開化の空を飛びましょう

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開化の空を飛びましょう

–空想科学冒険譚 土蜘蛛とキャラメル–

 日本橋から見た筑波嶺つくばねを今は背にして、馬車はただ東に向かっていた。
父上様ちちうえさま、もそっと早く進めましょう」
 手綱を取る男に請願したもとめたのは、年の頃二十歳に足らぬと見える小娘である。ふっさりとした髪は結い上げもせず、頭頂で束ね襟足でまとめたマーガレット。乗っているのは馬車といっても荷車で、娘が身を乗り出している荷台には稲藁いなわらが山と積まれている。おかげで娘の髪にも矢絣やがすりの着物にも藁屑わらくずがまぶされたように付いていたのだが、水戸街道をすれ違う者たちはその姿に目を細め、憧憬さえ抱いた。
 七月も末だから単衣ひとえの着物は綿で、矢羽根模様の織柄おりがらは藍一色。その抑えた色さえも胸下から高く着付けた海老茶袴えびちゃばかまに覆われて、極めて地味な装いである。しかしその地味さこそは、開化の時代を呼吸する者のあかし、女学校に通う者の証だった。若い盛りに紅を飾るでなく学問に専心しているということを示す装い。それはまぶしいような新しさであったし、おりからの夕日に枯れ藁さえ金に輝いて、むしろ若い人間の髪と肌のつややかさを引き立てるごとく見えたのである。
 明治の人々にとって新しさこそは切実なねがいだった。
 もっとも娘の求めに対する返答を耳にしたら、好ましい心持ちは変わったことだろう。父上と呼ばれた御者は振り向きもせず大声で叱り飛ばした。
「何を運んでいると思う。火薬ぞ!!」
 時は明治も三〇年を過ぎ新世紀を迎えたばかりである。欧州では有機化学の発達によってすでにニトログリセリンが合成され、それを暴発しない安全なものに変えた珪藻土ダイナマイトも作られてはいた。しかし国内では火薬といえばいまだ黒色火薬が主流であった。わずかな衝撃にも耐えず爆発する危険な代物である。 
 それなのに、娘は父の重々しい音声おんじょうに逆らった。
「だから揺れない箱に収めてあるのだろ。科学の真理まことを信じろといつも言うは、父上でないか」
 きっぱりとした口調だった。父は不興に感じたのか、しばしの沈黙があったが、ややあってぽつりと言葉を吐いた。
「よう言うた」
 どうしたことだろう。逆らう言葉を耳にしたというのに、父親の頬には笑みが広がっていたのである。
 馬の行く手を見続けながらのつぶやきは背後の娘には聞こえなかったし、喜びの顔も父は娘に見せなかった。けれど次の仕草が、親の心を子に伝えた。
 馬体に小さく鞭が加えられた。
 それを合図に馬は解き放たれたように猛り、走り出した。馬みずからが求める速度を取り戻し、力強く駆けだしたのである。それまで馬の制動に気を配って前しか見ていなかった父親は、大きく後ろを振り返った。
「よく言った、美晴みはる。おまえの持参しおった箱は、確かに大したものであったな」
 我が子が言い立てた〈科学のまこと〉という言葉。それは父の信念だったのである。揺れ弾む荷車の藁から、布の覆いが露出した。布の下には頑丈な金属の箱が据えられている。中には金輪を幾重にも重ねた中に吊った革袋があり、革袋には濃い麦芽糖水飴が満たされている。革袋の姿勢角度を金輪の範囲固定器ジャイロ・スコープの力で安定させた上に、残るわずかな振動も高分子体である水飴で吸収するのだ。水飴の中には黒色火薬を収め密栓した容器が入っているという仕掛けだった。箱の他に長銃の布包みもあり、剣呑けんのんな積荷を見とがめられぬよう藁で隠していたのだが、いまや日没が近づいて人目を気にする時は過ぎた。
「そうだべ。女学校で作ったのだものよぉ」
 ミハルと呼ばれた娘は激しく揺れる荷台で舌を噛まないことばかり気をつけたから、ひどく訛った。
 訛ったからこそ声はまっすぐ、誇らしく発せられた。
「土蜘蛛退治、してやるべえ」

 土蜘蛛の名は、日本最古の一書『日本書紀』に記されている。その伝承の場に残る『常陸風土記ひたちふどき』には更に詳しい。
 古代より常陸の国といわれた地は、明治四年の廃藩置県当初には様々な小藩を受け継ぐ県名を分け与えられたものの、同八年には茨城という名で統一された。土地の者たちは新政府のご威光とともにそれを受け入れたものの、思惑が外れたと驚く者は多く、嘆く者さえあった。
 
 嘆く理由はふたつ。

 一つは徳川御三家であった水戸藩の名が選ばれなかったことである。発令のその時まで、新県名は水戸県になるだろうと思われていたのだ。思惑が外れた理由を人々は取り沙汰した。幕末には尊皇攘夷の急先鋒であった水戸藩だが、維新時には藩内で内紛を繰り返した、それゆえ明治政府に貢献を認められず水戸県とされなかったのだと推量する者は多かった。新政府に送るべき秀才の多くが血で血を洗う闘争に落命していたことは後代まで嘆きの種となった。
 そして今一つは、茨城という名を冠されたことである。茨城という名は天平時代に建立された常陸国分寺が茨城寺と称されたことから選ばれたと公には布されたが、そもそもが大和朝廷に反逆した者たちの砦に由来する名であった。
 現代に残る本紀『日本書紀』は、朝廷に逆らう凶賊の群れを茨で退治したと記す。しかし時の権力者に認められなかった稗史はいしの記述は異なる。『常陸風土記ひたちふどき』の異本や土地に残る口伝くでんの内容は異なっているのである。そこでは生え茂る茨を使いこなし朝廷軍との攻防に利用したのは外来の朝廷軍ではなく、土着の側であると主張している。その中で常人の出入りを拒む茨の森に砦を築き地下に隠れ住んで朝廷に仇なしたと伝えられる存在こそが〈土蜘蛛〉と記されているのだった。
 旧記異本の一条はくのごとくである。

――― 茨城のこおり。東は鹿島郡、南は佐礼され流海うみ、西は筑波山、北は那珂郡なり。古老曰く、「昔、つちくもあり。あまねく土窟を掘りて穴に住む。人来ればうばらかくる。狼の性、梟の情にして鼠のごとくかすめ盗む。茨をちて城を造りき。国の中を横しまに行き、騎兵うまのりいくさをも大いに掠め殺しき。いよいよ人にこしらへゆること無くめぐりしが、水りてことごとに絶ゆ。死にあらく。」となむ。―――

 昔、土蜘蛛つちくもあり。
 
狼のごとく群れなし猛禽のごとく冷酷に獲物を狙い、鼠のごとく忍び、横様に移動する。人間に情けを抱かず殺しほふる。軍隊さえ土蜘蛛を平定できず、しかし水に溺れ死んだ。死ぬときには散り散りになった。そう伝えられる存在こそ土蜘蛛であった。

◇  ◇  ◇

 さやかな満月の夜に、星はまばらだ。月明かりの強さに遥かな恒星の光は消えて、人の目には届かない。人の目に、夜空の色はただ墨流し。けれど天に満ちる光の波動は地に降りそそいで、その振動をとらえる者だけは眠りの中にも輝きを感じていた。地の底にまどろみながら、その輝きのがくを聴いていた。

 ミハルは学生寮の玄関で、板戸をそっと引き開けた。そして戸の先に広がる世界に、つい声をあげた。
「うわあ、こんなに、」われを忘れていたと気づいて声を飲み、
「ねえあゆ龕灯がんどうはいらないみたい」続けた言葉はささやく小声こごえになった。自分たちがここにいることを余人よじんに知られてはならないのだ。
 暗い上がりがまちに腰を下ろして編上靴ブーツを履いていた平岡鮎は、ミハルの言葉に顔を上げ、開け放たれた戸外の景色を見た。
 とたんに鮎の顔は驚きと喜びに包まれた。そしてそれまでぐずくずと手間取っていたのが嘘のように手早く靴紐を締めると弾けるように友に駆け寄った。
 暗い玄関の三和土たたきからの眺望ながめに、鮎もまた嘆息した。
「いいなあ塩は。こんなに光るんだ」
 そう、この夜、女学校の校庭は一面小さな光の粒を敷き詰めたようだった。
 足元を照らす用心に龕灯を持って来たが使う必要は無いだろう。
 桜の花も散り終えて、夜気はひやりとするものの空気は春らしく湿り気を含んで肌にまつわる。霜の降りるかんの時期はとうに過ぎている。それなのに板戸の外では、あたり一面が白く輝いているのだった。霜よりも。雪よりも。
 その輝きは校内の敷地全域に撒かれた曹達ソーダ工業の余剰塩で、除草剤として土に敷かれたばかりである。硬い結晶は月の光を乱反射して地上のさまとも思われないが、今それを見取るのはふたりきりだった。
 今この時、他の寮生たちはとこについている。就寝の時間を過ぎて寮を抜け出すなど舎監に知れたら訓戒されるだろう。それなのにミハルは鮎を夜の散歩に誘ったのである。
 しかも自分は寮長である。
 叱られてもかまわない。もし見つかったら自分が強いて誘ったのだと言って自分だけ懲罰を受けよう。そうミハルは思っていた。
 鮎は絶対に喜ぶはずだからと思っていた。

 校庭に塩が撒かれたのは午後の講義中だった。小高い丘の上にある校内に二台の荷車が入った。坂を上った荷車は馬に引かれていたが、その周りには幾人もの人夫たちが歩んでいた。うずたかい積荷はこもをかけられていたが、それが取り去られると荷は何やら薄黒味を帯びて見える白いもので、人夫たちはそれを柄杓ひしゃくに掬うと校庭に撒き散らした。教室の窓からその様子を眺めた関川美晴ミハルは、白い粒を砂だと思った。最近校庭に雑草が生えるようになったから砂利を被せるのだろうかと。
 この女学校は創立四年目だ。ミハルはこの学校の二期生で三年生になったばかりである。一期生も五年間の就学期間を終えていないから卒業生はまだいない。
 元来この土地は放擲ほうてきされた台地で、棘だらけの野茨ノイバラに覆われていたから人も獣も足を踏み入れない場所だったという。樹木も生えず、人が食うどころか刺で堆肥にもできない茨のとりでであったのは、台地が巨大な花崗岩盤でできており、表土が極めて薄いためである。花崗岩の強い塩基アルカリはほとんど苔さえ寄り付かせないから僅かに堆積した土壌は痩せていて、並みの草は生えないのだと理科の講義で教授された。それを切りひらいて広大な敷地を学校に利用できたのは、最新の機械掘削の賜物おかげである。科学技術の発展で岩盤の下の水脈まで穴を穿うがち、井戸を掘ることが可能になり、未開の地を人の学びとしたのであると生徒たちは知っていた。
 ミハルの入学した年には校庭に草の生えることがなかった。それが昨年からあちこちに緑が顔を出すようになった。今年も冬寒ふゆざむぬるむ前からものの芽があちこちに覗いている。多くの人間が起居する場となって、茨を取り去ったむき出しの表土に種が持ち込まれたのだろう。今年は生徒たちの奉仕作業では手に負えなくなることを見越して砂利を引くのだろうかとミハルは思った。
 窓外に気を取られていたミハルの耳に、頭上から声が降った。
「ああ、始まったようですな」
 英語師範の依田が机の脇に立っていた。高齢で小柄、長い指示棒は杖を兼ねているというのにこの依田先生は机の間を歩いても音を立てない。よそ見をしていたミハルは窓際の自分の席に依田が歩み寄っていたことに気付かなかったのだ。
 黒板に書かれた課題文の訳を終えていなかったミハルは叱責されるかと身構えたが、依田は見上げるミハルの緊張を受け取ると莞爾にっこりと意味ありげな表情かおを返した。
「あれはね、塩です」
 その言葉は最初ミハルの中で意味を結ばなかった。塩を撒き散らして無駄にするなど考えもつかないから、言われた事柄がわからなかったのである。
 女学生たちには祖父の年回りにも見える老師範は体を返すと教壇に上り、
「みなさんがた、」孫ほども年の離れた生徒たちに伝法な口調で呼びかけた。
 そしてひょいと杖で窓を指した。
「もう気に止めている方もおいでだが、さいぜんから外では大勢が働いていますな。あれは草を枯らすための薬剤として塩を撒くのです。放課の時分には仕事も終わろうが、くれぐれも踏まずにお帰りなさい。人の靴に踏み荒らされたではせっかくご寄付いただいたに除草の効き目が薄れようから」
 そしてミハルとは反対の廊下側に目をやり、
「平岡君、塩が除草の効き目あるはなぜか」
 それは説明せよとの求めである。平岡鮎が座る出入り口近くの最前席は学業一位の席次で、鮎は入学以来この場所を動いたことがない。最優等生の鮎なら答えられるだろうと見込まれたのだ。
 鮎は発言する時の定法通り起立し即答した。
「塩が植物を枯らす働きをするのは、浸透圧によって細胞壁を破壊するからです」
「では青菜を漬物にする塩が、なぜ人体には必要なのかの?」
 続いた問いは居並ぶ生徒たちに聞かせるためとも、依田自身が聞きたがっているのだともとれ、興が湧いて尋ねる口調だった。
 鮎はためらう顔をして、うつむき加減にミハルのほうに目を流した。鮎を見守っていたミハルは励ますように頷いてみせた。
 答えがわからない鮎ではない。授業内容からまったく外れた事柄をべらべらと語りだしていいものか不安になっているのだとミハルは友人の内心が手に取るようにわかった。鮎は普段無口だが、それは向学心から見知った事柄を話しだすと人が鼻白むことが多いからだ。明治の御代も四十年になろうとするのに、小娘が学問のこと、特に自然科学のあれこれを楽しそうに語ることは、まだまだ異様に受け取られるのだ。
(大丈夫だよ)ミハルは声を出さずに唇でかたちづくってみせた。ダイジョウブ。
 鮎は親友に小さな笑みを返して顔を上げた。
「長くなりますがよろしいでしようか」
 依田は頷いた。
「塩は体内でナトリウと塩化物に分かれます。塩化物は胃の中で食べ物を腐らせず、かつ溶かす胃酸となり、ナトリウムは腸内で滋養を吸収する働きをします」
 そこまででも良かったのだろうが、鮎は続けた。
「私の知るナトリウムイオンの働きは更にふたつです。ひとつに動物の細胞外液――細胞の外の体液――に含まれ、細胞内外の浸透圧を一定に保ちます。そして今ひとつは、イオン電荷によって全身の神経が感じたことを脳に伝えたり、脳が筋肉を動かすよう伝える働きをいたします。」
 長い弁舌は、後になるほどしっかりと教室中に響き、結ばれた。
「なるほどな。お掛けなさい」
 鮎は一礼して袴をさばき、着席した。
 英語の授業に神経伝達物質としてのナトリウムの働きを聞かされたのだから、ぼうっとした者もいただろうが、
「塩がなければ頭脳も筋肉も働かんのですな。今の説明は、つねの英文講読よりもみなさんがたの身になりましたろう」
 依田はそう評した。そして再開した講義が終えた時には教室を出ていきしなに、
「これからも学識を深められよ」
 そう声をかけて去った。
 鮎はミハルのもとに来て「ありがとう」と、さきほどの小さな励ましに感謝し、「ううん」ミハルは小さく首を振った。
 仲良しの会話はそれだけで良かった。二人は窓外を眺めた。
 ほかの級友もてんでに窓際に集って、
「きれいだねえ。塩をあんなに使い果たすなんて、贅沢なこった」
「寄付って、どんな篤志家だろ。よっぽどの資本家おかねもちだよね」
「早穂子さまじゃない?」
「やっぱり? 自家うちじゃ、塩をほんのちょっとこぼしただけでもったいないことするって怒られますけれど」
「世が世ならお姫様だもの。下々とは違いますのね」
 そんなことをおしゃべりしていた。
 そうして放課の時間になると組担任から塩について話があり、やはり塩は橋本早穂子に繋がる実業家の寄付だと伝えられた。
 ミハルは体を斜めに教卓を見ていたが、視界の隅で(やっぱりね)というように目配せしあったり頷いたりするのが見て取れた。
 続けて担任は依田先生と同じく「塩を踏まぬよう」と念を押したのだが、その時、
「先生」
 声の方を見れば橋本早穂子その人が挙手していた。
「なんでございましょう」
 起立もせず早穂子は発言した。
「あの塩は食用ではございません。食べられもせぬ工業用の安物でございます」
 教室中が耳をすませた。
「特別なお気遣いなど必要ないのです」
 そこには教諭への反発の気配があった。それなのに、
「左様でごさいましょうとも、みなさん気をつけてくださいませ」
 受け流されて「では、今日はここまで」終業しまいにされてしまった
 全校生が塩を避けて帰った。帰宅する通学生たちは校舎から校門までの石畳を踏み、寮生たちは宿舎までの渡り廊下を歩いた。女学校には男子教育の場と違って放課後に軍事教練まがいの体操スポーツはしない。校庭の塩はそのまま溶けるまで保たれるかと思われた。
 寮の夕餉では一騒動があった。
 配膳中にひどい地震が起こったのである。積み重ねた皿鉢が崩れて何枚か割れた。
 賄い女中に雇われているのは二人で、通いの小母さんと年若い住み込みのトヨという娘である。トヨは生徒たちと同じ年嵩で、ミハルの入学と同じ年に女学校に雇われた。さっぱりとした明るい気性のトヨは生徒たちと馴染んで、昨年からは生徒に混じって家事の授業を聴講している。家事の内容は大半が調理と裁縫だから、トヨはどの生徒よりも熱心に包丁を持ち、寮の食事に工夫していた。
 長い横揺れの地震は、おさまったと思ってもまだゆらゆらと宿舎がゆさぶられているように感じる。瀬戸物を割ったうえに配膳が遅れたことを、トヨは食堂中に届く大声で謝った。
「こったに遅れて申し訳ございません。いましばらくこらえてくんちぇ」
 くんちぇとは、このあたりの小さな子供が使う言い回しである。くださいと頼む意味だ。
 誰も怒らなかったし、近くにいた者は割れた瀬戸物を拾った。
「トヨさん、こちらの片付けはしますから厨房に戻って。ご飯を早くちょうだいしたいわ」
 最上級生の言葉にみなの笑いが続いて、
「そうね。食堂こちらは手がいくつもありますもの」
「ナマズが暴れるのはしょうがない。お気になさらず」
 などと冗談めかす者もいた。平常から地震が多い太平洋岸の土地だから、地底に潜む大鯰おおなまずが暴れて地震を起こすと伝承されているのである。江戸時代には鯰信仰さえあって、鹿島神宮には鯰をおさえる鯰石が残る。清国から学者を招いて地理学を学んでいた徳川光圀公は神宮宮司の制止を押し切って石を掘ろうとしたという。しかし差し渡し一尺、三〇センチにもならぬ棒状の石は六尺の深さまで掘ってもこゆるぎもせず抜くこともできなかったと言い伝えられている。もっとも明治の今、鯰が地震を起こすなどと本気で信じる者はいない。
「鯰も今日の塩に驚いて目を覚ましたのでしょう」
 それはただの軽口だった。
 後になって、その発言に誰もが震え上がることになろうとは、思いもしなかった。
 食事は始まってみればつつがなく、ミハルは塩漬けのさいに箸を使いながら鮎に言った。
「食べられない塩ってあるんだね」
曹達ソーダ工業の余剰物かと思います。ガラスづくりなどに使うようです」
 応じた鮎は言葉を継いだ。
「何がどう違うのか、知りたいなあ。今は食用にならなくとも、きっと未来にはお塩をいくらでも作り出せるようになるんだね」
 未来。
 それを口にする鮎の表情をミハルは幾度となく見ていた。そこにはいつも喜びが滲んでいた。
 それでミハルはこっそりと、消灯後に寮を抜け出そうと誘ったのである。近くで見たからといって食用塩と工業塩の違いが理解できるものではないだろうが、鮎の憧れに付き合ってみたかった。
 寮長だからいつもなら夕食の席につかない者がいれば居室を訪れるのに、地震と秘密の計画に気を取られて、橋本早穂子がいないことにミハルは気付かなかった。

 月の下で、二人は塩を踏んで歩いた。夜着の下で洋靴がシャリシャリと音を立てる。
 鮎は絶対に喜ぶ。そう思って誘ったミハルの考えは当たっていた。
「こんなに塩が作り出せるのですねえ」
 月明かりに輝く地上の美しさは、鮎にとってそれ以上の意味を持っているようだった。
「今はまだ不純物を取り除けないのでしょうけれど、化学工業で食塩がつくれたら、どんなにいいでしょう」
「そうだよねえ、誰も汐汲しおくみしなくて良くなるなんていいな」
 海沿いの土地に住む者なら誰でも、製塩の汐汲み仕事ほど重労働は無いと知っている。
「もっと勉強したい」
 それは本心からの言で、多分自分以外の友人には言わないだろうとミハルは思った。学業成績一位の者が下位の人間に言ったら嫌味になりかねない。
「鮎はさ、科学発明家になりたいのでしょう?」
 ミハルは鮎の夢に付き合いたかった。
「なれたらどんなに、」
 そうつぶやいた鮎は天上の月を見上げた。ミハルには鮎の憧れがわかる。けれどその憧れは鮎だけのものだった。
「ね、あれができたらみんな大騒ぎになるね」
 ミハルは二人の秘密を口にした。何ヶ月も前から、裁縫室でこっそり縫いあげ作っているものがあるのだ。
「ええ。みなさんに乗っていただきたいです」
「うん。みんな怖がって乗らなかったら二人だけで乗ろうね」
「怖いでしょうか」
 鮎はきょとんとした。
「安全に計算していますのに」
「うん。私は鮎が作ったのなら、月にだって行くけどね」
 それから間が空いた。鮎は応えた。
「行きたい」
 満月は見渡す限りの塩平原を輝かせて光は降り注ぎ、小さな二人の遠い憧れと、焦燥とを包んだ。二人はまったく違う心を持っているのに、それでもなにかがぴったりと一緒なのだと思えた。
 寮に戻る道すがら鮎が口にした、
「ね、私たち見つかったら叱られますね」
 そんな言葉さえ嬉しそうに響いた。
「そしたらね、すぐ謝っちゃう。厠に行ったらあんまり綺麗だったから出来心ですって言い訳するけど」
「龕灯を用意して厠ですかって言われますよ」
「じゃ、たもとに隠しとく」
 龕灯は古来の照明具である。暗闇に徘徊する野良猫を“がんどねこ”と呼ぶのだが、それはこの龕灯のように目が光り、自在に動くからだ。龕灯は内側を鏡面のように磨いた金属半球の中に、おもりで自在に動くロウソク立てが仕込まれている。簡易なジャイロスコープ構造で、傾けても炎が揺れないが提灯のように畳むことはできない。
まりでも入れたみたいに膨れてる」
「父親ならもっといい懐中灯を持っているけど、ここじゃこれしか無いもん。鮎、あれが完成して暇ができたら改良品作ってよ」
「そうですね、せんに作ったジャイロスコープの箱と同じ技術ですもの。私のはもっと大きくなってしまったけれど。ミハルのお父様はずっと東京市なんですか」
 ミハルの父は明治政府の役人なのである。農商務省害獣課に奉職して長い。
「なんかね、害獣課って世間じゃ野ねずみ退治でもしてるんだろうと思われてるけど違うの。妙な生き物を見つけた話が来るたび日本中を駆けずり回ってるみたい。」
 それでミハルは長期休暇もほとんど帰らないのだ。おかげで寮長を任されるようになったのだとミハルは思っていた。
「北海道に行った時は、石や貝を両手に持って運ぶ二本足の生き物が海胆うにを根こそぎ食うから退治してくれって。正体は海獺ラッコでした。その後もラッコが減ったらウニが昆布を食い尽くしたとか、そんな請願が来るたび現地調査って飛んで行くの。良く海からは古代恐竜の死骸が上がったと連絡が来るけれど、死骸じゃ龍やら海蛇やら分からないと思う。小さい頃はそれこそ地震を起こす鯰の話も、九州で漁師の網にかかった人魚の話も聞かされた。人魚は鹿鳴館で外国人にお披露目したんだなんて」
 幼い時分には父親を、渡辺綱わたなべのつなのように鬼退治したり、水戸光圀公のように平将門の亡霊を一喝して調伏したりする人なのだと思っていた。けれど今はそれらは子供だましのお伽話だと思う。
 狐狸妖怪のような伝説の怪獣たちを退治する話を面白おかしく娘に語った父は、それでいて舶来の最新技術を信奉している。「日本は他国と交わらずとも独自の知識学問を生みはした。だか日本は開国まで螺子ねじひとつ考えつかなんだ。それでは機械のひとつも作れん。絡繰からくり人形がせいぜいじゃ」そんなことを言い、武家の生まれなのに東京の住まいでは刀掛けに洋式銃を置く。ミハルが鮎と親友になったのも父譲りの一冊の本がきっかけだった。
 それはミハルが入学の荷物に忍び込ませた、ジュウル・ヴェルヌ作の『八〇日間世界周遊記』であった。本といっても新聞の連載小説を輸入品のスクラップブックに貼り込んで上製本のように仕立てたもので、表紙の題箋だいせんは手書き、仏語の「Le tour du monde en quatre-vingt jours」ではなく、「Around the World in eighty Days」とインクで記してあるのは、父が原題を知ることがなかったからである。
 ミハルの父は故郷いなかの出来事を知るために創刊以来「いはらき新聞」を取り寄せ続けているのだが、そこにかつて掲載されていたのが黒岩涙香の弟子が翻案したこの連載読み物であった。実際のところそれは涙香の不肖の弟子が師の書棚からかすめ盗んだ英語版をおぼつかぬ語学力で摘まみ、あやふやな部分を勝手な空想で補った代物であった。この翻案は川島忠之介の初訳にも遅れていたから後の翻訳史には残らなかった。それでも読者は胸を熱くし読みふけったのである。
「いもしない大鯰よりさ、ジュウル・ヴェルヌの本にあった事の方がよっぽど本当って気がする」
「わくわくしてたまりませんでしたものね。いえ、今でもたまらない」
 地方紙「いはらき」は、自由民権の啓蒙を目的として創刊された。初代社主関戸覚蔵は旧水戸藩の豪商で苗字帯刀を許された郷士であったが、維新後は在栃木の田中正造とともに国会開設の連判状を明治政府に提出した人物だ。志を共にした自由民権運動家の中には後に『土』を夏目漱石に激賞されることとなる長塚節の父もおり、文人たちの協力も得て新時代の思想を県内全域に届けようと新聞を作ったのである。科学啓蒙の意図があってヴェルヌを掲載したのだ。覚蔵は新聞社経営に私財をなげうち、自家のみならず妻女の実家の土地まで売り払ったという。妻の生家は石岡藩から水戸藩までの五里(二十km)にわたって他人の土地を踏まないと言われた豪農であったが、その家まで傾けて打ち込んだ新聞事業も人手に渡り、新聞発刊は続いたがその方針は変わり続け、空想科学読物の掲載は途絶えた。
「わたくしおばあさんになっても、あのご本を読んだ嬉しさをきっと忘れません。西洋の小説とはこれほど面白いのかと思いました」
 まだ親しくなりきらぬ頃、手作りの本を物珍しがる鮎に貸して、返す時には語り合った。
「びっくりするほど面白かった」
「やっぱりそう思った?」
「ええ。あの最後。日付変更を利用した下り、胸がすくようでしたね」
「そうそれ。あの最後の仕掛けに騙されるのがたまらない。上手なお芝居みたいだった」
 ミハルは世界旅行の魅力と、旅する人間たちの関係が変わり続けてあっと驚く大団円を迎えることを面白がったのだが、鮎の感興は違う点にあった。
「私はね、あれを読んで、地球の大きさがどれほどなのかと堪らなかった。読んでいない方にわかってもらえないのだけがつまらない気がします」
 よほど嬉しかったのだろう、鮎は早口にまくし立てた。
「本当に地球の大きさが思われて。ねえ。私の里は日本で一番、日の出が早いのです。日付変更線を教わって、自分の生まれ故郷が地球で一番先に新しい日が来るのだと知った時、嬉しくてたまりせんでした。ヴェルヌさんに自慢したいくらいに思えます」
 それまで無口な子だと思っていた鮎が、語りたくてたまらないというように話した。銚子近辺は本州一日の出が早い。それを『八〇日間世界周遊記』の作者に自慢したいと語る。鮎の感想は自分のそれと全く違うのに、ミハルは鮎の心持ちが染みるように感じた。
(自分もおばあさんになっても、あの本を覚えてるだろうな)
 それは父の愛読した本を自分が熱中して読み、友が自分よりもその本を愛したから。
 そして今ではその本で読んだあれを作っているから。
 二人はこっそりと寮に帰った。
 校庭には誰もいなくなった。
 誰も?
 人ならぬ影が柔らかな月光を受けて塩の庭を散歩しだしたのだが、誰かというのが人だけを指すのなら、やはり輝く庭には誰もいなかった。
 土の中から眠りを解かれたものだけが、その長い足で光の楽に踊り、蠢いた。
 長い眠りから覚めた喜び。土の中で目覚めの蠢動を繰り返した時には地が震えた。身を縮めてできた洞穴に土が崩落して地上は揺れた。重い土の中でも彼は自由だった。
 乾いたアルカリ土壌に守られて眠っていた生き物、乾眠生物クリプトビオシスの土蜘蛛は、機械の汲み上げた水と体表の神経を中枢に結ぶ塩を人間から与えられて、意識を取り戻したのだった。ナトリウムの刺激で体が動き、思考が動く。この世に残る最後の土蜘蛛は、一匹だけれど満ち足りていた。
 求めるものはただひとつだけ。
 土蜘蛛は空腹だった。

◇  ◇  ◇

 ミハルと鮎が塩の庭を散歩する少し前の時間のことである。寮内ではもう一つ、ささやかな出来事が起こっていた。それはささやかだけれどひとりの心を月のように照らすできごと。そして月と違ってかげることも、月のように消えることもないできごとだった。

 寮内の一番奥に位置する特別室は橋本早穂子の個室である。他の部屋は相部屋だが、特別室はひとりきり。今日の早穂子は食堂にも足を向けず部屋にこもっていた。
 校庭に除草の塩を寄付したのは早穂子の婚約者である。彼は先日来校して校長にそれを申し入れ、それから早穂子と会った。面会室で会った婚約者は塩について話した。実のところ商取引で騙されて掴まされた、食用どころかガラス製造にも使えない粗悪な塩なのだという。本来の事業の金高からすればさしたる痛手ではないものの、外聞が悪いから体のいい処分先として世間に吹聴できる学校を選んだに過ぎないのだ。そう早穂子は打ち明けられている。損切りとして、いわば芥場あくたばとして学校が使われたのだ。それを、校長はじめ教職員は豪奢な寄付とありがたがり生徒は恐れ入りさえしていた。
 今日校内では、午後の間中どこに行ってもあてこするような目配せや、薄笑いとともに自分の名をささやかれることが繰り返された。その挙句、全校生に「塩を踏まぬよう注意するように」と申し渡された。
 世が世ならお姫様。今日もそう言われた。確かに早穂子は旧水戸藩主の縁者である。が、幕末水戸は混乱を極めたし一六代将軍一橋慶喜が大政奉還後は朝敵のような扱いを受けたから、早穂子の家は父祖の代から体面を保つためだけに汲々としてきた。
 早穂子は自分が嘘で固められた場所に閉じ込められていると感じ、堪らなく嫌だった。
 この女学校に入学したのは十二歳。すでに婚約しており相手は帝国大学を卒業した貿易商であった。十六歳年上だが父親のお眼鏡にかなったのも当然の人物で、押し出しよく財を増やし、人をそらさない頭の良さと朗らかさがある。そうして早穂子のわがままをいつも難なく叶えた。早穂子はこの男が立派な人なのだとわかってはいる。多分これ以上の男に出会うことは無いだろうとさえ思う。けれど、
「海外との取引は信用が何よりです。国内でも年若いと侮られることがある。早穂子さんと結婚して徳川将軍の縁続きということになれば、僕の事業は磐石でしょう」
 そんなことを平気で口にする相手がにくらしい。
 婚約者の実家は霞ヶ浦一帯で大農場を営み、横浜から帰省するたびに女学校まで面会に来る。会うのを拒んだことは無いが、会って話が弾むでもない。
 自分の一生は人にうらやまれる恵まれたものかもしれないが、決まりきって退屈で、どれほどわがままを重ねようが不自由なのだと早穂子は感じていた。学内では「早穂子さま」と遠巻きに呼ばれ友達らしい者もいなかった。
 消灯時間近くなると、寮内では室外に出るものはなくなるが、むしろ各室内の話し声は賑やかになる。用事や明日の支度を間に合わせようと慌てる人声ひとごえが早穂子の部屋にも漏れ聞こえる。
 早穂子は今日、他の生徒とひとことも口をきかなかった。早穂子のつらさは、ただ早穂子ひとりのものだった。
 消灯前に眠る気にもなれずただぼんやりと座っていた。 
 そこに、戸を叩く音がした。
「入っていいべか」
 扉越しだがずいぶん大きな、そして聞き慣れない声がした。
「どうぞ?」誰か見当もつかない。けれど人を断る理由もない。
「失礼いたします」
 トヨは早穂子の居室に入り、
晩飯ばんめしはいかがでしょう」そう言った。
 傷病者を例外として居室に食事を運び込むことは禁じられている。けれどトヨはこっそり運んできたのだった。膳の料理は冷めていたが、汁と茶は温めてあった。
「いらないわ、食べとうない」
 即座に言ってしまった早穂子は自分の言葉にはっとして、
「いいえ、ごめんなさいね。あなたは心づくしをしてくれたのに」
 この時、早穂子は使用人にいばるのは恥だと思ったのである。下の者に邪険にするなど卑しい心根だ。人を働かせて得意がる者を早穂子は軽蔑していた。
「ありがとう。でもお茶だけいただけるかしら」
「はい」
 トヨはにこにことして湯呑みを差し出した。
「さっきはひどい言い方をしました。さぞお腹立ちになったでしょう。ごめんなさいね」
「いえいえ」トヨは一層にっこりした。「お召し上がりにならなければ、おれが食おうと思っていました」
 何も包み隠すことのないトヨの言葉に、早穂子は茶を吹きそうになった。
 気が晴れ、声を立てて笑ってしまった。気を許した早穂子は、
「あなたは食いしん坊なのね」
 声には笑みの名残があった。
「はい。いくらでも食うと呆れられます」
 素直に応じる賄い女中。自分より頭一つ大きいのに、子供のようだ。そしてこんなに子供っぽい人が他人の世話をするために身を粉にして働いているのだ。
「ああ。お茶がしみじみとおいしい。あのね、これ差し上げる。貰ってちょうだい。お口に合うといいのだけれど」
 それは婚約者との面会で舶来土産だと贈られた小さな包み。キャラメルの紙箱だった。
「なんだべか」
「西洋のお菓子。キャラメルという飴なのですって」
「食ってええべか(食べていいですか)」
 ひどい訛りようだ。早穂子の家では女の雇い人はかみ女中としも女中に分かれる。ご一新前は更に奥女中がいたという。トヨの口ぶりは下女中のそれで、なるほど飯炊き女なのだと早穂子は思いながら、この人は善い人に違いないとも思った。
 引き出しのように細工した紙箱から四角い粒をつまみ出し、油紙(ワックスペーパー)に包まれたそれをしげしげ見たトヨは、そのままぺろりと舐めた。
「あ、くるんだ紙は剥がしてからね」
「あいやぁ、おれ物知らずで」
 あかぎれのある指で油紙を取り、小さな茶色い立方体を口に入れた途端、その表情が変わった。
 トヨは何度もまばたきした。口を手で覆い、鼻で大きく息を繰り返し、小さく震えだしさえした。
「ごめんなさい。まずいものだった? 嫌ならもう食べなくてよろしいのよ。無理に口に入れてなくてよろしいから」
 よほど口に合わなかったのだろうと早穂子は思った。
 ところがトヨは首をふって、
「いんや、違うのです」そう言うなり早穂子の顔を正面から見据えた。
「おれ、こうたにおいしいもの食ったことねえと思うて。世の中にはこれほど旨いものがあるだなあ。甘くて、いい匂い。舌がとろけるというはこれかと得心がいきました」

トヨはそれほどキャラメルに感激していたが、それを聞いた早穂子も同じほど心を動かされた。
(この人は、自分より上等な人間だ)
 そう強く思ったのである。身分などというものに縛られながらしがみついている自分がつまらない者に思われた。自分に与えられる物を精一杯に受け取って喜び、この歳で身を立てて働き、その上で親切で、人にじゃけんにされても腐らない人間が目の前にいることに打たれた。
 早穂子はトヨに心を許した。

◇  ◇  ◇

 朝もまた、女学校の校庭は一面純白に輝いていた。高台の学校から東の下に広がる海に日が昇るのはまだなのに、あたりは薄明かりにもきらめいている。炊事場の裏木戸を開けたトヨは大息をついた。
いばらの花より白いのう」
 そう、学校の高台を取り囲んで初夏に咲くノイバラの花よりも、輝きは絢爛としていた。春の空は晴天でも薄ぼんやりと青を失っているが、それが地上の美しさを強めてる。
 トヨは女学生たちと年の頃は同じだが、学生寮住み込みのまかない女中である。校内で誰よりも早く起き、炊事場に火をおこして飯炊き釜を仕掛け、これから山羊の乳を絞ろうと屋外に出たのだ。ひとりきりだから、ひとりごちたのは誰に聞かせるつもりもない。ただ広大な輝く景に圧倒されて思いが口をついたのだった。
(今朝は鳥の一羽も鳴かずなんとしたかと思うたが、雀もこの眺めに肝をつぶしたのだろう)
 トヨは輝きの中に一歩踏み出した。
 草履を向けた先は山羊小屋である。山羊の乳は具合の悪い生徒に飲ませる強精の飲料だ。滋養があるものの慣れぬ臭いに嫌う者もあったから、トヨは工夫した。芋飴いもあめで甘味をつけ、肉桂の根にっきのねっこで風味を加えると、舶来品の菓子のようだと女学生たちは好んで飲むようになり、このごろでは壮健な者も山羊の乳を望み、余ることが無くなった。トヨは自分の食への執着が役に立ったと喜びながらも、乳を使って作りたい食べ物が他にあったから、残念に思っていた。
(とまれ、おれの食いしん坊が女学校ここでは役立つ。なによりだ)
 生家さとでは食い意地の張った大女とからかわれたトヨは、今でも家に帰れば親兄弟が心配する。同じ年頃の良家の子女に囲まれて、鈍重な大飯食いと疎まれないかというのである。けれど実際のところ、この女学校に住み込んでから、生徒たちから蔑みを受けた覚えがない。
 令嬢たちはみな自分が恵まれた境遇にあると知っていて、中には高ぶった者もいたが人を傷つける気はないし、大抵はトヨとの境遇の違いに済まなそうにさえする。そして宿直当番の折に目をかけてくれた教職員の依田先生などは他の先生方に口添えをして、実習授業の裁縫と家事の聴講を可能にしてくれた。お針を持つのはどうにも苦手だが、家事という課目はほとんどが調理で、トヨは誰より熱心に包丁を持った。田舎びた煮炊きしか知らなかったトヨは、京や西洋の料理を学ぶ喜びを示したから、指導の先生もトヨを可愛がったし生徒たちは鷹揚に親しんでくれた。おかげで奉公三年目の今では調理器具の扱いが丁寧だと信頼されて、寮の新しい献立を工夫するのを任され、最新器具の揃った調理室を自由に借りることができる。
 勤めは辛いこともあるがそれは当然のこととして、トヨは女学校の中に希望を見出していたのである。

 山羊小屋には黒山羊と白山羊の二頭を飼うのだが、シロの姿しか見えなかった。クロは物陰に隠れると見えないからと小屋のくぐり戸に手をかければ掛け金が外れており、やはりクロはいなかった。トヨは乳が絞れないことを残念に思ったが、驚きはしなかった。ヤギは牛馬と違って勝手にあたりを放浪してしまう生き物なのだ。思いもかけぬ高所に上り詰めて平気でいる。鼻先も器用だから掛け金を外したのだろう。けれど人に慣れていれば遠くには行かないし、この学校は周囲ぐるりは獣の嫌う茨の野だ。腹を減らせばそのうち戻ってくるだろう。今までもそうだった。
(それともこの塩を舐めているか)
 山羊は塩が好きだ。
 かまどの火を気にかけながら、トヨは校庭の端から端まで首を巡らせた。
 そして、白い中に黒い塊があると気づいた。その手前の塩が妙に、赤いことにも。
 赤が散っている。その中に黒い塊がある。
 トヨはそれに向かって走り出した。近づくほどに息が荒くなったのは走ったせいではない。ある予感の震えが身内に湧き上がるのだ。
 予感は的中した。
 黒い塊は山羊だった。周囲は遠目に捉えたよりずっと、血痕が散っている。
 血にまぶれた山羊の体に駆け寄ろうとし、しかしそれがすっかり萎びて命を失っていると目が捉えた瞬間、トヨはぺたりと尻餅をついた。
 この時、親兄弟に大女とからかわれるトヨは小さな子供と変わらなかった。草履が脱げ、着物に塩がこびりついたがそれを意識しなかった。トヨは唇を震わせ、見開いたままの目に涙がせり上がり、ふくらかな頬に流れた。
「クロや、クロやあ、」
 くり返す声はしだいに大きくなった。
 刈った草を納屋に山と蓄え、毎日寮の残菜と共に与えて肥やし、子を産ませて乳を絞ってきたクロを、トヨは可愛らしいとも頼りとも思っていた。
 逃げ隠れしても懐いているから、名を呼んで探すトヨの後ろに回って不意に体を押し付け驚かされた。振り返ると甘えた声でべエと鳴いた。
 そのクロが。

 悲しみにくれるトヨだが、実はこの時幸運に恵まれていた。もしその一瞬の僥倖がなかったら、トヨは黒山羊の隣で山羊と同じ目にあっていたことだろう。
 悲泣の声に誘われるように、山羊の遺骸の陰から這い出し蠢くものがあったのである。
 それは一本の濡れた紐。
 紐は陸貝の身のように緩慢に動くと、カタツムリの大触覚のように立ち上がった。それがもう一本、そしてまた一本と、土中から芽吹くように姿をあらわした。
 黒山羊一体の体液を絞り尽くした妖物は、泣き声の主に向けてぬらぬらと揺れ動きだした。
 しかしその時。
 東のかたで流れる雲が切れ、登る朝日が覗いたのである。塩の平原は斜めの光に屈曲し、眩しく輝いた。
 瞬時にして生きた紐たちは地中に消え失せた。

◇  ◇  ◇

「今朝のご飯はひどかったねえ」
 女学校は昼休みである。寮生たちは昼餉が届くのを待ちかねて包みを開け箸を使った。
「焦げ飯にお醤油かけて食べた。お汁もなくておさいは沢庵ばかり」
「しかもタクアンの皮は切れ残ってつながってた」
 そんな不満に、
「あ、それ私のしわざだ。私は好きなんだけどなあ、おいしいじゃありませんかおこげにおしょうゆ」
 そう言ったのはミハルである。ミハルは常から人の気を引き立てる口を利くことが多いのだが、
「やっぱり天狗のしわざでしょうか」
 そう続ける者があり、いあわせた皆は眉を曇らせた。

 今朝は始業の時間、全校生徒が講堂に集められた。一限目の講義に変えて校長の訓示がなされたのである。
 体操授業にも使う講堂は板敷で、そこに生徒たちは整列した。号令をかけられ全員が礼をし、硬い床板に正座した。
 壇上の学校長が語りかけた。
「おはよう諸君」
 それから始まった訓示は黒山羊のことだった。生徒たちの騒ぎ、ことに寮生たちの動騒は激しかったから緊急集会が開かれたのであった。
 校内で飼育する大動物が夜間に何者かに殺され、あたりは血まみれであったという騒ぎを収めるために、校長は山羊が野犬に襲われたと断言した。
「我が校は開校以前、茨に覆われ鳥獣とりけだものも踏みいるを許さぬ千古未踏の台地、自然の要塞でした。今でも正門に続く一筋の道を除いて茨に囲われ、刺は石垣よりも鉄壁の守りをなしておる。若い女人である諸君を守り育てるに、本校ほど安全な場所は無い。それが証拠に開校以来、校内に不埒者ふらちものの出入は一度もありませんでした。
 しかるに昨夜、野犬が校庭に忍び込んで校内で飼育するヤギを襲いました。
 これは正門の下の土が人の出入りでえぐれて犬めらの出入りを許したためと思われる。そこで本日中に塞ぐ手配をいたしました。
 これより教職員一同は目を配って校内安全強化に努めます。諸君は将来国のいしずえを築く良妻賢母となる国の宝です。
 おそろしい思いをしていると思うが、安心し、かつ注意をしてこれからも勉学に励んでいただきたい。」
 校長はそんなことを警句で飾り立て、長々と語った。要は「学校は安全だが野犬に気をつけろ」と一言で済む。それを数十分にわたり語れるのは学校師範を業とする者の特技といえばいえた。生徒はこれを神妙の態で聴いたが、「良妻賢母となる国の宝」のくだりで蠢きだした。
 生徒にとって、学校長のこの言は決まり文句。長い訓示が終わるという合図だった。痺れを切らす硬い床で、生徒たちは足を崩した。袴姿をいいことにその中で大胆な姿を取る者もあり、それぞれ起立の指示を待ち受けた。
 待ちきれぬ女学生たちの中には、
「犬ですって?」
 ささやく者もあった。
 得体の知れない凶事であったが、校長の長話は効果があったと言うべきだろう。生徒は事件の情報を共有し、それなりに用心する気持ちは残った。
 そして共有した恐怖は噂に転じた。
 山羊を殺すなど犬の仕業しわざのはずが無いというのである。
「熊か猪ならともかく犬なんて」
「狼の群れかもしれません」
「校庭に血を見た方もいらっしゃる。いっそ血吸いコウモリでは」
「どれもこの近辺あたりにはいませんでしょう。ここでは昔から、狸かカワウソが人を化かす話しか聞いたことがない」
 地上に恐るべき肉食獣などいない海辺の平野なのである。それだから、校内のあちこちで噂は同じ結論をかたちづくった。
「……天狗の仕業ではございませんか」
「私も天狗だろうと思うていました」
 同様のささやきが至るところでなされた。
 天狗とは本来、狐狸妖怪以下のくだらぬ凶暴な妖物を指す。山に住み異常な力を持つあやかしで、おごり高ぶって邪念に迷った修験者の成れの果て、精神の暗黒面に堕ちたものと軽蔑されていた。
 しかし女学生たちが口にした天狗とは修験者ではなく、旧時代の悪しき遺物、幕末に尊皇攘夷を唱えた侍たちの成れの果てを指した。
 明治という時代を通じ、北関東一帯でもっとも恐れられ忌み嫌われたといえるのが水戸藩天狗党の残党である。元は高位の武士も加わった天狗党は、徳川幕府瓦解後は凶賊化して乱暴狼藉の限りを尽くし、女子供も構わず強殺したからおよそ人間扱いされなかった。
 なにしろ、夕暮れ野に遊び家に帰ろうとしない幼子おさなごに「天狗が来るぞ」と脅すのに使われたのだから野獣のごとくである。その残党狩りは後々のちのちまで続き、捕らえられた者は切腹を許さぬよう両手を縛り手首が腐ろうとも縄解かれることなく、ことごとく斬首された。

 ミハルたちの教室も例外ではなく、女学生たちは「山羊を襲ったのは天狗」と思い致したのである。
こわらしいこと、山羊が襲われるなんて。トヨさんご飯焦がしたのも無理ない。良くお弁当作れたものねえ。ね、どんな有様だった、鮎さん」
 弁当を食べるそばから通学生にそう向けられた平岡鮎は、
「ええ。恐ろしかったです」
 そればかりで口をつぐんだ。表情かおが痛ましげなうえに普段から無口な鮎に、重ねて事情を尋ねる者はなかった。
 今朝、寮を出て渡り廊下にいた鮎は、校庭から聞こえる悲鳴に駆けつけて泣き崩れるトヨを連れ帰ったのである。炊事場に戻れば飯炊き釜はバチバチと音を立て、飯の炊ける芳香はデンプンを焦がす悪臭に変じ始めていた。鮎はトヨに動かず座っているよう言い含めてかまどの火を落とし、ミハルを呼んで、あり合わせの食膳を整えたのだった。

女学校の寮は朝食前の三十分間が「結髪の時間」と定められている。寮生たちは起床して洗顔や身支度をするが、着物に袴を着付けるよりも時間を要するのは髪であった。
 上級生になると丸髷に結い上げる者も多いが、洋装にも合うと東京で流行のマーガレットが好まれていた。頭頂を膨らませて結い、襟足に小さくたぼを作り、手製のリボンを飾る。髪に逆毛を立てて膨らませるには手間がかかるため、仲の良いもの同士で互いに結いあうのである。
 その時間は賑やかで娘たちのおしゃべりに寮中がさざめくから、トヨの悲鳴を聞きつけても取り立てて気にする者はなかった。どこかの部屋で歓声を上げる者があったのだろうと思われたのである。
 鮎が怪事に気づいたのは、この結髪の時間が手持ち無沙汰だったからだ。鮎は下級生の時と変わらず、真っ直ぐ梳いた髪を二つに分けて三つ編みにし、飾りリボンもせず両肩に垂らしている。椿油も使わずさらりと水髪みずがみにしているから慣れて二分とかからない。この学業優等生の出で立ちは、周りの生徒からも教員たちからも、わずかな時間も惜しんで勉学に励むためと思われているのだが、それは見当違いだった。
 学科の予習は夜のうちに済ませ、鮎は毎朝夢想しているのだった。それは未来への夢であり、遠い憧れを手元に引き寄せるための考案でもあった。
 鮎は科学発明家になりたいのである。学業席次は入学以来首席を通しているが一番好きなのは理科で、女学校に対する不満はひとつ、機械工学が学べないことであった。もっともそれは独学で知識を吸収しようと勉めていたし、理科室や実験室は女学校にないけれど、それに変わる洋裁室と調理室は鮎のものといって良いほど入り浸っていた。
 お針や包丁の腕は人並みだけれど、裁縫教諭もおそるおそる操作するミシンを鮎は自在に扱えた。そしてその足踏み式裁縫機が不調になれば、修理できるのは鮎だけだった。教師たちから信頼されて手出ししたのだが、調理室では生徒たちが慣れない天火オーブンを壊したおりなど、鮎の手にかかって修理どころか改善された。天火の扉は取っ手を石綿でくるんで、うっかり素手で触っても火傷しないようにし、透き通る雲母箔の窓を付けて中を覗けるようにしたのである。
 洋食調理は熱の安定がかなめなのに扉を何度も開けると庫内温度が変わってしまい、膨らんだ蒸し菓子スフレーが萎んだりする。扉を開けずに焼き加減を確認できる覗き窓のついた天火は極めて重宝だった。
「製品化したら売り物になることでしょう」
 教諭の一人はそう賞賛した。東京の師範学校を出たばかりで最先端の流行に詳しい人だから、鮎はなおさら嬉しかった。
 女学校師範のほとんどは進取の気性に富んでいる。伝統を重んじる保守的な教諭であろうと生徒の向学心に応えようとしてくれるものだ。英語の依田先生などは鮎が飛行船や気球の仕組みを知りたいと語ればその解説の洋書を学内図書室に購入してくれた。
 鮎は子供の時分からずっと、空を飛んでみたいのである。飛ぶことができるのだという可能性を教えてくれる書物は、鮎の胸のうちの夢と現実をつないでいた。
 そう思い致すと鮎の胸には希望に満ち、その奥から焦燥が湧く。
 自分がやりとげたいと思うことの遠さが焦れったい。
(もっと勉強したい。けれど今工夫していることにも、もっと時間を注ぎたい)
 寸暇を惜しんで科学を学び新知識を得たい。それなのに今この時、輝く塩平原を渡り廊下からのんびりと眺めている自分は雲を踏むような幸福な思いを味わっている。そしてこのところずっと、学業よりも洋裁室に入り浸ってある実験と工夫にかまけている。
(あれこれと脇道にそれて、自分は科学発明家ものになることができるのだろうか)
 鮎は他人ひとから欲のない人間と言われることが多いが、自分のことをひどい欲張りだと思っている。時間がいくらでも欲しい。希望のぞみばかり大きく、自分はちっぽけだ。
(ミハルは偉いなあ)
 いつも人に気を配るミハルを、鮎は尊敬している。他人のご機嫌を取ることはしない正義漢で学校の決め事に異を唱えることさえあるのに、先生方はミハルをどの生徒より信頼しているのがわかる。昨日の夜の散歩も、もし宿直の先生に見つかったらミハルは私を庇っただろう。自分と違って、人に尽くすことが当たり前だと思っているミハルを、鮎は大好きだ。その人が自分を一番の友人にしていることが鮎は不思議でならなかった。
 今朝の雲行きは雨を呼びそうだ。一雨ひとあめ降れば塩は溶けてしまうだろう。
 そんなことを思って長い渡り廊下を歩いているうちに、せんから聞こえていた叫び声が寮内からの嬌声ではなく悲鳴だと気づいた。しかも校庭の邦楽からだ。それまで見ていなかった朝日と反対の方角に目をやると昨夜は見なかった土塊つちくれのようなものがあった。いや、土などではなかった。
 黒い塊のそばに人がつっぷしている。周りが妙に赤黒い。
 それは黒山羊の亡骸の前に居崩れ、叫び泣くトヨだった。

 廊下から鐘の音が響いた。小使いが鐘を振り歩いている。午後の講義が始まるのである。
 ミハルたちは昼餉を片付け教具を机に並べだした。
「そういえば、早穂子さまはどうしたかしら」
「私知ってる。炊事場に行ってらっしゃるのよ。今朝ね、ご飯のときにしきりにトヨさんを気にしてたけど、休み時間のたんびに行って講義に遅れ遅れなさってるの」
「あの方も他人ひとの心配がおできになるのね」
 厭味いやみを含んだ言葉にミハルはひどいなと思った。
 全校生徒にとって、橋元早穂子は「お家柄のお人」として誰知らぬものなかった。父親が陸軍で高位にあり、ゆくゆくは叙勲して華族になるだろうと噂されているが、それより全校生を萎縮させることには、徳川十六代将軍一橋慶喜の縁者なのである。
 女学校で教育を受ける者ならば、大概「四民平等の新時代」という言葉が好きである。まして旧水戸藩領に育った者は落ちぶれた士族を数多く見知っている。生徒の中には士族の出も多いが、平民よりも天狗を忌み嫌っている。高位の士族であった者ほど先祖の位など何の役にも立たないと身にしみて、「世が世ならお姫様」などと滑稽ナンセンスだと思っていた。
 しかしそれでもなお、徳川の名に畏れ多い気は残っていた。
「早穂子さんはさ、開明的なんだよあれで」ミハルは言った。
「あれで、ね」混ぜっ返され、昼餉を共にする皆が笑った。
 早穂子は立ち居振る舞いも口ぶりも、すべてが権高く大時代的なのである。
「そう悪い人じゃないのは、みんな存じ上げておりますけどね」
「そ、誰だって無くて七癖。もう何年も机並べてるんだから」
 時に冗談めかした意地悪や陰口も生まれてしまうが、女学校の五年間を共に過ごす間柄で、みな気心は知れていた。
 しかしその時。
「あ」
 教室の扉に対して座していた一人が声を出した。その顔つきでわかった。
(間が悪いなあ)
 ミハルが振り返ると案の定、早穂子が戸口に立っていた。
(聞いてなきゃいいけど)
 一歩教室内に入るとたいを返して戸を閉めた早穂子を、ミハルはつい見続けた。
 戸の開け立て一つから席に戻る歩き方まで、無意識なのだろうに他の生徒とはまるで違うのである。この人は背筋を丸めたり戸を後ろざまに閉めるようなことは一生ないのだろうと思わせる。
 ミハルだけでなく室内にいた全員が早穂子の無言の登場に気を飲まれた。歩くさまは天から糸で釣られたようにまっすぐで、こゆるぎもせず悠然ゆったりとしているのに、あたりを薙ぎ払うような鋭さがあった。それは姫様というより武芸者のようで、実際に早穂子は体操の時間に大活躍することが多かった。悠揚迫らぬように見えて、庭球テニスをした時など目の覚めるほど素早く鮮やかな身ごなしをした。
 威風あたりを払うの気に飲まれる中でただひとり、鮎だけが声をかけた。
「早穂子さん、トヨさん元気になりました?」
「ええ、朝よりだいぶ。平岡さんに感謝していらした」
 その言葉に鮎がほっとした顔を見せると、
「わたくしからもお礼を申します」
 早穂子は頭を下げた。やはり背中は丸めない、礼法教授のような辞儀であったけれど、こうべをあげてから発された言葉は教室じゅうに響いた。
「それとは別して、天狗党の奴ばらがこの女学校に押し入るとは思われません。ここには、
 続いた言葉は、礼法教授であれば決して口にしないであろう大言たいげんだった。
一橋徳川家ゆかりのわたくしがおるのですから
 教室じゅうが静まり返ったのと同時に、教諭が教室に来た。
 午後の授業が始まった。
(世の中が本当に新しくなるのはまだ先だ。封建時代の亡霊が生きてるみたい)
 ミハルは思った。けれど自分より、鮎や早穂子の方が過激で開明的なのかもと思った。
(ふたりとも、自分を貫いてるもん)
 自分にできることは何だろうとミハルは思った。

◇  ◇  ◇

「ミハル。洋裁室に来てくれない」
 放課後、鮎はミハルに小声を使った。
「例の準備?」
「そう」
 裁縫室には二人が秘密で作っているものがある。それは秋の女学祭の呼び物にするつもりでまだ他言していない。鮎が主席生徒でミハルが寮長だから、校内であれこれ動いても咎められないのは格好なことだった。

 裁縫室は明るい必要があるから校舎最上階で真南に向いているが、隣接する準備室は雨戸を立てきって暗かった。先に立って板の雨戸を開けようとしたミハルは鮎の声に振り向いた。
「見て。水が写ってる」
 最初意味がわからなかった。それから、
「ホントだ。水だね。空みたいだ」そう言った。
 雨戸の小さな節穴がピンホールの役目をして、壁の上方に屋外の景色を上下逆さまに投影していたのである。学校の台地の下を流れ東の海に流れ込む川と水田が、西に傾きかけた日光を受けて投射されている。淡く青い水色と松林はぼやけて、よくよく見なければそれとわからない。けれど五月の長い夕刻が白壁に結ぶ風景の似姿を、ふたりは暗闇の中でじっと見つめた。
「ねえ、空を飛んだらどんな心持ちがすることでしょう」
「いい眺めだろうね。でも楽しいより怖そう」
「そうですねえ、でも、」鮎は言葉を探して、探り当てられなかった。
 それで、こう言い結んだ。
「飛ばなけりゃわからないことでしょうね、きっと」
 雨戸を開けて準備室に光を入れると、そこには大きな風呂桶ほどのかごがあった。
「裁縫科の先生方にこないだ『あの大笊おおざるは芝居の紙吹雪を入れるのでしょう』って言われた。新劇の舞台で見たって。『女学祭まで秘密です』って答えたけど」
「先生方には明かしてもいいのじゃありませんか?」
「だめだよ鮎。ばれたら止められる。だって、」
 途切れた時間が長かったから、鮎は問いかけた。
「なあに」
「わたしだって、いきなりこれが気球だって聞いたら止めるもの」
 そう。二人が作っていたのは気球だった。
「止められるでしょうか」
「そうだよ恐ろしいことするって思う」
「危なくないように試験を重ねておりますもの」
「うん。それがわかってるから手伝うの」
 そんなことを言いながら、ふたりは篭に糊刷毛のりばけを使い、書道室から貰い受けた反故紙ほごがみを貼り重ねた。
柿渋かきしぶは手に入るの?」
「里は漁師町ですから大丈夫です。船に持ち込む物には良く使うのです」
「鮎の一閑張いっかんばりの箪笥たんすは本当に軽いものねえ」
 一閑張りの箪笥は船箪笥とも言われる。紙を貼り合わせて形作り柿渋を塗って仕上げたものだ。航海の荒波にも耐える頑丈さがありながら子供が軽々持ち上げられるほど軽く、海に放り込んでも水が染み込まない。鮎の計算によれば、二人で作っている気球のゴンドラに必要な強度と耐水性と軽量が得られるはずだった。
「防水のゴム引き布も繋留縄も、船に使う品々を使えました。空を飛ぶって、海の中を行くのと似ているのですね」
「水に潜ると体が軽くなるけど、鳥もあんな感じで空を飛んでるのかな」
「そうだと思います。船に乗って魚の泳ぐ姿を見ると、鳥の飛ぶ姿に似ています」
 鮎は遠くを思いやる目をして、
「初めて船で沖に出ました時。一番驚いたのはトビウオでした」
 そして語りだした。
「船のそばを、水鳥が低く飛ぶのだと思いました。何羽も。でもカモメのように白くなくて、目を凝らしたら銀色のトビウオが、体より大きな胸鰭を広げて波間から飛び上がっているのです。イワシと変わらない、あんな小さな魚が一〇〇メートルも二〇〇メートルも空中を飛ぶのです。信じられませんでした」
 ミハルは「私たちも飛べるといいね」とか「飛ぼうね」と応じようとして、けれど口を閉じた。自分の言おうとした言葉は軽々しくて目の前の人の情熱に失礼な気がしたから。
 ミハルが気球作りの提案を受けて手伝っているのは女学祭の呼び物にしたいからだ。毎年秋に開かれる女学祭は学校一の行事である。生徒の家族以外にも門戸を開き文化芸術学芸の成果を校外の人々に披露するのだ。ミハルは毎年誰よりも張り切って準備し来客をもてなしてきたが、今年が一番喜ばれる演物だしものになると思っていた。
「篭ができたら完成だよね」
「はい。もうすぐです」
「試しに乗って、大丈夫ってわかったら組のみんなに知らせようね
「細かい改善点が必要になると思いますから、みなさんにご披露したら手伝っていただきましょう」
「きっとさ、なぜ秘密にしてたんだって責められるよ、私たち」
「でもきっと驚いて、楽しんで下さると思います」
「きっとね」
 糊が乾くように準備室だけでなく裁縫室全部の窓を開け放っていたから、やがて南に向いたこの室内にも西からの夕日が差して白壁が赤く染まった。
「もう帰らなきゃ、晩ご飯」
「トヨさんも心配ですしね」
 そして片付けと戸締りを始めた。鮎は窓を閉めながら夕日と反対の校庭東側に目を向けた。今朝黒山羊がいた場所だ。
「あれは、」
「え?」ミハルは歩み寄って同じものを見ようとした。「あそこ、ヤギの場所?」
 血を消すために水を撒かれたその場所にはもう塩は無く、西から夕日を受けて地面は陰影が濃かった。わずかな凹凸がこの高い場所からはくっきりと見える。
 窓から見下ろすその場所には、いく筋もの線状痕があった。それはまるで輪回し遊びをしたか、重くて長い綱引き縄を引きずったかという筋目すじめである。人が足を引きずった跡ではないし、荷車の車輪ではああも無軌道な条痕にはならない。
「あの筋なんなの」
 ミハルが言ったのは、鮎なら答えを知っているかという気がしたからだ。何か事情を知っているか、痕跡を見ただけで解き明かしてくれるかと思った。気味が悪い。
「まるで見当がつきません」
 しかし鮎もまた気味悪げにつぶやいた。

 その晩も地震が起こった。寮はひどく揺れて、それなのに次の日ミハルが通学生に「昨日の地震大きかったね」と言うと、気付かなかったと返答された。

◇  ◇  ◇

 その晩からしきりに地震は起こったし、他にもわずかな変事が続いた。
 初夏は雀の子が巣立ちする季節である。学校の軒にはそこかしこに巣が掛けられていて、飛び立つまで雛は一日中かまびすしく餌をねだって鳴きつづける。それが一日にして、鳴き声が絶えた。そして軒下に羽毛の揃いきらぬ小鳥が、ばらばらと転がり落ちていたのである。常であっても巣から誤って落ちるものはある。しかし巣に育つすべてが落ちたということは大風大雨の後でも無いことだった。蛇であれば獲物を丸呑みにするし、鳥を遊び殺す性悪な猫なんぞにできる仕事でもない。
 悪天候によるでなく、野生動物の仕業でもないとすれば、それは人間の非道な悪戯かと思われ、またしても天狗かと囁かれた。天狗党の残党が雛鳥を殺す理由など無い、残酷ながら馬鹿げた殺生である。しかし理解できない凶行で女子供を怯えさせるといえば天狗の所業だと思う生徒も多かった。文明開化のこの世に幕府再建と攘夷を求める狂ったさむらいにふさわしい、見下げ果てた行いではないかと。
 やがてひとりの生徒が恐ろしい化物に襲われたと訴えた。
 夜半に同室者と喧嘩して部屋を飛び出し風呂場で泣いていたところ、人より大きな蜘蛛が這い入り自分に足を伸ばして来たというのである。
「悲しくて声をあげて泣いていたら、竈口かまどから誰やら上って来る音がして、外れた戸から漏れる常夜灯に見えたのは、お寺の鐘ほどもある胴体から何本も足が伸びた大蜘蛛でした。それが、恐ろしくて恐ろしくて声も出ず息も止めておると、ふたたび出て行ってしまいました」
 この訴えは誰も信じるものが無かった。当時の考えで、この年頃の婦人は、感情が昂ぶると異常反応ヒステリーを起こすと信じられていたから尚の事信じられなかった。古典講読講義では常陸風土記を学ぶ。それには土蜘蛛の段があって誰もが知っている怪異な妖物だから、友人たちさえも恐ろしさのあまり錯覚したのだと考えたのである。
 しかし竈口の戸が外れていたのは確かであったから、不埒者が入ったという可能性はあり、生徒たちは怯えた。
 ミハルは寮長としてこの生徒に詳しい事情を聞こうとしたが、友人にも呆れられた生徒は話そうとしない。
「だってミハルさん、私が見たことを――見たと思ってることを――話して信じて下さる?」
 確かに「夜の風呂場に大蜘蛛の化物が出た」と言われて信じることはできそうになかった。まるで父の昔話のようだ。それとも――――父が呼びつけられ銃器を持って駆けつけるような謎の害獣が、深山幽谷でもない土地にいるものなのだろうか。
 そして気づいた。
 この台地は人里の中にありながら、鳥獣とりけだものも踏みいるを許さぬ千古未踏の地だったと。
「信じる。話して。蜘蛛の化物の様子を全部」

 ミハルは寮長として校長室に談判に赴いた。
 それまで学生寮は男子禁制としていて、宿直の教諭も食事は共にするが寝泊りは本校舎でする。小使いも下男も通いにしていたのである。女学校の女子寮なのだ、警備を願いたいと談判した。
 すると学校長は意外な返答をした。
「宿直のほかに、諸君の頼れるものを置く予定です。もう何日も待たせません」
 校内に電話が備え付けられることになったというのである。電話は人ひとりを雇うよりよほど高価で、電話という言葉は誰でも知っていたが使ったことのある者は校内にほとんどいないはずであるのに。
「これからは異状あらば、警察にも即座に連絡が叶いますほどに」談判はそれでしまいとされた
 やがて漏れ伝わったのは、電話を寄付したのはやはり早穂子の婚約者だという噂である。早穂子を守るためなのだろうが、教職員さえ電話に触れたことのない者が大半だった。
「早穂子さんが電話のかけ方を先生方にお教えしていらっしゃるのを見ました」
「やはり早穂子さまくらいなものかしら、電話を使い慣れているのは」
「これからは婚約者いいなづけのおかたとご自由にお話できるのよね」
 この時代、電話料金は年額一律である。通話料は無料だった。全国どの電話機にも繋がるわけではなかったが、何度でも何時間掛けても費用が嵩むことはなかったのである。
「でも政略結婚なのでしょう? ずいぶん年も離れていらっしゃるそうだし」
「あらご存知ない? その方。たいへんな偉丈夫でいらっしゃるのよ。帝大出で海外貿易をなさるのですって」
 偉丈夫とは堂々たる美男という意味である。高貴の家柄と資産、そして妬ましいような婚約者。早穂子に対しての噂はやっかみを含んでいるからこそ、気軽になされた。みな悪口のつもりはないのだ。
 自分とは別の世界に生きるのだと思えるほど恵まれた者に、人は同情しない。
 違う生き物を殺し食って、悔やむ獣がいないように。

 電話が入った日、ミハルは早穂子に掛け方を尋ねた。
 早穂子は「難しいことはありません」そう言いながら事務室前に設えた一畳ほどの通話室に同行した。その道すがら、ミハルは早穂子に何も言うことがなく、
「トヨさんと仲良くなったんですね」そう言ってみた。
「ほんとうに良い方だから」
「トヨさん、みんなからも好かれてますね」
 早穂子は含み笑いをした。
「私とは大違い、でしょう」
「え。」
「私は何をしなくても陰口されるようですし、そのうえ酷いことばかり言いますから」
 そうですねとは言えない。
「みんな、悪口言ってるつもりはないと思うよ」
「ミハルさんはね。あなたも鮎さんも私のことを詮索しない方なのは存じております」
 ミハルはまた返答に困った。
「だからこうして一緒に参ったのです。中には根掘り葉掘りと尋ねる方もいらっしゃるから。聞かなくても知っていることをわざわざ」
「それは、多分、うらやましいから?」
 口ごもるように応じると、
「ごめんなさいね。また困らせることを言ってしまって」
 そうして電話室に入ると、受話器の持ち方、ハンドルの回し方、集音器に口を近づけ過ぎると音が乱れることなどを伝えた。
「掛けてごらんになって。お話を立ち聞きするのは嫌ですからわたくし戻りますけれど」
「あ、もし構わなければいてくれない? 父に聞きたいことがあるだけだから」
 そう言ってもさっさと立ち去るだろうと予想しながら頼んだのだが、
「構わないのでしたら」
 早穂子はそう言って、ミハルが父の勤め先に電話する間辛抱強く立ち会った。のころの電話はほとんどは待ち時間である。交換手に通話先を伝え繋げるのを待つ。相手先が受話器を取れば父を呼び出してもらい、更に長い時間待つ。その挙げ句に、
「はい。ありがとうございました。ではまた」
 父は不在だった。改めて父から掛け直すよう伝言すると言われ、ミハルは受話器を磁石式電話機の掛けがねに戻した。
「早穂子さん、ほんとうに、ごめんなさい!! ご迷惑をおかけしました」
 まったくいい迷惑だったと思う。しかし早穂子は悠揚迫らぬ様子で、
「トヨさんがね、おっしゃってました。調理の講義を聴講できるよう先生方に言ってくださったの、ミハルさんなのでしょう?」
「それは、」
 同い年の賄女中と毎日接して、新しい料理を覚えたいと口にするトヨの様子を先生方に言ったことはある。一緒に料理の実習を受けてもらっても邪魔になる人ではないと思ったから、そうできたら良いのにと言っただけだ。
「トヨさん感謝してらした。ミハルさんはみんなから信頼されて喜ばれることをなさって、羨ましい」
 ミハルはやはり返答できなかった。いつも物怖じせず人に話せるのに。
 自分のがさつさが身にしみた。早穂子さんいい人なんだとも思った。
「ここでお父様をお待ちになるの?」
「はい」
「ではね、」早穂子は廊下を戻って行った。
 その後ろ姿が消えてから、ミハルはひとりごちてみた。
「しんそこ、姫様おひいさまだべやあ」
 それから、あの人が善良なトヨさんを友達にしたのは、とてもいい。そう思った。
 やがて電話の音鐘が鳴った。ミハルは緊張しながら受話器を取ると話しだした。
「お父様、尋ねたいことがあります。多分私の女学校に、お父様の探索していらっしゃる害獣、というか怪獣がいるようなの。日立風土記の土蜘蛛って知ってる? うん、怪我人はいません。被害者は、山羊一頭」
 それが久方ぶりの親子の会話になった。

◇  ◇  ◇

「鮎、私は何日か学校を休みます。父に会ってくる」
 ミハルは切り出した。
 そして言った。
「土蜘蛛がいると思うの。この校内に」
 長距離電話はあまりにも音が悪く、細かい話ができなかった。ミハルの聞き集めた詳細を父に書き送るより直に行って話したほうが良い。それに、
「それでね、鮎のジャイロスコープを貸して」
 それを持っていけばきっと役に立つはずだった。
 土蜘蛛退治の役に。
 ミハルは父に会いに行くと訴え、父も承諾したのである。必要な武器類が何か究明できないから父は東京でミハルを待つと言ってくれた。ミハルは自分の持てる限りの緊張と高揚をもって親友に語りかけたのである。
 しばしの間があり、
「それって、何のこと?」
 鮎はまったくわかっていなかった。土蜘蛛が日立風土記の化物だとは知っている。しかしそれがいるのだといきなり言われては。
「そうだねー」
 ミハルは息を吐いた。そうだ。人の助けになろうなどと思いながら思い込みで突っ走る自分はいつも滑稽でからっぽだ。自分に何ができるかわからないから、できることがあると思うだけで舞い上がってしまうのだ。
 はいそうですかと思う方がおかしかった。親友だからこそ。
 息を吸った。
「私の父はね、農商務省害獣課で、」
 ゆっくりと話そう。鉄道駅までの馬車を雇えるのは明日になるのだから。出発できるのは翌朝なのだから。
「父はほんとうに怪獣退治をしていたの」
 ばかばかしい話。けれど鮎はまったくわからなくても聞こうとしていた。それだけで良かった。
 それから寮の一室では、夜を明かす長い話が続いた。

 今この世に人の知らない生物がどれほどいるだろう。
 表向きの害獣課は田畑山林の害鳥や害獣を制する業務を行っている。日本中から寄せられる有害生物の情報を収集して対策や駆除法を指示する役所である。農は国のもとい、それは重要な仕事ではある。しかし害獣課調査官の職能はそこにない。文明開花の御代となっても未知の生物はいる。むしろ人がその領土を深山幽谷にまで広げ、領海を広げる文明の世こそ、怪生物は人の前に姿をあらわす。遠い未来、地球が深海まで探り尽くされても、恐ろしい力を持ち人間を翻弄する生物は新たに出現し、人を翻弄するだろう。人がそのすべてを知ることはない。
 しかし疫病を媒介する病原菌が蔓延しているならば人に知らせるに敷くはないが、怪獣が人中ひとなかにいると知られては、巻き起こる騒動のほうが被害が大きい。山妖の棲むという山に火を放ち大量の死者を出すことや、人に催眠効果のある臭気を発して酔わせ釣果を巻き上げるカワウソがいると聞きつけて顔を知らない旅人を殺害するようなことが現実に起こる。
 土蜘蛛がいるなどとおおっぴらにしたらたいへんな騒ぎが起こる。閉校沙汰にもなりかねない。
 なんとか秘密裏に退治したい。
 ミハルが自分の父に教え込まれたこととここで見知った事柄を話したあと、鮎は考えを続けた。
「花崗岩に接する土は強いアルカリに傾くのです。おまけにこの台地の上は岩を穿って井戸を掘るまで何千年と乾燥して、以前は茨しか生えなかったのはそのためでした。バラはなにより病害に弱いから、他の草と違って乾燥気味の病原菌バクテリアが少ない土を好むのです。それがこの数年で雑草が生える土地になった。それに、ヤギ小屋は屎尿で酸化しています。風呂場や調理場も水気が多いとバクテリアが増殖して酸化しやすいのです。今まで乾燥した土に眠っていた生物が水と塩を与えられて蘇ったのでしょうか。大量の塩によって蘇ったとすれば、体表に神経系統を持つ陸貝や蛭のような体組織の生物だろうと思われます。それにアリジゴクやヒルやクモのように生物の肉は平らげずに血を吸うのです。それと同じなら、血の匂いや生物の声に惹かれる生き物です。」
「静かにしていれば襲われない?」
「思い込みはいけませんでしょうが、可能性はあると思います。山蛭は一度血を吸うと半年や一年は餌を必要としないそうですから、それで今まで人が襲われなかったのかも。土蜘蛛が巨大な山蛭の群体だとしたら、襲われたのが山羊で良かったということになります」
「あと一年餌が要らないなら、山蛭の化物が良いけど」
「それも思い込みはいけません。それに多分、山蛭だとしても、途轍もなく大きいはずです」
 鮎は言葉を切り、
「あの山羊の周りに残っていた深い筋跡からすれば、そうなります。一番確かなことは、日の目のあるうちは土蜘蛛は出てこないこと。夜が恐ろしいのです」
 破天荒な話は一晩中続いた。

 ミハルの出発は朝早かったから始業まで時間がある。鮎は馬車屋まで見送った。
「気球、もうほんの少しで出来上がるとこなのに」
「そうだけど、それどころではないでしょう」
「一人でしあげてしまう?」
「そうですね。ミハルがいないうちに作り上げて一人で飛んでいるかもしれません」
 冗談めいて話した。
「あ、作るのはいいけど乗るのは待っててね」
「わかってます。当然です。最初はミハルと乗りましょうね」
 そうして別れた。

◇  ◇  ◇

 ミハルが出発した翌日の実習授業で、トヨは鮎に声を掛けた。煮炊きをしながらだから、小声で話し合うのは認められるのだ。
「ミハルさんがいないと寂しそうです」
「そう見えますか」
「はい」
「そうですね、寂しい。おまけに、ミハルとしていた仕事ができなくなってしまったから」
「仕事なら、おれにもできるべか。鮎さんには助けていただいたご恩返しがしたいです」
 いつもだったら鮎は「大丈夫」と言ったかもしれない。気球作りは秘密なのだから。けれど気球はあとほんの少しで仕上がる。綱を篭に取り付けるだけなのだ。ミハルがいなければ仕事が進まないとは言えずに見送ったが、力が要るから一人では結べないのに。そして自分に恩を感じて報いようとしてくれるトヨなら秘密を漏らすことはないだろう。
「明後日は休校日だから明日は仕込みもなくて、おれの仕事も少ないのです」
 その言葉に鮎は乗ってしまった。
「それでは」
 それは寂しさの気の迷いもあったのだろう。
「お願いできますか」
 それから秘密を打ち明けた仕草は、内緒話をしあう親密な二人のそれで、放課後の夕餉でもトヨは鮎とばかり話した。
 鮎は気球の仕上げに夢中だから気付かなかったし、トヨもその大揚な気立てで気付かなかった。二人の話の中身を聞くことなく、ただその様子を凝視するみつめる早穂子がいることに。
 早穂子の目には、いつもミハルと一緒にいる鮎が、そのミハルがいなくなるとトヨと過ごしていると映ってしまったのだった。

 気球の仕上げは、球皮に縫い付けた繋留綱を篭に結ぶのである。
「ここはもやい結びにするのです。もしもの時には解けるように」
 繋留の縄は張力ばかりを計算していたから固く、一人では結べない。どれほど力が入っても解けず、しかし解こうとすれば一人で解けるようにしなければならない。遠くまで飛ぶつもりはないが、万が一気球が流され篭が高い木に引っかかってしまった場合には籠を落として綱に身を預けることさえあるからだ。
 力を合わせるために号令をかけながら縄を結んでいると、ふざけた遊びをしている気になって二人は顔を真っ赤にしながら笑いあった。笑い声を上げたちょうどその時、
 ガタン
 
不意に廊下の方で音がした。
「誰?」
 大きく問いかけても誰も答えない。
「廊下の戸棚で何か倒れたでしょうか」
 廊下には洗い張りの板が並び、火熨斗アイロン台などが戸棚に並ぶ。ごたついているからいかにも倒れそうだ。鮎はほっとして、
「そうね。ここは一階じゃないのだから、怪しい者など来ませんね」
 来ていた。
 戸の影には早穂子が隠れて聞き耳を立てていたのだ。しかしトヨと鮎は気づきもしなかった。
(何をしているんだろう。自分は)
 そうっとしゃがみこんで、早穂子は唇を噛んだ。見つからなかった安心と、惨めさで。
 こそこそと人の秘密を盗み聴くなど、もし奉公人にされたら泣いて謝られようと暇を出すに決まっている。そんな卑しい心根の人間は嫌いだから。
 それなのに。
(私は今こそ自分が嫌いになった)
 憎かった。自分が憎いから鮎を妬んだ。
「結び終えたらこれを膨らましてみたいけれど、いい場所はないものかしら」
「どんな場所がいいのですか」
「火を焚いて、その熱で膨らますのです。外で、屋根があって、人目がないところが良い」「でしたら裏のあずまはいかがでしょう」
 明日は日曜日。まず校舎裏のあずまやに人は来ない。そこは倉庫に入れるほどでない大八車なぞを雨が当たらぬように置くだけの場所だ。
「それはいいですね、天井も頑丈で壁がない。絶好です」
 早穂子はそれを聴いて、そうっとその場を離れた。
 けれど明日、あずまやに行ってしまうだろう。
 早穂子は自分を止められなかった。
 
 日曜日の昼下がり。鮎とトヨは校舎裏で焚き火をしていた。火の上に筒状布をかざし、気球の開口部に当てる。
 しばらくの間何も起こらない。それが、ある時を過ぎると気球はいきなり膨らみを持ちその先端から浮かび始める。
 気球といっても鮎が設計したのは球形ではない。縫いやすいようにしたから、膨らむと横から見ると逆三角形になる。頭頂が三角形の底辺になる形で、排気口はその頭頂部の真ん中にした。膨らみ切らぬうちは排気口の綱の重さで逆三角形の中央が垂れ、狐や猫の顔のような形に見える。
「大きなかわいい風船だの。耳がある」
 トヨの言葉はあどけない。
 鮎は空気を送る間、気球の操作法を話した。篭の中で体を移動させて進む方角を変えたり、排気口の綱を引っ張って開き熱気を逃して高度を下げる。
 その話を、早穂子は聞けなかった。校舎の中からそうっと遠目に見ていたから。盗み聞きする自分も卑しくて嫌だったけれど、盗み見して何を言っているのかと、そして何を笑い合うのかと思う自分が嫌だった。
 嫌で堪らなかった。
 だから気球実験のあと、トヨが仕事に戻り鮎が焚き火を消すのに桶の水が足りず、もう一度水を汲みに姿を消した時も自分を止められなかった。
 水場は遠い。早穂子は一さんに駆けて座敷草履のまま校舎裏に行き、そして、焚き火の残りを火箸で挟むと気球の篭に放り込んだのである。それから後ろも見ずに逃げた。

 鮎が戻ったとき、紙製の篭は煙を上げていた。底の角が小さな炎を上げていた。炎は桶一杯の水で消えたけれど、焦げて穴が空いてしまったから、鮎は泣いた。
 泣きながら排気口を開けて気球をしぼませ、泣きながらすべてを片付けた。
 片付け終えても泣いていた。

◇  ◇  ◇

 ミハルが父とともに戻った時、鮎は喜んで迎えてくれるとしか思っていなかったから、その様子に仰天した。自分はそれまで何年も父を嘘吐きだとさえ思っていたのに再び尊敬の気持ちを取り戻し、危険な生物を退治してみせると意気込んでいたのに、鮎は自分の顔を見るなりどうにも申し訳ないと言い出したのである。
 そして無残な気球の篭を見せられた。
「もう一度つくればいいよ。できてたんでしょ」
 気を引き立てたかったのに、その明るい言葉を聞くなり鮎は泣き出した。ミハルにとって気球は一番大切なものではなかった。それが伝わってしまった。ミハルは篭の焦げた穴を見てもがっかりなどしなかったのだから。
「ごめんね。ミハルは付き合ってくれてるだけって、わかってたのに。泣いたりしてごめんなさいね」
 そう言いながら鮎の涙は止まらず、ミハルは友達を失ったように思えた。友達でなくなったわけではない。けれど通じていた大切な部分を断ち切ってしまったのだ。友達と一緒に楽しくてたまらないことをしていたのに、本当は楽しい振りをしていただけだと言ってしまったような気持ち。
(わたしだって、わかってたのに)
 ミハルはどうしていいかわからなかったけれど、篭を直せないかと覗き込んで気づいた。
「でも、この焦げた部分、中から燃えてるよね」
「え。」
熾火おきびがはぜて燃えたんじゃない。中から燃やしてる」
 それは人がわざと燃やしたということだ。

「父上様。私、土蜘蛛退治の前にしなければならないことができました」
 ミハルは校長室脇の面談室に待機する父を、更に待たせる申し入れをした。
「父上に化け物退治は一番大切なお仕事でございましょうが、私にも一番大切なことができたのです」
 父は自分を叱りつけるだろう。そう思ったのに父はミハルの顔を見て、
「友達ぞ?」
 そればかり聞いた。
「左様です」
「待たされるは叶わんが、」

父はなんだかおもしろそうに、
「すべきことがあるなら、さっさとしておいで。日が暮れる」
 そればかり言った。

◇  ◇  ◇

 食堂にはもう寮生たちが集まっていた。日が長くなって、夕餉の時間なのに明るい。
 鮎もぼんやりと隅に座っている
「トヨさん、」
 ミハルは我ながら怖い顔をしているだろうと思った。
「あらお帰りなさい」トヨはニコニコとしている。鮎はトヨに篭の焦げたことを言っていない。手伝ってくれたのにその結果が台無しになったと言いたくなかったから。
「気球の篭を燃やしたのは、トヨさんですか」
 トヨは困惑した。何を言われているかわからない顔だ。
「燃えた?」
 ぽかんとして立つトヨに一番近い卓にいたのは早穂子だったから、早穂子はこの詰問を聞いた。
 そして、
「私です」
 早穂子は起立した。
「私が火種をあの篭に放り込みました」
 そしてミハルではなく鮎の座る席につかつかと進み、
「私が、燃やしたのです」
 そう言った。
「なぜ、早穂子さん」
 親しい友人とは言えないだろうが、早穂子にとっては、鮎はほかの生徒よりは親しめる数少ない同級生だったのに。
「わたくし、鮎さんが羨ましかったのです。黙って知らぬふりをしようと思いましたが、トヨさんに咎が行くことは耐えられません。私が卑劣なことを致したのです。謝って済むことではございませんが、申し訳ございませんでした」
 深々と頭を下げた早穂子はそのまま食堂を出て行った。
「何か、わからないけど、ひどいことされたの?」鮎の近くに座る者が尋ね、
「早穂子さま、このまま自主退学おやめになってしまうのじゃないですか、あの剣幕」
 そんな言葉が続いた。
 ミハルは、鮎に駆け寄りたかったがまず予定通りの言葉を食堂内の全員に言った。
「みなさん、今夜は食事を終えたら講堂に集まってください。全員です。必ず。夜明かしになるかもしれない大ごとがございます。早穂子さんのことではございません」
 それから食事中、鮎の背中を強く撫で続けた。子供を励ます親の仕草で。
 トヨの動転ぶりはひどいものだったのだが、ミハルは鮎を励ますだけで精一杯だった。そして今晩は予定通り、土蜘蛛退治の夜になるはずだった。

◇  ◇  ◇

 講堂に集まった寮生の中に早穂子だけはいず、しかし誰も迎えには行かない。
 寮の個室に危険が及ぶおそれは少ないが、違う心配がある。けれど行けない。
 集めた寮生には化物などとは言わず、凶暴な生物が校内に潜んでいるからと言った。それは嘘ではない。父は講堂から一番遠い敷地に罠を仕掛け、そこに爆薬を仕込んである。
「土蜘蛛は体表に認知神経を分散させておる群体。一箇所手負いにすれば凶暴化するだけだが、全身の体表を一度に傷つければ勝つ」そう父は計画を立てたのである。罠は一晩中鳴き声を立てる夜鳴き鳥で、周りには鶏の血をたっぷりと振りまいた。そして雇った猟師とともに銃をもって潜んでいる。土蜘蛛が来たれば猟銃で木箱を打つ手はずだった。
 すべて任せればいいはずだった。
 それなのに、今ミハルの心配は土蜘蛛のことより大きくなってしまった。
「早穂子さん、なぜあんなことしたべ」
 トヨがしょんぼりしていて、鮎は口もきかない。
 鮎は、自分の中にこれほどの怒りや憎しみがあるのだと初めて知ったのだった。憎くてたまらない。気球が焦げた時の何倍も強い、自分のいいものをすべてもぎ取られるような気持ち。こんな気持ちが自分の中にあることを鮎は知らなかった。
 ただ憧れと悲しみがあった自分はもう戻らない気がする。
 校庭と講堂。そして寮。校内にはそれぞれの心があった。
 そしてもう一所に。

 娘たちの声に引かれて、土蜘蛛は講堂の床下にいたのだった。獲物にしにくい鳥の声より、いつでも狩れるとすでに覚えた人声。縁の下の土をぽこりと盛り上がらせ、ぬらぬらと長い物体は這い出した。いつまでも続く長さで生きた紐は這い出し、分散して、一本一本があたりを舐めるように撫で回した。床板の節穴を探り当てると、紐はそこから這い入り、講堂に忍び込んだ。
 「なぜ来ない?」
 鉄蔵はそうひとりごちた。同一姿勢を続け猟銃を構える腕が痺れだした。
「まさか向こうは水があるだろうに」
 昨夜確認した限りでは校舎の周囲は下水の溝が切ってある。水がある場を土蜘蛛は避けるはずだった。今まで建物内に土蜘蛛が出現したのは風呂場近くといえど竈場だけで、しかし―――
 講堂からの悲鳴が届いた時、ミハルの父は、自分の見込み違いを悟った。
「まさか土蜘蛛を傷つけてはおるまいな」
 静かにして血の匂いを嗅がせなければ土蜘蛛は大人しい。しかし神経系統が体表にむき出しになって認知能力が高い分、傷つけられると群体維持の統合が崩れ、凶暴化するだろう。

 講堂内では退屈した娘達が、尽きせぬおしゃべりや、ひそひそ声で早穂子の陰口を言っていたが、
 ガタリ。
 入口に乱暴に手をかけるらしき音がして、気づいた者は早穂子が寂しさに耐えかねたかと思った。
 しかし。講堂の大きな板戸をガタガタと震わせバタリと外し倒して姿を表したのは―――
 釣鐘型の胴から針金の如き多脚を八方に広げる、まさに脚長蜘蛛アシナガグモの姿。ただし脚は十を下らない。その幾本かは体を支えず大触覚のように前方に伸び、娘たちに向かってきた。
 化物。皆がそう思った。これこそが伝承の怪物、土蜘蛛だとわかった。
 多くの娘たちは声を失い、そのおぞましい姿に息も忘れた。だが、ひとりの生徒は恐怖と興奮のあまり、そばの洋燈ランプを手に取ると、化物に向かって投げつけた。
 大触覚の一本にランプが当たり、油が掛かって火が広がった。触覚をとろとろと火が舐めた。
 大蜘蛛はその刹那、体をひどく収縮させた。脚は針金から太い紐のようになり、うずくまるようにひとつの塊となり焼けただれながら火を消した。
 糖蜜の焦げるような匂いが漂った。乾眠生物は体表を高分子糖トレハロースで覆っていた。
 その慣れ親しんだ匂いがトヨの恐慌の引き金になった。クロを殺した妖物が目の前にいるのだと理解し、トヨは悲鳴を上げた。絶叫は大きく、長く引いた。
 塊に縮んでいた脚が、トヨだけをめがけて一斉に伸びた。
 トヨは土蜘蛛の脚、歩行触覚にまき取られた。暴れ抵抗しても更にまき取られ、宙空に持ち上げられた時、
 曲線を描いてしなる脚たちに、一線の光芒が閃いた。
得たり!! 」
 トヨを巻き取る脚が幾本か切り落とされたのである。
 講堂の壁面に架けられていた薙刀なぎなたを振るって土蜘蛛の脚に切りつけたその人物は、早穂子だった。
下がりゃ妖物!!
 早穂子はこの夜中、講堂の娘らを気にしていたのである。最初の悲鳴の瞬間に走りだし、トヨが適わぬ抵抗をしながら巻き取られるのを目に止めるが早いか、薙刀を手にしていたのだった。
 残る脚は狂気の力でトヨを床に叩きつけると、鐘状体を引きずるように逃げていった。
「トヨさん!!」
  皆は戒めを解かれたようになって、トヨの体を取り囲んだ。切り取られた脚はビクビクと爆ぜるように、トヨの体を離れてもがいている。
 トヨは打ちどころが悪かったか、肩口から血が広がった。ミハルたちが傷口を探し抑えて止血しようと焦るのに、早穂子は薙刀を離さず、荒い息をして、
「下がれなどと言ったが悪かった」
 そう言い放った。
「卑しい妖怪など切り殺してやりたかったに」
 鮎はその次第を見て、言わねばならなかった。食堂で早穂子が、逃げ隠れしても構わないのに敢然と告白し謝罪したように。
「早穂子さん」
 自分も言わねばならない。
「ご立派です。トヨさんをお助けいただいてありがとうございます」
 トヨは痛みでか恐怖でかぐったりとしていたが、
「早穂子さん」
 それだけを言った。
 重々しく走る足音に続いて、男の声がした。
遅かったか
 猟銃を抱えた父は、
「手負いにしてしまったか」そう言った。
 ミハルは自分が父を信じて講堂に連れてきたせいでトヨを傷つけたと思ったから、この言葉に怒りを向けたが、
「どう成敗致しましょう」
 見知らぬ相手に早穂子は言った。
 せねばならぬこと。それは早穂子の言ったとおり、どうすればいいかだった。怒りをぶつけるのは迷い込むこととおなじだった。
「父上、ご指示を」

◇  ◇  ◇

 手負いとなって判断を失った土蜘蛛は、凶暴化している。血を流すトヨがいては、また狙われる。一晩来ないでくれればいいけれど、きっとまた来る。
 それが父の判断だった。
「ここで火を焚き夜明かしすれば、いくらかは獣よけになるが、」
 考え込んでいた鮎が顔を上げた。
「火を焚くのならば」
 そして意を決して、
「気球は使えませんか。裁縫室の熱気球を飛ばして、」それから、早穂子に向いた。
「トヨさんを守ってください。トヨさんを乗せて、あなたに操作していただきます」
 一時の後、講堂の壁沿いに気球は次第に熱い空気をはらんで膨らみ次第に浮いていた。堂内に火鉢を集め焚き火して、その熱気を布筒で気球に送った。繋留綱をほどけば空を飛ぶのだ。飛ぶときに風の音はするけれど、生物の音声では無いから土蜘蛛には意味がない。血の匂いを持つトヨは篭に入れて飛ばしてしまえばいい。ただし運転には知識より運動神経が必要だから、早穂子が乗り合わせるのが一番いい。篭の焦げは絶対に踏んではならないのだ。
 早穂子は夜着のまま引き受けた。
「なに恥ずかしい事がございましょう。他人ひとの命を助くるのに」
 そして、
「あたくしを信じてくれます?」早穂子は言った。「あたくし、しっかりあなたを抱き止めて離しません」
 トヨは気弱く早穂子に視線を向けた。失血で朦朧としているようだ。
「なにがあろうと」早穂子は言い添えた。
 トヨはこくりと、全身を早穂子にもたせ掛けた。
「この季節、風は海に向かいます。この茨の丘を過ぎた川筋には田畑がありますが、狭すぎて間違えが起こりかねない。それを過ぎれば松原ですからいけません。どうにか松原を過ぎたら高度を落として、海に落ちてください」
 鮎の説明に早穂子は決然と言った。
「こころえました。海ですね」
 篭を傾け協力してトヨを乗せたが早穂子はひらりと、裾のはだけるも気にせず飛び乗る勢いで乗り込んだ。
 繋留綱を解くと、気球は浮かび上がった。
 飛ぶというより天に引かれるように上昇する。
皆に見送られ、ゆっくりと海に向かった。
 トヨを抱いたままもうすぐ校外に出ると思った。
 しかし何かが篭を叩いた。
 下を見下ろした早穂子は、
「ひっ」悲鳴を飲み込んだ。
 妖物の足が一本、真っ直ぐに伸び上がり気球の篭を捉えようとしていた。続いて一本、もう一本と。地の上を横に伸びるときほど伸びることができず、限界まで伸び空を切ったが、何本目かの一本が鞭のように弾みをつけてからしなって伸び上がり、篭の底部を叩いた。篭は焼け焦げて側面には穴さえ空いている。そこを狙われたら土蜘蛛は気球に完全に乗り込んでしまうだろう。そして―――命あるただひとりの乗客になってしまうだろう。用具箱にナイフはある。しかし気球のロープを切る用が生じた際のものだから、武器ではない。もし二人の腰掛けるこの高さに土蜘蛛の足が届いたら、早穂子はその心もとない刃物で応戦しなければならないのだ。小柄こづかなりと持って来れば。夜着一枚の早穂子は身一つで乗り込んだことを後悔した。素裸すはだかになろうと薙刀を持つべきだった。空を切って次々落下する土蜘蛛の足はぬらぬらと粘液を滴らせ、そのしたたりが星明かりに光った。
 蜘蛛はただ気球の篭だけを狙っていた。
 早穂子はトヨに何も言わずその友人の体をしっかりと抱いた。
(守ると言ったのに)
 気球が校舎の上を越そうとする。
「これを下げるのはどうするの」
 トヨに聞いて排気綱を開くと、気球は降りた。
 そして、校舎の屋根に土蜘蛛がぶつかった。屋根を足場にしようとしたが、浮力の動きに引きずられ、土蜘蛛の体は屋根をただこすった。棟瓦がバラバラと外れ、地に落ちる。更に落として強く引きずられる。
 土蜘蛛は屋根のおろし金によって気球からはがされ、しかししがみついていた勢いで転落し、轟音が響いた。
 待ち構えていたミハルの父の銃が、土蜘蛛の中心部、胴体を仕留めたのだ。

 ふわふわと飛び続けて、やがて、あたりは薄く白んで来た。夜明けだ。
 早穂子はやっと口をきいた。
「トヨさん、怖い思いをさせましたね」
 トヨは薄目を開けて、
「空に浮くなど、狐狸妖怪よりも怖かろうと思っていましたけんとも、」
 言いさして言葉が途切れた。早穂子は少し待ってから、うながした。
「なあに?」
 それはおだやかで、何であろうとただ聞きたいのだと求めるようだったから、トヨは口を開いた。
「おれはガキと変わんねえのだと思ったのです。この年になっても、」
 それから恥ずかしいことを白状するらしく、声は小さくなった。
「おれは怖いことが好きだぁ」
「あたくしも、好き」即座に応じた声はトヨに対して堂々と、迷いなかった。
 本当に、好き。早穂子は思った。
「今日のこと、言っても誰も信じませんでしょうね」
「そうでしょうか」
「そうよ。わたしも母の夢語ゆめがたりを信じなかったもの」
「それは、早穂子さんのお母様が鹿鳴館でお父上と出会われたお話ですか」
「そう。鹿鳴館では人魚が円舞ワルツを歌っていたなんて」
 信じていないと言いながら、早穂子はその思い出話をトヨにだけは語ったことがあった。大切な人だけに語りたい話だったのだ。
「あの話を覚えていてくれたの?」
「ほんなこと、夢のようでした」
 トヨはそう言って、早穂子の肩に頭をもたせ掛けた。
(あたくしの夢物語は、今)
 早穂子は胸の内に思っていた。自分の一生にこんな冒険はもうないだろう。けれどその何よりも、この肩に掛かる頭の重みと髪の匂いを忘れないに違いない。
(自分を信頼してくれる人と、こうして。)
 早穂子は自分が何も変わっていないと思った。多分今日この日からも自分はわがまま放題にふるまい、人から嫌われると自覚していた。
 けれど自分を信じて一身を預けてくれる人がいるのだ。
 早穂子の体温は出血に弱ったトヨよりも高いのに、トヨに触れるところばかりが熱かった。そこから体中が暖められるようだ。顔と髪をなぶる風が心地良い。足の下には何もなく、茨の野原も尽きて風の音に潮鳴りが混じる。皮膚に、耳に目に鼻に、自分の体すべてに与えられるものすべてが心地よく、それがいつまでも続くといいのにと願いながら、早穂子は着地点を探した。必ず安全に降りてみせる。
 日の出前の薄明かりに、平らかな畑地が見えてきた。
―― この人を守ってみせる。

 その頃ミハルと鮎は走っていた。気球を追いながら女学校の丘を下るうちにミハルばかりが先に進んだので、茨の途切れる丘の下で一度足を止めた。
「最初にあの二人を飛ばしちゃったねー」
 近づく鮎に大きく呼びかけた。気球に初めて乗る日を、親友がどれほど待ち望んでいたかを知っていたから。
 鮎は息を弾ませ追いつき、ひとたび止まった。
「いいのです。かまわない」
 息を整えようと閉じた目を開けると顎をあげて、うっとりと気球を見つめた。
「私たちはこれから何度でも、飛べるのですもの」
 それから二人はふたたび、気球めがけて走りだした。
 朝日の昇る、輝く海に向かって。

文字数:40042

内容に関するアピール

SF創作講座に三年通いました。この最終実作で私は通算実作提出数が一番多い受講生になります。自主提出がほとんどでしたが、それでも全作読んで下さった大森さん、ありがとうございます。

大森さんは三年前、第一回の自主提出作に「驚くほど魅力的」とツイートしてくださったことにはじまり、ひどい出来でも「この一文だけは書けた」と思えた部分があれば必ずそこを指摘してくださった。そして何一ついいところが無いと思いながら提出してしまった時には無視してくださいましたことも、どれほどありがたかったか知れません。

Ⅰ期には申し込みが間に合わなかった(一晩考え込んだら定員一杯になってしまった痛恨!)けれど、Ⅱ期からⅣ期まで全講義と講座後の懇親会すべてに出席できた。毎月半日仕事を休んで茨城の端から上京するのが本当に楽しみでした。Ⅰ期の方々に混じってSF文芸同人誌「Sci-Fire」に加えていただいたことは夢のようでした。

受講生の中で一番古参のSFファンはずっと私でしたから、受賞した受講生に向かっても「私ほど受講料の元をとってる人はいない」と言っていました。高丘哲次さんは「そうでしょうねえ」と呆れながらおっしゃった。高丘さんはⅡ期修了後はⅢ期の間ずっと創作講座応援ラジオを主催なさったのですが、最終回では私がⅣ期も受講すると知って「もう甘木さんは気が済むまでやればいいよ」と言い、ご自分はそのひと月後投稿なさった作品で日本ファンタジー小説大賞を受賞されました。
 執筆意欲に満ちた受講生が次々頭角をあらわすのを見上げ続けましたが、みなさん本当に親切でいらした。
 自分のダメさ以外はすべてが楽しかったです。

Ⅱ期の最終実作は提出と同時に「駄目だ」と確信して、講評では「最終候補作に入れても良かったんだけどSFじゃないから」と言われました。Ⅲ期最終実作は候補作に入りましたが居並ぶ選考委員のほぼ全員が「SFでは無い」とおっしゃり、大森さんは「勝負どころがSFではない」とおっしゃいました。
 私は親切に読んでくださる人が当惑するようなズレたものしか書けないようです。若い頃から何度も、書いたものを読んでくださった見知らぬ人から「泣きました」「この登場人物が好きです」と言われるのに新人賞に応募すると一次も通らない経験をし続けてきましたから「自分は作家を目指すどころか使い物にならないのだ」と思えてなりませんが、それでも書いているのはなぜか自分でもわかりません。

でもだからこそ憧れだけは書ける。そう思ってもいます。時代物を書いたのは二年前の「Sci-Fire」一度きり、明治物を書くのは二度目なのでまったく慣れないながら今回の最終実作はただ憧れの喜びを書きたかった。

ですから自作のアピールなど書けず、言いたいのはただ大森さんへの感謝です。そして読んでくださった皆さま、いつも励ましてくださった受講仲間、お世話いただいたゲンロンの方々、本作に取材協力してくださった地元茨城の方にも重ねて感謝申し上げます。どれほど感謝してもしきれません。

ありがとうございました。

文字数:1262

課題提出者一覧