた。蒼子とマンションの一室にある神社を訪ねた。
 玄関を入ってすぐ、蒼子はポケットからくしゃくしゃの一万円札を二枚取り出して、巫女さんに二人分の祈祷料だと言って渡した。巫女さんは慣れた感じで領収書の有無を聞いてきた。蒼子が首を横に振ると、「そちらでお待ちください」と奥の部屋を手で示した。
 ドアの先は畳が敷かれた狭い和室だった。ふすまを外した押し入れの中に質素な神棚と円形の鏡が置かれていた。その前にはご丁寧に賽銭箱が置いてあった。千円札を入れ、頭を下げて手を合わせる蒼子の隣で、十円玉を投げ入れておざなりに手を合わせながら、蒼子の写真を撮り続ける努力のできる人間でありたいと思った。蒼子は神主が現れるまで手を合わせて、うつむいたままだった。わたしは彼女の白いつむじを見ていた。
「お待たせいたしました」
 摺り足で敷居を跨いで神主が部屋の中に入ってきた。柔和な表情を浮かべておっとりと畳に座るように促す声には、宗教家らしいうさんくささがあった。年期の入った衣装の襟元はすり切れていて、あの高い祈祷料は何に使ってんだよとか、やる気でない時も同じ顔でやってんのとか不躾な疑問ばかりが浮かんだ。
 神主は神棚の前に簡易的な椅子を置くと、そこにゆっくりと尻をのせた。懐から取り出したぼろぼろの巻物を広げて、深く息を吸って祝詞を読み上げはじめる。
 うなるように低く太い声が響く。意味が取れるようで取り切れない言葉の羅列を乗せたその声は、民族楽器のように独特の余韻があった。国境を越えて遠い国にいるような不思議な感覚だった。
 じりじりと時間が忍び足で去って行く。背後にある窓から差し込んだ夕日が鏡に反射して、部屋中を赤く染めていく。蒼子が見たがっていたアフリカの夕日みたいだった。教えてやろうとして、真剣な横顔を見て祈りの邪魔になりそうでやめた。消えていく夕日に、蒼ざめた灰色だけが残った。
 祝詞のリズムがどんどん早くなっていく。すり切れた声が死んでいく動物の最期の息のように震えて止んだ。深く頭を下げた神主の首の深い皺に、汗が光っていた。
 「記念写真を撮っていいですか」ってダメ元で聞いてみると、もちろん大丈夫ですと軽い言葉が返ってきた。
「そこ並んで。ご神体とかぶっちゃってるから、ちょっと屈めます?もうちょっと。蒼子、表情やばい。二人ともピースして」
 神棚の前でピースをする神主と蒼子が面白くて、にやにやしながら何度もシャッターを切った。
 マンションから出て、全然開かない踏切を待ちながら「なんかやばかったね」というわたしの呟きに蒼子は答えなかった。
 大塚駅から山手線に乗った。車内は日曜日だとは思えないほど空いていた。車両の窓は上部がすべて喚起のために開けられている。吹き込む風は生ぬるい。ガラガラの車両の中から見る東京の街は、ありえないほどすべてが近くて、遠い。いつだって人でごった返していた街の記憶は、いつの間にか上書きされていて、いつか思い出せなくなるのかも知れないと思った。

感染症の状況は小康状態を保っていた。季節はいつの間にか初夏に差し掛かっていた。扇風機を回してもこもる熱に、窓を塞いでいた黒いビニールのカーテンを少しだけ外した。窓の隙間からは青い匂いがした。ベランダの前の空き地にある木々や背の高い草が風に吹かれてゆれていた。懐かしいような、寂しいような気持ちを押さえ込むように、深く息を吸った瞬間だった。
 蒼子の部屋で何かが倒れたようなでかい音がした。慌てて障子を開けると、イヤホンが刺さったままのディスプレイが畳の上に転がっていた。
「収束する。ワクチンが流れてくる」
 静かに蒼子は興奮して見えた。信じられなかった。何度もワクチンが完成したという話はあった。その度に、ウイルスは微細な変化を繰り返して、ワクチンの網の目から逃れた。しかも、ワクチンができたからといって、すぐに世界中の人に行き渡るわけでも、感染者が治癒するわけでもないのに。
「動くよ、一ヶ月後」
 お前が?それとも世界が?言葉が喉の奥でわだかまった。
「蒼子、お前は何するの?」
「人を殺す」
 晩飯の話をするように自然な声だった。わたしは何も言えなかった。蒼子なら本当にやるだろうと思った。

蒼子が収束を予告して一ヶ月後、国会議事堂前で異例の収束宣言と演説会が開かれるというニュースが速報で流れた。何かが起きて終わる度に、「なにも変わらないね」って笑う街頭の人たち。あたりさわりのないことを言うコメンテーターたちが生み出す、生ぬるい報道番組が毎日のように流れはじめる。

「歩こう」
 わたしたちは、家からずっと遠い駅で降りて歩きだした。車の通らない住宅街で、道の真ん中を歩きながら目についた神社や寺に片っ端から入って、賽銭を投げ込んで祈った。くねくねと路地を曲がった先に、黒い鳥居の神社が現れた。蒼子はこぎれいな鳥居の前で、やけに丁寧に頭を下げた。
「桜の季節に来た」
 蒼子の思い出の神社らしい。境内の両端には立派な桜の木が生えていた。散っていく桜とか満開の桜とか、センチメンタルのかたまりだと思う。蒼子はまっすぐに境内にある掲示板に近づいて掲示物をじっと見ている。隣に並んで見ると、誰かの短歌を印刷した紙が押しピンで無造作に留められていた。
  世に人は善し悪しごとといはばいえ
  賎が誠は神ぞ知るらん
 クセの強い文末のせいで、意味がわかるようでわからなかった。
「いはばいえってなに?」
「知らん」と言い捨てると蒼子は境内に向かって歩いて行った。「本当に知らない?」と食い下がるわたしを無視して、蒼子は目を閉じて手を合わせた。
 わたしは、その姿を撮った。祈りの最中の無防備さはきれいだ。
「墓も行こうよ」
 境内にある創始者の墓と書かれた矢印を指さした。
 墓の前でおざなりに手を合わせて、周りを見回すと自販機があった。マンションの神社でのご祈祷料を思い出して、ちゃらにしようと墓の前で手を合わせている蒼子に声をかけた。
「おごってやるよ。何飲む?」 
「オランジーナ」
「ないって」
 蒼子は自販機まで小走りでやってきて、なっちゃんを指差した。
 近くのベンチに座る。風が気持ちいい。どこからか三味線のような音が聞こえてくる。しばらくお互いに黙ってなっちゃんを飲んでいた。
「ニューヨークのハートランドって小さな島に感染症で死んだ人が埋葬されてるって、小さい頃にネットの記事で読んだ」
「うん」
 蒼子が自分から話しはじめるとき、わたしは静かに相づちだけを打つようになっていた。
「想像する。その島のことを。その島には犬が住みついてる。墓を荒らされないためにニューヨークから連れて来られた雑種のつがいだ。そいつらは、死人しかいないこの島で生きて子孫を残した。
 だけど、もうその島には一頭しか残っていない。全身虎柄のちぢれた耳をしたそいつは、先祖の野生の血のせいで、体が異様にでかい。そいつは、ニューヨークを知らない。人間を知らない。仲間を知らない。生まれ落ちた瞬間、かたく強ばる体に羊膜がまとわりついていた。母は助けてくれない。自力で羊膜を破った。母犬の乳を匂い探りあてて、吸いつく。冷たい乳房からは、母乳が出ない。乳房を歯も生えてない口で強く食む。母はゆっくりと腐っていく。その体を生きるために喰った。それも大きすぎる体には足りない。何日も水だけをすすって飢えをしのいだ。だけど、この島には人間の死肉があった。感染症で死んだ人間たちは、あまりの数の多さに棺桶にも入れられずに土葬された。雨でぐずぐずになった土の下から、剥き出した死骸を喰う。腹を下して死にかけても喰うしかなかった。ウイルスはそいつの体を冒していく。だけど、そいつは生きるために喰った。どうして生きるかなんて、そんなことを考えもしない。死肉を喰って生き延びたそいつを、運命は強引に外の世界へ連れ出した。
 そいつが辿り着いたニューヨークの街は鮮やかすぎる。軟弱すぎる。そいつは街中を走った。喰い散らかして、性交して、未知のウイルスをまき散らした。街も国も、世界が壊れていった。そいつはただ生きかたかっただけなのに。そいつが壊してしまった世界は、新芽のように柔らかく芽吹く。世界は新しく生まれ変わる。だけど、そいつはただ生きたかっただけだった。誰もそれを知らないけど、生きたかっただけだったんだよ」
「うん」
 蒼子の持つ、ガキがそのままでかくなったような、ぐずぐずの純粋さは強く鋭い。それに触れる度に頭の中がむず痒くなって、泣きたくなる。
 三澤はあのとき本気で蒼子のことを痛いやつだって言ったんだろうか。蒼子と距離を詰めるわたしに嫉妬していたのか。それとも、変わらない世界でもがくわたしたちを哀れんでいたのかもしれない。

わたしは毎晩のように一人で公園へ向かった。あの部屋で四畳半から漏れる光を見るのが辛かった。
 夜の公園は静かだ。ベンチに座って風に吹かれて揺れる木を見ていると、気持ちが落ち着いた。マラソンランナーが荒い息を吐きながら通り過ぎていく。何が楽しくて走るのか少しも理解できない。感染症が猛威を振るっていたときだって、走るやつはいた。あいつらはアドレナリンとか、そんなもんを脳から分泌させたくて走るジャンキーなんだと思う。
 不意に、ぎりぎりを走り抜けるランナーを引き倒して、ぐちゃぐちゃに殴りたくなる。肩で息をしながら、馬乗りになって弱々しく潤んだ黒い目に拳を振り下ろす自分を想像して、左手をきつく握りしめる。喉の奥でくすぶる熱い息を何度も吐きだして、木立ちの揺れる音に視線を上げた。街灯に照らされたグラウンド越しに見える街灯の明かりと街路樹、その奥に広がるビル群はどんな日でも苦しいぐらいに美しかった。
 いつも肉眼で見る世界の美しさに打ちのめされる。空気を写真に焼き付けたかった。だけど、写らない。この景色を撮ったことはないし、これからも撮ることはないだろうと思う。
 撮れないものを撮りたいと願うのは、苦しい。そう言った写真家がいた。写真を美しくするものは記憶だ。写真を見て人が感動するのは純粋体験じゃない。自分の記憶を写真に写った被写体や風景に投影している。学生の頃に受けた講義でその写真家は泣いていた。わたしの撮った蒼子を一番美しくするものが、わたしの記憶なら、わたし以外が見る蒼子はきっと何者でもない。
 今までわたしが撮ってきたまだ何者でもない蒼子は明日、人を殺す。

「いってきます」
 どんな日も蒼子はあいさつをして部屋を出る。

演説の何時間も前から国会議事堂前は騒然としていた。プラカードを掲げた市民団体から右翼の街宣車まで、多種多様な人がそれぞれの思惑を抱えて前庭から大通りまでを埋め尽くしていた。何かが起こるかもしれないと、浮き足だった野次馬たちはやけに楽しそうに見えた。ハチ公前の気軽さで、待ち合わせをした人たちが久しぶりの再会を懐かしむように笑いあっていた。
 そんなやつらを後目に、暴動やデモ活動に備えて、全国から集められた数千人規模の警官隊が国会議事堂の周辺を警護する、と連日のようにニュースで流して牽制をかけていた。きっと、群衆の中にも私服警官が混じっているだろう。税金の無駄遣いだという声を無視して集会が敢行される。収束さえすれば、支持率の低迷も過去のものになると思っているのかって現実でもネット上でも、誰も彼もが叫んでいた。何かが起こることを危惧するのは当たり前だ。

集会の開始を告げるデカいサイレンの音が前庭中に響いた。収束宣言と演説という名のパフォーマンスを行う連中は、みんなクソみたいな笑顔を張り付けて、群衆に手を振っている。集まった人は三万を優に超えていた。無数の頭がアリのようにうごめく。明確な意思を持たないその群れは、徐々に横に膨らみながら、何かを求めるようにじりじりと前進している。
 比喩なんかじゃなく、心臓が口から飛び出しそうだ。蒼子が行く。もうすぐ爆弾を腹に巻き付けた仲間たちが行くぞ。お前らを吹き飛ばしに、あいつらが死んで、お前らもじきに死ぬんだぞ。
 蒼子のブルーのパーカーがゆっくりと、群衆を縫って進んでいく。群衆の周りを等間隔で囲んでいる警官の一人が蒼子を見ていた。視線は蒼子を捉えたままインカムで何かを話しはじめた。何を言っているのかわからないもどかしさに鼓動が早くなる。今下手に動いたら、取り押さえられるかもしれない。
「まだだ。行くな」
 わたしの声が聞こえてないみたいに、蒼子は振り向くこともなく進む。人の群れを超えて、その先に立つやつらに少しで近づくために。かき分けられた人々は一様にひどく興奮していて、蒼子のことなんて気にも留めていない。わたしの頭の中に、今朝、蒼子と交わした会話が蘇った。
「普通の人をたくさん巻き込むと罪が重くならない? 恨まれたりしない?」
「いいんだよ。ここに集まるやつらは、みんな今を変えたいやつらだから。そのために、自分の命を差し出せるやつだから」
 わたしにはそうは思えなかった。楽しそうに笑いながらスマホのカメラを構えているやつ、酒を飲みながら眺めているやつ、だるそうに座り込んでいるやつ、拡声器を使って好き勝手に喚いているやつ、その誰も蒼子の言う仲間には見えなかった。わたしは叫んでいた。
「蒼子、そいつらは違う! お前の仲間じゃない。きっと、お前が殺そうとしているやつらと同じ岸に立ってる。それでも行くのか。それでも、あいつらを殺しに行くのか。行くな、一人でなんか行くな! 」
「大丈夫。そいつらじゃない」
 蒼子の体が、群衆を止める柵に乗り上げる。それを合図に、最前列にいた連中が一気に柵を越えて、議事堂の前庭になだれ込む。やけに統制のとれた群衆に阻まれて動けない警官隊の合間を縫って、蒼子は進む。前へ。

何もかもがスローモーションに見えた。シールドを構えた警官隊が政治家たちを守るように立ち塞がっていく。
 ああ、邪魔をしないでくれ。
 警官隊が怒鳴る。
 うるさい。黙れ。蒼子の声が聞こえないじゃないか。あいつの背中に隠れている百万の仲間たちを鼓舞する声が。
 群衆の団結した動きに警官隊は数十メートル奥に押し込まれる。
 その先頭で蒼子は立ち止まり、ポケットから取り出した過酸化物の詰まった瓶を地面に叩きつけた。炎があたり一帯を包んで蒼子を燃え上がらせた。それを合図に群衆から小さな集団が分裂する。
 燃えるんだな蒼子、お前は一人で燃えるんだな。カメラのシャッターを切った。
 スクリーンに映る映画のワンシーンのような、決定的な美しさだ。なあ、蒼子、革命のはじまりは美しいな、さびしいからか。わたしの喉からうめき声が漏れる。

燃え上がる蒼子を見ながら、思い出していた。小さい頃、自分のガキばかりをえこひいきする大人に、テストの良いやつ以外をないがしろにする教師に、朝礼台に立って誰かを糾弾する優等生面したやつらに、腹ん中で文句垂れ流しながら黙っていた自分を。大人になっても、どこにだってそんなやつらはいた。人のまばらな地下鉄の構内にも泣き声の響く戦場にも、表だって声高に自分の正しさを主張するやつ、自分の理想をおしつけるやつ、そいつらが反吐が出るほど嫌いだった。
 だけど、本当はそんなやつらになりたかった。自分の正義で人を動かせると信じれるやつに。
 わたしは、蒼子お前になりたかったよ。でも、なれない。
 わたしは臆病者だから。カメラを構えてお前の影に隠れることで、あの閑散とした街を大股で歩いたわたしは、この真っ暗な部屋のディスプレイの前で、燃えるお前の背中を見ている。

蒼子の焼けて腫れ上がった喉から、か細い息が漏れる。途切れそうな声を絞って蒼子は叫び続ける。
 壊したいよ。更地に戻せなくても。ドミノみたいに。一つ目を倒すから。途切れた流れを、もう一度はじめるから。この国を、壊してくれないかな。
 戦争も震災も、感染症の最中も。保身に走るやつ、新しいものを受け入れないやつ、誰かのせいにするやつ、自分だけが大切なやつが未来を指さすこの国を。このままじゃダメだって。誰もが叫んでいたじゃないか。
 どうして忘れてしまうんだ。叫べ。叫んでくれよ。まっさらな世界がほしいって。ねえ、聞いてよ。終わったことなんて何もないよ。何もない。あの日々の延長上に私たちはいるんだよ。何度でも繰り返すかもしれない、あの春の日に。

拡声器もないまま、喉を震わせて叫ぶ声は、呑み込まれる。群衆の悲鳴に。だけど、聞こえているだろ。世界中に。今、配信されている映像にのって。
 祝詞が響く。お前があの日ポケットに隠した集音器で録音していた音だ。真剣に祈りに同調したふりをして、お前はいつも冷静だった。新宿の雑踏も、三宿の交差点も、銀座のマンションの一室も、お前が歩き回ったすべてには意味があった。

××が終わって何か変わった?
「経済がすごく成長した」
「貧しくなった」
「たくさんの人が死んだ」
「兄弟も親も死んだよ」

××があって何か変わった?
「人がたくさん死んだよ」
「色んな人に助けられた」
「生まれた町がなくなった」
「無関心がつらかった」
「悲しいことばっかだったね」

××が広がって何か変わった?
「人が死んだね」
「外に出られなかったっけ」
「何も変わらないよ」
「忘れちゃった」
「僕ら忘れっぽいからさ」
 何もかもを忘れてしまう、人はさびしい生き物だ。

蒼子の声と、燃えていく体に、コラージュのように重なっていく世界中に溢れている戦争や紛争、テロ、デモ、集会、病気、虐殺、貧困、飢餓、自殺、差別、世界中のあらゆる傷跡の歴史が流れる。蒼子はそのひとつだった。

警官隊とぶつかっていた一群が、催涙弾と放水に一気に押し戻された。砂の城が崩れるように、陣形が崩れていく。ギリギリで踏みとどまろうと、過酸化物の瓶が宙を舞い放物線を描いた。
 それよりも、少しだけ早い速度で上空から無数の黒い塊が落下する。黒い塊はSPに抱えられて逃げる政治家の肩口にぶつかって弾けた。政治家とSPの体が爆風に吹っ飛ぶ。転がった胴体や頭部に無数の金属片が刺さっている。
 上空にはドローンの集団が旋回するムクドリの群れのように存在した。ばらばらと降り注ぐ黒い塊に、そこら中で政治家たちが、警官が、仲間たちが破裂していく。
 血しぶきと肉片が撒き散って全てが赤く染まって夕焼けみたいだった。
 無人の機械の群れが国会議事堂の前庭を地獄へ変えていく。警官隊が、群がる黒い波が蒼子を呑み込んでいく。
 捕まったら暴行罪とか公務執妨害とかになんのかなってのんきに呟いたわたしに、お前は黙って笑っていた。

蒼子を映し出していた、一番大きなディスプレイは黒く塗りつぶされたように何も写さない。
 手元にある、薄汚れた大学ノートに書かれた手順に合わせて、わたしはキーボードを叩く。分割されたディスプレイに映った、世界地図の中から無作為に選ばれた放送の電波を乗っ取る。カメラと一緒だ。複雑なものほど、壊れやすく、修復に時間がかかる。この映像はいつまで流れ続けるだろうか。どれだけの人間の目に触れるだろうか。

 何もかも更地に戻そう、もう一度世界を作り直すために

エンターキーを押す。無数の言語に翻訳された安っぽいキャッチコピーみたいなフレーズと一緒に、映像は無数のプラットフォームにアップロードされていく。再生される度にカウンターの数字が小さな音を立てながら上がる。
 網の目のように張り巡らされたネットワークの深くに潜んで、その隙間を縫って広がっていくネットワークを使って蒼子の革命は世界の隅々まで広がっていく。ネットワークの中にいる無数の仲間たちが、映像を、蒼子を生かし続ける。
 どんなに情報が統制されたとしても、この映像は死なない。切り取られてニュースや報道番組に使われ、サンプリングされて音楽の一部になる。広告に差し込まれ、プラットフォームやSNSにアップされるだろう。そのすべてから消え去っても、映像は永遠にネットワークの海の中で増殖しながら漂い続ける。
 呼応するように、誰かが作ったコードが、ネットワークに散らばった個人の傷跡を集めて、映像を再生産していく。誰もが世界のどこかで起きる革命と自分たちの日々に距離なんか少しもないことを暴くように。
 知らない国の知らない言葉で誰かが叫ぶ声が聞こえる。何度でも乗っ取って、何度でも繰り返してやる。
 増殖していく声と、映像と、音と声が最後にはどんなかたちになるのかなんて知らない。蒼子が始めた革命が、ずっと前から続いていた革命が、倒し続けるドミノの先に何があるのかなんてわからない。けれど続いて行くだろう。いつか世界を変えるまで。人々が世界を変えたいと想い続ける限り。
 
段ボールを剥がして、窓を開け放った。夏だ、光があふれていた。
 キーボードを打つ。黒いディスプレイに、次々に文字が浮かび上がり流れていく。
 カメラのシャッターを切った。すべては革命の記録になる。
「壊さなきゃはじまらないよね。無理矢理にでも壊しちゃえば、新しくなるしかないじゃない」
「いいね、壊しちゃおう」
「殺すよ、人をたくさん。世界がかわるために必要なら、殺すよ」
「うん」
「殺そう」
「楽しみだね」
 人間はいつも無責任で残酷だ。だから、どんな絶望からも新しい光を生み出せる。そうだろ、蒼子。

文字数:22585

内容に関するアピール

 「蒼子」は知人から、ZINEを作るから2020年秋の新型コロナ感染症と街の風景を書いてほしいと頼まれて、書きはじめた小説です。
 と言っても、途中で知人から300字程度でいいと言われて、結局、書いていた蒼子を見せることもなく、別の文章を送ることになりました。ただ、そのまま中途半端に終わらせたくなくて完結させ、SF創作講座の最終実作として提出することにしました。
 コロナ禍の中、感染症に触れた小説を提出していいのか迷いました。決めたのは自分の責任ですが、読んでもらった方々に背中を押していただきました。
 登場人物の写真家のわたしと、蒼子はとてつもなく青臭い存在です。でも、こんな人たちもどこかにいるんじゃないかなと思っていていただけたら幸いです。

 本来提出するはずだった落語家と認知症の話は、未完ですが書き続けています。いつか読んでいただける機会があればと思います。

文字数:383

課題提出者一覧