かたつむりの舟

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梗 概

かたつむりの舟

核医学研究センター主任の須藤隆一のもとに、研修生として永瀬清美がやってきた。清美の胸のポケットには小さくかわいい透明なカタツムリの飾りが揺れていた。放射線を遮蔽するための分厚い壁に囲まれた場所に、一輪の花が咲いたようだった。初日から熱心にGdNCT(ガドリニウム中性子捕捉療法)システムを見学する清美に、須藤は熱心に説明をした。

そのころ、病棟は大騒ぎになっていた。東8病棟に久龍会の組長ががんの治療で、西8病棟には丙午除霊会の教祖、星乃がアルツハイマーの疑いで入院した。

久龍は、保有している広大な裏山から財宝を発掘し、一代で組の勢力を拡大した。丙午生まれの星乃は、妄想が高じて久龍と離婚し、丙午除霊会という新興宗教を立ち上げた。それ以来、二人は犬猿の仲だというのがもっぱらの噂だ。組員や信者が大勢出入りする中、一触即発の事態が起こらないかと、病院中に緊張が走る。

二人は治療のために、核医学研究センターを訪れる。多くのスタッフがおびえる中、清美が率先して二人に対応する。清美が患者の信頼を得ていく姿を、教育係の須藤は頼もしく見ていた。

GdNCTシステムは、最大出力に向けて調整が続けられている。深夜、一人残ってサイクロトロンを調整する清美の過剰なほどの入れ込みように、須藤は体調を気遣う。日中は時間もないのだろうと考えたが、ふと、久龍と星乃の担当であることに思い至った須藤は、不安を抑えきれない。

サイクロトロンから取り出した中性子を、悪用するつもりか?

清美は二人の病室に頻繁に出入りしている。疑いの余地はおおありだ。病院のスタッフからも懸念の声が上がり始めた。清美を疑ったままではいられない。サイクロトロンの下に落ちていた清美のカタツムリの飾りを拾い上げ、須藤は真相を明らかにするように、と清美に詰め寄る。清美は悪用する気は全くない、ときっぱり否定した。

満月の夜、核医学研究センターは組員と信者に占拠された。久龍がやってきて須藤にサイクロトロンを使わせてほしいという。断る須藤に久龍が告げる。

清美は並行宇宙のタイプIV文明の人間だ。ワームホールを通ってこの宇宙の探査に出かけてきたが、ダークエネルギーを利用する推進機関が故障し、裏山に不時着したところを久龍が助けた。帰還するためには、エンジンを起動させるための中性子が必要だ。何十年もかかってやっとサイクロトロンに手が届いた。人助けだと思って、見逃してくれないか、と。

須藤は信じられない。そこに星乃も現れる。久龍と二人、稼いだ財産をすべてはたいて、宇宙船も修理した。娘同然に大切に思っている清美を、何とか元の世界に返してやりたい、と懇願する。世の中を欺いてまで娘の帰還を望んでいた二人に根負けし、須藤はサイクロトロンを始動させる。

目もくらむほどのまばゆい光があたりを包み、気づけば須藤は一人サイクロトロンの前に立っていた。足元に小さなカタツムリの抜け殻が転がっていた。

(1199字)

実機見学:O医科大学

参考ホームページ:
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構 量子医学・医療部門 https://www.qst.go.jp/site/qms/
日本中性子補足療法学会 http://jsnct.jp/index.html
日本核医学会 http://www.jsnm.org/

 

 

 

 

文字数:1358

内容に関するアピール

加速器というと、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)や、国内誘致中の国際リニアコライダー(ILC)がぱっと頭に浮かびますが、実は医療機関にもあります。しかも、国内に200か所以上設置されていて、悪性腫瘍に対する重粒子線治療などに使われるほか、がんやアルツハイマーの検査に用いられるPET用放射性医薬品を製造するための設備となっています。

実際、加速器を見る機会がなく、そんな大きなものが病院の一体どこに、ともやもやしていましたが、このお題をいただき、これ幸いと見学させていただきました。治療用のサイクロトロンはかっこよかったです! そして、カタツムリみたいでした(笑)

先進文明はワームホールを作れる小惑星サイズの巨大な粒子加速器を作れるだろう、と言われています*1が、さらに進めば腕時計サイズの加速器もきっとできるはず、と考えて、未来の推進機関用の加速器は腕時計サイズとしました。

参考文献
*1 カク,ミチオ(2019)『人類、宇宙に住む 実現への3つのステップ』斉藤隆央訳、NHK出版

 

文字数:444

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カタツムリの舟

清美は、物心ついた時から、アリシアと暮らしていた。
 いつも一緒にいた。姉妹でも親戚でもない。でも、なぜ清美の家に住んでいるのか、どういう関係なのか、気にしたことはなかった。二人はとても仲良しだったから。
「アリーシャ」
「キーちゃん」
 二人はそう呼びあって、本当の姉妹のように育った。
 小学校の入学式の日、一緒に行きたい、と懇願する清美に、「アリシアは学校に行かないの」と、母・星乃が言った。アリシアがうちにいることは、誰も知らないの。内緒なの……
 母にそう言われて、清美はがんばった。大好きな先生にも黙っているのは難しかったけど、もし誰かに知られたら、アリシアがどこかへ行ってしまう気がした。絶対、誰にも言わない! そう心に決めた。
 農村に住む家族は少なく、近所に遊ぶ友だちもいない。だが、清美にはアリシアがいた。毎日飛ぶように帰ってきた。アリシアはいつも玄関で待っていて、清美が帰ってくる時間ぴったりに、ドアが開く。
「キーちゃん、お帰り!」
「アリーシャ、ただいま!」
 外で働く両親の帰りは遅い。清美とアリシアは、おやつを食べ、宿題をした。学校に行かなくても、アリシアは勉強ができた。清美が困っていると、優しく教えてくれた。アリシアと一緒に勉強するのは、ものすごく楽しい。特に、星や宇宙の話を聞くのが、清美は大好きだった。
 あっという間に宿題を終えると、二人は外に飛び出した。夕暮れまで外で遊べる。いつの間にか清美と並ぶほどの背丈になったアリシアが、手を引く。
「どこにいくの?」
「ちょっと行ってみたいところがあるんだ」
「あんまり遠くに行くと、パパに怒られるよ。明るいうちに帰れないよ」
「大丈夫。すぐだから」
 林の中をどんどん走る。そんなに遠くに行ったら、迷っちゃう。手を引かれながら清美は心配になる。裏山に続く道に出た。父に、決して入らないように、と言われていた道だ。
「アリーシャ、そっちには行けない。パパが行ってはダメって……」
 振り返ったアリシアの黒い瞳は、少しうるんでいた。
「ちょっとだけ」
 アリシアの小さな声には、お願い、の響きがした。清美も切なくなる。わかった。ちょっとだけ……。
 二人は手をつないで一心不乱に走った。まだ時間があると思っていた夕暮れが、すぐそこまで来ていた。走る二人の長い影が、木立の中に落ちた。
 清美の父・久城龍之介の保有する土地は広大だ。林業や農業の担い手が激減した今、久城は廃業した人々から託された25㎞2を超える土地を保有する。裏山と家族が呼ぶ小高い丘が、ほぼ中央にあった。裏山に登れば、広大な土地を一望できる。だが、それは久城に厳しく禁じられていた。
 二人はやがて、裏山を回り込むようにして反対側のふもとに出た。樹木が、そこだけ生えてない。ざっくり削り取られたように、こげ茶色の土がむき出しになっている。その真ん中に、アリシアは清美を連れて行った。空が広く見える。
 ――ここ、来たことがあるような気がする。
 思い出せそうで思い出せない、そんなもどかしさを感じて隣を見れば、アリシアは夕焼けの空を何も言わずに見上げていた。
「なにが、あるの?」
「あ、ごめん、ごめん。いいもの見つけたから、キーちゃんに見せようと思って」
 アリシアは、傍らに倒れている大きな木に走り寄り、根元に手を入れた。戻ってくると、握った手を清美の目の前で開いた。
「うわっ! きれい!」
 小さなカタツムリの抜け殻だった。色素が抜けて、ガラスのように向こう側が透けて見える。夕日があたって、きらきらと輝いた。手のひらで転がしながら、清美はアリシアを見た。
「キーちゃんにあげる」
「え? こんなきれいなの、くれるの?」
 うん、とアリシアはうなずいた。大好きなキーちゃんに、あげたいの。そう言って、にっこり微笑んだ。
 うれしい、うれしい、うれしい!
 清美はかたつむりの殻を壊さないように、両手でそっと握った。手のひらに、カタツムリの殻が冷たく触れる。このうれしい気持ちを、アリシアにちゃんと伝えたい。そう思って目を上げると、アリシアはなぜか少し寂しそうだった。胸の中心が、ぎゅっとなった。
 どうして、アリーシャはそんな顔をしているの? 思わず飛びついて、清美はアリシアを抱きしめた。アリシアのさらさらした長い髪が、頬にあたった。アリシアの腕が清美の背中に回って、ぽんぽんっと軽くたたいた。まるで、私がなぐさめられてるみたい。ふふっと笑って清美は目を開けた。
「あ! 日が沈んだよ!」
 パパにばれちゃう! また手をつないで、来た道を一心に走った。
 今日のことは内緒にしておこう。アリシアと小さな秘密を共有して、清美の足は軽かった。
 家の前では、案の定、久城が二人を待っていた。林の中から父の姿を見つけると、どちらともなく笑いだした。走りながらおなかを抱えて、転がるように久城のもとに走り込む。
「こら。日が落ちる前には帰ってくるっていう約束だろ」
 にぎやかな娘たちに怒る気の失せた父の、口調は優しい。ごめんなさーい、と答えて、清美とアリシアは玄関に走り込んだ。珍しいことに、星乃が台所に立っていた。
「ママ! 今日はどうしたの?」
「今日はね、お月見だから、早く帰ってきたの。パパにススキを取ってきてもらったから、縁側に飾ってくれる? あ、アリシアは、お団子を運んでね」
 手際よく二人に指示を出し、大きなお盆を抱えて後を追う。お盆の上には、炊き立ての栗ご飯がこんもりと盛られている。
 広い庭に向かって大きく開口している縁側からは、東の空に上ったばかりの真ん丸の月がよく見えた。差し込む月光をたよりに、月見の準備が進む。
四人で縁側から、煌々と輝く十五夜を眺めた。きれいね、と星乃がうっとりとつぶやく。清美は、並んでいるお団子に手を伸ばしたくて仕方がない。ふと隣を見れば、アリシアはじっと月を見つめたまま、瞬きもしない。凛とした横顔が、少し寂しそうに見えた。
「アリーシャ、お団子、食べよう!」
 思わず大きな声が出た。びっくりしたように振り向いて、アリシアはうん、と大きくうなずいた。二人とも、月より団子だな、と久城が笑った。まったく、しょうがないお姫様たちね、と星乃は秋の食材がたくさん並んだお膳を出した。
 長引いた残暑が少し和らいで、遠慮がちに秋の虫たちが鳴き始めている。影ができるほどまぶしい月光の下、家族の楽しい時間はいつまでも続いた。

清美は中学生になった。
 部活を終えて帰宅する清美を、アリシアは一人で待っていた。
 ただいま、と小さく声をかけて玄関を上がる。広い日本家屋は暗く、しんとしている。足音を抑えて廊下を歩けば、アリシアの部屋から、あかりが漏れていた。声をかけようと覗いて、はっとした。アリシアが床に座ったまま、動かない。その表情は今まで見たこともないほど、沈んでいた。
「具合、悪いの?」
 いきなり空いた障子に驚いた表情で、アリシアが顔を上げた。大丈夫だよ、と作ったような笑顔を向けるが、その漆黒の瞳は潤んでいるように見えた。
「でも、なんか、元気がないよ……」
「大丈夫。何でもないよ」
 何度聞いても、何でもない、の一点張り。泣いているわけではない。しんとした静寂がその瞳には宿っていて、清美を共に悲しみの沼に引き込んだ。
 両親は家を空けることが多くなった。清美も部活で帰宅が遅い。アリシアが沈んでいることが多くなったのは、一人ぼっちで家に閉じこもっているからに違いない。だが、アリシアの存在は誰も知らない。一緒にどこかに出かける誰かもいない。
 姉妹同然に育ったアリシアをどうにか幸せにしたくて、清美は悩んだ。
二人で留守番をする寂しい夜は、静かに更けていった。
 やがて、清美は誰もいない家に帰ってくることが多くなった。

ある夜、清美は両親の言い争う声で目を覚ました。
 最近、星乃はアリシアをよく連れだすようになっていた。小さいときから、アリシアは家族の表情を見て、体調不良を言い当てた。まだ発病していない時から、いつ、どういう症状が出るから、と前もって薬の用意をさせた。その不思議な能力を、占い師として身を立てた星乃は利用したのだ。
 人の表情や身体のわずかな兆候から、完璧に病気を当てる星乃は、いつの間にか、大勢の信奉者を持つようになっていた。
「アリシアを、あまり人前に出さないでくれ」
 アリシアを秘密にしたい久城は、星乃のやり方が気に入らない。
「大丈夫よ。――だれもアリシアの正体なんて気にしないから。興味があるのは、みんな自分の身体だけ。自分が健康でいられれば、それでいいの」
 星乃が投げつけるように久城に言った。
 ……アリシアの正体?
 障子の向こうで聞こえた声に、清美はぎくりとした。姉妹でもないのにずっと一緒に暮らしていた。何も疑問に感じなかったといえば、嘘になる。だけど、アリシアがだれかなんて、聞くことを許されなかった。
「あなただって、アリシアの宇宙船に入っているものを売って儲けているじゃないの」
 ……アリシアの宇宙船?
 その言葉を聞いた瞬間、記憶の底に静かに沈んでいた光景が、清美の脳裏に一瞬にして広がった。
 昨日のことのように思い出されるあの日の出来事を再体験し、清美は衝撃を受けた。

見渡す限り茶色の大地に、木枯らしが枯葉を舞い上げる。
 周囲を林に囲まれた広大な畑は、作物の収穫もとうに終わり、こげ茶色の土がうねるように横たわっていた。
 その片隅で、清美は一人座ってスコップで熱心に土を掘り返していた。傍らには掘り返された土が山になっている。黙々と、清美はスコップを動かした。背中に背負ったエプロン姿の人形が、清美の動きに合わせて足を揺らす。
 土で真っ黒に汚れた小さな手が止まり、空を見上げた。
 広い空を渡る風の音。たぶん、風の音。誰かが呼んだような気がしたけれど、それは空耳だ。あたりを見回しても、誰もいない。周りの木立は灰色の枝を天に向けていて、風が吹き抜けるたびに細かく震える。
 背中の人形を下して胸に抱いた。土まみれになっているが、かまわない。
「そろそろ帰ろっか」
 清美は人形の顔を見てにっこり微笑んだ。人形は何も言わない。地面に置かれたスコップを取り上げ、人形を手に、清美は畑を後にした。防災無線が小さく『七つの子』を歌っている。もうすぐ、ママが帰ってくる。土に汚れた赤い長靴は、次第に動きを早め、いつしか駆けだしていた。
 畑から家の角までは、清美の足でも十分あれば着く。
 息を弾ませて清美は門の前に立っていた。西の空には灰色の雲が低くかかっているが、その上には真っ赤な夕焼けが広がっている。『七つの子』が終わった頃、ここで待っていれば、ママは帰ってくる。清美ははやる気持ちを抑えきれない。時々伸びをして遠くを眺めた。
 舗装されていない細い道の向こうに、赤い小さな車が現れた。
「ママ!」
 聞こえないとわかっていても、つい叫んでしまう。車はごとごとと揺れながら近づいてきて、道の向かいの空き地に止まった。ドアが開く。
 清美は待ちきれず、人形とスコップを放り出して駆けだした。車から降りた母にしがみつく。
「ママ、お帰り!」
「ただいま。今日もいい子にしてたのね」
 頭に優しい手のぬくもりを感じ、清美は真っ赤な頬を星乃にこすりつけるようにしてうなずいた。子犬のようにまとわりつきながら、庭を横切って玄関まで歩く。星乃に促されて振り返り仰ぎ見た空には、三日月と宵の明星が夕暮れに明るく光っていた。
「きれいねぇ」
 うっとりとつぶやく星乃の息は白い。はあぁ、と清美も白い息を吐いてみる。
「息が白いよ!」
「ほんとだ。寒くなってきたね。早くおうちに入ろう!」
 星乃に手を引かれて玄関に向かう清美に、後ろから声がかかった。
「お嬢さん。何か、忘れ物、してませんか」
 振り返れば、庭先で父が何かを高くあげていた。目を凝らしてみれば、清美の人形だった。急いで駆け寄る清美に、久城は穏やかに笑いかける。
「こぉら、勝手にいなくなったら駄目じゃないか。パパ、探したんだぞ」
「えー、キーちゃん、また勝手にどこかに行ってたの?」
 清美の後を追って、優しい声が質した。
「目を離したすきに、いなくなっちゃってさ。まあ、いつものことだから、お前が帰ってくるときにはうちに戻るだろうと、気にはしなかったけど」
 久城から受け取った泥んこの人形を見ながら、新しいお人形が欲しいなぁ、とのんきに思っていた清美は、ふいに後ろから首根っこをつかまれた。ちょっと、キーちゃん。清美の視線と合わせるように星乃がしゃがむ。
「パパがお仕事してるところから離れちゃダメって、いつも言ってるでしょ」
 星乃の、とってつけたような怖い顔。
「……」
「まあ、いいじゃないか。自立してるってことで」
 黙っていれば、上から助け舟がくる。
「あなたがそんなに甘いから、キーちゃんが言うことを聞かないんです」
 はいはい、と背中で答えながら、久城は農具をもって納屋に消えた。
 清美は、ママ、おなかすいた! と叫びながら、星乃の暖かい手に引かれて家に入った。
 しんと冷え込んだ夜だった。
 三人が川の字になって寝静まった真夜中。いきなりの轟音に、清美は驚いて跳ね起きた。障子の向こうは月夜のように明るい。地響きがして、家じゅうのガラスや障子が震える。台所では食器が落ちて割れる音がした。
 おびえる清美を、星乃が懸命に抱いていた。久城が二人をかばうように、背中を見せていた。
 轟音がやむと、あたりは静寂に包まれた。外もいつの間にか暗くなっていた。
「今のは、何?」
「わからん。……ちょっと見てくる」
 そう立ち上がった久城を、星乃が必死に止めた。
「月も出ていないのに、真っ暗闇なのに、そんなときに出て行かないで!」
 取り乱す星乃を見て、さらに清美の恐怖心は募る。久城の袖をぎゅっと握った。
「……わかった。明日の朝、行くよ」
 久城の声に安心して、清美は星乃に抱かれたまま、布団の中に戻った。人形も一緒に抱いて、いつの間にか寝入っていた。
 翌朝は抜けるような青空だった。ざくざくと霜柱を踏みしめて、久城は裏山に続く道を歩く。少し離れて、防寒服に身を包んだ清美の手を引き、星乃が続いた。林の中の細い道を、無言で進む。小高い裏山に登れば、あたり一面が見渡せた。
 清美の足では、久城のスピードについていけない。もどかしげに手を引く星乃に合わせて、いつしか小走りになっていく。それでも距離は開いて、久城の背中は裏山の木々の間に見え隠れしながら、やがて見えなくなった。清美はだんだん急になっていく上り坂を、息を切らして歩いた。
 山頂付近で、久城は立ち止まっていた。星乃と清美が隣に並んで麓を見下ろす。
 そこに、昨夜の轟音の原因があった。
 冬枯れの木々をなぎ倒し、えぐられた大地が一直線に伸びていた。
 清美の手を握る星乃の手に、力がこもる。
「これは、……なに?」
 問いかける星乃に、久城はゆっくりと首を振った。見上げれば、いつもは優しい父の顔が険しい。それが、清美をより一層不安にさせる。
 久城の左手が上がって、前方を指さした。百メートルと離れていないその場所に、――樹霜できらめく木々の重なりの向こうに、差し込んだ朝日を反射して虹色に輝く「何か」が垣間見えた。
 星乃の腕が清美を引き寄せた。その瞬間、久城は一気に斜面を駆け下りていった。
「パパ!」
 無我夢中で叫んだ。怖かった。得体の知れない何かがそこにある。行かないで! そう口に出したつもりが、ただの叫び声になった。
 叫び続けて、その瞬間、抱き上げられた。
 星乃の顔が、すぐ隣にあった。母も同じように険しい顔をしていた。
「ママ! やめよう。行くの、やめよう!」
 清美を抱いたまま、星乃は瞬きもせず久城の後を追った。星乃の腕の中で、清美は暴れた。ダメだよ。行ったら! 帰ろうよ! と叫び続けながら。
 やがて、木立の向こうに久城の背中が見えてきた。オパールのように光る細長い物体が、久城の向こうに横たわっていた。星乃が踏む枯葉の音に、久城が振り返る。清美を抱いたまま、星乃は息をのんだ。
「……大丈夫なの?」
「わからん」
 星乃の首に両手をまわしたまま、清美はゆっくりとその物体を見た。叫び疲れていた。喉はカラカラだ。家族を包み込む冬の朝の静寂が、ひたすら不安だった。
 やがて、久城は意を決したようにその物体の周囲を観察し始めた。清美は星乃に抱かれたまま、少し離れて父を見ていた。
 こげ茶色の土に先端を突っ込んで止まっているその物体は、縦は一メートル、横幅は五十センチ弱といったところか。玉子の両端を細長くしたような、均整の取れた流線型をしていた。全体が滑らかな乳白色で、光の加減で青や緑に輝く。
 こんなきれいなものは見たことない、と清美は思った。先ほどまでの不安はどこかへ吹き飛び、早く見たいとうずうずした。無意識に手を伸ばす。その時、久城が星乃を呼んだ。声色が緊急事態を告げている。
「大丈夫なの?」
 駆け寄る星乃の腕の中で、清美は見た。オパール色の壁の一部が開いている。
「あなたが開けたの?」
「自然に開いた」
 清美には両親の言葉は聞こえない。一点に目が釘付けになったまま、離れない。
 ――あれは、なに?
 物体の内部から、久城がそっとそれを取り出した。
 長いサラサラの髪をした、真っ白な、かわいい顔をしたお人形。清美にはそう見えた。キーちゃんの、新しいお人形だ!
 久城に抱えられた人形の胸が動いている。人形なのに、息をしている。
「パパ。お人形さん、寝てるの?」
 久城と星乃がはっとした。
「キーちゃん、お人形さんじゃないのよ。……たぶん」
 星乃が心ここにあらず、といった体で答えた。
 ――それが、アリシアだった。その時から、アリシアは清美の家族となった。
 両親は清美にアリシアの世話を任せてくれた。清美はアリシアに夢中になった。ちょうど新しいお人形が欲しかった。ちょうど、こんな素敵な、かわいいお人形が。しかも、アリシアはお話ができる。一人で動ける!
 姉になった気分でお世話をし、一日中、二人はずっと一緒に過ごした。

――アリシアは、どこかから来たの?
 この光景は、本当なの? 光る筒に入って、アリシアは裏山の向こうに落ちてきた? それなら、誰にも知らせてはいけない、と口止めされたのも、腑に落ちる。
 人形のように小さかったあの日のアリシア。でも、その姿は今と同じ。清美が子どもから少女に成長する間に、アリシアは身体の大きさだけが変わっていた?
 アリシアはたくさんのことを知っている。今でも、清美に勉強を教えてくれる。時々、先生よりも世界を知っているのではないかと舌を巻くほどに。学校も行かないで、どうして勉強ができるの!?
 アリシアは、……なに?
 次々に疑問がわいて、めまいがした。へなへなと床に座り込んだ。記憶が、地続きになる。あの夜、アリシアはどこかから落ちてきた。いつの間にか、家族同然に暮らしていたけど、アリシアは一体?
 清美の苦悩も知らず、両親の言い争いは続く。
 パパとママの喧嘩なんて、聞きたくない! 
 ――でも、知りたい。本当のこと。
 ……アリシアのこと!
 清美は両手で顔を覆ったまま、その場から動けなかった。
 ――そして、知ってしまった。脳裏に渦巻くあの日の光景が、事実だったと。
 アリシアは並行宇宙から来た。この世界の人ではない……
 父の声が語った。アリシアは向こうの世界に帰りたがっている。帰してやりたい、と。
 母は言う。そう言いながら、あなたは宇宙船の貴重な資源を、使っても使っても減ることのない魔法のような資源を、独り占めしてるじゃないの。
 いい争いは収まらず、二人はそれぞれ席を立った。真っ暗な廊下で、清美は一人、膝を抱えてうずくまっていた。
 ――明日は、学校行けないな。きっと、目が腫れて、ひどい顔だ。
 アリシアが、別の宇宙から来た人でも、何でも構わなかった。家族が清美に事実を隠していたことが、一番つらかった。姉妹のように、親友のように、すべてを信頼していたアリシアも、自分には何も教えてくれなかった。
 アリシアが悩んでいるなら、一緒に悩みたかった。一緒に悲しみたかった。私が一番にわかってあげたかった。
 しゃくりあげる声を抑えながら、清美は長い間座り続けた。

やがて、久城と星乃の争いは決裂した。
 丙午生まれの星乃は大勢の信奉者を集めて、丙午除霊会という新興宗教を立ち上げた。アリシアは星乃とともに行った。
 清美は、アリシアと話をすることも、目を見ることもできなくなっていた。
 真実を知ってしまったあの晩以来、清美はアリシアを避けた。家の中で、いつものように顔を合わせても、さっと視線をそらして、足早に立ち去った。アリシアが、後ろから清美を呼んでも、聞こえないふりをした。そうしているうちに、アリシアを家の中に感じなくなった。
 これでいいの。
 清美は自分に何度も言い聞かせる。
 幸せだった私の家族がバラバラになったのは、アリシアのせい。
 心の底で、小さな清美が叫んでいる。――暖かい家族を返して! と。
 清美もまた、久城の家から出た。遠く離れた大学をわざと選んで。
 ひとり暮らしを始めながら、そういえば、と清美は思う。アリシアの底なし沼のような漆黒の瞳を見ていると、悲しみで胸がつぶされそうになった。あの目を見て、父も母もアリシアをもとの世界に帰したいと、それぞれに考えたに違いない。目的は一つなのに、いつしか家族はバラバラになった。
 あの幸せだった家族を返してほしい!
 小さな部屋の中で、清美は眠れぬ夜を幾度となく過ごした。やがて、過去を封印することによって、心の平安を保つことを学んだ。

薬剤師となった清美は、社会人五年目の春に、大学病院の核医学研究センターに研修生として赴任した。自分から望んだわけではない。教育プログラムに組み込まれた院内研修だ。
 核医学研究センターは、放射線を遮蔽するための分厚い壁に囲まれた建物だ。地下一階、地上三階の真四角な建物は、白と茶色のツートンで、四分の三には窓がない。残りの四分の一は、全面ガラス張りのモダンな造りだった。古びた大学病院の施設の中ではかなり目立つ。ガドリニウム中性子捕捉療法の臨床研究を実施するために、鳴り物入りで建設されたと聞いた。その中の放射性医薬品を合成する部署が、清美の新しい職場だ。
 清美の指導教官も兼ねる主任の須藤隆一は、真四角な顔がそのまま性格を表しているかのような、実直な人物だった。赴任初日に、清美を連れて施設の中を案内してくれた。
 二階まで吹き抜けのエントランスには、ゆったりとした待合室が併設されていた。ホテルのラウンジのようですね、と思わず言葉を漏らした清美に、須藤は、そうだろう、と言って笑った。
「僕が以前勤めていた施設は、穴倉みたいなところだったから、別世界のようだよ」
 医療用とはいえ、放射性物質を扱う施設には風当たりが強い。核医学は検査としても治療としても認められてはいるが、なかなか日の当たる場所には出ていけなかったのだろうと、清美は思う。
 とはいえ、ガラス張りの区画はエントランスだけで、その向こうは窓がない。治療が行われていない時間は照明も落とされて薄暗い。突き当りの角を曲がり、靴を履き替え、放射性医薬品の合成室に向かう。何重にもドアで仕切られた、細長い部屋だ。壁一面に、銀色の大型冷蔵庫のような箱が並べて置かれている。
「これが放射線を遮断するホットセル。この中に合成装置が入っている」
 須藤が扉を開けると、中には細いチューブが至る所につながった、小さな銀色の装置が入っていた。
「これが、放射性医薬品の合成装置ですか?」
 思ったより小さい機械に、清美は拍子抜けした。
「だいぶコンパクトになったんだよ。最初のころはダサくってさ、ただの大きな箱にチューブがついてて。この合成装置は、すっきりしてるだろ。感心したね。ひとめぼれしちゃうぐらいだ」
 装置の中が良く見えるように、前面のパネルを開けて、須藤はこまごまと説明をする。必死に理解しようとするが、並べられる試薬名は聞きなじみのないものばかり。清美は大きなため息をついた。これは、早く慣れるしかない。
「この奥のチューブに、サイクロトロンから18O水が入ってきて……」
 サイクロトロン?
「須藤さん、サイクロトロンって、加速器ですか? 素粒子の研究とかに使われる?」
「あれ? そこ、反応する?」
 須藤はにやりと笑って清美を見た。あまり興味の湧かない話に付き合ってる感じが、もろばれだったか……。清美は、すみません、と小さくなった。
「そういうものが、病院にあるなんて、意外だったんです」
「見てみる? サイクロトロン。この後ろの部屋にあるんだけど」
「ほんとですか!?」
 手に職をつけたくて薬学部に進学したが、清美は子どものころから物理や天文が好きだった。一緒にいたアリシアが楽しそうに話を聞かせてくれたから。
 ふと、アリシアを思い出して、清美の胸は痛んだ。もう家族のことは考えないようにしていたのに。治りかけのかさぶたがはがれた感じ。中の傷は、全然癒えていない。
「行くよ」
 須藤の声で我に返った。
 すたすたと狭い廊下を行く須藤を追いかけて、清美は後をついていった。合成装置のちょうど裏側に狭い部屋があった。三メートル四方の部屋の中心に、高さが二メートルほどの白い大きな箱が設置されていた。太い電線が何本も床を這っている。箱の中には、何本ものチューブが接続された銀色の四角い板状の物と、それを挟むように水色の大きな円形の物体が床に垂直に置かれていた。
「これが、サイクロトロンですか?」
 水色の丸い物体を指さした。
「それはマグネット」
 マグネット?
「どこで粒子を加速するんですか? この丸いところがそうかと思っていましたけど」
「両側をマグネットに挟まれたここ。この銀色の箱の中が真空になっていて、その中で加速されている」
「なんていうか、……小さいんですね」
 カタツムリみたい、と思ったが、口には出さなかった。
「放射性医薬品の合成に使う陽電子は、そんなに高いエネルギーがいらないから。このぐらいの超小型加速器で十分なんだ」
「そうなんですか」
 ちょっとがっかりした顔になったのだろう。須藤が聞いた。
「じゃあ、とっておきの大きいやつ、見たい?」
 え? 大きいやつ?
 清美の顔を見て、須藤がにやりと笑った。
「まあ、CERNみたいなのを期待されちゃっても困るけどさ。治療用のはもっと大きいよ」
 ついてきて。と、すたすたと部屋を出ていく。
 廊下に出て、待合室の隣を通り過ぎようとして、ちょっと戻ってきた。
「この部屋。ここがわが施設の売り物、中性子でがんを治療する場所だ」
 のぞき込んだ広い部屋には、壁際にベッドが置かれていた。
「奥の部屋にサイクロトロンがあって、壁の向こうで発生させた中性子が患者の腫瘍にあてられる。最新の、ガドリニウム中性子捕捉療法」
 須藤は胸を張る。だが、殺風景な部屋は、使われているようには思えない。
「まだ、稼働していないんですか?」
「もう少し、かかるかな。最終調整中なんだ」
 清美から視線を外して頬をかき、須藤はまたすたすたと歩き出した。治療室の隣のドアをはいると、きれいなロビーとは裏腹の、舞台裏のようなコンクリートむき出しの場所だった。人の行き来が想定されていない非常階段を歩くような、そんな狭い場所を通り抜ける。
「ここだ」
 厚いドアをくぐると、縦三メートル、横七、八メートルはくだらない、大きなオフホワイトの金属の壁が目の前にそびえていた。下からは、太い管や大きなボルトがのぞいていた。工場のようだ、と清美は思った。須藤は回り込むようにして奥に入っていく。見れば、よくもまあ、こんなにつけたものだ、と思うほどの電線が、床に、壁に、天井に走っている。
 側面を通り過ぎて、清美ははっとした。この水色の円盤。さっき見た小さなサイクロトロンは縦だったけど、ここでは横になっている。しかも、すごく大きい。直径五メートルぐらいか。
「須藤さん、これ、サイクロトロンですよね?」
 思わず声が弾む。
「だいぶ大きいだろう?」
「大きいです!」
「医療用では、国内最大級だ」
 須藤の声も誇らしげである。
 サイクロトロンからは、陽子ビーム輸送装置が壁の向こうの治療室に向かって伸びている。輸送装置にも様々な機器が取り付けられていて、太い電線やチューブが至る所に伸びていた。陽子ビームの軌道を制御するため、小ぶりのマグネットも取り付けられていた。
 すごい、すごい、すごい!
 サイクロトロンを実際に見ることなんてないと思っていたのに、こんなに身近にあるなんて。――これほど心が弾むのは、いったいいつ以来だろう。思い出せないほど、久しぶりだった。記念写真を撮ってもいいですか? と須藤に聞くほど、清美は舞い上がっていた。

清美が核医学研究センターで研修を始めてから、約半年。
 残暑が厳しい中、病棟は大騒ぎになっていた。東八病棟に久龍会の組長ががんの治療で、西八病棟には丙午除霊会の教祖がアルツハイマーの疑いで入院した、と話好きの看護師が教えてくれた。
 東八病棟と西八病棟は、ナースステーションを挟んで同じ階にある。その階の両端にある特別室に、久城と星乃は時を同じくして入院してきた。大学入学を機に家を出てから、すでに十余年、両親とは連絡を取っていない。何度も電話や手紙がきたが、すべて無視していた。こんな形で、消息を知ることになるとは、思いもしなかった。
 ――アリシアは、どうしているだろう。
 清美が避けるようになってから、いつも一人寂しそうな顔をしていた。そのアリシアの面影が、清美の脳裏をよぎった。打ち消すように頭を振り、顔を上げる。もう、過去に引きずられたくない。壊れてしまった家族に、思いを残したくない。
 清美は意を決して、二人の部屋を訪れた。見舞客もほとんど帰った消灯前の病棟で、久城も星乃も清美の姿を一目見るなり、目を潤ませた。会いたかった、とうれし泣きに泣いた。両親は年老いていて、流れた年月を感じさせた。清美の手を取る久城はやせていて、野良仕事に精を出していたころの力強さは感じられなかったし、星乃のきれいだった髪は乱れ、顔にはしわが刻まれていた。
 清美は動揺していた。両親がこんなに弱ってしまうとは、考えてもみなかった。もう家族ではない。私を娘だと口外しないで、と言いに来たはずが、結局、父と母の顔を見るだけになってしまった。誰もいない廊下を肩を落としてとぼとぼと引き上げる。
 照明の落とされた玄関を通り過ぎるとき、ふと待合室で人の気配がした。
 暗がりに目を凝らすと、長い髪をした人影が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
 暗くて顔は見えない。でも、わかる。変わっていない。あの日のまま。
「キーちゃん」
 懐かしい声が、清美を呼んだ。
 ――アリーシャ!
 喉元まで一瞬でこみあげてきた声を、ぐっと飲み込んだ。
 唇を引き結んで立ち尽くす清美の前に、アリシアが立っていた。真っ暗なのに、そこだけスポットライトがあたっているかのように、アリシアの姿が浮かび上がって見えた。胸が、詰まる。うれしさなのか、憎しみなのか。清美には判断がつかない。
 清美を見つめるアリシアの瞳。吸い込まれそうな深淵が、清美の視線をとらえて離さない。ふっと、悲しみの波が胸に届いた。アリシアの、声にならない叫び。はじめはさざ波のように、そして次第に津波のように押し寄せる、アリシアの感情。清美は飲み込まれていった。息ができない。思わず目をつぶった。
 我に返った。そうだ。この目だ。パパもママも奪った目。幸せな家族を奪った、アリシアの瞳。
 アリシアは、幸せな家族を壊した。アリシアの目は、危険だ。絶対に目を合わせてはいけない。清美はこぶしを握り締め、アリシアに背を向けた。その背中に、アリシアは話しかける。昔のままの、優しい透き通る声で。
 耳をふさいだ。聞きたくない! 無意識に走り出していた。
 暗い病院の廊下を、清美の足音だけが響いた。

「やくざと新興宗教だろ。すごいよな、うちの病院」
「病院の玄関まで、黒塗りの車が列をなして止まってるの、見ました?」
「見た見た、事務方もピリピリして大変だよ。患者が減るんじゃないかって」
「それなら大丈夫。さっき看護師長が組長さんと教祖様に申し入れをしてね、玄関前には駐車させません。ちゃんと駐車場におかせますって約束させたって」
「だからかぁ、今日はいないなと思ったんだよ」
「さすがだね、看護師長。尊敬しちゃう」
 混雑している職員食堂で、すぐ近くの数人が盛り上がっていた。会話が耳に入ってしまった清美は、落ちていくテンションを何とか引き上げようと必死だった。聞くまいとしても、意識はなぜかその会話に向く。ほかに空いている席はないかと見まわしたが、ちょうど時間が悪かった。空席を探して立っている人も大勢いた。
「だけどさ、あの二人、犬猿の仲なんだろ?」
「なんか、昔は夫婦だったっていう噂もあるよ」
「えー? それがほんとなら、すっごい夫婦だね」
「子どもはいないのかな」
「いたら顔を見てみたいね。どんなふうに育っているのか、興味ある~」
 清美は立ち上がった。これ以上、気持ちを乱されたくない。食事は半分も済んでいない。それでも、いたたまれない気持ちが勝った。
「一人、いるみたいよ」
 踏み出した足が止まった。
「あ、あの女の人? 両方の病室に出入りしている……」
 ほっとした。アリシアのことだ。
「違うってば。二人のお世話係って聞いたよ。あれだよ。連絡係じゃない? 一触即発状態を回避するための。第一、全然似てないじゃん」
 だよねー、と笑いが起こる。笑いの圧力に背中を押されて、清美は出口に向かった。
 いよいよ明日に迫った臨床研究のFPI(First patient in、最初の患者登録)の準備で、須藤は忙しい。PET用の放射性医薬品の合成にかかりっきりの清美だが、この日の午後だけ、という約束で準備に駆り出された。準備は全く間に合ってないようで、治療室のあちらこちらに書類が山になっている。この状態で患者を通すわけにはいかないだろうと、須藤に断って、書類を控室に移動させ始めた。何度目かの往復後、臨床研究の被験者リストが目に入った。こんな重要なものを杜撰に取り扱うなんて、須藤にしては珍しい。何気なく、明日予定されている被験者は、と目で追った清美は、はっと息をのんだ。
 久城龍之介。
 誰よりもよく知っている名前が、そこにあった。
 ガドリニウム中性子捕捉療法を実施する前日には、PET検査がある。ということは、明日合成する放射性医薬品は、久城に投与されるはず。いったん合成室から出ていけば、あとは誰に使われたかはわからない。それが、今日に限って、父のために合成することがわかった。明日は、ここに父が来る。距離を置いて、ひたすら考えないようにしていた家族が、外堀を埋めるように清美に近づいてくる。
 ――逃げだしたい。なにもかも放り出して、どこかへ行ってしまいたい。
 だが、ここで投げ出すわけにはいかない。今まで積み重ねてきた信頼を、棒に振るわけにはいかない。感情を必死に抑え、須藤の準備を手伝った。ありがたいことに、すべき作業は山積みだった。
 夜遅くまで準備に時間がかかった。控室に戻った須藤と清美を、数人のスタッフが待ち受けていた。
「そうしたんですか? こんな遅くまで」
 いぶかしげに問いかける清美に、口ごもりながら一人が答えた。
「明日のFPIなんだけど、担当する予定の看護師が、絶対に嫌だと言ってきかなくて……」
「それは、例の組長だから?」
 須藤が眉をひそめて聞いた。誰も一言も発せず、時間が過ぎた。
「しょうがないな。じゃあ、僕が……」
 しびれを切らして、須藤が口を開いた。
「だめです。須藤さんに患者一人の対応をさせたら。この試験全体を見てもらわなくっちゃいけないのに」
「じゃあ、清美さん、患者さんについてくれる?」
 しまった、はめられた。清美は唇をかんだ。須藤をかばおうとして発した言葉を、利用された。上目遣いに目を上げれば、満足げに微笑む先輩スタッフと視線が合った。
 それじゃ、そういうことで、と残っていたスタッフは皆立ち上がり、部屋を後にした。
「大丈夫か?」
 須藤の気遣いに、黙ってうなずいた。
 翌朝、PET用の放射性医薬品を合成し終えたその足で、エントランスに向かう。待合室には病棟の看護師が、久城を連れてきていた。久城龍之介さんですね、と手順通りに、まるで他人のように名前を確認すれば、父は、はい、と静かに答えた。
 引き渡しを済ませて帰る看護師の後姿が、ほっとしているように見えた。久城の乗る車いすを押して、PET検査室に入る。看護師や技師がつつがなく決められた手順通りに検査を終えるまで、言葉を交わすこともなく、清美は久城に付き添った。
 久城は終始、穏やかだった。がんで全身がやつれ、それとともに気概も失ってしまったように見えた。病院全体が久城を厄介者として扱っている。力強くも優しい父だったことは、誰も知らない。本当の父を知っているのは、私だけ。目を向けまいとする意志とは裏腹に、気づけば久城を見つめる自分に気づく。
 病棟からの迎えを待つ清美に、一言だけ、久城は声をかけた。
「すまない」
 清美は何も答えなかった。答えたら、また苦しんでしまう。私にはもう家族は必要ない。
 看護師に車いすを押されて戻る父の後姿。清美は目が離せない。廊下の突き当りを曲がって見えなくなるまで、清美はその場に立ち尽くしていた。
 久城にトラブルなく対応したことで、清美は翌日の治療の立ち合いも求められた。その分早く出勤し、放射性医薬品の合成を済ませてから、久城を待った。前日と同じように連れられてきた父に、同じように名前の確認をする。はい、と答えた久城と、目が合った。父は、少しだけ、微笑んでいた。おもわず、がんばってくださいね、と声が出た。
 うなずいて治療室に入っていく久城を、じっと見守った。点滴から照射を含めると、半日がかりの治療である。立ち合いが認められている時間はずっと、清美はそばにいた。リラックスさせるように、何か話して、と外のスタッフから求められたが、何も語りかけなかった。久城も何も言わない。それだけでも父は落ち着いていられると、清美は確信していた。
 久城の治療が終わって間もなく、星乃がPET検査のため、清美の元を訪れた。面倒な患者二人は、研修中の清美の担当だと、暗黙の了解ができていた。指導教官の須藤は、清美の対応ぶりに感心している。イレギュラーな仕事だが、清美の経験のためにはよいだろう、と判断した。
 アルツハイマーが疑われる星乃は、清美に会うと喜んだ。病棟の看護師は、こんな機嫌のいい様子は見たことがない、と驚いて帰っていった。上機嫌で話をする母に何も答えず、清美は手を引きながら黙々と検査室まで歩いた。話す内容が、微妙に一貫していない。自分に向けられた言葉が、いつしかアリシアに向けられていた。
 私はアリシアじゃない。腹の底から、憤りが湧き上がってきた。母の手を、力いっぱい握った。
 ママ、私はアリシアじゃない!
 星乃は話をやめない。手を握りながら、何度も心の中で叫んだ。看護師が来なければ、大声で叫んでいたかもしれない。救われた気持ちで、看護師に連れられて行く星乃の背中を見た。私は、アリシアじゃない……
 その夜は一睡もできず、混乱したまま、清美は朝を迎えた。
 気分転換をしないと。思いついたのは、サイクロトロンだった。あの日、久しぶりに感じた胸の高まりを、もう一度思い出したい。あそこに行けば、きっと何かが変わる。清美には確信があった。
 誰も来ていない早朝のセンター内を、一人歩く。
 コンクリートむき出しの狭い廊下を抜けて、目の前に大きなサイクロトロンが現れた。臨床研究が始まって、やっと始動したばかりのサイクロトロン。何も語らないけど、そばに行けば、なんとなく落ち着く……。点検するように、サイクロトロンから陽子ビーム輸送装置に沿って歩いた。その向こうに治療室がある壁まで歩き、立ち止まった。この向こうで、パパは……
「キーちゃん」
 前触れもなくそう呼びかけられて、後ろを振り返った。アリシアがそこにいるのは、なぜかわからないが、当然のように感じた。驚いていない自分を冷静に観察している。
「こんなところで、何をしているの?」
 ありきたりの言葉を投げた。操られて発したような言葉だった。アリシアは何も言わない。アリシアの漆黒の瞳が、清美の目をとらえた。その瞬間、清美の心になだれ込んできたのは、あふれんばかりの望郷の思い。あらがおうにも、清美はアリシアの視線を振り切れない。
 こうやって、操られるんだ。パパもママも、そして、私も。
 サイクロトロンから取り出した中性子を使えば、宇宙船が動かせる。アリシアが心に語り掛ける。中性子が欲しいの? 清美が答える。うなずくアリシアを見て、清美は思った。その宇宙船で元の世界に帰れるなら、いくらでもあげる。さっさと帰って!
 気がつけば、後ろから須藤の声がした。
「どうしたの? ドアが開いていたから誰かいるのかと思えば」
「す、すみません。なんとなく、見たくなっちゃって。これ……」
 サイクロトロンを指さす清美にあきれたように、須藤が言った。
「この頃大変だったからなぁ。気晴らしもいいかもしれないけど、たまには休めよ。身体を壊したら、元も子もないから」
 気遣いをしているようでも、なにか、疑われているのだろうな、とぼんやり感じだ。アリシアの感情を浴びるように受け取ったせいか、須藤の心の中が手に取るようにわかる気がした。そういえば、アリシアは? あたりを見回したが、どこにも姿はなかった。
 控室に入って、スタッフに挨拶をしながら、清美は聞こえてくる心の声に動揺していた。久龍会の組長と丙午除霊会の教祖、二人にうまく対応したようだけど、この子もグルなんじゃない? 病室に出入りしているって聞いたけど、何か悪だくみでも?
 須藤も、清美に疑いの余地はおおありだ、と思っていた。――いつの間に、こんなことに?
 清美は肩を震わせた。大きく息を吸った。
「悪いことなんて、何もしてません!」
 驚く須藤やスタッフたちから逃れるように、合成室に走り込んだ。
 そうよ。サイクロトロンをちょっと借りることの、どこが悪いの? アリシアを向こうの世界に返すだけじゃない。そうしたら、また、私たち家族は……。そうよ。余計なものを追い払うだけ。
 そうして、清美は自分の気持ちにけりをつけた。一度だけ。一度だけサイクロトロンを動かして、アリシアを帰還させる。それだけ。それだけだから。

満月の夜。
 月が核医学研究センターの壁を明るく照らしている。灯がなくても、足元は確かだ。清美は入館用のカードをドアにかざした。誰もいないセンターの中を、サイクロトロンに向かって歩く。その靴音に、もう一つの足音が重なった。
 アリシアがついてきていることはわかっていた。何も言わなくても、通じていた。清美の後を追って、アリシアはサイクロトロンに近づく。入り口で立ち止まった清美に目をくれることなく中に入り、愛おしげにサイクロトロンに触れている。
 その後姿を見ながら、清美はゆっくりと近づいた。これで、終わり。アリシアは向こうの世界に帰れる。私は、幸せな家族を取り戻せる……
 振り向いたアリシアの眉が、かすかに寄った。肩越しに、清美の後ろに向けられる。清美も振り返った。
「どういうことか、説明してもらえるかな? こんな時間になぜここにいるのか」
 須藤が足音も立てずに入ってきた。やっぱり、と清美を見る須藤の目には失望が色濃く表れている。どういうことか、清美だってわからない。ただひたすら、アリシアをもとの世界に帰したいだけ。
「少し、サイクロトロンを貸してはもらえまいか」
 須藤の背後から、久城の声がした。
「パパ!」
 思わず叫んだ。振り向いた須藤の目は、驚きで見開かれていた。かまわず久城は続ける。
「アリシアは、……ああ、その向こうにいる女性だが、この世界の者じゃないんですよ。並行宇宙のタイプIV文明という、ものすごく進化した星の人間で、ワームホールを通ってこの宇宙の探査に来たところが、ダークエネルギーを利用する推進機関が故障して、うちの裏山に不時着していたんです」
 清美も初めて聞く説明に、驚きを隠せない。ワームホールを通って? ダークエネルギーを利用して? どんなにすごい文明なの? アリシアを見れば、感情のない目で久城を見ていた。
「私が助けましてね。清美と姉妹同然に、大切に育てた。だが、元の世界に帰りたいと」
 久城の声が詰まり、咳き込み始めた。何度かその先を続けようと口を開いたが、咳は治まらない。須藤もアリシアも微動だにしない中、清美がたまらず駆け寄ろうとしたその時。
 久城の背中を誰かの手が優しくなでた。
「ママ!」
 星乃が久城の隣に立っていた。清美を見ると穏やかに微笑み、片手をあげて制した。
「どんなにか大切に育てたところで、娘はいつかは親元から離れるもの。それなら、元の世界に帰してあげましょうと、私たちは決めたのです。主人と二人、時には意見もやり方も合わずに仲たがいもしましたが、思いは一つ。アリシアを帰したい、と。そう思って、今日まで来ました。もう一歩なんですよ。アリシアの宇宙船は。そのエンジンを始動させるための、中性子さえ手に入れば」
 母の言葉を聞きながら、清美は激しく自分を責めていた。表面上の争いしか見ず、父も母もアリシアさえも否定して、家族から離れて。子どもだった自分を恥じていた。
「ですから、どうか娘のために、サイクロトロンを稼働させてやってください。このとおり」
 久城は深々と頭を下げた。やつれた肩と首が、あらわになった。星乃も隣で頭を下げている。肩が震えている。
「須藤さん!」
 呼びかける清美を一瞥して、須藤は口を開いた。
「できません。……たとえあなた方の言うことが本当だとしても、サイクロトロンは動かせない」
 顔を上げた久城と星乃の顔が苦痛でゆがむ。もう一歩なのに。手を伸ばせば触れられるところにある、最後の一手。長年、追い求めてきた、アリシアを帰す最後のピースがそこにあるのに。
 呆然と立ちすくむ清美の耳に、大勢の足音が聞こえてきた。何? と須藤を見る。
「警備員を、呼んだんだ」
 え?
 施設のドアが大きな音を立てて開き、警備員が次々になだれ込んできた。入り口に近い久城と星乃が、慌てて振り返る。警備員の手が、久城と星乃を取り押さえようと伸ばされた。
 ――やめて!
 清美は耳を両手で押さえ、ぎゅっと目をつぶった。
 静寂が、あたりを包んだ。ゆっくりと顔を上げる清美は、信じられないものを見た。久城と星乃の向こう、警備員たちは手を前に伸ばし、身体を傾けたまま、止まっている。須藤も顔を入り口に向けたまま、動かない。
 アリシアがゆっくりと清美に向き直った。
「私たち以外の時間を止めたの」
 アリシアの漆黒の瞳が、清美を見つめる。そうすれば必ずなだれ込んできたアリシアの悲しみが、今は感じられない。しんとした平常心が、そこにあった。
「キーちゃん」
 小さな声でアリシアが呼ぶ。
「……アリーシャ」
 絞り出すように、清美はアリシアを呼んだ。
 一瞬にして、幼い二人が駆けまわった畑や林が目の前に現れた。小さな清美とアリシアが、夕暮れに手をつないで家路を急ぐ。家の前では、星乃が手を振って二人を迎えていた。久城が畑からたくさんの野菜を取ってきた。四人で大騒ぎしながら運んでいく。空には上ったばかりの月が、まだ明るい空に明るく輝いている。
 楽しかった子ども時代。幸せだった家族。失ったとばっかり思っていたあの時代が、走馬灯のように目の前を去来する。
 一人で遊んでいた毎日は、寂しかった。灰色の世界だった。そこに鮮やかな色を付けてくれたのは、アリシア。
 目の前のアリシアは、黙って立っていた。後ろの久城と星乃は、覚悟を決めた様子で二人をじっと見つめている。アリシアの瞳には、――清美に拒絶された悲しみが確かに混じっていた。
 清美は気づいてしまった。アリシアは自分たちを操っていたのではない。行き場のない感情がほとばしり、その強さゆえに、その瞳を見た人をも共感させてしまっていたのだ。そして、その気持ちに気づいたもの――久城や星乃――は、何とかして助けたいと思った。優しい人たちだったから。
 じゃあ、私は?
 アリシアと一緒に過ごした子ども時代は、清美にとってかけがえのない幸せなときだった。そしてアリシアも大切な家族だったのに、どうして気づいてあげられなかったの?
 父や母をアリシアにとられたような気がしていた。学校に行かなくても、たくさんのことを知っているアリシアがうらやましかった。
 ――私が見ていたのは、自分だけ。隣で苦しんでいるアリシアなんて、見ていなかった。
 血の気が引いた。取り返しのつかないことを私はしていた、と清美は愕然とした。そうやって幸せな時間を台無しにして、今度は、アリシアを失うの?
「……いやだ」
 アリシアの目が大きく見開かれた。
「帰ったらいやだ! ずっと一緒にいよう! また楽しく家族で暮らそう!」
 アリシアに飛びついて、強く抱いた。アリシアの細い身体が、飛びついた勢いで後ろにのけぞった。ぎゅっと、力を込めた。もう間違いたくない。アリシアを大切にしたい!
 その清美の腕を、優しく久城がつかんだ。
「アリシアが大切なら、アリシアを幸せにしたいなら、帰してあげよう。元の世界に」
 父が、穏やかに諭した。母が、その隣で泣きながらうなずいた。
「パパ! ママ! いや! また四人で幸せな家族に戻りたい!」
 長い間求めた幸せが、この先にあるはずなのに。やっとわかったのに。ここでアリシアが帰ってしまったら、アリシアまで失ってしまったら!
 ――私はもうだめだ!
 しゃくりあげる清美の背中を、アリシアの手が優しくポンポンとたたいた。子どものころ、何かあるとこうしてなぐさめてくれた、アリシアの優しい手。
 ……アリシアの幸せって、ここに残ること?
 嵐が去った後のように、静かになっていく自分の気持ちを見つめながら、清美は自問した。父と母は、自らの人生を全て捧げてアリシアを帰そうとしている。二人とも病気で、これから先は長くない。アリシアを帰すことだけが、生きがい。
 私は……?
 アリシアがいなくなって、両親もこの世を去ったら、私は?
 ――いったい私に、何が残るというの?
「忘れないよ。キーちゃん」
 アリシアが、静かにいった。
「キーちゃんと過ごした、楽しい毎日。絶対忘れない。私の宝物。……元の世界に帰っても、私は大切なキーちゃんをいつも思い出す。幸せな時間をありがとうって」
 宝物? 幸せな時間は、宝物? アリシアがいなくなっても、パパやママがいなくなっても、幸せな時間は、私が忘れない限り、宝物……
 清美はアリシアに回した腕をほどいた。少し離れて、アリシアの瞳をのぞき込む。アリシアの言葉に偽りはないと、まぎれもなくその瞳は語っていた。それなら、私もきっと大丈夫。
 サイクロトロンの操作盤に近づき、スイッチに手をかけた。別れはつらい。でも、私にできるのはこれだけ。操作盤が、涙でにじむ。
 アリシアが清美に近づいて、その手を取った。見つめる瞳には、別離に対するやりきれない思いがあふれていた。
「また、いつか会える?」
 涙をこらえて問う清美に、アリシアはうんとうなずいた。
「キーちゃんに、渡したいものがあるの」
 そういって、清美の手に小さいなにかを握らせた。手のひらを開いてみれば、そこには、透明なカタツムリの殻があった。
「これ、小さい時にもらった……」
「うん。キーちゃん、いつの間にかなくしてたでしょ。だから、次会ったときにはちゃんと渡そうと思ってて」
 清美は目の前に掲げてみた。電灯の光が透過して、カタツムリの殻はまばゆく輝く。
「……なんでカタツムリなのかな?」
 なんかおかしいでしょ。と清美は言った。
「宇宙船の推進装置、そんな形しているの」
「え? カタツムリ型? じゃあ、このサイクロトロンと一緒だね」
 二人は顔を見合わせて笑った。アリシアと一緒に声をあげて笑うなんて、久しぶり。
 ……そして、これで、最後。
「絶対、また会いに来るね」
「うん」
 清美の指が、操作盤のスイッチを押した。目もくらむほどのまばゆい光があたりを包んだ。清美は目をつぶった。

清美は久城の病室を訪ねていた。治療の効果が現れたのか、久城の顔色はいつもにも増していい。四人部屋の、明るい日差しが差し込む窓際のベッドで、テーブルの花瓶には、野の花が飾られていた。
「お母さんが持ってきてくれたの?」
「そうだ。裏山に咲いてたって言ってね」
「お母さんも年なんだから、一人で裏山に言ったりしたら、危ないじゃない」
「まだまだ大丈夫よ」
 母がカーテンの向こうからのぞいて、久しぶりね、と笑った。
「お父さんとお母さんが心配なら、たまには帰ってきたら?」
「あー、そう来たか。じゃあ、お父さんが退院したらね」
 窓の外は、春らしくなってきた。久しぶりに田舎に帰ろうかな、と、職場に戻る廊下を歩きながら清美は考えた。
 核医学研究センターのエントランスで、ふと立ち止まった。何かを忘れているような気がした。大切な何かを。胸にぽっかり穴が開いたような、何か……
 ふと見れば、サイクロトロンの区画につながるドアがあった。自然と足が向いた。何かあると、気分を奮い立たせるためにくる場所だ。今日もそういう気分なんだ。清美は苦笑した。
 覗いてみれば、いつものように大きなサイクロトロンがそこにある。
 ――これで素粒子とか研究しちゃうんだよね。もっと大きかったら。すっごく大きくてパワーが十分だったら、並行宇宙にも行けちゃうかな。
 並行宇宙?
 なにか、引っかかる。私、何か、忘れてる。大切なもの……。何か、忘れてる?
 陽子ビーム輸送装置に沿って、ゆっくり歩く。あの壁の向こうは治療室。
 ――何もない。
 振り返って戻ろうとした時、サイクロトロンの下に、光るものを見つけた。何か落ちてる。近寄ってみると、透明なカタツムリの殻が転がっていた。
 突き動かされるように、手に取った。これだ、と直感した。
 両手でそっとカタツムリの殻を包んだ。誰かの優しい気持ちに振れたように、心が、少し暖かくなった。胸の前でカタツムリの殻を握りしめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた清美は、やがて、何かを決意したかのように顔を上げ、足早にサイクロトロンを後にした。
 窓から差し込む春の光を全身に浴びて、清美は心に決めた。家に帰ろう。大切な家族と一緒に、幸せな時間を過ごすために。誰かがくれた、この宝物と一緒に――。

文字数:22268

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