鏡の盾

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鏡の盾

メドゥーサは、もとはすばらしい美女だったのです。(中略)
 その彼女を、海神ネプトゥーヌスが、ミネルヴァの神殿で辱めたというのです。

彼にさげすまされた若者のひとりが、手を空に差しのべてこう祈った。
 「あの少年も、恋を知りますように! そして、恋する相手を自分のものにはできませんように!」
 この正当な願いを、復讐女神が聞き届けた。

(『変身物語』)

 

   序 ルーヴル

ルーヴル美術館は、無人だった。
 見学者も職員もいない。照明も消えて、薄暗い。
 窓の外は、昼だ。しかし、冬の空から差し込む光は弱い。
 静かな館内に、ただ絵画が飾られ、彫刻が立ち、静止している。
 時間が止まったような空間。

時間の静止を破るように、ふたりの来館者があらわれた。
 車椅子に乗った男と、それを後ろから押す女だ。
 女は、髪と顔ぜんたいをスカーフで覆い、薄暗い室内にもかかわらず、サングラスをしている。年齢は、窺い知れない。
 車椅子の男は、座って服を着た姿でも、痩せて小柄であろうことがわかる。その顔は冷たくととのって、まっすぐ正面を向いていた。
 女は車椅子を押して、静寂を破壊しない速度で、ゆっくりと回廊を進んでいく。
 ふたりがいるのは、シュリ―翼の0階――地上階である。その一角、セーヌ川に面した側の、古代ギリシャの彫刻が展示されているエリアにふたりは入った。
 上半身をあらわにした両腕のない女の像の前で、車椅子を止める。
 「ミロのヴィーナス」――美神アフロディーテの像。
 女はサングラスをしたままで、アフロディーテの姿を見つめる。
 ふたりは何も言葉を発しない。
 ふたたび、世界が静止する。

 

   第一話  運命と意思

時のころを語るならば、かの十年の大戦おおいくさを経てしばらく、巨人族ティターンを倒した三兄弟が、籤引きの結果にしたがって世界を三分したのちのことである。一族がオリュンポス山に居を構え、天空の支配者を自称するようになった末弟がほうぼうの女たち――女神、巨人族ティターン妖精ニンフ、人間の女たちに産ませた子供が地に溢れ、その何人かが十二神に列せられるようになったころ、法と武力によるゼウスの秩序が、山上から広く陸地へと知れわたり、さまざまな生き物や、先住民を従えつつあったころである。

   1.

いつものように、泉の水面に映る大好きな男の子の顔を見つめていると、同い年の女の子がじゃまをしにやって来た。
 ふたりはまだ声変わりも胸のふくらみも目立たない子供だったけれど、男の子はオアシスの皆が認めるきれいな子で、女の子は何かと話題を作ってはかれに声を掛けてくる。大好きな子以外と話すのは煩わしくて、ひとりでいるのに。
 なんでも、昨晩オアシスに到着した三人組が、顔をずっとフードに覆ったままで誰とも話さないで隅のほうにかたまっていて、大人の人たちは、誰も特に構わないようにしているらしい。せっかくの旅人どうしなのだから、仲良くすればいいのにと女の子は主張するけれど、男の子はほうっておくのがいいし、ぼくのこともほうっておいて欲しいと思った。
 それでも強引に引っ張ってこられて、ふたりは全身を隠した三人組のところへやって来た。三人組はもちろん大人で、男の子が見たところ女の人のようだったが、かれは別に興味はなかった。三人の大人も、子供の相手はしたくないようで女の子が声を掛けても何も応えずにいた。無邪気な女の子は顔を見せてくださいとか言って、手前にいた人のフードに手をかけた。唐突すぎて、避けられなかったその人の顔がふたりの前にあらわになる。
 やっぱりその人は女の人だったけど、髪の代わりに頭には無数の蛇が蠢いていて、口には牙が生えていた。そしてその眼の輝きは強く、女の子は目をそらすことができなかった。
 男の子は一瞬、その異形の姿に子供心に惹かれたのだけど、それは、女の眼が見たものを石にする魔力が効く間もない、ほんの一瞬だった。男の子はいつも見ている大好きな男の子の顔を思い浮かべていて、目の前に異形の女がいるのは見えていたけれど、もう、見ていなかった

   *

ゴルゴンの三姉妹といえば、見るもおそろしい呪われた姿に変えられたうえで追放されるという罰を、オリュンポスの法によって与えられた女たちである。長女から順に、名をステンノー、エウリュアレー、そしてメドゥーサといった。
 三人は、流刑地である南の大陸に辿り着いてより、沿岸の集落を点々と彷徨い、追い立てられるように、西へと向かっていた。目指す土地があるわけではない。ただ、どこにも受け入れられなかっただけである。今日もまた――

砂漠に降り注ぐ太陽ヘリオスの光を避けるように被っていたフードを跳ね上げ、三姉妹は背中合わせに立ち尽くしていた。
 周囲には百人を超える男たちが石と化して倒れ、同心円をつくっていた。それらを、牙を剥いて強い眼光で睨む。頭には風にそよいで何匹もの蛇が蠢めいて、陽光を反射してその鱗がきらきらと輝いている。
 男たちは、昨晩野営したオアシスから追ってきた。周囲の人間との接触を避けていたのだが、異国の旅人に遠慮のない子供たちが近づいてきて、メドゥーサと目が合ってしまったのだった。石と化すまで時間はかからなかった。慌てて、荷をまとめてオアシスから離れたものの、女の子の母親が発狂し、父親が仲間たちと武器を手にして追って来たのだ。
 しかし追いついた男たちを待っていたのは、子供と同じ運命であった。
 三姉妹は、その外見を人に見せないように、頭から手先足先までを覆う服をまとい、眼を見せないようにフードを被って、居場所を求めてきた。砂漠の民は厳しい陽光と熱から身を守るために同じような格好をしているので、彼女たちのいでたちも目立たない。そのまま、顔も髪も見せずにいれば、何事も起きなかったかもしれない。しかし人々と接する中で、フードの下から眼を合わせることもなくいるのは困難なことで、ちょっとした油断で石になるものが出てしまう。怪異、妖魔の類と知れれば、自分たちが去るか、相手が集落を丸ごと見捨てるかのどちらかの選択であり、協調の道を探る機会は一度もなかった。彼女たちは、何の縁もない人々を殺すつもりはなかったが、武器を持って襲われれば戦うしか無く、時には数百人の集落を全滅させたこともあった。
 彼女たちの姿を変えたのは、知恵と戦の女神アテナである。復讐心はあるが、無関係のものたちの命を奪いたくはない。とても、復讐どころではない逃亡の日々である。
 命を投げ出す気はない。生きる場所を求めて、だから、今日も西へと向かっていく。

西へ西へと大陸の北岸を移動すれば、やがて、巨人アトラスの支える山脈に至る。遠くにその姿が見えて来た頃には、姉妹たちは、その山の中に隠棲できる場所を探そうという考えに落ち着いてきていた。世界に名を響かせる巨大な山脈である。遠くに見えた威容を目指し、麓にたどり着くまでには十日を要した。岩山も標高の高いところを見れば緑がある。木の実や果実、もしかしたら捕らえられる動物もいるかもしれない。うまくいけば、食料に困らずに、他者と接触せず暮らす場所を得られるかもしれないと希望を持って登り始めた。

登りやすい勾配の獣道を探りながら、山奥に分け入っていこうとする中で、先に気づいたのは長女のステンノーだった。
「これは、動物だけじゃあないね。やはり人間かな。どう思う?」後ろを歩く次女のエウリュアレーに訊く。
「ああ。二本足の足跡だね、これは。大きさも歩幅も、巨人族の足じゃないな、ということは人間かな、メドゥーサ?」
「生き物が生きていける場所ならば、人間はどこでも生きていこうとするのね。巨人族ティターン妖精ニンフも、神々だって、それぞれの属性に応じた限られた場所で生きているのに」
「お前は言うことが賢いね」メドゥーサの思考に感心してステンノーが言う。
「これ、辿って行けば相手に出くわすよ。跡を追っていく? それとも別の道をあたる?」
「わたしは、会ってみたい。姉さんたちは、どう? 避けても、この山中のどこかで鉢合わせるかもしれないでしょ。それを気にするよりは、会ってしまいたい。それに、さっき人間って言ったけど、巨人族の血を引くものかもしれないし、わたしたちのようにオリュンポス以外の血統のものかもしれない」
「相手が巨人族でも、わたしたちと目を合わせれば、たぶん石になるよ? 敵かもしれないし」
「わたしはメドゥーサに賛成だな。いずれ、この山脈に生きるものたちとは、交わらない訳にはいかないなら、会っちまおうよ」
 メドゥーサとエウリュアレーは、長女ステンノーの決断を促す。
「よし、跡をつけていこう。エウリュアレー、この足跡を追っていける?」
「任せて」
「メドゥーサは周囲に気を配ってね。いざという時は、あなたがいちばん強い」
「分かってる」

誰にも、何にも出くわすことなく三人はしばらく山道を往く。やがて人ひとり入るのがせいぜいの、小さな入り口の横穴を発見した。メドゥーサが先頭を買って出て、ステンノー、エウリュアレーと続いていく。踏み固められた地面は、人が、少なくとも二足歩行の生き物が行き来していることが分かる。しばらくは、並んで歩くことができないままだったが、奥に、人が生きてゆける広さの空間があった。壁はむき出しの岩だが、場にそぐわぬ磨かれた鏡が一枚埋め込まれている。
 弱い灯が薄暗く照らすその場所には、床に座る三人の姿があった。三人とも襤褸を着て、白髪が床にとどいて渦を巻くほど長い。老婆と見受けられる。メドゥーサたちが侵入して来たことは分かっているのだろう、そわそわと身を寄せ合い、互いの肩や背に触れたりしているが、何も声は発しない。
 メドゥーサは鏡を見てフードを被り直し、目が合わないようにしてから近づき、三老婆の前に膝をついた。
「わたしはゴルゴン三姉妹の末の妹、メドゥーサと申します。わたしの声は聞こえているでしょうか?」
 真ん中の老婆をフードの隙間から窺うと、顔の中心には二つの空洞があるばかりで、眼球が無かった。老婆は手のひらに歯をのせていた。上顎と下顎に嵌める入れ歯のように、上下の歯が固まっているが、本数が揃っているわけではなく、黄ばんで汚れている。その歯を口の中に押し込み、両手の指を使って嵌め込むと、老婆はようやく声を発した。
「聞こえとる聞こえとる。耳はな、不自由しておらんのだ。じゃが、眼と口はどうにも不自由しておる」
 掠れた小さな声を聞き漏らさないように、メドゥーサは黙って注意深く聞く。
「わしの名はエニューオー、わしの右におるのがペンプレートー、左のがデイノーと言う。グライアイの三姉妹と呼ばれておるよ。ゴルゴンの三姉妹か。お主らのことは幼子だった頃から知っとるし、ここにも人がやってくることはあってな、噂も聞いとる」
「眼は、失われてしまったのですか?」
「持っとるよ、ただし三人で一個じゃ。歯もな、わしが嵌めたこれを、三人で使っておる。話すのも食べるのも一度にはできん、不便なものよ」
 メドゥーサは、右の老婆――デイノーのほうへ頭を向けた。右眼だけが嵌められていて、メドゥーサの顔を避け足のあたりを見ている。左眼はなく正面のエニューオーと同様に空洞だ。メドゥーサが向いたのに慌て、顔を背け両手で隠す。口をもぐもぐさせて何か言おうとするが、歯が無いため、言葉にならない。慌てて眼球を外して土の上に置いたデイノーは、真ん中のエニューオーが外してくれた歯を受け取って、口を開く。
「危ないじゃないか。むやみに人の顔を見ようとするでないよ」
「失礼しました。それでは、わたしたちのことを、本当にご存知なのですね」
「エニューオーが言ったとおりよ。アテナに刃向かって姿を変えられた呪われた三姉妹、まァ、お前さんは勇敢な娘と噂されとるよ」
「それは――お褒めいただき、ありがとうございます」
 老婆は、頭を下げたメドゥーサの言葉には応じず、まず外した眼を、真ん中のエニューオーに渡した。そして、もごもごと歯を外し、こちらはペンプレートーへ渡した。その様子が気になって見てしまいたくなるが、メドゥーサは頭を下げたまま地面を見ている。そこに歯を嵌めたペンプレートーの罵声が飛んできた。
「自惚れるでないよ! 短気で愚かなだけの娘と嗤われとるさ!」
 もっともと言えばもっともな言葉と謙虚に受け止め、メドゥーサはそのままの姿勢で教えを請うた。
「人と見つめ合うと相手を石にしてしまう、この呪いを解く方法は、無いのでしょうか」
 ペンプレートーは歯を外し、エニューオーに戻した。歯と右眼を備えた老婆が答える。
「さて、わしらは魔女ではない、予言者でもない。知らんよ。お前さんがたをそんな姿にした、アテナなり誰なり、オリュンポスの連中に聞くことだね。
 それよりね、気をつけたほうが良い。どこに隠れていようと、追っ手は必ず来るよ。あんたにとっては、見たものが石になるなんてのは理不尽な呪いというものだろうがね、他の者にとっては――ことに、戦好きの若者にとってはね――いいかい、お前さんは武器になる。
 せいぜい、眠りの神ヒュプノスには気をつけるんだね」
 その助言の意味は、メドゥーサも姉たちも理解できなかったが、きっと大事な言葉であるに違いないと、心に刻んだ。

ゴルゴン三姉妹は、グライアイの三老婆の棲まう洞窟から、さらに山を登ったさきに、隠れ棲むのに適した洞窟を見つけそこを根城にして暮らすことにした。時々、グライアイの元を彼女たちの好みそうな柔らかく熟した果実を持って訪ね、もっと下界から老婆たちの元を訪ねて来たものたちからの情報を教えてもらって、追っ手に備えた。
 そうして、さらに十年の月日が経過する。

   2.

女の子が犠牲となったオアシスはその後どうなったか。父親に加勢した男たちはみな砂漠の石となり、残った女たちは老女から若い娘まで母親の狂気に感染し、みな狂って散り散りに去っていった。行方を知るものはいない。
 その、人のいなくなったオアシスに、ただひとり、どこにも行かずに生き残っているものがいた。女の子に引っ張られていったあの少年である。かれは、石にならなかった。
 この地には見られない肌の色と髪の色、さらには水面に反射する光のように変化する瞳の色で、他所から流れてきた者であるだけでなく、人間以外のものの血を引くのであろうことが知れた。じっさい水の精の子であった少年は、名前をナルシスという。
 ナルシスの美貌と華奢な身体は、女からも男からも求められてきたが、誰の求愛もかれの心を動かすことはなかった。だから、女の子が隣で石になっても気にせず、周りの騒動も無視して泉のほとりに戻理、跪いて水面を見つめていたのだった。やがて日が暮れて、まったく人の気配がなくなったことに気づいたナルシスは、さすがに心細くなり声をあげた。
「ねえ、誰か――誰かいないの?」
(いないの)
「みんな、どこへ行ってしまったの?」
(いってしまったの)
 ナルシスの声に、木霊だけが返ってくる。その言葉を聞いて、自分のほかは皆、どこかへいってしまったのだと理解した。
 実は、ナルシスのほかに姿の見えない妖精がその場に残っていた。肉体も自分の言葉も失い、相手の言葉の終わりを鸚鵡がえしにすることしかできない、エコーである。彼女はかつてナルシスを愛していたのだが、他のものたち同様に相手にされず、それでもかれの周りに声の響きだけの存在として離れずにいたのだった。
 他に人がいないことが分かれば、それはそれで幸福である。オアシスには食べられる木の実や果物は豊富にあり、逃げ去った者たちが残した食料の備蓄も十分にあって、しばらくの間、ナルシスは見えないエコーと共に自由に暮らしていた。

三姉妹の訪問によって廃れた幾つものオアシスや集落。貴重な水源や交通の要所であるそれらの場所には、時が経てば旅人が一人二人とやって来て、隊商がやって来て、兵隊がやって来る。ナルシスがひとりで暮らすオアシスも、やがて賑わいを取り戻した。その賑わいと反比例するように、余計な求愛を疎ましく思って逃げ回るナルシスは、泉の片隅でひっそりとひとりで暮らすようになっていった。

   *

やがて、オアシスに若き戦士が訪れる。

男は、人々の集う中にいきなり空から降ってきて周りを驚かせることはしなかったが、しかし炎熱の砂漠を一歩一歩自らの足で歩いて来たわけではなかった。オアシスにほど近い場所に、空から降りて来たのだ。
 荒地に何かが落ちて来た気配があり、そこに戦士の姿がゆっくりと実体化してゆく。頭に被る兜が最後にあらわれ、全身が可視化される。足に履くのは翼あるサンダルで、空を飛翔して移動することができるものだ。兜は全身を透明にして身を隠すことができる。無論、これらの装備は人間の作ったものではない。オリュンポスの若き伝令の神、ヘルメスから授けられた装備である。背中には背嚢と円形の盾を背負っていた。盾の表面は磨き上げられ、鏡面になっている。頭上からの太陽の光を反射して、眩しい。この、アイギスの盾もまたオリュンポスの神々から授けられたものだ。鋳造の役を担ったのは鍛治の神ヘファイストスであり、若者に授けたのは女神アテナである。かれがこの地に降り立つことになったのは理由があるのだが、それを支援し、様々に計らったのもアテナであった。
 若者の名は、ペルセウスという。

姿を現したペルセウスはオアシスに向かって進み、他の旅人たちの中に混じっていった。多くの奴隷を荷役に引き連れた隊商、低く祈りの詠唱を捧げている秘教の巡礼の一団、砂漠の民の女たち、男たち。人々の間をぬって歩くと、旅人をもてなして食べ物を振る舞っているテントがあり、ペルセウスはそこで食事を頼んだ。
 ギリシャ本土に生まれ、エーゲ海の小さな島に育ったペルセウスにとって、周囲の者たちの会話の大半は異国の言葉である。しかし港町でさまざまな民と接してきた彼は、地中海の諸部族の言葉に堪能だった。
 パンと簡単な肉料理を持ってきた砂漠の民の男に、質問を投げかけた。
「君は、このオアシスに住んでいるんだろう。ここは長いのかい?」
「一昨年きたばかりで、長いとは言えないね。住んでいると言っても、時が来れば別の場所へ行く。石の街に住んでいる君たちのようには考えていないよ」
「僕が、石の街から来たって分かる?」
「ああ、その服も荷物の盾も北の――ギリシャのものだろう、分かるよ」
 男は、光り輝く盾の鏡面をまぶしそうに、興味を持って見つめた。足を一歩ずらして、自分が映るような位置に移動すると目を丸くした。自分の顔が、きれいに映っているのに感心したのだろう。この時代の地中海世界において、どこの国の宮殿にある鏡でも、この盾ほどに滑らかに磨かれたものは稀であった。
「君の言うとおり、僕はギリシャから来たんだ。ちょっと、戦うべき相手を追っていてね」
「へえ、聞いてもいいかい?」
「人間ではなく、魔物なんだ。名を告げると君が不幸になるかもしれない。誰か、ここに古くからいる人を知らないかな。魔物を見たことがあるほどに、古くからいるような人」
 男は、声をひそめて聞いた。
「あれかい? さて――ああ、あの子だな。ひとり、泉のすみっこの方にいつもいる奴が生き残りだ。会えば分かるよ」
「なにか、特徴が?」
「きれいな男の子さ」

食事を終えたペルセウスは、教えられた場所へ探しに行った。唯一の生き残りが自分よりも年下であるというのは意外だった。しかも、きれいな男の子だという。
 泉のほとりに行ってみれば、木陰に、たしかに少年が一人だけで佇んでいた。周りには他に、誰もいない。遠目にも、その美しさは眩かった。
 純潔の女神でもあるアテナの支援をいただいての、旅路である。他の旅人のように、夜毎その場で相手を求めるようなことは、男女にかかわらず控えていた。だから、ペルセウスにとって少年は危険だった。同時に、人間たちから孤立している少年を見て、戦士の本能でペルセウスは警戒した。探し求める魔物とは違っても、妖精、妖怪の類かもしれない。近づく前に、背負っていたアイギスの盾を左手に持ち、身を守るようにして慎重に歩を進める。
 障害物は何もない泉のほとりであるが、至近距離に近くまで、少年はペルセウスに気づかなかった。少年がこちらに気づいた。水面を見つめていた顔を上げ、膝をついたまま、ペルセウスの方を見る。
「君は、そこにもいたの――?」
(いたの)
 問われた言葉の意味が分からない。くわえて、山の中でもないのに木霊が響く。
「僕は、このオアシスに着いたばかりだ。君が昔からここにいたというのは本当かい?」
「そうだよ、ずっとここにいて、君だけを見ていただろう? ここは、ずっと静かで君だけがいる素敵なところだったよ」
(君だけがいる素敵なところだったよ)
 ペルセウスには、少年の言っていることが分からない。エコーが余計に混乱させてくる。
「君は、何を言っているんだ?」
 訊ねてから、ペルセウスは相手の少年を顔をよく見た。二重まぶた、長い睫毛、水面の波紋のように色を変える瞳。その両眼はペルセウスを見てはいない、と気づいた。
 見ているのは、盾だ。おもての鏡面、すなわち鏡に映る自分の姿を見ているのではないか。
 危険を承知で、鏡の面を下に盾を地面に置いて、ペルセウスは少年に迫り両肩を掴んだ。顔を近づけて、ようやく少年と目があった。
「僕がわかるか、見てるか。君たちのオアシスを襲った魔物を追って来た」
「だから、なに? ぼくが話したいのは――」
「僕が話したいのは、君だ。名前はペルセウス、君は?」
「ぼくが話したいのは違う。どこへいったの? どこへ隠れたの?」
 地面に組み敷かれた少年は、正面からペルセウスを見返したが、彼にはまったく興味をしめしていなかった。
「魔物を見たか?」
 かろうじて、言葉は通じているようだ。しばらく、言葉と身体をぶつけ合うような押し問答が続いたあと、少年が答えてくれた断片をつないで、ようやくペルセウスは理解できた。
 三人の女が来て、女たちが狂った。男たちが追いかけていった。たぶん石になった。季節がひと回りして西からやって来た旅人が発見した、砂漠に、骨にならずに、肉のまま石になった身体がたくさん転がっていた。ほとんど砂に埋もれていて、何人がその辺りにいるのか分からない。旅人が語るには、西の果てから旅して来たらしい。ほかにもたくさん、石になった人間を見て来た。ぼくはちょっとだけ女の顔を見たけど興味ないからかれの元に戻って、一緒にずっと泉のほとりにいた。ほかの人たちのことは知らない。
 西の果てには、アトラスの山脈がある。目指す先はそこか。
 少年の記憶からも身体からも、これ以上得られるものはなにもないと悟ったペルセウスは、立ち上がり、失意のうちに泉を去ろうとした。アイギスの盾を取り上げて手にすると、少年が恋するものの表情をして寄ってきた。相手は、盾の鏡面に映る自分自身らしい。
 魔物――ゴルゴン三姉妹――を退治するために、相手の目を見ずに戦うための武器としてアテナに授かった盾に、思わぬ従者が釣れてしまった。追い払ってもついてくる。戦力にも、恋の相手にもならないのに。
「教えてもらったとおり、西へ行く。僕について来るなら止めないが、少しは、役に立ってほしいな」
「ぼくたちは、ずっと一緒に旅しよう」
(一緒に旅しよう)

こうして、ペルセウスは少年と姿の見えない妖精を伴い、ともに西を目指すことになった。
 少年を片腕で抱きかかえ、ヘルメスのサンダルで宙に浮く。ふたりは、次のオアシスを目指して飛んだ。

   3.

――眠りの神ヒュプノスには気をつけるんだね

老婆たちの教えを守って警戒を続け、十年を超える月日がたっていた。メドゥーサたち三人は、夜毎に必ず誰か一人は見張りに立つことに決め、満月の夜も新月の夜も変わらず洞窟の外に出て見晴らしの良い岩場の上で寝ずの番を務めていた。
 その夜は、メドゥーサの当番で、セレネの隠れた新月の夜であった。しかし、三姉妹の眼は十分に夜目が利くし、澄み切った空にはシリウスとプロキオンを筆頭に、無数の星々が輝いている。いっぽう、地上は暗闇であった。広大な山脈に、火を焚くすべを持ち合わせているのは老婆たちくらいで、この十年間に山中で遭遇した巨人や妖精はいたが、プロメテウスの恩恵を授かっているものは、皆無だった。
 その地上――眼下に、一瞬、星の瞬きのような光が見えた。
 メドゥーサの眼は、それを見逃さなかった。見えたのは一瞬で、すぐに元の暗闇に戻る。しかし、警戒心を強めたメドゥーサの頭は覚醒していた。
 しばらくして、少し離れた場所で、また光が見えた。今度は一呼吸するほどの時間、光ったままだ。そして、ゆっくりと移動している。やがて、また光は消えた。
(何か、いるな……)
 間違いなかった。かすかに、何者かが立てる音が近づいてくる。土を、あるいは岩場を踏む足音、小石の転がる音。いつもは、この辺りに近づく獣などはいない。何ものかが意思をもって近づいてきているのだ。また、わずかな間の瞬き。その移動する道筋からすると、自分たちが使っている山道を登ってきているようだ。
(洞窟に戻って姉たちを起こすか、それとも自分だけで相手をするか……)
 考えて、メドゥーサが立ち上がった瞬間、また光が見えた。相手も立ち止まっているようだが、その場で光が動いている。
 星のようだと感じて、空の星が金属か何かに反射しているのではないかと気づいた。今や、光は一つではなく、いくつかの光点が見える。その光が、地面を離れて上昇した。相手も自分の存在を認識していると確信する。立ち上がった動きで、分かったのだろう。見張っているつもりが、こちらの居場所も知らせてしまった。姉たちのところに戻る余裕はない。
 上昇してくる相手は、空に浮かび、その影が背後の星を隠した。上から、相手が迫ってくる。剣と盾を構えているのが見てとれた。
 相手の着地の直前、頭を低くし、背中の黄金の翼を広げ青銅の腕を前に出して飛び込んだ。背中の翼は鳥のように飛び回ることはできないが、羽ばたいたり勢いをつけることはできる。相手が突き出してきた右足を、野獣のように噛みつこうとする。頭からの突撃はかわされたが、その足が履いているのが翼あるサンダルと気づいて、青銅の爪でなんとか翼を引きちぎる。
 相手の足にから距離を取り、守りの構えで相手を睨んだ。戦いの意識に覚醒したメドゥーサの眼には、相手の輪郭が明瞭に見て取れた。右手に剣、左手に円形の盾。その盾の表面は磨かれて、メドゥーサの顔が映っている。しかし両手の後ろにあるはずの身体は闇に隠れて見えない。
(サンダルの翼は、ヘルメスのものだ。こいつは――)
「オリュンポスの刺客か? 今さら、隠れ蓑を被っていても無駄ぞ。姿を見せよ」
「我が母はダナエ、父はゼウス。我が名はペルセウス。母を守るためにゴルゴン三姉妹を退治すると誓いし者。その姿、我が獲物ゴルゴンだな」
 ペルセウスは堂々と名乗り、隠れ兜を無効にして姿を見せた。
「ゴルゴンのひとり、メドゥーサ。獲物になる謂れはないぞ。ずいぶんと潤沢に、オリュンポスの支援を受けたものだな。ヘルメスのサンダルに兜。それに、フン、盾はあの女のものか! ゼウスの子を名乗る人間よ、いやアテナの命ずるままに動く人形よ」
 羽ばたきもろとも飛び込んで、一息に間合いを詰める。鏡面の盾をかざしてペルセウスは防御するが押し込まれ、岩場の端に足が掛かった。
「鏡でわたしの視線を避ければ、石にならずにすむとでも思ったか? 至近距離になれば無駄ぞ!」
 ペルセウスが押し返し、また二人は距離をとった。盾の後ろに頭を隠し、メドゥーサとは目を合わせない。顔と上半身は直接見ずに、脚の動きだけを見て捌こうというのだろう。
 砂漠の逃避行を続けていた時は、武器を持った男たちでも勝負にはならなかった。しかし、戦士として訓練を受けた上に神の恩恵も授かるギリシャ人との戦いは、簡単には済まなかった。
 メドゥーサはその身ひとつが武器である。呪われた青銅の腕も黄金の翼も素手の相手であれば有効な武装だったが、剣と盾を構えた優れた戦士を相手に優位に立てるほどではなかった。何よりも最大の武器は彼女の眼にほかならないが、絶対に目を合わせないという敵には効かない。
 ペルセウスも、決め手を欠いていた。実のところ、三姉妹が寝ているところを襲うはずの夜襲だったのだ。起きているゴルゴンは、人間が戦うには手強い。ヘルメスのサンダルの翼を奪われたことで空を使うことはできない。盾は確かに身を守るが、相手を見ないで戦いつづけても討ち取ることは難かしい。しかし、彼は次の一手を待っていた。一人ではないのだ。
 岩場の下から、もうひとり誰かがやって来る足音が聞こえる。ペルセウスと対峙しながらも、メドゥーサは聞き逃さなかった。自分たちと戦う対策をした戦士相手に、二対一ならば手強い。ちょうど、自分の背後が山道につながる方向だ。正面のペルセウスと挟まれる格好になる。
 背後に誰か現れた。ペルセウスから目を離すわけにはいかず、どのような敵かわからない。
(鏡に映せば――)
 メドゥーサは少しずつ位置を変えて回り込もうとする。その動きに合わせてペルセウスも体の向きを変え、盾に背後にやってきたものの姿が映った。
 鏡面に映ったのは、屈強な戦士などではなく、無防備な少年だった。星明かりの下でも、顔の造作の美しさがわかる。夜の闇のなかで、輝いているようにさえ、見えた。
 後ろに気を取られ、油断する隙をペルセウスは狙っていた。盾の後ろに全身を隠し、突っ込んでくる。その動きはメドゥーサの予期するところだった。足捌きで右へ回り込み、翼を広げて蹴り足を踏み込んで飛ぶ。踵で盾を蹴ってその反動でまた宙に浮く。ペルセウスは盾を手から放してしまう。今度は膝を、ペルセウスのがら空きになった顔面に当てて、倒した。
 すぐ横に着地したメドゥーサは、右手を踏みつけて剣を手放させ、ペルセウスに馬乗りになった。頭を両手で押さえつけて、正面から眼を見ようとする。ペルセウスは顔をそむけ、少年に助けを求めようとした。
 少年――ナルシスは転がった盾のところに駆けつけ、鏡面を表にして語りかけた。
「よかった、もう会えなかったらどうしようかと思った。無事だったんだね」
(無事だったんだね)
「無事じゃない! 僕を助け――」
「わたしを見ろ、ペルセウス!」
 メドゥーサは少年は無視して、先に決着をつけることにした。両手の指で、瞼を開かせて見つめ合う。恐怖におののくペルセウスは、至近距離でメドゥーサの眼差しの魔力を浴びて、みるみる石と化していった。
「おい、なんで僕を助けないんだ!」
 死の間際、ペルセウスは母への愛も、アテナへの忠誠も語らず、少年への呪詛を吐きつづけた。その言葉は復讐の女神に届いたかもしれないが、彼は少年の名を知ることもなかった。

――いいかい、お前さんは武器になる

完全に石と化したペルセウスの首を、メドゥーサは手刀で切り落とした。

   4.

空が、白みはじめてきた。山脈の東斜面である。朝は、早い。
 岩場には、石化したペルセウスの首と胴体が転がり、あとから来た少年は鏡の盾に見入っている。
 メドゥーサは、戦いの疲労で座り込み、空の色が変化していくのをしばらく眺めていたが、ようやく、身体を起こして少年のほうを見遣った。
 ペルセウスの同行者ではあったようだが、攻撃の意思はまるでないようだ。ならば、殺さずにすむよう、放っておくのが良いか。そう思ったところで、少年が顔を上げ、メドゥーサのほうを向き、口を開いた。
「かれは、ぼくのものだね」
(ぼくのものだね)
「彼――?」
 少年は、盾を押さえて守ろうとする。
「ぼくの大切な人を、この人は連れ去ろうとしたから、ぼくは追いかけて一緒に旅したんだ」
(一緒に旅したんだ)
 何を言いたいのか、言葉の意味がつかめない。それよりも、おかしな事にメドゥーサは気づいた。少年の目は自分の顔を間違いなく見ているのに、石になることもなく、話しかけてきている。
「おまえ、何ともないのか? 目は、見えるのか?」
 思わず、相手の命の危険も忘れて、一歩、二歩と近づいて、顔をよく見た。陽が昇って明らかになった巻き毛の色は独特で、唇は赤く、瞳の色は陽光を反射して瞬きひとつで色を変える。
「見えるよ!」こちらの言葉が、分からないわけではないらしい。
(見えるよ)
「ぼくは、かれの美しい顔をずっと見ていたいんだ。見えなくなったら、寂しいじゃないか。かれだって、見つめてくれる人がいなかった、寂しいだろう?」
(見つめてくれる人がいなかったら、寂しいだろう?)
 それは、そうだ。姉たち以外の、誰とも目を合わせることなく、合わせた途端に相手が石と化す孤独な生を、生きてきたのだ。だが――
「おまえは、わたしが見えているのだな? わたしを見ていて、死なずに、生きているのだな?」
 思わず、メドゥーサは希望を口にした。自分にも、救いがあったのだと思った。正面から目を合わせて、かれは答えた。
「あなたが、見えているって? 何をいっているのかわからない。ぼくが見ているのは、かれだけだよ、かれが、美しい、愛しいかれだけを――そうさ、ぼくが愛しているのはかれだけだよ!」
(愛しているのはかれだけだよ!)

救いの一瞬は過ぎ、失意が残った。

それでも、生きて、互いの顔を見て、話ができる相手だ。名前くらいは聞いておこうと思った。追い払わない限り、勝手にこの辺りに居着きそうだ。言葉は理解できる少年は、素直に答えた。
「ナルシス。砂漠のオアシスから、かれと一緒にここまで来た」
(と一緒にここまで来た)
「わたしはメドゥーサ。姉二人と暮らしている」
 戦利品の首だけを拾い上げ、胴体は岩場に放置して、洞窟に戻ろうとする。鏡の盾はナルシスが離さない。抱えてしまっては、かれは見えないだろうと思うと、少し可笑しい。後ろからついてくるのを確かめるように振り向くと、太陽が反射して眩しかった。その、完璧に磨かれた鏡面に、オリュンポスの技術の高さを思い知らされるようだ。
 山道を少し下って回り込み、洞窟の入り口まで戻る。姉たちもそろそろ起きてくるはずだ。
「ついて来い。紹介するよ」
 洞窟を入っていく。一番奥に、三人の寝床がある。
「姉さん――」
 声を掛けるが、応答がない。まだ眠っているのか、それともナルシスの存在に気づいて警戒しているのか。
「この子は問題ない。それより敵が来た。返り討ちにしたけど――」
 ペルセウスの首を掲げて、得意げにステンノーとエウリュアレーの寝床に近づく。そこでようやく、異変に気づいた。姉の身体が石になろうとしている。
「姉さん!」
 長女のステンノーの枕元に駆け寄ると、冷たく、固まっている。青銅の手を伸ばして頰に触れても、生き物の柔らかさはまったく無かった。蛇の髪も石になって動かない。
「ステンノー、起きて! どうして!」
 錯乱したメドゥーサが叫んでも、反応はなかった。
 隣のエウリュアレーのほうへ寄る。微かな声が聞こえた。彼女も硬くなっていたが、かろうじて、口を動かすことができた。
「エウリュアレー、まだ生きて……」
 メドゥーサが顔を近づけると、牙を見せながら微かな声で、囁いた。
「急に、身体が石になってしまったんだ。今まで……ずっと三人でいて、お互いの目を見たからって、そんなことはなかったのにね。どうしたんだろうね」
 死を悟っている姉の囁きを、何も言わずに聞いた。
「おまえは動けるんだね。生き続けて――わたしたちだって、あいつらと同じように不死だった……生きて、故郷に帰りたかったね、どんな姿になってもいいから、おまえは生き続け――」
 聞きながら、メドゥーサは、呪われた瞳をいつまでも濡らしつづけた。

幾日を経たのか、気がすむまで洞窟の中で別れの時間をつくったあと、メドゥーサは姉たちの遺体を山中に埋め、ひとりで、故郷で聞いていた死者を弔う詠唱を捧げた。
 ペルセウス――オリュンポスの刺客が来た夜に、すべてが一変してしまった。ナルシスと出会い、姉たちを喪った。ここで暮らしつづける理由はない。エウリュアレーの願いに反することになるかも知れないが、北の大陸を目指すことにした。
 
葬儀を終えると、荷物をまとめ洞窟を後にし、旅装で山道を下っていった。ペルセウスの首を袋に入れて担ぐ。
「ついて来てくれるか?」
 ナルシスが首を縦に振ったので、盾を背負う。ナルシスが手ぶらで後ろからついてくる。鏡面に恋する相手の姿が見えてご機嫌だ。
 途中、別れを告げるために、グライアイの三老婆の棲家に立ち寄った。
「わしらのような年寄りが、三人とも生きとるというのに、嘆かわしいことじゃ」
 三人で一つの眼しか持たない老婆たちは、ゴルゴンの三姉妹と会うときは、その眼を嵌めないようにしてきた。それでも、メドゥーサは頭をすっぽりとフードに隠し、なるべく顔を見ないようにしている。お互いの安全を考えた末の、長年の習慣だった。いま、歯を嵌めて口を開いているのはエニューオーだ。左右の空洞の眼窩はただの顔の窪みにすぎなかったが、そこから涙が流されているように、メドゥーサは錯覚した。
「姉たちは、死なないものと思っていました」
「それが、運命だったのだろうよ」
「そう言われて、納得できるものでは――前の日までは、元気だったのです」
「予言の言葉には、神々ですら逆らえぬ。予言者もまた、発せられた言葉には逆らえぬ。何びとも、さだめられた運命からは逃れられぬのじゃ」
「では、わたしの心――わたしの意思はどうなりますか? 運命に抗おうとしたら」
「その結果もまた、運命の中に取りこまれておる」
 運命について、語り合うために訪れたわけではなかった。老婆の言葉には、いつものように何らかの真実が含まれているのだろうが、それを深く考える余裕が今はなかった。
「この山を、下りていこうと思います。長い間、ありがとうございました」
「出て、何処へ向かうつもりだい?」
「北へ」
「逃げ続けるのも苦しい相手じゃが、追って戦うのはもっと苦しい相手ぞ」
「アテナ、いえ、オリュンポスが――」
「運命がだよ」
「戦うのであれば、わたし自身が武器であると、昔、仰りました」
「そんなことも言うたかのう。それより、連れがおるのか」
 連れ――ナルシスは、いつものように鏡を見つめていた。盾ではなく、洞窟の、岩壁には不釣合に磨かれた鏡だ。老婆には一切興味を示さず、鏡に手をおき、裸の上半身を重ね、恋する相手に夢中だった。
「はい。ペルセウスが連れていたもので、ナルシスと言います。敵ではないので、一緒に旅することにしました」
 エニューオーの腕を、左に座るペンプレートーがひっぱった。歯をよこせということらしい。もぐもぐと口から上下の歯を取り出し、手渡し、もぐもぐと嵌めた。
「人の棲家にやって来て、挨拶もせんとは! 失礼な男じゃ」
「出会ったばかりですが、いつもこうなのです。鏡に映る姿に夢中なのです」
「ちょいと、眼を嵌めるぞ。こっちを見るでないよ」
 メドゥーサに注意してから、ペンプレートーは眼球も嵌めた。その濁った眼で、ナルシスを見た。
「こりゃ、自分に恋しとるな。うん? おい! 一緒に旅すると言うたな。あやつ、お前を見ても平気なのか?」
「はい」老婆に背を向けたままメドゥーサは答えた。「なぜか、わたしと目が合っても、まったく平気で。ペルセウスはゼウスの血を引くと嘯いておりましたが、それでも、石と化すまであっという間でした。なぜ、かれが――」
「血筋は関係ないな。たしかに、お前さんの眼の魔力は、巨人族、神を名乗るものたちには効きが遅い。それでも、この山で会った、誰もが石になっとるだろ。こいつは、お前さんを見ていないよ。目が見えてるのなら、お前さんの姿は目に入っているのだろうがな。見ていないから、石になることもない」
 自分のことを見ていない、というのは、共にした時間が短くても分かっていることだが、それほどに、鏡に映る姿を想う気持ちは強いのだろうか。
「おい、その背中に背負っとるのは何じゃ。鏡か、盾か」
「表面が鏡になっている、盾なのです。ペルセウスがわたしたちと戦うために持っていたもので」
「随分と眩しいじゃないか。そんなもの、ヘファイストスしか作る奴はおらぬな。ふむ、その盾をな、わしらの鏡の向かいの壁に立てかけてみよ」
 ペンプレートーの言葉にしたがって、鏡を置いた。
 すると、老婆たちの鏡に顔を近づけ鏡像の見つめ会っていたナルシスの表情に驚きの色が浮かんだ。
 背後をふり返り、盾のほうを見る。ふらふらと盾へと歩いて、壁と壁、鏡と鏡の中間点で立ち止まった。そこで、また三老婆の鏡のほうへ振り向く。歓喜の笑顔。ナルシスは顔を天井に向け喉をのばし、声をあげて笑った。
「あはははは」
(あははは)
 エコーが洞窟に響く。
 メドゥーサは何事が起きたか理解できす、ナルシスに近寄った。そして、二つの鏡が向き合う軸線の中に入った。
 フードの隙間から、右、左と鏡を見る。そこには、無限に重なり合う鏡、無限に連なる裸のナルシスとフードを被ったメドゥーサ自身の姿が映っていた。ナルシスの歓喜の理由が分かった。自分の鏡像に恋しているなら、これは無限に幸福な空間だろう。

――いいかい、お前さんは武器になる

合わせ鏡の中で、メドゥーサはひらめいた。武器ならば、その力を絶対的なものにして、戦いに臨もう。
「お前さんも笑っとるぞ」

いつの間にか、声を上げていた。

老婆たちに礼を言い、別れを告げ、ナルシスを壁の鏡から引き剥がして、盾とともに連れ出した。
 別れ際にデイノーが教えてくれた。
「その袋んなかは、討ち取った首か。ならばこの先の谷底に小川が流れておるから、そこに投げ捨てればよい。いずれ、ステュクスの流れに合流するじゃろ」
 ステュクスは死者がその流れに乗り、冥府へ運ばれていくという大河だ。すべての川の流れはステュクスに集まり、死者は必ず冥府に辿りつく。谷底が見える道に来たところで、メドゥーサはペルセウスの首の入った皮袋をそのまま放り投げた。ずいぶんと時間が経ってから、谷底から水音がとどいた。
 目指す先は遠くとも、メドゥーサには見えていた。
 山を下り、砂漠を越え、海を渡り、エーゲ海へ。

 

   第二話  波動と確率

   1.

船上から眺める夏のエーゲ海は、青色の濃淡だけでできあがっていた。空も海も、混ざり気のない、濃さの違う青の光だけが乱反射している。光の強さがメドゥーサの眼に眩しい。顔も髪も露出し、甲板で海風を浴びていた。頭の蛇たちが後ろにたなびく。風は乾いて心地よかった。横にはナルシスが並んで立ち、伸びた巻き毛が、やはり風に吹かれていた。両手は、下の縁を甲板に置いた鏡の盾を持って、支えている。真上から照らす太陽の光が、甲板に濃い影を落としていた。
 船上には二人だけだった。船は海底で綱を引く、海のものたちの力で目的地に向かっている。目指すのはエーゲ海北部の火山島、レムノス島である。
 その島に、鍛治の神ヘファイストスの工房があると突き止めたのだ。エーゲ海に戻ってきたメドゥーサは、鏡の製作者を探していた。それはアテナからペルセウスへ授けられた鏡の盾を作ったであろう、ヘファイストスを探すことに他ならなかった。自分の姿を変えたのもまたこの男であるが、復讐を果たす前に、やってもらうことがある。かつては、ヘファイストスも十二神のひとりとして、オリュンポス山にいた。しかしメドゥーサが追放されてからの年月に、神々の間にも色々な事件があったらしい。自分の仕事に専念できる大規模な工房を求めて山を下りたと言うのが、エーゲ海の島々で聞いた噂から分かったことであった。居を移した真の理由は不明であるが、そこにメドゥーサの関心はなかった。神々が居並び、守備も強固なオリュンポス山を目指すよりは、ひとりで居るところを尋ねるほうが容易である。とは言うものの、その島を特定するまでには、幾つもの島を訪れては噂を探り、次の島への船を探すと言う繰り返しであった。
 ようやく居場所の確証を得たメドゥーサは海の民と交渉し、レムノス島へ向けて船を出させた。人間の海の男たちの間には、怪しげな旅人として噂が広まり忌避されていた。じっさい、何人かの人間の命は奪っていた。

二人を乗せた船は、正面の水平線の先にレムノス島を捉えた。

人間の港を避けて、海の民だけが知る、急峻な、しかし接岸に適した岩場から上陸した二人は、モスキュロス山を目指した。火山の山頂からは噴煙が出ている。この山に工房があるという。
 他の島では知られていなかったが、閉ざされた、しかし篤い信仰が島民には広まっているようである。山道を行けば、火口へ下っていくのであろう洞窟の入り口に、簡単な祭壇が置かれていた。洞窟の底にヘファイストスの工房があるのだろうと分かる。その脇を通って、大きな入り口から下り道の洞窟へ入った。
 眩しい青空の下を歩いてきた二人は、暗闇の中で何も見えなくなる。進まずにその場で目を慣らしていると、やがてわずかな光を眼が捉えられるようになってきた。壁面がうっすらと輝いていて、進む道が分かるようになっている。この輝きが天然のものか、ヘファイストスの手による人工的なものかは分からない。もともと夜目が効くメドゥーサには十分な明るさであり、ナルシスも歩くのに困らないようだった。
 山の底の方へと下っていく道は深かった。上陸してから山を歩き、祭壇に至るまでの時間よりも、長い時間を歩いている気がしてきた。
「疲れないか」とナルシスに訊く。
 強靭な身体を持つメドゥーサとちがって、小柄な人間の身体だ。必要だから連れてきたが、自分の目的はかれには関係ない。
「大丈夫。この先に、もっとたくさん、かれを見ていられる、ずっと、かれと一緒にいられるものを作ってくれる男がいるんでしょう? 早く、会いたいよ」
(会いたいよ)
 ナルシスなりに、自分の利害というものは考えているのだなと思う。
 かつて、ヘファイストスに会った時も、このように暗い道をどこまでも歩かされたものだ。淡々と続く下り道を進みながら、メドゥーサは過去を思い出した。

   *

オリュンポス山、神々の居城――
 メドゥーサは囚われの身で、そして、黒髪と黒い瞳が周囲の目を惹く、美しい姿が評判の娘であった。

 その夜、両腕の自由を奪われ目隠しをされた上で牢から出された。アテナと兵たちに囲まれて、陽の当たらぬ暗い回廊を引き立てられ歩かされた。
 毅然とした態度は崩さなかった。殺される事はないと分かっていても、不安はある。神々の気まぐれさ、残酷さは、時に度を越すことがあることをメドゥーサは知っていた。
 おそらく山中を地下へ掘った洞窟があるのだろう。空気が冷えきった中、下り階段を歩かされる。やがて、目的の場所に着いたと思われ、一同は歩みを止めた。ひどく暑い。ひんやりとした洞窟を歩るかされたあとだからなおさらだ。メドゥーサは汗が出るのを感じた。目隠しの下でも何か強い光があるのが分かる。強い、火が焚かれているのだろう。
「ゴルゴン三姉妹、最後のひとりを連れてきた。これで三人揃った。あなたの呪いで――」
「俺は、呪術師の類では無いぞ」その場にいた男の声が、アテナに反論した。「青銅を磨くのも、鉄を鍛えるのも、飾り物の細工も、動く人形も――」
「己の技術だと言いたいのね。その技術で、私の願いのとおりに――」
「願いのとおりの呪われた姿に、か。すでに姉二人は、お前の願いどおりの姿にしてやった。その娘にも、見せてやればよい」
 そして、メドゥーサの目隠しを兵が外した。
 赤々と燃える炎に目が慣れるまで、少しかかった。想像していたよりも、はるかに高熱の炎が、炉の中で滾っていた。その前には男がひとり、いびつに背中を歪ませた姿で石の上に座していた。両腕は太く逞しいが、左右の長さにバランスを欠いているように見える。顔は醜く、蓬髪の下からメドゥーサを見つめる眼光は鋭い。
 自分の左前には、軍装のアテナが立って背中を見せていた。オリュンポスの軍を若くして統率する彼女と、対等に口をきくこの男は何者か。
「俺はヘファイストス。鍛冶屋だ。この将軍殿とは――腹違いの義弟といったところだ」
 ゼウスが男ひとりで産んだのがアテナ、それを知って怒ったヘラが、女ひとりで産み出したのがヘファイストスである。神々の頂点にいる夫婦がばらばらに、自分ひとりで産み出した義姉弟ということになる。
「我が名はメドゥーサ」
 堂々と、名乗った。
「良い名だな。畏れおおい名と言ってもよいが」
 この男は名前の持つ意味を理解したのだと、彼女は気づいた。メドゥーサという名は、彼女たちの言葉で〈支配者〉を意味する。
「しかし残念だが、お主は捕らわれの身で罪人だ。そして、もう一つ残念なことに、その美しい顔が、将軍殿には許せないらしい。姉たちのように、お主の姿も変えさせてもらう」
 ヘファイストスはメドゥーサの右手の方に顔を向けた。台座の上に二人の女が横たわっていた。姉のステンノーとエウリュアレーなのだろうか。眠っているのか、まったく動く気配はない。
「見せてやれ。眠っているから、お前たちが近づいても安全だ」
 兵に背中を押され、姉に近づく。兵たちとアテナ、立ち上がり足を引きづりながら歩くヘファイストスも、台座を取り囲む。
 たしかに面影はあり、メドゥーサには姉だと分かる。しかし、口から牙がのぞいて顔は歪み、彼女と同じように艶やかだった黒髪はなく、代わりに何匹もの蛇が生え、絡みあっていた。
「お前も、同じ姿にする」メドゥーサに一言告げる。そしてアテナに向かって訊く。
「ゴルゴン三姉妹への施術。ひとつは髪を蛇に変えること、ひとつは猪の牙を生やすこと、ひとつは青銅の腕を持つこと、ひとつは黄金の翼を背に生やすこと。
 そして最後のひとつは、その眼を見たものは石と化してしまうこと。以上に相違ないな、アテナよ」

   *

鍛治の神、ヘファイストスの生活は、山の上からレムノス島へ居を移しても変わることがなかった。日々、暗い地底で火と金属を相手に仕事をし、疲れたら眠る。その繰り返しである。
 仕事の日々を重ねることで、作るものが強力に、精巧に、あるいは大規模になってきたが、最近では、他の神々もオリュンポスから離れてしまったためか、大きな仕事というものに縁がなくなっていた。クレタ島の青銅の巨人のようなものを作る機会が無くなって久しく、変わらぬ仕事に飽いていた。
 同じ場所に座ったままの姿勢で、一息入れていたところに、洞窟の中では聞くはずのない、大きな羽ばたきの音が響いた。
 何事かと、訝しむ間もなかった。羽ばたきの音が止んだかと思うと、石の床に座るヘファイストスの目の前に、人の半身ほどの直径の、円形の鏡が現れた。
 鏡の縁には支える右手が乗っているが、その指先は金属で、輝きから青銅製と分かる。鏡を持つものは跪いて、後ろに身を隠している。頭にフードを被り、顔は見えない。
 威嚇するように翼が大きく広げられ、すぐに畳まれる。その羽根は黄金色に輝いていた。 
 円形の鏡はよく磨かれ、ヘファイストスの醜く歪んだ逞しい上半身を映しているが、その後ろ、自分の背後にもう一人の姿が入ってきた。正面の鏡を持つものと、背後に立つものに挟まれた格好だ。すでにヘファイストスは正面にいるものの正体に察しがついていたが、背後のものの見当がつかない。両肩に手が置かれる。長い巻き毛を垂らし、水面のさざなみのように色を変える瞳で、鏡ごしにヘファイストスを見つめてくる。鏡に映るその姿はとても眩しく、きれいで、なめらかで、同じ男の自分自身よりも別れた妻に近しい存在であると感じられた。すなわち、美と愛の女神アフロディーテと同じ種類の、完成された美そのものだ。
「さて、ヘファイストス、見れば石と化す我が瞳と、見つめあってはみたくはないか?」
 正面のフードを被ったものが問う。女の声だ。彼の推測は確信に変わった。ここで抵抗しても、目を閉じても、もはや自分の運命に大差があるわけではないだろう、腹を括って会話を続けることにした。
「ゴルゴンか。戻ってきたのは、誰だ?」
「我が名はメドゥーサ」
 堂々と、名乗った。
「俺を殺したければ、すでにそうしているだろう。何か、話があるのか?」
「二つある。一つは過去について、一つは未来について」
「聞こう」
 メドゥーサは、顔を見せずに、語り始めた。
「姉たちは、石になって死んだ。わたしたちはお互いを見ていても、石にはならないはずだ。違ったのか?」
「ステンノーとエウリュアレーと言ったな。それが、ふたりの運命だったのだろうさ」
「貴様の施術だろう! いずれ、お互いを見合って、死ぬように仕掛けたのか?」
「そうではない。ただ、完全なものなどありはせぬ、というだけだ。神々だろうが、魔物の類だろうが、不死の保証などない、証明もない。まだ死んではいないというだけだ。」
「なぜ、姉たちが死んで、わたしが行きている?」
「生きていることに不満か?」
「そんなことがあるか! わたしだけが生き残った理由が知りたい。運命などとごまかすな、そんな予言は聞いたことがない」
「巫女の言葉、予言者の言葉、どれも後付けで正しかったと解釈されるだけだと言えば納得するか? すべては偶然だ。確率の問題に過ぎぬ」
「では、わたしが死ぬことも――」
「当然、あり得る。ペルセウスが、お前を殺して勝利することだって、当然あり得た。いや、今もどこかであり得るというのが俺の考えだ。確率的にありうる事象ならば、そのような世界も存在している。我らは――過去にも未来にも、複数の可能性を持っているはずだ」
「では、わたしの眼は何だ? 石になる、石にされる、そこに何がある?」
「無数の可能性を収束させ、ひとつに固定する。その結果、そのものは静止する、動かない、内部では時が止まる。これが石化の原理だ。お前たちの眼の力だ」
「そんな力にどんな未来がある?」
「お前は――武器になる。我らの――神々の、巨人族の末裔の、滅びが待っているかもしれないな」
「そこまで分かっているなら、話は早い。もう一つは」感情を抑えて、メドゥーサは続けた。ここからが本題だ。「未来についてだ」
「何だ」
「この盾の表面と同じように、よく磨かれた鏡が欲しい。一枚二枚ではない、幾千枚、幾億枚の鏡だ。世界中の空に、鏡を浮かせる。その鏡を操る術も欲しい」
「どうするつもりだ」
「お前は今、鏡に反射する背後の少年を見ているな。かれと見つめ合っている、この鏡が何枚も連なり、遠くにいる少年の姿を反射しているとしたら、どうだ? そして、見つめ合うのがかれではなく、わたしの眼差しだとしたら、どうだ?」
「世界の果てまで、あまねく存在する神々と眼差しを交わし、すべてを石とすることが、お前の望みか。従う謂れはないぞ。命に従えば殺さない、などと言うつもりではあるまい」
「我が求めに応じるならば、何か一つ願いを叶えてやるさ。そうしてから、殺すよ」
「この手を動かさなければ、他に誰もお前の望みを叶えられるものはいない。俺の心変わりを待ち続けるのか」
「自惚れるな。そうしたら何百年か待って人間に頼るさ。プロメテウスが〈火〉を与えて、彼らは変わった。世界のどこへでも貪欲に移り住み、あらゆる物を自分たちの都合で作り変えていく。お前一人の技術なぞ、いずれ古びる」
「どちらにしても、俺に未来は無いということだな。それで、お前に協力する謂れはない。願いだって? そのようなもの、今更、俺にはないぞ」
「そうかな? だとしても、お前を疎んじた連中に呪詛を吐き続けるだけの余生より、世界を滅ぼす企みに力を貸してから死ぬほうが、おもしろいとは思わないか」
 おもしろいに、決まっていた。

   2.

オリュンポスの全軍を統率する戦いの女神であり、また知恵の女神、純潔の女神として、アテナは民に慕われ信仰されてきた。今はオリュンポスを離れ、自らの名前を冠した街であるエーゲ海沿いのアテナイに居を移し、丘に新たな神殿を建てていた。移ってきたのは、何よりも海の王ポセイドンの軍との戦いに備えるためである。オリュンポスの山上は、今では閑散としている。ポセイドンは弟と袂を分かち、デメテルも去り、ヘスティアは隠居した。ヘスティアに変わって十二神に列せられることになったディオニュソスを始め、若い神々はアテナと共にアテナイの市に移ってきている。例外は、故郷へ隠れた愚かな浮気者のアレースと、自分の島へ籠るヘファイストスくらいだ。すなわち、今や山上に残っているのはゼウスとヘラの夫婦だけであった。
 若い神々はアテナイにと言っても、普段はエーゲ海の島々や大陸の各地を飛び回り自らの神殿を訪ねているため、揃って集まる事は稀であった。しかしその日、伝令神ヘルメスの召喚によって若い神々が集められた。
 神殿に集まったのは、ヘルメス、アポロン、ディオニュソス、そしてアテナの四人である。

明るい日差しが天井から届くその部屋で、四人がテーブルを囲んでいた。アテナから見て、左にディオニュソス、右にアポロン、正面にヘルメスが座している。ヘルメスが重そうな皮袋をテーブルに置き、紐を解いて、中身を取り出して見せた。人の、男の頭部を象った白い石であった。
「ハデス王に呼ばれ、冥府の入り口まで行ってまいりました。これは、ハデス王から頂いたものです」
「人の頭と見えるが、彫刻か何かか?」
「いえ、人の頭、そのものです。そのまま石になったものだろうと。この顔に見覚えはありませんか」
 男の顔である。顔の造作よりも、石になったと聞いて、アテナは思い出した。
「ペルセウスか? わたしがアイギスの盾を与えた」
「はい、間違いなく。ゴルゴンとの戦いに敗れ、返り討ちにあったものと。ステュクス河にこの頭だけが流れてきたそうです。全身の揃わない死体は冥界には入れぬとのことで、オリュンポスに縁のあるものなら持ち帰れと、ハデス王から渡されました」
 ゴルゴン――その名を耳にしたのは久しぶりだ。ゼウスの血を引く若者、ペルセウスに盾を与えゴルゴン殺害を教唆したのは、五年以上昔のことだ。行方知れずとなり忘れていたが、それ以来のことであろう。
 そしてその前と言えば、まだアテナ自身が若く――

   *

まだ、アテナが若い娘と見なされながらも、武力を束ねる総大将の座に就いて間もない頃である。
 十二神が揃ってオリュンポス――山上の城、神々の宮殿に居を構え、さまざまな神々、半神の者ども、人間たちで活気にあふれていた。そこに、彼女を祀る神殿が新たに建てられて間もなかった。そのような時代である。

まさにその神殿に不審な集まりがあり、女を一人捕らえたと、都の警備を預かる大隊長から知らせを受けたのは、アテナが床についてからしばらく経った、夜も深まってからのことであった。
 武装を身にまとう時間を惜しんで、布を身に巻きつけただけの軽装で寝室を離れた女神を待っていたのは、兵たちに取り押さえられ両手を後ろで縛られた、若い異国の娘であった。見た目はアテナよりも年下に見える、少女といってよい外見だ。松明の灯が、長い黒髪を艶やかに照らし、彼女を睨みつける黒い瞳を輝かせる。強い意志を感じさせる、罪人というよりは、対等に戦おうとするものの眼だ。
 見覚えがあった。たしか、コリントスから流れてきた一族に、容姿の目立つ三姉妹がいたはずだ。この娘は末の妹であろうか。
「名前は――」
「メドゥーサ。この地では、そう名乗っている」
 その名が先住民の言葉で〈支配者〉を意味することをアテナは知らなかったが、オリュンポスの総大将に向かって、それは宣戦に等しい名乗りであった。
 大隊長が語るには、他にも何人かの者がいたのだが散り散りに逃げられてしまい、城内を追跡中だという。
 叛乱を企てる動きがあることを戦いの女神は誰よりも憂慮していたが、都に潜む首謀者については、未だ不明であった。けしてオリュンポスの秩序は安寧ではない。足下に、危機は潜んでいるのだ。
「わたしの神殿で密会とは大胆ね。誰と、何を話していたの」
「夜、恋人と愛を語りあってはいけないと、ここでは――オリュンポスの法では、定められているの?」
 仲間を庇いだてして嘯くだけでなく、純血の女神とその神殿を侮辱する言葉が、アテナの逆鱗に触れた。目の前まで近づき、頰を張る。メドゥーサは何も答えない。さらに拳と膝で身動きできない身体を何度も突くが、呻き声一つ立てずに睨みつけてくる。
 アテナが呼吸を整えるために動きを休めると、それに合わせて、背後の兵が押さえつける手が緩んだ。メドゥーサが頭を下から兵の顎に突き上げ、右脚をアテナの顔面めがけて蹴り上げる。爪先がわずかに頰を掠めたが、すぐに兵たちが取り押さえ、今度こそ、身動きできなくした。
 けっきょく、神殿に集っていた者たちについて何も答えを得ることが無いまま、メドゥーサを牢に放り込んだところで、夜が明けた。

逃亡した者たちは、まだ城内に潜んでいるはずだが、誰一人捕まえることはできなかった。オリュンポスから一人の男が誰からも咎められずに去ったことをアテナが知ったのは、三日ものちのことである。ポセイドンは堂々と正門から出てゆき、そして麓の港からは軍船が全て出港したのだった。

   *

牢に囚われたメドゥーサは、明かり取りからの微かな光と、幸いにも毎日与えられる水と一切れのパンによって生かされ、放っておかれていた。外にどのような動きがあるのかは分からない。ふたりの姉、ステンノーとエウリュアレーは逃げ切れたのだろうかと心配するが、捕らわれたならば、何か自分の周りにも動きがあるだろうと思い、無事なはずと信じることにする。気づけば、そんな思考を何度もくりかえしている。
 もう一人、無事を心配するまでも無いのだが、消息が気になる相手がいた。オリュンポス側の内通者――向こうからすれば、メドゥーサたち姉妹は都合よく駒にできる先住民と思っていることだろうが――三兄弟の次兄、ゼウスの兄、海の支配者、ポセイドンだ。まだオリュンポスの中で燻っているのか、それとも海の向こうに手勢をまとめて去っていったか。
 今、この地でこそ、あの男はゼウスの兄で、メドゥーサは巨人族ティターンの血を引く異国の女だ。果たして、それ以外の変奏の過去があったことがあの男の記憶に残っているのか――アテナの神殿では、個人的な話をする余裕はなかった。女神アテナがゼウスとヘラの娘であり、同時にゼウスがひとりで産んだ娘でもあることは、この地の誰もが知っている変奏だが、複数の事象を同時に合わせ持つことができるのが、神々の血を引くものたちの性質だ。ポセイドンもまた、クロノスの六人の子供たちのひとりであるだけでは無いのだが……

自分の思考の中に沈み込んでいたら、いつの間にか明かり取りからの光が無くなり、暗闇の中にいた。今夜は、月も出ていないらしい。そこに、複数の足音が近づいてきた。五人いる。やがて松明の灯とともに三人の人影が現れた。男が四人、女がひとり。むろん、アテナだ。牢の格子の前に立つと、アテナは告げた。
「あなたの姉たちも捕えました。ポセイドンは海へ去って行った。あなたの仲間は、牢の中か、オリュンポスの門の外か、骨になったかのいずれかです」
「彼の、戦さの準備は整ったということね」
 強気を崩さずに言い放つメドゥーサに、アテナは淡々と処分を語った。
「父と伯父の――兄弟の争いに、先住民たちを関わらせるつもりはありません。ポセイドンの奸計に乗せられ、城内の騒乱に協力したことが、あなた方の罪状。それだけの罪では、法の女神たちはあなたたち姉妹の命を奪う裁きは出しませんでした。罪人の刻印を与えた上で、南の大陸へ追放します」
 海王の企みに乗せられただけだと、扱いたいらしい。気に入らないが、生き延びるためには幸運な裁きだ。
「船は、用意してもらえるの?」
「ええ、罪人の刻印を施してからね」

メドゥーサと二人の姉は、こうして罪人の証しとして怪物の姿に変えられ、エーゲ海から遠く離れた南の大陸へ追放されたのであった。
 
   *

鏡の製作には、三年を要した。あまりにも数が多いため、ヘファイストスはまず、自分の代わりの作業が務まる人形をクレタ島の青銅の巨人を作った要領で十二体製作し、その人形たちに鏡の作り方を教え込んだ。完成した鏡を補完する場所を確保するため地下を掘り、今やモスキュロス山の中は火山石に支えられた大きな空洞であった。
 大空洞の中は、単に作られた鏡を貯めておく倉庫ではなく、鏡を動かし眼差しを遠くに届けてみせる試験の空間であり、メドゥーサとナルシス(およびエコー)は、何十枚、何百枚の鏡を操作して長い経路を作っては凸面鏡や凹面鏡の効果も制御して、鏡の向こうの相手を見て試した。鏡は宙に浮き、地下空間でも僅かに流れる風の影響を削ぎ、メドゥーサとナルシス(とエコー)の声に従った。エコーの声は、光とともに鏡の作る経路を移動した。それはエコー自身が合わせ鏡の空間に捕らえられて動いているのかもしれなかったが、メドゥーサは妖精の存在原理は理解できず興味ももてなかった。
 鏡が声に従って宙で自らの位置を制御するのは、鍛冶場で働く人形たちや青銅の巨人が自ら歩き働くのと同じ原理を応用していた。この複雑な仕組みをメドゥーサが理解することはできなかった。
 もっとも神々の血族の中では、ヘファイストスの他にせいぜい、火を与えた罪で永遠に罰を受けている、かのプロメテウスくらいであったろう。プロメテウスが人間に与えた「火」がどれほどのものか、のちにメドゥーサは知ることになるが、それはまだ先のことである。

三年のあいだ、ひたすらに山の底で働き続けるヘファイストスと違って、メドゥーサとナルシスは人間たちのいる地上に出ることもたびたびあった。
 身を隠すメドゥーサをよそに、ナルシスはしばしば島民の中に入っていっては求愛を受け、無視し、恋心が嫉妬に変わるのを放置しては揉め事に巻き込まれていた。鏡の盾に映るかれの姿はますます美しく成長し、誘惑と勘違いさせるには十分なのだが、男も女も差し伸べた腕を振りほどかれ、軽やかな逃げ足にかれを見失い(じっさい、逃げ足だけは美貌のほかにかれが誇れる長所であった)、それでも執念深く追ってくる相手は、盾で殴られたりナルシス(とエコー)の冷たい罵倒にあうのだった。
 それでも諦めない相手が時々あらわれるくらいに、美しくしかも無防備で、どうしようもなくなって初めて助けを呼ぶ声をあげるのだった。
「――助けてぇ!」
(助けてぇ!)
 それはメドゥーサに助けを求めているわけではなく、ただ虚空に向けた叫びなのだが、エコーがその叫びをメドゥーサまで届けてくれるので、助けにいくことができた。つまり、現場まで駆けてゆき、その男や女を引き剥がし、正面から眼を見て恫喝する。
 石になった者の数は両手の指に余り、挙句、島を統べる村長むらおさが朝からヘファイストスの元に懇願にくる事態となったのだが、それは、鏡を山の外へ出して試してみる日に運悪く重なった。
 空洞の中心に立つメドゥーサの周りには、鏡が半球を作るように浮いて彼女を囲む。鏡はそれぞれ、その半球の外側にある鏡にメドゥーサの姿を映し、さらにその先の鏡へ、先の鏡へと光を運ぶ。洞窟の外に出ていった鏡は島中へ散らばり、港や神殿や畑や村落の上空で浮遊していた。
 メドゥーサの眼には、鏡に映る外のようすが、一枚ごとに異なる場所のようすが見えていた。
 ちょうど正面の鏡には村長の禿げた頭が映っている。メドゥーサが口元で何か囁くと――それは鏡に向けた命令であった――その鏡に映る像が俯瞰の頭部から全身へと下がっていった。

洞窟の入り口まで一人でやってきた村長は、ヘファイストスに何と言って島の願いを聞いてもらおうかと思案していた。いかに被害者を出そうと、神の訪問客であるらしい者たちの行動である。神々の論理や気まぐれには、人間の都合とは相容れないものがあることを知る程度には人生経験を積んでいた。
(さて、どうしたものか)
 村長の右手に何かが空から降りてきた。片腕ほどの直系の丸いものだ。その表面には、暗い岩だらけの場所が映っている。これから入ろうとする洞窟の中のような場所だ。鏡のようである。彼の目の位置に、ちょうど円の中心がくる高さで円形の鏡が静止した。
 彼に正面を向けているのではなく、微妙な角度を作っている。その角度から入ってくる光が見えるのだ。
 岩しか映っていなかったその表面に誰かの立ち姿が映り、ゆっくりと、その姿が拡大される。
 眼をそらす余裕はなかった。
 何匹もの蛇がうねる下に、強い光を宿す瞳が見えた。鏡にはメドゥーサの顔が大きく映し出され、その眼は村長を正面から見つめていた。

レムノス島の全島民が石と化したのは、日没にはまだ間がある夕方であった。

   *

注文された枚数の鏡が完成し、試験も成功した。ヘファイストスの仕事は終わった。
「約束だ。一つ願いを聞こう」
 メドゥーサは頭部をフードに隠したまま、鏡の盾を持って地面に座るヘファイストスの正面に立った。背後にはやはりナルシスがいて、盾の鏡面にはその美貌が映っている。その眼の輝きがいつになく冷たく感じられる。これから殺されるであろう、彼に向けたいかなる感情も見られない。
「その眼で俺を見る前に、先に、両腕を斬り落としてはくれぬか」
 意外な願いであったが、メドゥーサは理由は聞かずに約束を果たすことにした。
「分かった。神の身を斬るには、特別な刃物がいると思うが――」
「俺の後ろの壁に、剣が一振りあるだろう。俺が鍛えた、オリュンポスの神々も斬れる剣だ。自分に向けて使うことになるとは思っていなかったがな」
 ナルシスが壁まで剣を取りに行き、メドゥーサに渡した。周囲を「見て」いない――意思ある存在と認知していないのだが、言葉は理解してくれているので助かっている。
 盾をナルシスに預け、メドゥーサはヘファイストスの目の前、剣の間合いまで近づいた。
「眼を閉じて、両腕を左右に広げろ」
 ヘファイストスは黙って従った。逞しく筋肉のついた、曲がった腕を横に広げる。
 メドゥーサは剣を振り下ろし、右腕、左腕と順に斬り落とした。血が溢れ出るが、ヘファイストスはうめき声一つ漏らさない。
 剣を捨て、ひざまづいたメドゥーサは両手でヘファイストスの頭を掴んだ。
「眼を開け。最後の時だ」
 ヘファイストスは逆らわなかった。神々の血は、メドゥーサの眼を見ても、石になるのを遅らせ抑制する力がある。しかし、両肩から血を流すヘファイストスには、その霊力は残っていなかった。
 狂おしい思いを湛えた女神のまっすぐな視線を、避けずに受け止めたままヘファイストスは石となった。
 地面には先に斬り落とされた両腕だけが生身の柔らかさのまま転がり、そして、メドゥーサが見ている眼の前で消失した。

   3.

ヘルメスは、ハデス王との会見の後に南の大陸へ足を伸ばし、飛び回ったことを告げた。巨人アトラスの領土にまで立ち入り、山中に棲まう三老婆と会うことが叶い、メドゥーサ一人が生きて山を下りたと教えられたという。
 ペルセウスが退治するはずだったメドゥーサは、期待に反して生きている。しかし、今なお南の大陸にまだいるのか、それともエーゲ海まで迫っているのか、そこまでの情報はヘルメスもまだ掴めてはいなかった。それで、具体的にどう行動すべきかと言う考えは、四人の誰も持ち合わせていなかった。

「みなさま、こちらに集合しているのかしら」
 部屋の外から、訊ねる声が響いた。四人の誰もが知る女――女神の声だ。
 声の主は、そのまま遠慮なく室内に入ってきた。傍に連れの若い男を伴っている。豊満で官能的な身体をもち、薄衣は胸元を隠そうともせずむしろ強調している。下半身もまた衣の間から太腿がよくのぞき、ふくらはぎから黄金色のサンダルを履いた足のつま先までが、完璧な美の規範のような曲線で構成されている。右足、左足と進む一歩一歩が、三人の男たちを誘惑していた。その一方で、真紅の肩掛けの長めの布地によって、両肩から二の腕、指先までが隠されていて、想像力を掻き立てさせられる。
 アフロディーテ、美と愛の女神である。
 連れの若者が歳若い恋人であることは明らかであるが、人間の身であるにしては、神々の前で堂々としている。アフロディーテが目をかけるだけの美少年であることは、アテナも三人の男たちも認めざるを得なかった。しかも、素材だけでは無いだろう。肌の色つや、なまめかしさ、神々のような輝きは、神酒を飲んでいるゆえ、おそらくは日々浴びるほど飲んでいる故だろうと思われる。神酒をつくり振る舞う役の酒の神ディオニュソスが、感心するように眼を細める。
「ええ、貴女は政治や軍事のことには興味ないだろうと思って。恋人同伴で来るには、ここはふさわしい場所ではないのだけど」
「あら、そうね。姉上の神殿ですものね。
 会議に加わるつもりはもちろんありません、挨拶をしに来ただけ。故郷――キュプロス島へ帰ります。アテナイにもオリュンポスにも、戻ってくることは無いでしょう」
 彼女の生まれ故郷キュプロスは、エーゲ海をクレタ島の先へ出て、地中海の東の端のほうに位置する。もはやオリュンポスとは異なる神々の文明圏である。
「何か、ご事情が?」
 引き止める口実がないか探りたいのであろう、ヘルメスが訊いた。女神が決めたのであれば、それはすでに決定されたことで、翻意を促す、というような行為は人間同士のようには通用しない。それでも、美の女神が去ってしまうのは惜しいのだ。その想いは、他の二人も同様のようであった。ただ、ヘルメスのように口が軽くはないだけだ。
「ここにいても、つまらないから。わたしの気まぐれには、十分な理由でしょう?」
 以前アフロディーテは、浮気相手のアレースとの密会の場を夫のヘファイストスに押さえられ、夜の営みの場を神々全員にさらされてたことがあった。恥をかかされたアレースが故郷に逃げてしまったのも、ヘファイストスがレムノス島の工房に引き篭もっているのも、そのことが原因ではある。だが、敢えてその過去に触れて、女神の不興を買うようなことは誰もしない。
「それでは――」
 アテナに遠慮してか男同士で牽制してのことか、誰も、彼女と別れの抱擁を交わそうなどとはしなかった。
 恋人とともに部屋から去ろうとして、アフロディーテは立ち止まり、振り向いた。
「ひとつ伝えておくことがありました。アテナ、貴女たちが気にかけている魔物は、すでにエーゲ海に戻っていると思います。レムノス島へ行ってみるといい」
 最後のメッセージを残して、アフロディーテは去った。
 アテナイの丘にも、オリュンポス山にも、永遠に戻ることはなかった。

 

   第三話  美醜と鏡像

   1.

切り落とされたウラヌスの陽物が海に投げ込まれて生じた泡より、父も母もなく大人の姿で生まれた女神。あるいは、父はゼウスなれど母は正妻ヘラではなく天の娘ディオネから生まれた女神。
そして泡立つ故郷の海は、エーゲ海よりも遥か東方のキュプロス島の近海であり、さらには東方オリエントの大地母神こそがその正体でもある――
 不連続な幾つかの伝承をその出自に持つもの、それが愛と美の女神、恋多きアフロディーテの生い立ちである。

アテナイを去り、キュプロス島に身を引いてから、何回目かの冬である。
 異常な冬の嵐が続き、海が溢れそうになっていたが、その日は久しぶりに晴れわたって陽光が海を照らしていた。
 最後の挨拶をすませた時にアテナたちが話していたことは、興味がないと言いながらしっかりと耳に入れていた。だからメドゥーサの問題が世界の重大事であることは彼女にも理解できていたが、世界の危機とは無関係に、アフロディーテには切実な悩み事があったのだ。
 その日も、神酒ネクターが体内を巡る感覚に酔いながら、しかし頭は醒めて、疲れていた。青く穏やかな海を照らす冬の低い太陽の光は、女神の棲まう別荘のテラスにも降りそそぐ。しかし陽光の暖かさも、彼女の疲れを癒すことはできないでいた。
 男の手――よく知る男の手が、彼女の肌に触れる。その感触、嫌悪感が、彼女を酔いから醒ますのだ。アポロンの手のように美しくも繊細でもなく、かつての愛人アレースの手のように逞しくもない。一生の大半を鉄を鍛えることに明け暮れる手は硬く、黒く汚れ、火脹れの痕がいくつも醜く残っている。さらに腕は全体に歪で、曲がり、左右の長さも異なる。
 残念ながら、これは別れた夫の手。鍛治の神、ヘファイストスの手なのであった。
 これもまたメドゥーサの問題と関わるのだろうということは察して、だからヘルメスにはレムノス島へ行けと伝えたのだ。
 他の神々と会うときは、肩から指先までを隠すように衣を重ねていた彼女の変容を知るものは、年若い恋人、アドニスだけであった。

冬の間、アドニスは冥府王の妻、ペルセポネのもとへ通っている。そういう約束になっているのだ。だから、アフロディーテは今、ひとりだった。嵐の狭間で、今日は海も穏やかだ。室内から外に出て、庭を歩く。島の高台にある別荘からは、海が遠くまで見渡せた。春のように花々が庭を彩ることはないが、オリーブの樹々が高く伸びて、立体的な景色を生み出していた。
 その景色を、細長い矩形が切り取っていた。背丈ほどの鏡が、ふいに庭に出現したのだ。鏡が置かれたことで、その向こうにある景色のかわりに、反射して後ろの景色が映っている。アフロディーテは、後ろを振り向いた。そこにも、鏡が、置かれている。鏡の角度はアフロディーテの正面に向いてはいないので、さらに斜め後ろの光景があり、そこにも鏡がまた、置かれている。
 一回り見回していくと、気がつけば、周囲に距離も角度もまちまちに何枚もの鏡が置かれているのだった。地上だけではない。天空にも鏡が重なり、島から離れた海の上空にも浮いている。鏡と鏡の連なりによって、光が行き来しているのだろうか。鏡面の凹みによって、見慣れぬどこか遠くの景色が拡大されて、よく見える。そんな景色が見える角度を探して、アフロディーテは庭を歩き回った。見る鏡を変えればもちろんのこと、角度を少し変えてみれば、映るものが変わってしまう。自分自身で気づかぬうちに、夢中で歩き回っていた。鏡の向こうの景色を探していると、ふいに、鏡と鏡の反射の連なりの果てで、向こうに誰かの後ろ姿が一瞬、見えた。
 メドゥーサだ。アフロディーテは直観した。蛇の髪の女。目をそらして角度を変えれば、すぐに消えてしまう。
 そのまま見ないようにしなければならない。頭ではそのように言い聞かせるが、目が彼女の姿を求めていた。一目見たら忘れられない印象的な女。アフロディーテの目は、一瞬捉えたメドゥーサの姿に乗っ取られたかのようだった。
 夢中になって、庭をくるくると歩き続ける。時々、彼女の姿をかすかに捉える。太陽が真南に、そして西へと動いていく。雲が出てきた。いつまでも、彼女を探した。もう歩いてはいられない、駆けまわった。光が乱反射する中をくるくると駆けまわった。
 ついに、振り向いた彼女と目が合ってしまう。メドゥーサの顔は正面からアフロディーテを見ていた。どのくらいの空間を隔てているのか想像できないが、二人はお互いに、見て、見られた。顔を背ける、他の鏡を見る。しかし、すでに彼女は無数の鏡の連なりに囲まれていた。どちらを向いても、正面からメドゥーサの顔がそこにある。強い光を放つ目が見つめている。
 どこか遠くからの反射で映る女の顔が目の前にあっても、声は聞こえない。しかし、唇の動きをアフロディーテは読んだ。
(わたしを見なさい。そしてゆっくりと石になりなさい。
神酒を浴びるように飲み、ウラノスの血をまっすぐに引くお前だ。わたしを見ても、きっとすぐには石と化したりしないだろう? ゆっくりと石になりなさい、その腕と共に)

このようにして、世界全体がメドゥーサの合わせ鏡の中に捕らえられていった。

すべては固まり、石になろうとしていた。神々をはじめ、半神も、妖精も、巨人族も、人間も、体内の神酒ネクターの量によって生き物が石と化す速度は違えども、確実に世界は滅びに向かっていた。
 メドゥーサの狙いは、あくまでオリュンポスである。アフロディーテだけではない。すでにアポロンもディオニュソスもヘルメスも、その姿を目にしていた。
 そこに、海面が上昇するほどの異常な大嵐がつづいて人の世も神の世も混乱させている。

   2.

 渡し舟に乗って、漆黒の大河を下っていくと、やがて冥府の側の川岸に船が着く。渡し守に礼を言うと、アドニスはペルセポネを探した。いつもであれば、彼女はアドニスの到着を岸で待っているのにその姿がない。いつもの――はたして自分は何回ここを訪れたのだろうかと思う。一年に一度の訪問と半年間の滞在を何回繰り返しているのか。記憶は定かではなかったが、何度目であれ、彼女が岸にいなかったのは初めてだ。
 奥へ奥へと、地下宮殿を進んでいく。いつものように暗く、陰気な場所だ。当然なのだが、生気を感じられるものの気配はまったくない。生気ではない、腐臭を伴ったものの気配はあるが、冥府の番犬にも、他の連中にも用はないし関係を持ちたくない。ついにハデス王の玉座がある謁見の間の前まで、まっすぐ来てしまった。
「生きた人間が来とるな――アドニスか」
 玉座に腰掛けたハデス王ただ一人が、そこにいた。先に声を掛けられて、アドニスは玉座の前まで歩を進め膝をついた。
「毎年ご苦労なことだが、ペルセポネは来ないぞ」
「まさか、彼女が――」
「そうではない。そうではないが、時間の問題かも知れぬ。メドゥーサを止められるものが、オリュンポスにはおらぬらしい。滑稽なことだ。ここにいても仕方あるまい。地上に戻れ、入り口までは送ってやろう」
 ハデス王は直截だ。恋人も、他の神々も曖昧にしか教えてくれなかった。オリュンポスはどうやら危ないらしい。

   *

地上へ戻るまではハデスの助けがあったものの、その先は自力で旅を続けるしかない。どこへ向かうべきか、アドニスは考えた。ペルセポネは、母デメテルのところにいるのだろう。彼女は来ないと言うハデスの断言が、彼を不安にさせる。アドニスは、彼女と過ごす半年もけして嫌いではないのだ。
 しかしながら、気にかかるのは何と言ってもアフロディーテだ。ペルセポネの事は忘れ、アドニスは最愛の人のために動くことにした。

東の海を渡りキュプロス島へ帰還する前に、彼女のために寄りたい島がエーゲ海にあった。レムノス島である。モスキュロス山がときどき噴煙をあげるその島に、船を乗り継いでアドニスは上陸した。
 途中の島々で足止めを食いながらの船旅だったので、何週間も掛かってしまった。途中、どこの港も人が少なく、海も静かで、何もかもがゆっくりと静止しようとしているとアドニスは感じていた。レムノス島も例外ではない。むしろこの島からは、誰もいなくなっていることに、ようやくアドニスは気づいた。メドゥーサが鏡の威力を試すために、全島民を石にした痕である。動く人はいない。まるで島中に石像が溢れているようだ。目当ての場所に行くにはどうすれば良いのか、尋ねる相手もいない。
 それでも、モスキュロス山の頂上に向かって歩いていけば、目当ての場所を見つけることができそうだ。そう楽観的に考えるアドニスの前に、地下へ向けて穴を開けた洞穴が姿を現した。また冥界下りだね、そう言って笑いながら、目当てのものを探し求めて下っていく。探すのは、鍛治の神ヘファイストスだ。恋人のかつての夫である。やがて、地熱でサンダル越しに足の裏が暖かくなるほどの場所にたどり着くと、そこが、彼の仕事場だった。

ヘファイストスはいた。会ったことは無いのだが、一目で、この男がそうであると直感した。胡座をかいて座り込み、捻じ曲がった背骨で俯いた姿勢のまま正面を睨み――石になっていた。白亜の、石像だ。メドゥーサによって石にされたのだ。
 さらに、彼の体にはもう一つ異変があった。両腕がない。鉄を鍛えることに明け暮れる為に硬く、黒く汚れ、火脹れの痕がいくつも醜く残っているという手。歪に曲がり、左右の長さも異なるという腕。かつて、恋人にそう教えられた腕がそこには無かった。白亜の胴体はただ背中を捻じ曲げるだけで、その肩から先が生えておらず、まるで胴体だけで手足のない、下等動物か幻獣の類のようだった。
 アドニスには、それですべて合点がいった。
 壁には、彼が製作したものがたくさん捨て置かれていた。武器も多い。アドニスはその中から一振りの剣を手に取った。これなら、神々でも斬ることができそうだ。
 今すぐに、アフロディーテのもとに戻らないとならない。

   *

世界がゆっくりと石と化していく間も、季節は巡り、春である。エーゲ海から遠く離れたキュプロス島に生きる者たちも、この半年で石化が進んできた。アフロディーテの身体も固まりつつあり、一人生き永らえても仕方ないという諦念を、冬の間に募らせていた。
 しかし、季節は巡り、春である。しかし――
 定められた約束では、春になれば、恋人は彼女のもとに帰ってくることになっている。しかもヘルメスの言葉を信じれば、冥府ではなくエーゲ海のどこかにいるらしい。それなのに、春もひと月が経とうというのに、彼は帰って来ないのだ。やはり、人間である彼は、どこかでメドゥーサと視線を交わし、先に石になってしまったのであろうか。

そのように美神が思いつめているところに、アドニスは帰って来たのだった。
「生きていたのですね」
「わたしも鏡越しにメドゥーサの眼を見てしまいました。いずれ、石になる日は来るのでしょう。しかし、幸いにもわたしの身体には、今までに多くの神酒が注がれていますから」
「そのわりには、帰還が遅かったですね」
「寄るところがあったのです。あなたの、夫のところへ行きました。残念ながら、彼はすでに石と化していたけれど、目当てのものを得ることができました」
 恋人が取り出したのは、一振りの剣であった。石化の影響を受けていない、ヘファイストスが鍛えた剣である。
「アフロディーテ、あなたにとっては醜い男ヘファイストスの腕のままでいることこそ、大問題ですよね。世界と共に石と化して滅びる運命は変えられないとしても、そんな腕のまま石となることは耐えらない。貴女はそうお考えだ。ですから、貴女の身体を傷つけることが叶う剣を手に入れて来たのです」
「おお。まこと其方はわたしの最後の恋人にふさわしい」
 そう言うと、美神は立ち上がって上半身にまとっていた衣を脱ぎ、恋人に肌を晒した。完璧に均整のとれた豊かな胸と柔らかな腹。しかしその両腕は、不釣り合いに大きく、黒く汚れ、左右の均整を欠き、しかも曲がっていた。火膨れの痕がいくつも残っていた。
 アドニスは剣を構え、別れの言葉を告げると、恋人の、先ずは右腕を、次に左腕を切り落とした。両腕から溢れるように、石化を抑える神の血が流れ落ちる。
 腰に浅くローブを巻き、左足を恋人の方へ一歩踏み出して、身体をひねった姿勢のまま。
 瞬く間にアフロディーテは石になっていった。右腕は二の腕から先がなく、左腕は肩から失われている。その顔には腕を失った痛みはなく、ただ、無言で恋人を見つめていた。

 

   転 ルーヴル(Ⅱ)

顔を隠した女と車椅子の男は、しばらく、アフロディーテ像の前に留まり続けた。

アフロディーテの像には、両腕がない。
 恋人アドニスによって両腕を斬り落とされた瞬間を、象った彫像であると言われている。ギリシャの歴史家が、ローマの詩人が、ルネサンスの画家たちが伝えてきたその伝承は、しかしなぜアドニスが恋人の、しかも畏れ多くも女神の両腕を斬ったのか、その背景について何も語ってはいなかった。
 ただ、ある年の春、アドニスはアフロディーテと再会し剣を持って両腕を斬り落とした。その理由は誰も知らない、と神話では語られる。ただ、斬り落としたのだと。
 静かなアフロディーテの表情からも、ついに発見されることのなかった不在のアドニス像からも、理由、などという因果律に縛られたものを見いだすことはできなかった。近代になって、その不条理に理屈をつけようとした心理学者や小説家や劇作家があらわれたが――女はすべて的外れだと知っていた。

エレベーターの上りボタンを押す。かすかにゴンドラが動く振動が感じられた。照明を落とした無人の美術館でも、エレベータの電源は生きているらしい。やってきたエレベータに車椅子を押して乗りこみ、一つ上のフロアのボタンを押した。

一階にも、古代ギリシャの彫刻が並んでいる。
 ひときわ目立つのが、「ペルセウスの首を切り落とした女神像」である。
 若き戦士ペルセウスを倒した女神が、勝利を宣言する像である。女神は右手に男の首を掲げ、左手に円形の盾を持つ。盾の表面は大理石が磨きぬかれて、見るものの顔を映しそうなほどに滑らかである。
 青銅の腕と、黄金の翼を持つと伝えられる異形の女神。堂々と広げられた背中の翼が、そのまま、羽ばたいていきそうだ。
 頭部は、失われている。

ドゥノン翼もリシュリュー翼もゆっくりと見て回り、ふたりはさらに階を移った。
 フランスの近代絵画が飾られているエリアに来た。様々に名乗られる流派や主義とやらにはこだわり無く、一枚一枚の絵を、時に立ち止まりじっくりと鑑賞し、時に一瞥するだけで通りすぎる。
 象徴主義の画家の一枚の水彩画が、サングラス越しに女の目にとまる。幻想的な世界を題材に取った絵を、何枚も残した画家の絵である。
 車椅子を絵の正面に向けて、女は立ちどまった。

神殿で、女が踊っている。
 男の首が、宙に浮いている。

 

   第三話  美醜と鏡像(続)

   3.

十年、メドゥーサの戦いは続いていた。
 鏡越しに、あるいは直接会って眼を合わせた神々は石となり、活動を止めた。不死の身であったはずの者たちも、時間の経過しない固まった状態となったならば、それは死と呼んでも差し支えない。一族の濃い血と神酒ネクターの多量摂取は、たしかに即座に石と化すことを回避できたが、それで無事ということはなく、みな長い時間をかけて石と化していくだけであった。
 だが、戦いは膠着状態に陥っていた。
 地中海世界全域を覆う異常気象が、合わせ鏡の威力を無効化しているためである。降り続く雨の中では、鏡越しに遠くを見ることはできない。
 海面は上昇し、沿岸の都市には水没するものも出てきている。メドゥーサとナルシスも拠点の島を移して、水没のおそれの無さそうな高台の空き家を見つけ、二人で住んでいた。
 小さな白壁の石造りの家である。農家が家族で暮らしていたであろう家は、外観とはまったく異なる内装に作り変えられていた。家の中心にある部屋は、さながら、中央作戦司令室である。壁一面を鏡に覆われ、中心に置かれた長椅子からそれらの鏡面を見れば、壁の空気穴や明かり窓、後から開けられた細かな穴から入ってきた、外の鏡からの反射光で、世界中を見られるようになっている。
 しかし、残念ながらその日は例によって朝から大雨で、日没の刻が近づく今まで、ほとんどの鏡には灰色の雨空が映っているだけであった。その椅子の上で、メドゥーサは、正面に置かれた自分たちを映す鏡を見ながら、ナルシスの髪を梳くってやっていた。連日の雨で重くなった巻き毛を丁寧に手入れしていく。
 背後からのメドゥーサの行為に、かれは、なにも注意を払わない。見えていないわけでも、触れられていることに気づいていないわけでもない。ただ、ひとつの存在として認知していないだけで、それはもう、何十年を共にしてきて、よく分かっている。かれは、あいかわらず自分の鏡像だけを見ていた。鏡の向こうの恋の相手の少年の、不規則に色を変える大きな瞳が、同じ熱量で見つめ返してくる。
 メドゥーサは自分たちを映す鏡の右隣に変化が生じたのを認めた。海面上昇に合わせて急ごしらえで作られた、島の船着き場を監視する鏡からの光である。小舟が一艘接岸し、大男が一人降りてきた。一本道の農道を上ってくれば、その突き当たりがこの家である。
「来客だよ、ナルシス」
 メドゥーサは立ち上がり、もてなしの準備を始めた。

先触れの使者がやってきたのは、三日前である。ぺたぺたと土の上を歩いてきた鰭のあるものは、玄関でひざまづくと中には入らずに用向きを伝えた。海の王がここを訪問し、メドゥーサに面会したいという。
 海の王、すなわちポセイドンである。オリュンポスのアテナ神殿で別れて以来、数十年、会っていない。
 メドゥーサは訪問を許可した。

 部屋へ招き入れたポセイドンは、丸腰で、メドゥーサの眼を避ける目隠しもせず、まったくの無防備であった。メドゥーサはフードで頭を丸ごと覆い、顔を見せないようにしている。
「ここはお前の家だろう。気遣いは無用だ。すでに、遠隔でお前の顔は見てしまっている、今更変わらん。ガイア直系の濃い血と神酒のおかげでな、見てのとおり元気なものだ。この場で石になったりはせんだろう」
「そうか、ならば楽にさせてもらう」
 メドゥーサはフードをとった。何匹もの蛇が蠢いて、頭部から背中へと垂れていく。鱗の金属的な輝きが濡れているようだ。口元からは牙が覗き、両眼は強い意志と魔物の邪悪さを併せ持っていた。たまらず視線を逸らしながらも、ポセイドンは言った。
「歳をとったな」
「再会するなり、失礼な奴だ。至近距離で睨めば、血の力など無力だぞ」
 二人はテーブルを挟んで距離をとっているが、丸腰のポセイドンに飛びかかることは、いつでもできる。
「若い娘の姿のお前しか見ていないからな。大人になった」
 気にせず、ポセイドンは軽口を叩いた。
「当たり前だ。何十年経ったと思っている」
 メドゥーサは盃に神酒を注ぎ、再会を祝した。ナルシスは横にいるが訪問客には振り向きもせずに、鏡を見つめている。
「これが、お前が連れていると噂の相手か」
「噂など、あるのか」
「不死身の恋人を、傍らに侍らせていると」
「別に恋人ではないし、たぶん不死身でもない。人間だからな。わたしを見ていないだけだよ。いずれは老いて死ぬ」
「面白い相手といるものだ。さて――」
 ポセイドンは世間話を止め、本題に切り込んだ。
「共闘を申し入れたい。オリュンポスを討つ狙いは、お互い同じはずだ。お前が攻め入るならば、海獣どもや海洋民を兵力に出す。その代わり、当面、我ら海の眷属の被害を増やしてくれるな」
「申し入れはありがたいが、敵はオリュンポスの山の上だぞ」
 アテナはオリュンポスの守りを固めるために、アテナイの丘から山上へ戻ったと聞く。陸路の遠征に援軍は貴重だが、海の軍団が侵攻できるところではない
「案ずるな。アテナイは水没した。まだまだ嵐がおさまる気配はない。海面の上昇はつづく。オリュンポスの山頂と言えど、ちょっとした丘のようなものになる」
「この異常気象は、お前がやっているのか?」
「無理を言うな。そこまでの力はないさ。ただ、先の予測は、雲や風の動きからできる。予測に乗じて、戦さを進めるまでよ。洪水による海面上昇のぎりぎりを見極めて、上陸作戦を敢行する。嵐の中だ、向こうの守りも薄い。そして、雲が晴れたら、お前の鏡を宙へ解き放て。防御が硬いといっても、光の差し込む道すじくらい、いくらでも見つかるだろう」
 賭けのような乱暴な作戦に聞こえるが、じっさいのところ、メドゥーサにもポセイドン軍にも失うものは少ない作戦だ。膠着状態で疲弊し続けるよりも、有効な作戦である。
 メドゥーサは笑って訊いた。
「お前の予測では、作戦決行の日取りはいつだ?」

   4.

夏のある日、荒れ狂う大嵐の中で上陸作戦が始まった。開始時刻は、暦から計算された、日の出と思しき時刻。
 目指すは岩山の山頂である。大洪水の中、海面からの距離は縮まったとは言え、険しい道のりであることは変わらない。しかも、手なずけられた巨人たちや同盟を結んだ半神半獣のものたちが守備にあたっていた。決して手薄とは言い難かった。
 攻め込むのは海の民、鰓のあるもの、鰭のあるもの、本来ならば陸地に上がることのないポセイドン配下の民人や、海から陸への上陸を試みる、大小の海獣、海洋生物である。これら海の眷属が、メドゥーサとナルシスを中心に、しかし二人からは安全な距離をとった楔形の陣形で波の荒い浅瀬のような荒地を上っていった。そのものたちの姿は、大河の急流を遡上する産卵期の魚のように生命力に溢れていた。
 オリュンポスの側には、さらに、味方がいた。アテナを信仰し、アテナイから同行してきたものを中心とする、人間である。鍛え上げられた肉体と知性を持つ兵士たちが、本能と戦いの衝動だけで進軍する海のものを迎え撃ってきた。
 しかしながら、海上と大差ない暴風雨の中では、海の民が優勢であった。

頭から波しぶきを浴びつづけるような暴風雨の中、メドゥーサとナルシスは巨大な水蛇の背に乗って、陣形の中心にいた。海底の暗闇の中に潜む、眼の退化した大蛇だ。岩肌に硬い腹を擦りながら、進軍をつづける。周囲の海の眷属の守備は固い。だから、中心で守られているメドゥーサたちは敵に襲われる心配はなかったが、それでも人間には過酷な嵐の中の進軍である。ヘファイストスに作り変えられた自分の身体にとっては問題ないが、ナルシスは確実に体温と体力を削られているだろう。
 留守を任せて、島に残してきても良かったのだ。ひとりで戦えないわけではない。しかし、暴風雨と大洪水の中で別行動を取ったら、再会できない可能性が高いだろうと思った。それに、ペルセウスの持っていた、すなわちアテナが彼に授けた盾を戦いに持っていくのであれば、必然的にナルシスはついてくる。どんな鏡にだって恋する相手の姿は映るのだが、この鏡は、かれにとっては特別な、恋人そのもののようになっていた。

山頂の神殿が肉眼でもはっきりと見えるようになってきた頃、雨足が弱まってきた。空も明るくなってきたと思うまもなく、空一面を覆っていた雲に隙間ができ、みるみる青空が広がっていった。
 先ほどまでの暴風雨が嘘のように雨は完全に止み、夏の太陽が顔を見せる。メドゥーサは海蛇を止めて、背中から降りる。ナルシスが降りてくるのを受け止めてから、命じた。
「ありがとう。海の中でしか生きられない者は、全軍、海へ引き返せ! 残っていると干からびるぞ」
 濁流に乗って、鰭のあるもの、鱗のあるものが下ってゆく。あとに残ったものは、ポセイドン水軍の、わずかな人間の兵ばかりである。メドゥーサの周囲には誰もいない。近づくのは危険だと周知されているためである。
 遠くから、呼び掛けてくる太い声が聞こえた。三又の槍の先端が見えた。ポセイドンである。
「ここからは、お前の出番だな」
「来ていたのか? 船上で見物だと思っていた」
「せっかくの戦だ。小娘アテナとも、呆けた弟ゼウスとも、顔を合わせる最後の機会だろうからな」
「神の身でも、最後などと時を気にするものなのだな」
「神々の世界をそう変えたのは、お前の存在だ。俺は、手勢を率いて勝手に攻める。そっちも好きにやれ」
 進軍するポセイドンを見送って、メドゥーサは眼の前で膝をついたナルシスの持つ、鏡の盾にむかって呟く。幾千枚の鏡に向けて発せられた呪文、命令の言葉だ。言葉は、鏡に反射して雲よりも高い上空に待機していた鏡に届き、一斉に降下を開始する。メドゥーサとナルシスの周りには、浮遊する鏡による二重の半球が構成された。その先は中継ノードとなる鏡の集まりと、反射角を調整しながら中継ノードとつながる単体の鏡の連鎖が複雑な光のネットワークを構成し、オリュンポス山の山頂周辺を取り囲んだ。ヘファイストスに作らせた数のうち、半数以上は失ってしまったが、局地戦には十分すぎる数を残している。山頂も近い、取り囲む範囲は狭まっていた。ポセイドンの支援の無い単独行であれば、この距離に辿り着くまでに、反撃を受けていただろう。山全体の規模からすれば、至近距離といえる高さだ。
 ナルシスに盾を持たせて、山頂を目指して二人で進む。小島の家の部屋のように、周囲を囲む鏡が偵察群からの映像――上空からのオリュンポスの映像を映し出している。どの建物も強固な屋根と壁を持ち、柱だけの神殿は外には誰の姿もない。外から、鏡越しに直接屋内の敵と目を合わせることはやはり困難そうだ。建物内部にも鏡を移動させてネットワークを切断されないようにするには、内部を知らなすぎる。かつて、追放される前に知っていたオリュンポスではないのだ。中に入り、直接対峙するしか無いだろう。敵に隙が無いのは、承知していたことだ。
 メドゥーサの歩みに同調して、周囲の鏡も移動し、上空の鏡との連携は常に微調整されていく。確実に周囲の鏡には監視映像が映っている。脳内で、鏡の位置情報を基にした、立体的かつ時間変化を伴うネットワーク構成図を描く。その光の線の格子の下に、山頂の立体像。鏡に捉えた像から再構成したオリュンポスの城、神殿の姿である。
 おそらく、ポセイドンは正門から突入するだろう。同じ門から入って、アテナやゼウスが居るはずの場所にどうやって辿り着くか、立体像を思い描きながら思案する。アテナ神殿の地下、ゼウスの玉座、あるいは、もっと地下深くのどこかか。
 その時、ふたりを囲む半球の、前方左上の鏡の一つが眩しく輝いた。思わず、眼をかばう。
(太陽の光?)
 鏡の自動制御によって角度がずれ、強い光の反射はメドゥーサを狙うルートからすぐに逸らされたが、一瞬で判断したとおり、それは頭上に輝く太陽ヘリオスの輝きが反射したものであった。
 次は、遠距離から光が届く。山頂付近の空中にある鏡が輝いた。最初は小さな光点ひとつに過ぎなかったが、周囲に浮遊する鏡が次々にメドゥーサの方へ太陽光を反射させた。数十の輝きは凹面鏡の効果で光と熱が集中される。これも、即座に避け、さらに周囲の鏡が制御を奪うことで事なきを得る。だが、鏡の制御を奪いにきている敵がいるのだと気付いた。
 ナルシスも狙われたようで、盾で頭を防御していた。その様子でひとまず安心する。鏡のネットワークの状況を脳内でスキャン。
 制御を奪われた鏡の数が、一〇〇枚、五〇〇枚、一〇〇〇枚、とスキャンする間にも膨れ上がる。ネットワークが破壊され、制御を奪われた鏡が別種のネットワークを構成しようとしていた。メドゥーサの合わせ鏡のネットワークは、その眼を起点に、オリュンポス山全域を上空から探り、最終的には生き残っている神々を見ることを目的としている。それに対して、制御を奪われた鏡の一群は、光のネットワークを上空の太陽を起点に、メドゥーサを、より精緻な狙いとしてはメドゥーサの眼を終点に、狙いを定めている。光と熱を集めて、眼を奪い、焼き殺そうということか。
 太陽ヘリオスを起点にしているといっても、ヘリオスが(あるいはアポロンが蘇って?)鏡の制御を奪っているわけではないだろう。鏡の制御自体がどこからきているかをさらに探る。その源はやはりオリュンポス山頂で、メドゥーサは奪われた鏡を奪い返すか、制御機能を殺して墜落させるかを、中継ノードの強力な自動制御に判断を委譲しながら処理。一旦、制御を奪われた鏡は、制御機能が狂ってしまっていて奪い返して正常に機能するものが少ないことが分かってくる。
 これ以上鏡を奪われないように防壁を築くが、相手が優勢だ。
 これほど高度な技術を、ヘファイストス以外の神が持っているという話は聞かない。せいぜい、ゼウスを裏切ったプロメテウスくらいだろうが――

――何百年か待って人間に頼るさ。プロメテウスが〈火〉を与えて、彼らは変わった。

かつてヘファイストスに向けた言葉が、不意に思い出された。アテナに従っている人間が相手だと直観する。メドゥーサは戦いの後にも直接彼らを知ることはなかったが、それは実際にシラクサからアテナイへ流れてきた科学者を中心とした集団の技術力であり、既に、人間がある一面で神々を凌駕している証しであった。
 奪われた鏡の制御機能を破壊し、空からの危険を排除できた頃には、合わせ鏡の大半を失っていた。それでも、メドゥーサとナルシスは、オリュンポスの神域、神々の都市の入り口まで辿り着いた。

   5.

山頂の神域に入る正門は、左右から岩肌が迫る狭い谷にある。木製の門は破壊されているが、ポセイドン軍の兵士たちも大勢倒れている。そして、破壊された門の中央に、三又の槍を構えた石像が仁王立ちしていた。ポセイドンの進軍は、そこで終わっていた。
 正門から先は谷の一本道がしばらく続く。味方の姿もないが、敵の攻撃も絶えていた。
 広い空間に出るが、そこにも待ち受ける敵はおらず、無人であった。険しい山の中に作られた都市は、平野の都市のように広大ではなかったが、いくつもの広場、市場、劇場、大小の神々の神殿などが並ぶ。十二神に列せられる神々の大神殿から、もっと地位の低いものたちの小さな祠までが無秩序に林立している。道は狭く坂や階段が多い。その無人の市中を、目的地、アテナの神殿を目指して進む。
 メドゥーサとナルシスが進む途中、動くものにはまったく出会わない。どこかに潜んでいるのか、廃墟と化しているのか。しかし、鏡の制御を奪った信号は、アテナの神殿から発せられていたはずだ。
 動くものは見ないが、途中で、人型の石像や、腕や足など身体の一部だけの形をした石が転がっている。アテナとの戦いこそ続いていたが、合わせ鏡の向こう側にはオリュンポスも確実に捉えて戦果を挙げていたようだ。山から下りたものも多かったかもしれないが、滅ぼすことはできていたのだろうか。
 狭い路地を縫っていく時に自分の周りに鏡を展開させる余裕はないので、いったん高空へ逃がしたが、上空からの像はすべて頭に入れていたし、それ以上に、身体が意外なほどに覚えていた。遊び場として、あるいは逃走経路として、路地の隅々まで熟知していたことを思い出す。建物に変化はあっても、階段と坂の多い道の作りはほとんど変わらない。むしろ体の違いが、歩幅の違いとなって、段差が気になったりするほどだ。ナルシスが慣れない道に戸惑いながらついてくるのとは、だいぶ異なる。周囲に油断なく目を配りながらも、ほとんど機械的に神殿へ向かっていく。

神殿の地上部分は、台座と円柱しか残っていない。開けた空間に出たので、上空の鏡を呼び出す。制御可能な残存数は三〇〇枚だ。半数を神殿の地下へ潜入させる。上空と地上に残した鏡との連携で制御しつつ、太陽光を照明にして中の様子を探る。メドゥーサは周りに浮かせた鏡に映し出される地下の映像から、全体状況を同時に把握する。動くものがあれば、相手をこちらに振り向かせてしまえよいが、動くものがいない。
 いるのは、地上と同じだ。石となったものたち。ただし、地下のものはみな神々の血統だとその姿から想像がつく。奥へ奥へと鏡を動かすうちに、誰であるか特定できそうなものが現れてきた。自らも地下へ。
 メドゥーサはナルシスと並んで、その石の塊の前に立った。男と女だ。人間よりも体格が大きい。しかし、四肢のバランスが崩れているわけでもない。調和のとれた肉体と堂々とした顔つき。
 ゼウスとヘラでしかありえない。神々の長は、すでに倒れていたのだ。

壁に石化したゼウスとヘラが並ぶ、その地下空間は広かった。メドゥーサの周囲を鏡が取り巻く余裕が十分にあり、天井も高い。地下迷宮のような通路が、すべてこの空間に集まってくるように作られていた。神の名を賭けて堂々と戦うのであれば、ふさわしい場所はここだろうという空間だ。
 ナルシスと背中合わせで立ち、鏡面と部屋の中の両方を
 メドゥーサは鏡面に映る全方位の映像を監視しながら、呼びかけた。
「アテナ、ここはあなたの神殿でしょう。遠慮しないで出て来なさい」
 背後を預けていたナルシスが反応するのが、筋肉の動きでわかった。メドゥーサも背後を向く。
 完全武装のアテナが入ってきた。黄金に輝く兜を被り、身軽でありながら隙のない鎧で胴を守り、剣と鏡の盾を持っている。
「世界をまるごと滅ぼしてしまうような武器は、封印してしまわないとね」
 そんなものになった覚えは無いし、なりたくもなかった。自分がそういうものであると譲歩したとしても、メドゥーサをそう作り変えたのはアテナの命令だ。しかし口論して何か落とし所があるわけでは無い。
「ヘファイストス、ヘルメス、アポロン、ハデスもペルセポネも、そしてアフロディーテもいない。ポセイドンも倒れた。この二人はゼウスとヘラでしょう。なぜ、あなたはまだ生きている? 」
「あなたを倒すため」
 メドゥーサは、一直線にアテナへ頭を低くして突進した。見開いた両眼と頭の蛇が迫ってくるが、アテナは左手の盾で防御するためそれを見ない。縦に頭から突っ込んだメドゥーサを押しとどめると、アテナは右手の剣を振り下ろす。青銅の右腕で受けて切っ先を流すと、勢いよく翼を広げる。翼の幅広さにアテナがひるむ間も無く、その場で羽ばたいて宙に浮く。
 上から攻めようとしたメドゥーサの眼に、しかし、太陽光の反射が差し込んだ。
 一瞬、眩しいと感じただけだがメドゥーサは直感的に理解した。地下に入れた鏡が再び乗っ取られたのだ。
 メドゥーサが制御できていた残り三〇〇の鏡に対して、人間が制御を奪ったまま破壊されずにいた鏡の残存数は一〇〇〇を越えていた。人間は、その一〇〇〇の姿を観測されないように隠して、アテナとメドゥーサの決戦に備えていた。メドゥーサが神殿の上空と地上と地下に築いたネットワークは、一息に丸ごと奪い取られて、一〇〇〇の鏡のネットワークに吸収された。
 メドゥーサは地に降り立ち、また羽ばたき、アテナと戦いつづけたが、その間、鏡から当たる光が動き回る自分に追随する時間が伸びてくるのを感じていた。しかも一方向からではなく、広い空間に浮く鏡が複数の角度からメドゥーサに太陽光を当ててくる。さらに、まっすぐ外から反射されてきた太陽光ではなく、凹面鏡の効果で集光され、熱も明るさも強くなってきた。
(いずれ、焼かれるな、これは)
 青銅の腕の指先で、アテナに突きを連打しながら、メドゥーサは訊いた。
「よく、人間を手なずけたものだな」
「愚かなことを」
 盾と剣で必死に避けながらアテナも応えた。相手の眼を避けながら攻撃に対処するのは困難で、戦いの女神といえども、だいぶ傷を負っていた。
「アテナイの市民はわたしの民だ」
「ここに来てから、生きているものは誰もいない」
「教えておいてやるが、神域に残っているのはわたしだけだ。人間も、半神や妖精も、外へ逃がしている。鏡を奪った戦士たちは、もとよりここにはいない。外部からのアクセスだ。この山に、お前を封印する」
 アテナ神殿は中継基地にすぎない、と言うことらしい。

ナルシスは自分の――そのつもりで独り占めしてから、長い時間がすぎていた――盾を持ち、構えながら、メドゥーサとアテナの戦いを見ていた。鏡が奪われていくのも、メドゥーサが傷つくのも見ていたが、何ができるわけでもなく、するつもりもなく、ただ、その場で見ていた。
 鏡に映る恋する少年のほかは、数十年を共にしていたメドゥーサでさえ、かれは見ていない。見えてはいても、見ていないのだ。

アテナの盾に押し返された勢いで、メドゥーサはナルシスのすぐ目の前に足をついて倒れた。アテナが剣を構えて攻めようとしたところに、二方向から床の石を焼きそうな強烈な光が走ってきた。アテナは気づいて飛び退る。二本の光はメドゥーサに向かっていた。
 太陽光の十字砲火が、メドゥーサに集中する。ナルシスにも、眼の前で蠢く蛇の群れが狙われていることは直感できた。恋の相手のほかには、ナルシスの心を動かすものはないはずだったし、それは単なる反射的な動作にすぎなかったかもしれない。ナルシスは倒れたメドゥーサの上に、鏡の盾を外に向けて飛び込んだ。
 太陽光は盾の鏡面に反射し、拡散した。反射光は、宙に浮く鏡のいくつかの制御機能を破壊し、外からの光の道筋が壊された。
 壊された神殿だけではなかった。床の石を焼くほどの強力な熱量は、盾の鏡面が耐えられるものではなかった。反射されず吸収された熱量が、鏡の盾を破壊した。
 ナルシスがずっと恋しつづけた美しい少年は、もはやどこにもいなかった。
 かれの想いを映す鏡は、喪われたのだ。

メドゥーサは、自分の上に覆いかぶさってきた男を見た。かれが、自分を守ってくれたのだ。どんな意思を持って行動したのか、あるいは偶々なのかは分からないが、それは初めてのことだった。
 数十年の旅を共にして、疲れ、老けた男の顔を見て、水面のように色を変える瞳が、自分を見ていることが分かった。
 今はじめて、ナルシスはメドゥーサを見ていた。鏡に映る、かれの強い想いが作り出したいつまでも美しい少年の顔と異なって、整った顔立ちも皺にまみれている。心を通わせることができたかれを間近で見て、愛しいと思った。

その眼は深い愛情を持って、かれを見つめていた。かれもメドゥーサを見ていた。ナルシスは顔の周りを縁取る、蠢く蛇の鱗がきれいだと思った。
 初めてではない。
 メドゥーサを、見たのはたぶん二度目だ。子供のころに一度、見ていたと思う。きらきらと輝く眼が印象的で、きれいだと思った記憶が微かにある。
 水面に映る少年に恋していたナルシスは、ほんの一瞬でメドゥーサを見ることをやめてしまったので、石にならずにすんだのだが、ついに、またメドゥーサを見るときがきたのだった。
「ずっと、近くにいた……? あなたも、きれいだね」
 異形の姿を間近で見て恋に落ちながら、ナルシスは瞬く間に石となった。

メドゥーサは硬くなったナルシスの体の下から出て、立ち上がった。アテナはまだ立っている。奪われた鏡の攻撃がひとまず停止しただけだ。
 距離を詰めたかったが、走る体力、羽ばたく体力が残っていない。それでも、足を引きずって距離を詰める。お互いにかなり傷を負っていた。血も流れている。今までも、鏡越しでなく直接対峙した神はいたが、戦いに苦戦したのはアテナだけだ。なんとか、目の前に立つ。相手も動けないでいた。すねを蹴って転がし、盾と剣を奪って馬乗りになった。
 両手でアテナの顔を鷲掴みにして、正面からその眼を睨む。アテナの体もまた石と化した。

   *

オリュンポスの神々は滅び、皆、肉体の中、静止した時間の中に閉じ込められた。
 それから長い年月の後、オリュンポス山の神域は風化し神々が住んでいた跡は失われていった。
 メドゥーサには逆探知できず、居所を掴めなかった鏡を奪った科学者たちをはじめ、人間はあらゆる土地に生き残りがいた。やがて彼らは、大洪水の後のエーゲ海に文明を再興していく。
 エーゲ海だけではない。イオニア海、アドリア海、地中海全域からさらに遠くの海へ。また北の大陸へ、南の大陸へ、未知の大陸へ。メドゥーサが感心していた人間たちの貪欲さは、やがて地上を覆い尽くしていく。
 ナルシスは、その生き残りの中にはいない。

   *

喪われた鏡の盾が映していた少年の頭を想い描く。首だけの、きれいな顔の少年が宙に浮いて見つめている。
 神殿の地下の暗い空間に、生きて動いているのはメドゥーサだけだ。彼女には、見つめるナルシスの視線が感じられる。かれの目を意識しながら、首をのけぞらせ声を上げて笑う。くるくると旋回して舞う。
 滅びた神々の前で、メドゥーサは笑いながら、ひとり踊りつづけた。

 

    終 シャンゼリゼ

地上階へ戻ったふたりは、ルーヴルの外へ出た。
 隣接する、広大なチュルイリー庭園へ入る。幾何学的に設計された庭の中央をまっすぐに進む。
 足元の芝は一面等しい長さに刈られて整備され、両翼に立ち並ぶ木々の葉もきれいに形を整えられいる。
 傷のない、人工的な美しさは時間が止まっているようだ。
 八角形の池の周りを半周して、左右の端に立つ美術館には興味を示さずに、ルーヴルとは反対側の出口から、コンコルド広場へ抜ける。

ふたりを見るものは、地上にも、空にも、誰もいない。
 けれども、もし見るものがいたら、気づいたであろう。
 車椅子の男は人間ではない。人形だ。石でできた、人形。

広場からは、シャンゼリゼ通りが遠く凱旋門までまっすぐに見渡せる。
 人も車もまったく見あたらない。
 無人の大通りを前に、人形の座る車椅子を押す女は、立ち尽くす。

冬の日差しの中、女はサングラスを外した。今さら、誰かを気兼ねする必要はないのだ。
 不意に、突風が吹いて、女の身体から体温を奪い、頭に巻いたスカーフを奪った。
 束ねていた髪が吹き上げられる。

(了)

文字数:47550

内容に関するアピール

本来なら、出会うことのない二人、原典のギリシャ神話では接点のない二人です。
  メドゥーサ:見る/見られることで全てを石に変える、世界を滅ぼす武器となり得る存在。
  ナルシス: 自分の鏡像だけを見つづけ愛しつづけ、他人の求愛をすべて拒んできた存在。
 つまり、本来なら視線が交わることのないはずの二人が出会ったら、どのような化学反応があるかを追求する物語を書きたいと思いました。

さらに、この二人を器にしたらできそうなこと、やりたいことを、なんでも注いでしまおうと思い、色々なことを試みました。果たして上手くいっているかは、読んでくださる方の評価に委ねたいと思いますが。

  • 改変神話を元にした、架空美術。
  • 神話の深さと広さの追求。先住民と侵略者の双方の神話が絡み合って成立している複雑さ。地中海全域を舞台にした広大さ。
  • 神話世界のファンタジーのでありながら、同時に、実はサイボーグ・アマゾネスが無数のIoT機器のネットワークを武器に戦うSFであるというハイブリッドな世界観。

毎月の課題を提出していくことで、自分の書けるもの、書きたいことが見えてきたと思います。遠未来の銀河系を舞台にした本格SF、近未来アクション、ヒロイック・ファンタジーと表面的なジャンルは違えど、語っている中身の傾向は同じようです。その異世界において、なお異質な登場人物と世界の関わり、様々なモチーフを、時に歪に、強引にでも組み合わせた世界観といったところです。果たしてそれが上手くいっているのか、まだまだ発展途上だと思いますが、もっともっと面白いものを目指して書き続けたいと思います。

また、最初の頃は2万字を書くたびに息切れしていたものですが、少しづつ長さに慣れ、書き切れるようになってきました。

1年間勉強させていただいて、貴重な経験になったと思います。ありがとうございました。

文字数:768

課題提出者一覧