薫れる記憶

印刷

梗 概

薫れる記憶

 身寄りがない薫に形見として遺されたのは、布の端切れだった。彼女は正倉院の塵芥を集める職員と親しくなり、形見が古帛紗というもので、茶道などの日本の伝統文化に関連する道具だと知る。薫は、正倉院の塵芥の中の木くずの匂いが古帛紗の匂いと共通していると感じた。その香りは、鎌倉時代に来日した天下無双の香木・蘭奢待の匂いだった。かつて蘭奢待は時の権力者たちの憧れの的であり、足利義政や織田信長、明治天皇が切り取っていた。
 
 自分のルーツが香にあると推測した薫は、組香(香を楽しみ、香りを当てる会)に参加する。香道の流派・志野流の亭主の香炉が形見の古帛紗の匂いだったことから、薫は志野流に弟子入りを希望する。志野流は、蘭奢待を切り取った将軍・足利義政の家臣を祖とする由緒正しい流派で、外からは弟子をとらない主義だったが、組香で嗅覚を発揮した薫に興味を抱いた総代・志野一馬は彼女を受け入れる。
 
 一馬の子・宗司は冷たい性格で、薫が気に入らず、無理難題を言いつけるが、雑草のように育った薫はめげず、暗かった家の雰囲気を明るくする。薫が古典文化を知り、香道の実力をつけていく中で、次第に宗司も彼女を認めるようになる。しかし薫は、香道を深く知るうちに、志野流の香炉の香りは、自分の古帛紗の匂いとわずかに違うことに気づく。
 
 薫は他の流派の組香に参加することになる。組香には織田信長の流れを汲むとされる流派・六台流も参加予定で、六台流の宗主の子・雅は志野流をライバル視していた。組香の数日前、薫は形見の古袱紗を雅に見られてしまう。古帛紗の紋は志野流の紋ではないため、薫は自分が志野流の血縁外の人間だと吹聴されることを恐れた。しかし古帛紗を見た雅はなぜか動揺し、口外することはなかった。
 
 組香実施当日、薫は六台流の家に向かう。一方、宗司は薫の古帛紗の紋を調べ、六台流の隠し紋と知る。そのまま薫が六台流の家で組香に参加すれば何かが起こると懸念した宗司は、父の一馬に薫を戻すよう相談するが、一馬は事実を打ち明ける。一馬の妹・華は六台流の総代の息子と駆け落ちし、総代の息子は実家に戻されたが、華は双子を生み落として亡くなったという。そのうち雅は六台流の跡取りとして引き取られ、薫は施設に預けられたとのことだった。
 
 薫が六台流の総代の娘であり、雅の妹だと知った宗司は組香の会場へ行く。薫と雅は、しぐさや作法の形から、自分が相手と共通点があることを感じる。薫は、雅の体臭と彼が使う香炉の香とがいりまじった匂いを嗅ぎ、織田の血族の幻を見ながら、雅が同じ胎内にいた肉親であることを確信する。意識を失いそうになった薫を現実に引き戻したのは、宗司の志野流の香りだった。
 
 組香は薫と雅が同点で終わる。宗司と雅は、いずれ自分が総代になったら薫を守り続けると共に、今は仲が悪い両家の共存の道を図ろうと誓う。
                                                      文字数:1200
 
参考文献:
荻須昭大『香の本』雄山閣、2015年
香道文化研究会『香と香道』雄山閣、2017年
熊倉功夫『山上宗二記―付・茶話指月集』岩波文庫、2006年
桑田忠親『茶道辞典』東京堂出版、1956年
 
取材方法:
東京国立博物館『正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―』鑑賞
茶道の先生(裏千家)にお話を伺う
香道の先生(確か志野流)にお話を伺う

文字数:1409

内容に関するアピール

和の稽古ごとの中でも、特に香道は教養を必要とし、源氏物語を典拠とする源氏香など、知性と優雅さが欠かせません。一方で、東京国立博物館の『正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―』に出展されていた香木の蘭奢待(正式名称:黄熟香)は、天下無双と形容されながら、時の支配者たちによるダイナミックな切れ目が生々しく、さまざまな想像をかきたてます。(香道においては、香は「聞く」と表現するそうです)。

組香は一度だけ参加しましたが、全く当てられず、無残な結果に終わりました。私は日本の古典に関して無知で、道具の扱いもうまくないので、香道の先生に呆れられてしまう可能性がありますが、取材ということでお話を伺おうと思います。

 なお、今回の梗概をつくったのは、この講座で知り合った友人より展覧会に誘っていただいたのがきっかけでした。ありがとうございました。

文字数:366

印刷

暗香疎影あんこうそえい

いち
 暦の上では春ではあるものの、空気はきりりと冷たい今日この日、私は母から譲り受けた着物を身に着け、茶室の隣の広間にて座っていた。
 曙色、今ならばサーモンピンクと呼ばれる色味に近い生地に極小の紋が無数に散るこの着物は鮫小紋と呼ばれ、彫刻刀で無数の小さな穴を穿った型紙でつくられたものだ。
 とりわけこの着物ほどに模様が微細であると極鮫文様と呼ばれ、三㎝四方に九百個以上のもの穴でもってつくられた型で作成されている。気の遠くなるような細かい手仕事。無数に広がる紋がまるで宇宙のようだと思いながら、和の工芸はこれほどまでに繊細なのかと深く感じ入る。
 曙の色した鮫小紋に合わせた帯は、ピンクに灰がかかった桜鼠さくらねずの生地一面に、雪月花の細かい刺繍が施されている。雪月花の文様は夏以外の季節であれば適用できるし、鮫小紋はかしこまった場でも使うことができる格式の高い着物ということで、香道を満喫する今日この日に纏ってきたのだった。帯はそれだけで見るとつけるのが気後れするほど華やかだったけれども、格を感じさせる鮫小紋と合わせるとしっくりきたのだ。
 昨夜は緊張でよく眠れず、明け方にうとうとしたくらいで朝になった。すこしぼんやりとした頭を抱えながら、鮫小紋と帯が入っていた桐箪笥を開けた。辺りの空気が、母が入れていたであろう匂い袋の甘みのある芳香、樟脳の爽やかな香り、恐らく桐に由来するであろうすっきりした豊かな匂いに満ち、意識がきりりと澄みわたる心地がした。着付けをして帯を占めると、懐かしい、今は亡き母の匂いが立ちのぼり、この着物を纏っていた在りし日の母の姿が思い浮かんだのだった。
 母は美しい人だった。透き通る肌に細い首、白い鳥のような姿で浴衣を着流し、汗一つかかずに家事をやりおおせる人だった。晩年に体を悪くして、臥せっていることが多くなっても、彼女はいつも身ぎれいにして、おしゃれにはおよそ興味のなかった私を呼び寄せて髪を結ったり、時には爪に色を塗ってくれたものだ。丸くて太かった私の指も、鮮やかな朱の色に染まると、すんなりときれいになったような気がして嬉しかった。指先をくすぐる筆先と、マニキュアのつんとした匂い、おしろいの匂いの混じる、なつかしい母の香気に包まれて、陶然となった覚えがある。
 やさしい記憶の中の匂いに浸っていると、別の匂いが流れてきた。私をはっとさせたその匂い、香ばしさのある匂いは、炭に由来するもののようだった。それは私たち今回の香会こうえの客、すなわち連衆れんじゅが待ちわびている広間の障子一枚隔てた茶室から漂ってくる。視線を流すと、隣に座っていた着物姿の男性が私の顔を見て、まだだ、というように首を振った。
 隣の男、つまり三條宗司は私と同年代の同僚で、仕事上の協力者だ。私は会社で香りの研究を行っており、この数年間、数千種類もの香りに触れ、香水やシャンプー、石鹸、入浴剤、清涼飲料水などにつける香りを生み出し続けてきた。単独では何も想起させない匂いでも、いくつか選択して混ぜ合わせると全く印象の異なる香りに昇華する。熟練の調香師の手わざは、まるで秘密のたっぷり詰まった錬金術師の手わざを見るかのようである。
 私の研究室の棚にずらりと並ぶ小瓶の中には、あらゆる匂いのもとが詰まっている。春爛漫の満開の桜、夏の草原に吹き渡る風、いつまでの鼻腔に残る甘さを漂わせる金木犀、生まれたばかりの赤ちゃんの肌、凪の海辺に漂う潮。それらを組み合わせて新しい香りを生み出し、人々の感性と悟性、感覚と記憶を揺さぶるのは、私にとって大きな喜びだった。
 しかし今、私は香りに悩んでいた。きっかけは、練り香水をつくりたいというクライアントの容貌だった。練り香水の依頼は初めてではない。今までも、新作の練り香水のために、空気のゆるみはじめた春を思わせる水仙のフレッシュさや、初夏の風に運ばれるくちなしのかぐわしさを提供してきた。ところが今回は、過去のものとは全く違う、新しい香りにしたいという注文だったのだ。
 どんなものにも言えることだが、今までにないものをつくりだすのは至難の業だ。思いつく限りの組み合わせを試みても、既につくったことのある香りのような気がしてくる。新しいコンセプトを考えようにも、今までと同じようなテイストになってしまう。何度サンプルをつくったが、クライアントの反応はいまいちだった。
「悪くはないんですけどね」
 数週間前の打ち合わせで提供したサンプルを嗅ぎながら、クライアントは言った。
「なんだか新鮮味に欠ける気がします」
 打ち合わせ後、私が頭を抱えていると、同じ場にいた宗司は、未知の領域を知ること、新しい体験をすることを提案した。今までに経験したことのないことをすれば、きっと何かを思いつくだろうと。私はその提案に乗ってみた。今回の香道における香会の体験もその一環だった。香道は、志野流と御家流おいえりゅうを二大派閥とする和の道だが、宗司は志野流の家元の息子に当たるという。私は宗司の家で香を体験し、和の香りに親しんだ。あと少しで手の届かないところにある香りを捕まえられる気がした。そんな時、香道のもう一つの派閥、御家流の香道を体験する機会があるという宗司の言葉より、今回の香会に臨んだのだった。
 会場は、都内にある図書館わきの庭園の茶室だった。この辺りは春には桜、夏には緑、秋には紅葉でとてもきれいに色づくが、今の季節はほとんどの色みがない。晴れ渡った青い空に、真っ白な雲が一つぽかりと浮かんでいる。


「ところで、次に行われるのは何?」
 私は宗司に尋ねた。香会では、聞香ぶんこう香合こうあわせ組香くみこうなどが行われる。香道の場合、匂いは「嗅ぐ」ではなく「聞く」と形容するが、聞香は香を聞いて鑑賞するもので、香りを自分の中に取りこんで気持ちを遊ばせるものだ。香合は、二種類の匂いの優劣判定を行って繰り返して楽しむ遊戯である。そして組香は、十五世紀辺りに流行したもので、一つのテーマを香で表現することを試みる遊びだ。組香は二種類の香の良否を比べる香合よりも一歩進んだもので、主題は文学的なものが多く、主題を理解しながら香の同異を当てるため、ゲームの感覚に近いといえる。
「何だと思う?」
 宗司の言葉に、私は答えた。
「今日は最初に聞香が行われていて、次に香合もやってるわね」
「いつもだと一席目から季節ものの組香なんだけど、今回は珍しいんだ」
「去年の香席も秋口に行われたんでしょう。趣向を変えたんじゃないかしら」
「そうかもな」
 語っているうちに、炭の匂いが強くなってきた。火がまわり始めたのだろう。炭というと火を連想するせいか、匂いに包まれるだけで身体が温まる気がする。
「次辺りは、組香が来るだろうと予想してるんだけど」
「ご名答。次は源氏香をやるって聞いてる」
 源氏香はもともと、江戸時代の初期、当代の文化的指導者だった後水尾天皇ごみずのおてんのうが、文学と香への愛から考案した組香の一種で、あらゆる香遊びの中でもとりわけ人気が高いものだ。
 源氏香はまず、香をたく亭主である香元こうもとが、五種類の香を選ぶ。次にそれぞれを五包ずつとして合計二十五個の包みを作り、そのうち五包を取り出す。五つを香炉でたき、客は香の異同を嗅ぎ分ける。全て嗅いだところで、五本の縦線に横線を組み合わせ、図で示す。同じ香であると感じた縦線を結ぶことで五十二種の図を示すことが可能になり、源氏物語の五十四帖のうち、桐壺と夢浮橋ゆめのうきはしを除く各帖の名が付けられている。
 香にはもともと図は存在しなかったが、書き留めるために源氏図が成立したのだという。香の組み合わせを源氏物語の名称を使用する源氏香は、文学的な素養と典雅な感性を必要とする。一方で線を組み合わせた源氏香の図はどこか数学的で、プロダクトデザインのように簡潔で無駄がない。源氏香の図は、着物や小物などの多くの図案に採用されてきており、実は気づかずに目にしていることもある。
 視覚で見たものは、写真や絵で残すことができる。聴覚で聞いた音は、録音して再現することが可能だ。一方、嗅覚で得た香りを覚えたり、再現することは難しい。しかし源氏香においては、源氏図で記述して香りを残すことができる。恐らく優れた感性と嗅覚を持つ古の香人も、聞いた香りを残したいと切望したにちがいない。その願いは江戸の時代に実現し、源氏図として実現したのだ。
 源氏香において、客は各回で香元が選択した五種の香をかぎ分け、源氏香を描き、五十四帖に基づいて「空蝉」「浮舟」「初音」などと推測する。場は典雅な雰囲気に包まれ、香り高い香木に陶然とするのだ。

さん
 源氏香を開催すると聞き、私の期待はいや増してきた。ほどなくして私の視線の先の障子が開き、準備が整った旨伝えてきた。用意された空間に足を踏み入れて席入りすると、香元が入口に現れる。正絹の鶯色うぐいすいろの柔らか物に縞袴、白地の帯には金糸で家紋らしき模様が刺されている。紋は植物の花か葉のように見えるが、恐らくシルクロードから中国に流入し、さらに日本に入ってきた馬具などを象っていると言われている紋、杏葉紋ぎょうようもんだろう。色白ですらりとした姿、黒々とした髪、細面の若々しい面差しでさすがに着物姿はこなれており、まるで生まれた時から着物を着ているように違和感がない。
 香元が入口で一礼の後、本座に着くと、記録を行う執筆者の女性が入口で一礼の後、進んで所定の座につく。畳の上に敷かれた長方形の紫紺の布は、打敷うちしきと呼ばれる敷物だ。香元は、金色に輝く一回り小さな敷紙、地敷ぢしきを打敷の上に広げる。
地敷は平安時代の女房装束の衣を重ねた色味である襲色目かさねのいろ で折られ、後水尾天皇が好んだとされる四季花鳥図が描かれており、座に控えめな華やかさを添えている。
 香元はあたかも儀式のように、ひとつひとつの動作を厳かにとりおこなう。本桑ほんぐわの澁茶の色した乱箱みだればこを棚から取り出して仮置きし、更に棚から記録紙と硯箱を執筆者に渡す。続いて乱箱から道具を取り出し、先ほど置いた金の打敷上の香元台に並べていく。連衆から見て正面には、手記録を入れる筆箱のような飴色の香盆と、湯飲み茶わんほどの大きさの聞香炉が並び、その奥には本香包がある。手前の黒い小箱、重香合じゅうこうごうの中には、香木や練り香に熱を伝えるための銀葉ぎんようが入っているはずだ。
 銀葉は二センチ四方の小さな真四角の薄片に、細い金属の縁をつけたもので、実験で使うプレパラートに似ている。プレパラートは内容物を挟み込むが、銀葉は上に乗せて熱を加えるのだ。透明な部分は雲母きらら、縁は金や銀でできている。銀葉を挟む道具、銀葉挟もプレパラートを扱うピンセットに似ているため、この銀葉と銀葉挟を目にすると、私は反射的に、無臭の匂いともいいうるような実験室のほんのわずかな臭気、存在しないはずの匂いを思い出す。
 香元台の中央に見える、花の形をかたどった小さな台がいくつか載った盤は試香盤こころみこうばんだろう。こちらは本香をたく前の試香で使用するもので、試香が終われば本香盤に入れ替えられる。中に入っている小さな花の台は菊座と呼ばれ、貝や象牙などの素材を桜や梅、菊の形にかたどってあり、上に熱した銀葉を置く。
 試葉盤の奥には銀葉挟、香木を掴む香筋きょうじ、香木をすくって銀葉の上に乗せる時に使う香匙こうさじ、香をたいた後の香包を止める針に似た鶯が並ぶ。地敷の隅にある筒型の香筋建きょうじたては銀製の火道具を入れるもので、灰をはく羽箒、火箸の役割を果たす火筋こじ、灰を押さえて形をつくる灰押はいおさえが刺さっている。
 ただ道具を置く、それだけの作業であるのに、香元の所作はまるでひとさし舞っているかのように優美だ。個々の所作は少しずつテンポが違っており、さしはさまれる異の美、変化の妙が漂う。配置された道具は、すべてあるべきものに収まっているようだ。道具は無造作に置かれているようだが、全体を見ると調和がとれていて、位置や余白などを計算しつくして配置されている。垂直と平行を採り入れつつも、どこかに遊びや崩しを入れて完全な左右対称性を避け、決して無粋になることはない。この繊細ながらも強靭な美的感覚は、香元をはじめ上客や連衆など、和の道を知るものであれば無意識に叩き込まれているのだろう。
 道具の配置が整うと、傍らの執筆者は火取香炉ひとりごうろに炭の粉末を固めた炭団たどんを入れ、四方盆(しほうぼん)にのせて火箸を添えて呈する。火取香炉は小さな容器に網が被せてあるような形で、香炭団を移すための道具だ。上部がざるのようになっていて空気を通すので、平安の昔には室内香をたく時にも使用したという。
 香元は手元の香炉のひとつを取りあげ、灰中に埋められた火をさきほどの火取香炉の炭団と入れ替える。香元は白い手で灰押を取り、灰をふんわりとかきあげて上客の方に差し出した。
「火加減はいかがでしょう」
 ひかえめだが凜として涼しげな声が、静けさに支配された空間に響き渡る。冷たい空気の中、木の燃える匂いが空気を温めている。上座についた上客じょうきゃくは、縮緬地ちりめんぢの着物に刺し子の帯をきりりと占めた貫禄のある女性で、香元の言葉を受けて次客と相談し、火加減の適否を定めているようだ。そして香元に香炉を渡しながら言った。
「御火加減、宜し」
 香元は戻ってきた香炉の灰の山に火筋で規則的な筋目をつける。筋目は箸目と呼ばれ、円の中心から円周までを垂直に五分割し、分割した単位を一合とする。香道の箸目には真・行・草の三種類があり、今香元が行っているのは真の箸目で、一合に九から十三の細かい筋を入れる。行、草と進むにつれて簡略化が可能となり、二の香炉以降は行の箸目に略すことができる。なお、五分割した外の領域で細い箸目を入れるのだが、ここは聞筋ききすじと呼ばれ、香炉を手にした人が香を聞く場所となる。
 香元は箸目を入れ終えると、香炉の口元周囲の背涯せがいを羽箒で清めた。そのタイミングで上客はおもむろに口を開いて言う。
「御灰箸目、拝見いたしたく」
 すると香元は軽く受け、上客の所望に応じて香炉を差し出した。香炉は上客の拝見の後、次々に回ってくる。香元はその間に二の香炉を取り、今後は五合の行の箸目を付け始める。
一の香炉は上客、次客を経て、私のもとに回ってきた。香炉は恐らく青磁なのだろう、初夏の緑、または五色沼のうちの一つのような爽やかな青緑色だ。この色は秘色ひそくと呼ばれる。唐の時代、時の皇帝は、青磁を政治を宮廷だけで使おうとし、民間で使うことを禁じた。そのため青磁の色は秘められた色、秘色と称されたのだ。
 香炉は、青や緑が入り混じる中に、すこし霞がかった灰色がかぶさる、この上なく繊細な秘色をしており、胴の部分に筋が入り、底には三本の足がついている。盛られた灰はきれいな山形になっており、規則的な縦線が放射状に延びている。灰につけられた筋目は繊細で、ほんの少し触れれば横の線がつぶれてしまいそうに見える。筋目をつけた香元の技術と、香炉を丁寧に扱う客たちの扱いにより、香炉の灰はきれいに保たれている。香人たちは灰を崩すなどという無粋なことはしない。私も灰を崩さぬように、この上なく繊細な生き物を触るかのように香炉に触れ、そっと宗司へ回した。
 香炉が香元に戻ると、上客は一同を代表して言った。
「御箸目、宜しき出来候」
 香元は挨拶が終わってから道具を所定の位置に戻し、重香合を手に取り、打敷の上に置かれた緋色の小さな布、香帛紗こうふくさで軽く拭いてから、中に入っている銀葉を取り出し、試香盤の菊座の上に置いた。そして名乗紙なのりがみが乗せてある香盆と棚のわきにある重硯箱を上客に渡した。上客は重硯箱から自分の分の紙を取り、次客以降に回していく。そして香元は一の香炉を自分の膝前に置き、銀葉を香炉の灰の山の上に乗せ、呟くように挨拶した。
「試香を、たきはじめます」
 香元は香箸を使い、香包から香を取り出してたき、自分で香がたっているかを確認してから上客に回す。私は自分のもとに回ってきた香炉を水平に持って左手に乗せ、正面がずれて景を損ねないようにし、右手は香炉を覆うように乗せた。香炉にかざす右手は、親指の位置に気をつかい、他の四本の指をなだらかにそろえられるようにした。
 銀葉の上の香木はほんとうに小さな切片だった。香道で香木と言えば沈香、つまり木の樹脂が熟成して重くなり、水に沈むようになった香木のことを指す。沈香の香りは味に例えられ、かんさんしんかんの五種とされる。更に樹脂の状態によって伽羅きゃら羅国らこく真南蛮まなばん真那賀まなか寸門陀羅すもんだら佐曽羅さそらの六種に分類される。この六種は産地を示すともされるが、実際は化学的な判断ではなく体感的に判定される。これを「六国五味りっこくごみ」と呼び、香木を選別する際の基準とされる。
 香木の発する香りは、一つの味わいだけとは限らず、いくつかの種類の味わいが得られることが多い。私は感覚を研ぎ澄ませ、香炉からたちのぼる香りをつかまえようとした。試香の香は、芯の強い甘さや刺激を感じる辛さよりも、ためらいやたゆたいを感じさせる奥ゆかしさがあり、かんの塩辛さや、の苦みの両方を持っていた。連衆の場合、二度や三度程度は香りを聞いてもいいが、もちろん永嗅は禁止されているし、五息程度が上限で、三息程度が望ましいとされる。香炉を独占し、長く聞いている行為は無粋な行為だ。私は試香の段階で今日の自分のコンディションはそれほど悪くなさそうだと安堵し、香炉を宗司に回した。
 試香が終わり、香元は試香盤と本香盤の位置を入れ替えた。本香盤は試香盤より大きい。そして一の香炉の灰の上に銀葉を置いて告げた。
「これから本香をたきはじめますから、どうぞご自座に」
 連衆はおのおの持っていた名乗紙に記名する。そして香元は本香の一つを取り出してたき、香炉を手に取って香がたっているかを確認してから上客に渡す。一の香炉が香元の手元に戻った時、香元は新しい銀葉を香炉に据えて新しい香をたいた。
 五種類の香りを聞き、紙に描いた五本の線のうち、同じ香りがあればその番号の線を繋げようとした。香りをかぎ分けるのはそもそも慣れていないと難しいものだが、香木は五つの味が入り混じった複雑な香りなので識別が難しく、また香りを覚えているのも至難のわざだ。それでも私は蜂蜜のような甘さ、梅干しに似た酸味、丁子やクローブのような辛さ、潮風が舌に残ったような塩辛い鹹、柑橘類を干した時に感じる苦みなどが入り混じった香りを分類し、同じ香りの見当をつけた。
 五度回ってくる本香のうち、最後の香炉を掌に乗せ、顔を近づけて香りを聞いた時だった。その香りは最初はかすかな苦みと甘さとともに、なにか大きな掌で包みこむような温かさ、生命を感じさせる壮大さを持っていた。ひとときの大きな香りの波が引くと、次の瞬間には力強い波濤が私の心に押し寄せてくる。緊張して固く守っていた意識がほどけてゆるみ、周囲の感覚が急に色鮮やかになり、五感のすべてが冴えわたる感じがした。同時に私の奥で鍵がかかったように閉じられていた記憶、忘れていた、なかったことにしていた過去が、急速に、唐突に、眼前によみがえった。木々や草の湿った気配、甘さは蝶や蜂を呼び寄せる花々の蜜など、それらを隠し持っていた香の源はちいさな渦であり、蒼い朝の靄や夕方の凪いだ空気、露をふくんだ夜の風とつながっている。私はゆっくりと目を閉じ、浮かんでくる情景に身を委ねた。

******

れい
 確かあの時、私はそれまで嗅いだことのない香りを知り、我に返ったのだ。
 古い本がたくさんある図書館の少し酸っぱいような、アーモンドとバニラと草を混ぜたような匂いは不思議に人を落ち着かせる力がある。子供のころ、学校にも家にも行きたくない時、私は図書館に逃げ込んで、落ち着きを与えてくれる本たちに囲まれ、時を忘れて読みふけっていたものだ。
 子供の世界は往々にして狭くて苦しく閉鎖的だ。ところが図書室へ行けば、現実にどんなことがあろうとも、いかなる雑念に囲まれようとも、ページをめくれば別の世界が開かれている。どんなに不快なことがあっても、古い本の心地よい匂いは縮こまっていた私の心を一足飛びに開放してくれたものだ。現実世界でさまざまな悲哀を味わい、本の世界に吸い込まれる少年や、古い屋敷の洋服ダンスの奥にある世界に飛び込む子どもたち、時をつかさどる賢者に会うためにどこにもない家にたどりつく少女など、印刷された紙の奥に存在する人物と世界に没入できたのは、あの本の匂いのおかげでもあったように思う。安堵の感覚、隠れ家にいられる絶対的な安心感は図書館の匂いと結びつき、次第に本の香りは私にとって鎮静剤のような役割を果たすとともに、私を夢幻に引き込み、別の世界に没入することを助けてくれたのだ。
 そして本の匂いに取り巻かれ、本の世界に入り込んでいた私を現実に引き戻したのは、まったく異質な香りだった。人を落ち着かせるという意味では共通しているが、本が放つことのない甘さがあり、無数にある異世界へと誘うのではなく、なにか別の雄大な道のりへと誘い込むような予感がある匂いだった。気づけば私は本の印字から視線を外していた。読みふけっていた本のページに細い光が差し込み、薄茶色の紙がほんのりと茜色に染まっている。頬に当たる橙色の夕方の光が温かく、周囲の輪郭がやけにはっきり見える。自分の皮膚や頬の産毛までもがわずかな熱を発しているかのような夕日だった。
 夕日をこんなにも意識したのは初めてかもしれない。そういえば感覚が鋭敏になったような気がする。初めての匂い、嗅いだことのない不思議な香りのせいだろうか。そう思うと俄然気になってきた。私は本をぱたりと閉じた。自分の影を追い求める主人公との旅はいったん中断し、海外文学の書棚に本を戻して席を立ち、受付に座っている司書に軽く会釈して外に出た。
 吐く息をすべて白く変える空気は冷たく藍色がかっており、周囲の建物の輪郭を濃くしている。図書館に隣接する木々は、細くとがった枝をさらしている。夏には匂い立つ草ぐさも、小さな棘を誇らしげにつきだす蔓薔薇も、今はかわいて立ち枯れている。私は香りを辿りながら、誘われるように庭園に足を踏み入れた。しいんと静まり返った小道には、つくばいから滴るちいさな水の音が響く。この水音も間もなく凍りつき、月の光を鋭く跳ね返す、澄み渡った玻璃にかわるのだろう。私は自分の音で自然の声を壊さないよう、そっと歩みを進めた。
 凪いだ空気に一瞬の風が吹く。その瞬間、私はその匂いをはっきりと嗅いだ。眩暈がするほど強く私の心を揺さぶり、気持ちをかき乱す。それは木陰の茶室から漂ってくるようだった。私は本能的に息を殺して歩みを進めた。見れば茶室の扉はかなり低い位置にあり、閉まっているようだが、これほど匂いが外に出ているということは、どこかしら隙間があるはずだ。そう思って扉に近づいてみると、細い隙間が空いていて、中を見ることができそうだった。私は扉の隙間から覗き込み、香りの源を確かめようとした。
 薄暗がりの中に、夕方の細い光が入っている。もうすぐ暮れる夕の日の、頼りない光のもとで私が確認できたのは、和服姿の一人の少年だった。碧色の着物に紺地に金糸で複雑な形の紋が織られた帯。紋は植物の花か葉のように見えるが、恐らく杏葉紋だろう。
 いや、あの時の私は杏葉紋など知らなかったはずだ……
 光が届く最後の時間帯、暗色の黄昏の中で、たちのぼる芳香にほの白い顔を傾けながら、少年は物思いに沈んでいるように見える。彼はふと手元に目をやった。小さな香炉に灰が山形に盛られている。彼は香炉に顔を近づけた。少年の長い睫毛は、真白な頬に影を落とす。なだらかな稜線を描く真白な灰から、細い煙がわずかに揺らめく。香炉を支える細い指は、まるでうつわを優しくなでているかのようだ。 
 闇が忍び寄る空間で、少年のゆったりと雅やかな所作は続く。ふと、少年は香炉を胸元に捧げ持った。夕の光の角度が変わり、うつわの色味がはっきり見えた。青と緑と灰がかかった色味の香炉は青磁なのだろう。そしてこの色に魅了された私は、少しばかり未来の時間で青磁を好むようになり、秘色という名を知るようになる。この色は遠い過去の唐代、時の皇帝が政治を宮廷で使うために民間で使うことを禁じたために、宮中で留め置かれた色なのだ……
 少年は香炉を置いて傍らにあった蓋を手に取り、そっとうつわの上に置いた。煤竹の色をした蓋の中央には青銅の小さな鳥が乗り、金色の足を片方上げてひょいと後ろを振り返っている。ふいに鳥の声を聞いた気がした。その声は庭園にいた小鳥の一羽だろう。青銅の鳥が鳴くわけがないのだが、その鳥の視線がこちらを見ているような気がして、私は思わず身動きした。
 ぱきり、という小さな音がわずかに響いた。
 細い小枝を踏んでしまったのだ。
 聞こえるか聞こえないかというその音に、少年が顔を上げた。
 どこまでも黒く深い瞳が、私の視線と交わった。
 
 あの瞬間、私は胸が高鳴った。自分の体温を感じた。
 生まれて初めて、生きているという感覚を味わった。
 
 私は後ずさりし、来た道を全力で戻ろうとした。
 来たときは夕の光に包まれていたのに、夕暮れの空からは空の青や黄昏の橙の色がかき消え、夜の気配が迫ってきている。庭園の木々は影を落とし、枝から伸びる影は暗闇から伸びる手のようだ。暗くて細い回廊のような道を必死で走った。振り返ると冷たい夜が迫ってくる気がして、ひたすら前だけを見つめていた。恐怖に圧倒されそうになる。足元に濃い影が忍び寄る。木々のまばらな影が大きくなり、私の方に覆いかぶさる。私は冷気に包まれて息が上がり、呼吸が難しくなって倒れそうになった。

 ふと、仄かな匂いが漂ってきた。鋭い闇の気配が漂う中で、柔らかく温かく、懐かしく立ち上ってくる。それは私を包み込み、光を与えてくれるような気がした。それが漂ってくる方に視線を走らせると、ほのかに明るいような気がした。そちらを向いて走りだそうとすると、ふいに、明るく温かい場所に引っ張りだされたような気がした。

******


 気づけば私は、本香の一の香炉を手に取っているところだった。隣では宗司が心配そうにこちらを見ている。香炉の受け渡しのためにひと膝寄せるふりをして、私の様子をうかがってくれたのだ。そしてこの匂い。あの過去の、闇につながる世界から引き上げてくれた、明るい現実と結びついた香りは、宗司のものだったのか。一瞬の幻のような回想を生み出した香炉に、不思議な不安と静かな名残惜しさを感じながら、私は秘められた色をした香炉を宗司に送った。
 最後の香合が香元に戻るとともに、香元が穏やかな声で告げた。
「本香、たき終わりました」
 そして香元は一の香炉を手にとり、そっと蓋をした。上部では青銅の小さな鳥が片足を挙げている。鳥がこちらを見たような気がして私は一瞬眩暈を覚えたが、宗司の方を見やると気持ちが落ち着き、地に足がつく感じがした。
 私の視線を感じたのか、香元が香炉を胸元に捧げ持って言った。
「お気づきの方もいらっしゃると思いますが、こちらの青磁香炉は千利休が所持し、その後、豊臣秀吉が所持するところとなった名品の写しです。石川五右衛門が秀吉の邸宅で盗もうとした時、この千鳥が鳴いて知らせたという言い伝えがあります」
「かわいらしい香炉ですね」
 心からの次客の賛辞に、香元は涼し気な微笑みを浮かべた。
「ええ。元の香炉は徳川美術館に収蔵されておりますが、千利休もたいそう愛した品だと聞いております」
 香元が言うと、上客が頷いて言った。
「千利休はその香炉で、織田信長から授かった蘭奢待らんじゃたいをたいたという噂がありますね」
「そうですね」
「その香炉のゆかりを考えれば、あながち嘘でもない気がします」
「ええ、信ぴょう性はあると思います」
 日本の古典文化にさほど詳しくない私でも、香りを仕事にするものとして蘭奢待は知っている。今は東大寺正倉院に収蔵されている香木で、もともと黄熟香という名前だった。八世紀くらいに日本へ渡来したとも、十世紀以降に来日したとも伝えられる。その香りは天下一品と謳われ、足利義政や織田信長、明治天皇などが切り取ったという。
 正倉院にあるものは天皇が所持するものだから、明治天皇が切り取るのはある程度頷けることで、天皇が切り取るのと他者が切り取るのではかなり意味合いが異なってくる。実際、蘭奢待は切り取ると不幸になるという噂があったのだが、それでも今までに五十回以上は切り取られていると言われている。時の支配者たちは蘭奢待に魅了され、平凡な幸福と引き換えに、天下の香木に傷を入れたのだ。織田信長が切ったのは史実とされているので、千利休に渡したのであれば、利休の一番のお気に入りの青磁香炉でたかれた可能性が高いだろう。
「実は今日の香会の中には、蘭奢待である可能性がある香木も混ざっておりました」
 香元は驚くべきことを、まるで朝の挨拶でも告げるかのようにさりげなく言った。
「蘭奢待が? 正倉院で厳重に守られているのでは……」
 宗司が言うと、香元は語った。
「もちろん、正倉院で管理されている本体は、専用の箱にいれられて厳重に管理されており、私ふぜいは指一本触れられません」
「それでは、どのように……」
 宗司の言葉に、香元は答えた。
「正倉院には『塵芥』という係がいて、倉の中に落ちている糸屑や木くずなどを集めています。それらはもともと保管されている宝物の一部なのですが、時々香木と思しき木の切片が見つかるのです」
「それが蘭奢待だったかもしれないと……」
「あくまでそうかもしれない、という程度の話ですけれどもね。私どもの家では、塵芥の分析には何度か協力させていただいているのですが、分析されつくした塵芥の香木の切片をいただく機会が何度かありました」
「今回の源氏香にも、入っていたのでしょうか?」
 正客が尋ねると、香元は微笑んで頷いた。
「ええ。珍しいものなので、こうした香会でたくことが多いですね」
「香元は、香会のためではなく、ご自分の純粋な楽しみのために、独りでたくこともあるのですか?」
 私の言葉に、香元は静かにうなずいた。
「香は心を遊ばせるもの。現実で消耗した感性を、幽玄に遊ばせたい時にたくこともあります」 
 ああ、間違いない。
 私の心を過去に遊ばせた五番目の香は、正倉院の塵芥だ。
 そして昔、庭園で少年だった香元が聞いていた香は、やはり正倉院の塵芥だったのだろう。同じ香木を、同じ香炉で、同じ人間がたく。香木は香炉の大きさとうつわのもつ温度、香元のからだのにおいなどの条件が一致することで同じ香りを発するのだ。
 香りは記録できない。それはきっと、香りは人の経験や体験、記憶や情念と一体化しているからだ。香りは単独で保管されるものではなく、他のもろもろの情景と混然一体となる。香りは恐らく記憶装置であり、香りにまつわるすべてを混然一体に閉じ込めるから再現できないのだ。
 源氏香の文様はすぐれて抽象化されている。その形は誰の体験にも当てはまり、なおかつ誰のものでもない。だから広く普及し、人を惹きつけるのだ。五十二種類の源氏香は、五十四帖の源氏物語の中で、初巻の『桐壺』と終巻の『夢浮橋』はない。だれも体感していない「最初」と、その後体感されることのない「最後」という状態は、香という概念に当てはまらないから外されたのだろう。
 目の前にある、かつての香炉と香木に思いを馳せながら私は、源氏香の結果を考えた。五種類の香りのどれが同じだったのか。桑の硯に満たされた新鮮な墨の香りを味わいながら私は考えを練った。最初と二番目、三番目と四番目が同じだと思ったので、縦に五本並んだ棒のうち、一番右と二番目、三番目と四番目と繋げた。

 最後の香り、私に記憶の波を呼び起した香りは恐らく一度だけのものだと判断してつくりあげた図形は、五十四帖の源氏物語の五番目、若紫を示す図だった。執筆が全員分の答えを書き、正解すると「玉」と書かれる。この回では宗司と私が「玉」だった。
「二人とも合ってて、なんだかほっとしたよ」
 宗司がそっと囁くと、私も頷いた。
「これで全然間違ってたら、ちょっとがっかりだよね」
 そのひそひそ話が聞こえたのだろう。香元がこちらを見て言った。
「お二人とも正解なさっていて、素晴らしいですね」
「いえ、単なる偶然だと思います」
 宗司が言うと、香元は首を振って言った。
「経験が少ないのに正解なさるとは、ますます素晴らしい。何か香りのお仕事をなさっているのでしょうか」
「ええ、新しい香りを生み出す仕事をしていて、今日は手がかりが欲しくて来ました」
 私が答えると、香元が言った。
「手がかりですか。何かヒントはありましたか?」
「はい。あった、と思います」
「それは良かった」
 香元は口元をほころばせる。
「ところで、今日の源氏香は、なぜ若紫になさったのですか?」
 次客が尋ねると、香元は目を細めた。
「源氏の寵愛を受け、吉をあらわすと言われる若紫は、花の名前でもあります。春の花ですので、冬が終わり春の気配がする今の季節に合うと思いました。あとは……」
 香元がふと私に視線を走らせたように思ったのは、気のせいだったろうか。
「上部につながりが二つある若紫は、源氏物語における葵の上と紫の上を示すと言われています」
 そう告げると、香元は涼やかに笑った。
 その声は、昔日に聞いた千鳥の声に似ていた、ような気がした。


 源氏香を聞いた後の帰り道、私たちは寒空の下を足早に歩いていた。日が長くなりはじめたとはいえ、温かい光のありがたみを満喫することは叶わず、あっという間に日が暮れてしまう。なだらかな坂道を下がりながら自分の影を追う。影たちはだんだん濃くなり、大きな黒い塊になる。
 二人の分かれ道にさしかかった。さよならを言おうとした時、わずかな芳香を感じた気がした。見上げれば見知らぬ人の庭先の梅が、一枝だけ塀から飛び出し、ひとつだけ花を結んでいる。暮れなずむ藍の空に、白い花の輪郭がくっきりと浮かぶ。
暗香疎影あんこうそえいだな」
 宗司の言葉に、私は聞き返した。
「え?」
「えっと、暗香は知ってるよな?」
「確か、どこからともなく漂ってくる花の香でしょう。あとはなんて言ったの?」
「ソエイ、疎影だよ。月光に照らしだされた木の影のことだけど、自分たちの影が、糸杉の木立ちみたいだなと思って」
 夕の光に照らしだされた二つの影が溶け合って、私たち二人の輪郭が曖昧になる。ほのかな芳香を発している梅の花を見上げていると、宗司が私をつついて言った。
「なあ、今日の香会、どうだった?」
「そうね、楽しかったし、とても勉強になったわ。誘ってくれて、本当にありがとう」
「じゃあ良かった。でも……」
「?」
「最後の源氏香の時、なんか様子がおかしかった気がするけど?」
 幽玄の空気と闇への道。一瞬、足元の影がゆらいだ気がして――
 私は宗司の着物の袖をそっとつかんだ。
「……ちょっとね」
「ちょっとって、なんだよ」
 怪訝な顔をする宗司に、私は告げた。
「何でもない。あと、収穫があったわ」
「収穫って?」
「新しい香りのコンセプトを思いついた、気がする」
「それは良かった。何にするんだ?」
 私の顔を覗き込む宗司を見返して、私は大きく息を吸い込んだ。
「今は、教えない」
 宗司は呆れたような表情を浮かべた後、笑いながら歩きはじめた。数歩歩いた後、私の方を振り返り、やさしく笑って手を振った。
「わかったよ。けど、よくわかんないやつだな」
 私も笑って手を振り返した。
「じゃあまた明日」

 宗司が去った後、私はその場にしばし佇んでいた。
 雪の気配を漂わせる冷気の中、銀に揺らめく月の光に照らされて、梅花のほのかな白色が、黒の夜空に浮かびあがっている。瞼の裏にまでちらつく月光の澄んだ色味を味わいながら、今日の源氏香を思い返した。
 杏葉の文様、秘められた色、そして、あの香り。
 光源氏と二人の女性、過去の人と未来の人。二つの選択肢。
 暗香の中で、私は宗司の残り香を聞いた。 
 今この瞬間を肯定してくれる、温かさと力強さ――
 私は決意した。この香りをかたちにしてから、宗司にも伝えよう。
 過去ではなく未来につながる、この胸の高鳴りを選択したのだと。

文字数:15013

課題提出者一覧